ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

あばれ馬にすくんでも

2017-08-26 16:53:02 | 素晴らしい人
 誰でもそうだろうが、
見る夢は、いつもプロローグがないまま、急に展開する。

 草原のような広い牧場に、
そこだけ木の柵が張り巡らされ、
一頭のあばれ馬が跳びはね、走り回っていた。

 そこの主人だろうか、カーボーイハットの男が、
毛布のような1枚の布を、私に手渡した。
 「この布を、あの馬の背にかぶせてこい。」

 私の胸は、急に激しく鼓動を打ち、
その布をギュッと抱きかかえる。
 「さっさと、やるんだ。」
主人は、使用人にでも言うような口ぶりで、怒鳴る。
 私の額には、汗がにじむ。

 少し離れた所では、馬に鞍をのせ、
乗馬を楽しむ人たちがいた。
 あんな穏やかな馬にする第一歩が、
馬の背に、この布をかけることだと言う。

 私が、ためらっていると、先輩が急にその布を奪い取り、
あばれ馬に近づいていった。
 そして、走り回り、跳びはねる馬に、
かけ寄り、背中に布をかけた。

 「ああやってやるんだ。つぎは必ずお前がやれ。」
また新しいあばれ馬が、柵に入ってきた。

 私は、足がすくんで、一歩たりとも動けない。
布を抱えたまま、呼吸が荒くなる。
 「どうした。早くかけに行け。」
主人の厳しい声がとぶ。
 肩で息をし、足はすくんだまま動けない私。

 真夜中、目ざめると、枕が汗で濡れていた。
胸の鼓動が早かった。大きく深呼吸をした。
 夢だったと気づいたが、私に失望した。

 しばらくして再び眠りについた。
ところが、その夜は、丸っきり同じシーンの夢をもう一度見た。

 主人に布を渡され、荒馬にたじろぎ、どきまぎする私だった。
また目ざめて、私に落胆した。

 その後、寝付けず、いつもより早くベットを出た。
二度も見た夢は、鮮明に残った。

 それから数日、思い出すたびに、不快だった。
夢は、本性をそのまま映し出すと言う。

 臆病者で小心者、意気地なしの根性なし。
もっと言えば、弱虫なのではなかろうか。
 年令を忘れ自問し、随分と落ちこんだ。

 でも、『あばれ馬を前に、すくむ私』を、
心熱くしてくれた方々がいた。


 ▼8月22日の北海道新聞に、こんな記事を見た。

 『歌手の松山千春さん(61)=十勝管内足寄町出身=が、
搭乗した全日空機の新千歳空港出発が遅れたため、
代表曲「大空と大地の中で」を歌い、
乗客を和ませたことが21日、分かった。
同社千歳空港支店は
「このような厚意は聞いたことがなく、
松山様には感謝申し上げます」
としている。

 同支店によると、松山さんは20日、
新千歳発伊丹行きの便に搭乗した。
同機は午前11時55分に出発予定だったが、
Uターンラッシュによる保安検査場の混雑などで
午後1時3分まで出発が遅れた。

 同機は乗客405人でほぼ満席。
松山さんは午後0時50分ごろ、客室乗務員に
「みんなイライラしています。
機内を和ませるために1曲歌いましょうか」
と申し出た。
客室乗務員から連絡を受けた機長が許可したため、
機内放送用のマイクで冒頭部分を歌った。

乗り合わせていた男性公務員(26)は
「歌い終わると拍手喝采で、多くの乗客が笑顔になった。
気遣いと美声に感動した」と話す。

 松山さんは20日に出演したラジオ番組で
機内での経緯を明かし
「出しゃばったことしているなと思うけど、
みんなの気持ちを考えたら、何とかしなきゃ、みたいな。
機長さんよく許してくれたな」
と語った。』

 このニュースは、翌23日の朝日新聞『天声人語』も、
取り上げた。

 『20日、出発が遅れた飛行機で、
乗り合わせていた歌手の松山千春さんが歌を披露したという。
「いらだつでしょうが、
みんな苦労していますから待ちましょう」
と語りかけながら、思いがけなく訪れた物語は、
待ちくたびれた人たちを和ませたことだろう。』

 私が、勝手にイメージしている松山千春さんらしい行動と、
言えなくもない。
 イライラが増す満席の搭乗者を前に、
カジュアルな服装で、
受話器型のマイクを片手に歌う彼の姿を思い浮かべた。

 突然、機内でそんなことができる歌手は、
そう多くはないだろう。
 いや彼以外にはできないのでは・・。

 彼には、スターとしての視線より、
長時間、離陸を待つ一人の乗客としての、
素直な感性があった。
 だから、踏み出せた行動だと思った。
誰だって、いつだって、
そんなあり方を大切にしたい。


 ▼テレビ番組のジャンルでは、料理バラエティになるらしいが、
私のお気に入りに、NHKの『サラメシ』がある。
 何と言っても、毎回の中井貴一さんのナレーションがいい。

 つい23日(木)に放映された『社長メシ』が、
よかった。

 『日本経済の屋台骨を背負う…
さまざまな業界の社長さん達に密着し』、
主に、その昼食の様子を見せてもらった。

 伊藤忠、NTTドコモ、鹿島建設、マネックスグループ、
大和ハウス工業の社長、そしてNHK会長が登場した。

 それぞれが日本のトップを行く方々である。
その仕事ぶりとランチの一部を映像で切り取ったのだが、
私は興味津々、ついつい前のめりになりながら、
それを見た。

 特に、2人の社長の姿勢に強く心打たれた。

 1人は、鹿島建設の押味社長である。
彼は、現場を大切にする方だと言う。
 だから、条件があえば、よく現場に足を運んだ。

 この日も、東京日本橋にある地下3階地上26階の
ビル建設現場に出向いた。
 そこで、全作業員を集めての激励訓話。
その後、作業員一人一人に気さくに話しかけていた。

 現場視察後、昼食になる。
さすが、現場第一を掲げる社長である。
 この日は、ビル現場に特設されているランチスポットでの昼食だった。

 彼は、600円を握りしめ、そのカウンターに立った。
そして、注文した。
 その言葉が、この社長の人柄を現わしていた。
ジーンとした。
 「すみません。カレー、お願いします。」

 そこで働く作業員と、変わらない口調。
企業のトップとしての飾りも気負いもない。
 それよりも、現場の人々と同じ視線、同じ振る舞いなのだ。

 カレーを完食した後の彼は、
当然のように、その皿を返却場所に重ねた。
 そして、先をうながす同行者を静止し、
厨房のガラス窓を開けた。

 そこで働く調理人に軽く頭をさげて、
「どうも、ご馳走さまでした。ありがとうございます。」

 社長のその気さくさと心配りに、
「すごい!」としか言葉がなかった。

 『実るほど頭をたれる稲穂かな』
その意を見た。

 もう1人は、押味社長と同じ建設業界・大和ハウス工業の
大野社長だ。
 彼は、拠点を東京に置き、仕事をしているが、
月に2,3回は、本社のある大阪に足を運ぶ。

 番組では、その本社社長室での昼食の様子を、紹介していた。
メニューは、社員食堂のカレーにヨーグルト等が加わっていた。

 驚いたことに、彼は、大きな会議が可能な広い社長室で、
いつも1人のランチだと言う。
 その日も、1人で食べながら、インタビューに応じた。

 そして、1人ランチの訳を語った。
「ちょっと誘いづらくなっちゃって・・。」
「誰かを昼食に誘うと不公平になる。」からと。

 続いて、遠慮がちに真理をついた。
「そんなところで、つまらない人事の話が出る可能性も・・。」
 「公平公正に、人は見ていく。」
「大きな会社だから、派閥とかあってはいけない。」
 若干生々しい話ではあるが、
彼の1人ランチから、経営者の強い覚悟を見た思いだった。

 静まりかえっっているが、おもむきのある広い社長室で、
穏やかな表情のまま、社長は結んだ。
 「経営者は、孤独に耐えられないとダメ。」

 ここにもまた1人、私たちと同じ地を、
踏みながら進むすごい方がいた。

 あばれ馬にすくんでもいい。
それより、これさ!




 近所の畑に『ささげ』の花が咲いている 
 
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何かを探して ≪後≫

2017-08-19 14:52:00 | 思い
 若い頃、心を動かされ、胸を熱くしたのだが、
その時の私に、変化などなかった。

 なのに、今もなお胸の内で、
じっとしたまま存在しているものがある。
 それが、今後も、私を動かすことは、きっとないだろう。

 それでもなお、何故か、私から消えない、
そんな不思議な何かを探して、記すことにした。
 その後編だ。


 ③
 『よだかは、じつにみにくい鳥です。
 顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、
くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。
 足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。』

 これが、宮沢賢治の『よだかの星』の書き出しである。
よだかという鳥の容姿を、冒頭でこう表現している。
 痛烈で、ひどい言い方である。

 「鳥の仲間のつらよごしだ・・。」
「あのくちの大きいこと・・。
きっと、かえるの親類か何かなんだ・・。」
 鳥たちも、口汚くやゆする。

 それは、『よだかには、
するどい爪もするどいくちばしも』なく、
だから、『どんな弱い鳥でも、
よだかをこわがるはずはなかった』も手伝っている。

 ところが、
『よだかのはねがむやみにつよくて、
風を切って翔けるときなどは、
まるでたかのように見えた』。
 その上、『なきごえがするどくて、
やはりどこかたかに似ていた』。
 よだかに、たかという名がついた訳がわかる。

 当のたかはといえば、これをいやがった。
よだがの顔をみるたびに、
『早く名まえをあらためろ』と迫った。

 そして、ついにある夕方、たかはよだかに通告した。

 「首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、
わたしは以来市蔵と申しますと、口上をいって、
みんなのところをおじぎしてまわるのだ。
 ………そうしろ。もしあさっての朝までに、
おまえがそうしなかったら、もうすぐ、つかみ殺すぞ。
つかみ殺してしまうから、そう思え。」

 『よだかは、じっと目をつぶって考えました。
 (いったいぼくは、
なぜこうみんなにいやがられるのだろう。
ぼくの顔は、味噌をつけたようで、
口は裂けてるからなあ。
 それだって、ぼくは今まで、
なんにも悪いことをしたことがない。
 ……こんどは市蔵だなんて、首にふだをかけるなんて、
つらいはなしだなあ。)』

 よだかの素直な思いに、胸が打たれる。
同時に、たかの改名要求と威嚇、
そして鳥たちの理不尽なあの言動に怒りを覚える。

 ところが、この物語は、
たかや鳥たちへの怒りの報復に進むのではなかった。

 たかが改名を迫ったその夕方、
もううすぐらくなっていた時だ。
 よだかは巣から跳びだし、音もなく空を飛び回った。

 にわかに口を大きくひらいて、はねをまっすぐに張って、
まるで矢のようにそらをよこぎった。
 その時、よだかに3つ、類似したことが起こった。

 1つ目は、『小さな羽虫がいくひきもいくひきも
その咽喉(のど)にはい』った。

 2つ目は、『1ぴきのかぶと虫が、夜だかの咽喉にはいって、
ひどくもがき…よだかはすぐにそれを飲みこ』んだ。

 そして3つ目は、『また1ぴきのかぶと虫が夜だかののどに…。
まるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたし…た。
よだかはそれをむりにのみこんでしま…った』。
 
 『その時、きゅうに胸がどきっとして、
夜だかは大声をあげて泣きだし……
泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐった』。

 その間、空は、こくこくと変化した。
『あたりは、もううすくらくなって』、
やがて、『もう雲はねずみ色になり、
むこうの山には山やけの火がまっか』。
 そして、『雲はもうまっくろく、
東のほうだけ山やけの火が赤くうつって…』。
 その『山やけの火は、だんだん水のように流れてひろがり、
雲も赤く燃えているよう。』になった。

 こんな空の美しい変化を背にしながら、よだかは思う。

 『ああ、かぶと虫や、たくさんの羽虫が、
まいばんぼくに殺される。
 そしてそのただ1つのぼくがこんどはたかに殺される。
それがこんなにつらいのだ。
ああ、つらい、つらい。』

 さて、宮沢賢治の『よだかの星』は、
ここから後半のよだかが星になる長い旅へと続く。

 なのに、私の中の『よだかの星』は、
この『ああ、つらい、つらい。』が、
ずっと心に響いたまま止まっている。

 よだかは、羽虫やかぶと虫を食して生きる。
羽虫やかぶと虫は、命を失うことに咽喉の奥で、
最後の抵抗を試みる。
 当たり前のことだ。

 だが、今、よだか自身が命を亡くそうとしている。
そのつらさが、羽虫やかぶと虫のそれと重なる。
 だから、よだかは、それを「ああ、つらい、つらい。」と言った。
どれだけのつらさが、その時のよだかをつつんだのだろう。

 初めて「ああ。つらい、つらい。」を聞いた時から、
私は、そのつらさを推し測ることができずにいる。

 たかや鳥たちの不条理への怒りより、
命を亡くすことの失望と恐怖、自然の摂理へ、
目を向ける宮沢賢治独自のストーリー性の巧みさ。

 それよりも、命ある者にとって、
死に直面することの重さを推測すること、
それは私のキャパを越えたものと言える。
 ただ、『ああ、つらい、つらい。』が、
今も胸にズンッと響く。


 ④
 新美南吉が、高等女学校で教諭をしていた26歳の時に、
47行にもおよぶ『寓話」という長い詩を書いた。

 1人の旅人が、さびしく旅をしている。
とある夕暮れ、竹むらのむこうに灯をみつけた。
 胸おどらせ、寂しさも忘れ、たどりついた。

 やさしい人々がいて、楽しい一時を過ごす。
『だが、旅人は、なににむかえられたとみんなは想う。』
と、南吉は私たちに問う。

 その答えは、何10年が過ぎでもなお、
瑞々しいまま記憶に中にある。

『旅人は思った。
 私のいるのはここじゃない。
 私のこころは、もうここにいない。』

 そして、旅人はそそくさと、その家をあとにし、
また旅を続ける。

 さらに、南吉はわたし達に問う。
『この旅人はだれだと思う。』
そして、こう結ぶ。
『君たちも大きくなると、
 ……
 旅人にならなきゃならない。』

 この詩には、様々な感想があるだろう。
「安住の地など決してないということ!?」
「真理の探究は、
ゴールなどなく永遠に続くということ!?」
「現状を否定してこそ、
次の力が湧くといういうこと!?」等々。

 しかし、『私のいるのはここじゃない。』
旅人が、ようやくたどりついた灯に迎えられたのが、
それだった。
 そのことが、訳もなく切なくて、私の胸をいっぱいにする。

 でも、再び次を求めて旅する彼に、
少しだけ共感を覚えたり・・・。


      寓  話

  うん、よし。話をしてやろう。
  昔、旅人が旅をしていた。
  なんというさびしいことだろう。
  かれはわけもなく旅をしていた。 
  あるいは北にゆき、あるいは西にゆき、
  大きい道や、小さい道をとおっていった。
  行っても行っても、
  かれはとどまらなかった。
  ふっても照っても、かれはひとりだった。
  とある夕暮れのさびしさに
  たえられなくなった。
  あたりは暗くなり、
  だれもかれによびかけなかった。
  そうだ、そのとき、
  行くてに一つの灯を見つけた。
  竹むらのむこうにちらほらしていた。
  旅人は、やれ、うれしや、
  あそこに行けば人がいる。
  なにかやさしいものが待っていそうだ。
  これでたすかると、
  その灯めあてにいそいでいった。
  胸がおどっていた。
  さびしさもわすれてしまった。
  だが、旅人は なににむかえられたとみんなは想う。
  なるほど、そこにはやさしいひとびとがいた。
  灯のもとで旅人は、
  たのしいひとときをすごした。
  だが、外の面をふく風の音を聞いたとき、
  旅人は想った。
  私のいるのはここじゃない。
  私のこころは、もうここにいない。
  さびしい野山を歩いている。
  旅人はそそくさとわらじをはいて、
  自分のこころを追いかけるように、その家をあとにした。
  旅人はまた旅をしていた、
  また別の灯の見えるまで。
  なんとさびしいことだろう。
  かれはとどまることもなく旅をしていた。
  この旅人はだれだと想う。
  かれは今でもそこらじゅうにいる。
  そこらじゅうに、いっぱいいる。
  きみたちも大きくなると、
  ひとりひとりが旅をしなきゃならない。
  旅人にならなきゃならない。




  エゾミソハギがきれいだ <だて歴史の杜公園>
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何かを探して ≪前≫

2017-08-12 15:05:34 | 思い
 この夏、我が家の庭に、
1本の薄紅色の草夾竹桃が花を咲かせた。
 この5年間で初めてのことだ。

 種を蒔いたおぼえも、苗を植えたおぼえもない。
なのに、1本だけ、50センチ程にすっくと伸びたその先に、
しゃれた赤が鮮やかである。

 それにしても不思議だ。
何故今年、この一輪が。
 きっと、ここに庭ができた時から、根はあったのだろう。
根付いていた苗が、ようやく芽吹き、
成長して開花を迎えたに違いない。

 さて、そのようなことは、
草花に限ったことではないような気がする。
 知らない所で、徐々に徐々に変化をとげ、
やがてその成長した姿を現す。
 時に、その姿に私たちは驚き、感動する。

 しかし、そんな変容には、
必ず秘められた何かがあってのこと。

飛躍するが、この年令になってなお、
そんな何かが私にもあってほしいと願う。

 心の奥深くで、今もじっとしている何かを探してみた。
何故か、ずうっと消えない何か。
 あいまいだが、ふと思い出す何か。
確かに息づいている何かを記してみる。


  ① 
 草野心平という『カエルの詩人』を知ったのは、
もうすぐ40歳になろうとしていた頃だった。

 ある研修会で、彼の前衛的な2つの詩が紹介され、
息を飲んだのが、最初だった。

 その1つは、題が『冬眠を終えて出てきた蛙』だった。
その詩は、なんと漢字四文字であった。
 『両眼微笑』。それだけ・・・。

 その時、口はしばらく半開きのまま、
その後、片肘をついて手に頭を置いた。
 ただただビックリ。
そして「まいった。」とつぶやいていた。

 もう1つには、さらに驚かされた。
題は『冬眠」。
 その本文に目を疑った。
それは、『 ・ 』。つまり黒丸が1つだ。

 確かに「冬眠」とは「・」と言えよう。
「そんな馬鹿な。」と怒ることなどできなかった。
 すごいインパクトに脱帽しかなかった。

 彼は、明治36年に生まれ、85歳の生涯で、
多くの詩を残している。
 そのほとんどを、私は今も知らない。
だが、時折、訳もなく思い出し、
感傷にひたる詩がある。


     秋の夜の会話

  さむいね
  ああ さむいね
  虫がないているね
  ああ 虫がないてるね
  もうすぐ土の中だね
  土の中はいやだね
  痩せたね
  君もずゐぶん痩せたね
  どこがこんなに切ないんだらうね
  腹だらうかね
  腹とったら死ぬだらうね
  死にたかあないね
  さむいね
  ああ虫がないてるね


 遠くから虫の音が届くだけの、
静寂の秋の長い夜だろう。

 男女の蛙の何気ない、気ままなやりとり。
その空気感が、たまらなくいい。
 ぼやきとも、あきらめとも違う、
現実をふわりと受け止めあう男女の会話がいい。

 『さむいね』『ああ虫がないてるね』
その余韻が、この詩を知った時から、
どれだけ長い年月を経たのか。
 今もなお、そのまま私の中にある。

 もしや、ずっと二人に憧れて・・・?
いや、そんなことじゃなくて・・・。


 ②
     死んだ女の子

  とびらをたたくのはあたし
  あなたの胸にひびくでしょう
  小さな声が聞こえるでしょう
  あたしの姿は見えないの

   10年前の夏の朝
   あたしはヒロシマで死んだ
   そのまま6つの女の子
   いつまでたっても6つなの

  あたしの髪に火がついて
  目と手がやけてしまったの
  あたしは冷い灰になり
  風で遠くへとびちった

   あたしは何にもいらないの
   誰にも抱いてもらえないの
   紙切れのように燃えた子は
   おいしいお菓子も食べられない

  とびらをたたくのはあたし
  みんなが笑って暮らせるよう
  おいしいお菓子を食べられるよう
  署名をどうぞして下さい


 いつ頃、この詩を知ったのか、その記憶ははっきりない。
きっと若い頃だろう。

 舞台に上がった女性が、女の子を演じ、朗読した。
私は客席でそれを聞き、目頭を熱くした。
 おぼろげだが、この詩との出会いは、
そのようだったと思う。

 原詩は、トルコの社会派詩人ナジム・ヒクメットで、
1957年に発表されたらしい。
 当時、日比谷高校の社会科教師だった
木下航二さんによって、曲が作られた。
 原水禁運動の集会や歌声喫茶などで、
盛んに歌われたようだ。

 しかし、今もその歌を私は知らない。
だから、私にとって『死んだ女の子』は、
歌ではなく、あの女性が朗読した詩なのである。

 ヒロシマで死んだ6つの女の子が扉を叩く。
その叩いた扉の音が、
「胸に響くでしょう?」と私に問う。

 「冷い灰になり 風で遠くへとびちった」、
「紙切れのように燃えた子」。
 その無念さ、悔しさがたたく扉の音である。
それはどんな人の胸にだって、響くだろう。
 そう、あれからずっと私の胸の奥底にもある。

 胸の響きのやり場に困ったこともあった。
共感することで、その響きを静めたこともあった。
 今をしっかり生きることで、響きと向き合うことになると、
納得したこともあった。

 『署名をどうぞして下さい』
女の子の願いはそこに集約されていた。
 「それはそれ!」だが・・・。

 でも、あれから72年、
ずっと扉の響きの中にいて、
今、それを聞き続けることだけ・・・。
 それが、きっと、何かの芽吹きになると信じている。

                      <つづく>



   いたる所 姫ヒマワリが満開
  
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学校の 事件簿 <2>

2017-08-05 09:26:44 | 教育
 20年も前、教頭時代に経験した出来事の続きである。

 ③
 教頭として最初に赴任した小学校は、
国際理解教育の推進校だった。
 当時はまだ、国際理解など目新しく、
学校教育の先進として、ちょっとした自負があった。

 そんな事情もあり、
行政が行う国際交流で、都や区を訪ねる外国の要人が、
学校訪問を希望した折などに、
よく私の学校においでになった。

 1,2か月に1回程度の割で、外国からのお客様があった。
その都度、歓迎会をし、
教頭が学校の概要説明と授業参観の案内役をした。
 貴重な経験をさせてもらったと、今も感謝している。

 さて、事件である。

 中国の某市から、区に訪問団が来た。
7,8人だったと記憶している。
 区長も同行して、本校を視察することになった。
昼食を交え、4時間ほどの滞在計画だった。

 10時の到着を待って、正門から学校の玄関までの校庭に、
高学年の子ども達が、中国と日本の小旗を持って列を作った。

 予定の時刻に、公用車など5台の黒塗りの高級車が、
並んで到着することになっていた。

 出迎えの準備が全て整い、校長と私は子ども達の列の先頭、
両国の国旗を掲げた校門前に立った。

 ここで、事件が発生した。
確か、朝早く主事さんは、この正門前を竹ぼうきで、
いつもより時間をかけて掃いていた。

 なのに、その門の真ん中に、
大きな犬のフンがドカッとあったのだ。

 知らせを聞いた主事さんが、血相を変えて、
ほうきとちり取りを持って走ってきた。

 ところが、通りを曲がって、
あの黒塗り高級車が見えた。
 その距離、100メートル程だろうか。

 このままだと、犬のフンを掃除している真っ最中に、
車は到着し、ドアが開くことになる。

 あせった。
とにかく正門に着くのを、少しでも遅らせることだ。

 私は、とっさに道路の中央を、
黒塗りに向かって、ゆっくりと走った。
 近くなると、両手を広げ車を止めた。

 そして、助手席のガラスをノックした。
ドアウインドが静かに降りた。

 「教頭でございます。
本日は、ご来校ありがとうございます。
 すぐそこが、本校正門でございます。
先頭車は、その真横に停止して下さい。
 校長が、お客様をお迎えする手はずになっております。
その後、玄関まで子ども達が列を作っております。
 そこをお進みくださいますよう、お願い致します。」
 
 私は、当然の行動とばかり、
平静を装い、ゆっくりとした語りに努めた。
 同乗していた通訳が、それを伝えてくれた。

 「では、どうぞお進み下さい。」
車から、一歩離れ、頭をさげた。
 犬のフンを掃除するには、十分な時間だった。

 5台の車が私の前を通りすぎた。
ホッと息をしたその先で、
校長が、笑顔でお客様と握手していた。

 ④
 20年程前、ようやく「いじめ」が、
学校で大きく問題視されはじめた。
 教育委員会も学校も、いじめ防止やいじめ対応に、
本腰を入れだした。

 その頃のことだ。
4年生の担任が暗い顔で、教頭の私へ報告にきた。

 「また、Mちゃんの靴がなくなったんです。もう5回目ですよ。」
「またか・・。それで、まだ見つからないの?」
 「今、授業を中断して、みんなで校内を探してます。」
「そうですか。早くみつかると、いいけど・・。
それにしても、誰が隠すんだろうね。」
 「全然分かりません。もう、・・。」

 まじめな担任は、度重なるごとに、
表情を曇らせるばかりだった。

 最初の靴隠しから、1ヶ月になる。
その間、Mちゃんの両親と担任の話し合いが、2回あった。
 その度に、担任は早期の解決を保護者に約束した。

 私は、学級の雰囲気が気になり、
何度も授業中の教室を訪ねた。

 こんな事件など想像できない程、
子ども達は明るく伸び伸びとしていた。
 授業には、いつも活気があった。

 その中で、口数の少ないMちゃんだったが、
だから学級に溶け込んでいないかと言えば、
他の子とのやりとりに違和感など、全く感じなかった。

 しかし、この事件には不可解な点が1つあった。
なくなった靴が、2,3日後には必ず見つかるのだ。

 それも、なくなった直後に探したときにはなかった場所から、
その靴は発見されるのだ。
 つまり、隠した当初は違う所にあった靴が、
いつの間にか発見場所に移されているのだった。

 だから、事件は益々深刻に受け止められた。
担任も子ども達も、職員も保護者も、
不安な心境に拍車がかかった。

 担任の度重なる指導に、
子どもの誰からも靴隠しの情報はなかった。
 私は、学級の子どもの様子に、
さらに注意の目を向けた。

 そして、6度目、7度目と、
4,5日おきに、Mちゃんの靴が玄関の靴箱から消えた。

 ついに、保護者からの要望もあり、
夜7時から臨時の学級保護者会を行った。

 担任が、これまでの経過を、詳しく説明した。
私は、こんなことを保護者に話した。

 「いじめには、必ずいじめている子がいます。
そして、そのいじめを知っている子、
何となく気づいている子がいるんです。
 靴隠しもきっと、同じだと思います。
隠した子だけではなく、それを知っている子、
なんとなく気づいている子がいていいのです。
 学校は、引き続き子どもたちの変化から、
その真相を探っていこうと思います。
 どうぞ、ご家庭でもご協力をお願いします。」

 その保護者会があってから1か月程、靴隠しはなかった。
だが、8度目が起きた。

 ところが、事件は、急展開を見せたのだ。
それは、主事さんのひと言からだった。

 昼休み、Mちゃんが4階のはずれにある、
社会科資料室から出てくるところを見たと、言うのだ。

 その資料室のそばには、あまり利用されないトイレがあった。
それでも、主事さんは週に1回、そこを掃除した。
 その時に、2、3度Mちゃんを見たのだ。

 8回目のその夕方、
担任と私は、その資料室をくまなく探した。
 古い戸棚と戸棚の隙間に、Mちゃんの靴があった。

 翌日の放課後、Mちゃんを残し、二人で問いただした。
社会科資料室に自分の靴を隠したこと、
そして数日後、みんなの目につく所に移したことを、
Mちゃんは話した。

 「先生やみんなが困るのが、面白かった。
それから、お父さんやお母さんが、
私の心配をしてくれるのか嬉しかった。」
 Mちゃんは、小さな声で、ポツリポツリと言った。

 「そうか。そうだったのか。」
私は、返す言葉につまりながら、
子供心の複雑さを強く感じた。

 それでも、
「もう、こんなことは止めよう。
決していいことじゃない。
みんなを困らせたり、心配させたりするのは、悪いことです。」
厳しい表情で、強く叱った。

 その後、靴隠しはなくなり、
子ども達から、その不安は次第に消えていった。
 そして、いつしかその全てが、忘れ去られた。




 もうはやナナカマドが色づいた トホホ
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