一昨年の春、雪解けを待って『春一番・伊達ハーフマラソン』の5キロを走った。
続けていたスロージョギングの道と、5キロのコースが重なっていた。
単に、そこに心が動かされ、参加した。
その会場で、10キロを走り、ゴールした視覚障害の方と伴走のランナーを見た。
二人の晴れやかな後ろ姿がまぶしく、感動で体が震えた。
伴走者にはなれないが、せめて同じ10キロのコースを一緒に走りたいと思った。
それから1年、『勝手にチャレンジャー』(昨年8月17日ブログ掲載)と称して、
それまでより、少し熱を入れてジョギングを続けた。
そして、昨年4月、右手の異常には気づいていたが、
10キロにエントリーした。
当日、どういう訳か、視覚障害の方と伴走者の姿はなかった。
それでも沢山のランナーと同じ方向をむいて走った。
それはそれで楽しかった。
無事、完走したとき、思わず笑顔がこぼれた。
喜びもつかの間、数日後、右手の手術をした。
激痛で、深夜に目ざめ、眠れない日が続いた。
1か月後、医師からジョギングだけは許された。
長距離運転も、キーボードを打つことも、大好きなゴルフも
「悪化するから」と、禁じられた。
痛みと痺れと麻痺の右手をかばいながら、
そんなことを忘れようと、ジョギングに汗を流し、うっぷん晴らしをした。
ゆっくりと視界に飛び込んでくる、木々が教える季節もよう、
頬に触れる柔らかな風の香り、
そして、穏やかで公平な、その時々の降りそそぐ日射しに包まれながら、
私は、ただ自分のリズムで走り続けた。
次第次第ではあったが、走ることを通して、
増していく喜びを感じていた。
いっこうに回復の兆しのない右手だったが、
ジョギングは、そんな苦痛を十分に癒やしてくれた。
だから、私のジョギングはそれで満足だった。
ところが、今年2月、
『春一番・第28回伊達ハーフマラソン』の案内が舞い込んだ。
どうして5キロでも10キロでもなく、
ハーフマラソンにエントリーする気になったのか、その動機は定かでない。
しかし、無茶な決断だった。
この大会のハーフマラソンには、2時間30分の制限時間があった。
しかも、コースには3つの関門があり、それぞれに制限時間が設定され、
クリアできないランナーは、即刻レースを止められてしまうのであった。
日に日に不安が増した。
経験のない長距離と同時に速さが求めらた。
幸い伊達市内のコースである。
せめて第一関門まででもと、2月末雪の解けた無風の日を選んで試走した。
あくまでも、私の走力でハーフマラソンの距離を完走することを
想定しての速さで走った。
結果は、5分遅れの通過だった。
次の日から、ややジョギングのスピードアップを心がけた。
その上、距離も少しずつ延ばすことにした。
思いのほか順調に走ることができた。
調子にのって、日記には「勝手に限界など決めるな。」なんて記した。
ところが、大会まで1か月余りの日だった。
雪解け道を、いつもより長い距離を走っていた後半だった。
左足のふくらはぎを激痛が襲った。
肉離れだった。
私は焦った。
伸びてきた走力を後退させたくはなかった。
せめて、痛みが消える日まではと、
朝の散歩を、足を引きずりながら強行した。
それが、さらに腰を痛めることになった。
大会2週間前には、歩くことさえままならなくなった。
不運を嘆いた。
大会出場を諦めた。
大会当日、4000人のランナーのスタートと、
5キロ、10キロに続いて、
ハーフマラソンのランナーが次々とゴールする姿を見た。
その一人になれなかったことに、強く唇を噛んだ。
毎日通い、親しくなった整骨院の若い先生の
「年令を考えて。」「無理をせず。」など、
どこかに置き忘れてしまいたかった。
それから2ヶ月が過ぎた。
6月14日(日)午前9時、私は、
道南・八雲町にある「八雲スポーツ公園」陸上競技場にいた。
『第30回記念やくもミルクロードレース大会』の
ハーフマラソンを走るためである。
伊達から約1時間半、高速道路を運転してきた。
全く知らない土地の、全く知らないランニングコースで、
67歳にして初めてハーフマラソン(21、0975キロ)へ挑むのである。
4月に伊達を走れなかった。
5月、9000人の洞爺湖マラソンで10キロを走ったが、
消化不良だった。
いつかどこかで、八雲は北海道酪農発祥の地と聞いた気がしていた。
そこでミルクロードレース大会があると知った。
広々とした幾つもの牧場と牧草地に、
なだらかなアップダウンの道が続くコースとのふれ込みだった。
足もすっかり回復し、伊達ハーフマラソンのリベンジをと、
勇んでエントリーした。
伊達の大会に比べ、時間制限も緩やかだった。
参加者は10キロ走を加えても、500名にも満たなかった。
会場は、どこからとはなく牛の糞尿の臭いがし、
ゆったりとした時間が流れ、それぞれが思い思い準備をしていた。
まさにアットホームな雰囲気だった。
しかし、わざわざこの地で健脚を競おうとする強者揃い。
私が目指す2時間30分のゴールなど、
昨年の記録を見ると、後ろから3、4番目だった。
そんなことなど、お構いなし。
無駄に年令を重ねてきた訳ではない。
メンタルだけは、若干自信があった。
だから、前夜もよく眠れ、目ざめも快適たっだ。
なのに10時のスタートが近づくと、競技場のトイレに2回も向かった。
緊張と不安がそうさせた。
スタート10分前、私はランナー達の最後尾に陣取り、合図を待った。
突然、その場を離れ、荷物をまとめて帰りたい。
そんな思いに襲われた。
例え、実際にそうしたところで、誰からも咎めを受けることはない。
年寄りの笑い話の一つになるだけ。
この先々のランニング、経験のない、想像の難しい不安が、
この年令にしても、そんな思いに導いたのだろうか。
その時、私の思いとは無関係に、スタートの合図が響いた。
一斉に動き出した500人の群れにつられ、私もスタートを切った。
競技場を一周半して、一般道へ。
老若男女の走り慣れた軽快な足取り。
不安など忘れ、私は、夢中でその流れにのって走った。
わがままを言って、買ったGPS機能付きのランナー用腕時計を見た。
1キロのラップは、経験のない速さだった。
しかし、中々その速さから抜けられず、2キロ3キロと進み、
ようやく自分のぺースで走れるようになった。
その時は、すでに周りにランナーの賑わいはなく、
一人きりでのランニングになっていた。
沿道に人はなく、牛が草を食む牧場にそった道が続いた。
若干心配だったが、二日前から完全休養と称して、
ジョギングも散歩もしなかった。
功を奏したようで、思いのほか足が軽かった。
走り出しのハイペースも、影響はなく、淡々と足を運んだ。
10キロを通過するとき、大会スタッフから
「いいペースですよ。キロ6秒の前半です。」
の声が飛んだ。
勇気が湧いた。
私には、15キロより長距離の経験がなかった。
その未知の走りにさしかかる寸前のことだった。
丁度タイミングよく、沿道の農家さん宅からご主人が、
作業服にくわえ煙草で、コース脇まで出てきた。
一人で走りる私を見て、
「なんだ! 同世代か?」と、声を掛けてくれた。
私は、荒い息で上下する肩のまま、
「ロクジューナナ!!」と叫び、通り過ぎた。
「よう! 同じ年だ。 頑張れ。」
力強い声に、気力が蘇った。
未知の距離に、私を向かわせてくれた。
冷静さだけは忘れず、
給水ポイントでは必ず立ち止まり、
水を飲み、頭から水をかぶった。
ついに、後2キロまで来た時だった。
急に心が弱った。
「もう歩いてもゴールできる。」
そう思うと同時に、突然足が重くなり、動きが鈍った。
それまでとは全く違う体になった。歩きたいと思った。
その時、突然、時折見ていたテレビ番組『ランスマ』の
一場面を思い出した。
双子のタレント・ザたっちが10キロ走に挑戦した。
途中で歩きたくなったその時、
「ここで歩いたら、ここまで走ってきた自分に失礼だ。」
静かに呟くシーンがあった。
物凄いペースダウンだった。
でも、絶対に歩いたりしないと自分に誓った。
そして、間もなく残り1キロ付近の曲がり角までたどり着いた。
数人の地元の方が、しきりに声援をおくっていた。
その中の女性が、出場者名の入った大会プログラムを見ながら、
胸のゼッケン番号と照らし合わせ、
通過するランナーの名前を言って応援していた。
通り過ぎる私にも、「塚原さん、頑張って。」の声が届いた。
思いもしない素敵なプレゼントだった。
笑顔になれた。
不思議なことに、足が軽くなった。
最後の1キロは、忘れていた走りが戻った。
ゴールして、タイムを見た。
2時間18分15秒、目標タイムより随分速かった。
ゴール脇で家内が迎えてくれた。
コースからそれ、芝生に腰を下ろした。
「楽しかった。」思わず口をついた。
そして、「また走りたい。」とも。
汗と一緒に、家内が渡してくれたタオルで目頭もぬぐった。
67歳の初夏、私は、まだチャレンジャーでいる。
ジャガイモ畑は 満開
続けていたスロージョギングの道と、5キロのコースが重なっていた。
単に、そこに心が動かされ、参加した。
その会場で、10キロを走り、ゴールした視覚障害の方と伴走のランナーを見た。
二人の晴れやかな後ろ姿がまぶしく、感動で体が震えた。
伴走者にはなれないが、せめて同じ10キロのコースを一緒に走りたいと思った。
それから1年、『勝手にチャレンジャー』(昨年8月17日ブログ掲載)と称して、
それまでより、少し熱を入れてジョギングを続けた。
そして、昨年4月、右手の異常には気づいていたが、
10キロにエントリーした。
当日、どういう訳か、視覚障害の方と伴走者の姿はなかった。
それでも沢山のランナーと同じ方向をむいて走った。
それはそれで楽しかった。
無事、完走したとき、思わず笑顔がこぼれた。
喜びもつかの間、数日後、右手の手術をした。
激痛で、深夜に目ざめ、眠れない日が続いた。
1か月後、医師からジョギングだけは許された。
長距離運転も、キーボードを打つことも、大好きなゴルフも
「悪化するから」と、禁じられた。
痛みと痺れと麻痺の右手をかばいながら、
そんなことを忘れようと、ジョギングに汗を流し、うっぷん晴らしをした。
ゆっくりと視界に飛び込んでくる、木々が教える季節もよう、
頬に触れる柔らかな風の香り、
そして、穏やかで公平な、その時々の降りそそぐ日射しに包まれながら、
私は、ただ自分のリズムで走り続けた。
次第次第ではあったが、走ることを通して、
増していく喜びを感じていた。
いっこうに回復の兆しのない右手だったが、
ジョギングは、そんな苦痛を十分に癒やしてくれた。
だから、私のジョギングはそれで満足だった。
ところが、今年2月、
『春一番・第28回伊達ハーフマラソン』の案内が舞い込んだ。
どうして5キロでも10キロでもなく、
ハーフマラソンにエントリーする気になったのか、その動機は定かでない。
しかし、無茶な決断だった。
この大会のハーフマラソンには、2時間30分の制限時間があった。
しかも、コースには3つの関門があり、それぞれに制限時間が設定され、
クリアできないランナーは、即刻レースを止められてしまうのであった。
日に日に不安が増した。
経験のない長距離と同時に速さが求めらた。
幸い伊達市内のコースである。
せめて第一関門まででもと、2月末雪の解けた無風の日を選んで試走した。
あくまでも、私の走力でハーフマラソンの距離を完走することを
想定しての速さで走った。
結果は、5分遅れの通過だった。
次の日から、ややジョギングのスピードアップを心がけた。
その上、距離も少しずつ延ばすことにした。
思いのほか順調に走ることができた。
調子にのって、日記には「勝手に限界など決めるな。」なんて記した。
ところが、大会まで1か月余りの日だった。
雪解け道を、いつもより長い距離を走っていた後半だった。
左足のふくらはぎを激痛が襲った。
肉離れだった。
私は焦った。
伸びてきた走力を後退させたくはなかった。
せめて、痛みが消える日まではと、
朝の散歩を、足を引きずりながら強行した。
それが、さらに腰を痛めることになった。
大会2週間前には、歩くことさえままならなくなった。
不運を嘆いた。
大会出場を諦めた。
大会当日、4000人のランナーのスタートと、
5キロ、10キロに続いて、
ハーフマラソンのランナーが次々とゴールする姿を見た。
その一人になれなかったことに、強く唇を噛んだ。
毎日通い、親しくなった整骨院の若い先生の
「年令を考えて。」「無理をせず。」など、
どこかに置き忘れてしまいたかった。
それから2ヶ月が過ぎた。
6月14日(日)午前9時、私は、
道南・八雲町にある「八雲スポーツ公園」陸上競技場にいた。
『第30回記念やくもミルクロードレース大会』の
ハーフマラソンを走るためである。
伊達から約1時間半、高速道路を運転してきた。
全く知らない土地の、全く知らないランニングコースで、
67歳にして初めてハーフマラソン(21、0975キロ)へ挑むのである。
4月に伊達を走れなかった。
5月、9000人の洞爺湖マラソンで10キロを走ったが、
消化不良だった。
いつかどこかで、八雲は北海道酪農発祥の地と聞いた気がしていた。
そこでミルクロードレース大会があると知った。
広々とした幾つもの牧場と牧草地に、
なだらかなアップダウンの道が続くコースとのふれ込みだった。
足もすっかり回復し、伊達ハーフマラソンのリベンジをと、
勇んでエントリーした。
伊達の大会に比べ、時間制限も緩やかだった。
参加者は10キロ走を加えても、500名にも満たなかった。
会場は、どこからとはなく牛の糞尿の臭いがし、
ゆったりとした時間が流れ、それぞれが思い思い準備をしていた。
まさにアットホームな雰囲気だった。
しかし、わざわざこの地で健脚を競おうとする強者揃い。
私が目指す2時間30分のゴールなど、
昨年の記録を見ると、後ろから3、4番目だった。
そんなことなど、お構いなし。
無駄に年令を重ねてきた訳ではない。
メンタルだけは、若干自信があった。
だから、前夜もよく眠れ、目ざめも快適たっだ。
なのに10時のスタートが近づくと、競技場のトイレに2回も向かった。
緊張と不安がそうさせた。
スタート10分前、私はランナー達の最後尾に陣取り、合図を待った。
突然、その場を離れ、荷物をまとめて帰りたい。
そんな思いに襲われた。
例え、実際にそうしたところで、誰からも咎めを受けることはない。
年寄りの笑い話の一つになるだけ。
この先々のランニング、経験のない、想像の難しい不安が、
この年令にしても、そんな思いに導いたのだろうか。
その時、私の思いとは無関係に、スタートの合図が響いた。
一斉に動き出した500人の群れにつられ、私もスタートを切った。
競技場を一周半して、一般道へ。
老若男女の走り慣れた軽快な足取り。
不安など忘れ、私は、夢中でその流れにのって走った。
わがままを言って、買ったGPS機能付きのランナー用腕時計を見た。
1キロのラップは、経験のない速さだった。
しかし、中々その速さから抜けられず、2キロ3キロと進み、
ようやく自分のぺースで走れるようになった。
その時は、すでに周りにランナーの賑わいはなく、
一人きりでのランニングになっていた。
沿道に人はなく、牛が草を食む牧場にそった道が続いた。
若干心配だったが、二日前から完全休養と称して、
ジョギングも散歩もしなかった。
功を奏したようで、思いのほか足が軽かった。
走り出しのハイペースも、影響はなく、淡々と足を運んだ。
10キロを通過するとき、大会スタッフから
「いいペースですよ。キロ6秒の前半です。」
の声が飛んだ。
勇気が湧いた。
私には、15キロより長距離の経験がなかった。
その未知の走りにさしかかる寸前のことだった。
丁度タイミングよく、沿道の農家さん宅からご主人が、
作業服にくわえ煙草で、コース脇まで出てきた。
一人で走りる私を見て、
「なんだ! 同世代か?」と、声を掛けてくれた。
私は、荒い息で上下する肩のまま、
「ロクジューナナ!!」と叫び、通り過ぎた。
「よう! 同じ年だ。 頑張れ。」
力強い声に、気力が蘇った。
未知の距離に、私を向かわせてくれた。
冷静さだけは忘れず、
給水ポイントでは必ず立ち止まり、
水を飲み、頭から水をかぶった。
ついに、後2キロまで来た時だった。
急に心が弱った。
「もう歩いてもゴールできる。」
そう思うと同時に、突然足が重くなり、動きが鈍った。
それまでとは全く違う体になった。歩きたいと思った。
その時、突然、時折見ていたテレビ番組『ランスマ』の
一場面を思い出した。
双子のタレント・ザたっちが10キロ走に挑戦した。
途中で歩きたくなったその時、
「ここで歩いたら、ここまで走ってきた自分に失礼だ。」
静かに呟くシーンがあった。
物凄いペースダウンだった。
でも、絶対に歩いたりしないと自分に誓った。
そして、間もなく残り1キロ付近の曲がり角までたどり着いた。
数人の地元の方が、しきりに声援をおくっていた。
その中の女性が、出場者名の入った大会プログラムを見ながら、
胸のゼッケン番号と照らし合わせ、
通過するランナーの名前を言って応援していた。
通り過ぎる私にも、「塚原さん、頑張って。」の声が届いた。
思いもしない素敵なプレゼントだった。
笑顔になれた。
不思議なことに、足が軽くなった。
最後の1キロは、忘れていた走りが戻った。
ゴールして、タイムを見た。
2時間18分15秒、目標タイムより随分速かった。
ゴール脇で家内が迎えてくれた。
コースからそれ、芝生に腰を下ろした。
「楽しかった。」思わず口をついた。
そして、「また走りたい。」とも。
汗と一緒に、家内が渡してくれたタオルで目頭もぬぐった。
67歳の初夏、私は、まだチャレンジャーでいる。
ジャガイモ畑は 満開