12月 某日 ①
冬は、温泉がいい。
幸い、当地は恵まれている。
有名な洞爺湖温泉までは車で20分もかからない。
市内には、日帰り入浴ができる温泉が2箇所もある。
私が好きな日帰り温泉はそれらとは違う。
車で25分の豊浦温泉『しおさい』である。
宿泊もできるが、とにかくお風呂が広く、
高中低温に分かれた3つの大きな浴槽がある。
その上ジャグジーバス、露天風呂、サウナまでそろっている。
前面がガラス張りのお風呂からは噴火湾が一望でき、
開放感の中で、ゆったりと入浴を楽しむことができる。
いつも通り入浴前に、併設の食堂で醤油ラーメンを注文した。
日曜日だったからか、私たちで満席になった。
人手不足なのか、配膳用ロボットが活躍していた。
勝手な先入観だが、場にそぐわない気がした。
残念だが、運んできたラーメンは美味しくなかった。
さて、今回はサウナにも入りたかったので、
家内とは利用時間1時間の約束をした。
その時間ギリギリで脱衣室に戻った。
直後に、風呂場から赤い肌をした親子が出てきた。
父は、全身が痩け、足が不自由だった。
息子は、屈強は体をしていた。
息子の手を借り、ゆっくりと風呂場から現れた父は、
出入り口で立ち止まってしまった。
若干、その様子が気になり、それとなく2人を見た。
「どうしたの? 服はむこうで脱いだんだよ。
むこうへ行こう!」
息子は手を引き、父を誘導しようとした。
しかし、父は黙ったまま動かず、反対方向に顔をむけた。
「なんだ。体重を計りたいの?」
父は、黙ってうなずいた。
2人は、体重計へゆっくりと向かった。
年格好は、私よりやや上の父。
息子は、まだ40代のように見えた。
「そんなに痩せてないよ。
よかったね。
心配しなくてもいいみたい」。
父の不安を気遣う息子の優しい声が、
体重計のある脱衣場の隅から聞こえてきた。
私は約束の時間に遅れないように
着衣を急ぎながら、2人の様子を時折気にかけた。
父は、1人で立っているのが精一杯で、
着衣の全てに息子の介助を必要とした。
息子は、自身の体を拭く間もなく、
父の手助けに専念していた。
その後、息子は服を着終えた父を立たせたまま、
自分の身支度を急いた。
そして最後に、父を椅子に座らせ、
残っていた靴下を履かそうした。
ここで父の叱責が飛んだ。
私は、必死で笑いをこらえることになった。
父は、息子が手にした靴下を見て、
小声だが強い口調で言った。
「それは、お前のだ!
お父さんのはお前が履いている。
しっかり、シロ!」
「あ、しまった!」。
息子は、慌てて靴下を脱ぎ、
「これ、お父さんのだったね」
と、父の素足に履かせていた。
12月 某日 ②
近隣に認知症のグループホームが、いくつかある。
その1つから地域住民の代表として、
運営推進委員を頼まれた。
近隣住民からの施設に対する苦情や、
施設から近隣への要望などの仲介役を、
期待してのことと理解し、
2ヶ月ごとの会議に出席している。
4月から、施設長さんが変わった。
その施設で、長年介護職員をしていた女性だった。
施設の舵取り役に慣れず、
手探りでその役を務めていた。
委員の多くは、そこを利用している方の家族で、
いつも話題の中心は、自分の親の近況に関わることだった。
頻繁に出るのが、介護職員によって対応に違いがあること。
「そうなんですよね。
私たち職員も、色々な考えの方がいます。
だから、みんながみんな同じように
利用者さんに接する訳にはいかないんです」
彼女はどことなく頼りなく、
毎回同じように応じていた。
すると、委員からはいつも通り、異論がいくつも飛び出した。
彼女は職員の足並みをそろえることの難しさを、
弱々しくくり返すのだった。
ところが、今回はちょっと違った。
彼女は、相変わらず遠慮がちだったが、
いつもと同じ返答の後に、こう話した。
「ここだけでなく、このような施設はどこもずうっと、
人手不足が続いているんです。
だから、職員にも気持ちよく
長く働いて貰いたいと思っています。
だけど現状は、私たちと違う考えで働いている人は、
長続きしないんです」。
彼女の口調は変わらず、続いた。
「ご存じのように、夜間勤務は職員数が少なくなります。
だから、全員を9時までに、
布団に寝かせてほしいって言うんです。
でも、週に1回だけ9時からのテレビを見たい。
11時までテレビを見てから寝たい。
私は、人手が少なくても、見せてあげたいと思うんです。
それを続けますと、
寝かせてほしいと言った職員は、やがて辞めていくんです。
残念ですが、仕方ないと思っています。
同調できないことって、ありますから」。
彼女の本気の強さと毅然とした態度、
そこで暮らす利用者への優しさに、深く共感した。
「これからもよろしくお願いします!」
委員の1人が言った。
それぞれ、静かに頭を下げていた。
12月 某日 ③
教頭として最初に赴任した小学校は、
国際理解教育の研究推進校だった。
初めて国際理解教育の大切さについて学んだ。
「これからの時代は、
今まで以上に、世界はグローバル化し、
『多文化共生社会』へと進化していきます。
共存共栄が最も重要なキーワードです」
校内研究会で聞いた講師の言葉だ。
違いを認め合い助け合って生きる時代になるとの示唆に、
胸を熱くした。
心強くもあった。
ところが、それから20年が過ぎた今は、どうだ。
それぞれの国や民族には、それぞれの正義がある。
その違いを認め合うはずが、
それぞれ正義が『分断と対立』へと進んでいる。
来年は、それが益々深刻化するのだろうか。
それとも解消へと向かい、
軌道修正ができるのだろうか。
20年前に学んだ、あの『多文化共生社会』を切望する。
2024年を前に強く願うことだ。
表玄関・伊達紋別駅
冬は、温泉がいい。
幸い、当地は恵まれている。
有名な洞爺湖温泉までは車で20分もかからない。
市内には、日帰り入浴ができる温泉が2箇所もある。
私が好きな日帰り温泉はそれらとは違う。
車で25分の豊浦温泉『しおさい』である。
宿泊もできるが、とにかくお風呂が広く、
高中低温に分かれた3つの大きな浴槽がある。
その上ジャグジーバス、露天風呂、サウナまでそろっている。
前面がガラス張りのお風呂からは噴火湾が一望でき、
開放感の中で、ゆったりと入浴を楽しむことができる。
いつも通り入浴前に、併設の食堂で醤油ラーメンを注文した。
日曜日だったからか、私たちで満席になった。
人手不足なのか、配膳用ロボットが活躍していた。
勝手な先入観だが、場にそぐわない気がした。
残念だが、運んできたラーメンは美味しくなかった。
さて、今回はサウナにも入りたかったので、
家内とは利用時間1時間の約束をした。
その時間ギリギリで脱衣室に戻った。
直後に、風呂場から赤い肌をした親子が出てきた。
父は、全身が痩け、足が不自由だった。
息子は、屈強は体をしていた。
息子の手を借り、ゆっくりと風呂場から現れた父は、
出入り口で立ち止まってしまった。
若干、その様子が気になり、それとなく2人を見た。
「どうしたの? 服はむこうで脱いだんだよ。
むこうへ行こう!」
息子は手を引き、父を誘導しようとした。
しかし、父は黙ったまま動かず、反対方向に顔をむけた。
「なんだ。体重を計りたいの?」
父は、黙ってうなずいた。
2人は、体重計へゆっくりと向かった。
年格好は、私よりやや上の父。
息子は、まだ40代のように見えた。
「そんなに痩せてないよ。
よかったね。
心配しなくてもいいみたい」。
父の不安を気遣う息子の優しい声が、
体重計のある脱衣場の隅から聞こえてきた。
私は約束の時間に遅れないように
着衣を急ぎながら、2人の様子を時折気にかけた。
父は、1人で立っているのが精一杯で、
着衣の全てに息子の介助を必要とした。
息子は、自身の体を拭く間もなく、
父の手助けに専念していた。
その後、息子は服を着終えた父を立たせたまま、
自分の身支度を急いた。
そして最後に、父を椅子に座らせ、
残っていた靴下を履かそうした。
ここで父の叱責が飛んだ。
私は、必死で笑いをこらえることになった。
父は、息子が手にした靴下を見て、
小声だが強い口調で言った。
「それは、お前のだ!
お父さんのはお前が履いている。
しっかり、シロ!」
「あ、しまった!」。
息子は、慌てて靴下を脱ぎ、
「これ、お父さんのだったね」
と、父の素足に履かせていた。
12月 某日 ②
近隣に認知症のグループホームが、いくつかある。
その1つから地域住民の代表として、
運営推進委員を頼まれた。
近隣住民からの施設に対する苦情や、
施設から近隣への要望などの仲介役を、
期待してのことと理解し、
2ヶ月ごとの会議に出席している。
4月から、施設長さんが変わった。
その施設で、長年介護職員をしていた女性だった。
施設の舵取り役に慣れず、
手探りでその役を務めていた。
委員の多くは、そこを利用している方の家族で、
いつも話題の中心は、自分の親の近況に関わることだった。
頻繁に出るのが、介護職員によって対応に違いがあること。
「そうなんですよね。
私たち職員も、色々な考えの方がいます。
だから、みんながみんな同じように
利用者さんに接する訳にはいかないんです」
彼女はどことなく頼りなく、
毎回同じように応じていた。
すると、委員からはいつも通り、異論がいくつも飛び出した。
彼女は職員の足並みをそろえることの難しさを、
弱々しくくり返すのだった。
ところが、今回はちょっと違った。
彼女は、相変わらず遠慮がちだったが、
いつもと同じ返答の後に、こう話した。
「ここだけでなく、このような施設はどこもずうっと、
人手不足が続いているんです。
だから、職員にも気持ちよく
長く働いて貰いたいと思っています。
だけど現状は、私たちと違う考えで働いている人は、
長続きしないんです」。
彼女の口調は変わらず、続いた。
「ご存じのように、夜間勤務は職員数が少なくなります。
だから、全員を9時までに、
布団に寝かせてほしいって言うんです。
でも、週に1回だけ9時からのテレビを見たい。
11時までテレビを見てから寝たい。
私は、人手が少なくても、見せてあげたいと思うんです。
それを続けますと、
寝かせてほしいと言った職員は、やがて辞めていくんです。
残念ですが、仕方ないと思っています。
同調できないことって、ありますから」。
彼女の本気の強さと毅然とした態度、
そこで暮らす利用者への優しさに、深く共感した。
「これからもよろしくお願いします!」
委員の1人が言った。
それぞれ、静かに頭を下げていた。
12月 某日 ③
教頭として最初に赴任した小学校は、
国際理解教育の研究推進校だった。
初めて国際理解教育の大切さについて学んだ。
「これからの時代は、
今まで以上に、世界はグローバル化し、
『多文化共生社会』へと進化していきます。
共存共栄が最も重要なキーワードです」
校内研究会で聞いた講師の言葉だ。
違いを認め合い助け合って生きる時代になるとの示唆に、
胸を熱くした。
心強くもあった。
ところが、それから20年が過ぎた今は、どうだ。
それぞれの国や民族には、それぞれの正義がある。
その違いを認め合うはずが、
それぞれ正義が『分断と対立』へと進んでいる。
来年は、それが益々深刻化するのだろうか。
それとも解消へと向かい、
軌道修正ができるのだろうか。
20年前に学んだ、あの『多文化共生社会』を切望する。
2024年を前に強く願うことだ。
表玄関・伊達紋別駅