ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

マラソン大会 小話

2020-04-25 16:03:37 | 出会い
 各企業への休業要請が続いている。
その要請に応じてくれた所には、協力金を支払う。
 そんな動きが、各地で展開されている。

 ところが、この協力金の金額について、
都道府県や市町村によって違いが生じている。

 その違いをどう考えるか問われた北海道の、
鈴木知事の答えに、『あっぱれ』を送りたい。

 「本来、休業補償は国が行うことです。
しかし、そうしないのです。
 だから、各地方が苦しい財源を、
やり繰りしながら進めているんです。」
     (不正確な箇所があるかも・・)

 そして、道内の某市長は、同じ協力金の支給についてこう述べた。
「乾いた雑巾を絞りに絞って出しました。」

 行政の首長として、2人に気骨を感じた。
「心強い!」「頼もしい!」。
 小市民の1人として、エールを送りたくなった。

 それに比べ、感染症対策専門家会議が紹介した
『人との接触を8割減らす10のポイント』なのだが・・・。
 さほど話題になっていないが、失望・・・・・。

 「10のポインドができれば8割削減できる!」。
そう期待して、その10に目を向けた。

 ところがだ。
「オンライン帰省」に「飲み会はオンライン」、
その上「待てる買い物は通販で」に「診療は遠隔診療」ときた。
 多くを語る気にもなれない。
的外れもいい加減にしてほしい、

 これが我が国コロナ対策のリーダーの提言なのか。
「情けない!」。
 私には理解不能だ。

 この有り様じゃ、今後も全国で混乱が続くに違いない。
そう覚悟しながら、長期戦に立ち向かおう。

 そう言いつつ、一市民として出来ることは、
2ヶ月前から同じだ。
 じっとしている。それだけだ。
何も変わらない。

 だから、「今回も少しは明るいことを」と・・。
7年前から年に数回、各地のマラソン大会に参加している。
 そこでの小さな出来事・小話を綴る。


  ① 申告は,速めにするの!!

 そのハーフマラソン大会の関門は、
5キロごとに設けられていた。
 そこを35分以内のペースで通過しなければならない。
ここ数年の私の走力では、ギリギリだった。

 特に、スタートから最初の関門、
つまり5キロにある関門まで。
35分で走り着かなければならない。
 これが、なかなかの難関なのだ。

 言うまでもないが、『関門』だ。
その時間までに通らないと、ストップがかかる。
 その後を走ることは許されない。

 ハーフマラソンを5キロで止められては、
悔いるどころではない。
 すごく恥ずかしいし、もったいない。
 
 ところが、私はそこで止められる可能性が十分にあるのだ。
その要因は、スタート時のロスタイムである。

 実は、大会は5000人のランナーがスタートする。
その前に、混乱を避けるため、走力順に並ぶ約束になっている。

 スタートラインには、自己申告した速いタイムの
グループから順に並ぶ。
 だから、私は当然最後尾になる。

 すると、スタートの号砲が鳴ってから、
スタートラインをまたぐまでに、最後尾は約3分間もかかるのだ。
 これがロスタイムだ。

 つまりは、最初の5キロまでを、
私らは、35分ではなく32分間で走らなければならないことになる。
    
 号砲が鳴ると、少しでも速くスタートラインまで行きたい。
前のランナーをかき分けたい心境になる。
 そんな時だ。

 最後尾を誘導していたベテランの大会役員が、
顔見知りランナーとでも話していたのだろう。
 その声が聞こえてきた。

 「正直に申告するから、最後尾なのよ。
もっと速い時間で申告すればいいの。
 そうしたら、もっと前に並べるでしょう。
最初の関門までが楽になるのよ。
 そんな考えの人、前の方にいっぱいいるよ。」

 「そんなのフェアーじゃない。」
そう思いつつ、すごく気が動転していた。


 ② オレ、教えたよ!

 旭川のハーフマラソン大会は、名所『旭橋』を渡る。
丁度、この橋が、中間点付近にあたる。

 スタートから概ね8キロで、
コースは市街地から堤防上の散策路に変わる。
 そこを2キロ程行くと旭橋である。

 その土手道をしばらく走った時だ。
少し前を行くランナーが、
道路脇で私たちを見ていた方に話しかけた。 
 
 「すみません。旭橋まではどの位ですか。」
道路脇の方は、無言で首を傾けた。

 しばらくして、そのランナーは、
また道路脇に訊いた。
 「旭橋までどの位ですか。」
再び無言で、分からないという表情が返ってきた。

 私は、走りながら左腕のランニングウオッチを見た。
そして、そのランナーに近づいた。
 「旭橋ですか。」
彼は、疲れた顔でうなづいた。
 「あと1キロくらいです。
がんばりましよう、」

 苦しさは同じだった。
でも、私の声を聞き、表情を明るくした。
 教えて上げて良かったと思った。
私の足どりにも、少し弾みがついた。

 だが、その次だ。
後ろをついてきた女性ランナーが、
彼に近寄った。
 そして、言った。

 「ずっと前の方、見てください。
緑色したアーチの橋。あれ、旭橋!
 分かります?」
 彼は、戸惑った風だが走りながら、
何度もうなづいていた。

 「余分なことをしたのは、オレなの?
それとも彼女なの?」。
 しばらくは、自問しながら走るはめになった。

 「オレ、教えたよ!」と言い返すべきか?
「いやいや、それは・・・・」。
 しばらく落ち込んでいた。

 ③ 根性が違う!

 1月に、体育館のランニングコースで、
久しぶりに出会った同世代のランナーとのやりとりだ。

 「去年の洞爺湖、俺は10キロだったけど、
フルを走ったの?」
 「はい、一応スタートはしました。」
「そうか。それで?」

 言いたくなかったが、応じないわけには・・。
なので、渋々言った。
 「30キロまでがやっとでした。リタイアです。
後は収容のバスで、戻りました。」

 すると、すかさず彼は楽しげに言った。
「30キロか。バスの中、男ばかりだったろう。」
 私が座った席の回りを思い浮かべてみた。
確かに、男ばかりだったように思えた。

 「言われてみれば、そうだったようです。」
「そうなんだよ。
そこまで行ったら、女は絶対に諦めないんだ。
 後12キロさ。倒れるまで頑張って走るんだ。女は!
そして、最後はゴールするんだ。
 男とは根性が違うんだよ。すごいよ。」

 自信にあふれた彼の言いっぷりもあるが、
私は、何故か納得した。
 そして、「その根性がほしい!」
と、叫びたくなった。 




  春が来た 春が ルンルン

     ※ 次回のブログ更新は5月9日(土)の予定です。
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美味しい思い出話でも

2020-04-18 18:02:53 | 
 『ウイルスという見えない敵とは長期戦になる』。
そんな様相が、ハッキリしてきた。
 どうやら、私たち1人1人が、
この戦いに対し、覚悟を固めなければならない。

 「そのうちに、何とかなるのでは・・」。
そんなばく然とした期待感は、もう捨てるしかない。
 全国民、いや全世界が総力戦だ。
みんな、頑張ろう。
 
 それにしても、2月末しかり、4月しかりだが、
事態が悪化すると、真っ先に手を付けるのが、
学校の休校措置である。

 急転直下、なんの予告もなく、
「明日から学校はしばらくお休みです」。
 そう知らさせる子ども達。
そんな日常の急変に、ただ黙って従うしかないのが、
子どもの実際だ。

 「休業補償をしてください。」
そんな声はなく、お金がかかる心配もない。
 それが休校措置だ。
だからか、いつもいの一番に行政がうつ一手だ。

 いやいや、屈折した考え方に固執するのはよくない。
それよりも、弱者である子ども達への感染防止策を、
最優先した措置と思おう。

 3月中旬だったろうか、新聞記事にこんな一文があった。
『埼玉県内の30代女性は、小1の長女の言葉に頭を抱えた。
 「いつもの学校じゃない。もう行きたくない」。
教室で一時預かりをしてくれたが、
私語厳禁、立ち歩きはトイレだけ。
 娘の動揺を見かねて、
パートの仕事を休まざるを得なくなった。』

 子ども達が置かれている今が、垣間見える一事だ。
一読して、心が痛んだ。
 コロナで、学校も子どもも親もそれぞれが辛い。

 悔しいが、今は、その事実に耐えるしか方法がない。
さて、どうやって耐えていくかだ。
 一人一人の知恵が、大きく問われている。

 「こんな時だからこそ、親子で料理を楽しもう!」
某テレビ番組が呼びかけていた。
 それも、一つのアイデアだろう。 

 いつもより時間をかけ、
「美味しいね。」と言葉を交わしながら、
家族みんなで食卓を囲む。
 ゆったりとした楽しい家族団らん。
「そんな好機にする!」。
 そう発想を膨らませるも一案ではないだろうか。

 ところで、我が家はどうだ?!
時間をかけての食卓は、伊達に来てからの日課だ。
 贅沢はできないが、旬の物を買い求め、
「美味しいね」と言いながら、
味わうのは毎日のことだ。

 それ以上に時間をかけた2人の団らんをどう工夫する?
思い出話以外には即答できない。

 くり返しになるが、外出自粛の長期戦だ。
その知恵の1つは、
テーブルに並んだ料理に、箸を進めながら、
ダラダラと美味しい思い出話を語ることだろう。
 それも戦いの一環と思いたい。

 先日、昼食で蕎麦を食べながら、
美味しかった蕎麦屋ベスト3を話題にした。
 随分と時間をかけてしまった。


 ベスト1 

 まもなく40歳をむかえる頃だった。
初めて教務主任という役が回ってきた。

 その年、教頭先生が替わった。
3,4年先輩の口数の少ない方だった。

 5月に入り、2人一緒の出張があった。   
そこでの研修が5時過ぎに終わり、
帰りの駅に向かった。

 「どう、蕎麦でも食べない?」
教頭先生から誘われた。
 断る理由などなかった。

 「今日は、私がお金を出します。
なので、好きな蕎麦屋に行ってもいいですか。」

 彼はそう言うと、
人を縫うようにドンドン前を行った。
 その後ろを追うのがやっとだったので、
その蕎麦屋が日本橋のどこにあったか、覚えていない。

 それまで、私が知っていた蕎麦屋とは店構えが全く違った。
ちょっと値のはった料理店風だった。
 店内も、小洒落た落ち着きがあった。

 向き合ってテーブル席に着くなり、
「大昔だが、ここは天ざるを最初に出した店なんだ。
お勧めなんだけど、それでいい?」。
 俄然興味が湧いた。二つ返事だった。

 やや時間をおいて、天ざるが置かれた。
お盆にも器にも、目が止まった。
 しかし、天ざるの味はそれ以上にすごかった。

 2人はひと言も発することなく、
天ぷらと蕎麦に箸が動いた。

 私にとって、蕎麦屋ベスト1は、ずっとここだ。
店の名は、『砂場』だった気がする。

 
 ベスト2

 総武線の小岩駅前から、金町駅行きのバスに乗る。
途中で京成線の踏切を渡る。
 すると、そこは江戸川区から葛飾区へと変わる。
街路樹が銀杏になり、まもなく「寅さんの故郷」柴又。
 そのバス通り沿いに、目立たない店構えの蕎麦屋がある。 

 もう30年も前になるが、初めてその暖簾をくぐった。
間口の狭い小さな店で、
ご夫婦2人で切り盛りしているように見えた。

 奥さんの口調は歯切れよかった。
メニューを見て迷っていると、近寄ってきて言った。
「始めての方だね。
ウチは、他より盛りが多いよ。
 でも残すような人はお断り。
残さない人だけ、注文してもらってるの。」

 客商売らしくない、随分乱暴な言葉だが、
何というのだろうか、
その言いっぷりに嫌味がなく、私は笑顔になっていた。

 思い切って、お勧めの品を尋ねると、
『鴨せいろ』と即答された。

 それを注文したものの、食べたことがなかった。
せいろにのった蕎麦と鴨肉の入った温かい汁がきた。
 確かに蕎麦の量は多かったが、一気に食べ終えた。

 以来、どこの蕎麦屋でも、「鴨せいろ」一筋。
そして、いつもあの柴又で食べた『やぶ忠』の味を思い出した。

 先日、その店のホームページにこんな一文を見つけた。
『(30年以上も前)手打ちそば屋が珍しい頃に・・・、
手打ちそばを習得し、粉屋から買う粉を
玄そばから製粉までの工程のすべてをやることで、
低コストで量を普通もりでも多く、
おいしい手打ちそばを提供できるようにしました。』

 店の心意気と一緒に、
奥さんが初顔客に言った乱暴な言葉の真意を知った。
 旨味がさらに蘇ってきた。


 ベスト3

 私の耳学なので、不確かだ。
江戸なのか明治なのか、とにかく昔むかしだが、
うどん屋では薬も売っていた。
 それに対し、蕎麦屋は酒が飲め、
今でいう居酒屋を兼ねていたらしい。

 その名残なのか、首都圏の蕎麦屋では、
今もゆっくりとお酒を楽しめる店がある。

 その蕎麦屋は、家内の情報だった。
千葉市の海浜地区に住まいがあった頃だ。
 我が家から、徒歩なら40分弱の所だ。

 近くによく通った内科医院があり、その店の暖簾は知っていた。
しかし、若干寂れた店構えで,気にもかけなかった。
 ところが、美味しい店で近所では評判だと言う。

 伊達に移り住む数年程前になる。
夏休みの夕方、散歩を兼ねてその店まで行ってみた。
 店内も、蕎麦屋のイメージ通りで、惹かれなかった。

 小上がりを避け、5,6つあるテーブルの、
一番奥席に座った。
 隣の席には、同じ年格好の男女いた。

 渡されたお品書きを見ながら、
その2人のテーブルを見た。
 ガラスコップの日本酒と、
陶器の皿にのったつまみが、いくつか見えた。

 それを見なければ、お蕎麦だけを注文していただろう。
だが、すっかり魅せられた。
 お品書きから日本酒の銘柄を選び、
そして、板わさに鴨の燻製、そして天ぷらを頼んだ。
 蕎麦屋が作るつまみの美味しさを始めて知った。
酒が進んだ。
 飲み終えてから、ざる蕎麦で仕上げた。
これがまた、「絶品!」。

 帰りは、タクシーを拾った。
その運転手さんが言った。
 「あの蕎麦屋、俺たち運転手はよく行くんだ。
美味しいから、あまりみんなには教えないんだ。
 これ以上混んだら、俺たち使えなくなるから・・。
だから、よろしくな・・。」

 そんな訳で、誰にも教えず、伊達に来る日まで、
時々、家内と一緒に『三升屋』の暖簾をくぐった。




 蝦夷立金花(エゾノリュウキンカ) 真っ盛り!  
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北の春 さまざま

2020-04-11 15:47:21 | 北の大地
 ① 青森県弘前の春

 弘前城は桜の名所である。
もう5年前になるが、
家内の母と一緒に、3人でその満開を堪能した。

 その弘前公園の桜祭りだが、今年は中止になった。
それを発表する席で弘前市長は、
報道各社にこんなことを求めたと言う。

 『桜が咲いたと知れば、桜を見たいという行動を誘発する。
市民の命と健康を守るため、桜の見頃が終わるまで、
弘前公園で咲く桜の画像や動画を公開しないでほしい。』

 報道陣からは、
「個人の表現の自由や報道の自由に踏み込めるのか。」
との声があったようだ。

 しかし、例年、県内外から多くの観光客が押し寄せるシーズンだ。
タイミングが悪い。
 人の密集を何としても避けたい。

 市長として考え抜いた結果の、コロナ感染の拡大防止策なのだろう。
十分に理解できる。
 だけど、「そこまでする!?」。
なんて切ない桜の春だろう。


 ② 私の町の春

 一方、地元新聞記事は、
私の町の春をこう告げている。

    *    *    *    *    

 ボランティア団体・・クラブが管理する敷地には、
池などがあり多様な草花が育つ。
 今はカタクリやエゾエンゴサク、アズマイチゲが見ごろ。

 柔らかな日差しに誘われるようにエゾリスも元気に動き回る。
春の野草の周りを走り、
大きなしっぽを振りながら木から木へ素早く移動する。
 ・・・現在4,5匹が生息しているという。・・・

 「ちょうど鳥が動きだす時季でもある」
と紹介するのは日本野鳥の会・・支部長。
 4,5月は夏鳥が繁殖のため、本州や東南アジアから渡ってくる。
同敷地内でも、カワラヒナやキジバト、
ウグイス、ヒバリなどが確認されている。

 快晴に恵まれた・日は、
周辺でノルディックウオーキングを楽しむ市民らも。
 同・・クラブの・・副代表は、
新型コロナウイルス感染症の対策を取った上で
「家にいると気分が落ち込むこともある。
 きれいな花々を見ると気分転換になりますよ」
と話している。

    *    *    *    *

 4月になり、「だて歴史の杜公園」にも春が訪れている。
弘前とは比較できないが、
こちらはコロナで滅入る気分転換に、
「春を楽しんでは・・」と誘っている。

 人出もまばら「3密」など無縁だ。
しばしコロナを忘れることができると思う。


 ③ 『道民若葉マーク』の春

 これも新聞からの転用だ。
某紙の読者投稿欄にすっかり共感し、
拍手喝采した。
 
 昨今、ワイドショー番組のコメント内容に、
不快感が増大し、ストレスが鬱積していた。
 話題は全く違うが、このコラムに救われた。

    *    *    *    *    

      春の思い出
                   松永 正実    

 あ! え? ミズバショウだ。こんな場所にも咲くんだ。
てっきり夏の花だと思っていたー。
 30年前、北海道で迎えた初めての春に、
この花と出合った瞬間の印象である。

 そこは雪解け水を集めてできたような、
何の変哲もない小さな湿地であった。
 ミズバショウと一緒に鮮やかな黄色の花も咲き乱れていて、
すてきな空間をさらにぜいたくなものにしている。
 この花は調べてみて、エゾノリュウキンカだと分かった。

 驚いたのはこれだけ見事な群生地に対して、
周囲の人々が大して関心を示していなかったことだ。
 ミズバショウは東京辺りではまずお目にかかれない花。
有名な唱歌「夏の思い出」にある通り、
はるかな遠い空の下に咲く憧憬の花だというのに。

 翌朝、二つの花の美の競演をカメラに収めようと
早起きして出かけることにした。
 幸運にもガスが立ちこめて、絶好の撮影日和だ。
喜び勇んで現場に着くと、様子がおかしい。
 なんとおばさんが1人、
せっせとエゾノリュウキンカを収穫しているではないか。

 そう、エゾノリュウキンカはヤチブキという
別名がある山菜でもあったのだ。
 花の部分は要らないのだろう、
その足元にはバッサリと切り落とされた、
鮮やかな黄色がむなしく散乱している。

 カメラを手にぼうぜんと立ち尽くす自分が、
ひどく間抜けに思えた。
 春が来れば思い出す、
道民若葉マークだった頃の切ない出来事である。
                (養鶏業・八雲)

    *    *    *    *

 ミズバショウについては、
私にも同類の「道民若葉マーク」がある。

 兄の住まいがある登別市に、
数年前に『キウシト湿原』と言う公園ができた。
 そこへはまだ行ったことがないが、
住宅街に湿原があり、貴重な自然が残っているらしい。

 その公園が開設された翌年のこと、
兄と一緒にお彼岸の墓参を済ませた帰り道だ。
 助手席に座っていた兄が指差して言った。

 「あそこにキウシト湿原があるんだ。
もうすぐ、ヘビマクラがいっぱい咲くんだ。
 今度、行ってみるといいぞ。」

 『ヘビマクラ!』。
何のことか、見当がつかなかった。
 「なに、それ?」。
ハンドルを握りながら訊いた。

 「池の脇なんかに咲く白い花だ。知らないか。」
「春の白い花か・・?、
ミズバショウなら分かるけど・・・。」
 「それだ、それ。ヘビマクラって言うべ。」

 かなりショックを受けた。
あの可憐な花が、「ヘビマクラ」とは。
 あまりにもドギツイ。

 ④ 変わりない春

 花壇の土が、所々小さくひび割れ、盛り上がっている。
まもなく緑色の新芽がのぞくのだろう。
 
 芽吹きにはまだ少し早いが、
ジューンベリーの花芽が確実に膨らみ、
その先に白みがおびている。

 物置の屋根に、冬を無事に越えた雀の親子が時々並び、
交互にさえずり合う声が私の部屋まで聞こえてくる。

 朝は、いい天気が続く。
その日は、うす雲が多くても、
その切れ間から明るい青空がのぞいていた。
 
 ランニングの荒い息のまま、畑のすぐ横を通った。
農家さんの若夫婦が、並んで整地した畑にかがんでいる。
 やや離れていたが、春野菜の苗植え作業だと分かった。

 2人のかすかな話声が聞こえてきた。
それは柔らかな日差しの、のどかさに溶けていた。

 そして、次に、
若々しい奥さんの、コロコロと転がるような笑い声が、
走り抜ける私の背中を追いかけてきた。
 
 そんな北の春に、私は生まれた。
今日で、72歳になる。



交通安全を見守る 冬はニット帽にマフラーだけど   
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あの頃 ・ 通勤途中にて

2020-04-04 15:57:12 | あの頃
 ▼ 「中国・武漢で新型コロナウイルスによる感染が広がっている!」。
そんな報道を耳にしたのは、4ヶ月程前のことだ。
 それがまさか、全人類への挑戦の始まりになるとは、・・・。
今も、信じられない。

 「現代社会は、急激な速さで変化を遂げている」。
そんなフレーズをよく耳にし、ここ30年余りを過ごしてきた。
 しかし、このコロナによる急変を、
世界の誰が予言できただろうか。
 恐怖が駆けめぐる。

 IPS細胞の山中教授が、「専門外ですが」と言いつつ、
日本の現状について5つの提言をしている。
 そして、「少しでも早く取り組んで」と訴える。
 
 山中教授のあの実直な言葉を聞き、
改めて危機感を強くした方も、少なくないだろう。

 当然、私もその1人だ。
なのに特段、私ができることなど何一つとしてない。

 ただ自己管理に努める。
手洗いとマスクを欠かさないこと。
 そして、30分早く寝て、免疫力を高めること。
時には、首都圏で暮らす息子らに、
「気を付けて!」とラインすること。
 当然、私は不要不急の外出はしない。

 そうそう、山中教授はテレビのインタビューで、
「このコロナウイルスとは、
長期戦になります。マラソンです。」
とも言っていた。

 それを聞きながら、戦国の世ならば、
『ろう城戦』だと理解した。
 ならば城内での長い暮らしに耐える技を、
工夫することだ。
 まずは、私のろう城プランを考えよう。

 乏しい知恵だが、策を絞りたい。
さてさて、何がある。どうする。
 せめて、このブログはできるだけ明るいことを・・。
そう考えた。

 現職の頃、長い通勤の途中であったエピソードを、
書いてみようかな・・。

 ▼ 携帯電話が出回り始めてまもなくだ。
当時、必要性がさほどないのに、見栄を張って購入した。
 勤務校では、私だけだった。

 当然、その電話番号を知る者は少なく、
呼び出し音が鳴ることは、ほとんどなかった。

 まだ土曜日勤務があった午後だった。
退勤の電車が、途中駅で停車したままになった。
 車掌さんのアナウンスは、送電のトラブルで、
再開の見込みは立っていないとのことだった。

 30分は待っただろうか。
「この事を自宅へ知らせよう」。
 携帯電話を取りだし、ホームに降りた。

 人混みを避け、自宅に電話した。
便利さを実感した。
 
 その時だ。
電車から降りできた若者から話しかけられた。
 「携帯電話ですね?」。 
少し胸を張って、うなずいた。すると、
 「用件はすぐ済みますので、
100円で使わせてもらえません。」

 突然のことで、やや迷った。
若者は、早く貸してほしいと言わんばかりの表情だった。
 「どうぞ」。
携帯電話を差し出した。

 若者は、やや離れたところへ行き、
電話をした。
 そして、お礼を言いながら、
100円玉と携帯電話を私に渡し、車内へ戻った。

 私も車内へと思った時だ。
「すみません。お幾らでその電話、お借り出来ますか。」
 今度は、女性が遠慮がちに近づいてきた。

 返答に困った。    
「急ぎ連絡したいことがありまして、
お貸し願いませんか。」
 女性は私の顔を覗いた。
「どうぞ」
 そう言って、携帯を渡すしかなかった。

 電話をかけ終えた女性に訊かれた。
「あのー、おいくらでしょうか?」
 やや高いと思いつつ、仕方なく言った。
「先ほどの方からは100円頂きました。」
 女性は、私に100円玉を渡し、電車へ向かった。

 すると、すぐだ。
「私も100円で、貸して下さい。」
 「その次でいいです。私もお願いします。」

 気づくと、私の前に5,6人が列を作り、
1通話100円の携帯電話を待った。
 「人助けのため持った携帯ではないのに・・。」
苦笑いをしながら、100円を受け取っていた。

 中には、千円札を出され、お釣りを渡す場面まで・・。

 ▼ それは朝の満員電車、
身動きもままならない車内でのできごとだった。
 その日は、特に混雑が激しく、
ドアからやや奥へ進み、四方をスーツ姿に押され、
遠慮がちに直立していた。

 線路のポイント切替か何かなのだろう、
いつも決まった所で、車掌のアナウンスが流れた。

 「間もなく、車両が大きく揺れますので、
お気をつけ下さい。」
 毎日のことである。その揺れには慣れていた。
やや足に力を入れ備えた。

 ところが、混雑のせいだろうか。
車両の揺れと一緒に、満員の乗客全員が、
一方向に大きく傾き、次に一斉に元の位置に戻された。

 一瞬のことだったが、満員での定位置を再び確保しホッとした。
その時だった。
 私のすぐ左横にいた男性が、声を荒げた。
「俺の足を踏んだだろう。謝れよ。」
 そう言いながら、私のすぐ右横で背を向けていた若者を押した。
それを、2回くり返した。

 すると、押された若者が、
ギュウギュウの中で反転し、男性を見て言い返した。
「踏んでませんよ。失礼だな!」

 今度は、男性がその若者をにらみつけた。
「いや、君の足が私を踏んだ。」
 「ボクが踏んだのなら、分かりますよ。
そしたら、言われなくても謝りますよ。」
 「なに言ってるんだ。
踏んだのを認めて、素直に謝ればそれでいいんだ。」
 「違うって、言ってるでしょう!。
ボクじゃないって・・・・」。

 2人の言い争いは、続いた。
それは、超満員の身動きが難しい、
しかも、私の右横と左横での言い合いだった。
 揺れる車内の左右、私の目の前で、
強い言葉がしばらく行き交った。

 私は、目だけを右と左に動かし、遠慮がちに
事態の推移を見るしかなかった。
 仲裁を買って出る。
そんな発想はまったく思いつかなかった。
 
 幸い、2人の間には腕を振り上げ、
殴り合う程の隙間もなかった。
 そこだけは、安心しながら、
男性が言うと左に目をやり、
若者の番になると右を見た。

 しばらくすると、言い合いはやや方向を変えていった。
これには参った。

 そして、ついに、
「じゃ、君じゃないのなら、誰だ。
誰が踏んだんだ。」
 「そんなの知りませんよ。
揺れた時、みんなが動いたんだから。」
 「だから、一番近くのは君なんだよ。そうだろう・・」。

 いやな予感が増した。
若者は、目を大きく見開いた。
 「エッ、近くには、僕以外だっていたでしょう。」
「それは、誰だ、誰だ。」

 一瞬、車内は緊張が走った。
そして、2人の目は同時に、間近に顔があった私を見た。

 「オレが犯人!、そんなバカな!」。
私は無言のまま、2人を交互に見ながら、
あわてて首を、何度も何度も横に大きく振った。
 あの時、きっと私の顔は青ざめていたに違いない。

 「じゃ、仕方ない・・。変な言いがかりをつけて、
済まなかったな。」
 男性は、小さく頭を下げた。
そして、若者もうなずき、ゆっくりと向きを変え、
争いは突然終わった。

 一体、2人は私を見て、何を感じたのだろう。
今も謎だ。
 念を押す。私は無実だ。

 わすか数10センチの至近距離で、
男3人の緊迫したシーンだった。
 なのに、日が経つにつれ笑えるのは、どうして・・。




   陽春の候  菊咲一華    
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