父は、私が30歳を迎える年に、亡くなった。
享年70歳だった。
明治生まれ、大正育ちだ。
尋常小学校では成績優秀だったらしい。
だから、私の祖父から、
「そんなに勉強ができるなら、
もう学校へ行かなくても、大丈夫だ。
働け!」
と、5年生で宇都宮の家を出された。
東京・上野で野宿しながら、仕事先を探した。
12歳で1人きりになった少年は、
色々な人々に助けられ、生き延びた。
独学で、漢字や計算などの知識も、
人並みに身に付けた。
その整った字形は、私など比ではない程だ。
そして、20歳を過ぎてから、
タイヤの交換と販売で、活路を見いだした。
父にとって、生涯で一番豊かな10数年を迎えた。
そんな時、母と出会い、結婚したと聞いた。
ここで、さほど確かでもない
『ファミリーヒストリー』を語り続けるつもりはないが、
その後、つまり戦後、私が育った頃になると、
その豊かさとは、大きくかけ離れた暮らしが始まった。
しかし、どんなに貧しくても、
父が苦労の末に獲得した豊かさを、
小さいながらにも、私は垣間見ていた。
そのことが、今もチョットしたこだわりとして、
私に残っている。
その中から2つを記す。
① オメガの腕時計
金色したその時計は、いつも父の左腕にあった。
寝る時は、茶だんすの上にメガネと一緒に置かれていた。
「これは、舶来品でヨーロッパのスイス製です。」
そう言いながら、訪ねてきた人へ腕からはずして、
見せていたのを知っている。
私は、それを手に持ったことがなかった。
父が顔を洗う時は、手を伸ばせば届くところにあった。
でも、触れてはいけないものだと思っていた。
その上、6年生の社会科で、
スイスは高級時計の生産で有名な国と知った。
益々父の腕時計に、触れられなくなった。
高校生になり、その文字盤にある「Ω」のマークが、
『オメガ』と言うことを知った。
それだけのことなのに、勇気を得た。
「そのオメガの腕時計、ちょっとつけさせて!」。
思い切って、父に頼んでみた。
父は、すぐに腕からはずすと、
「これを買った頃は、
日本でなかなか手に入らない時計だったんだぞ」。
嬉しそうに、私の腕にはめてくれた。
ズシリとした重厚感と一緒に、
ゴールドの長針と短針が強く印象に残った。
時が過ぎた。
父が亡くなり、葬儀が一段落した日、
兄弟が集まって、父の形見分けすることになった。
財など特になかった。
でも、いくつかの思い出の品が形見として、
車座になった兄弟家族の前に、次々と置かれた。
私は、兄弟の中で唯一、大学まで行かせてもらった。
だから、形見分けは遠慮しようと思っていた。
でも、願わくば1つだけ・・・。
あのオメガだけは欲しいと・・密かに・・。
そのオメガの腕時計が、車座の真ん中に置かれた。
「誰かもらって上げて!」。
母が言った後、一瞬の間があった。
「それ、欲しい!」
そう言おうと意を決めた時だ。
12歳上の長兄の横から小声が聞こえた。
「貴方、もらいなさい。早く!」。
義姉の声に、長兄はすかざす、
「そうか、もらうか!」。
「オレも、欲しいんだけど!」
言えずに、オメガが長兄の手に握られるのを、ジーッと見た。
そして・・・、
父のモノとは比較にならない安物だが、
思い切ってオメガの腕時計を、上野のデパートで買ったのは、
40歳を過ぎてからだった。
あの日、ずっと欲しかった父と同じオメガを、
腕につけ、上機嫌だった。
今も、私の腕にはオメガだ。
チョットした私のこだわり・・・!?
② 靴はいいもの
このブログの17年1月『初めての温泉&グルメ』で、
書いたが、
父は、年に1回だけ家族全員を引き連れて、
グルメ三昧をした。
その年によって、行き先は違ったが、
町で1,2を競うレストランや和食料亭、高級寿司店へとくり出した。
その日だけは、いつもと違う服を着た。
私などさほど違わないが、
母はタンスから和服を取り出し、
見たことのない口紅を手にして、鏡に向かった。
ネクタイに背広姿の父を見るのも、1年に1回、
この日だけだった。
足もとは、いつもピカピカの革靴だった。
「これは、コードバンの革靴だ。
馬のお尻の革を使ったもので、貴重なんだ。」
この靴も、年に1回だけ見た。
「いいか、大人になったら、靴はいいものを履け!
仕事の時は別だが、まず足もとからだ。
人は必ず見ている!」。
その革靴を履きながら、父はたびたび言った。
さて、私が、足もとを気にかけるようになったのは、
40歳を目前にした頃からだ。
通勤時にカジュアルな装いからスーツに切り替えた。
すると、履き物は黒の革靴になった。
何気なく自宅玄関で靴紐を結んでいた時だ。
『靴はいいものを履け!・・足もとは大事だ』。
父のあのコードバンの革靴と口ぶりが、突然思い浮かんだ。
早速、日曜日に、『いいもの』を目指して、
靴屋へ行くことにした。
銀座に、『W靴店』のビルがあることを知っていた。
その紳士靴フロアーへ行った。
靴の『いいもの』はコードバンに違いない。
だから、店内でそれを探した。
みんなピカピカで、区別がつかなかった。
臆することなく店員さんを呼び止め、尋ねた。
「コードバンの靴は、どれですか」
きちんとスーツを着こなした店員さんは、
そのフロアーの奥の方へ私を案内した。
その棚に置かれた革靴は、
私の目でも他とは明らかに違って見えた。
父の靴の輝きが、すぐに蘇った。
「これだ」と思いつつ、値札が目に止まった。
私の予想と、大きく違う数字が並んでいた。
一足の靴に対し、私が出せる価格ではなかった。
諦めるのに、時間はいらなかった。
「いや、こんな高価なモノとは・・・」。
そう言いながら、その場からすぐに離れた。
そして、
「亡くなった父が、
靴はいいものをと言っていたのを思い出しましてね、
お邪魔したんですが・・・。
とんでもない。予算オーバー過ぎました。
せめてあの半額なら・・・」。
案内してくれた店員さんに、笑顔で言い訳をした。
「当店オリジナルのものがございます。
どうぞご覧になるだけでも。」
返事を待たずに、店員さんは私を先導した。
その棚の靴は、黒と茶の洗練されたデザインだった。
「これはいい!」。
直感した。
「どうぞ、履いてみて下さい。」
その一足を、試し履きしながら、値札を確認した。
『せめて半額なら』の範囲内だった。
「この紳士靴は、当店でしか販売しておりません。
お値段もご予算の範囲内かと・・。
コードバンの履き物までではありませんが、
お勧めできる、いいものです。」
私は、そこに並ぶ幾つかを履く比べて、
1つを買い求めた。
父のコードバンでなくても、
この『靴はいいもの』と思えた。
それから、W靴店のオリジナル革靴を、
何足履いてきただろうか。
今も我が家の靴箱では、
一足だけピカピカと履く機会を待っている。
マイガーデン ・ 「アルケミラ」
※次回のブログ更新予定は7月10日(土)です
享年70歳だった。
明治生まれ、大正育ちだ。
尋常小学校では成績優秀だったらしい。
だから、私の祖父から、
「そんなに勉強ができるなら、
もう学校へ行かなくても、大丈夫だ。
働け!」
と、5年生で宇都宮の家を出された。
東京・上野で野宿しながら、仕事先を探した。
12歳で1人きりになった少年は、
色々な人々に助けられ、生き延びた。
独学で、漢字や計算などの知識も、
人並みに身に付けた。
その整った字形は、私など比ではない程だ。
そして、20歳を過ぎてから、
タイヤの交換と販売で、活路を見いだした。
父にとって、生涯で一番豊かな10数年を迎えた。
そんな時、母と出会い、結婚したと聞いた。
ここで、さほど確かでもない
『ファミリーヒストリー』を語り続けるつもりはないが、
その後、つまり戦後、私が育った頃になると、
その豊かさとは、大きくかけ離れた暮らしが始まった。
しかし、どんなに貧しくても、
父が苦労の末に獲得した豊かさを、
小さいながらにも、私は垣間見ていた。
そのことが、今もチョットしたこだわりとして、
私に残っている。
その中から2つを記す。
① オメガの腕時計
金色したその時計は、いつも父の左腕にあった。
寝る時は、茶だんすの上にメガネと一緒に置かれていた。
「これは、舶来品でヨーロッパのスイス製です。」
そう言いながら、訪ねてきた人へ腕からはずして、
見せていたのを知っている。
私は、それを手に持ったことがなかった。
父が顔を洗う時は、手を伸ばせば届くところにあった。
でも、触れてはいけないものだと思っていた。
その上、6年生の社会科で、
スイスは高級時計の生産で有名な国と知った。
益々父の腕時計に、触れられなくなった。
高校生になり、その文字盤にある「Ω」のマークが、
『オメガ』と言うことを知った。
それだけのことなのに、勇気を得た。
「そのオメガの腕時計、ちょっとつけさせて!」。
思い切って、父に頼んでみた。
父は、すぐに腕からはずすと、
「これを買った頃は、
日本でなかなか手に入らない時計だったんだぞ」。
嬉しそうに、私の腕にはめてくれた。
ズシリとした重厚感と一緒に、
ゴールドの長針と短針が強く印象に残った。
時が過ぎた。
父が亡くなり、葬儀が一段落した日、
兄弟が集まって、父の形見分けすることになった。
財など特になかった。
でも、いくつかの思い出の品が形見として、
車座になった兄弟家族の前に、次々と置かれた。
私は、兄弟の中で唯一、大学まで行かせてもらった。
だから、形見分けは遠慮しようと思っていた。
でも、願わくば1つだけ・・・。
あのオメガだけは欲しいと・・密かに・・。
そのオメガの腕時計が、車座の真ん中に置かれた。
「誰かもらって上げて!」。
母が言った後、一瞬の間があった。
「それ、欲しい!」
そう言おうと意を決めた時だ。
12歳上の長兄の横から小声が聞こえた。
「貴方、もらいなさい。早く!」。
義姉の声に、長兄はすかざす、
「そうか、もらうか!」。
「オレも、欲しいんだけど!」
言えずに、オメガが長兄の手に握られるのを、ジーッと見た。
そして・・・、
父のモノとは比較にならない安物だが、
思い切ってオメガの腕時計を、上野のデパートで買ったのは、
40歳を過ぎてからだった。
あの日、ずっと欲しかった父と同じオメガを、
腕につけ、上機嫌だった。
今も、私の腕にはオメガだ。
チョットした私のこだわり・・・!?
② 靴はいいもの
このブログの17年1月『初めての温泉&グルメ』で、
書いたが、
父は、年に1回だけ家族全員を引き連れて、
グルメ三昧をした。
その年によって、行き先は違ったが、
町で1,2を競うレストランや和食料亭、高級寿司店へとくり出した。
その日だけは、いつもと違う服を着た。
私などさほど違わないが、
母はタンスから和服を取り出し、
見たことのない口紅を手にして、鏡に向かった。
ネクタイに背広姿の父を見るのも、1年に1回、
この日だけだった。
足もとは、いつもピカピカの革靴だった。
「これは、コードバンの革靴だ。
馬のお尻の革を使ったもので、貴重なんだ。」
この靴も、年に1回だけ見た。
「いいか、大人になったら、靴はいいものを履け!
仕事の時は別だが、まず足もとからだ。
人は必ず見ている!」。
その革靴を履きながら、父はたびたび言った。
さて、私が、足もとを気にかけるようになったのは、
40歳を目前にした頃からだ。
通勤時にカジュアルな装いからスーツに切り替えた。
すると、履き物は黒の革靴になった。
何気なく自宅玄関で靴紐を結んでいた時だ。
『靴はいいものを履け!・・足もとは大事だ』。
父のあのコードバンの革靴と口ぶりが、突然思い浮かんだ。
早速、日曜日に、『いいもの』を目指して、
靴屋へ行くことにした。
銀座に、『W靴店』のビルがあることを知っていた。
その紳士靴フロアーへ行った。
靴の『いいもの』はコードバンに違いない。
だから、店内でそれを探した。
みんなピカピカで、区別がつかなかった。
臆することなく店員さんを呼び止め、尋ねた。
「コードバンの靴は、どれですか」
きちんとスーツを着こなした店員さんは、
そのフロアーの奥の方へ私を案内した。
その棚に置かれた革靴は、
私の目でも他とは明らかに違って見えた。
父の靴の輝きが、すぐに蘇った。
「これだ」と思いつつ、値札が目に止まった。
私の予想と、大きく違う数字が並んでいた。
一足の靴に対し、私が出せる価格ではなかった。
諦めるのに、時間はいらなかった。
「いや、こんな高価なモノとは・・・」。
そう言いながら、その場からすぐに離れた。
そして、
「亡くなった父が、
靴はいいものをと言っていたのを思い出しましてね、
お邪魔したんですが・・・。
とんでもない。予算オーバー過ぎました。
せめてあの半額なら・・・」。
案内してくれた店員さんに、笑顔で言い訳をした。
「当店オリジナルのものがございます。
どうぞご覧になるだけでも。」
返事を待たずに、店員さんは私を先導した。
その棚の靴は、黒と茶の洗練されたデザインだった。
「これはいい!」。
直感した。
「どうぞ、履いてみて下さい。」
その一足を、試し履きしながら、値札を確認した。
『せめて半額なら』の範囲内だった。
「この紳士靴は、当店でしか販売しておりません。
お値段もご予算の範囲内かと・・。
コードバンの履き物までではありませんが、
お勧めできる、いいものです。」
私は、そこに並ぶ幾つかを履く比べて、
1つを買い求めた。
父のコードバンでなくても、
この『靴はいいもの』と思えた。
それから、W靴店のオリジナル革靴を、
何足履いてきただろうか。
今も我が家の靴箱では、
一足だけピカピカと履く機会を待っている。
マイガーデン ・ 「アルケミラ」
※次回のブログ更新予定は7月10日(土)です