ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

「冬眠!」?なんて

2019-02-23 20:40:13 | 北の大地
 もう少しで、伊達に来て7回目の冬を、
越えることができる。
 それにしても、今年はいつになく冬が長い。
なぜだろう。
 その答えは、何となく分かっている。

 私のこの先がずっと長いのなら、
きっと、雪にとざされた1日1日を、優しく受け入れられるだろう。
 「こんな季節も、またいいものさ。」
なんて、周りに言いながら、のんびりと。

 あるいは、もう無理ができない歳と達観できたなら、
暖かな窓枠に切り取られた雪景色に、
いつまでも目を奪われているだろう。
 「これはまるで絵画だ。」
なんて、1人呟きながら、ゆったりと。

 だが、私の年齢は、すでに先細りの領域に入っている。
残された時間は、そんなに潤沢ではない。
 でも、体はまだ動く。達観などできない。
使い方次第では、まだ可能性を秘めている。
 
 雪にとざされたままは、イヤなのだ。
雪景色に、じっと目をこらす日々も無理だ。

 「塚ちゃん、伊達で冬は何するの?」。
移住を決めた時、友人に訊かれた。

 「決まってるサ。冬眠だよ。」
即答した後、こう胸張った。
 「ただジッーと、春を待つ。
北の冬は、そんな時間をくれる大切な季節なんだよ。」

 友人の呆れ顔をよそに、まったくよくも言ったもんだ。
後悔しきりの今年の冬である。
 ジッーとなんかして居られない。
できることを探しながら、あと一息、越冬暮らしだ。
 そんな日々、心さわぐワンカットを2つ。

 
 ① 体育館の温もり

 風邪によって体調不良となった。
「走れない!」。
 でも、少し体力が回復すると、
勇んでランニングを再開する。
 するとまた風邪の症状が出る。

 去年の冬は、そんなくり返しだった。
だから、「この冬は、同じことにならないように・・」。
 そう決めて、本格的な冬となる12月を迎えた。

 早々と、朝のジョギングは止めにした。
それに替えて、
総合体育館のランニングコースで汗を流すことに・・。
 
 ランニングスタイルの上に、
厚手のウインドブレーカーを着て、
ニット帽に手袋と、完璧な防寒対策をする。
 そして、マイカーでわずか5分の体育館へ。

 週に3回ほど、1周200メートルのコースを
25周5キロ走。
 時には、50周10キロを、体調と相談しながら走る。

 館内は、暖房がきいていて、半袖と短パンでいい。
私は、夏と変わらず頭からも背中からも、大汗を流す。
 ランニング後の、爽快感がいい。

 でも、窓の外は、一面が雪。時には、吹雪だったり。
それを見ながら、
春から秋までの折々の山々、草花、田畑を思い出す。
 その清々しい風を感じながらのジョギングが、脳裏に浮かぶ。

 「憧れ」は大袈裟だが、「待ち遠しい!」。
そんな感情に似た想いになる。
 その時、一瞬さめた心が、体を抜けていく。
だが、伊達の体育館はそんな私を、いつも温めてくれる。

 階段を昇り、2階のランニングコースへ行く。
顔馴染みになった顔が、3人4人、
すでにマイペースで走っている。

 明るい表情で会釈しながら、かけ抜けていく。
私は片手を挙げたり、笑顔になったりして、それに応じる。

 時には、走り始めた私の後につき、
「足の運び方がよくなったね」などと、
アドバイスをくれる方が現れる。

 「同じくらいの速さだから、ついて行ってもいいかい。」
うなずくと、息を弾ませながら、何周も伴走する方がいる。

 前回は、もの凄い速さだった方が、
私よりもゆっくり淡々と走り続ける。
 「きっと、マイプランがあってのことなんだ」。
無言で教えてくれる。

 みな同世代と言っていい方々だ。
もう洞爺湖のフルは諦めたと言う方。
 中学生や高校生のコーチをしている方。
全国で開催されるトライアスロン大会に出場し続けている方。
 今度の『伊達ハーフ』を孫と一緒に走ると意気込む方。
その戦績・動機は様々だ。
 だが、走る楽しさを知った人たちだ。

 そんな方々といつも出会うのが、たまらなくいい。


 ② 練習場の熱風

 伊達市内には、前後左右だけでなく、
上までネットでおおわれた小さなゴルフ練習場が1つある。
 まるで「鳥かご」みたいで、好きになれない。

 近くのゴルフ場が、雪でクローズになると、
その練習場も、時を同じくして冬期間は閉鎖になる。

 ところが、自宅から車で30分、
室蘭市内の練習場は、冬期間も営業している。

 道内のゴルフ場は全てクローズしている。
なら「誰も練習などしないのでは・・」。
 私もそう思う1人だった。
伊達の「鳥かご」同様、冬期間は閉鎖でいいのでは・・。

 ところが、今年のお正月のことだ。 
新聞の地元記事欄に、そのゴルフ練習場の記事があった。
 『新春の練習場 初打ちで賑わう』
そんな見出しだった。

 4月上旬、そろそろゴルフ場オープンかと思える頃、
室蘭までクラブを振りに行くことがあった。
 しかし、真冬はまったく関心がない。
だから、練習場が賑わっている写真に、驚いた。

 新聞記事の翌日、氷点下だったが、風がない。
青空に誘われ、車にゴルフバックを積み込み、ハンドルを握った。
 防寒対策には念を入れた。いくつもカイロを忍ばせた。
 
 駐車場の混み具合、そして約50余りの練習打席の混雑。
どれも、記事通りだった。
 家内と隣同士の席をとることができない。
仕方なく、2人で1打席を使うことにした。
 それでよかった。

 この時期、打席料金の他に、暖房料金が追加される。
わずかな額だが、北海道らしい料金設定だ。

 2打席に1台ずつ、大型の暖房ファンの熱風が、
練習するゴルファーへ向けられている。

 打席の先は、緑の芝生から一面の雪に変わっている。
前面の外気は氷点下だ。
 どんな防寒でも、15分も打ち続けると寒さがこたえる。

 家内と交替し、私はその熱風のそばに近づき、暖をとる。
丁度、温まった頃、今度は家内が練習を止め、温まりに来る。

 周りの打席の方も、大同小異だ。
クラブを振っては、暖をとる。そしてまた打席へ。

 「そうまでして・・」と思われることだろう。
しかし、私だけではない。
 練習場を埋めていた人たちなら、みな同じ気持ちだろう。
寒さなどを越えて、春からのラウンドに心が向かうのだ。

 2時間あまりの練習を終え、
帰りの車を走らせながら笑顔で言う。
 「また、晴れた日に練習に来ようよ。」
私の提案に、家内は明るく同意してくれた。

 あの熱風さえあれば、真冬でもクラブが振れる。
その体験が、春を待つ日々に、ちょっとした明るさをくれた。





  雪がきえた秋蒔き小麦の畑に白鳥   
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『学童保育ルーム』での経験 ≪後≫

2019-02-16 16:46:40 | あの頃
 30代の中頃だ。
当時、2人の息子がお世話になった『学童保育ルーム』は、
市から補助金を頂きながら、保護者によって自主運営されていた。

 私は、そのルームの保護者会長を3年間努めた。
その時、数々の新しい驚きや貴重な発見があった。
 多くを学んだ。
その経験の中から、後編は失敗談を綴る。


 ② せめて 夏休みくらい

 会長として2年目を迎えていた。
5月の役員会で、1つの提案をした。

 その案は、半年も前から温めていたものだ。
「素晴らしい考えだ!」。
 密かに、自画自賛までしていた。
なので、私はいつも以上に熱く語りだした。 

 「夏休み中は、子ども達にお弁当を作って、
持たせなければならない。
 給食がないのだから、仕方ありません。

 だから、この時期のお母さんは、
毎朝出勤前にいつも以上に大忙しです。
 それは我が家に限ったことではないと思います。

 この忙しさを、何とかしてあげたいと思ったんです。
そこで、提案なんですが・・。」

 私の突然の熱弁に、役員と指導員のメモするペンが止まった。
私は、いっそう声を張った。

 「夏休み中の昼食は、弁当持参ではなくて、
業者へ弁当を発注するんです。
 毎日、それを届けてもらうんです。

 子ども達は、学校の給食と同様に、
みんな同じ献立の弁当を食べるんです。
 お母さん達の負担軽減のために、是非実現したい。

 当然、実現には、クリアしなければならないことが、沢山あります。
それを、1つ1つ越えて、夏休みを迎えたいと思っているんですが、
どうでしょうか?」。

 私の提案後、しばらく静かな時間が過ぎた。
1年前より一緒にルーム運営をしてきた人達だ。
きっと理解してもらえると思っていた。

 最初に、実行力にたけた男性役員が切り出した。
「まずは、そんな弁当を引き受けてくれる業者があるかどうかです。
 うちの会社に出入りしている業者に、訊いてみますよ。
他にも、いくつか心当たりがあるので、あたってみます。」

 「私の知り合いにも、
そんな関連会社に勤めている人がいますから、私も訊いて・・。」

 その後、クリアすべき具体的な課題が次々と飛び交った。
1食の金額は・・、配送時間は・・、
食中毒対策は・・、集金方法は・・等々、
思いつくままに問題点が出され、整理されていった。

 1つ1つの課題に対し、担当が割り当てられた。
迅速だった。
 2週間後に臨時の役員会が設定された。
私の提案が受け入れられた。
 それに向かって歩み始めたのだ。
嬉しかった。ほっとした。

 2週間後、役員会には、
発注を受け入れると言う業者から、
試作弁当が届いた。
 価格も手ごろだった。
搬入方法も万全だ。
 その上、当日の個数変更にも応じると言う。

 試食後、「これならば・・」と全員からゴーサインがでた。
全てが順調に進んだかに思えた。
 後は、細部の確認と全保護者への通知方法が残った。
 
 ところが、それから数日後のことだ。
夕方遅く、近くのスーパーで食料品の買い物をした。
 そこで、同じルームのお母さんから声をかけられた。

 2人の息子と同じ年齢の女の子がいた。
なので、子ども達が保育所通いの頃から顔馴染みだった。
 いつも気さくに声をかけ合い、家族ぐるみで仲よくしていた。

 「ルームの役員会で、
夏休みの弁当を業者に委託する話が、
進んでいるんですか。」
 そんな声が聞こえてきたと、
いつもと変わらない明るい表情で訊かれた。

 「少しでもお母さん方の負担を楽にできたらと思って、
検討しているんですけど・・。」

 すると、何時になく真剣な表情に変わった。
そして、遠慮がちに言いだした。
 「私たち母親のことを思って、
そんなことを考えてくれているのは、
ありがたいんだけど・・・。
正直な気持ちを言っていい?」。

 何を言いたいのか見当がつかないまま、
うなずいた。
 「せめて夏休みくらい、私は毎朝弁当を作ってあげたい。
そう思っているの。」

 「せめて夏休みくらい・・」
その言葉が、何度か頭をかけ巡った。
 私の発想の出発点と真逆な気がした。
「そうですか・・!」
 私は口ごもった。

 「だって、夫婦して働いて、
いつも辛い想いをさせているんですもの。
 罪滅ぼしにはならいけど、親の務めと思って・・、
私は・・」。

 心がさわいだ。
「そうですか・・。そうですね・・。」
 全く思ってもみなかった声だった。

 その後、余計なことを言ったかもと、
お母さんは恐縮しきりだったが、
「もう1度考えてみます。」
そう約束して別れた。

 翌日、電話で女性の役員、指導員に尋ねた。
家内にも訊いてみた。
 「親心として、よく分かる。」
みんなが、共感していた。

 「でも、そんな想いは夏休みの弁当でなくても、
返せると思ったの。
だから、私は役員会で反対しなかったの。」
 そんな声もあった。

 私は、迷った。
熟慮が必要だった。
 「まだ、引き返せる。」
でも、「提案を受け入れ、
具体的に行動している役員がいる。」
 再確認の必要性だけは、痛感した。

 数日後夜遅く、臨時役員会を持った。
そのお母さんの意見を全員に伝えた。
 加えて、一方的な思いつきでの提案だったことを詫びた。
 全員、私の想いを受けとめてくれた。
そして、どうするかだった。

 結論は、『希望者には、
夏休みの業者弁当を提供すること』だった。

 通所児童の約半数が毎日その弁当を食べ、
後は親の手作り弁当を持ってきた。 
 
 さて、翌年に向けてルーム運営の評価の時が来た。
多くの保護者から、様々な声が届いた。
 その中に、夏休みの弁当へ多くの意見が寄せられた。
 
 そのほとんどは、
「親の弁当か業者のものか、どちらか1つにしてほしい」
と言うものだった。
 
 「余分なことをした。」
若干の自己嫌悪があった。
 話し合いの末、
翌年は、業者弁当を止めることでまとまった。





 山肌が透けて見える 冬の山 寒そう!
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『学童保育ルーム』での経験 ≪前≫

2019-02-09 20:55:20 | あの頃
 以前に記したブログから抜粋する。

 『30代の中頃、こんな出会いに恵まれた。
2人の息子が小学生になり、放課後は学童保育ルームにお世話になった。

 当時、私の居住する市には、公設の学童保育ルームがなかった。
市から補助金を頂きながら、保護者によって自主運営されていた。
 保護者会で選出された7名の役員が、
そのルームの管理運営のいっさいを担った。

 誰もなり手がなく、私が保護者会長になった。
月1回の定例役員会は、様々な案件の審議で深夜まで及んだ。
 7名の職業は様々だった。
当然、発想や視点には違いがあった。
 しかし、ルーム運営の重責にあることで、心は1つだった。

 メンバーの1人に、K氏がいた。
鉄道マンで、架線管理が専門のフットワークのいい行動派だった。
 彼は会議の中で、誰もが一目置く程の調整力を発揮した。
会長の私は大いに救われた。
 いつも、私たちを笑いの渦に巻き込んだ。
和やかな雰囲気を演出してくれた。
 そして、意見の違いを越える切っ掛けを作ってくれた。』

 K氏だけでなく、役員一人一人、
人として素敵な持ち味があった。
 学校という狭い世界しか知らなかった私には、
そこでの意見交換や共同作業の1つ1つが、
新しい驚きや貴重な発見になった。
 刺激的だった。

 わずか3年間の会長経験だったが、
今振り返ると、あの時の1つ1つが、
その後の私の力になったと思う。
 貴重な体験を、なぞってみる。


 ① 「泣き寝入りですか!?」

 会長になってすぐのことだ。
新1年生20数名を迎え入れて、1ヶ月ほどが過ぎていた。
 その1年生を歓迎する行事が、
土曜日の午後に、保護者を交えて行われた。

 子ども達70名と保護者30名くらいが集まっただろうか。
3人の指導員がリーダー役になり、
ゲームや鬼ごっごなどで、楽しい時間を過ごしていた。
 
 保護者が参加する行事である。
当然、会長の私は出席が求められた。
 しかし、急用ができ、欠席した。

 事件は、そんな時に起きた。
決して広いとは言えないルームの庭で、
親子ドッチボールが始まった。

 しばらくして、新1年生のお母さんがコート内で尻餅をついた。
そのまま立ち上がれなくなった。
 あまりの痛さで、歩行できない。
救急車で、病院へ運んだ。
 アキレス腱が切れていた。
そのまま入院した。

 その夜、私は自宅に戻ってから、その事故を電話で知った。
見舞いは翌日にし、
取り急ぎ、ご主人へ電話をした。

 電話に出たご主人は、最初から憤っていた。
「学童ルームの会長をしております塚原です。
奥様が大きな怪我をされ、取り急ぎお見舞いをと思い、
お電話しました。」
 そんな始まりだった。

 ところが、ご主人は言った。
 「この怪我の治療や入院費は、誰が負担するんですか。」
不意だった。そんなことに私は不慣れだった。

 返事が全くできなかった。
「エッ、それは・・」。
 「まさか、本人負担じゃないでしょうね。」
「それは、・・。」
 言葉につまる一方だった。
そんなやりとりを想定しての電話ではなかった。

 ご主人がどんな方かも分からなかった。
どんな口約束をすべきか、見当もつかなかった。
 そんな私に、ご主人は不快だったのだろう。
さらに口調は強くなった。

 「あのね、ひとり息子が1年生になり、
ようやく家内がパートに行けるようになったんです。
 なので、学童へ入れた。
これで少しは楽になると思ったんです。
 その矢先に、この有り様だ。
パートは、無理。
 その上、費用は自己負担ですか。」
「・・・・。」
 「泣き寝入りですか。会長さん。」

 「そう言う訳には・・・。できることは・・」
そう言って、受話器を置きながら、目の前が真っ暗になった。

 翌日曜日、入院先へお見舞いに行った。
ベットへ横になっている奥さんには何も言えず、
用意した花束だけを置いた。

 「きっと、主人、きつい言い方をしたと思います。
すみません。」
 「いいえ、ご主人のお気持ちは、分かりますので・・。」

 昨夜は一晩中、受話器の声が頭を巡っていた。
強い口調とは別に、ご主人の思いは十分に理解できた。

 その日、緊急に役員会を招集した。
指導員も同席してくれた。
 ご主人との電話内容を伝え、対応策を話し合った。

 ルームの子ども達は、怪我等の保険に入っていた。
しかし、保護者まではその対象になっていなかった。
 まさに『泣き寝入り』しか方法がないように思えた。

 ルーム運営の態勢が、保護者にまで至っていなかった。
大きな反省点だった。
 しかし、怪我をした保護者を救済する方法はないものか。
役員会は、あてなどないまま、その方策を探ることにした。
 『泣き寝入り』だけは、どうしてもしたくなかった。
どこかで、意地を張った。

 すると、数日後、国家公務員をしている役員から連絡があった。
「地方自治体によっては、『ボランティア保険』の制度がある。」
と、言うのだ。
 その保険は、ボランティア活動なら、
誰でも怪我などの補償を受けられるものらしい。

 すぐに調べて貰った。
居住していた市には、この保険制度があった。嬉しかった。
 我が国におけるボランティア元年と言われる『阪神淡路大震災』まで、
10年近くも前のことだ。
 少しだけ、光りが差した。

 しかしだ。
学童保育ルームの親子ドッチボールが、
ボランティア活動にあたるかどうかが問われた。

 役員数名で、市役所へ出向いた。
ボランティア保険の説明を受けた。
 そして、学童ルームの親子ドッチボールでの怪我が、
その保険の対象になるかを尋ねた。
 
 争点は、ボランティアの定義に及んだ。
私は、全くの素人だった。
 だが、その保険が適用され、治療費の一部でも補填できれば、
その一心だった。
 その後、市役所の担当者と、何度も話し合う機会を持った。

 今ならそうなるのか分からない。
当時の見解は、ボランティア保険の対象として認められた。

 あの親子ドッチボールは、保護者の自主的参加だった。
参加しない保護者もたくさんいた。
 我が子のためだけにドッチボールをし、怪我をしたのではない。
学童ルームの子ども達のために行った行為での怪我だ。
 だから、保険の対象となる。
そんな結論だったと記憶している。

 さて、この結果に至り、治療や入院費等々が、
支払われるまでに、半年を有した。
 しかし、その間、私にはそんな結果を導き出せる確固たる自信がなかった。
怪我をしたお母さんにもご主人にも、
明確な説明ができないまま、時間だけが過ぎた。
 
 不信感だけがつのっていったのだろう。
怪我から退院してまもなく、
その子は学童ルームをやめた。
 保護者は、私たちとの関係を切ってしまった。
私は、何の手立てを講じないまま、市との話し合いだけを続けた。

 そして、保険の適用が決まり、
それ相応の金額が市から支払われることになった。
 重たい気持ちが少し和らいだ。

 役員と市の職員で、ご自宅を訪ね、
改めてお詫びとその保険補償を説明し、金額を提示した。

 「わかりました。」
「ご丁寧に。」
 若干驚きながらも、お二人は、
私たちの想いを受け入れてくれたように思えた。
 だが、私には少し傷が残った。

 ところが、後日、両親から申し入れがあった。
「金額が多すぎます。一部を返金したいのですが・・。」
 「それは、規定通りの金額ですから・・」
そんな説明に、
「では、学童ルームへの寄付として・・」。
 そのお金の入った封筒をありがたく、受け取った。
若干、霧が晴れた。

 だけど、
「もう少し自信を持って、交渉経過を伝えておけば・・。
お二人に、怪我以上に辛い、そんな負担をかけずに済んだはず・・。」
 当時の私には、それができなかった。
 
                           ≪つづく≫ 



 
  『だて歴史の杜公園』も 凍える  
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昔むかし ほろ苦い

2019-02-02 16:07:17 | あの頃
 冬真っ盛りの今だから、「冬を満喫しよう!」。
どうもそんな気にはなれない。
 寒さには、やはり勝てない!

 せめてこんな時季だから、春を待ち望み、待ち望み、
昔むかしのほろ苦い想いを、振り返るのもいいかも・・・。


    初 恋
        島崎 藤村

 まだあげ初めし前髪の
 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思ひけり

  やさしき白き手をのべて
  林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に
  人こひ初めしはじめなり

 わがこころなきためいきの
 その髪の毛にかかるとき
 たのしき恋の盃を
 君が情に酌みしかな

  林檎畑の樹の下に
  おのづからなる細道は
  誰が踏みそめしかたみぞと
  問いたまふこそこひしけれ


 詩の内容は、ほどんど理解できなかった。
なのに、暗唱できるまでになったのは、
中学1,2年の頃だったと思う。

 国語の先生が授業で取り上げた。
黒板に書いてくれた詩を目で追いながら、
こんなフレーズに、ひとり顔を赤らめた。

『まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき』
『やさしき白き手をのべて/林檎をわれにあたへしは』
『誰が踏みそめしかたみぞと/問いたまふこそこひしけれ』

 未知の世界だが、一気に憧れた。
そんな恋を、いつかはしてみたい。
 だから、せめてこの詩だけは忘れないようにしよう。
すぐにノートに書き写した。

 あの年齢だ。
覚えるまでに、そんなに時間を要しなかった。

 登下校など1人のときにぶつぶつと、
「まだあげ初めし・・・」とつぶやきながら歩いた。

 そんなある日の道々、なんの前ぶれもなかった。
「僕の初恋は、Eチャンだ!!」
 はっと気づいて、胸が熱くなった。

 思えば、ずっとEチャンを気にしていた。
でも、それが恋と言うものとは・・・。
 あの『初恋』に登場する「君」のイメージが、
少しずつEチャンと重なっていった。

 Eチャン以外に、「君」をイメージできる人なんていなかった。
「初恋に、間違いない」。
 そう確信した。

 Eチャンは、4歳の頃から知っている。
私が通っていた保育所に入ってきた。
 前髪をきれいに切りそろえたおかっぱ頭。
それだけが、記憶にある。
 背格好が同じくらいだったからか、並ぶ時はよく隣になった。

 小学校の入学式の日もそうだ。
受付の後、教室に行き名札の貼ってある席に座った。
 まだ隣に座っている子がいなかった。
その席の名札を読んだ。
 Eチャンだった。嬉しかった。

 しばらくしてEチャンが教室に入ってきた。
私は、その時の喜び、そのままに声を張り上げた。
 「Eチャン、ここ。僕のとなり。」
Eチャンは、明るい顔で隣の椅子に座った。

 その日からだと思う。
いつもEチャンを気にした。
 3年生でクラス替えがあった。違う学級になった。
でも、5、6年生でまた同じ組になった。

 席替えやグループ学習の抽選では、よく一緒になった。
それだけで、嬉しかった。満足だった。

 中学1年では、違うクラスだったが、
2年3年は、また同じ教室で過ごした。
 3年生の時には、
Eチャンを特別な想いで見るようになっていた。

 幼い頃からのEチャンへの視線を、
『初恋』の詩に重ね、勝手に心を熱くしていた。
 まさに初恋の人になった。

 あの頃、男子5人が仲良くなった。
そのメンバーと、Eチャンの女子グループが、
同一行動を取ることが多くなった。

 修学旅行などでも、行動を共にした。
学級でも、何かと一緒に行動していた。
 グルーブの中で、遠慮なく言葉を交わした。
それだけで毎日が楽しかった。

 しかし、卒業後の進路は違った。
男子5人もそれぞれだったが、Eチャンとも別になった。
 私は、普通科の高校へ進んだ。
Eチャンは、看護婦さんを目指し、その養成学校へ行った。

 Eチャンの学校は同じ市内にあったが、全寮制だった。
中学卒業後、Eチャンは自宅を離れ、その寮に入った。
 自宅に戻れるのは、月に2回程だった。

 学校で、毎日顔を合わせ、声をかけ合っていたのに、
中学卒業と同時に、会えなくなった。

 ところが、どんな経緯があったのか、思い出せないが、
Eチャンが自宅へ戻る日に、
待ち合わせ場所を決めて、
家の近くまで一緒に帰るようになった。

 私は、その日をワクワクしながら待った。
毎回、Eチャンより早くその場所へ行った。
 そして、緩い下り坂を小走りで近づいてくるEチャンを待った。

 一緒にバスに乗り、互いの学校生活のことを語り合った。
わずか1時間にも満たないで、別れた。
 でも、その時間が楽しかった。

 そんなことが半年以上も続いた頃だったろうか、
次第に会話が弾まなくなった。
 それより何より、
Eチャンがどんどん大人になっていくように感じた。

 「はじめて病室で患者さんの脈をとったんだ。」
「食事のお世話をしてあげたのよ。」
 想像がつかなかった。

 それだけでなかった。
会うごとに、服装がおしゃれになった。
 学生服の私とは、釣り合わなく思えた。
靴のヒールも、いつの間にか少し高くなった。

 高校2年になってからは、生徒会活動に熱が入った。
Eチャンと待ち合わせる回数が次第に減っていった。
 そして、いつしか特別な時だけになり、
やがて逢う約束が先送りのままになった。
 そうして待ち合わせは、立ち消えになった。

 振り返ると、私の初恋はそれで終わった。
あの頃、そのことを思い出し、
悔いたり、後ろ髪を引かれたり、そんなことは全くなかった。

 それより、多感な日々が待っていた。
高校での新鮮な毎日が、私を惹きつけた。
 だから、その後Eチャンと出逢う機会はなくなった。
 
 もの凄い時間が流れた。
50歳を過ぎてからだ。
 突然、K中学校3年4組クラス会の案内が届いた。
懐かしさに誘われ、出席をきめた。

 その日、空路を経由し、中学校近くの会場へ向かった。
30数年ぶりの再会に、緊張しながら受付へ行った。

 名前を言って、会費を出した。
同じ年格好の女性が2人、受け付けをしていた。
 「あら、渉ちゃん、久しぶり。」
会費を受け取りながら、明るい顔が応じてくれた。

 どこか見覚えのある顔だが、思い出せなかった。
「あれ、誰だっけ、分からないなあ。」
 「分からないの・・、教えない!」。
茶化された感じがした。
 「すみません。」
笑顔でそう切りかえしたが、その女性を気にしながら宴席へ座った。

 何人も懐かしい顔があった。
会話が弾んだ。
 やがて、自己紹介と近況報告が始まった。

 斜め前方の離れた席に、受付にいた女性がいた。
立ち上がって、旧姓を名乗って話し出した。
 どんな近況報告だったか、耳に入らなかった。
それは、その女性がEチャンだったと分かったからだ。

 確かに、表情や仕草は、
30数年前のEチャンを思い起こさせてくれた。
 でも、「あれ、誰だっけ・・」はない。
軽率な言葉を、悔いていた。

 とうとうEチャンの所へは、
飲み物をつぎにも、言葉を交わしにも行けず、
会は終わってしまった。
 またまた、そんな結末を悔いた。

 ところが、会場の帰り口に、
幹事の1人として、Eチャンが立っていた。
 見送ってくれる幹事一人一人にお礼を伝えた。

 そして、Eチャンの前に立った。
すっと右手が伸びてきた。
 柔らかな女性の手を想像しながら、握った。

 「これからも看護婦さんで、頑張るからね。」
「そうだね、頑張って。」

 固くて、少しごつごつとした手だった。
その手からは、強くしっかりとしたEチャンが伝わってきた。
 頼もしかった。

 再会した初恋の人が、そんな手をしていた。
それだけで、よかった。嬉しかった。


 遠い春を待ちながら、
とりとめのない話に筆が滑ってしまった。
 今も、窓の外は、雪が強風にのって視界を遮っている。
でも、こんな思い出を綴っているとき、
この部屋は、ほっこりと私を包んでくれる。


 
 

   凍てつく漁港 & 漁船
 
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