ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

子ども達の力に

2020-02-29 15:39:00 | 教育
 元々さほど多くの記載はないが、
3月、4月のスケジュール表に斜線が引かれ、
空欄ばかりになった。

 伊達では、総合体育館もトレーニング室も、
図書館も閉鎖だ。
 全国より早く、小中学校の休校が、
27日から始まっている。

 また全道では、感染者が拡大し続けている。
ついに『緊急事態宣言』まで出た。
 
 感染症の専門医が
「今回の新型コロナウイルスについては、
まだ分からないことが多い。」
と、口をそろえる。

 中国で発症してから2ヶ月になる。
しかし、今の医学をもってしてもなお、
この事態である。
 
 尋常ではない『流行病』に、
多くの人が、人ごとではない危機感、
恐怖感を持っている。
 言うまでもないが、私もその一人である。

 思い起こせば、2009年だったろうか。
当時は、新型インフルエンザが大流行した。
 
 その年は、再任用校長としてまだ小学校に勤務していた。
全学級の出欠状況の集計報告がある午前9時を、
毎日緊張感をもって待った。

 多数の欠席者が出た学級や学年に対し、
翌日からの閉鎖の判断をするのが、私の役目だった。
  
 あの時は、最長でも1週間程度でよかった。
それでも先生たちからは、学習の遅れや、
休み中の過ごし方への不安な声が上がり、
判断に迷う場面も少なくなかった。

 最も私が迷ったのは、運動会だ。
10月中旬だった。
 流行が下火になりつつあった頃だったのに、
運動会実施の3日前になり、学年の違う3つの学級で、
インフルエンザによる欠席が一気に増えた。

 学級閉鎖を即決した。
その上、翌日以降の推移は予測できなかったが、
病み上がり直後の運動会は避けた方がいいと考え、
運動会も延期することにした。

 問題はいつまで延期するかだった。
私は2週間後に実施するにした。
 それは10月末の日曜日である。
明らかにシーズン遅れだ。

 それでも、全校児童、全学年、全学級で、
運動会を実施したかった。
 もし、そこでも流行が治まらなければ、
運動会は中止にするしかない。
 それもやむなしと密かに気持ちを固めていた。

 学校へは1つも苦情もなかった。
そして、幸いなことにその後に学級閉鎖等はなく、
運動会は実施の運びとなった。

 まだまだ流行の不安は大きかった。
秋晴れの青空のもと、校庭に並んだ全校児童、全職員は
マスク姿だった。
 短距離走も、応援合戦も、すべての競技でマスクをした。
保護者にも来賓にもマスクをお願いした。
 それでも実施できた運動会に胸をなで下ろした。

 さて、今回の事態だ。
春休みを前倒しにした1ヶ月に及ぶ、全国規模の休校である。
 私が10年前に経験した新型インフルエンザへの対応とは、
規模が全然違う。
 
 だが、まずは基本に立ち帰りたい。
当時、『学校の危機管理』について、
職員に伝えたメモを転記する。

  *    *    *    *    *    

 1.二つの危機管理
  ・ 危機管理には「リスクマネージメント」と
  「クライシスマネージメント」の2つの意味がある。
   前者は危機をおこさないための管理のことであり、
  後者は危機発生後の適切な対応のことである。
   学校では前者への対応に重きをおく。

 2.危機への対応
  ① 日常の些細なことでも曖昧にしないで、
   「報告・連絡・相談」を常に心がけ、情報を共有する。
  ② 「危機意識をもつ」ということは、『危機』を恐れることではなく、
   「危機」を認識し、危機を防ぎ、危機が発生した場合には、
   それに的確に対応する姿勢をもつことである。
  ③ 1人で悩むことなく、課題や迷いは、
   多くの人と共有することによって解決の糸口が見つかる。
    従って、教師間のコミュニケーションを大切にする。
  ④ 実際の危機に近い状態での訓練を繰り返すことによって、
   冷静な判断ができないといった危険性は低くなる。
  ⑤ 危機は往々にしてゆっくりと発展していく。
   危機の初期に前兆を捉えることができれば、
   それだけ問題解決の可能性が高くなる。

  *    *    *    *    *

 こん日の学校の危機管理は、すでに「リスクマネジメント」から
『クライシスマネージメント」へと移行し、深刻な状況である。

 今は、長期休校中の対応が学校に求められている。
こんな大規模で、しかも感染症拡大を防ぐための休校など、
誰も経験がないだろう。

 多くの子どもが感染し、病に伏せている訳ではない。
子ども達は元気なのだ。
 でも、学校が、感染拡大の源になる恐れがあるから、
「子どもは家にいなさい!」なのだ。

 報道は、子どもを預けられない保護者の戸惑いを、
大きく伝えている。
 しかし、一番たまったもんじゃないのは、
子ども達なのだ。

 昨日の昼下がり、子ども達の様子が気になり、
散歩を兼ねて近隣の住宅地を歩いてみた。
 家の前で、縄跳びをする姉妹がいたが、
長続きはせず、家へ入っていった。
 他に子どもを見ることはなかった。
子ども達のこれからに、不安が大きく膨らんだ。

 今、子ども達がいない学校で、
先生たちは何をしているのだろうか。
 まさか、好機とばかり指導要録の記載や、
年度末の事務処理に時間をあててはいないだろう。

 長期にわたり子どもが学校に来れないのだ。
そんな学校教育の大きな危機をどうするのか。 
 その前代未聞の難題に、
各学校は、必死に取り組んでいるに違いない。

 もう一度、私のメモをくり返す。
 『些細なことでも曖昧にしない』
『危機に的確に対応する姿勢をもつ』  
 『課題や迷いは…共有することによって解決の糸口を見つける』
『前兆を捉えることができれば、…解決の可能性が高くなる』。

 あの3、11の夜、私の学校は帰宅困難者の避難所になった。
初めてのことで、職員室は混乱した。
 その時、私からの提案を受け止めた職員からは、
「じゃ、私は名簿を作ります。」
 「僕たち3人は、備蓄品の数を確認してきます。」
「校内への誘導をします。」
 こんな声が次々と上がった。

 『危機に的確に対応する姿勢をもつ』。
そんな事例だが、今は前例のない危機だ。
 だからこそ強調したい。
「知恵を出し合おう。」
 「英知を集めよう。」
「頑張れ、先生方!、子ども達の力になろう!」。

 結びになる。
すっかりスケジュールがなくなった私だ。
 だからこそ、老兵だが力を貸したい。
私にでもできることが、きっとあると信じている。

 「じゃ、私はこれを」
そう声を上げることができるものはないか・・・・。




  花壇の小さな針葉樹  もうすぐ春
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『つらい境遇の中で生きて ・ ・ ・ 』

2020-02-22 11:56:36 | 文 学
 以前、本ブロクに書いたことから始める。

 教職について2年目だった。
まだ結婚前だ。
 民家の2階の4畳半を、家内は間借りしていた。
日曜日の午後、その部屋で時間を潰していた。

 たまたま手の届くところに絵本『モチモチの木』があった。
寝転びながら、はじめて手にした。
 
 臆病な豆太が、
真っ暗な夜道を医者さまをよびに走るシーンに、
心が熱くなった。

 そして、翌朝、腹痛が治ったじさまが、
豆太に言った言葉が、今も浸みている。

 『・・じぶんで じぶんを よわむしだなんて おもうな。
にんげん、やさしささえあれば、
やらなきゃならねえことは、きっと やるもんだ。・・』

 この一冊が、絵本や児童文学のイメージを一新させた。
と同時に、「やさしささえあれば・・」という言葉が、
しっかりと私に根付いた。

 以来、斎藤隆介作品だけでなく、
童話や物語に興味をもった。
 特に、宮沢賢治作品や新美南吉作品に惹かれた。

 さて、そんな出会いから数年が過ぎた頃だ。
灰谷健次郎さんのデビュー作『兎の眼』を手にした。
 子どもの読み物にしては分厚い本で、
その内容に衝撃を受けた。

 そこから灰谷さんの新作は、
短編であれ長編であれ欠かさず読んだ。
 その上、彼の講演会等にも、よく足を運んだ。
一時はまさに熱烈なファンで、舞い上がっていた。 

 30歳になって間もなくだったろうか。
『この本の物語は、人間のやさしさというものをもう一度
考えなおす機会をぼくに与えてくれた、子どもたちの話です。』
 そんな言葉が帯にあった彼の短編集
『ひとりぼっちの動物園』が、出版された。

 その後、子どもいや人間を理解する
大きな指針になった1冊だ。

 表紙をめくると最初のページに、
こんな言葉があった。

 『あなたの知らないところに
  いろいろな人生がある
  あなたの人生が
  かけがえのないように
  あなたの知らない人生も
  また かけがえがない
  人を愛するということは
  知らない人生を知るということだ』

 つい置き忘れそうになる大事なことに、
はっと気づかされた。
 案の定、この本にあった5つの短編は、
どれもかけがいのないものだった。

 特に、その1つ『だれも知らない』は、
今も時々思い出し、作者が託したメッセージに、
汚れそうになる私の心を洗浄してくれた。

 6年生の麻理子は小さい時の病気で、
筋肉の力がふつうの人の10分の1くらいしかない。
 だから、家から通学バスのバスストップまでの、
わずか200メートルの道を、毎日40分もかけて歩いて行き来した。

 毎朝、私たちの日常では考えられない、
その距離とその時間の中で、
麻理子が出会う人や生き物を、灰谷さんは丁寧に描写していた。   
 驚きと感動の連続だった。
中でも、マツバボタンとの場面が印象的だ。

 そして、5つの物語のあとがきとして、
灰谷さんは、麻理子をはじめ登場した子ども達などについて、
こう振り返っている。 

 『子どもたちの中には、ずいぶんつらい境遇の中で
生きている者も少なくありませんでした。
 しかしかれらは、決してやけくそをおこすということがありませんでした。
絶望するということがありませんでした。
 それどころか、つらい境遇の中で生きている者ほど、
他人に対してやさしい思いやりをしめそうとしました。
 ぼくは、そんな子どもたちをすばらしいと思いました。』

 この一文は、17年間の教職生活で、
灰谷さんが実感した真実だと思う。
 初めてこれを読んだ日から、
私の子どもを見る、いや人を評価する目が変わった。

 つらい境遇の中で生きる者の、
本当のたくましさ、強さに気づいた。

 灰谷さんと同じ道を私は40年歩んだ。
その歩みの中で、何人ものそんな境遇の子に出会った。
 そして、その子たちが示す本物のやさしさに、
支えられ、励まされた。 
 だから、今の私がいると言ってもいい。

 そんな数々の出会いに、感謝している。
 
 結びになる。
灰谷さん、2006年11月、享年72歳で逝った。
 彼も癌だったと聞いた。

 この機会だ。
彼が書き残したり、語ったりした数々の名言から、
記憶にあたらしいものを記しておく。

 『人は時に憎むことも必要な場合もあるのでしょうけど、
憎しみや怒りにまかせて行動すると、
その大事なところのものが吹っ飛んでしまうのが怖い。
 憎しみで人に接していると、人相が悪くなるわ。
正義もけっこうだけど、人相の悪い人を友達に持ちたくない。』

 『自分の方に理があると思っているときほど、
よく考えて行動しなくちゃいけない。
 居場所のなくなった相手に、
自分の方が理があるからと言って、一方的に攻め立てるのは、
本当に勇気のある人がすることなの?』 
 
 『人間の犯す罪の中で最も大きな罪悪は、
人が人の優しさや楽天性を、土足で踏みにじることだろう。』

 『人に好き嫌いがあるのは仕方がないが、
出会ったものは、それが人でも、ものでも、
かけがえのない大事なものじゃ。』
 



  もう福寿草が!  春が早そう!   
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『冷暖自知』・・・? ~秋のすれ違いから

2020-02-15 17:47:37 | 北の湘南・伊達
 『 通常は5キロ、時に10キロを走る。
その間に、何人かの方とすれ違う。
 登校中の子ども、自転車で出勤するスーツ姿、
愛犬と散歩する女性、そして、私を追い抜いていくランナー等々。
 その出逢いが、朝のジョギングをさらに楽しくしている。
 
 今まで何度も、その一瞬のふとしたやり取りに、心が動かされ、
時に励まされ、時に豊かさを頂いてきた。

 スローでも走っている私と、歩道で交わすわずかな会話だ。
それに、どんな思いがこもっているだろうか。
 違和感を覚える方もいるに違いない。

 まさに『冷暖自知』(れいだんじち)だ。
「冷たいか温かいかは、自分で触ってみないとわからない。」
 それと同様、私だけが知る体験なのかも・・。』

 上述は、昨年9月の本ブログ『冷暖自知~夏のすれ違い』の前置きである。
今回は第2話として、のどかな秋のすれ違いをスケッチする。  

 ▼ 我が家を出て、すぐの緩い坂道には、
『嘉右衛門坂』と言う名が付いている。
 その名の由来は、今も知らない。

 真っ直ぐに約2キロも続く坂の先は、
噴火湾につながっている。
 両側に歩道がある舗装路だ。

 快晴の朝、その下り坂を走り始めると、
空と同じ色の海が、道のむこうに広がり、
私に向かって、せり上がった壁のように見えた。

 そして、少し進むと、
今度は、右脇にある伊達高校のナナカマドが、
この季節、全ての葉を赤く染めていた。
 あまりの綺麗さに、つい見とれながら横を通過する。

 空は澄み渡り、広くて高い。
その上、まったく風がない。
 「いい天気だ。よし、この坂を下りきり、
いつもの10キロを走ろう。」

 そう決めた時だ。
左手前方のやや遠くから、
突然、消防車のサイレンが聞こえてきた。

 物静かな朝である。
そのサイレンは、異常を伝えるのに十分な響きだった。
 
 走りながら、耳も目もどんな事態かを知ろうとした。
サイレンはやや左方向だが、
海の方へ向かっているように感じた。

 そちらへ目が向いた。
市街地のはずれ辺り、まだ住宅地と思える所から、
真っ黒な煙が、一気にモックモックとせり上がった。
 その有り様は、尋常ではなかった。

 一瞬、足が止まりそうになった。
しかし、大きな黒煙は遠い。
 様子を見ながら、坂道を進んだ。

 煙は勢いを増し、高く高く膨らんだ。
その様子を、目で追った。
 
 すると今度は、消防車のサイレンに混じって、
防災無線のやや低いサイレンも聞こえだした。
 聞き慣れない音響が重なったり、途切れたりをくり返した。

 野次馬ではないが、走るコースを変えて、
黒煙へ向かおうかと迷った。

 数分が過ぎただろうか。
煙は一気に、白く漂うようなものに変わっていった。
 ほっと息をはき、気持ちも落ち着いた。

 ところが、ここからが大変だった。
異常を知らせるサイレンは、まだ鳴り続いていた。

 それを自宅で聞いた方たちだろう。
1人2人と、自宅前の歩道や車道にまで出て、
異常な事態を知ろうとしていた。

 走ってくる私を見て、これはとばかり訊いてきた。
「あのサイレン、何かあったの?」。
 「火事のようです。でも、黒い煙が消えましたから。」
「どこなの?」
 「F町の方、みたいですけど・・。」
 かけ足足踏みをしながら、私は応じた。
そして、納得した表情を確かめて、走り出した。

 すると、10メートルも進まないうちに、
また呼び止められた。
 「何のサイレン?」
「火事だったようですよ。」
 「もう消えたの?」
「さあ、でも煙は見えなくなりましたから。」
 「そうなの。」
ここでも、かけ足足踏みで応じてから、再び走った。

 少し進むと次は、
「火事かい?」
 私を呼び止めた年寄りに、遠慮はなかった。
私が足踏みしながらでも、
前方の住人に応じていたのを見ていたからに違いない。

 「そのようですよ。
F町の方で、一時真っ黒な煙が上がりましたから。」
 この男性は、次を続けた。
「そうかい。もう大丈夫なのかい。
鎮火したのかい?」。
 「そこまでは、わかりません。」
「えっ、分からないの。」
 「はい、走りながら見ただけですから。」
「そうかそうか。ごめんごめん。」
 男性は、私が走り出すよりも早く、
安心したように、自宅の玄関に向かった。
 
 一人一人、その問いかけ方は違った。
しかし、走り寄るランナーは貴重な情報源だった。
 だから、私に訊いた。
それが、消防車と防災無線のサイレンが消えるまで、
10人では治まらなかった。

 突然のことだったが、
その1つ1つの問いに、できるだけ気さくに応じた。

 しかし、いつもの5キロで折り返し、
同じ道へ戻った時、もう、そこには人影1つなく、
道路脇の庭先に、小菊の黄色だけが静かに咲いていた。

 ランニングがこんな風に役立つとは、フフフ・・。

 ▼ 自宅からスタートして、3、5キロ付近からは、
胆振線跡を整備したサイクリングロードになる。
 春は満開の桜並木、夏は緑一面の田園に心躍らせながら、
澄んだ風を感じながら走る。
 私の大好きな往復10キロのランニングコースだ。  

 稲刈りが終わった秋は、
殺風景になってしまうその道だが、
それでも、ついつい足が向いてしまう。

 その理由の1つは、白鳥の到来である。
シベリアからたどり着いた白鳥は、
長流川の河口付近をネグラにし、一冬を越す。
 秋口は決まって、ネグラに近いこの道の田んぼをエサ場にする。
だから、走りながら、いち早く白鳥をウオッチできる。
 落ち穂をついばむ白鳥の群れは、
何年見ても色あせることがない。

 もう1つは、鮭の遡上だ。
伊達の川では、鮭の遡上を身近で見ることが出来る。
 中でも、長流川にかかるサイクリングロードの「ちりりん橋」からは、
圧巻である。

 日によっては、おびただしい群れが、この橋までやってくる。
中には、そこで産卵し、死を迎える。
 そして、あるものは、より上流を目指し、まんまと捕獲の罠にはまる。
「ちりりん橋」は、そんな鮭の顛末を目撃させる。

 決して、ジーッといつまでも見てなんかいられない。
せつなさで胸が詰まる。
 しかし、毎年、その力強い生命のリレーには、
勇気づけられる。

 秋晴れの朝だった。
きっと遡上が見られると「ちりりん橋」を目指して走った。
 案の定だ。
やや離れた所からも、遡上の兆候が伺えた。
   
 遡上が続くと、ホッチャレ(鮭の死骸)を目当てに、
カモメやカラスが集まってくる。
 その日は、橋の欄干の両側に、
真っ黒なカラスが整列しているのが見えた。

 橋まで来ると、眼下の鮭よりも、
欄干のカラスの数に一瞬驚いた。
 片側だけで30羽はいただろうか。

 ちりりん橋の幅は、歩道橋程度である。
その両側に、ずらっとカラスが止まっていたのだ。

 ここまで淡々と走ってきた。
この橋を渡ってから、Uターンの予定だ。
 だが、このカラスの群れに足がすくんだ。
渡るのをためらった。

 その時、橋の先方に目がいった。
橋の向こうで、立ちすくむ2人づれがいた。

 私を見ていた。
その目は、私がカラスの列の間を通過するかどうかを、
推しはかっているかのように思えた。

 ここでひるむ訳にはいかなかった。
意を決し、橋を走った。
 カラスは、私に気づき、1羽ずつ欄干から少し飛び立ち、
私が通過すると、また元にもどった。
 案ずることはなかった。
途中からは、眼下の鮭を見る余裕かあった。

 そして、2人づれの所まで近づいた。
私と同世代の男女だった。
 通り抜けるわずかな時間だが、会話が聞こえてきた。

 男性が先に話し始めた。
「ほら、何もしないだろう。大丈夫だよ。」
 「でも・・」
「見てただろう。近づくと飛ぶから・・。」

 そこまではいい。次だ。
「さあ、行こう。」
 「待って・・。
あれは男だったからなのよ。
 私は、女よ。
もしかしたら、カラスが除けないかも・・。」

 やっとの思いで笑いをこらえ、2人の横を通過した。
しばらく走ってから、振り返ってみた。

 2人は、仲よく手をつないで、橋を歩いていた。
カラスは、1羽ずつ飛び立ち、元にもどった。

 カラスは、男性が一緒だったから、
それともそんなのは関係なく、そうしたの・・?
 また、笑いがこみ上げてくる。

 


春を思わせる散策路 明日からは雪らしい   
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『 冬 花 火 』  ~ 「憧れ」が逝く

2020-02-08 18:32:37 | 素晴らしい人
 ふり返ると、もう50年、
半世紀も前のことから綴りたい。

 最初に、私の詩集『海と風と凧と』のあとがきを転記する。

 『私は根雪の残る北海道より上京し、
小学校の教員になりました。
 その時初めて立った校庭には、
北国の冷たい鉛色の曇り空とは違った明るい春の光が
こぼれていました。
 それは、これから始まる私の新たな歩みが
太陽の陽差しに恵まれたものになるような、
そんなことさえ予感させるものでした。』

 その予感は、外れていなかった。
A氏との出会いは、その1つだったと今も思っている。
 本ブログの16年6月4日に『A氏へ手紙』を書いた。
続いて、その一部を記す。

  *   *   *   *   *

 新米教師だった私は、職員室で初めて見た貴兄の、
あのスッとした立ち姿とセンスのいい服装に、
『都会の人』のオーラを感じたのです。
素敵だと見とれました。

 ちょっとハスに構えたようなものの言い方、
教師でありながら、彫刻に情熱を注ぐ日々、
大人の洒落た気配りができる何気ない立ち振る舞い、
貴兄のそんな一つ一つに、私は憧れました。
 「いつかは私もああなりたい。」
と、思ったのです。

 さらに、「ロダンだ」「ブールデルだ」「マイヨールだ」
と名を上げ、彫刻や芸術を説き、
創作の魅力と自己表現の大切さを、熱く語ってくれました。
 全く知らなかった世界観に、
私は、ただただうっとりと彷徨うばかりでした。

 そう、あの頃から、
何かを創り出すこと、
何かを表現すること、
そしてその元となる、私自身を探し求めることに、
興味を持つようになったのです。

  *   *   *   *   *

 決してA氏には届くことのない手紙だと知りつつ、
私は最後をこう結んだ。
 『いつか再びお会いする機会に恵まれたら、
美酒を交え・・談論風発はいかかですか。』

 同じ学校で、6年間を過ごした後、
一緒に仕事をする機会はこなかった。
 年賀状のやりとりと、
時折風のたよりだけで、彼を感じてきた。

 でも、何年が過ぎようと、彼は色あせなかった。
ずっと『憧れ』ていた。

 なのに、手紙では「談論風発」なんて、背伸びをした。
「いつか、対等に向き合えたら・・、語らえたら・・・」。
 そんな願望が結びを書かせた。

 そして、ずっと憧れの人との、
そんなシチュエーションを頭の片隅で、
勝手に夢想していた。

 ところが、なんて非情なんだ。
つい数日前の昼下がりだった。
 ラインメールが鳴った。

 『こんにちは、突然で、ごめんなさい。
A先生が、1月30日に亡くなったと、・・連絡がありました。
本人の強い希望により、直葬で家族のみで、
2日に火葬したそうです。・・』

 確か6歳年上だった。
喜寿を迎えたばかりなのではなかろうか。
 「彼の死など、想像できない。」
思考はそのままで、ずっと時間だけが過ぎた。

 どれだけ、肩を落としうな垂れていただろう。
やがて、遠い地から、今、できることを、
必死に探した。

 「美酒を飲みながらの談論風発なんて、もうできないが、
死を受け止め、彼を悼もう。」
 叶わなくなってしまった『美酒を交わす』。
そんな真似事をしよう。
 そう決めた。

 伊達で唯一の酒屋に向かった。
日本酒の長い棚には、全国各地の銘酒が所狭しと並んでいた。

 その片隅にそっと置かれていた瓶の表ラベルに、目が止まった。
彼が記す字形に酷似した3字があった。
 『 冬 花 火 』。

 北海道に酒蔵がある『北の錦』の銘柄だ。
裏ラベルには、杜氏の添え書きがある。
「空気が澄み切った冬の花火はひときわ美しく、
華やかに広がり、さっと消えていく。
 そんな冬花火のような酒を造りたい
という想いを込めて醸しています。」

 彼を偲ぶに打ってつけに思えた。
その一升瓶を両手で大事に抱え、買い求めた。

 家内の手料理で、深夜まで『冬花火』をかたわらに置いた。
『ひときわ美しく、華やかに広がり、
さっと消えていく冬花火』。

 消沈しそうになる私を、その美酒が支えた。

  *   *   *   *   *

 赴任してまもなく、図工の先生(A氏)から展覧会に誘われた。
同僚4、5人で、日本橋のデパートの特設会場に行った。

 メキシコの画家の展覧会だった。
確かシケイロスという名だった。
 壁画を得意としているようで、1つ1つの絵が大きかった。

 一面、真っ赤な風景画に釘付けになった。
まぶしい程の赤色だった。
 「きっとメキシコの太陽の色なんだね。」
図工の先生が、私の横で教えてくれた。

 しばらくその絵の前から離れられなくなった。
「シケイロスの赤はすごい。本物だ。」
何も分からないのに、そう感じた。
 ≪本ブログ17年3月3日『絵心をたどって』より≫
 
 *   *   *   *   *

 彼から学んだことは、限りない。
その1つ1つが、『冬花火』のそばで蘇った。

 残念だが、その多くは今も消化できないままだが、
確かに、私のものにしたことも・・・・。
 酔いとともに、想いは冴えるばかり、
でも、「あっ、もう深夜」。

 そっとカーテン越しに南向きの窓から外を見た。
冬の花火なんて、あるはずがない。
 暗い夜道を照らす街灯に、粉雪が舞い降りていた。
そう、「積もりそうな雪だった」。

 


だて歴史の杜公園もすっかり冬景色     
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だての人名録 (8)

2020-02-01 16:25:20 | 北の湘南・伊達
 伊達に移り住んで7年半になる。
その間に、出会った人々とのちょっとしたエピソードを、
『だての人名録』と題して、綴ってきた。
 1年数ヶ月ぶりになるが、その第8話である。


 16 寂しげな背中

 昨年、旭川のハーフマラソンを終えてから、
少し心を入れ替え、
総合体育館内のトレーニング室へ行くことにした。

 ハーフマラソンを走るごとに、
ワーストタイムを更新している。
 これは、年齢とともに衰える体力が原因と、
私自身を納得させてきた。

 しかし、「それにしてもだらしない!」。
「そうだ。筋力を付けよう!」。
 これが、1年以上もご無沙汰していた、
トレーニング室へ通う動機だ。

 「最低でも、1週間に1回は・・!」。
そう決めたものの、中々思い通りにはいかない。
 でも、何とか今日まで続いている。

 そんなある日のことだ。
「さあこれから頑張ろう」。
そう意気込んで、誰もいない更衣室で、
着替えを始めてすぐだった。

 もの静かに入室してきた方がいた。
不意のことで、ビックリして振り向いた。
 長身で、イケメンというのだろう。
伊達では、あまり見かけないダンディーな感じの、
垢ぬけた同世代だった。

 私を見るなり、小さく頭をさげ、
「こんにちは」と声をかけてくれた。
 セーターを脱ぎかけていた手を一瞬止めて、
私も「こんにちは」と返した。

 彼は、空いていた同じ向きのロッカーに、
持参したバックを置きながら、
すぐに小声で、私に話しかけてきた。

 「普通、挨拶したら、挨拶しますよね。」
突然の問いに、真意が飲み込めず、
再び私の手は止まり、少し不思議な顔をした。

 「ほら、今みたいに、
挨拶を交わし合うでしょう?。
普通は!。」

 彼は、尖った話し方をした。
意が通じ、やや穏やかな声で応じた。
 「そうですね。」

 その言葉が待ちきれなかったかのように、
私の声に彼は重ねた。
 「なのに、ここに入っても、
誰も挨拶しないんですよね。」

 確かに、以前から、挨拶を交わす雰囲気は、
この更衣室にはなかった。
 4,5年前の開設当初から、
何故か着替えが一緒になった者同士の挨拶はなかった。
 私も顔見知りでない限り、
私から挨拶をしたことがなかった。
 そんなことをとっさに思った。

 彼の想いに興味が湧いた。
なので、おっとりとした感じで同意を伝えてみた。
 「そうですね。本当にここでは・・。」

 すると、彼は思いがけないひと言を発した。
「まったく、伊達の人は分からない。
挨拶も、ろくにしないんだから。」

 意外すぎた。
思わず驚きの表情になっていた。
 彼は、私の変化に気づいた。
そして、
 「エッ!、伊達の人?」。

 今度は、ありありと彼の表情が変わった。
『シマッタ』と今にも言い出しそうだった。

 彼のために、急いで打ち消した。
 「私ですか。伊達に移り住んで、
7年半前になります。」
 彼は、少し安堵した顔に変わった。
「どこから?」。
 「もともとは北海道育ちですが、
40年程、東京で働き、住まいは千葉市内でした。
 ご主人は?」
私は、努めて物静かな口調で応じた。

 彼は、着替えを再開しながら、語り始めた。
「私も首都圏から、伊達に来たんです。
 もう10年以上になるんだけどね・・。
それまでずっと向こうだったんです。
 なんか・・・、ここで暮らしはじめたら、
それ程でもなくて・・・。
 とにかく伊達の人は、分からない。
そう思わないですか?」。

 思い過ごしなのか、
彼の整った顔に、だんだんと寂しさが漂った。
 「これは、ほおっておけない。」
そう思いはじめ、どう返答しようか迷っていた。

 「挨拶したって、知らん振りですよ。
どうしてなのか、難しい・・。」
 再び、同じようなことを言い、曇る表情に、
私は、言葉を選びながら言った。

 「幸い、ご近所さんをはじめ、
出会ってきた方々には、恵まれたようで、
良くしてくださり、
あまりイヤな想いをせずにきました。」
 
 彼は、やや驚きの顔で、
でも、どこか信じがたいと言った目で私を見た。
 やや生意気だと思いつつ、私は追加した。

 「だけど、癖のある人は伊達に限らず、
どこにだっていますよ。
 東京にだって、伊達にだって。
それは、どうしようもないことですよね。」

 「そうか。来てすぐの頃から、
ご近所さんは、親切な人ばかりですよ。
 ほんの2,3人なんだよ。
どこにでもいますよね。そうだなあ・・。」

 彼は、小さくつぶやき、私を見た。
「これ以上、生意気なことは控えよう。」
 私は、そう決め、着替えも終えたところだったので、
軽く会釈をし、トレーニングへ足早に向かった。

 ストレッチを始めて、しばらくすると、
彼は、軽い筋トレマシンを使い、体を動かし始めた。
 その後、バイクをゆっくりと漕いだ。

 私は、いつもの順序で、体を動かした。
ダンベルを使った筋トレ、負荷をかけた20分のバイク、
そして40分にセットしたランニングマシンへと進んだ。

 体が温まり、少し汗ばみながら、
彼の言葉と曇った表情をくり返し思い出した。
 「伊達の人は、分からない。」
「どうしてなのか、難しい。」

 次々と汗が流れはじめ、
気持ちも弾むはずなのに、いつもと違った。
 重たい息を、はき続けた。

 伊達に移り住み、彼に何があったのか。
私に、それを推測する手がかりも何もなかった。
 しかし、失望している事実だけは、
会話から十分に汲み取った。

 きっと、東京から明るい期待と一緒に、
やって来たに違いない。
 それは、私の体験と同じはずなのだ。

 それが、「ここで暮らしはじめたら、
それ程でもなくて・・」。
 そうなってしまった。

 その失意を推し量りながら、走った。
だが、それは私の想像の域を越えていた。
 息苦しさがおそった。

 まだ、マシンを漕いでいるはずの彼を探した。
あのすらっとした都会風の背中が、
やけに丸くなって見えた。

 急に、切なくなった。
ランニングマシンを止め、
荒い息のまま、目の前のタオルで顔をおおった。
 両手で顔じゅうの汗を、
思いきりぬぐうしかできなかった。

 沈んだ気持ちのまま、自宅へ戻った。




  雪のない2月のだて歴史の杜公園  
コメント
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