ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

D I A R Y 12月

2023-12-30 10:42:30 | つぶやき
  12月 某日 ①

 冬は、温泉がいい。
幸い、当地は恵まれている。
 有名な洞爺湖温泉までは車で20分もかからない。
市内には、日帰り入浴ができる温泉が2箇所もある。

 私が好きな日帰り温泉はそれらとは違う。
車で25分の豊浦温泉『しおさい』である。

 宿泊もできるが、とにかくお風呂が広く、
高中低温に分かれた3つの大きな浴槽がある。
 その上ジャグジーバス、露天風呂、サウナまでそろっている。
前面がガラス張りのお風呂からは噴火湾が一望でき、
開放感の中で、ゆったりと入浴を楽しむことができる。
 
 いつも通り入浴前に、併設の食堂で醤油ラーメンを注文した。
日曜日だったからか、私たちで満席になった。
 人手不足なのか、配膳用ロボットが活躍していた。
勝手な先入観だが、場にそぐわない気がした。
 残念だが、運んできたラーメンは美味しくなかった。

 さて、今回はサウナにも入りたかったので、
家内とは利用時間1時間の約束をした。

 その時間ギリギリで脱衣室に戻った。
直後に、風呂場から赤い肌をした親子が出てきた。
 父は、全身が痩け、足が不自由だった。
息子は、屈強は体をしていた。
 
 息子の手を借り、ゆっくりと風呂場から現れた父は、
出入り口で立ち止まってしまった。
 若干、その様子が気になり、それとなく2人を見た。

 「どうしたの? 服はむこうで脱いだんだよ。
むこうへ行こう!」
 息子は手を引き、父を誘導しようとした。
しかし、父は黙ったまま動かず、反対方向に顔をむけた。

 「なんだ。体重を計りたいの?」
父は、黙ってうなずいた。
 2人は、体重計へゆっくりと向かった。

 年格好は、私よりやや上の父。
息子は、まだ40代のように見えた。

 「そんなに痩せてないよ。
よかったね。
 心配しなくてもいいみたい」。
父の不安を気遣う息子の優しい声が、
体重計のある脱衣場の隅から聞こえてきた。

 私は約束の時間に遅れないように
着衣を急ぎながら、2人の様子を時折気にかけた。

 父は、1人で立っているのが精一杯で、
着衣の全てに息子の介助を必要とした。
 息子は、自身の体を拭く間もなく、
父の手助けに専念していた。
 
 その後、息子は服を着終えた父を立たせたまま、
自分の身支度を急いた。
 そして最後に、父を椅子に座らせ、
残っていた靴下を履かそうした。

 ここで父の叱責が飛んだ。
私は、必死で笑いをこらえることになった。

 父は、息子が手にした靴下を見て、
小声だが強い口調で言った。
 「それは、お前のだ!
お父さんのはお前が履いている。
 しっかり、シロ!」

 「あ、しまった!」。
息子は、慌てて靴下を脱ぎ、
「これ、お父さんのだったね」
と、父の素足に履かせていた。

 
  12月 某日 ②  

 近隣に認知症のグループホームが、いくつかある。
その1つから地域住民の代表として、
運営推進委員を頼まれた。
 
 近隣住民からの施設に対する苦情や、
施設から近隣への要望などの仲介役を、
期待してのことと理解し、
2ヶ月ごとの会議に出席している。

 4月から、施設長さんが変わった。
その施設で、長年介護職員をしていた女性だった。
 施設の舵取り役に慣れず、
手探りでその役を務めていた。

 委員の多くは、そこを利用している方の家族で、
いつも話題の中心は、自分の親の近況に関わることだった。
 頻繁に出るのが、介護職員によって対応に違いがあること。

 「そうなんですよね。
私たち職員も、色々な考えの方がいます。
 だから、みんながみんな同じように
利用者さんに接する訳にはいかないんです」
 彼女はどことなく頼りなく、
毎回同じように応じていた。

 すると、委員からはいつも通り、異論がいくつも飛び出した。
彼女は職員の足並みをそろえることの難しさを、
弱々しくくり返すのだった。

 ところが、今回はちょっと違った。
彼女は、相変わらず遠慮がちだったが、
いつもと同じ返答の後に、こう話した。

 「ここだけでなく、このような施設はどこもずうっと、
人手不足が続いているんです。
 だから、職員にも気持ちよく
長く働いて貰いたいと思っています。 
 だけど現状は、私たちと違う考えで働いている人は、
長続きしないんです」。

 彼女の口調は変わらず、続いた。
「ご存じのように、夜間勤務は職員数が少なくなります。
 だから、全員を9時までに、
布団に寝かせてほしいって言うんです。
 でも、週に1回だけ9時からのテレビを見たい。
11時までテレビを見てから寝たい。
 私は、人手が少なくても、見せてあげたいと思うんです。
それを続けますと、
寝かせてほしいと言った職員は、やがて辞めていくんです。
 残念ですが、仕方ないと思っています。
同調できないことって、ありますから」。

 彼女の本気の強さと毅然とした態度、
そこで暮らす利用者への優しさに、深く共感した。

 「これからもよろしくお願いします!」 
委員の1人が言った。
 それぞれ、静かに頭を下げていた。


  12月 某日 ③

 教頭として最初に赴任した小学校は、
国際理解教育の研究推進校だった。
 初めて国際理解教育の大切さについて学んだ。

 「これからの時代は、
今まで以上に、世界はグローバル化し、
『多文化共生社会』へと進化していきます。
 共存共栄が最も重要なキーワードです」

 校内研究会で聞いた講師の言葉だ。
違いを認め合い助け合って生きる時代になるとの示唆に、
胸を熱くした。
 心強くもあった。

 ところが、それから20年が過ぎた今は、どうだ。
それぞれの国や民族には、それぞれの正義がある。
 その違いを認め合うはずが、
それぞれ正義が『分断と対立』へと進んでいる。
 
 来年は、それが益々深刻化するのだろうか。
それとも解消へと向かい、
軌道修正ができるのだろうか。

 20年前に学んだ、あの『多文化共生社会』を切望する。 
2024年を前に強く願うことだ。




      表玄関・伊達紋別駅
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年の瀬恒例 50回

2023-12-16 13:11:20 | 思い
 ① 6月に結婚式をした。
広さ3Kの新築賃貸団地で暮らし始めた。
 12月、年賀状は連名で出すことにした。
既製のものより、オリジナルなものがいいとなった。

 相談を重ねた結果、
私が文面を考え、
それを家内が手書きすることにした。
 印刷と宛名書きは共同作業でと・・・。

 1年目と2年目は、試行錯誤が続き、
3年目に、現在と同じようなスタイルになった。
 私は文面を詩の形式にし、
家内は詩にあった書体にした。

 それが、思いのほか好評だった。
詩に対しも書体に対しも、嬉しい声が届き、
意を強くした。

 とうとう今の今まで、
「代わり映えしないと思われても構わない」と、
そのままのスタイルを貫き通してきた。

 ② スタイルは同じでも、変わったことがあった。
4、5年すると『プリントゴッコ』が発売になった。
 自宅で年賀状の印刷ができるようになった。

 それまでは、休日に学校の謄写版を借用し、
印刷していた。
 それだけでなく、『プリントゴッコ』は実に便利だった。
一大改革であった。

 今まで、家内はろう原紙に鉄筆で原版を書いていたが、
紙面の文字をそのまま印刷できるようになった。
 その上、自宅の居間ででもどこででも、
何枚でも印刷できるのだ。

 だが、謄写版同様、
印刷は1枚1枚の手作業に変わりはなかった。
 ところが、我が家ではその手作業も変化していった。
2人の子どもは、年齢と共に手助けするようになった。
 
 プリントゴッコの印刷台に年賀はがきを置く人、
プリントゴッコの原版枠を台に押しつけて印刷する人、  
 印刷が終わった年賀状を台から取り出す人、
最後は、できた年賀状を並べて乾かす人。
 4人が手分けをして、流れ作業で印刷した。

 それは、子どもが小学生になる前から始まり、
高校生になってからも、我が家の恒例行事になった。

 やがて、長男も二男も自立していった。
時を同じくするように、パソコンが普及した。
 年賀状印刷に、人手も『プリントゴッコ』も不要になった。

 家内が書いた原版は、そのままパソコンに取り込むことができた。
後は、プリンター任せ。
 時々、年賀はがきの補給をするだけ。
印刷の人手は、私だけで十分になてしまった。 

 ③ 印刷作業の変化の他に、
もう1つ変わったことがあった。

 当地で暮らし始めて、3,4年が過ぎた頃だった。 
郵政の民営化が段階的に進んでいた。

 年賀はがきが発売になる直前だった。
インターホンが鳴った。
 初めて見る郵便局員さんだった。
年賀はがきの予約販売をしていると言う。
 「何枚でもいいですから、
予約注文をしてほしいのですが・・・」
 頭が低くく、人当たりのいい方だった。
 
 民営化で、こんな営業努力までするように
なったのかと驚いた。
 わざわざ郵便局まで行かなくて済むのならと、
購入枚数の予約をした。

 喜び顔で帰った彼は約束の日に、
注文した年賀はがきとサービス品のティッシュゥ等を持ってきた。

 それから毎年、
彼はその時期になるとインターホンを押した。
 我が家の年賀はがきは、
買いに行くものから、
届けてもらうものに変わり、定着した。

 ところがある年、民営化に伴い従業員には、
過剰なノルマが課せられていたと報道があった。
 ノルマに対する彼の努力だったと知った。

 その報道を機に、ノルマは改善されたと言う。
だからもう彼は現れないと思った。
 なのに、その後も彼はインターホンを押し、
忙しい年は、郵送で注文枚数を尋ねてきた。
 
 そして、必ず発売日初日に、
変わらない人当たりのいい顔で、
年賀はがきを届けてくれている。

 今年、私は玄関に顔を出さなかった。
すると、家内に「ご主人によろしく」と言って帰っていった。
 
 ④ さて、今年も年の瀬である。
指を折って、この我が家の恒例を数えてみた。
 なんと、50回目だと気づいた。

 驚きと共にここまで継続できた幸運を、
しっかり噛みしめたいと思った。
 エンドレスなどあり得ないと知りつつも、
1年また1年と、今後も回を重さねて行きたいと強く思った。

 50の節目に特段の企画は思いつかない。
遊び心・いたずら半分で、年賀状の詩ベスト3を記す。


 ≪1991年≫
       うねりのそばで

   晩春の急斜面を走る雪崩のように
   東西ドイツが統一国家を形成した
   燎原の火のように
   東欧諸国が次々と一党独裁を放棄した
   一つの神話がくずれていく
   人類の歴史が新しいページを
   作ろうとしている

   しかし 今 ここでは
   石油ストーブのファンの音を聞きながら
   真四角のテーブルに四人がむかう
   今日こそはと腕まくりする中一と
   時計を気にしながら
   それでもマイペースの母と
   音もれするヘッドホーンをあてて
   余裕の高一と
   今までの成績に一応目を通し
   うなずく父と
   慌ただしい日と慌ただしい日の合間
   つかのまの団らん
   ”ポン“ ”チー“ ”リーチ“の
   声がとびかう
   歴史の大きなうねりをよそに
   今年の正月は
   きっと これで過ぎてしまうであろう
   それがいい それでいいと
   言いあいながら   


 ≪2006年≫
       海と風と凧と

   ある日 二人の息子と
   浜辺まで 凧上げに   
   微風の中で海は
   わずかに波立っていた
   凧は風をつかみ
   高く舞い上がり
   凧糸が上空の風を
   私の手に伝えてくれた
   「ほら しっかり握って」と
   息子に凧をわたす
   「パパ 風は見えないけど
   こうして伝わってくるんだね」
   下の子も凧糸をつかみ
   大きくうなずく

   もう20数年も前のこと
   でも海と風と凧と
   それは昨日のことのように
   新鮮で今も驚き
   見えなくても感じる
   そんな大切なことを
   これからも心して過ごしたい

 
 ≪2019年≫
       色 彩 豊 富
  
   赤や黄 青色の風船を膨らませたい
   その風船が誰かに届くといい
    だから 
   八雲の放牧牛が見ているマラソン道を
   ひとり淡々と走っていた
    月数回だがキーボードと向き合い
    足もとに想いを載せて綴ってみた
   突然 この街で出逢った人々との
   小さな物語を語る機会に恵まれた
    なので
   やがて来る衰えなど   無関心
   無理しないでの声など  完全無視
   まして老いの手解きなど 無礼千万
    そして 今年も
   ピンクや黄緑 真っ白な風船を
   いっぱい膨らませ空へ 遠くへ




     大型遊具の完成  ~歴史の杜公園
                       ※次回のブログ更新予定は12月30日(土)です
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新 米 会 長 あれこれ

2023-12-09 10:22:20 | 思い
 ▼ 4月の総会で選任されてから、8ヶ月が過ぎた。
当地に居を構えて、11年だが、
まだまだ地域の事情を熟知していない。
 当然、顔なじみも少ない。
だから、私なりに特別の覚悟をもって、
自治会長の責務を受けた。

 1ヶ月程前になるだろうか。
花壇じまいの作業をしていた時に、
見かけない老夫婦が、通りがかった。

 誰にでも挨拶を欠かさないように、
心がけている。
 一瞬、作業の手を止めて、
2人に声をかけた。
 「こんにちは!」
すると、私を見たご主人が、
「会長さんのお宅は、こちらでしたか」と言う。

 すぐ、不思議そうに奥さんが「会長さんって?」とご主人に訊いた。
「ほら、自治会の会長!」
 「そうですか。自治会の」
奥さんは、丁寧に私に頭をさげた。

 私も頭をさげながら
「お出かけですか。お気を付けて」と返した。
 
 ご主人は、どこで私を知ったのだろう。
自治会のイベントか、会議か・・・。
 人前で会長として挨拶に立つ機会がある。
次第に、私を知る人が増えているのだろう。
 私は、それに追いついていない。

 私が知らなくても、
地域には私を知る人が増えている。
 これは「大変なこと!」。
少々重たい気持ちになった。

 ▼ 朝刊を開くと、真っ先に見るのは、
『お悔やみ』欄である。
 地域に住んでいる家庭にご不幸がなかったかが、
毎日気になる。

 一昔前までは、自治会が葬儀を取り仕切った。
多くの場合、葬儀委員長は自治会長が務めた。
 しかし、最近はほとんど葬儀場が全てを仕切る。 

 だから、自治会がやることは、
近隣の住民に訃報(お知らせ)を届け、
葬儀情報を知らせることと、
役員が自治会規定にある香典を持って、
お通夜などに参列することだけになった。

 どこの家族も自治会への連絡まで気がまわらない。
ご不幸を知るのは、もっぱら『お悔やみ』欄になった。

 先日、私が担当するブロックでご主人が亡くなった。
それも朝刊で知った。

 朝食を済ませ、8時を待って急ぎご自宅を訪問した。
近隣へお知らせを届けることの確認のためだ。
 ご主人も奥さんも、何度か言葉を交わしたことがあった。
インターホンを押すと、若い女性の声が出た。

 自治会の会長であることを伝えた。
しばらくして、年老いた奥さんが玄関を開けた。
 憔悴した表情だった。
型どおりのお悔やみを述べた。
 
 勧められるまま、
お線香をあげさせてもらった。
 奥さんと札幌で暮らす娘さんが、
闘病の日々を話された。

 「きっとまた元気になると信じてたんです」
と言う。
 少しでも気が休まるのならと、
出されたお茶を飲み、聞き役を努めた。

 そして、夕方は自治会を代表してお通夜へ出席した。
最後に、故人を偲ぶ沢山の写真が映し出され、
生前の足跡がアナウンスされた。

 その一節にこみ上げるものがあった。 
「故人は、奥様についてこんな言葉を残しました。
君のような心のきれいな人と一緒でよかった」。
 享年88歳、大柄な方だった。
素敵な生涯を直感した。
 心からご冥福を祈ることができた。

 この8ヶ月、何人かの葬儀があった。
その度に、故人の貴重な歩みに触れた。
 悲しさとともにいつも私の心に残るものがある。
 
 ▼ ゴミの集積所を北海道ではゴミステーションと言う。
当地では、その場所の確保とダストBOXの管理は、
自治会が行うことになっている。
 ダストBOXは、市から多少の補助金はあるものの、
自治会費で購入する。
 金属製や木製がある。
どれも決して安くはない。

 だから、利用者は自治会加入世帯だけかと言えば、
通りすがりの人でも誰でも関係なく、
そのBOXへゴミ袋を入れていく。
 釈然としない気持ちになるのは当然だ。
しかし、打開策がないままの現状である。

 もう1つの課題は、ゴミステーションの場所である。
私が居る分譲宅地は、
販売時に市がゴミステーションとして土地を取得し、市有地にした。
 そこを利用している。

 しかし、それ以前の宅地では、
市がそのような土地の取得をしなかった。
 仕方なく、目的の違う市有地や広い歩道の一角、
空地のままの私有地をゴミステーションにしている。

 さて、伊達市でも人口減少は進んでいる。
だが、私の居住地域は今も新築工事がしばしばある。

 ある日、自治会役員さんから電話があった。
「ゴミステーションのことで、
直接会長と話がしたいと言う方がいるんですが・・」 
 会長を指名してのことは珍しい。
何か深い事情でもあるのではと、話を聞くことにした。

 その方はいずれ2世帯住宅にでもと、
隣の宅地も所有していた。
 しかし、それを手放すことにした。
利便性もあり、買い手が決まった。
 
 角地だったので、歩道が広くなっている所があった。
居を構えた時からずっとゴミステーションになっていた。
 長年にわたりご近所さんが利用していた。

 ところが、購入した方の新居に、
ゴミステーションが隣接することになる。
 ご近所さんに不便をおかけするが、
どこかにゴミステーションを移動してほしいというのだ。
  
 その方は、ゴミステーションがそこにあり、
便利なことを、一番よく理解していた。
 移動する先が近くには見あたらないことも、
分かっていた。

 だからこそ、本当に困り抜いた。
これは会長へ直接訴えなければと考えたようだ。

 ご近所さんの理解や移動先の調整など、
担当の役員さんが中心になり、
長い月日をかけた取り組みになった。
 私も市役所へ足を運び、相談した。

 今までよりも不便になり、十分とは言えない。
不満も残ったが、致し方ない。
 ゴミステーションを別の場所へと移した。

 ダストBOXがなくなったその宅地では
新築工事が始まっている。

 はたして、会長として期待通りのことができたか。
不安だけが残っている。




     羊蹄山 真っ白!
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続・D I A R Y 10・11月

2023-12-02 11:54:48 | つぶやき
   10月 某日 ②
 5日間、東京に滞在した。
初日は、秋葉原の神田川沿いのホテルに宿泊。
 一度泊まったことがあったが、
シーズンなのかインバウンドなのか、
宿泊料金の高騰に驚いた。
 
 それもあって、朝食はホテルでなく、
ファミレスのモーニングにした。
 洗顔の後、散歩を兼ねて駅前の店をめざし部屋を出た。
 
 同じタイミングで、
廊下を挟んだ向かい側のドアが開いた。
 大柄な外国人男女が現れた。
笑顔を向けてきたので、
思わず、「グッドモーニング!」と一礼した。
 そのまま2人は、一足先にエレベーターへ向かった。

 宿泊した部屋は、思いのほか狭かった。
大きな体の2人では、きっと不自由だったろうと思いながら、
施錠後、やや時間を置いてエレベーターへ行った。

 2人は扉を開けたまま、私たちを待っていてくれた。
「サンキュー!」。
 なにか言葉を交わしたかったが、私には無理。
フロント階まで無言のまま。
 降りて左右へ分かれ時、
再び笑顔を向けてくれた。 

 玄関を出ると、川沿いに小さな稲荷神社があった。
出勤途中の方が立ち寄り、手を合わせていた。
 小銭を投げ入れ、私たちも二礼二拍手一礼をした。
 
 その後、狭い境内を抜け、鳥居の前へ戻った。
まだ7時前だったが、そこに大きなリュックサックを背負い、
ガイドブックを手にした長身の外国人男性がやって来た。

 神社の案内板には、小さく英語表記があった。
男性は、立ち止まってそれを読み、社殿へ進んでいった。
 こんなところのお稲荷さんも、
外国からの観光地になっていた。
 「確かに、古いお社だったが・・・」と思いつつ、
もう一度男性の後ろ姿を見た。

 さて、ファミレスの朝食だ。
入店すると、お好きな席へと言われた。
 案の定、その後はタブレットでの注文だった。
やり方は、どこも同じだ。
 慣れていた。

 しばらくしてトーストと目玉焼きのセットを、
ロボットが運んできた。
 これにも慣れていた。

 しかし、入店からずっと気になることがあった。
やや離れた席からの大きな話し声だ。

 朝にもかかわらず、店内は5割程度埋まっていた。
どの客も静かに食事をとっていた。
 にも関わらず、遠慮を知らない話し声に、
時折、笑い声が加わる席があった。
 私には、中国語のように聞こえた。

 大声に慣れなかった。
食べながら、イライラしてきた。
 私だけではなかったようだ。
近くの方が店員さんを呼んだ。
 「すみません。すみません」。
店員さんはくり返していた。

 すぐだった。
大声の席へ行った店員さんが、
たどたどしい英語で何かを言った。
 席の1人が、英語で応じていた。
その後、店内は静かになった。
 落ち着いて食事ができた。
 
 きっと、今朝だけのことではない。
都心のファミレスでは日常的なことなのだろうと想像した。
 簡単な英会話は、今時の店員さんに、
求められているスキルなのだろうと知った。

 ファミレスを出てから、
飲み物を買いにコンビニへ寄った。
 ペットボトルを1本持って、レジへ行った。

 そこに立っていた店員さんは、
慣れない日本語だった。
 名札と顔を見た。
東南アジアの人のように思えた。
 
 小銭がなく、5千円札を差し出した。
躊躇することもなく、お釣りを返してくれた。
 日本語よりも、手慣れたお金の扱いに驚いた。
「慣れてますね!」
 思わず言ってしまった。
彼は、明るく「どういたしまして」と言った。
 
 朝から、たびたび外国の方と出会った。
都会ではそれが今や当たり前なのかも・・・。


  11月 某日 ②
 姉が、首都圏で勤務する娘の病院で手術をする。
そのため、兄と私たち2人で新千歳空港まで見送りに行った。

 帰宅した夕方から、体調が思わしくないと感じた。
早めに寝ることにした。
 夜中に何度も目がさめた。
眠れない時間をくり返した。

 翌朝、検温をした。
いつもより高かった。
 大事をとり、朝食後も横になった。
夜中に眠れなかったからか、よく眠った。

 目を開けるたびに検温した。
平熱よりもやっぱり高めだった。

 空港ターミナルは、すごい人だった。
なのにマスクもしないで、
ショッピングをし、レストランへ入った。

 まさかと思いつつも、
コロナやインフルエンザが気になった。
 様子をみながら、1日中ふせていた。

 次の日も体調は同じだった。
微熱と頭痛、倦怠感が続いた。
 何度かインフルエンザは経験があった。
2日間の経緯から、それではないと自己診断できた。  
 未経験のためコロナの不安はぬぐえなかった。

 コロナ検査キットの販売薬局を検索した。
市内の数軒で売っていた。
 早々、家内が1500円で購入してきた。

 自分で鼻から検体を採取し、
検査液に浸けた。
 そのジェル状の液体をキットに数滴垂らした。
キットの小さな窓に少しずつジェルが染み出た。

 赤い線が2本なら陽性、つまりコロナに感染、
1本なら陰性で感染していないことになる。

 それがわかるまでに、15から20分を要するのだ。
気が気でないまま、
15分ほどその小さな窓をじっと見続けた。
 1本の赤い線は、2本になることはなかった。
 
 すると急に食欲がわいた。
かき揚げ天がのった鍋焼きうどんが食べたくなった。
 わがままを言って、夕食はそれにしてもらった。
美味しさと一緒に体中から汗が流れた。
 すっかり元気になった。
「これにて 一件落着!」となった。 




  雪  吊  ~歴史の杜公園    
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