ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

“このままには” と思いつつ

2019-04-27 10:15:43 | ジョギング
 久しぶりに本屋へ行った。
1,2年前、そこで内舘牧子さんの小説を買った。
 そのタイトルは『終わった人』。
あまりにも辛らつな題で、やけに読む気になった。

 そして今回、同じ書棚にあった彼女の小説は、
『すぐ死ぬんだから』だ。
 またまた驚きの表題。
帯表紙には、人生100年時代の新「終活」小説とあった。
 前作の第2弾だろうと、推察した。
つい手が伸びた。

 第1章の書き出しは、
主人公・忍(おし)ハナ・78才の現実認識だ。
 それがすごい。
抜粋する。

『年を取れば、誰だって退化する。
 鈍くなる。
 緩くなる。
 くどくなる。
 愚痴になる。
 淋しがる。
 同情を引きたがる。
 ケチになる。
 どうせ「すぐに死ぬんだから」となる。
 そのくせ、「好奇心が強くて生涯現役だ」と言いたがる。
 身なりにかまわなくなる。
 なのに「若い」と言われたがる。
 孫自慢に、病気自慢に、元気自慢。
 これが世の爺サン、婆サンの現実だ。』

 まさに私もそのひとりだ。
誰も見てない自室で、すっかり赤面していた。
 同時に、次の1文に励まされた。

 『この現実を少しでも遠ざける気合いと努力が、
いい年の取り方につながる。間違いない』。
 「ウーン、力強い!」。

 さて、ここからは、
私の『病気自慢に 元気自慢』に移る。

 4月14日(日)、伊達ハーフマラソンだった。
好天に恵まれた。
 私はハーフ、家内は5キロにチャレンジした。

 この日のために、
冬期も総合体育館のランニングコースで汗を流した。
 そこで、ラン友らにいつも力を貰った。
楽しい時間を過ごした。
 
 加えて、体調維持と管理にも気をつけた。
毎朝、時間をかけてストレッチをした。
 インフルエンザや風邪予防にも努めた。
うがい、手洗い、睡眠に心を配った。

 3月になると、外を走る機会が多くなった。
少しずつだが、春風を感じながらジョギングした。
 ハアハアと息を切らせながらも、明るい表情で、
1日おきに「5キロだ」「10キロだ」と頑張った。

 「伊達ハーフを走る。」
その目標があったからの日常を送った。
 若干大袈裟だが、毎日にハリがあった。

 だから、3000人のランナーと一緒に走り始めた時は、
心は若者のように弾んだ。

 その上、今年は、たまたまの偶然だが好運が重なった。
前日に、長男が婚約者と一緒に、東京から伊達に来た。

 2人並んで、スタートした私に手を振ってくれた。
宙を駆けているような心地になった。
 明るい表情のツーショットが、心から離れなかった。

 何時になくハイテンションのままだった。
それに気づかず、ただただハイペースで走った。
 前を走るランナーを、次々と追い抜いた。

 結果は、明らかだった。私は71才だ。
当然だ。やがてバテはじめた。

 息が乱れたままだ。苦しくなった。
足が重くなる。
 ペースが落ち始め、ふくらはぎが痙ってきた。
その上、汗の量が半端でない。
 「暑い!、暑い」。

10キロも持たなかった。
 途中棄権を決め、コースから外れた。

 5年前、八雲で初めてハーフマラソンに、
チャレンジし完走した。
 それから15回目だ。
ハーフでは初めてのリタイアとなった。

 悔いがないとは言わない。
しかし、意外と納得していた。
 サバサバと、
「これで終わった訳じゃない。」
「これで終わりじゃない。」
「次がある。次が・・。」
そう思った。

 今回の走りで分かったことがある。
浮かれたままで、マラソンは走れない。
 ましてや71才のランナーだ。

 しっかりとしたプランを持つことだ。
そして、冷静に自分の走りと向き合い、
折り合いをつけて走る。
 「時に果敢に、時に慎重に」。
常に自分と対峙して走る。
 それがゴールへつながるのだ。

 人生100年時代だ。
『職場と墓場の間は長い。』
 私の日々も、まだまだずっと続く。
自慢するよりも、学ぶことが大事だと思いたい。

 今回の走りを、
「このままにはせず、次に・・・」。
 そう思いつつ、さあ明日から再び・・。

 それが、忍ハナ・78才の言う
『いい年の取り方につながる』やり方と思うが・・。





   『エゾエンゴサク』も満開だ   
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またひとり 旅立つ

2019-04-20 20:20:09 | 思い
 伊達に本格的な春がやってきた。
一緒に、71才になった。
 日常に大きな変化はない。
なのに、この機を逃さず、
「小さなことでもいい、脱皮を試みよう。」
 そんな心境になった。

 その第1歩は、このブログだ。
「ブロク、読んでるよ。」
 先日も、散歩で出逢った方が声をかけてくれた。
その一言が、励みになる。
 ところが、そんな声に混じって、時折、こんな言葉が聞こえる。
「長すぎる!」「もっと短くしては!」
 「その方が読みやすいよ。」

 謙虚さを無くし、その助言を無視してきた。
それには、
「少し長めの原稿を通して、思いを表してみたい。」
 そんな欲求があったから。

 でも今は、素直。
できるだけコンパクトに、見えたこと、聞こえたこと、
心に止まったことなどを、私らしく記してみようと決めた。
 ただ、そのやり方が、
行き詰まらないことを祈ってはいる。

 さて、今回は、伊達に移住していち早く、
親しく声をかけてくれた近所のご主人のことだ。

 首都圏から運転してきたマイカーを、
寒冷地仕様に買い換えようとした時だ。

 「ずっと車関係の仕事をしてきたんだ。俺に任せろ。」    
退職して数年になると言いながら、そのご主人は、
数日後、トヨタの販売員を連れて、やってきた。

 私が、希望車種を伝えると、
そのベテランの販売員は、電卓をしきりに叩いた。
 そして、ご主人を気にしながら、販売価格を提示した。

 「そんな値段じゃ、買えないなあ。」
私ではない。ご主人が即答した。
 販売員は、ビックリ顔になった。

 私は、その提示価格をのぞき込んだ。
準備していた購入額より、はるかに安かった。
 私も、ビックリ顔になった。

 その後、さらに値引した価格提示が2度くり返された。
私は、その値でもう十分だった。

 販売員は、弱りきった表情で言った。
「これ以上の値引きは無理です。」 
 「分かりました。その値段で・・。」
そこまで、私が言った時だ。

 「黙ってろ。こっちは客なんだから・・。」
ご主人は、私にそう言うと、販売員の顔をジロッと見た。
 「もう少し、なんとかなるべサ。」
販売員は、再び電卓を叩いた。
 最終価格は、驚きの安値だった。

 マイカーの買い換えだけでなかった。
慣れない庭仕事で、雑草取りに手間取った。

 「見ていろ。こうやってやるんだ。」
ご自宅の車庫から、庭仕事の道具を持ち出し、
手取り足取りで教えてくれた。
 我が家の庭から、すっかりスギナが消えた。

 冬になると、
「雪道の運転で、気をつけることはなあ・・・」
そう言って、急ハンドル、急ブレーキ、急発進の危険性を、
私にも家内にも、くり返し教えてくれた。

 そうやって慣れない伊達の暮らしに、
いつも心をさいてくれた。

 そのご主人が、肺炎で長期入院をしたのは、
5年前だったろうか。
 ひとまわり体が小さく見えた。

 それから、1年余り後、今度は喉頭癌が見つかった。
手術の前日、
「声を取られても、命を取られるよりかはマシだべ。」
強気にそう言って、笑った。
 無事手術を終え、退院後は元気に散歩する姿があった。

 ところが、次第次第に活気を無くしていった。
言葉がない暮らしが、影響したのかどうか・・・。
 私には分からない。

 やがて、外での姿が消えた。
デーサービスの迎車に乗り込むようになった。
 いつしか車いすでの乗り降りになった。
そして、1年前位からは入院生活のままに・・。

 時折、奥さんが
「頂き物なんだけど、食べて・・。」
と、野菜や海産物を持ってきた。
 そんな折りに、ご主人の様子を尋ねた。

 その様子を知る度に、
私も家内も暗い気持ちのまま、その日を過ごした。

 だが、それは突然だった。
つい最近の午後だ。
 ご自宅前に、何台もの乗用車があった。

 胸騒ぎがした。
何度も窓越しに様子をうかがった。
 すると、お坊さん風の方が玄関から出てきた。
その後、何人もの方が、肩を落とし、ご自宅を後にした。

 もう我慢できなかった。
ご自宅を訪ねた。
 昼過ぎ、入院先から病状急変の知らせがあった。
それから、1時間余りで息をひきとったと言う。

 奥の間で、静かに眠るご主人の小さな姿があった。
「まだ逝くの、早いのに・・。」
「そんなに早く逝かなくても・・・・。」
 何度も何度も声になっていた。

 「ご主人は、思ったことはすぐに口にした。
すぐに動き出した。心のある方だった。」
 そう言いながら、畳に涙のシミをいくつもつくってしまった。

 享年79歳。
北の大地で生きた強い人が、またひとり旅立った。
                      合 掌




   今年も咲いた 『キバナノアマナ』 
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お膝元に 第2タワー?!

2019-04-06 17:14:05 | あの頃
 校長として赴任した小学校のことだ。
K駅から一直線、徒歩15分程のところに学校はあった。

 同じ区内でも、H地区とM地区では街並みが、
大きく違った。
 H地区は、江戸の頃に道路整備が進み、
碁盤の目のような区画であった。
 それに比べ、M地区は畑道がそのまま道路になり、
今も、所々に行き止まりがあり、曲がりくねっている。

 私などは、H地区は分かりやすく、
M地区ではよく道に迷った。
 ところが、M地区に住み慣れた方は、
「Hは、変化がなく分かりずらい。」
と、困り顔をする。

 「どこにでも、何にでも、一長一短がある。」
そう思える一事だ。

 その小学校はH地区にあった。
縦と横に走る道路で、区画された地域だ。
 学校も四方を道で囲まれ、
校庭は、校舎を背に3方が通りに面し、
高い金網で仕切られていた。

 狭い校庭での全校朝会は、
通勤や散歩で学校の横を通る人に丸見えだった。
 時には、全校児童への私の話を、
立ち止まって聞く方もいた。
 「都会の小学校ならでは、・・」。
そんな1コマと言えるだろう。

 学校周辺の地域は、歴史が古かった。
赴任して、真っ先に驚いたのは、町会の数だ。
 当然、小学校によって、
学区域内の町会(自治会)の規模や数に違いがある。
 しかし、この小学校には町会がなんと12もあった。

 各町会は、さほど大きくなく、
3百~5百世帯程で構成されていた。
 そして、それぞれの町会には、
なんと江戸の頃から受け継がれてきた御輿が、
一基ずつあった。

 毎年の夏祭りでは、町会毎に神酒所が設けられた。
数年に1回の本祭では、
担ぎ手を募り、神社まで御輿詣をした。
 それが町会の伝統であり、
代々受け継がれ守られてきたことだと言う。
 大きくて立派な御輿だ。

 着任した夏、各町会のそんな歴史を知った。
御輿を守り継いできたことを想像し、心を熱くした。
 そのご苦労に加え、歴史の重み、
それを支え続ける心意気に感激した。
 
 だから、前任校長を踏襲せず、
私は、夏祭りの日には、全ての神酒所を回ることにした。
 神酒所に日本酒各1本、計12本を持参した。
運び役を、PTA役員さんとそのマイカーにお願いした。

 各神酒所に出向き、日本酒を納めた。
突然の校長訪問に、町会の役員さんは恐縮したり、喜んだりした。
 恒例だからと、コップ酒が1杯、勧められた。
次に、三本締めをした。
 私は、そのお酒を全て飲み干せないまでも、
祭りの場である、そこそこ口をつけた。
 そして、次の神酒所へと向かった。

 その日、それを12回もくり返した。
4時間をはるかに越えた。
 その全てで、お酒が振る舞われた。
飲んだり飲まなかったりはできなかった。

 決して酒豪ではない。
7,8軒目の神酒所では、もう相当酔いが回った。
 10軒目あたりでは、声も大きくなった。
陽気になった。

 私が神酒所回りをしている情報が、
次第に各所に伝わった。
 最後の12軒目では、
20名ほどの方が急こしらえの酒席を設け、
私を待ち構えてくれた。
  
 「私の勝手な振る舞いが、迷惑をかけてはいないか。」
途中でそんな想いがよぎったが、
酔いの勢いが吹き飛ばした。

 遂に12軒目では、注がれるままに飲み、
帰りの電車は、乗り過ごす寸前になった。

 翌朝、学校付近で出逢った方々から、
神酒所回りのお礼を言われた。
 学校では、何人もの子どもが、
私に同じ事を言った。
 「お母さんが、校長先生がお祭りに来てくれたって、
言っていたよ。」
 どの子も、嬉しそうだった。

 だから、翌年も、その翌年も祭りが近づくと 
「今年も、是非」の声が届いた。
 私は、喜んで12軒の神酒所を回り、
酔い潰れそうになりながら、
やっとの思いで、帰りの電車に乗った。

 そんな学校周辺で、
重大なニュースがささやかれ出したのは、
着任して4年目の頃だったと思う。

 『第二東京タワー建設の誘致』話だった。
いつからそんな話題があったのか知らない。
 どこから出てきた話かも知らない。

 私の耳に入ってきたのは、
「町の人が言っている。」と言った噂話だった。
 現実感のないことと聞き流した。

 ところが、次第にそれを耳にする機会が増えた。
職員室での雑談で、その話題が飛び交うのも聞こえてきた。

 そんな時、私の性分は、ついミーハーになってしまうのだ。
大きな短所の1つだが、その時の私はこうだ。

 「この学校のこの周辺! 近くに第二東京タワー!
東京の名所ができる! すごい! すごいよ!」 
 そう思うだけで、気分は高揚した。
そんな軽さで誘致の成功を、私は期待したのだ。

 私のテンションはどんどん上がった。
胸膨らんだ。
 だから、お酒が入ったPTA役員さん達との歓談の場だった。
ついに口走った。
 「第二東京タワーか・・。
誘致がうまくいって、凄いタワーが建つといいなあ。」
 
 まだ誘致がささやかれている頃のことだ。
まだ、地域でも様々な考えがくすぶっていた時だった。
 私は、そんな状況も知らずに、好き勝手に『憧れ』を口にした。

 歓談の帰り道、
いつも気さくに話しかけてくれる男性の役員さんに、
呼び止められた。
 肩を抱かれ、小声で言われた。 

 「私もよく分かりませんが、第2タワーのこと、
簡単に建つといいなあって、言っちゃだめですよ。
 それがいいかどうか、みんな真剣なんですから。」

 一気に酔いがさめた。
長い歴史と伝統をもつ地域である。
 そこでの一大事なのだ。
みんな軽く口を開けないでいるのだ。

 地域発展の好機だろう。
だか、人の流れが変わり、
この地域が変わり過ぎはしないか。
 それぞれが頭を痛めていたのだ。

 私の高揚感は、消えた。
それよりも、時代の流れに沿いながらも、
伝統を継承する人々の強さを、思い知った。
 軽薄な私を恥じた。




 伊達に 新しい道路が開通した 

   ※次回のブログ更新予定は 4月20日(土)です。

  
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