① 前日、「念のために」と、
受賞会場である東京国際フォーラムまで行ってみた。
お目当てのAホールは井上陽水だったか、
さだまさしだったか、それとも?・・・。
正面入り口まで行っても、
誰のコンサートで入ったか思い出せなかった。
でも、明朝、ホテルからここまでのルートは、
しっかり確認できた。
その後、フォーラムのホールに囲まれた広場まで戻ると、
キッチンカーを並ぶ人、ベンチでくつろぐ人、
東京駅方面や有楽町駅方面へと足早に向かう人などで、
まさに大都会の喧噪だった。
その中に、旅行社の添乗員が持つ県名入りの旗を、
先頭にする一団がいた。
全員がネクタイにスーツ姿で、年格好からして、
明日のために上京した校長先生らだと推測できた。
ふと反対方向に目を向けてみた。
すると、同じように県名入りの旗を先頭にした一団が、
こちらからも進んできた。
私もその1人だが、全国各地から人々がやってきていた。
それを目の当たりにし、
改めて全国規模のイベントだと思い知らされた。
心がざわざわざわざわと、さわがしかった。
② 下調べを終え、夕食までに時間があった。
行きたいところはいっぱいあった。
何故か、さだまさしの歌にある『檸檬』の舞台、
湯島聖堂に足がむいた。
何度か訪ねたことがあったが、
はじめて秋葉原駅からナビを頼りに歩いてみた。
特に目新しい発見もなく、
お茶の水駅から聖橋を通るコースにすればよかったと
思った矢先だ。
湯島聖堂前の道端に立て札を見つけた。
そこに『昌平坂』の文字があった。
「エッ、昌平坂学問所がここに!」。
まさかと思いながら、門を抜け、案内板の前へ急いだ。
そして、分かった。
ここは、『日本の学校教育発祥の地』だった。
新教育制度施行75周年を記念し感謝状を頂く前日だ。
何かに導かれるように、ここへ来た。
そんな偶然に驚きながら、
大樹に囲まれた静寂の石段を上がった。
大成殿(孔子廊)前に賽銭箱があった。
ワンコインを投げ入れると澄んだ音が返ってきた。
凜とした風が心を清めてくれた。
③ 記念式典が始まる25分前に受付は閉まった。
広いホールは満席だった。
私たち受賞者の席は中央にあった。
誰一人声を発することなく、無言で開式までの時間を過ごした。
開式の辞、国歌斉唱、式辞と続き、
3人から祝辞があった。
そして、文部科学大臣から471名の代表者に感謝状が、
全国連合小学校長会長から903名の代表者に感謝状が贈られた。
続いて、感謝状受領者の代表から謝辞になった。
受領者全員が起立した。
代表者は静かな足どりで、演壇に立つ文科大臣の前に歩み寄った。
彼は、若干トーンを抑えた語り口調で、
型どおりだが十分に吟味した言葉で謝辞を述べていった。
厳粛な式典に相応しい雰囲気に包まれていた。
そして謝辞の終盤だった。
彼は、このような栄誉をうける今朝と会場までの道々で、
こみ上げた歓びを淡々と述べ、こんな言葉で結んだ。
「人生の秋を迎えた私どもに、
このような感謝状という秋の実りを頂きました。
ありがとうございました」。
謝辞が終わった。
私は彼に共感しながら、指示に従い着席した。
大ホールの天井を見上げた。
夕陽を受けた秋の景色が脳裏に浮かんでいた。
教職を目指した時が春なら、
そこから秋まで沢山の幸運に恵まれたことを思った。
そっと背中を押してくれた方が次々と浮かんだ。
こみ上げるものが、じわりしわりと心をいっぱいにした。
④ その夜、新宿の高層ビル最上階の個室に、
家族4人がそろった。
東京の夜景を眼下にしながら、
日本料理のコースを前に、会話は弾んだ。
2人の息子の関心事は、
当然だが「どうして父が受賞したのか」だった。
私は飾ることなく応じた。
「俺にも分からない。
このような表彰があることも知らないし、
ください!頂戴!などと言ったこともない。
ただ、1人の教員として校長として、誠実に仕事をしてきただけ・・。
他の先生たちより著しく学校教育に貢献したとも思っていない。
でも、授与する側が私に贈ろうと決めてくれたんだ」。
「そうだね。
お父さんが決めたんじゃない。
贈る側が塚原校長にって決めたんだよね。
文部科学省も捨てたもんじゃないないなあ!」。
「そうか!
文科省もまだまだ頑張ってる!」。
この2人は私をどう思っているのだろう。
本心を尋ねても、本音を言うことはないと思う。
でも、
「記念に何かプレゼントするよ。
この後、伊勢丹に行こう」と言う。
2人から、なにも聞き出していないのに、
心はやけに晴れやかだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/c6/bbf69ed4c99179a8e0808b78c0edba93.jpg)
マイガーデンの秋色
受賞会場である東京国際フォーラムまで行ってみた。
お目当てのAホールは井上陽水だったか、
さだまさしだったか、それとも?・・・。
正面入り口まで行っても、
誰のコンサートで入ったか思い出せなかった。
でも、明朝、ホテルからここまでのルートは、
しっかり確認できた。
その後、フォーラムのホールに囲まれた広場まで戻ると、
キッチンカーを並ぶ人、ベンチでくつろぐ人、
東京駅方面や有楽町駅方面へと足早に向かう人などで、
まさに大都会の喧噪だった。
その中に、旅行社の添乗員が持つ県名入りの旗を、
先頭にする一団がいた。
全員がネクタイにスーツ姿で、年格好からして、
明日のために上京した校長先生らだと推測できた。
ふと反対方向に目を向けてみた。
すると、同じように県名入りの旗を先頭にした一団が、
こちらからも進んできた。
私もその1人だが、全国各地から人々がやってきていた。
それを目の当たりにし、
改めて全国規模のイベントだと思い知らされた。
心がざわざわざわざわと、さわがしかった。
② 下調べを終え、夕食までに時間があった。
行きたいところはいっぱいあった。
何故か、さだまさしの歌にある『檸檬』の舞台、
湯島聖堂に足がむいた。
何度か訪ねたことがあったが、
はじめて秋葉原駅からナビを頼りに歩いてみた。
特に目新しい発見もなく、
お茶の水駅から聖橋を通るコースにすればよかったと
思った矢先だ。
湯島聖堂前の道端に立て札を見つけた。
そこに『昌平坂』の文字があった。
「エッ、昌平坂学問所がここに!」。
まさかと思いながら、門を抜け、案内板の前へ急いだ。
そして、分かった。
ここは、『日本の学校教育発祥の地』だった。
新教育制度施行75周年を記念し感謝状を頂く前日だ。
何かに導かれるように、ここへ来た。
そんな偶然に驚きながら、
大樹に囲まれた静寂の石段を上がった。
大成殿(孔子廊)前に賽銭箱があった。
ワンコインを投げ入れると澄んだ音が返ってきた。
凜とした風が心を清めてくれた。
③ 記念式典が始まる25分前に受付は閉まった。
広いホールは満席だった。
私たち受賞者の席は中央にあった。
誰一人声を発することなく、無言で開式までの時間を過ごした。
開式の辞、国歌斉唱、式辞と続き、
3人から祝辞があった。
そして、文部科学大臣から471名の代表者に感謝状が、
全国連合小学校長会長から903名の代表者に感謝状が贈られた。
続いて、感謝状受領者の代表から謝辞になった。
受領者全員が起立した。
代表者は静かな足どりで、演壇に立つ文科大臣の前に歩み寄った。
彼は、若干トーンを抑えた語り口調で、
型どおりだが十分に吟味した言葉で謝辞を述べていった。
厳粛な式典に相応しい雰囲気に包まれていた。
そして謝辞の終盤だった。
彼は、このような栄誉をうける今朝と会場までの道々で、
こみ上げた歓びを淡々と述べ、こんな言葉で結んだ。
「人生の秋を迎えた私どもに、
このような感謝状という秋の実りを頂きました。
ありがとうございました」。
謝辞が終わった。
私は彼に共感しながら、指示に従い着席した。
大ホールの天井を見上げた。
夕陽を受けた秋の景色が脳裏に浮かんでいた。
教職を目指した時が春なら、
そこから秋まで沢山の幸運に恵まれたことを思った。
そっと背中を押してくれた方が次々と浮かんだ。
こみ上げるものが、じわりしわりと心をいっぱいにした。
④ その夜、新宿の高層ビル最上階の個室に、
家族4人がそろった。
東京の夜景を眼下にしながら、
日本料理のコースを前に、会話は弾んだ。
2人の息子の関心事は、
当然だが「どうして父が受賞したのか」だった。
私は飾ることなく応じた。
「俺にも分からない。
このような表彰があることも知らないし、
ください!頂戴!などと言ったこともない。
ただ、1人の教員として校長として、誠実に仕事をしてきただけ・・。
他の先生たちより著しく学校教育に貢献したとも思っていない。
でも、授与する側が私に贈ろうと決めてくれたんだ」。
「そうだね。
お父さんが決めたんじゃない。
贈る側が塚原校長にって決めたんだよね。
文部科学省も捨てたもんじゃないないなあ!」。
「そうか!
文科省もまだまだ頑張ってる!」。
この2人は私をどう思っているのだろう。
本心を尋ねても、本音を言うことはないと思う。
でも、
「記念に何かプレゼントするよ。
この後、伊勢丹に行こう」と言う。
2人から、なにも聞き出していないのに、
心はやけに晴れやかだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/c6/bbf69ed4c99179a8e0808b78c0edba93.jpg)
マイガーデンの秋色