ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

『北の国から』 あのシーン ②

2016-11-24 17:23:01 | 北の大地
 6月、よく通る散歩道の脇で、
じゃが芋の白い花が咲いていた。
 足を止め、カメラを向けた。
花の形と色のきれいさに、一瞬息をのんだ。

 そして、同じ花が、『北の国から』のオープニングで、
さだまさしのあの曲と一緒に映し出されていたことに気づいた。

 北の大地の小さな美しさが、
私に澄んだ心を思い出させた。
 じゃが芋の花とドラマのワンカットからのメッセージだと思う。
いつまでも、心に留めておきたい。

 さて、前回の続きである。
ドラマ『北の国から』の、生き続けている場面を綴る。


 ④ 五郎の 一喝

 1984年9月27日に放映された『‘84夏』では、
この年の冬、純たちの住む丸太小屋が、
全焼するという大事件があった。

 その出火原因は、純と正吉にあった。

 五郎が出稼ぎから帰ってくる日のことだ。
純と正吉はスキーで遊びすぎ、
草太との約束の時間に遅れてしまった。
 2人は濡れた衣類をストーブの上に無造作に放り投げ、
バス停に走った。

 その夜、純は火事の火元がストーブらしいと聞いた。
翌日、2人は交番で事情聴取を受けた。

 純は、何を訊かれても覚えていないと言った。
ところが、正吉は自分がやったと言い出し、
村の人たちも、火を出したのは、正吉だと話題にした。

 そして、夏休み。
東京から、遠縁で同年代の努が富良野に、遊びに来た。
 彼は、パソコンを持ってきた。
純は、そのパソコン雑誌に興味があった。

 祭りの後、努がいる中畑の家に寄った。
そこに、あのパソコン雑誌があった。
 見たくてたまらなかった。
でも、努に頭を下げるのが嫌で、純は見栄を張った。
 そして、正吉と2人、中畑の家を後にした。

 ところが、正吉は「純がほしそうにしていたから」
と、その雑誌を持ち出していた。
 家に帰り、純はそんな気持ちはなかったと正吉に言う。
すると、正吉は、
「やっぱり、お前は汚ねえ奴だな。」と。

 純の心に、ぐさっと突き刺さった。
火事のことを思い出した。

 さらに、こんなことが……。

 雪子が東京に帰る日だ。
見送るのがいやだった純と正吉は、
努を誘って、空知川へ行った。

 草太のいかだで川に出た。
途中で、努が竿を流してしまい、3人とも川に落ちてしまう。
 溺れそうになった努を、2人で川岸まで引き上げた。

 ところが、努にパソコン雑誌を盗んだことを言われ、
2人は努を残して帰ってしまう。 
 途中で、純から「泥棒したのはお前だ。」
と、言われた正吉は、
持ってきた努のズボンを、川へ投げ捨ててしまう。
 そして、「相変わらず、お前は汚ねえ野郎だな。」と。

 その日の夜遅く、純は五郎に呼ばれ、尋ねられる。
純は、努のズボンのこと、パソコン雑誌のこと、
草太のいかだのこと、どれも正吉だと答えた。
 そしてその時、
明日、正吉を引き取る人が来ると知らさせる。

 ここまで、長々と『‘84夏』の、
あらすじの粗々を綴ってきた。
 それは、翌日の夜、
正吉が母・みどりと一緒に列車で富良野を去り、
その後の、五郎と純、蛍の3人が、閑散とした食堂で、
ラーメンを食べるシーンのためである。

 純は、ラーメンをすすりながら、
努のズボンのこと、パソコン雑誌のこと、
草太のいかだのことを、正直に五郎に話した。
 そして、あの丸太小屋の火事も、正吉ではなく、
ストーブに服を置いたのは自分だと、打ち明けた。

 その時なのだ。
食堂の女店員が、まだ残っているラーメンの器を、
下げようとした。

 五郎は、突如、その女店員にむかって怒鳴るのだ。
「子供が、まだ食っている途中でしょうが!」

 デリカシーの欠片すらない女店員に対する五郎の一喝。
今も、その声が蘇ってきそうだ。

 子どもに限らず、誰にでも潜んでいる、
ずるさ、卑怯さ、責任を回避したり転化したりする醜さ等々。
 
 純はそれらを乗り越え、意を決して五郎に本当を話した。
その想いを精一杯受け止めた証が、
五郎の「…まだ食っている…」の叫びだと、
私は理解した。

 あの頃、子育ての真っ最中だった。
教師としても同様、随分と応えたシーンだった。


 ⑤ 泥のついた1万円札

 1987年3月27日放映の『‘87初恋』では、
純が中学3年生になっていた。
 春、卒業を迎え、
富良野を後にするまでのドラマである。

 題名の通り、同じ年齢の大里れいに惹かれる。
初恋である。
 畑仕事等、大人たちの様々な喧噪をよそに、
純とれいは、淡い時間を過ごす。

 そんなある日、
れいは、
「中学を卒業したら、東京に出て、
働きながら定時制高校へ通うつもりだ。」
と話す。

 その夜、純は東京にいる雪子へ、
東京に行きたいと手紙を書いたりする。

 そんな純の想いは、やがて蛍や草太などに伝わる。
五郎がそれを知ったのは、みんなより一番遅れてであった。
 それもあって、親子の言い争いとなる。

 一方、れいは、事故で母を亡くすなどの不運に見舞われた。
そして、純と逢う約束していたクリスマスの日に、
突然富良野を出て行ってしまう。

 その日、約束の場所に行くと、れいからのクリスマスカードと、
尾崎豊のテープとカセットがあった。
 落胆する純。

 そこに蛍が現れる。
そして、卒業式が終わったら、
東京に発つようになっていると伝える。
 その時、「もう遅い。」と純は言ってしまう。
 
 珍しく蛍が、兄に向き合う。
「言い出したのはお兄ちゃんじゃない。
だから父さん、あんなに無理して…。
 東京へ行きたかったのは、れいちゃんと一緒だから?!
…学校のことじゃなく、れいちゃんといたかったから?!
…そんなこと今ころ言い出すの、よして!」

 憤慨する蛍に、私まで何も言い返せなくなった。

 そして、「疲れたら、息が詰まったら、いつでも帰っておいで」
そんな五郎から励ましを受け、
純は、卒業式を終え、富良野を後にすることになる。 

 動機はどうであれ、様々な人々との関わりを通して、
人は背中を押され、新たな道へ踏み出す。

 純は、五郎が手配した東京までの、
定期便トラックの助手席に乗った。
 五郎と蛍が見送ってくれた。

 トラックが動き出すと、運転手に頭を下げ、
早々にれいちゃんからのカセットを聴きだす。
 尾崎豊の『I Lave You』が流れる。

 すると、運転手がそのイヤホンを外す。
そして、五郎が運転手に渡した封筒を、
受け取るように言う。

 その封筒には、1万円札が2枚入っていた。
「泥のついたピン札など受け取らない。宝に。」
と、ぶっきらぼうに言う運転手。

 ドラマは、そのトラックが、
空知川にかかる橋を渡るシーンで終わるが、
純は、泥のついた1万円札と共に、
富良野での日々を回想する。

 あの泥のついた1万円札だが、
私は、五郎の人柄と暮らし、そのものだと思った。
 ひたむきで控えめな五郎の、
真っすぐにわが子を思う気持ちに、涙があふれた。

 そこに、純が聴く尾崎豊の『I Love You』が流れる。
再び、涙がこみ上げてきた。

 なぜが、私の心が洗われていた。




 今年も 白鳥が飛来! 伊達で越冬する 
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『北の国から』 あのシーン ①

2016-11-18 18:27:56 | 北の大地
 時折、このテレビドラマのワンシーンを、
思い起こすことがある。

 もう35年も前、
1981年10月9日から翌年3月26日まで、
24回の連続ドラマシリーズだった。
 そして、『83年冬』(1983年3月24日放送)から、
『遺言(後編)』(20002年9月7日放送)まで、
不定期で12回届けられた特別編がある。

 どれも父・五郎とその子ども・純と蛍を中心とした、
北の大地・富良野での、そこの人々と織りなす物語だ。

 2人の子どもが父の背中を見ながら成長していく姿と、
数々の苦悩や喜びが、ドラマを見る人々に感動を与えた。
 私もその一人で、
このドラマから生きるヒントや励ましをたくさん頂いた。

 「今は昔」ともいえるドラマであろうが、
私の心で生き続けている場面を探ってみる。


 ① 第1回 純の驚き
 
 両親が別れることになった。
9歳の純と妹・蛍は五郎と一緒に、
東京から五郎の故郷・富良野に来た。

 降りた駅は、布部。
遠縁の北村草太が出迎えてくれた。
その日は、草太の家に泊まった。

 翌日、2人は五郎が昔住んでいた廃屋へ連れて来られた。
これから家族3人で住むと言うボロボロの家を見て、
純はあきれ顔で言う。
 「これが、俺たちが住む家かよ。」
そして、「電気がなければ暮らせませんよ。」
真顔で訴える。

 富良野までの列車の中、
車窓から見える空知川に感動する蛍。
 それに引き換え、不安気に見ていた純。
その不安が、見事に的中する。

 純は、東京にいる恵子ちゃんにそっと語る。
「母さんはきれいだし、頭もいいし、美容師の仕事も忙しいし、
いつもモソッと頼りない父さんとは、
もともとつり合いがとれなかったってわけ。」

 ドラマのスタート時、純は五郎のよさに気づいていない。
そればかりか、
これからの暮らしに不安ばかりが増していった。

 そんな東京での日々との大きなギャップが、
「電気がなければ…」と言うやり取りの締めくくりで、
純はこう発する。
 「あちゃー!」

 可笑しくもあり、切なくもあり・・・なのだが、
いつまでの私の心で、こだました。


 ② 笠松杵次の言葉が

 第5回で、五郎は住んでいる家屋の土地が、
「自分のものだ。」と笠松杵次から言われる。
 
 杵次は、純の同級生・正吉(やがて蛍の夫)の祖父だが、
大友柳太郎が演じる杵次の言葉が、ズシリと重いのだ。

 第5回では、がんびに火をつける練習をしていた純に、
杵次が昔話をする。

 「木は倒される時、大声をあげる。
殺生も随分した。そして拓いた。

 いったん拓くのに何年かかったろう。
馬と木と粗末な道具と。
 馬ももうおらん。

 そして若いもんはみんな土地を捨てる。
わしらが殺生して切り開いたこの土地じゃ。

 熊や木や馬になんと申し開く。
人間は勝手じゃ。」

 荒野を切り拓いた先人たちへ、畏敬の念をもった。
そんな偉業を軽んじる悲しみや怒りが、胸を打つ。

 この杵次は、第15回の終末、橋から転落し亡くなるが、
その直前の五郎宅での語りに、私は涙した。

 杵次は、雨の中夜9時頃だった、
一升瓶を片手に、五郎の家に現れる。
 その日、18年間を共にした馬を売った。

 「今朝、早く業者がつれに来るってんンで、
ゆんべ御馳走食わしてやったンだ。
 そしたらあの野郎、察したらしい。

 今朝トラックが来て、馬小屋から引き出したら、
入り口で急に動かなくなって、
おれの肩に、首をこう、
幾度も幾度もこすりつけやがった。

 見たらな、涙を流してやがんのよ。
こんな大粒の。こんあ涙をな。

 18年間オラといっしょに、
それこそ苦労さして、用がなくなって。
 オラにいわせりゃ女房みたいなあいつを。

 それからふいにあの野郎、
自分からポコポコ歩いてふみ板踏んで、
トラックの荷台にあがってったもンだ。

 あいつだけがオラと、苦労をともにした。
あいつがオラに何いいたかったか。
 信じていたオラに、何いいたかったか。」

 野良着に手ぬぐい、日焼けした顔で、
ぼそぼそと語る杵次の大友柳太郎。
 馬へ情が移るから、名前はつけないとも言う。

 飼い主にも馬にもつらい定めに、
今も、涙がこみ上げてくる。


 ③ 靴を探す

 純と蛍の母・令子が亡くなった。
第23回は、東京での葬儀の数日である。

 令子の新しい夫・吉野が、
2人の汚れた運動靴を見て、店に連れて行く。
そこで、古い靴を捨てた。

 その日の午後、お葬式が始まった。
読経が流れる中、蛍が突然、純に言う。
「ねぇ…、あの古い靴、さっきのお店にまだあるかな。」

 純は語りだす。
「ドキンとした。ぼくがさっきからこだわってたことに、
蛍もこだわってたことがわかったからで……。」

 以前に比べ、純の五郎への想いは変わっていた。
父に断らず靴を捨てたことを後悔し・・。

 「心が痛んでいた。あの、置いてきた運動靴は、
去年父さんが買ってくれたもので。

 むこうに行ってからはじめて町に、
富良野の町に買い物に出たとき、
余市館で父さんが選んで、
ぼくらのために買ってくれたもので。

 そのとき、父さんは靴のデザインより、
集中的に値段ばかり見。
 結局一番安いのに決めて、
これが最高、と笑ったわけで。

 だけど……。その靴はそれから1年、
冬の雪靴の期間をのぞけば、
ぼくらといっしょにずっと生活し、
ほこりの日も、雨の日も、寒い日も…、
それから雪解けの泥んこの日も、
学校にいくにも畑で働くにも、
ずっとぼくらの足を守ってくれ。

 だからすりへり、何度も洗い、
そのうち糸が切れ、糸が切れると父さんが縫い、
底がはがれるとボンドでくっつけ、
そうして1年使いこんだもので。

 その靴を……。ぼくは捨てていいといい。
父さんに断らず、……捨てていいといい。」

 その晩、トイレに起きた純は、令子の遺骨の前で、
肩を丸め、声を殺して泣く五郎を見た。

 その五郎は、翌朝早く、富良野に帰っていた。
夕方、遅れて来て、早々と帰った五郎を、
非難する親戚一同に、
富良野から来ていた五郎の叔父・清吉(大滝秀治)が、
遠慮がちに言い出す。

 「それは違うんじゃないですか。
五郎は、早く来たかったンですよ。
 本当は、純や蛍や雪子ちゃんといっしょに、
とんで来たかったンですよ。

 あいつがどうにも来れなかったのは、
恥ずかしい話だが、金なンですよ。
 金がどうにもなかったンですよ。

 ……だからあのバカ、汽車できたんでしょ。
一昼夜かかって汽車で来たんですよ。

 飛行機と汽車の値段のちがい、わかりますか、あなた。
1万ちょっとでしょう。
 でもね、わしらその1万ちょっと、
稼ぐ苦しさ考えちゃうですよ。
 何日、土にはいつくばるか。ハイ。」

 純と蛍は、それを廊下で聞いていた。
2人の心は決まる。
 あの古い靴を探しに行く!

 2人で捨ててしまった靴を探しているところに、
警官(平田満)が声をかける。
 警官の質問に、ビクビクしながらもしっかりと答える純。
質問の中で2人の悲しい事情を察知し、
警官の表情と心情か変化していく。
 急遽、その靴を探し始める警官。
北海道訛りなのだろうか、それが温かく、心にしみた。

 警官 「お前ら、何してる?」
 純  「あ、はい、靴を探しています。」
 (警官、新しい靴を見て)
 警官 「どういうこと?」
 純  「おじさんが捨てろって言った靴です。」
 警官 「おじさんは捨てろって言ったんだべ?」
 純  「はい、でもその靴まだ履けるから……。」
 警官 「おじさんって誰だ?」
 純  「母さんと一緒になるはずだった人です。」
 警官 「母さんはどこにおる?」
 純  「4日前に死にました。」
 (ハッとする警官)
 警官 「確かにここに捨てたんだな?
     あっちにもあったぞ。
     お前ら、そこ探せ、探せって。
     俺はあっち探してくるから。」

 純が語る 「恵子ちゃん、なぜだかわかりません。
       涙が急に突き上げた。」

 令子の死に直面しても、涙を見せなかった純だった。
このやりとりで、涙が突き上げたと言う。

 ここに至るまでの純の葛藤、
どれ程、小さな心が揺れ動いたことか。
 いくつもの悲しみと驚き、苦しさと迷い、
それが純の表情と言葉の隅々から伝わった。

 こみ上げたのは、私だけではないだろう。




羊蹄山:レークヒル・ファーム(洞爺湖町)から
 
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禅語 『喫茶去』 から

2016-11-11 21:59:25 | 思い
 父が逝った時も母の時も、位牌分けをしてもらった。
なので、小さいが仏壇を買い、
今も仏花を絶やさず、毎朝、ロウソクと線香、
そして、わずかな時間だが合掌する。

 つい2か月ほど前になる。
1歳半の初孫が、大きな手術をすることになった、
と知らせがきた。
 息子夫婦が愛情たっぷり、すくすくと育ててきた。

 何としても、その手術が成功してほしいと思った。
遠く離れた私にできることは何だ。
 毎日、百円玉を1個握りしめ、
10分ほど離れた神社に行った。
 ただただ心静かに、手術の成功を願い、
神殿に二礼二拍手一礼をした。

 10日程して、手術回避のメールが届いたが、
あの時、私にできたのは祈ること。

 校長職時代も同様だった。
あの頃、決して神社やお寺の前を素通りしなかった。
 どんなに急いでいても、
立ち止まり、一礼だけは欠かさなかった。
 それで、学校事故がセロになるとは思わなかった。
でも、いつもそれを続けた。

 そんな私である。
だから強い宗教心や信仰心があるのか、と問われたら、
きっぱりと「それはない。」と言い切った。

 と言いつつも、どの宗教宗派に関わらず、
『人とは、生きるとは、命とは』と言った教えには、心が動き、
素直に耳を傾け、生きる糧にしたいと思った。

 もう10数年も前になるだろうか。
行きつけの書店で、当てもなく書架を巡った。
 『ほっとする禅語』、『続ほっとする禅語』と題する本が、
目に留まり、買い求めた。

 今も、時折、そのページをめくる。
目を通す度に、心打たれたり、癒されたりする言葉がある。
 それだけ深いと言うのだろうか、不思議な感じがする。

 さて、私が、『喫茶去』(きっさこ)と言う禅語を知ったのは、
この書からである。

 禅語『喫茶去』には、次のような話がある。

 中国は唐の時代だ。
禅の巨匠である趙州禅師のところに、2人の修行僧がやってきた。

 師は、尋ねた。「前にもここに来たことがあるか。」
「来たことがありません。」と、僧は言う。
 すると師は、「喫茶去」と言い、お茶を勧めた。

 そして、もう1人の僧にも、
「前にもここに来たことがあるか。」
「来たことがあります。」と答えた。
すると師は、再び「喫茶去」と、お茶を勧めた。

 次に、その様子を見ていた院主が師に尋ねた。
「前に来たことのない者に『喫茶去』とおっしゃり、
前に来たことのある者にも『喫茶去』とおっしゃる。
なぜですか?」
 すると師は、その院主にも、
「喫茶去」と、お茶を勧めたのだ。

 趙州禅師が繰り返した『喫茶去』、
その意には、諸説あるようだ。

 「喫茶」はお茶を飲むの意で、「去」は意味を強める助字。
従って、「お茶を飲もうよ。」の意味とする説。
 また、「喫茶し去れ」、
つまり、「お茶を飲んでから出直してこい」
と、いう説などである。
 どれをとっても意味深い。

 前出した私の愛読書は、冒頭に
「嫌いな人にも一杯のお茶を差し出す余裕」
と記してから、『喫茶去』をこう解説している。

 『よくいらっしゃいました。
まずはお茶でも召し上がれ。

 日常のあたりまえの光景ですが、
お茶を差し出すことほど、
私たちの心を映し出すものはありません。
 あなたは嫌いな人が来ても、
お茶を召し上がれと言えますか。

 到着したとたんあわてて言い訳しようとする人に、
ご苦労さん、まずは一杯、
と相手の呼吸を整えてあげることを考えますか。
 よく来たね、という気持ちも一杯のお茶が表わし、
寒かったろう、というねぎらいの気持ちも一杯のお茶が表します。

 「喫茶去」とは、お茶を召し上がれ、
というただそれだけの言葉。
 抹茶を立てても番茶でも、
理屈抜きに一杯を差し出すことこそ禅の心に通じます。
 儀式でもなく、
健康や喉の乾きのためともこだわらず、
ただ「さあ、お茶をどうぞ」。』


  <その1>

 年に数回、稀なことだが、
私の校長室に、何の前触れもなく突然の来室者がある。
 最多は私の腹心である副校長だが、
続いて教員、主事、子ども達、
さらには、保護者、近隣住民、地域の方々、
時には、通行人までいる。

 その時、どの人も、
心穏やかではなく、ノックをし忙しく入室する。
 その歩調と表情を、
私は、まず静かに受け止めるよう心がけた。

 「校長先生、お話があります。聞いてください!」
その尖った声に、椅子を勧めながら、
私は、こう応じることにしていた。

 「ちょっとお待ちください。
今、お茶を入れますから。」

 少しの時間を使いテーブルにお茶を置く。
それに口をつけるのを待ってから、
「どうしましたか?」
 私は、ゆっくりと身を乗り出すことにしていた。 

 決まって、尖った声が少しだけ和らぎ、
用件を話しはじめた。

 『喫茶去』の意味を実感する場面である。


  <その2>

 平成22年の年賀状に記した詩である。

  首都高をぬけ
  甲府盆地をかける
  中央道の右手に八ヶ岳をのぞみ
  決まって諏訪湖SAで
  信州そばと野沢菜のおやきをほおばる
  もう一息伊那ICから中山道へ
  権兵衛トンネルをぬけて奈良井宿
  そして木曽から開田高原
  道の両側には白樺の林たち

    いつも快晴の日
    木曽御嶽山が迎えてくれ
    青空にみごとな雄姿
    ただ時間を忘れ眺望
    ここは私の定宿「風里」
    一面のそば畑と
    たくさんの野菜が収穫を待つ風景
    湯につつまれ
    色とりどりの料理に満面の笑み
    ライトアップされた水車小屋
    遠くで響く鹿威し
    木立ちの中で止まった時間

 この詩の題を「喫茶去」とした。
実は、定宿は若干言い過ぎである。
 年に1、2回、しかも毎回1泊だけ。それが、10年近く続いた。

 大自然の中に、ぽつりと佇む温泉宿だ。
正確な部屋数は知らないが、20室程度かと思う。

 宿の前にある駐車場に車を止めると、
すぐにオルゴールの音色が流れるサロンに案内される。
 見慣れた顔のスタッフさんが、
口数少なく、席を勧めてくれる。

 ほっとくつろぐ私を見て、一杯のお茶を持ってくる。
その瞬間から、翌日「またのお越しをお待ちしてます。」まで、
全ての押し付けを排除した、静寂の時を私は過ごす。

 片道4時間をかけてでも、そこへ行こうと思いたつ日。
それは、私自身の何かが、煮詰まってしまいそうな、
そんな想いの時だ。

 しかし、宿までの長い道に流れる景色もいい。
高原の穏やかな緑色もいい。
『風が佇むふる里』と詠む温泉宿の湯煙もいい。
 いつだって、その全てが、私を迎え入れてくれる。
逆なでされたような心が、少しずつ潤っていくのだ。

 だから、「よし明日から」。
帰路のハンドルはそう語ってくれる。

 『喫茶去』に込められた思いを実感する場がある。




雪が降った、ジューンベリーももうすぐ落葉
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だての人名録 〔5〕

2016-11-04 21:55:16 | 北の湘南・伊達
 5月6日以来になる。
伊達で出会った人々とのエピソード、その第5話。


 10 この時間にする

 今年は、冬の到来が早い気がする。
年齢も進んだのだろうか、
どうも寒さに対して根性がない。
 朝のジョギングも、低温をいいことに予定を変更し、
総合体育館を利用することが多くなった。

 つい先日のことだ。
総合体育館に隣接しているトレーニング室のマシンで、
小1時間ほどマイペースランニングをした。

 どうやら私は人一倍汗をかくタイプのようで、
マシンの回りにはたくさんの汗が落ちてしまう。
 備え付けの雑巾でそれをふき終わって、
立ち上がった。
 すると、一番隅のマシンで走る男性に目が止まった。

 30代半ばだろうか。
軽い足取りで、まったく頭の上下動がない走りだった。

 「あんな走り方がしたいなあ。
どうやって走ってるのだろう。」
 私は、雑巾を片手にし、女性のインストラクターが、
近づいてきたことにも気づかず、見ていた。

 「どうしたんですか。」
彼女はそう言いながら、私の手から雑巾をそっと取った。
 「あの人の走り方いいなあと思って、
つい見とれて・・・。」
 「フルマラソン、早く走るんですよ。」

 そうか、体力だけじゃない。
どんな走り方をするかも重要なんだ。
 改めて気づかされた。
いい見本が見つかった。

 「あの方、いつもこの時間に来るんですか。」
「そうですね。色々ですが…、
週1、2回は、この時間です。」

 「ようし、あの走り方だ。」
盗み見になるけど、見て覚えよう。
 『聞いたことは忘れる。見たことは覚える。
やったことは身につく』だ。

 この冬、トレーニング室で走る日は、この時間にする。
また新たなテーマが生まれた。 


 11 「忘れる! 忘れる!」

 同じトレーニング室なのだが、
そのロッカールームでの1コマである。

 汗を拭きふき、着替えに時間がかかっていた。
すると、体を動かし終えた同世代の方が2人、
戻ってきた。

 聞くとはなしに、
2人の会話が耳に入ってきた。

 「今夜は、シルバーのアルバイトで、
斎場の交通整理なんだ。」
「あれ、ちょっとした小遣い銭稼ぎになるよねぇ。」
 「そうなんだよ。これからは寒いけど、
時々なら、いい小遣いが入るから・・。」
「まあ、元気だからできるんだよ。」

 そう言いながら、私より早く着替えが進んでいく。

 「元気はいいが、最近物忘れがひどくてさ。」
「そうそう、同じだよ。」
 「家にいても、さっき置いた物の場所を、
すぐ忘れてしまうんだよ。探し物、ばっかりさ。」

 「まったくだよ。忘れる! 忘れる!」
「もう、どうしようもないわ。」
「本当だ。本当!」

 二人は、そう言い合いながら、
さっさと着替えを済ませ、
ロッカールームを出ていった。

 ところが、そのベンチにタオルが1枚残っていた。
私は、あわてて廊下に顔を出し、タオルをかざして、
 「あのー、タオル、忘れてますよ。」

 「ほら、また忘れた。」
私の声に振り返り、
2人は顔を見合わせ、大笑いをしていた。

 最近、同じようなことが私にもある。
この先々への、ちょっとした不安が芽生えていた。
 でも、二人がその荷を軽くしてくれた。

 1人になったロッカールームのベンチに腰掛け、
私は、思い出し笑い。


 12 再  会

 2年前、『サンダルに片手ポケット』と題して、
このブログに、朝のジョギングで、
顔馴染みになった方のことを書いた。

 その方とは、その年の末に出会ったきり、
ずっと姿を見ることがなくなった。
 私はジョギング、彼は犬の散歩中の出会いだった。

 足を止め、最後にした会話はこうだ。
「この犬、埼玉の娘のところにいたんだ。
それを飛行機に乗せて送ってくれたんだ。
 うちの奴が、可愛くて、かわいくて……なんだよ。
もう、だいぶ年でね、糖尿病で、毎月病院通いさ。
 薬代とか、金かかる、かかる。まあ、しょうがないさ。」

 「犬も糖尿病になるんですか。保険効かないですしね。
かわいそうに…。賢そうな犬なのに…ね。」
 「そうかい、賢そうかい。
うちのに言っておくわ。喜ぶよ。」

 その後、彼と出会わなくなったのは、
きっと愛犬の死だろうと、推測していた。

 今年、夏の終わり頃だ。
朝のジョギングで、いつも顔を合わせていた農道に上った。
 その道の先の方に、
サンダルに片手ポケットの彼を見た。

 伊達で知り合った方に、懐かしさを感じた。
はじめての感情だった。それが嬉しかった。
 いつになく足を速め、近づいた。

 「お久しぶりです。」
珍しく明るい声になっていた。

 一緒にいる犬は、種類が違っていた。
早速、「前の犬は・・・?」
 「なに、もう1年半前になるけど、死んだんだ。
それはそれは、悲しいもんさ。今もね。」
 「そうでしかた。」

 突然、1年前に私の愛猫が逝ったことを思い出した。
息がつまった。

 「それで、うちの奴が寂しがるもんだから、
子どもらがこの犬を買ってくれたんだ。
 まだ、なつかなくてね。」

 「それじゃ、散歩も久ぶりですね。」
「ずっと走ってたのかい。奥さんは?」
 「時々は、一緒に。」
「そっかい、よろしくな。」

 再び走り出しながら、
「まだ、違う猫を飼う気持ちにはなれない。」
じめじめしている私に気づいた。

 それとは別に、相変わらずのサンダルに片手ポケット。
それに、あのもの言い。
 2年前と同じ温もりが戻ってきた。
あの農道を走ることが、また楽しくなった。


 13 再  開

 5月、右肘の手術から丸2年が経過した。
3か月ぶりに担当医の診察があった。
 まだ、薬指と小指、掌の半分そして手首から肘にかけて、
しびれと麻痺が残っていた。
 それでも、徐々に回復している実感があった。

 「このまま良くなっていきます。もう通院はいらないでしょう。」
医師は、きっぱりと言い切った。

 次の週、思い切ってゴルフ練習場に行った。
2年半ぶりに、クラブを振った。
 予想通り、うまく打てない。
それでも、時々乾いた音がして、ボールが遠くへ飛んだ。

 右肘の様子を気にかけながら、
週1回練習場に向かった。異常の気配はなかった。

 6月中旬、家内の後押しもあって、
ラウンドを決めた。
 3年前、月に数回通った『伊達カントリークラブ』を予約した。

 クラブにつき、フロントで受付の女性が
「あらっ!」という顔をした。
 マスター室の顔ぶれも変わりなかった。

 カートへの、キャディーバッグの積み下ろしをしてくれる方が、
笑顔で近づいてきた。
 私の名を呼び、肩をポンと叩いた。

 「久しぶりですね。どうしてたんですか。」
「実は、肘の手術で、ゴルフができなかったんですよ。」
「もう大丈夫なんですね。それは、よかった。」

 3年前、こんなに親しく言葉を交わした覚えはない。
だから、予期していなかった対応が、
私のゴルフ再開へ、花を添えてくれた気がした。

 次に行った時、
マスター室の奥から、別の方の声がとんできた。
 「腕、大丈夫でしたか。」
「ありがとうございます。」
 大きな声になった。

 心が弾んだまま、ティーグラウンドに立った。




    秋まき小麦の畑 
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