ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

喰わず嫌い  『イタリアン』編

2015-05-29 22:07:23 | あの頃
 イタリア料理と言えば、欠かせない食材に、
トマトとチーズがある。
 私は、物心がついた頃から、この2つを苦手にしてきた。

 にもかかわらず、イタリア料理が大好きで、
今も、しばしばイタリアンレストランに出向く。
 トマトとチーズへの抵抗がなくなった訳ではない。
どうも、この2つの食材に私は、誤解や偏見があるような気がする。


 その1 「スパゲティー ~ トマト」

 私が高校生の頃、姉は隣町で新婚生活を始めた。
その家庭に、初めてお邪魔した。
 数日前、「夕食で何がいい?」と訊かれた。
私は、「珍しいものがいい。」と応えた。

 我が家での夕食は、商売の都合で8時過ぎであったが、
姉は勤め人と結婚した。
 6時過ぎには食卓に着いた。
 テーブルには、箸ではなくフォークが置かれていた。
ちょっと緊張した。

 初めて『スパゲッティーナポリタン』を食べた。
それまでの夕食とは違い、
うっすらと甘く、麺がオレンジ色にくるまれ、ピーマンまで入っていた。

 母が作る煮物ばかりの献立とは、明らかに違っていた。
今までとは異なる食との、初体験と言ってよかった。
また食べたいと思った。

 それから4、5年後、北海道の小都市で大学生活を送っていた。
 その町の国道とバス通りが交差する賑わいの角に、
イタリアン専門店ができた。
 店の真ん中に厨房があり、それを囲むようにカウンター席があった。
スポーツ刈りに真っ白なコック服のマスターが一人で切り盛りしていた。
新しい臭いを感じた。

 私は、月に1回、奨学金が支給される日に、決まってその店に行った。
 いつもナポリタンを注文した。
木製の台に熱々の鉄皿。
それに盛られた色々な野菜入りのオレンジ色のスパゲッティーが、
手際よく作られ、運ばれてきた。

 ふうふう言いながら食べた。美味しかった。
決まって、姉のナポリタンを思い出した。

 そして、数年後。
東京での暮らしに慣れた頃だったと思う。

 同僚たちと一緒に食事をした。
私は、オムライスをたのんだ。
 上にのっていた赤いソースをさして、
「この味がたまらなく好きなんだ。」と、私は喜んだ。

 「トマトは嫌いなのに、ケチャップは好きなんだ!?」
と、同僚の一人が、首を傾げた。
「エッ。トマトなの。」と私。
「そう。それ、トマトケチャップでしょう。」と同僚。
「………。すると、ナポリタンのあの味もトマトケチャップなの?」

 嫌いなはずのトマトが姿を変え、こんなに美味しい味になっている。
驚きだった。

 以来、私は、言い訳がましく
「トマトは嫌い。でも、トマトケチャップは好き。」
と、言い続けた。
 実は、言い訳ではなく、本当にそうだった。
 あの味には、姉の作った手料理と、貧乏学生のプチ贅沢があった。

 やがて私は、次第にトマトそのものにも抵抗感がなくなり、
ミニトマトをはじめ、サラダに添えられるトマトも残さなくなった。

 私は、明らかにトマトに偏見を持っていたと思った。
もう『トマト嫌い』は返上しようと決めた。

 ところが、あれは、2年前の夏のことだ。
伊達の物産館に、青みの残った見るからに新鮮なトマトが並んでいた。
 朝食の生野菜サラダにと、買い求めた。
翌朝、そのトマトが食卓に上った。
他の生野菜と一緒に、イタリアンドレッシングを軽くかけ、食べた。

 すでに『トマト嫌い』は返上していたはずだった。
なのに、八つ切りにしたその一つを口に入れ、噛んだ瞬間、
昔、味わったトマト味が口いっぱいに広がった。
「この味が、嫌いなんだ。」とハッキリと蘇った。

 きっと路地栽培のものだったのだろう。
まさに、『トマト・トマトの味』だった。
私は、まだ『トマト嫌い』を返上できないと思った。



 その2 「ピザ ~ チーズ」
 
 30年以上も前のテレビドラマになる。
 北海道富良野を舞台とした、
倉本聰さんの『北の国から』が忘れられない。
いくつもの名シーンが思い出されるが、
その1つに第19回がある。

 田中邦衛さん演じる黒板五郎が、
純と蛍の母である令子との離婚が、正式に決まった日のことだった。
 ふさぎこんでいた五郎が、飲み屋で知ったこごみに問われるまま、
令子との馴れ初めを語った。

 ガソリンスタンドに勤める五郎と、その隣の美容室で働く令子。
キレイな女性だったこと、別れることが寂しいことを五郎は語った。
 そして、ある日、令子の住むアパートに招待され、
そこで令子が作ってくれた料理が、スパゲッティー・バジリコだった。
 五郎には見たことも聞いたこともない食べ物だった。
その味よりも、都会的なハイカラな名前と見た目に、
五郎は感動した。

 北海道から東京に行き、そこで暮らす人と出会い、
知らなかったハイカラな料理を通して、大都会の風を実感する。
 私にもそんな経験があった。だから、当時の私は凄く五郎に共感した。

 私の場合、それはスパゲッティー・バジリコではなかった。
『ピザ』だった。

 東京で勤め始めて半年も経たなかった頃、
確か、運動会の打ち上げだったと思う。
 二次会で、同年齢の同僚たちと軽食喫茶に入った。

4人ずつテーブルを囲んだ。
各々が、飲み物を決めた。
 「あら、ピザがある。みんなで食べようよ。」
と、女性の同僚が言い出した。
 聞き慣れないメニューに、私は「何、それ?」と訊いた。
 「知らないの?」の問いに、強くうなづく私。
「食べてごらん。美味しいから。」

 しばらくして、大きな平皿にのった色鮮やかで、熱々のピザが届いた。
すでに、いくつかの切り込みが入っており、
私も教えられるままに、その一片を取り皿に移した。
 そして、これまたまねて、素手でその扇形の熱々を口に運んだ。

 テーブル席はすべて埋まっていた。
そこかしこから、明るい笑い声と
張りのある声の会話が、飛び交っていた。
 駅前の明るく賑わう店内で、私は初めてピザを食べた。
 五郎さんのスパゲッティー・バジリコと同じように、
私はその時、大都会のハイカラさと見た目に感動していた。

 以来、味を占め、私は都会人ぶって、
イタリアンレストランに行き、ピザを注文した。
 ピザで汚した手を、テーブルの紙ナプキンで拭い、
赤ワインを口にした。
 まさに、お上りさんそのままだったが、
それはそれでよしと、当時の私は背伸びをしていた。

 ピザの味は、私にとって大都会・東京での、
最初のハイカラな味だった。当然、大好きな食べ物になった。

 しかし、伊達に移住する数年前のことだ。
友人と一緒に、都心のレストランで、
「ワインと一緒にピザでも。」と、しゃれ込んだ。
 突然、「ツカちゃんは、チーズが嫌いなのに、
ピザは好きなんだ。」
 何年も前に、同じようなフレーズを聴いた気がした。

 チーズは、私の嫌いなもの。
だから、一瞬、彼が言っていることが分からなかった。
「ピザにチーズ、……何のこと。」

 私は、「う、う……。うん。」と頷きながら、
目の前が、闇になった。
 「ピザとチーズ、どんな関係?」
 「ピザのどこがチーズ?」
 腑に落ちない顔の私に、
「これ、とろけたチーズだよ。」
と、彼はピザの上のトロッとした黄色を差した。

 「そこが一番美味しいんじゃない。」と言いかけて、
「これがチーズか。」と呟いた。
 40年も知らずにいた。

 つい先日、黒松内にある評判のピザを食べに行った。
あまりの美味しさに、つい口がすべった。
 初めてピサとチーズについて、私のショックを家内に話した。
家内は、若干笑い顔で聞いていた。
 でも、
「まだピザにのっているあの美味しいものが、
チーズとは思っていない。」
と、私はうそぶいた。




街路樹のナナカマド 白い花が満開
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成長の糧

2015-05-22 22:41:57 | 教育
  ▼ その1

 伊達に移り住んで3度目の春を過ごしている。
季節は、その美しい移ろいを、決して立ち止まらせようとはしてくれない。
次々と趣を変えていく。

 私は、一日一日、大自然が見せる色とりどりの変容に、心奪われながらも、
もう少しゆっくりゆっくりと願ったりしている。

 そのような空の下、朝日を浴びた草花の鮮やかさと、
整地された畑に並ぶ新芽の凜とした姿が、
ジョギングする私を、いつも励ましてくれる。

 さて、17日(日)『第41回洞爺湖マラソン』があった。
国立公園にもなっている景勝地で、
しかも新緑に包まれたコースのマラソン大会である。
 全道そして日本各地から、
洞爺湖一周のフルマラソンと10キロ、5キロのレースに、
9000人もの参加者があった。

 私は、昨年、右腕の手術で出場を断念した。
そのリベンジもあり10キロにチャレンジした。

 湖の中央に浮かぶ中の島を横目に、静かに波打つ湖畔の道を、
老若男女入り乱れて、しかも思い思いのファッションでのランニング。
 その1人として、年令を忘れマイペース走の私。
それはそれで、十分に心を満たしてくれた。

 沢山のランナーに抜かれ、そして私も何人かを抜いてゴールした。
シューズにつけたチップが、瞬時に私のタイムを計測した。
完走し、達成感の中にいる私に、そのタイムが届いた。

 密かに目標としていた『60分切り』は、わずかの時間で叶わなかった。
悔しさがこみ上げた。

 汗まみれのシャツを着替えながら、
しきりに自分の走りを振り返った。
そして、朝のジョギングの仕方まで悔やんだ。

 次の機会には、必ず『60分切り』をと、
67才の自分に誓った。
 次々と進む美しい季節に心奪われながら、
また明日からジョギングを続けよう。
私なりの走力アップを図ろう。
 今までとは少し違う欲が芽生えた。

 『大会に出場し、自分で決めた設定タイムを切ろう。』
そのために、ジョギングを継続するんだ。
 身の丈に合った目標の存在が、成長の糧になることを、
私は再び、我が身をもって実感している。



  ▼ その2

 退職時の学校では、5年間校長を務めたが、
区立幼稚園が併設されており、そこの園長も兼任した。

 幼児教育に携わるのは初めてだった。
毎朝、副園長に詳しいレクチャーを求め、職責にあたった。

 4歳児と5歳児が、毎朝、保護者と一緒に登園してきた。
私の朝の仕事は、その園児たちを園舎の玄関で迎えることだった。

 入園直後の園児は、一人になることが不安で、
何人もが大泣きした。
 私は、その子を母親から引き離し、抱きかかえ、
これまた涙を流しながら幼稚園を後にするお母さんを見送った。
 しかし、そんな光景は1週間もすれば消え去り、
どの子も明るい表情で通ってくるようになった。

 着任当初、私は幼稚園の毎日に、驚きの連続だった。
 小学校とは様相が、大きく違っていた。
副園長には、その都度その都度くり返し質問し、教えを受けた。

 当然なのだが、チャイムによる生活リズムもなければ、
ほどんど一斉指導もなかった。
 集団行動より、個々の思い思い(ニーズ)による活動がメインになって、
毎日が進んだ。

 そして、何よりも私が驚いたのは、
多種多彩なイベント・行事の数々であった。
毎日、必ず何かしらのイベントがあった。

 毎月の誕生会、季節ごとの遠足や野外活動、
伝統行事にちなんだ催し、季節の草花や野菜の種まきと収穫、
それを使った調理や、色々な人々を招いてのふれあい会等々。

 例えば、「こどもの日」パーティーを計画する。
そのために買い物に出かける。パーティー会場の飾り付けを作る。
歌の練習をする。進行の係を決め、事前の練習をくり返す等々、
その取り組みは、前日まで毎日次々と続いた。

 園児たちは、その一つ一つに目を輝かせ、
買い物に行けば、買い物ができたと体いっぱいで喜びを表した。、
次の日は、手をのりだらけにしながら、
手作りの鯉のぼりをふり、完成を喜んだ。
 
 園児たちは、毎日の多彩なイベントで貴重な体験を積み、
達成感を味わい、成長した。。
 つまり、このような日々の活動こそが、成長の糧なのであった。

 『多種多彩なイベント・行事という刺激と体験』が、
成長には欠かせないことを、私は幼児教育から学んだ。



  ▼ その3

 小学校の教室には、数々の目標が掲示されている。
 学校目標、学年目標、学級目標、生活目標、保健目標、給食目標、
そして週目標、個人目標等々である。

 この目標の中には、通年のものもあれば、
月ごと、学期ごと、週ごとに変わるものもある。

 また、目標であるにもかかわらず、達成度等の評価がされず、
目標掲示のみのものもある。
 私は、この評価の伴わない目標であっても、
掲示することで子どもの目に止まり、多少なりとも意識化され、
その子の成長の糧になっていると信じている。決して無駄なことではない。

 しかし、目標であるならば、
可能な限り、その評価は適宜求めたいものである。

 評価の仕方は、様々である。
相互評価、自己評価、絶対評価、相対評価、
記述評価、段階評価、そして形成的評価等々がある。

 評価方法の有効性はともかくとして、その評価によって、
自己の成長や前進、進化がおぼろげながらでも確認できれば、
その子は、必ずや次のステップへの意欲を燃やすであろう。
評価は、成長の糧なのである。

 また、そうでない場合には、改善点をさぐる大きな動機となる。
「ならば明日からはこんなことに努力しよう。」
「こんな練習方法に変えてみよう。」
「こんなことに心がけてみる。」等々、
新しい一歩を踏み出すことにつながり、その子の目標達成に貢献する。

 さて、学校生活における目標は、
多岐にわたりすぎてはいないだろうか。
 さきに列記した様々な目標しかりであるが、
例えば、教室掲示でよく目に止まる学期ごとの個人目標を見ると、
そこには、今学期の「学習の目標」「生活の目標」そして
「家庭学習の目標」等までもが、記入することになっている。

 どの子もその全てに目標を書き込んでいる。
担任は、その一つ一つにコメントを朱書きして励まし、
その上、月々の評価欄があり、
その達成度を自己評価することになっている事例もある。
 はたして、この目標を記入した子は、
目標達成のために、どう迫ろうとしているのだろう。

 設定すべき目標を精査・吟味し、精選する必要があるのではなかろうか。
 子どもに限らず人の成長には、目標の設定と評価は欠くことができない。
しかし、評価の伴う目標の乱立は、全てを見失うことになりはしないだろうか。

 全人格の成長を願いつつも、今はここを伸ばそうとする重点設定が、
成長の糧に直結すると、私は思うのだが。




街のいたる所 八重桜が満開 (3日前)
 
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『 や ま な し 』  ・ そこには

2015-05-15 22:07:17 | 文 学
 宮沢賢治・作『やまなし』に出会ったのは、
30歳代後半のころだった。
 光村図書出版の6年生国語教科書に、この物語はあった。

 私は、担任としてこの難解な文学的文章の指導に苦慮した。
とにかく、分からないことだらけであった。
いくつかの解説文も読んだ。
教育雑誌にある授業実践の記録も、一通り目を通した。
 しかし、どれもこれも腑に落ちなかった。

 適当に授業を進めようにも、不安ばかりだった。
 きっと原稿用紙に書いたのだろうと、全文を400字詰め用紙に手書きし、
賢治さんの想いを知る手掛かりにしてみたりもした。

 今になって思うのだが、
それだけこの作品は、難解さとともに、
私を惹きつけるものだったのだろう。

 大正12(1923)年4月8日の岩手毎日新聞に、
『やまなし』は掲載された。
 花巻農学校の教員時代であったが、
『雪渡り』同様、数少ない賢治さんの生前発表童話である。

 全文を一読して、最初に抱いた疑問は、この物語の題であった。
仮に『かにの親子』や『かわせみ』なら、
作品を通して登場しており、納得できた。
 しかし、『やまなし』という食べ物は、「12月」にのみ出てくる。
 なのに何故、あえて『やまなし』の題なのか。
大きな疑問であった。

 また、物語の冒頭にある「クラムボン」の正体とは。
授業では、必ず子供たちがこの疑問に飛びついてきた。
 泡のこと、光のこと、小さな生き物のこと、
アメンボ、いや仲間のかになど、様々な意見が飛び交った。

 中には、目が「くらむもん」と言い出したり、
クラムボンをひっくり返すとボンクラに似ているから、
ぼんくらな人間のことだとまで、解釈が飛躍してしまったりもした。

 それはそれで楽しいやり取りなのだが、結局は
「笑ったり、跳ねたり。死んだりするものなんだね。」
と、その実態は煮え切らないもので、いつも終わってしまう。

 「かぷかぷ」と言う笑いの形容も、
作者特有の擬声語・擬態語の類で、
これまた十分な理解は難しいものだった。

 私は、「5月」の最後にある「樺の花びら」について、
白樺の花びらと思い込んでいた。
 ところが、授業の中で
「白樺の花は緑なのに、白い花びらはおかしいよ。」
と、樹木に詳しい子どもから指摘された。
 調べてみると、山桜類の木の皮を使った小物を、樺皮細工と言うなどから、
山桜の花びらを意味していたことが分かった。

 こんな謎解きのようなことは、この物語にはいくつもあり、
きりがないが、作者はそんな謎解きの楽しさのために、
これを創作したのではないだろう。

 岩波書店『銀河鉄道の夜~宮沢賢治童話集Ⅱ』巻末の解説で、
恩田逸夫氏は、
 『賢治はこの作品を、じぶんが名づけた
「花鳥童話」という分類の中に入れています。
文字どおり、花や鳥などを扱っていて、
詩のような感じの漂う作品が多いのですが、
単に詩的情緒だけでなく、
はっきりした主張がふくまれている場合が多いのです。
「やまなし」でも、五月と十二月との対比の中に
一つの意味がふくめられているようです。
ふつうには楽しく明るい五月に「死」があり、
逆に、冷たく寒い十二月にも谷川の底には
親子のかにの楽しい団らんがある、
というように、なにか人生の現実の一面を
暗示しているようにも思われるのです。』
と、記している。

 確かに、恩田氏が説くように、この作品には
「はっきりとした主張が、5月と12月の対比の中に含まれている。」
のであろう。
 谷川の底を写した二枚の幻燈の
1枚目「5月」は、春、陽の光、そして躍動である。
2枚目「12月」は、秋、月明かり、そして静寂である。
まさに、陽と陰、動と静の対比がある。
 そんな対比の素晴らしさがこの物語の根幹をなし、
読み手を魅了しているのは確かなことである。

 5月・『光に網はゆらゆらとのびたりちぢんだり、
花びらの影はしずかに砂をすべりました。』
 12月・『横あるきと、底の黒い三つの影法師があわせて六つ踊るようにして、
やまなしのまるい影を追いました。』

 季節の違う川底のこんな美しい描写に、
心の清らかさを覚えるのは、私だけではないことでしょう。

 しかし、私は、賢治さんがこの作品に託した主張が、
このような対比した美の描写にあるとは、どうしても思えなかった。
 賢治さんの主張は
『おとうさんのかに』の言葉に託されていると、私は読み取った。

 5月、谷川では、魚が下ったり上ったりしながら、
なにやらエサをあさっていた。
 その矢先、かわせみが来襲し、その魚を奪っていった。
その光景を見て、ぶるぶるふるえる兄弟がにに、おとうさんは
「だいじょうぶ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。」
と、言う。
 そして、「いい、いい、だいじょうぶ。」と、くり返した。

 12月、ドブンと、よく熟していいにおいのするやまなしが谷川に落ち、
ぽかぽか流れて行く。
 やがて、横になった木の枝にやまなしはひっかかり止まる。
「おいしそうだね。」と言う兄弟がにに、おとうさんは
「まてまて、もう二日ばかりまつと、こいつは下に沈んでくる。
それからひとりでにおいしいお酒になる。」と。

 「おとうさんのかに」の言葉を借りたこのメッセージは、
まさに食に対する賢治さんの姿勢、そのものではなかろうか。

 食べ物を奪い取る者は、他の者からその命を食料として奪われる。
しかし、かにの親子は、そのようなことには「かまわない」。
 ただただ、かには待つのである。
そして、熟した自然の恵みが、微生物によっておいしく発酵する、
その時まで待つのである。、
それから、かにはおもむろに、それを食す。

 殺生は、殺生の連鎖でしかない。
だから、自然の恵みをとことん待ち、
そして、それを食べて、命をつないでいく。

 この物語では、その自然の恵みの象徴が、『やまなし』だった。
だから賢治さんはそれを題にしたのであろう。

 私は、賢治さんの仏教思想をもとにした「食」への強い信念を、
この『やまなし』から受け取った。
 そこにこそ、この作品の主張がある。





ご近所さんの庭 三千本のチューリップ “毎年、息をのむ”
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引 き 際

2015-05-08 21:53:39 | あの頃
 半年程前のことになる。
 多忙な東京の友人が、札幌までの出張がてら、
貴重な時間をぬって、伊達まで足を伸ばしてくれた。
わずか4時間の滞在だったが、久しぶりに楽しい話の花が咲いた。

 その中で、「定年退職まで残り3年。
その後、3年は職場に残ることができるが、どうしようかと、
正直なところ、迷っている。」
と真顔の彼から、そんな言葉が飛び出した。

 その時、すかざず私は強い口調で、
「3年先ですか。それなら、今じゃなく、
その決断を迫られた時に、考えればいいことですよ。」
と、確信を持って応じた。

 私は、平成21年3月に定年退職を迎えた。
38年間の教職生活であった。
 しかし、その後2年間、再任用として私は現職を続けることができた。

 教職に限らず、どんな仕事にも終わりはある。
特に、自営業以外の多くの職業には、定年退職というレールが敷かれている。
 その年齢が近づいてくると、それまで意に介さなかった様々な想いが、
不思議と押し寄せてくるものである。

 現職への執着心、退職後の暮らし方、
自分だけが知る偽りのない足跡への感謝と悔恨、
そして残されている仕事へのゴールインの仕方等々。

 それは、今までに経験のない心のざわめきであり、
定年退職の数年前から、徐々に徐々に、
そして次第次第に鮮明なものになっていくのである。

 そして、ついに退職が迫った時、
誰もが2つの心境のいずれかに近づくと言う。
 その1つは、
『ここまで長いことよくも勤め上げたものだ。
ようやくこの日がやってきた。』という、完結型、
 そしてもう1つが、
『まだまだこの仕事を続けたいのに、なのに辞めなければならない。
こんな日はまだ来て欲しくはなかった。』という、未練型である。

 さて、私の場合であるが、
私は、どうも4、5年前から、
その日の訪れを心待ちにしていたように思う。

 だから、時折、退職後の暮らしぶりを想像し、
様々なプランに想いを巡らせていた。
余談だが、そんな時に、全くの冗談として口をついたのが
『伊達への移住』であった。
 しかし、あの頃は、ただ漠然と現職生活への
ピリオドの打ち方を妄想していただけだった。

 定年退職の前年だったと思う。
私はそれまでになく仕事への充実感を覚えていた。
 長い教職生活で培ってきた経験と知恵が、私自身のものとなり、
私は、様々な難しい局面にあっても、
その場その場に的確に応じ、突き進みことができた。

 人は誰でも、自分が抱いた課題を達成できた時、
それまでにない意欲が、沸き上がってくるものである。
 やる気があるから、できるようになるのではなく、
できるようになったから、やる気が生まれるのである。

 あの頃の私は、まさにその通りであった。
 だから、それまでになく仕事が楽しく、日々充実していた。
勢い余って友人たちに、「今が、人生の旬だ。」とまで言い切った。

 ここまでお世話になった方々に感謝した。
そして、一日一日を教職の道で、精一杯応えようと努めた。

 私は、定年退職のその日まで、
このままの勢いで歩み続けるものと信じていた。

 ところがであった。
 定年の年が訪れ、4月が過ぎ、5月になった。
 私は、私自身の異変に気づいた。

 後10ヶ月、こうして仕事を続けると
私の現職生活が終わると思えた時である。
つまり、終着駅がすぐそこに見えた時であった。

 突然、空しいような、切ないような、やるせないような、
無力感とも言えるようなものが、私の全てを包み込んだのだ。

 まだやり残したことが、きっと沢山あるはず。
 やりたいのに、気づかないままやっていないことがあるのでは。
 私にしかできないことが、まだまだあったのではないだろうか。

 このまま終わったら、後悔の多い人生になるのではと、
数々の後ろ髪を引かれるような、曖昧とは言えるのだが、
それでも、感じたことのない、薄暗い湿った空気の洞窟に一人踏み込んだ、
そんな気持ちに、私は包まれた。

 私は、一気にそれまでの元気を失ってしまった。
 ピリオドまで余すところわずかなのに、私は迷路に入ってしまった。

 しかし、数ヶ月後、その迷い道からの脱出は、意外なところにあった。
それは、退職の延長であった。

 東京都は、私が退職を迎える前年度から、定年退職者の再任用制度を導入した。
 私にも、「定年後も、もう1年そのまま仕事を続けては。」と声をかけて頂いた。

 私は、その道が開かれた瞬間、
「後1年、やり残したこと、やりたいことができる。」
そして、「歩んできた教職生活を振り返る時間ができる。」
 そう思えた時、私は急に元気を取り戻した。

 再任用を1年、そしてもう1年と、2回続けた。
「どうでしょう、もう1年、続けては。」と誘ってくれる方もいたが、
私はもう満腹だった。

 定年で退いた方より2年間も多く、私は仕事を追い求めさせてもらえた。
もう悔いなど微塵もなかった。
 私をここまで育ててくれた人々と日々に、深々と一礼し、現職を去った。


 そうです。引き際は、事前にプランニングするものではなく、
その時その場で、決断するものなんです。




庭のジューンベリーが満開  伊達は『春爛漫』
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