ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

「秋の実り」 心模様

2023-10-28 18:43:28 | 思い
 ① 前日、「念のために」と、
受賞会場である東京国際フォーラムまで行ってみた。
 お目当てのAホールは井上陽水だったか、
さだまさしだったか、それとも?・・・。
 正面入り口まで行っても、
誰のコンサートで入ったか思い出せなかった。
 でも、明朝、ホテルからここまでのルートは、
しっかり確認できた。

 その後、フォーラムのホールに囲まれた広場まで戻ると、
キッチンカーを並ぶ人、ベンチでくつろぐ人、
東京駅方面や有楽町駅方面へと足早に向かう人などで、
まさに大都会の喧噪だった。

 その中に、旅行社の添乗員が持つ県名入りの旗を、
先頭にする一団がいた。
 全員がネクタイにスーツ姿で、年格好からして、
明日のために上京した校長先生らだと推測できた。

 ふと反対方向に目を向けてみた。
すると、同じように県名入りの旗を先頭にした一団が、
こちらからも進んできた。

 私もその1人だが、全国各地から人々がやってきていた。
それを目の当たりにし、
改めて全国規模のイベントだと思い知らされた。
 心がざわざわざわざわと、さわがしかった。

 ② 下調べを終え、夕食までに時間があった。
行きたいところはいっぱいあった。
 何故か、さだまさしの歌にある『檸檬』の舞台、
湯島聖堂に足がむいた。

 何度か訪ねたことがあったが、
はじめて秋葉原駅からナビを頼りに歩いてみた。
 特に目新しい発見もなく、
お茶の水駅から聖橋を通るコースにすればよかったと
思った矢先だ。
 湯島聖堂前の道端に立て札を見つけた。
そこに『昌平坂』の文字があった。
 
 「エッ、昌平坂学問所がここに!」。
まさかと思いながら、門を抜け、案内板の前へ急いだ。

 そして、分かった。
ここは、『日本の学校教育発祥の地』だった。
 新教育制度施行75周年を記念し感謝状を頂く前日だ。
何かに導かれるように、ここへ来た。

 そんな偶然に驚きながら、
大樹に囲まれた静寂の石段を上がった。
 大成殿(孔子廊)前に賽銭箱があった。
ワンコインを投げ入れると澄んだ音が返ってきた。
 凜とした風が心を清めてくれた。

 ③ 記念式典が始まる25分前に受付は閉まった。
広いホールは満席だった。
 私たち受賞者の席は中央にあった。
誰一人声を発することなく、無言で開式までの時間を過ごした。

 開式の辞、国歌斉唱、式辞と続き、
3人から祝辞があった。
 そして、文部科学大臣から471名の代表者に感謝状が、
全国連合小学校長会長から903名の代表者に感謝状が贈られた。

 続いて、感謝状受領者の代表から謝辞になった。
受領者全員が起立した。
 代表者は静かな足どりで、演壇に立つ文科大臣の前に歩み寄った。
彼は、若干トーンを抑えた語り口調で、
型どおりだが十分に吟味した言葉で謝辞を述べていった。
 厳粛な式典に相応しい雰囲気に包まれていた。
 
 そして謝辞の終盤だった。
彼は、このような栄誉をうける今朝と会場までの道々で、
こみ上げた歓びを淡々と述べ、こんな言葉で結んだ。
 「人生の秋を迎えた私どもに、
このような感謝状という秋の実りを頂きました。
 ありがとうございました」。

 謝辞が終わった。
私は彼に共感しながら、指示に従い着席した。
 大ホールの天井を見上げた。
夕陽を受けた秋の景色が脳裏に浮かんでいた。

 教職を目指した時が春なら、
そこから秋まで沢山の幸運に恵まれたことを思った。
 そっと背中を押してくれた方が次々と浮かんだ。
こみ上げるものが、じわりしわりと心をいっぱいにした。

 ④ その夜、新宿の高層ビル最上階の個室に、
家族4人がそろった。
 東京の夜景を眼下にしながら、
日本料理のコースを前に、会話は弾んだ。

 2人の息子の関心事は、
当然だが「どうして父が受賞したのか」だった。
 私は飾ることなく応じた。

 「俺にも分からない。
このような表彰があることも知らないし、
ください!頂戴!などと言ったこともない。
 ただ、1人の教員として校長として、誠実に仕事をしてきただけ・・。
他の先生たちより著しく学校教育に貢献したとも思っていない。
 でも、授与する側が私に贈ろうと決めてくれたんだ」。

 「そうだね。
お父さんが決めたんじゃない。
 贈る側が塚原校長にって決めたんだよね。
文部科学省も捨てたもんじゃないないなあ!」。

 「そうか!
文科省もまだまだ頑張ってる!」。

 この2人は私をどう思っているのだろう。
本心を尋ねても、本音を言うことはないと思う。
 でも、 
「記念に何かプレゼントするよ。
この後、伊勢丹に行こう」と言う。

 2人から、なにも聞き出していないのに、
心はやけに晴れやかだった。




    マイガーデンの秋色 
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「穴があったら・・」へ

2023-10-14 11:16:46 | 思い
 本ブログのプロフィールにも記したが、
詩集『海と風と凧と』と教育エッセイ『優しくなければ』の
2冊を出版した。
 
 2冊とも書きためていたものをまとめたのだが、
『あとがき』だけは、その時に執筆した。
 数日前から何度かそれを読み返している。
10数年前の文面だが、現職だった私と当時の想いが蘇った。

 まずは、その2つを転記する。

  *     *     *     *     * 

 ≪詩集『海と風と凧と」≫
       あ と が き

 毎年、年賀状に詩を添えて、
お世話になった方々にお届けしてきました。
 それが34作にもなり、
こうして年賀状のためだけに書いた詩集ができました。

 ふり返れば30数年前、私は根雪の残る北海道より上京し、
小学校の教員になりました。
 その時初めて立った校庭には、
北国の冷たい鉛色の曇り空とは違った
明るい春の光がこぼれていました。
 それは、これから始まる私の人生が
太陽の陽差しに恵まれたものになるような、
そんなことさえ予感させるものでした。

 しかし、私のそれからの歩みは当然のことではありますが、
教師としての仕事、子育て、家族、めまぐるしい社会変化等々、
全てが時代という大きな流れの中にありました。
 その中で、あまりの幸せに歓喜した時も、
また不運に大きくうなだれた時も、
小さな楽しさに胸躍った時もありました。
 まぎれもない未熟さが、ある時は人を傷つけたり、
またある時は勝手に自分の心を痛めたりもしました。
 そんな1年また1年の営みが、
泣いたり笑ったりの今日の日へとつながっています。

 確かにそんな風に歩は進み、
その年その年、私には違う景色が見えました。
 だから、その分だけ私が伸びたか、
何かを残したかと問われれば、
ただただ定まりのない歩みだったのでないだろうかと
自問してしまいます。

 そう思うとやけに空虚なので、
これを契機に、今度は人が、
そして自分が許すような生き方をしていこうと、
心新にしているところです。

 人生半ば『海と風と凧と』に添えた想いを
もう一度かみしめ、
今日まで私を支えてくれた方々と、
この詩集にお力添えをいただいた文芸社の皆様に
心よりお礼を申し上げ、
ひとまず筆を置くことに致します。

              平成18年 夏

  *     *     *     *     *

 ≪教育エッセイ『優しくなければ』≫
       あ と が き

 教職の歩を止める時がきました。

 この機に何かを残したい。
そんな衝動にかられ、小冊子をまとめることに致しました。
 振り返れば40年にわたる教職生活でした。
その内18年間は管理職としてでしたが、
ありがたいことに、
再任用校長として2年間の延長までさせてもらいました。

 その中で、どうしても学校だよりや各種紙面等々に
何かを記さねばならない機会があり、
多少なりとも私らしくと、
どこかに力を入れ、保護者や地域の方、児童に
思いを届けてきました。

 その全てのメッセージをここに載せるのは
気恥ずかしくてできないので、
勝手に「許せるかな」と思えるものだけを整理してみました。

 思えば幸運に恵まれた教職の道でした。
ありふれた言い方ですが、
よき先輩、同僚、知人、友人に出逢い、
たくさんの教えを受け、
それでも私自身のオリジナリティーを探しながらの日々でした。
 教え子から学んだことも少なくなく、
また私の価値観を支えたのが、
私自身の育ちを基盤にしていることにも気づかされました。

 明るい日差しの日、しっとりと濡れる雨の日
向かいくる風に顔をそむけた日、
温まる心に笑みがこぼれた日、
歩んだ道はそれこそ様々な様相を呈していました。
 だからこそよかったと言えるでしょう。
そして私も我が道に少しだけ胸を反らし、
これからの次の人生を進もうと思っています。
 今一度、素晴らしい出逢いに心から感謝しながら。

           平成23年3月

  *     *     *     *     *

 事前連絡の電話が何度があったが、
1週間ほど前に、都教委とS区教委を経由して1通の案内が届いた。
 
 その文面にはこんな言葉が並んでいた。
『日頃から小学校教育の充実・発展に多大なる尽力をいただき』、
 『小学校教育の振興に貢献され』、
『小学校教育への功労者に』、
 『文部科学大臣から感謝状等を贈呈させていただく』。

 そして、贈呈は今月19日、
全国連合小学校校長会75周年記念式典にて行うとあった。

 何を隠そう。
文面にある1つ1つの言葉の重み、
それが私にはかなり堪えた。

 2冊の『あとがき』は、小学校における一実践者であった私の、
ありのままの姿である。
 『多大な尽力』も『振興に貢献』もできないままの私だった。
『功労者』など、ほど遠い。
 
 40年間の私の足あとは、 
『何かを残したかと問われれば、
ただただ定まりのない歩みだったのでないだろうかと自問し』、
 そして、
『よき先輩、同僚、知人、友人に出逢い、
たくさんの教えを受け、
それでも私自身のオリジナリティーを探しながらの日々』だったのです。

 だから、贈呈の日が近づくにつれ、私は明らかに躊躇していた。
そんな折り、最近親しく話をするようになった方から、
お祝いの言葉があった。
 「穴があったら入りたい心境なんです」
と、複雑な顔で応じた。

 すると、彼は、
「感謝状に相応しいかどうかは、
贈呈する側が決めるんですよ。
 堂々といただけばいいんです」。

 まだ、気恥ずかしさは残る。
しかし、心は晴れた。




     見上げた!ナナカマド
               ※ 次回のブログ更新予定は10月28日(土)です。
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D I A R Y 9月

2023-10-07 11:24:51 | つぶやき
  9月 某日 ①
 夕食も入浴も終えた就寝前、
特に見たいテレビもないまま、
リモコン片手に番組探しをしてみた。

 すると、長崎の精霊流しを取り上げたドキュメンタリーがあった。
もう21年も前になるが、
9月の学校だよりに校長として記した一文を思い出した。
 一部を抜粋する。

  *     *     *     *     *  
 夏休み、私は長崎を旅する機会に恵まれました。
時はちょうど8月15日、旧盆でした。
 プライベートな話題になりますが、
私は若い頃から『さだまさし』のファンで、
彼の代表的な曲「精霊流し」の原風景を見ることができました。

 3拍子の流れるような「精霊流し」の歌曲とはうって変わって、
長崎の精霊流しは、夕方から深夜まで街中が爆竹の裂ける音で、
耳をつんざくばかりでした。
 そうして町中をねり歩く精霊船。
新盆をむかえた家から出されると言うその船は、
その夜一夜で1400艘。

 私は何万人という見物人の1人として、その行列を見ながら、
人の死を悲しみ、送り出す長崎特有の伝統行事に、
一種の違和感を持ちました。

 ところが、ある精霊船の先頭を歩く喪服の初老に胸を打たれました。
ものすごい爆竹の炸裂音ともうもうと立ちこめる煙につつまれる中、
明々と提灯の灯る精霊船の先頭に立ち、
その初老は見物の人混みにくり返しくり返し頭を下げながら涙を流し、
その姿は悲しみに包まれていました。
 船には初老によく似た青年の遺影がありました。
私は、何故か目頭が熱くなりました。

 この1年間で亡くなった人々をあんなにもにぎやかに送る。
そんな習慣や感性は私にはありません。
 だが、長崎の人々は、そう言う伝統の中で生きてきたのです。
     

  9月 某日 ②
 1年半におよんだ歯の治療から半年が過ぎ、
予約してあった日に定期検診へ行った。
 予約の定時に受付を済ませたが、
案の定30分以上も待たされた。

 やっと診察台につき、
歯間洗浄が済むと、これまたしばらく待たされた。
 そして、相変わらず、
院長先生の小走りの足音が近づいて・・・。
 穏やかな話声で「お待たせしました」の決まり文句を言う。
この声が、いつものように私のイライラ感を鎮めた。
 不思議な現象である。

 平常心で私は、歯の状態についていくつかの説明をする。
院長先生は手際よく、私の訴え通り治療を行い、
「これで、様子をみて、1週間後にもう1度見せてください。
予約をお願いします」と。
 
 さて、1週間後の診療を了解したその後だ。
診察台を降りた私に、タブレットを持った看護師さんが寄ってきた。
 「スマホをお持ちですか。
次から診察券ではなく、スマホのアプリで予約診療ができます。
 それに切り替えていいですか」。
「へえ! そんなことができるんですか。
ビックリ!」
 私は、ポケットからさっとスマホを取り出した。

 看護師さんは、手慣れていた。
「スマホで、このQRコードを読み取ってください」。
 スマホをかざす。
『my Dental』のアプリが、瞬時に取得できた。

 その後は、看護師さんの指示通りパスワードの入力を行う。
すると、確認した予約日時が『予約状況』として表示された。
 「次回は、受付の読み取り機に、
このアプリのQRコードをかざしてください。
 それで受付は済みます」。

 まだ半信半疑だった。
それにしても、スマホの時代は益々進化している。
 「すごい!」。


 9月 某日 ③
 自治会は5つの地区=ブロックに分かれている。
私のブロックでは、昨年から親睦事業として「焚き火の集い」を行っている。
 今年は、参加者が20名も増えた。
12台の焚き火を囲み、60名がピアノとサックスの音色に耳を傾け、
暮れゆく夕日を見ながら、幻想的な時間を過ごした。

 さて、集いが終了した後、
この会の運営に当たったメンバー10人で、残り物を囲んだ。
 参加者からたくさんの好評の声が届き、
明るい雰囲気で10人の会話は弾んだ。

 どんな話題から発展したかは覚えがない。
それは、私と同世代の男性のひと言から始まった。
 「まさか、逢い引きしてたんじゃないべ」。
すると、同じ世代の女性が、
「逢い引きって言ったって、今の人、わかんないでしょ。
ねえ、わかる?」
と、40代の女性を見て訊いた。

 「私は、何とかギリギリわかります。
でも、Sさんはどうかな?」。
 名指しされたSさんは40歳になったばかりの男性だ。
「何です! アイビキって?」。

 すかさず、横やりを入れ、混乱を楽しむ輩が現れ、
「40にもなって、アイビキを知らないのか。
牛肉と豚肉の合い挽き、あれだよ」。
 それには敏感に反応し、Sさんは続ける。
「合い挽き肉なら知ってますよ。
 でも、それじゃないでしょう。
なんですか。本当のこと、教えて下さい」。

 世代ギャップである。
『逢い引き』は、Sさんの世代では死語らしいのだ。

 ここはと『逢い引き』の意味を、
私も同世代も口口に説く。
 するとSさんは、まとめた。
「わかりました。要するに不倫のことでしょ!」。

 「いや、不倫もそうだけど、それだけじゃない」。
同世代は皆、口ごもる。
 「だけど、男と女が人目を避けて逢うことでしょう。
それなら不倫でしょ」。
 「いや、不倫でなくても、
人目を避けるようにして逢っていたんだ。
 俺たちの頃の男女は・・」。

 Sさんは、納得がいかない。
「不倫でないのに、人目を避けるなんて変ですよ。
あり得ませんよ。変じゃないですか」。
 「いや、私たちの時代は、そうだったのよ」。

 確かに、男女のあり方は変わった。
人目を避けるようにして男と女が逢う『逢い引き』。
 逢い引きのような男女関係は、すでに消滅している。
死語になって当然であった。
 
 男と女が人目を気にせず逢うのは当たり前。
いつの間にか、ずっと前からそんな時代になっていた。
 そう思えた時間だった。




     9月26日 昭和新山・山頂崩落
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