ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

学校の 事件簿 <1>

2017-07-29 19:47:06 | 教育
 教職の終着として校長になったものの、
度重なる校内事故・事件により、
定年を前に、学校を去った先輩・同僚を何人も見た。

 学校は、子ども達と教職員が共に生活し、
学習活動をする場である。
 どんなに注意をはらっても、
起こってしまう事件・事故が、必ずあると言っていい。

 なのに、私は、大きな学校事故に遭うことがなかった。
ただただ、幸運に感謝している。

 とは言っても、時には頭を痛めたり、
心臓のドキドキがなかなか止まらなかったり、
後々笑い話になったりする出来事は、数多くあった。

 その中から、もう20年も前になるが、
教頭時代のいくつかを記す。

 ①
 まずは笑ってしまう話から。

 北海道の多くの小学校は、今月25日で1学期が終わった。
その日、テレビニュースで、
札幌の小学校での終業式とその後の教室での様子が、
放映されていた。

 若干のなつかしさと共に、
教頭1年目に経験した、同様のシーンを思い出した。

 私の勤務校に、教育委員会を通して、
テレビ取材の依頼があった。
 2学期の終業式と通知表を渡す教室の場面を、
テレビニュースにしたいと言うことだった。
 特別の準備も必要なかったので、その取材を受け入れた。

 東京都内の小中学校が、一斉に冬休みに入る前日の朝、
学校には、テレビ局数社のカメラとスタッフの姿があった。

 テレビカメラを前にして、
子ども達も教職員も、いつもよりやや緊張気味の終業式になった。
 その後、2年生の教室で、
冬休み中の指導と、通知表を渡す場面がカメラに収められる。

 帰り際、テレビ局のスタッフに尋ねると、
一番早い時間にこのニュースが流れるのは、
午前11時半頃だと言う。

 その時間は、ちょうど子ども達が下校している真っ最中になる。
急きょ、時間を遅らせ、そのニュースを教室で見てから、
下校することにした。

 11時半が近づき、全学年の教室で、
子ども達が一斉にテレビに注目した。
 私も、職員室のテレビをつけ、
今か今かとそのニュースの始まりを待った。

 その時だ。
目の前の電話が鳴った。
 急いで受話器を取った。

 なんと、テレビ局からだった。
申し訳なさそうな、弱々しい声だった。

 「実は、30分程前に、首都高速でトラックと乗用車による、
大きな交通事故がありまして、
そのニュースを取り上げることになりました。
 そのため、今朝、伺った終業式については、
カットすることになりまして・・・。
どうも、すみません。」

 「子ども達が、今か今かと待ってます。
何とかなりませんか。」
 まさか、そうは言えなかった。

「ご連絡、ありがとうございました。」
重たい気持ちで、私は受話器を置いた。

 そして、その旨を校長先生に伝えるや否や、
校内放送のマイクを握った。

 「連絡します。ただ今、テレビ局から連絡がありました。
首都高速で大きな交通事故があり、
この時間のニュースでは、終業式の様子は取り上げないそうです。
残念ですが、準備ができた学級から下校してください。」
 子ども達の落胆の声が、職員室まで聞こえてきた。

 その日、テレビ各局は、
終日、交通事故のニュースを取り上げた。
 終業式の様子は流れることがなかった。
まさに『マボロシー!』だった。

 ②
 子ども達が下校した夕暮れ時だった。
確か、12月中旬だったと思う。
曇り空の寒い日だ。

 消防車のサイレンが、次第に近づいてくるのが気になった。
学校にはさほど近くない所で、
2,3台のサイレンが続いていた。

 「学区内の火災ではないだろうか。」
主事さんに、自転車で走ってもらった。
 しばらくして戻った主事さんからは、
学区から少し外れた空き地での、
ボヤ騒ぎだと報告があった。
 ホッとした。

 ところが、このボヤ騒ぎが、思わぬ展開をみせた。

 それから2,3日して、
突然、消防署の方が3名、校長を訪ねてきた。
 教頭の私も同席した。
署の方の話は、こうだ。

 ーーー 
 先日、学区はずれの空き地で、不審火があった。
乾燥注意報が出ており、その上若干風も強い日だった。
 もしも発見と通報が遅れていたら、
民家への延焼も考えられた。

 ところが、たまたまその空き地を通りがかった3年生A君が、
枯れ草が燃えていることに気づき、
近くの家に知らせたのだ。
 それで、大事にならずに済んだ。
 ーーー

 と言うわけで、消防署では、第一発見者のA君に、
感謝状を贈ろうと計画しているとのことだった。

 校長も私も明るい気持ちになった。
翌日には、A君を校長室に呼び、
担任と一緒に、その迅速な通報を褒めたたえた。
 A君は、若干はにかみながらも、嬉しそうだった。

 そして、半月後だ。
消防署長から感謝状の贈呈を受ける日が迫っていた。
 贈呈式には、両親と共に、校長と担任が招かれていた。

 感謝状を頂いた翌日には、全校朝会を行い、
全児童でお祝いをしてあげようと計画もしていた。

 ところが、その前日の午後のことだ。
消防署から、私に電話連絡があった。

 A君への感謝状の贈呈は取りやめになったと言うのだ。
突然の展開に、私は言葉を失った。

 消防署は、あの時の不審火について調べを続けていた。
その結果、放火であることが分かった。
 しかも、その放火は子どもの火遊びだった。
それをしたのは、なんとA君だったのだ。

 空き地から火が上がる前、
そこで枯れ草を集めて遊んでいるA君を見た方がいた。
 さらに、A君の家の机からは、
不審火近くにあった使い捨てライターと同じものが、
数個みつかった。

 そこで、署員がA君にもう一度聞き取りを行った。
その結果、A君が集めた枯れ草に、
ライターで火をつけたことが分かった。
 そして、火の勢いが強くなり、怖くなって、
近所の家へ駆け込んだと言うのだ。

 きっと小さな興味が引き起こした事件なのだろう。
でも、感謝状贈呈前に、真相が明らかになってよかった。
 もしも、これが反対だったなら、
ことはもっと大事になっていたに違いない。
                      ≪つづく≫




昨年の台風で樹齢百年以上の栗が倒木 その切り株
    
  
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酒飲みの 失笑 苦笑

2017-07-21 21:57:01 | あの頃
 お酒の席では、酒飲みの失敗談がよく話題になる。
その中から、いくつかを思い出してみる。

 ◆ ある年、同年齢の男3人が一緒の学校になった。
それまでの経歴は、それぞれだったが、
やはり同じ年、何かと行動を共にした。
 特に、酒が入ると、
ついつい2次会、3次会と、3人で歩き回った。

 一人は、細身の体なのにビール党で、
他の酒は一さい口にせず、飲み続けた。
 もう一人はまさに酒豪で、
いつまでも際限なく酒が飲めた。

 それに比べ、私はほどほどで十分に酔いが回ってしまう。
だから、次の日を考え、ペースダウンをしながら、二人に付き合った。

 ある日、案の定、三人でもう一軒もう一軒と飲み歩いた。
そして、上機嫌で帰路に着くことにした。

 ビール党と私は、歩いて10分程先の駅へ、
そして酒豪は、目の前の地下鉄へと、
別れることになった。

 飲んだ勢いで、互いに大声で別れを告げ、
酒豪は駅への階段を、フラフラと下りて行った。
 私たち二人は、別の駅へと歩いた。

 酒で火照った顔に、夜風が心地よかった。
酒の入った会話が、笑いを誘いながら駅に向かった。

 まもなく目的の駅という頃だ。
通りを反対へ行く救急車があった。
 そのサイレンの音が妙に気になり、
一瞬立ち止まりふり返った。
 その後は、すっかり忘れて、帰宅した。

 ところが翌朝のことだ。
出勤すると、酒豪の額に大きな包帯が巻かれてた。
 鼻やあごにすり傷、片腕にも包帯があった。

 昨夜、別れてすぐ、地下鉄への階段を転げ落ちたのだと言う。
通りがかった方が救急車を呼び、病院へ搬送されたそうだ。

 当然だが、そんな異変を知らず、
ただあの救急車のサイレンだけはハッキリと思い出せた。

 「あの時、階段を降りる所まで見届けていれば・・・。」
後悔は遅かった。
 すぐに、校長室に呼ばれた。
3人並んで、厳しくお灸をすえられた。

 ◆ 夜遅くまで事務処理に追われた日だ。
10時過ぎ、帰宅の電車シートにゆられた。

 真向いで、スーツ姿の紳士が赤ら顔で眠っていた。
時々、隣の肩に寄り掛かっては戻り、また寄り掛かってを、
繰り返していた。
 何げなくその顔をのぞくと、
どことなく同じ学校の先輩教員に似ていた。

 翌日、すぐにそのことを話した。
するとすかさず訊かれた。
 「降りた駅はどこだった。」
「確かF駅です。」
 「きっと兄だと思う。F駅前に家があるんだ。」
眉間にしわが寄っていた。

 先輩のお兄さんは、酒が弱いのに飲む機会が多いのだとか。
その後、先輩は、こんな1コマを教えてくれた。

 帰りが遅くなった先日、電車がF駅に着いた。
すると、ちょうど目の前のホームのベンチに、
酔いつぶれた人がいた。

 すぐに、それが兄だと分かった。
ベンチは長椅子みたいだったので、それを独り占めして、
足を投げ出し、寝ていた。

 兄弟なのだ。
普通なら電車を跳び降り、声をかけるだろう。
 しかし、その酔いつぶれている姿が、
あまりにもひどく、ためらった。
 恥ずかしさで、二の足を踏んだ。

 どうしようかと、ちゅうちょしている間に、
電車の扉が閉まった。
 動き出した電車の中で、
ベンチの兄を見なかったことにしようと、
何度もつぶやいた。

 しかし、翌日、久しぶりに兄に電話した。
いつも通り元気な声が返ってきた。

 「だから、あれは余計に見なかったことにしたいんだ。」
先輩は、真剣な表情で私に言った。

 あの時、もし声をかけて、手助けをしていたら、
きっとお兄さんは感謝よりも、
気まずい思いが先になったことだろう。
 やっぱり先輩には、『あっぱれ!』を贈ろうと思った。

 ◆ 新しい校長先生が着任した。
その数日後、帰宅途中、校長と教頭2人で、
酒を酌み交わすことになった。

 学校の今後など、話に花が咲いた。
酒量も進んだ。

 全くの偶然だが、同じ駅の近くに二人の自宅があった。
飲み屋を後にする直前、
教頭は、二人とも酔いがまわっていたので、
奥さんに自宅近くの駅まで車での迎えを、電話で頼んだ。

 二人は、電車のシートに座り、揺られているうちに、
すっかりと寝入ってしまった。
 遂には、自宅のある駅を通過し、2つ先の終着駅まで行ってしまった。

 そこで、教頭は突然目ざめた。
向かい側のホームから折り返しの電車が出発する寸前だった。
 過去にも同じ経験があった。 
急いでその電車に跳び乗った。
 駅を2つ戻って降車した。

 駅前には、奥さんが運転する車があった。
「あなた、校長先生はどうしたの。」
 「エッ、校長先生・・」。

 そこで初めて校長先生を、
終着駅に置いたままにしてきたことに気づいた。
 一気に酔いが覚めた。

 再び電車に乗り、終着駅まで行ってみた。
校長先生の姿はなかった。
 夜も更けていたので、校長先生宅への電話は遠慮し、帰宅した。

 翌朝、教頭は重たい気持ちで学校へ行った。
30分程遅れて、校長先生が出勤した。
 すぐに校長室に呼ばれた。

 硬い表情の教頭に、校長先生はニコニコ顔で言った。
「きのうは、すまなかったね。無事に家へ帰ったの。
教頭さんをほったらかしにして帰ってしまったようで、
申し訳ないことをしました。」

 「いえ、それは私の方です。」
「えっ、どう言うこと・・。」
 どうやら二人には、行き違いあったようだ。

 校長先生は、終着駅で目が覚めた。
すると、その電車はそのまま動きだした。
 2つ目の駅で降りて自宅に帰った。

 そして、朝、食事をとりながら、
教頭と一緒だったことを思い出した。
 何事もなく帰ったがどうか気にしながら、
学校へ来たと言う。

 教頭も、本当のことを話した。

 以来、校長先生は、酒が入ると必ずこう言って笑った。
「私は、教頭さんに捨てられた校長です。」





   これからが『紫陽花』の季節
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宿題のままでは ・・・・・

2017-07-15 09:24:50 | 思い
 つい先日、暇に任せ机の引き出しの物を引っ張り出し、
整理もどきの時間を過ごした。
 すると、もう30年以上も前に書き記した文章が、
いくつか出てきた。

 その1つに、心が大きく揺れた。
原稿用紙6枚弱のものである。
 いつか挑戦したいと思いつつ、ずっと気にかけていた。
しかし、こんなにも長い月日が過ぎてしまっていたとは・・・。
 愕然とした。

 さて、この宿題にいつ向かうのか。
あの頃は、土曜日の午後や休日に県立図書館によく行った。
 読めない歴史資料にも、何度も挑戦した。
なのに、次第に忙しさに追われ、興味が別へ移っていた。

 そんな事情もあったが、その文面をここに転記する。
そして、「これを宿題のままにはしておけない。」
と、小さくつぶやく。


     *   *   *   *   *


     レポート・あの旅から

 甲州(山梨県)に、武田信玄がいた。
彼は1572年秋、大軍をひきいて古府中を発ち、西へと向かった。
 これは、大敵・織田信長を討ち、
京へと上ることが目的だったとする歴史学者が多い。
 その西上半ばの1573年春、彼は他界している。

 その途中であるが、亡くなる約半年前のこと、
当時三河(静岡県と愛知県の一部)の支配者であった徳川家康と、
信玄は一戦を交えた。
 彼は、家康を死の恐怖にさらす程の大勝をおさめた。
これが『三方ヶ原の合戦』である。

 家康は、この大敗によって、逆に強くなったと言われているが、
日本史的にはさほど大きなことと、されていないようである。

 私が小学生の頃、父はよく戦国物の小説を読んでいた。
特に宮本武蔵や忍びの者などに詳しく、
高学年になった私に、よく語ってくれた。
 だから、1つの血とでも言うのだろうか、
最近では、本屋へ足を運ぶたびに、
戦国物に惹かれて1冊2冊と買い求めていた。

 そんな読書体験の中から、
いつしか前述した合戦を詳しく調べてみたくなり、
ある年の春、浜松へと足を伸ばしてみた。

 ものの本によると、この合戦は、
浜松の北方に位置する台地「三方ヶ原」で行われ、
その激戦地は、『千人塚古墳』とも『根洗の松』とも言われていた。

 夕闇せまる浜松城(当時家康の根城)に立ち、浜松市中を一望した翌日、
三方ヶ原台地の南に位置する「千人塚古墳」を訪ねてみた。

 この古墳は、「三方ヶ原学園」という養護学校の広大な園内にあった。
一説によると、三方ヶ原の合戦で死した武田・徳川両軍の武士を、
葬ったものとされ、死者が千人にも及んだところから、
千人塚と言うとされていた。

 私は、現地調査が数多くの収穫になることを確信し、
静かな学園内の古墳と思われる丘陵を、一人散策してみた。
 学園の受付でいただいた薄いパンフレットを読みながら、
都会の喧騒を離れ、春を告げる鳥たちの声を聴いた。

 素敵な一時だったが、ここでの収穫はゼロだった。
三方ヶ原の合戦の激戦地は、千人塚古墳ではなかった。
 戦国期にまつわる伝説は、発掘調査の結果、
全く根拠がないとパンフレットに記載があった。

 限られた時間の旅である。
私は、急ぎその地を去り、次に「根洗の松」を探した。

 浜松近郊に、「根洗」という地名はあるが、
「根洗の松」という地名も名所もないのだ。
 でも、「根洗」まで行けば、それはあるものと信じていた。

 ところが、土地の方に尋ねても、首をひねるだけ、
その上、市の観光課に問い合わせの電話をしても、
知らないという有り様なのだ。

 全く収穫のない旅かと、肩を落とした。
ところが、何が私をそこへ案内したのだろうか。

 大通りに出るためマイカーで曲がった農道の隅に、
石碑を1つ目撃した。
 確かに「根洗の松」と大きく刻まれているのだ。
「これだ。」
 一人、歓喜した。

 車を降り、石碑付近の道を走り回った。
ここが激戦地なら、どこかに河原か何か、
石のいっぱいある所があるはずだと考えていたからだ。
 いくら走り回っても、周辺に石はなく、赤土の道路と畑、畑であった。

 「千人塚古墳」が違うなら、「根洗の松」以外に激戦地はない。
激戦地では、合戦の始まりに武田軍は、石つぶてを投げ、
徳川軍を挑発したと言われている。

 その挑発行為が、徳川軍を刺激し、
家康の命令前に戦闘が始まり、徳川軍は混乱し、
武田軍を大勝に導いたと聞いている。

 『石つぶて』と言う源平の合戦のような、
原始的で幼稚な戦法に、私は興味を持った。

 だが、『根洗の松』付近に石はない。全くないのだ。
するとどういうことが考えられるだろう。

 予定の時間がおとずれ、ここで私の旅は終えた。
そして、数日後、疑問は1つの推理として解けた。

 当時、信長はすでに多くの鉄砲を保有していた。
一方、山岳の武田に鉄砲の輸入は難しく、数も少なかった。

 その頃、鉄砲の飛距離は100メートル程度のもので、
威力もさほどではなかった。

 そこで武田軍は、剛腕な若者の投力で、
それを代替したのでないだろうか。
 織田の鉄砲隊に対し、武田の騎馬隊と言うが、
それと同時に武田には、
石つぶて隊が実在していたのではなかろうか。

 石つぶてが、武田にとって鉄砲同然の武力であったとするなら、
その武器を「戦場で調達する」、
つまり石をひろって投げるような不合理を、
信玄は断じてしない気がする。

 石は、武器として身に付け戦場まで運んだことだろう。
しかも、その石は投げやすく、
当時の鉄砲と同程度の威力を持つように、
重さや形などに工夫がほどこされていたに違いない。

 それが、戦国末期に出現してきた忍びの者が用いた手裏剣に、
つながっているのでなかろうか。

 さて、この推理は、今後の勉強できっと成否が分かると思うが、
その石つぶて隊に、11歳になる少年・善太がいた。
 そんな物語を書いてみたいと思うのだが・・・。




  『丘虎の尾』(オカトラノオ)が咲き出した
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真相は どこに

2017-07-08 20:32:19 | あの頃
 3年前の7月7日に、表題『ブログをはじめます』で、
このブログを開いた。
 その翌々日、表題『ジューンベリー』で、
本格スタートとなった。
 以来、週1回の更新を基本とし、
今回で160回にわたり、私の想いを綴ってきた。

 確かな数字はつかめないが、
読んでくださっている方々が、間違いなくおいでになり、
時には手紙や葉書、メール等々が届く。
 私の大きな励みになっている。

 ブロク開設にあたり、『シンボルツリーはジューンベリー 
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして』、
こんな言葉で、このブロクのテーマ説明を試みた。

 しかし、それが様々な理解を呼んだようだ。
今日までの私の歩みの、ちょっとした拾い物を、
置き忘れないようにしたい。
 そんな思いを説明したつもりだったのだが・・・。

 それにしても、この3年間で記した「拾い物」は、
様々だった。
 しかし、まだ拾い忘れている大切なものはあるような気がしている。

 これからもその1つ1つを私なりのやり方で、しっかりと掌に載せ、
形を整え、このブログに載せていきたいと思う。

 さて、そろそろ本題に移ろう。

 小学校入学時から高学年になるまでの私は、
引っ込み思案で口数の少ない子だった。
 とにかく臆病で失敗を怖がった。
友だちの輪には近づこうともしなかった。

 そんな私に、追い打ちをかけるようなできごとがあった。
その記憶をたどってみる。

 ▼ 1年生の秋だ。学芸会があった。
今とは違って、出演できる子は、
先生たちが決めた選ばれた子たちだけだった。
 当然私は、その対象外だ。

 当時、私の小学校にはまだ体育館がなく、
近くの公民館のような所が会場になった。

 今思うと、保護者が学芸会を見る日は、
出演する子以外は学校がお休みだったようだ。
 私も休みのはずだった。

 ところが、学芸会の前日のことだ。
休み時間に、教室の自席でぽつんとしている私に、
担任のT先生が寄ってきた。
 
 「あのね、明日の学芸会で、
『はじめの言葉』を言ってもらうからね。」
 ニコニコした顔で、私の耳元で言った。

 その日の放課後、学芸会の会場で前日準備があった。
私は、そこで忙しく動き回るT先生の後ろを小走りで追った。

 「お父さんお母さん、学芸会に来てくれて、
ありがとうございます。
 これからN小学校の学芸会を始めます。
どうぞごらんください。」

 私は、T先生の口まねをして、
その言葉をくり返しながら、
T先生の後ろをついて回った。
 先生と私だけの特別の時間だった。
楽しかった。
 そして、その言葉の全てをおぼえた。

 準備が終わった舞台に、T先生など数人の先生がいた。
私は、ゆっくりとマイクの前に立ち、お辞儀をしてから、
おぼえた言葉を言った。

 「明日も、その調子でね。」
別れる際、T先生は翌日の集合時間と公民館の待ち合わせ場所を、
教えてくれた。
 時間も、場所も、他の1年生とは違っていた。

 その朝、母は「こんな服しかないよ。」と言いながら、
洗い立てのシャツと半ズボンをタンスから出してくれた。

 私は、他の学年の出演者たちに混じって、
集合場所になっていた公民館の庭に行った。
 約束の時間が迫ってきた。
胸がドキドキしていた。

 一緒にいる他の学年の出演者たちが呼ばれた。
公民館に入っていった。
 私の『はじめの言葉』が迫っている。

 しばらくそこで待った。
だが、いっこうに私は呼ばれないのだ。
 時間が過ぎていった。
それでも何故か、私は呼ばれなかった。
 ドキドキは消えていた。

 きっとT先生は、私が来ていないと思っているのだ。
私は、集合場所を少しだけ変えてみた。
 そして、公民館に向かって、胸を張って立った。
「T先生、ぼくはここですよ。」
 大声を張り上げたかったが、できなかった。

 やがて、別の学年が集まってきた。
そして、公民館へ入っていった。
 最初の学年が演技を終えて、帰って行った。

 私の『はじめの言葉』がないまま、学芸会が進んでいったことを、
小さいながらも推測できた。
 それでも、私はT先生との約束通り、集合場所から離れなかった。

 いつまで経っても、T先生も他の先生も私に近寄ってこなかった。
私は、公民館の庭にしゃがみ、土いじりをしながら、
T先生との約束を守り続けた。

 さて、どのくらいの時間、そこに居続けたのか、全く記憶がない。

 長時間の末、
「こんなことを待ちぼうけって言うんだ。」と思った。

 すると、急に涙がぼたぼたと地面に落ちた。
いっぱい涙がでた。
 昨日のT先生との楽しい時間が、ウソになった。
そのことで心がいっぱいになった。
 それが涙になった。

 でも次に、私はしっかりと立ち上がって、公民館をにらんだ。
「こんなことで負けない。」
 家までの道々、何度もつぶやいた。

 ▼ その4,5年前になるが、
父はある労働争議で大きな会社をやめていた。
 私の小学校には、その会社の家族が多かった。
そのことが、影響したのかどうか、真相はどう探っても闇の中である。

 「はじめの言葉はなかったんだよ。」
夕食の時、そう伝えても、
父も母も、学校に問いただそうとも、
怒りをあらわにしようともしなかった。
 きっと、何かを察していたに違いない。

 3年生の時、私は2か月以上にわたり闘病生活を送った。
その時、担任も級友の1人も見舞いには来なかった。

 毎日、誰かの訪問を待った。
しかし、ついには待ちくたびれた。
 すっかりとあきらめた。

 私の存在感のなさがそうさせたのか、
それとも他の要因なのか、それもよく分からない。

 さて、そんなことをくり返し、孤立感を深めていく私だが、
高学年になるにつれ、徐々に変身をとげた。
 明るく楽しい、しかも行動的な男子になっていった。

 なぜそうなったのか。これまたよく分からない。
「あなたの性格よ。」
 母は、明るくそう言った。





サイカチ記念保護樹木
  (仙台藩亘理伊達家が入植した時に植えた)
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北の 「うまい!」

2017-07-01 20:34:57 | 北の湘南・伊達

 国道37号線沿いの伊達市と洞爺湖町の境に、
美味しいラーメン店がある。

 年に数回だが、そこの味噌ラーメンが食べたくなり、
車を15分ほど走らせることがある。

 その味は、いつも決して期待を裏切らない。
最初に、レンゲでスープをすくい、一飲みする。
 その瞬間、「来てよかった。」と必ず思う。

 何度かそこの暖簾をくぐり、
それを味わっていて、分かったことがある。

 麺をすするのを2,3回くり返すと、
味噌あじの中にあるほのかな甘みに気づく。

 その甘みの正体は何か、探った。
それは、スープの中にまぎれ込んでいる、
刻んだタマネギと白菜だった。

 恥ずかしいことだが、それまで野菜が、
こんな上品な甘みを生み出すことを知らなかった。

 味噌あじのスープに、甘みがとけ込んでいて、実に美味しい。
その上、小さく刻まれたタマネギも白菜も味わうと、
これまたやさしい甘みが口いっぱいに広がった。

 この甘みが、私の好きな味噌ラーメンの美味しさを作っている。
当然、タマネギも白菜も、地産だと思う。



 私の知る限り、市内には3軒の中華料理店がある。
その中でも私は、
老夫婦と息子の3人で切り盛りしている某店が好みだ。

 そこでは、決まって麻婆豆腐と酢豚を注文する。
もう一品を加えるとしたら、エビチリか、青椒肉絲なのだが、
つい先日は、珍しく回鍋肉にしてみた。

 どれも、いつも私好みの味で、
ついつい生ビールも進んでしまう。

 それにも増して、この日の回鍋肉には、驚かされた。
豚肉の美味しさに加え、キャベツのなんと「うまい!」こと。

 次から次へと箸が進んだ。
家内は無言。当然、私も無言。
 皿に盛られた全てが、もう無くなろうとしていた頃、
口を揃えて「美味しいね!」の有り様だ。

 店主の腕もさることながら、
あの味は、きっと春キャベツの力だと思った。
 柔らかいのに、シャキシャキとした食感がたまらない。

 1週間後、我が家の食卓にも回鍋肉がのった。
若干、旨味は違っていたが、
あの春キャベツの美味しさは不動だった。

 最盛期には、市内の至るところの畑が、春キャベツで埋まる。
その新鮮さも味にプラスされているのだろう。



 全国展開の『イオン』が、伊達にもある。
その食料品売場の一角に、対面販売の魚屋がある。

 夕方になると、そこに並ぶ鮮魚に、
「半額にするよ!」と声が飛んだりする。
 しかし、私は、生きがよくて好みの魚を求め、
昼時にはその売場に行き、正価で買うことが多い。

 さて、最近のことだが、どういう訳か、
その売場に並ぶ鮮魚に、カレイの種類と量が豊富なのだ。
 その上、その中に、
あの「ババガレイ」がよくあるのだ。

 小中学生だった頃、時々食卓にのった煮魚である。
その味が忘れられず、学生時代に帰郷すると、
よく母に「ババガレイの煮つけ」をリクエストした。

 しかし、あの頃ババガレイは不漁で、
超高級魚の仲間入りをしてしまっていた。
 だから、それを食べることは叶わなかった。

 ババガレイは、東北から北海道の太平洋岸の魚である。
首都圏でその姿を見ることは、全くなかった。
 私は、すっかり諦めていた。

 ところがである。
今年は、マガレイと同じような値段で、
店頭に並んでいる日がある。

 なので、諦めていた「ババガレイの煮つけ」が、
もう3度も夕食にのぼった。
 少年の頃、美味しいを連発して、食べたあの美味しさが、
鮮明に蘇った。
 私だけではないと思うが、「煮魚の王様」だと確信した。

 それにしても、「ババガレイ」とは、すごい名である。
しかも、『婆婆鰈』と書く。
 一節によると、体の表面がヌルヌルとした粘液でおおわれて、
汚らしいことから、「ばばっちぃ」が変化した名だと言う。

 東北地方では、「ナメタガレイ」と呼ぶらしい。
美味しさのあまり、最後は皿までなめたことから、
その名がついたと聞いた。
 大いに納得する。
私も、その美味しさに皿までなめたくなる。

 今は、これからも時々は、
私たちの手の届く値で、
店先に並んでほしいと願っている。



 現職の頃、出張先の昼食では、よくカレーライス専門店を利用した。
ビーフ、ポーク、チキンとメニューが並んでいたら、
迷わず「ビーフカレー」を注文した。
 肉は、何と言っても牛が一番と思っていたし、
実際に美味しかった。

 ところが、伊達に来て5年、
今や「肉は豚でしょう!」に、変わってしまった。

 北海道産の豚肉は、実に美味しい。
十勝地方発祥の豚丼、『室蘭やきとり』は鶏肉の代わりに豚肉など、
北海道には豚肉を使ったご当地グルメが多い。

 伊達には、地元の豚肉がある。
オオヤミートさんの『黄金豚』(コガネトン)である。

 聞くところによると、子ども達の給食にでる肉が、
どこでどう生産された物なのか不安になり、
精肉店を営んでいた主人が、
地元の豚肉を提供しようと頑張ったのだと言う。

 『黄金豚』は、オオヤミートが自社牧場で飼育している。
その上、製品製造、販売まで一貫した自社流通で行っている。
 地元牛からの特別なホエーを与えた「三元豚」が、
その美味しさの秘密だと聞いた。

 確かに、適度の柔らかさに豚肉の旨味があり、満足できる。
その上、安心安全がついてくる。

 近くにカレーライスの専門店はない。
もっぱら家内が作るものだが、
今はポークカレーに大満足である。

 「エッ!、『黄金豚』のトンカツですか?」
これまた、たまらない!



 今朝も、10キロのジョギングで汗を流した。
走る道々に、トウモロコシ畑がある。
 つい先日までは、その丈が50センチにも満たなかったのに、
もう1メートルを超えている。
 まもなく実をつけるだろう。

 地元では、誰も「トウモロコシ」とは言わない。
「とうきび」である。

 間もなく北国も夏である。
とうきびの季節だ。

 最盛期には、朝もぎのものが1本100円である。
私は、200円を握りしめ、
子どものようなワクワクした気持ちで、
物産館に買いに行く。

 戻るとすぐに皮をむき、家内に茹でてもらう。
毎日でも食べたくなる。

 伊達に来るまでは、その美味しさを知らなかった。
給食で、ほんの一欠片が出ても、その食べずらさに、
眉をしかめたことが、ウソのようだ。

 あの美味しさまで、後1,2週間、待てばいい。

     *   *   *

 年齢と共に、様々な「欲」が下降していくと言う。
きっと、私もそうなのだろうが、
でも、「まだまだ、まだまだ」と思っている。
 特に、食欲はこの地で一段と目ざめたようだ。

 世界も私たちの国も私の足元も、先々に不安が増している。
中には今の状況は戦前に似ていると警告する方もいる。
 理不尽なニュースの数々に、無性に心は傷む。

 こんな時、『北の「うまい!」』などと、
「ふぬけている場合か!」とお叱りを受けそうである。
 しかし、そんな幸せ感を誰もが大切にしてこそと、
私は思うのだが・・・。





  ジャガイモ ピンク色の花
コメント
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