ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

67 歳 の 初 夏

2015-06-26 22:14:23 | ジョギング
 一昨年の春、雪解けを待って『春一番・伊達ハーフマラソン』の5キロを走った。
続けていたスロージョギングの道と、5キロのコースが重なっていた。
 単に、そこに心が動かされ、参加した。

 その会場で、10キロを走り、ゴールした視覚障害の方と伴走のランナーを見た。
二人の晴れやかな後ろ姿がまぶしく、感動で体が震えた。
 伴走者にはなれないが、せめて同じ10キロのコースを一緒に走りたいと思った。

 それから1年、『勝手にチャレンジャー』(昨年8月17日ブログ掲載)と称して、
それまでより、少し熱を入れてジョギングを続けた。

 そして、昨年4月、右手の異常には気づいていたが、
10キロにエントリーした。
 当日、どういう訳か、視覚障害の方と伴走者の姿はなかった。
 それでも沢山のランナーと同じ方向をむいて走った。
それはそれで楽しかった。
 無事、完走したとき、思わず笑顔がこぼれた。

 喜びもつかの間、数日後、右手の手術をした。
激痛で、深夜に目ざめ、眠れない日が続いた。
 1か月後、医師からジョギングだけは許された。
長距離運転も、キーボードを打つことも、大好きなゴルフも
「悪化するから」と、禁じられた。

 痛みと痺れと麻痺の右手をかばいながら、
そんなことを忘れようと、ジョギングに汗を流し、うっぷん晴らしをした。

 ゆっくりと視界に飛び込んでくる、木々が教える季節もよう、
頬に触れる柔らかな風の香り、
そして、穏やかで公平な、その時々の降りそそぐ日射しに包まれながら、
私は、ただ自分のリズムで走り続けた。
 次第次第ではあったが、走ることを通して、
増していく喜びを感じていた。
 いっこうに回復の兆しのない右手だったが、
ジョギングは、そんな苦痛を十分に癒やしてくれた。

 だから、私のジョギングはそれで満足だった。
ところが、今年2月、
『春一番・第28回伊達ハーフマラソン』の案内が舞い込んだ。

 どうして5キロでも10キロでもなく、
ハーフマラソンにエントリーする気になったのか、その動機は定かでない。
 しかし、無茶な決断だった。
この大会のハーフマラソンには、2時間30分の制限時間があった。
しかも、コースには3つの関門があり、それぞれに制限時間が設定され、
クリアできないランナーは、即刻レースを止められてしまうのであった。

 日に日に不安が増した。
経験のない長距離と同時に速さが求めらた。

 幸い伊達市内のコースである。
 せめて第一関門まででもと、2月末雪の解けた無風の日を選んで試走した。
あくまでも、私の走力でハーフマラソンの距離を完走することを
想定しての速さで走った。
 結果は、5分遅れの通過だった。

 次の日から、ややジョギングのスピードアップを心がけた。
その上、距離も少しずつ延ばすことにした。
 思いのほか順調に走ることができた。
調子にのって、日記には「勝手に限界など決めるな。」なんて記した。

 ところが、大会まで1か月余りの日だった。
雪解け道を、いつもより長い距離を走っていた後半だった。
左足のふくらはぎを激痛が襲った。
肉離れだった。

 私は焦った。
伸びてきた走力を後退させたくはなかった。
せめて、痛みが消える日まではと、
朝の散歩を、足を引きずりながら強行した。
 それが、さらに腰を痛めることになった。
大会2週間前には、歩くことさえままならなくなった。
不運を嘆いた。
大会出場を諦めた。

 大会当日、4000人のランナーのスタートと、
5キロ、10キロに続いて、
ハーフマラソンのランナーが次々とゴールする姿を見た。
 その一人になれなかったことに、強く唇を噛んだ。

 毎日通い、親しくなった整骨院の若い先生の
「年令を考えて。」「無理をせず。」など、
どこかに置き忘れてしまいたかった。

 それから2ヶ月が過ぎた。
6月14日(日)午前9時、私は、
道南・八雲町にある「八雲スポーツ公園」陸上競技場にいた。

 『第30回記念やくもミルクロードレース大会』の
ハーフマラソンを走るためである。

 伊達から約1時間半、高速道路を運転してきた。
 全く知らない土地の、全く知らないランニングコースで、
67歳にして初めてハーフマラソン(21、0975キロ)へ挑むのである。

 4月に伊達を走れなかった。
5月、9000人の洞爺湖マラソンで10キロを走ったが、
消化不良だった。

 いつかどこかで、八雲は北海道酪農発祥の地と聞いた気がしていた。
そこでミルクロードレース大会があると知った。
 広々とした幾つもの牧場と牧草地に、
なだらかなアップダウンの道が続くコースとのふれ込みだった。

 足もすっかり回復し、伊達ハーフマラソンのリベンジをと、
勇んでエントリーした。
 伊達の大会に比べ、時間制限も緩やかだった。

 参加者は10キロ走を加えても、500名にも満たなかった。
会場は、どこからとはなく牛の糞尿の臭いがし、
ゆったりとした時間が流れ、それぞれが思い思い準備をしていた。
 まさにアットホームな雰囲気だった。

 しかし、わざわざこの地で健脚を競おうとする強者揃い。
 私が目指す2時間30分のゴールなど、
昨年の記録を見ると、後ろから3、4番目だった。

 そんなことなど、お構いなし。
無駄に年令を重ねてきた訳ではない。
メンタルだけは、若干自信があった。
 だから、前夜もよく眠れ、目ざめも快適たっだ。

 なのに10時のスタートが近づくと、競技場のトイレに2回も向かった。
緊張と不安がそうさせた。
 スタート10分前、私はランナー達の最後尾に陣取り、合図を待った。

 突然、その場を離れ、荷物をまとめて帰りたい。
そんな思いに襲われた。
 例え、実際にそうしたところで、誰からも咎めを受けることはない。
年寄りの笑い話の一つになるだけ。
 この先々のランニング、経験のない、想像の難しい不安が、
この年令にしても、そんな思いに導いたのだろうか。

 その時、私の思いとは無関係に、スタートの合図が響いた。
一斉に動き出した500人の群れにつられ、私もスタートを切った。
競技場を一周半して、一般道へ。
老若男女の走り慣れた軽快な足取り。
不安など忘れ、私は、夢中でその流れにのって走った。

 わがままを言って、買ったGPS機能付きのランナー用腕時計を見た。
1キロのラップは、経験のない速さだった。
しかし、中々その速さから抜けられず、2キロ3キロと進み、
ようやく自分のぺースで走れるようになった。
 その時は、すでに周りにランナーの賑わいはなく、
一人きりでのランニングになっていた。

 沿道に人はなく、牛が草を食む牧場にそった道が続いた。
 若干心配だったが、二日前から完全休養と称して、
ジョギングも散歩もしなかった。
 功を奏したようで、思いのほか足が軽かった。
走り出しのハイペースも、影響はなく、淡々と足を運んだ。

 10キロを通過するとき、大会スタッフから
「いいペースですよ。キロ6秒の前半です。」
の声が飛んだ。
勇気が湧いた。

 私には、15キロより長距離の経験がなかった。
その未知の走りにさしかかる寸前のことだった。
 丁度タイミングよく、沿道の農家さん宅からご主人が、
作業服にくわえ煙草で、コース脇まで出てきた。

 一人で走りる私を見て、
「なんだ! 同世代か?」と、声を掛けてくれた。
 私は、荒い息で上下する肩のまま、
「ロクジューナナ!!」と叫び、通り過ぎた。
「よう! 同じ年だ。 頑張れ。」
 力強い声に、気力が蘇った。
未知の距離に、私を向かわせてくれた。

 冷静さだけは忘れず、
給水ポイントでは必ず立ち止まり、
水を飲み、頭から水をかぶった。

 ついに、後2キロまで来た時だった。
急に心が弱った。
 「もう歩いてもゴールできる。」
そう思うと同時に、突然足が重くなり、動きが鈍った。

 それまでとは全く違う体になった。歩きたいと思った。
その時、突然、時折見ていたテレビ番組『ランスマ』の
一場面を思い出した。
 双子のタレント・ザたっちが10キロ走に挑戦した。
途中で歩きたくなったその時、
「ここで歩いたら、ここまで走ってきた自分に失礼だ。」
静かに呟くシーンがあった。
 物凄いペースダウンだった。
でも、絶対に歩いたりしないと自分に誓った。

 そして、間もなく残り1キロ付近の曲がり角までたどり着いた。
数人の地元の方が、しきりに声援をおくっていた。
 その中の女性が、出場者名の入った大会プログラムを見ながら、
胸のゼッケン番号と照らし合わせ、
通過するランナーの名前を言って応援していた。

 通り過ぎる私にも、「塚原さん、頑張って。」の声が届いた。
思いもしない素敵なプレゼントだった。
笑顔になれた。
 不思議なことに、足が軽くなった。

 最後の1キロは、忘れていた走りが戻った。
ゴールして、タイムを見た。
2時間18分15秒、目標タイムより随分速かった。

 ゴール脇で家内が迎えてくれた。
コースからそれ、芝生に腰を下ろした。

「楽しかった。」思わず口をついた。
そして、「また走りたい。」とも。
 汗と一緒に、家内が渡してくれたタオルで目頭もぬぐった。

 67歳の初夏、私は、まだチャレンジャーでいる。

 


  ジャガイモ畑は 満開 
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大切にした教育活動は

2015-06-19 22:13:39 | 教育
 教頭になってすぐのことだった。

 学校の敷地脇にある大木が、
「日射しを遮り、秋には落ち葉で迷惑している。」
と、近隣の方から苦情が寄せられた。

 木一本とて区の財産なので、私は区の担当者と協議し、
その木を伐採することにした。
 ところが、その報告をした際、G校長先生からは思いもよらない回答があった。

 「学校の一つ一つの物には、それぞれに意味や役割がある。」
 「その木に大切な思い出や誓いをした子、励まされた子がいるかも。」
 「だから、単純に伐採を決めてはいけない。」

 私は、早速、近隣のお宅を訪ね、
日射しを遮っている数本の枝木の剪定を行い、
今後も定期的にそんな対応をさせてもらいたいとお話した。
 そして、校長先生から頂いた学校の一本一本の木への思いを、
ご説明させてもらった。

 「一本の木とはいえ、学校が大切にしている
想いがよくわかりました。」
 「学校って、素晴らしいですね。」
 そんなお返事があり、私は深く感動した。

 私は、G校長先生をはじめ4人の校長先生から
上記のようなご指導を数多く受け、
その後、12年間も校長職を務めることができた。
ただただ感謝の一語である。

 さて、私の校長としての歩みであるが、決して順風満帆ではなかった。
特に、着任1、2年目は都教委による様々な改革が行われ、
学校では、職員の強い抵抗を受けた。

 そんな中でも、徐々に徐々にではあったが、
私の思いが先生達に伝わり、校長らしい仕事ができるようになった。

 当初は紙くずのようにしか扱われなかった学校経営方針も、
いつ頃からか、ベテランの先生がマーカーでラインを入れながら
読み返してくれた。
 そして、若手教員の指導にくり返し活用する姿があった。

 校長職を通して、大切にした学校経営(教育活動)の骨子を記す。


    *  *  *  *  *  *


 1 学校が目指すもの

 これからの時代を生きていくには、
社会のどんな変化に対しても常に夢や希望をもち、
そして元気で強靱な心と体が必要になる。

 そのために、自分で問題を解決する力や
自らを律しつつ他者を思いやる心、
たくましく生きるための健康・体力などを備える必要がある。

 特に、自ら学び自ら考える力を培うため、
基礎・基本の確実な定着を図ることによって築かれる「確かな学力」と、
時代の変化にたくましく・しなやかに対応する「豊かな心」を、
全ての子が身に付けること。
 そのことが、強く求められる。

 従って、次のことを念頭におきながら、教育実践にあたることが重要である。
 ①どんな時代でも、力強く生き抜く意欲ある人間を育てること
 ②時代のニーズに応じた創意工夫のある教育活動を展開すること
 ③全教育活動を通し、意図的に有効性のある心の教育を推進すること
 ④家庭や地域に分かりやすい情報を伝え、連携した教育をすること

 
 2 教育への基本姿勢

 ① 人は誰でも、自分を限りなく理解し、
愛情をもって見守り続けてくれる存在(人)を求めている。
 そして、その存在から認められ、励まされることを通して、
自分の持っている力を発揮し、自ら生きるべき道を定め、
その道を力強く歩み続けることができるのである。
 だから「教育は児童理解に始まり、児童理解に終わる」のである。
このことを不動の教育理念とし、全ての教育活動を展開する。

 ② 学校における全ての危機管理は、
事件・事故の発生後における的確な対応(クライシスマネージメント)ではなく、
事件・事故を発生させない取り組み(リスクマネージメント)が、本来の姿である。
そのことを常に念頭におきながら、あらゆる指導にあたる。
 発生後に費やすエネルギーより、
日常のリスクマネージメントこそが安心・安全への近道であり、効率的なのである。


 3 重視したい教育活動

 ① 基礎・基本の習得と表現力を伸ばす授業作り

 授業を大切にし、基礎的基本的な知識・技能等を
どの子にも確実に身に付けさせることは、学校の使命である。
 そのため教師には、教材研修を徹底し、自分の授業を振り返り、
そして児童の実態に応じた授業を実践することが求められる。

 子どもは、「わかった。」「できた。」「うまくなった。」
といった実感をもった時、
意欲が高揚し、自らの力で今まで以上に進んで学習に取り組むのである。
 その営みを通して、基礎・基本の習得が図られると言える。

 また、授業のあらゆる機会を通して表現力を伸ばすことは、
思考力や判断力の伸長に直結している。
 言語表現、文字表現にとどまらず、
音楽、造形、身体等全ての表現活動を視野に入れ、
意図的に、それを伸ばす活動を授業に取り入れると共に、
意欲付けと環境作りを行うことが大切である。

 そのために
 ・教室の移動等は休憩時間に行い、始業と終業を守り
  1単位時間45分をしっかりと確保し、授業を進める。

 ・指導と評価の一体化を図りながら、年間を見通した学習指導を行う。
  併せて、各週毎の確かな計画を立て、意図的、計画的で効率的な指導を行う。

 ・放課後の時間を有効活用し、個に応じた指導を行うと共に、
  学習相談や個別指導を積極的に行う。


 ② 基本的な生活習慣の定着と明るい学級作り

 良好な社会性や、学校生活における円滑な友達関係の基盤として、
基本的な生活習慣の定着を重視し、
発達段階を配慮しつつも、どの子にもしっかりと指導する。

 また、教師は「子どもを見る目」を鍛え、
子どものあるがままを捉え、理解することに努め、
その子の個性や能力に応じた指導を進める。

 そして、親和的で明るい雰囲気の学級集団作りに努め、
子ども同士が互いのよさや特性を認め合えるよう、
常に意図的に指導の工夫を行う。

 そのために
 ・教師の「子どもを見る目」を通して、その子のよさや可能性を
  最大限に引き出し伸ばすようにする。

 ・基本的な生活習慣を次の6つにしぼり、どの子にもその定着を図る。
   話を静かに聞く
   指示を受け止め行動する
   明るくあいさつをする
   正しい言葉遣いをする
   進んで掃除をする
   自分のことは自分でする

 ・褒めて、認めて、励ます指導と共に、生活習慣に対する
  自己評価と相互評価を取り入れる。

 ・子どもと教師、子ども同士の信頼関係を密にし、
  思いやりと協力を大切にした指導を進める。


 ③ 自分に自信が持てる子に育てる

 「自分に自信が持てるようになること」や
「自分の思いや気持ちを大切にすること」が、
自己肯定感や自尊感情の第一歩である。

 従って、「自分が友達や先生の役に立っている。」と言った有用感や、
「自分はみんなから認められている。」と言った安心感(安定感)、
「自分もやればできる。」と言った満足感(充実感)を
実感できる教育が重要である。
 子どもはそれを実感できた時、生き生きと進んで行動し、
自分への自信や、自分を大切にする気持ちが芽生えるのである。

 そのために
  ・どの子にも、授業や生活のどこかで
   活躍できる場や機会を設ける。

  ・何事にも好奇心旺盛な子どもの育成をめざし、
   最後までやり通す態度や能力を育てる。

  ・学校の様々な場面を通して、
   学び合うことの楽しさや大切さを体感させる。



 ☆ 結びとして『私がめざした学校・4』

    その1 誰もが喜んで来る学校
    その2 安心して子どもを任せられる学校
    その3 学習効果を上げる学校
    その4 明るさと活気のある学校 





オオウバユリの蕾が膨らむ <水車アヤメ川公園にて> 
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夏祭りの日に

2015-06-12 22:57:42 | 感謝
 家族5人の暮らしを、ようやく支えている、
そんな細々とした商売だった。
 それでも、夏祭りの日は、
お刺身をはじめ、お届け物の注文が相次いだ。
 その日だけは家族総出で、それに応じた。
私も、嫌々だったが手伝った。
いつ終わるか分からないので、
友達と一緒に祭りにくり出す約束はできなかった。

 仕事のめどがつき始めると、
父は毎年、「お祭りだから。」と称して、
大好きなお酒を口にした。
 そして、いい加減酔いが回ってきた夕方すぎ、
慌ただしかった一日にめどがつく。
 後始末が全て終わる頃、父はすでに酔いつぶれ、
狭い家の一番奥で寝てしまった。
 いつもの年のことだった。

 すでに要領を心得ている兄姉は、
いつの間にか祭りの賑わいへとくり出した。
 誰とも約束のない私は、
毎年のように夜店の灯りが続く縁日の道を、
あてどなく一人でぶらついた。
そして、例年通り「だから、祭りは嫌い。」
と、不機嫌になるのだった。

 中学生の時、事件が起きた。

 夜店見物に一人ブラブラし、
面白味のない祭りに、例年通り沈んだ気分で帰宅した。
 玄関の引き戸を開け、一歩家に踏み入った瞬間、
いつもと違う気配を感じた。

 二間きりの奥で、今まさに酔いつぶれていたはずの父が、
立ち上がり、母に殴りかかろうとしていた。

 母は、何やら声を上げ、
汗ばんだ額に、乱れた前髪がはりついた顔で、
父の拳を両手で防ごうとしていた。

 私は、後ろから父に体当たりをした。
父はよろめき、片膝をついた。
 「この人ったら、急に私にむかってきて。」
と、母の息は荒れていた。
 目の横が、赤く腫れていた。

 私は、悲しみがこみ上げ、家を飛び出した。
再び祭りの灯りに向かった。
 祭りは嫌いなのに、さらに嫌いになった。
 両親がいがみ合い、争う場面を初めて見た。
父に、体ごとぶつけた時の、
妙に不甲斐ない、ひ弱な感触がいつまでも残った。
 人混みと祭り囃子が、辛さを際立たせた。

 やがて、祭りの賑わいが消え、夜店の明るさも落ちた。
それでも私は、いつまでもその場にいた。
 静けさを取り戻し、
しっとりと漂う夜霧に包まれた祭りの後に、
私は、朝まででも留まっていたかった。

 翌日、決まった時間に家族5人で朝食を囲んだ。
誰も、母の顔の青あざを話題にしなかった。
 いつもの朝と変わらない時間が流れ、
それぞれが朝の支度をし、出かけていった。
 私も母が作った弁当をカバンに納め、学校に向かった。

 片道20分程度の通学路では、何人もの同級生と一緒になった。
私は、明らかに昨日までとは違っていた。

 いつもより早い目覚めから、
父が殴りかかろうした場面と、
それにおびえ取り乱した母の表情が、目の前にあった。
 目を閉じても、目を開けても消えないそのシーンが、
くり返しくり返し迫った。

 学校までの道々でも、教室で机に向かっていても、
どこにいても、いつでも、私の隙間からその映像は入ってきた。
 先生の言葉も、友人の声も、全てが私には届いていなかった。

 母のあの時の表情が浮かぶと、
それだけで息をするのさえ苦しくなった。
悲しみがこみ上げた。

 酒好きだが、穏やかで知的な父の
あの荒々しさが信じられなかった。

 そして、突然、父を突き飛ばした自分自身も許せなかった。

 知らなかった父と母の激しい姿と、私の無謀さ。
その日以来、私は生活の全てのリズムを失った。

 友人からの声かけに、気づこうとしなかった。
 先生たちからの視線も、感じようとしなかった。
 きっと心配げに見ていたであろう両親や
兄姉の態度も、知らずにいた。

 時だけが、流れた。
ただくり返しくり返し祭りの夜、あのシーンが蘇った。
 その度に、私は深いため息と共に、
得たいの知れない消沈の底を彷徨った。

 もう誰も信じられなくなっていた。
自分も信じられなかった。
一人ぼっちだと思った。
せつなさだけがこみ上げた。

 何日が過ぎた頃だろうか。
放課後のことだった。
担任のM先生から呼び出された。
 「職員室で先生が呼んでいる。」と、級友が告げた。

 用件に心当たりがないまま、
慣れない職員室のドアを叩いた。
 M先生は、私の肩を抱えるようにして、
職員室の片隅につれていった。
 二人で向きあうと、先生は穏やかな表情で私の目を見た。
「どうした。元気ないぞ。」「先生に、話してみないか。」
と、言った。

 あのシーンが浮かんだ。
涙がこみ上げてきた。私は、それを必死にこらえた。

 大切な父と母のことである。その両親のいさかいを、
言葉にすることなど、私には無理だった。
 両親を辱めることなど、決してできないと思った。

 私は、先生から目をそらし、
「何もありません。」と、小さくうつむいた。
 「そうか。そうならいいんだ。」「元気、出しなよ。」
と、先生は私の両肩を、力強く握ってくれた。

 「はい。」と少し湿った声でうなずき、
私は、深々と頭を下げて職員室を出た。

 嬉しかった。
急に廊下の床がにじんだ。
何粒もの涙のしみが、廊下にできた。

 一人ぼっちじゃないと思えた。
冷えていた心が、温かくなっていった。
 ちゃんと見てくれている人がいた。
それだけで、勇気が湧いた。心強かった。
 前を向こう。顔を上げて歩こうと思った。
 両親を大切に思っている本当の自分を、みつけることもできた。

 恩師・M先生からは、たくさんの教えを頂いた。
 その一つが、夏祭りの日のことだ。




散歩道のわき 『ルピナス』がきれい! 
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北の温もり  春光

2015-06-04 21:13:37 | 出会い
 右腕の手術から1年が経過した。
 久しぶりに診察を受けた手術医は、
「神経の病気は治るのに時間がかかるから。」
「少しずつ回復していますよ。」
「気長に頑張って下さい。」
と、相も変わらぬ言葉をくり返した。
 「何を根拠に、そうおっしゃるのですか?」
の言葉を飲み込みながら、
「まだまだかかるんですね。」
と、いつも通り診察室を後にした。

 若い頃から、『牛歩の如くに』という言葉が、何故か気に入っていた。
多感な時代、思うようにならない想いや願いに対して、
「それでも、前へ進んでいる」
と、自分を励まし、支えた言葉だった。

 昨年の冬、突然みまわれた右手の機能障害と感覚麻痺、
そして、術後の痛みと痺れ。
 遅々として回復の兆しさえない右手へのいら立ちに、
久しぶりに『牛歩の如くに』の言葉が蘇り、私の心を鎮めてくれた。
そして、きっと全快する日がくると信じさせてもくれた。

 そして、この右手を癒やしてくれている、もう一つ、
それが温泉である。
 月1、2回は、日帰り温泉に、家内を誘う。
お気に入りは、近隣の町が運営している海辺の温泉施設である。

 何といっても、この辺りの日帰り温泉の中では、
断トツに浴室が広い。
 その上、前面を大きなガラスで区切られた湯舟からは、、
その先の噴火湾が、大きく一望できた。
 海面がキラキラとまばゆくゆらめき、その広大な輝きだけでも、
沈みかける私の心を十分に慰めてくれる。

 その上、温泉は神経痛に効果がある。
私はそんな適応書きだけではなく、
この1年間の経験で、心からその効能を信じるようになっていた。

 だから、しばしば大仰に、
明るい日射しを浴びた湯舟に、どっぷりと浸かりながら、
「温泉こそ、この右手への癒やしのオアシス。」
なんて、一人呟いたりもしていた。

 それに加え、温泉は、いばしば私を温めてくれる物語に、
遭遇させるくれる場でもあった。

 3度目の冬を越えようとしていた頃だ。
今までに比べ過ごしやすい冬だった。
 それでも、待ち望んでいた
『光の春』の言葉に、相応しい日射しの日だった。

 潮騒が聞こえる温泉の駐車場に、
隣り町にある老人施設の、大型バスが止めてあった。
 「施設のお年寄りが入浴に来ているのかな。」と思った。

 私は、いつものようにバスタオル等入った袋をぶらさげ、
家内とは、湯上がりの時間を約束し、脱衣室に入った。
 いつになく賑やかな声が飛び交っていた。
私は、そんな声を横切り、脱衣ロッカーに向かった。

 何人もの老人の湯上がり姿があった。
そして、年若い介護士がそのそばにいた。
 賑やかな会話は、その介護士に向けられ、
「明日は、確かゲーム大会だったね。」
「いや、それは明後日でしょう。」
「そうか、そうか。そうだった。間違えた。楽しみだなぁ。」
と、次に笑い声が続き、
また、似たような言葉がくり返され、
若い介護士がそれに応じ、再び笑い声が続いた。

 一つ一つの言葉が、やけに明るく響いていた。
広くて明るい温泉に入り、気分爽快なことが、
飛び交う会話から感じ取れた。
 現職の頃、宿泊学習での子供たちの入浴場面を思い出した。
友達みんなと入るお風呂の、
嬉しさに溢れた甲高い話し声に、それは似ていた。

 浴室に入ると、2、3人のお年寄りごとに、
これまた介護の若者がついていた。
 思い思いゆったりと湯舟に体を沈めていた。
まさに至福の時といった感じだった。

 久しぶりの温泉を楽しむ。
そんな光景がそこにもここにもあった。
 ゆっくりと流れる湯煙の中で、
年老いた体が、温もりに満たされていた。
 いつにも増して、穏やかな温かさが、
浴室いっぱいに広がり漂っていた。

 私は、そんな湯舟の一角で、体と右手を温めながら、
経験のない安らぎのお裾分けを、頂いた想いに包まれた。
 何度も何度もゆったりと深呼吸をした。
心の奥深くまで、潤いが運ばれた。

 湯上がり後、休憩室でいつも通り、
汗を拭いながら、ソフトクリームをほおばった。、
 そこでも、湯上がりの上気した顔で、
廊下を行き交う老いた女性たちを見た。
 腕を支えて貰いながらの人、
後ろから見守られながらも、一人で一歩一歩と進む人と、
それぞれだったが、
かけ合う声は、みんな明るく華やいでいた。
 嬉しさのあふれた、精一杯の声と手振り、身振りには活気があった。
 
 帰り道、ハンドルを握りながら、
いつになく気持ちの軽やかさを覚えた。
 老人施設での暮らしを離れ、
日帰り温泉での一日が、あんなにも楽しい時間にしている。

 そんなお年寄りを間近で見ることができた。
偶然だったが、「ご一緒できてよかった。」
 温泉の温もりに加え、それにも劣らない温かさに触れた。

 沈みかけた私の心に、南風にのった春が訪れた。
 『光の春』に相応しい贈り物だった。




アヤメが満開のときを迎えた(水車アヤメ川公園にて)
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