ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

チョットした こだわり

2021-06-26 17:16:24 | 思い
 父は、私が30歳を迎える年に、亡くなった。
享年70歳だった。

 明治生まれ、大正育ちだ。
尋常小学校では成績優秀だったらしい。
 だから、私の祖父から、
「そんなに勉強ができるなら、
もう学校へ行かなくても、大丈夫だ。
 働け!」
と、5年生で宇都宮の家を出された。

 東京・上野で野宿しながら、仕事先を探した。
12歳で1人きりになった少年は、
色々な人々に助けられ、生き延びた。
 独学で、漢字や計算などの知識も、
人並みに身に付けた。
 その整った字形は、私など比ではない程だ。

 そして、20歳を過ぎてから、
タイヤの交換と販売で、活路を見いだした。
 父にとって、生涯で一番豊かな10数年を迎えた。
そんな時、母と出会い、結婚したと聞いた。

 ここで、さほど確かでもない
『ファミリーヒストリー』を語り続けるつもりはないが、
その後、つまり戦後、私が育った頃になると、
その豊かさとは、大きくかけ離れた暮らしが始まった。

 しかし、どんなに貧しくても、
父が苦労の末に獲得した豊かさを、
小さいながらにも、私は垣間見ていた。

 そのことが、今もチョットしたこだわりとして、
私に残っている。
 その中から2つを記す。

 
 ① オメガの腕時計

 金色したその時計は、いつも父の左腕にあった。 
寝る時は、茶だんすの上にメガネと一緒に置かれていた。

 「これは、舶来品でヨーロッパのスイス製です。」
そう言いながら、訪ねてきた人へ腕からはずして、
見せていたのを知っている。

 私は、それを手に持ったことがなかった。
父が顔を洗う時は、手を伸ばせば届くところにあった。
 でも、触れてはいけないものだと思っていた。

 その上、6年生の社会科で、
スイスは高級時計の生産で有名な国と知った。
 益々父の腕時計に、触れられなくなった。

 高校生になり、その文字盤にある「Ω」のマークが、
『オメガ』と言うことを知った。
 それだけのことなのに、勇気を得た。
 
 「そのオメガの腕時計、ちょっとつけさせて!」。 
思い切って、父に頼んでみた。

 父は、すぐに腕からはずすと、
「これを買った頃は、
日本でなかなか手に入らない時計だったんだぞ」。
 嬉しそうに、私の腕にはめてくれた。

 ズシリとした重厚感と一緒に、
ゴールドの長針と短針が強く印象に残った。

 時が過ぎた。
父が亡くなり、葬儀が一段落した日、
兄弟が集まって、父の形見分けすることになった。

 財など特になかった。
でも、いくつかの思い出の品が形見として、
車座になった兄弟家族の前に、次々と置かれた。

 私は、兄弟の中で唯一、大学まで行かせてもらった。
だから、形見分けは遠慮しようと思っていた。
 でも、願わくば1つだけ・・・。
あのオメガだけは欲しいと・・密かに・・。

 そのオメガの腕時計が、車座の真ん中に置かれた。
「誰かもらって上げて!」。
 母が言った後、一瞬の間があった。

「それ、欲しい!」
そう言おうと意を決めた時だ。
 12歳上の長兄の横から小声が聞こえた。

 「貴方、もらいなさい。早く!」。
義姉の声に、長兄はすかざす、
「そうか、もらうか!」。

 「オレも、欲しいんだけど!」
言えずに、オメガが長兄の手に握られるのを、ジーッと見た。

 そして・・・、
父のモノとは比較にならない安物だが、
思い切ってオメガの腕時計を、上野のデパートで買ったのは、
40歳を過ぎてからだった。

 あの日、ずっと欲しかった父と同じオメガを、
腕につけ、上機嫌だった。

 今も、私の腕にはオメガだ。
チョットした私のこだわり・・・!?


 ② 靴はいいもの

 このブログの17年1月『初めての温泉&グルメ』で、
書いたが、
父は、年に1回だけ家族全員を引き連れて、
グルメ三昧をした。

 その年によって、行き先は違ったが、
町で1,2を競うレストランや和食料亭、高級寿司店へとくり出した。

 その日だけは、いつもと違う服を着た。
私などさほど違わないが、
母はタンスから和服を取り出し、
見たことのない口紅を手にして、鏡に向かった。

 ネクタイに背広姿の父を見るのも、1年に1回、
この日だけだった。
 足もとは、いつもピカピカの革靴だった。

 「これは、コードバンの革靴だ。
馬のお尻の革を使ったもので、貴重なんだ。」
 この靴も、年に1回だけ見た。

 「いいか、大人になったら、靴はいいものを履け!
仕事の時は別だが、まず足もとからだ。
 人は必ず見ている!」。
その革靴を履きながら、父はたびたび言った。

 さて、私が、足もとを気にかけるようになったのは、
40歳を目前にした頃からだ。

 通勤時にカジュアルな装いからスーツに切り替えた。
すると、履き物は黒の革靴になった。

 何気なく自宅玄関で靴紐を結んでいた時だ。
『靴はいいものを履け!・・足もとは大事だ』。
 父のあのコードバンの革靴と口ぶりが、突然思い浮かんだ。

 早速、日曜日に、『いいもの』を目指して、
靴屋へ行くことにした。
 
 銀座に、『W靴店』のビルがあることを知っていた。
その紳士靴フロアーへ行った。
 靴の『いいもの』はコードバンに違いない。
だから、店内でそれを探した。
 みんなピカピカで、区別がつかなかった。

 臆することなく店員さんを呼び止め、尋ねた。
「コードバンの靴は、どれですか」
 きちんとスーツを着こなした店員さんは、
そのフロアーの奥の方へ私を案内した。

 その棚に置かれた革靴は、
私の目でも他とは明らかに違って見えた。
 父の靴の輝きが、すぐに蘇った。
「これだ」と思いつつ、値札が目に止まった。

 私の予想と、大きく違う数字が並んでいた。
一足の靴に対し、私が出せる価格ではなかった。
 諦めるのに、時間はいらなかった。

 「いや、こんな高価なモノとは・・・」。
そう言いながら、その場からすぐに離れた。

 そして、
「亡くなった父が、
靴はいいものをと言っていたのを思い出しましてね、
お邪魔したんですが・・・。
 とんでもない。予算オーバー過ぎました。
せめてあの半額なら・・・」。
 案内してくれた店員さんに、笑顔で言い訳をした。

 「当店オリジナルのものがございます。
どうぞご覧になるだけでも。」
 返事を待たずに、店員さんは私を先導した。
 
 その棚の靴は、黒と茶の洗練されたデザインだった。
「これはいい!」。
 直感した。

 「どうぞ、履いてみて下さい。」
その一足を、試し履きしながら、値札を確認した。
 『せめて半額なら』の範囲内だった。

 「この紳士靴は、当店でしか販売しておりません。
お値段もご予算の範囲内かと・・。
 コードバンの履き物までではありませんが、
お勧めできる、いいものです。」
 
 私は、そこに並ぶ幾つかを履く比べて、
1つを買い求めた。
 父のコードバンでなくても、
この『靴はいいもの』と思えた。
 
 それから、W靴店のオリジナル革靴を、
何足履いてきただろうか。

 今も我が家の靴箱では、
一足だけピカピカと履く機会を待っている。


   

  マイガーデン ・ 「アルケミラ」
                     ※次回のブログ更新予定は7月10日(土)です
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心 、 動 か せ !

2021-06-19 15:21:58 | 思い
 ▼ 東京の小中学校では、主任教諭選考の時期らしい。
キャリア10数年になる先生から、
その選考のために提出する『職務レポート』について、
指導を頼まれた。

 もう学校を離れて10年にもなる。
どれだけ役立つか、心配だったが、
一応練習で書いた『職務レポート』をメールしてもらった。

 その問題に、
『児童理解を基に 実践的効果的指導を行う上での課題・・・』
と、あった。

 「児童理解!!」。
久しぶりの言葉に、現職の頃の熱い想いが蘇った。

 「児童理解を基に指導を行う」ことは、
私が、最も大切にしたテーマだった。
 校長になってからも、先生方に、
『教育は児童理解に始まり、児童理解に終わる』と
言い続け、その重要性を説いた。

 若い先生方の勉強会では、次のことをよく口にした。

 「経験豊かな先生方のような指導技術を、
あなた方はまだ持っていません。
 だから、教師として劣っているか。
決してそんなことはありません。

 あなた方は、年齢的にも感覚的にも、
子ども達と近い位置にいます。
 その分、容易に子供を理解できるのです。

 子どももさほど距離感のないあなた方を、
よき理解者として、すぐに受け入れることができるのです。

 それは、経験ある先生にはなかなかできないことで、
あなた方、若い先生の強みなのです。」

 日頃の授業が、ベテラン先生のようにできず、
背を丸めている若い先生が、そんな話を聞きながら、
次第に顔を上げるのを何度も見た。 

 しかし、そんな時に、私は必ず忠告した。
「でも、いつかあなた方も、
子どもとの距離感を自覚するときがきます。
 その時のためにも、児童理解ができる力を、
今から身に付けておくことが大事なのです。」

 さて、その「児童理解ができる力』とは、何か・・・。
ある日、ベテランの先生が職員室で、
私にこんなことをつぶやいた。

 「最近、子ども達の想いや、
やりたいことがわからなくなることが、多くて・・。
 どうしたらいいでしょう?
校長先生は、よく共感的に子供を見るって言いますが、
 それが、なかなか・・、難しくて・・・」。

 私は、そんな声にいつも同じことを言った。
「子供にだけでなく、様々なことに心を動かすことですよ。
 私も同じですが、次第に心が動かなくなる。感じなくなるんですね。
だから、子供の想いや願いに心が響かない。
 心を動かしましょうよ。心を!」。
児童理解の基本は、そこにあるのだから・・・。
  
 ▼ 伊達で暮らし始めて、
それまでに経験のない出会いに、度々心を熱くしてきた。
 その1つ1つは、このブログにも書き記してきた。

 中でも印象深く、ずっと離れない2つを再現する。
1つは、14年10月13日のブログに書いた
『本当のごちそう』から・・。

 まず、ブログの一部を要約する。
市内のそば店で、辛味大根そばを食べた。
 食べ終えた濃いそばつゆを、そば湯でうすめ、
それを全部飲み干した時、
丼の底に「夢」の1字が書いてあった。

 驚いて、その丼を持ち上げて見ると、
周りには『春夏秋冬』の4文字が書かれていた。
 丼の文字を合わせて、「いつでも夢を」と、
私は読み取った。

 そばつゆまで飲み干した人への、
素敵なメッセージのように思え、
「それこそが、本当のごちそうだ。」と思った。
そんな内容だ。

 ある時、顔馴染みの奥さんたちとの立ち話で、
市内の美味しいおそば屋さんが話題になった。

 私は、すかざす『本当のごちそう』を、
熱く語った。
 するとすかさず1人の奥さんから訊かれた。

 「ねえ、そう言う話が好きなの。」
「だって、飲み干したら夢が出てきたんだよ。
 その上、春夏秋冬だよ。」
「へえ、そうなの・・・・。なんかめんどくさい。
ごめんね!」。
 私は、絶句し、作り笑いをするのが精一杯だった。

 同じようなことが、もう1つ。
秋の紅葉シーズンだった。
 伊達の山々も赤と黄に染まり、
その遠景に囲まれながら、パークゴルフをした。
 コースをセパレートする木々も、見事に色づいていた。
特に、カエデのグラデーションが綺麗だった。

 プレー中もしばしば、その景観を言葉にした。
「ねえ、すごい景色だね。遠くの山も赤と黄色、
ここの木も真っ赤!」

 「そうね」。
一緒にラウンドするメンバーは、それどころでないのか、
プレーに夢中のようで、返ってくる言葉に熱がなかった。

 私は、懲りずに再び語りかけ、同意を求める。
「何度見ても、今日の伊達の秋はすごい。
山もこのコースも、市内の街路樹も、
全部色づいていて、まさにお見事!」。

 プレー中に、くり返す私の紅葉絶賛へ、
ついに、メンバーの女性が私を見て言った。
 「だって、秋だもの・・。山も木も紅葉するでしょう!」。

 「それは・・・・、そうです」。
その時も精一杯の作り笑いをし、
もう紅葉を話題にすることを止めにした。

 さて、『本当のごちそう』の「なんかめんどくさい」も、
紅葉絶賛へ「だって、秋だもの」の返事も、
ずっと心の深くで留まったままになっている。

 自画自賛するつもりはないが、
心熱くしている私とは対照的に思えてならない。
 何度反省しても、醒めた声にしか聞こえないのは、私だけだろうか。

 「いくつになっても、もっと心を動かして!」
と、叫びたい。



 ≪追記≫ 【=『プラム』♂と『トマト』♀のヤリトリから=】

 ♂ やっと緊急事態宣言が終わるね。

 ♀ 外出は、買い物だけだったね。
   それも1人で・・。

 ♂ みんな同じだっだだろうけど、
   話し相手はトマトだけ・・。

 ♀ そうね。巣ごもり生活っていうけれども、
   その通りね。

 ♂ こんなんじゃ、「心を動かせ!」って言っても、
   なかなか動かないね。
   ああ、人が恋しい! 外が恋しい!

 ♀ 宣言が解除されでも、収束はまだまだ先よ。
   どうする、プラム?

 ♂ こんな時だから、文化や芸術の出番なんじゃないかなあ。
   それに触れて、いろいろ心動かしたい。

 ♀ 心が動かないと、
   美味しいものも美味しいと思わなくなるものね。
 
 ♂ その通り!




    ジャガイモの花 盛り 
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オンライン マラソン ・・・

2021-06-12 14:31:46 | ジョギング
 春はマラソン大会に参加してきた。
4月は、伊達ハーフマラソン大会、5月は、洞爺湖マラソン大会、
6月は、八雲ミルクロードレースと続いた。

 新緑の中を、多くのランナーたちと一緒に、
同じゴールを目指して、走るのは楽しい。

 しかし、コースの途中には、様々な葛藤がある。
息が切れて、苦しくて止まりたくなる。
 突然、足が重くなり、走れそうもなくなる。
喉が渇き、水分補給に飢える。

 そのたびに、一緒に走っている
見ず知らずのランナー達の様子をうかがう。
 時には、その表情をチラッと見る。

 涼しい表情で走っている人など、誰1人としていない。
中には、同じように今にも止まりそうな走り方の人も・・・。
 でも、みんな、1歩1歩を刻んで、
前へ前へ、ゴールへゴールへと向かう。

 その強さ、たくましさに度々助けられ、
葛藤と向き合い、私も走り続けられた。
 それが、マラソン大会の最大の魅力だ。

 しかし、春の3大会はコロナで中止になった。
予想はしていたが、2年連続だ。
 振り返ると、一昨年9月末、旭川の大会で、
ハーフマラソンをゴールしてから、
大会には参加できずにいる。

 だからか、週に2,3回の朝ランも、
熱が入らないまま・・。
 でも、いつか再びと、
走るのを辞める気持ちにはなれないできた。

 2月だったろうか。
マラソン大会は中止だが、
洞爺湖オンラインマラソンを行うと知らせがきた。

 5月の中旬から2週間以内に、
フルマラソンの距離以上を走る。
 期間内なら何回に分けて走っても、
どこを走ってもいい。
 走った距離と時間は、
スマホのアプリで計測・記録するシステムだった。

 完走したら、「完走メダル」がもらえるが、
タイムや順位はつけないと言う。
 エントリー手数料として200円少々を振り込めば、
後は、アプリをインストールすればいい。

 さほど気乗りしなかったが、一応手数料を払った。
試しに、スマホにアプリも入れてみた。

 そして、5月が来た。
10キロずつ4回に分けて、走ればいいことだ。
 さほどハードルは高くない。
開催期間が近づくと、徐々に意欲が湧いた。

 やはり『目指すものがあれば』なのか・・。
最近は、数日あけても、
10キロを連続して走っていなかったのに・・。
 1日おきに約10キロを4回走る計画を立てた。

 1回目から3回目は、朝ランで走り慣れた3コースにした。
そして、最終回は洞爺湖畔の10キロコースと決めた。

 笑われそうだが、スマホアプリはすごい。
走行距離、タイムやラップの計測に加え、
走行したコースを、地図上に記録するのだ。
 その精度にも驚いた。

 また、そのアプリで、
他のランナーの走行記録も閲覧できた。
 もの珍しさに惹かれた。

 大会のように一緒にゴールを目指すランナーは、
1人もいない。
 沿道の声援もない。
でも、オンライン上では、3000人を超える人々が、
フルマラソンの距離を走破しようとしている。
 少々、連帯感が生まれた。
 
 2回目を走り終えた日、
義母の悲報が届いた。
 葬儀から帰宅して、2日後に3回目、
一日あけて湖畔の4回目を走った。

 実は、4回目はオンマラソンの最終期限日だった。
ぎりぎり完走した。 
 こんなイベントがなかったら、
「10キロを連続4回」に、ここまで固執しなかったと思う。

 あれ以来、朝ラン5キロが物足りなくなった。
そう感じる日が再び来るなんて、思わなかった。
 「私、まだまだ、頑張れるのかも・・・!」。

 さて、文末は横道に逸れる。
洞爺湖畔での10キロ走の日は、緊急事態宣言の最中だった。
 その日は、数日で6月だというのに、
冷たい風が吹き、雲が低かった。

 スタート地点のすぐ近くでは、
5,6人の作業員が、舗装道路の片側を掘り起こし、
水道管の工事をしていた。
 それ以外、辺りに人影は探せなかった。

 500メートルも走ると、湖畔に出た。
5キロ進んでUターンし、同じ道を戻った。

 走りながら、
すれ違った人は、誰1人いなかった。
 有名観光地なのに、1台の観光バスも見なかった。
どこの観光ホテルにも灯りがない。
 惜春の風が、冷たさを運んでいた。

 1時間10分後、再びスタート地点でゴール。
相変わらず近くでは、同じ作業員だけが、
掘った道路の中で黙々とスコップを動かしていた。
 その頭上を、ここでも冷たい風が通り抜けていた。

 火照った体で荒い息のまま、観光地・洞爺湖の今を見た。
「4回の走行で、42,195キロを完走した!」
 その達成感が半減していた。




    みどり色・歴史の杜公園
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ワクチン・いい時季・油断なく

2021-06-05 14:37:32 | 北の湘南・伊達
 ▼ 私の街でも、いよいよワクチン接種が始まる。
対象は、65歳以上の高齢者からだ。

 その前に、医療関係者への接種があったようで、
家内のコーラス仲間が受けたと聞いた。
 「ついに、すぐそこまでワクチンが来ている。」
それだけで、収束の光りが見えた気がして、
少し気持ちが軽くなった。

 それにしても、
報道からは、予約はきっと混乱するだろうと思っていた。
 しかし、市のホームページに
『接種は必ず受けられますので、慌てずにお待ちください』
の一文を見つけ、そこに『予約終了』の知らせがあっても、
動揺しなかった。

 その後、数日して、「接種枠が増えましたので」と、
市から自宅に連絡があり、6月下旬の予約が取れた。

 このパンデミックから開放されるのは、
まだまだ、まだまだ先だろう。
 でも、こうして収束への道をみんなで歩み始めたのだ。
心強く思うのは、私だけだろうか。

 「そうだ!」。
集団接種会場での案内誘導や交通整理なら、私でもできる。
 ボランティアが必要なら、是が非でも駆けつけたい。
声をかけて欲しい。

 ▼ ワクチン接種のわずかな明るさが手を貸すのか、
ついにやってきた期待の6月に、少々酔っている。

 ジューンベリーは、我が家のシンボルツリーだが、
首都圏からここへ転居して、7日で丸9年になる。
 その歳月を証明するかのように、根元の幹は太さを増した。
随分と背も伸び、枝も大きく広がった。
 真っ白な花が終わり、
今は全てが新緑に被われ、ふくよか。
 徐々に、実が膨らみ、赤く熟す時がもう間もなくだ。

 9年前の春先のこと、
「住まいが、ほぼ出来上がりました。
 引っ越しの予定はいつ頃になりますか。」
新居を依頼した建設業者さんから、
問い合わせの電話だった。

 私は、計画していた通りを即答した。
「そちらへは、6月になったらすぐ行きます。」
 誠実で、信頼していたその業者さんは、
いつもの穏やかな口調で言った。

 「そうですか。それはよかった。
伊達の1年で、一番いい時季です。
 しっかり準備して、お待ちしています。」

 新天地で、新しい一歩を踏み出すワクワク感に、
そのひと言はさらに弾みをつけた。
 期待感が、大きく膨らんだ。

 それから、毎年6月になると、
「伊達の1年で、一番・・・」を思い出す。
 そして、いつも「期待通り!」と大きな空を見上げる。

 5月、伊達は一斉に春を迎える。
街は、春の草花で賑わい、
近郊の田畑では、いたるところでトラクターが動きだす。
 小川も、雪解け水を湛え、活気づき、
木々は芽吹き、緑色が増していく。

 そんなプロローグを経て、ついに6月は来る。
夜明けは、圧倒的に早く、
目覚めると、陽は高く、明るく澄み渡る。

 窓を開けると、遠くで鳴き交わすカッコウの声と、
子スズメの細いさえずりに混じって、ヒバリの尖った声が届く。
 時に、アカゲラのドラミングがそれに加わる。

 山々は、すっかりと緑にあふれ、丸みをおび、
それを仰ぎ見ながら、私は「今年も、山が太った」と、
一人つぶやく。

 住宅街の庭からは、
黄色の水仙も赤や白のチューリップも消え、
代わりに、こぼれるような牡丹やシャクヤクの鮮やかさが、次を飾る。
 道端のいたる所に、
大好きな紫色のルピナスやアヤメが咲き誇り、
自宅そばの『嘉右衛門坂通り』は、
真っ白なツツジが、人目を誘う。

 「それだけで、もう十分!」。
なのに、なだらかにうねった畑では、
均等に植え付けられたブロッコリーやキャベツの
小さく凜とした苗が、スクスクと大きく。
 そして、まもなく収穫のとき・・。
畑の生命に、つい見とれて立ち止まる私。
 心が、次第に潤う。

 ▼ その6月を堪能しながら、
この9年間で培われた知恵が、私に忠告する。

 「もう、よく分かっただろう。
季節の移ろいは、待ってなんかくれないのさ。
 いい時季は、あっという間!
だから、そう、油断なく!
 どんなことも、後回しはよそうよ。
それより、今をもっともっと、謳歌して!」と。

 なのに、ふと、余計なお世話と思いつつ、
「老け込む前に」と、小さくうなづいたり・・。


  

    マイガーデン・白のアイリス 
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