ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

あれから 5年

2017-06-23 20:41:05 | 北の湘南・伊達
 2012年の6月6日だ。
前日から引っ越し業者の派遣した荷造りのプロが、
家中の物をコンポーした。
 その段ボール箱の山に囲まれ、
私は昼食のおにぎりを食べた。

 その後、「後は、よろしく」。
家内にそう言い残し、マイカーに乗り込んだ。
 千葉市から首都高を抜け、東北自動車道を走る。
一路、仙台港へ。
 そこから、フェリーに乗り、北海道・苫小牧を目指した。

 深夜、フェリーの個室で、東京での42年間が、
自然と思い浮かんだ。
 数年前、思い切って出版した、
年賀状に書き記した詩をまとめた『海と風と凧と』の、
「あとがき」が、何度も頭をよぎった。

 『……、私は根雪の残る北海道より上京し、
小学校の教員になりました。
 その時初めて立った校庭には、
北国の冷たい鉛色の曇り空とは違った
明るい春の光がこぼれていました。
 それは、これから始まる私の新たな歩みが
太陽の陽差しに恵まれたものになるような、
そんなことさえ予感させるものでした。

 しかし、私のそれからは当然のことではありますが、
教師としての仕事、子育て、家族、めまぐるしい社会変化等々、
全てが時代という大きな流れの中にありました。
 その中で、あまりの幸せに歓喜した時も、
また不運に大きくうなだれた時も、
小さな楽しさに胸踊った時もありました。
 まぎれもない未熟さが、ある時は人を傷つけたり、
またある時は勝手に自分の心を痛めたりもしました。
 そんな1年また1年の営みが、
泣いたり笑ったりの今日の日へとつながっています。

 確かにそんな風に歩は進み、
その年その年、私には違う景色が見えました。……』

 「あとがき」は紛れもなく私の歩みを語っていた。
船の1室で、1つ1つの景色が、色鮮やさを増していた。
 そして、記憶の多くは、あの日予感した通り、
太陽の陽差しに恵まれたもののように思えた。

 好運に包まれた42年間だったと、
船体に揺られながら、1人心を熱くした。
 そして、少しの後悔と一緒に、
伊達への移住を決めてから初めて、
その英断に不安を感じた。

 でもすぐに、気丈に、自分の想いを確かめた。
「リセットすることで、きっと新しい力が生まれる。
そう信じよう。」
 「これからは、つま先立ちなどしなくていい。」
「いつまでも、私らしさを探し続けていこう。」
 次々と、新たなステップへ私を押し出してくれる言葉が、
脳裏を巡った。

 翌朝、苫小牧港は濃霧におおわれていた。
接岸は、予定より1時間も遅れた。
 それでも、新千歳空港で、家内と愛猫に合流できた。
高速道路で1時間15分、走った。すっかり霧は消えた。
 伊達は、6月の澄んだ青空で私たちを迎えてくれた。

 そして、移住した翌年の新春、
年賀状にはこんな詩を載せた。

      微  笑

   収穫の後に蒔いた種が
   凍て付く地から陽春を待ち
   雪融けと共に畑に力があふれる
   暑い風を受けたそれは
   穂並みの全てを黄金色に
   透明な風に輝く秋まき小麦
   私が見た
   北国の残夏の一色

    小高い丘に群生する紅色が
    彼岸の時季を知らせてくれたのに
    この地に曼珠沙華はない
    でも列をなす清純な淡紫色に
    “こんな所に咲いている”と近寄ってみる
    それは木漏れ日に揺れるコルチカム
    私が見た
    北国の秋晴の一色

   落葉キノコは唐松林にしかない
   その唐松は針葉樹なのに
   橙色に染まり落葉する
   道は細い橙色におおわれ
   風までがその色に舞う
   そこまで来ている白い季節の前で
   私は見た
   北国の深秋の一色

 移住してすぐに気づいた。
伊達には、都会の喧騒などとは無縁な、
ゆったりとした空気が流れていた。

 朝に漂う爽やかな風と共に出会う大人も子どもも、
朝の挨拶を欠かさなかった。

 スーパーに並ぶ野菜も魚も、
ひと目でその新鮮さが、私にも分かった。

 そして、何よりも、『微笑』に記した通りだ。
私は、伊達の周辺にある、
北海道が彩る四季折々の変化に、すっかり心を奪われた。
 そんな日々と暮らすだけで、全てが満ちた。

 それから2年後、今度は・・・。

      洗  心

   新雪で染まった山々の連なりを遠くに
   晴れわたった土色の台地のふもと
   畑から掘り出したビートが長い山を作るのも
   去年と同じなのでしょうか

    沖合を漂う木の葉色の小舟を載せて
    波間の大波小波は遠慮を知らない
    黒い海原のざわめきに身を任すのも
    いつものことなのでしょうか
  
   積み重ねた白い牧草ロールのとなりで
   地吹雪に腰折れ屋根の飼育舎がつつまれ
   悲しい瞳をした雄牛をトラックの荷台が待つのも
   どこにでもあることなのでしょうか

     すぐそばで続く営みの数々に
     思わず足を止める私
     黙々とした淡々とした悠々とした後ろ姿がまぶしい
     額に手を当て
     まだまだ私だって磨けばと呟いてみる

 『洗心』は、2015年の年賀状に添えた。
あの頃、北国の大自然としっかり向き合う人々に心が騒いだ。
 事実、『黙々と淡々と悠々と』働く姿が、まぶしかった。

 それが大きな力になった。
すっと温めていたブログにも、
朝のジョギングの延長線だが、
ハーフやフルのマラソンにも、チャレンジしようと決めた。

 肩肘など張らず、誰かを押しのけたりなどしない。
でも、年齢を忘れて、自分にしっかりとノルマを課し、
着実に、しかしゆったりと歩を進めよう。
 伊達の1つ1つが、今、私にそうさせてくれる。

 先日、久しぶりに4日間も東京に滞在した。
楽しい時間だった。
 沢山の刺激に触れた。

 しかし、最終日、羽田空港に予定より2時間も早くに行った。
「早く、伊達に帰りたい。」
 その想いがさせた行為のようだ。

 あれから5年が過ぎる。
私の大きな変化が、そこにあった。




   この色の『山法師』が好きだ
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陽水の歌 2曲から

2017-06-09 20:19:14 | 思い
 1、『決められたリズム』

 若干、本題から逸脱する。
山田洋次監督が、2002年から2006年にかけて、
時代劇映画『隠し剣』シリーズ3部を作った。

 その第1作目は、真田広之と宮沢りえの
『たそがれ清兵衛』である。

 この映画のあらすじは、こうだ。

 時代は幕末、舞台は庄内・海坂藩。
この地の無垢な方言が、飾らない雰囲気を作る。

 労咳で妻を亡くした下級藩士・井口清兵衛は、
幼い娘2人と老いた母と、貧しく暮らしていた。
 お城での勤めを終えると、黄昏時を下城し、
内職に追われる日々を送る。

 そこへ、幼なじみの朋江が顔を出すようになり、
一家は華やぐ。
 朋江は、乱暴をくり返す夫を逃れ、
実兄の元に身を寄せていた。

 次第に湧いてくる朋江への想いを、
貧しさを隠れ蓑に否定する清兵衛。
 ところが、清兵衛に藩命が下る。
短剣を手に、剣のつかい手との対峙に向かうことになる清兵衛。

 その時、ずっと恋い焦がれていたと打ち明け、
無事戻ったら・・と、朋江に告げる。

 そして、死闘の末、血まみれで帰宅した清兵衛を、
安堵の表情で迎える朋江がいた。

 それから3年間を共にすごした後、
清兵衛は戊辰戦争で帰らぬ人になる。
 数10年後、娘は言う。
「わずか3年間だが、父は幸せだった。」

 映画は、そこでエンディングとなる。
そして、最後にスタッフや出演者の名前が字幕で出てくる。
 そのエンドクレジットで流れる音楽が、
井上陽水の『決められたリズム』である。

 私は、この歌がすごく好きだ。
しばしば結婚式などのご挨拶で、歌詞を引用させてもらった。

 時代劇映画からは、かけ離れた現代の歌詞だが、
陽水はきっと、清兵衛と朋江が幼なじみだったから、
その上で芽生えた想いだったから、この歌にした。
 そう推測している。

 この歌には、誰にでも思い当たる、
幼少期の郷愁が漂っている。

 その歌詞を記す。

   起こされたこと 着せられたこと
   凍えつく冬の白いシャツ
   せかされたこと つまずいたこと
   決められた朝の長い道

   ふざけ合うたび 怒られたこと
   静けさを区切る窓の中
   配られた紙 試されたこと
   くり返し響くベルの音

    声をそろえて ピアノに合わせ
    大空に歌声 決められたリズム

   笑われたこと 立たされたこと
   残されて ひとりガラス窓
   許されたこと ほめられたこと
   うつむいて歩く帰り道

   驚いたこと ときめいたこと
   渡された白いラブレター
   愛されたこと 選ばれたこと
   初めての夢のプレゼント

    声をそろえて ピアノに合わせ
    大空に歌声 決められたリズム
    決められたリズム

 この歌に寄せる私の思いを拾ってみる。

 ▼ いつも母の姿があった。
どこの家にもあるのだろう、
寒い朝の慌ただしと活気ある親子の温もり。
 そして、一歩玄関を出た時の、
学校までの道の長さに辛さを刻む。

 ▼ その学校には、先生がいた。
どんな注意も無視した、やんちゃ盛りの頃だ。
 先生にお目玉を食らう姿が、微笑ましく窓辺に映る。
それとは裏腹に、時には自分を試されるテストに向かう。
 開始と終了のベルが、物悲しく胸に迫る。

 ▼ いつしか自分を問いただす年頃になる。
多感な時期を迎え、周囲の目に傷つき、
孤独を知る時代だ。
 友や恩師、両親からのどんな評価や励ましにも、
自信も明るさも失ったまま、毎日を心細く過ごす。

 ▼ しかし、愛情を捧げる存在に気づいた。
寄せられた好意に、高まる喜び。
 その高揚感を夢のようだと思う一方で、
その愛に精一杯応えていこうと、つい意気込む。
 
 私は、歌の力を信じている。
いい歌には、どんな人の心も揺さぶる共通項がある。
 想いや高鳴りを共有できる景色が映し出されるのだ。

 私たちは、それに共感し、明日の力をもらう。
だがら、その歌をくり返し聴き、口ずさむ。

 『決められたリズム』には、
みんなの幼少期に共通する1コマがある。

 陽水は、透き通ったあの頃の日々を、
みんなで声をそろえて、確かめようと呼びかける。
 素敵なピアノの旋律にのせて・・・。

 だが、ちょっとだけ彼らしく、シャイに照れを隠し、
「それとて、どこかで決められたリズムだけどね。」
と、注釈を入れる。


 2、『瞬 き』

 土曜日の夜、NHKテレビ『ブラタモリ』のエンディング曲が、
『瞬き』である。

 その日の番組での、タモリさんと近江アナ、ゲストを撮った、
いくつかのスナップ写真と一緒に、
ゆったりとした旋律に載せたリフレインが流れる。
 番組の余韻を十分に味わえる。

 聞くところによると、
陽水は、この番組の挿入歌『女神』と一緒に、
喜んでこの曲を創作したと言う。

 それだけ、『ブラタモリ』という番組を、
念頭においた曲なのだろう。

 題名『瞬き』は、「まばたき」と同義語ではないと思う。
夜空の、あの星の瞬き、ロマンを指していると理解したい。

 まずは、歌詞を添付する。

   未来の あなたに
   幸せを 贈る
   記憶と 想い出を
   花束に 添えて

   瞬く 瞳に
   魅せられて ゆれて
   恋する この胸は
   求め合う ままに

   愛して いるなら
   ささやいて みせて
   あまい恋の 言葉を
   あふれるほどに

   逢わずに いるなら
   瞬いて みせて
   青い夜の空から
   星降るように

   未来の あなたに
   幸せを 贈る
   記憶と 想い出を
   花束に 添えて
     ひとときの 夢を
     瞬いて みせて

 番組『ブラタモリ』は、日本各地の今の成り立ちを、
歴史的な痕跡を訪ね、そこからひも解いていく。
 川の流れ、地形、そして道筋など、
現在に残る過去からのチョットしたサイン。

 それが、現代の私たちに伝えているものを、
陽水は、『瞬き』と表現してみせた。

 曲の始めと終わりのリフレインにある「未来のあなたに」とは、
先人たちが、私たち現代人を指したものだろう。
 そして、川原の小石や地層のヒダなど、すべての痕跡は、
「花束を添えた記憶と想い出」なのだろう。

 だから、毎回、エンディングのたびに、
先人たちから「贈られた幸せ」の奥深さを、
私は再認識させられる。

 でも、いつだって陽水の歌は、ラブソングである。
この歌も例外ではない。

 「くり返される小さな微笑みに魅せられ、その魅惑に恋する。
そして、求め合う愛のささやきが、あふれるようにと願う。
 それが叶わないなら、一時の夢でいいから、
夜空の星のように、時々は瞬いていてほしい。」

 そんな切ない恋心を、陽水は穏やかな曲に載せた。
それは、『ブラタモリ』への、
彼の期待と敬意の現れと私は思う。

 そんな番組と歌の共演に、ジワリッと体が温かくなる。
つい、どうかこれからも、瞬いてと祈ってしまう。





   ライラック(リラ)も満開
 
     (次回のブログ更新は 6月23日の予定)
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老いてからを どうする

2017-06-02 17:02:22 | 思い
 まもなく70歳になる時、母は父に逝かれた。
その後は、鮮魚店を引き継いだ兄夫婦と一緒に、
暮らし始めた。

 70歳代前半は、首都圏に住む私の家に、
毎年春先の2ヶ月間程滞在し、
2人の息子の世話や家事をしてもらった。

 その後は、次第に老いを感じるようになり、
遠出もままならず、時々好きな庭いじりをしながら、
のんびりと兄宅で日々を過ごした。

 とは言うものの、まだまだ体は動いた。
早朝から夜遅くまで、
自宅から車で30分程の店で働く兄夫婦に変わって、
朝夕の食事の支度だけは、母の仕事だった。

 週1日の休日以外は、毎日続けた。
献立は兄夫婦が決め、
店からその食材は持ってきてくれた。

 母は、買い物などの手間が不要で、
外出することもなかった。

 慌ただしく朝食を済ませて、2人が出かけた後、
1人で朝食を摂り、後片付けをした。
 昼食は、その辺りの残り物を、これまた1人で食べた。

 そして、夕方、今度は夕食の準備。
その全てを食卓に並べ、2人の帰りを待った。
 何度も、先に食べていいと言われたが、
母はそうしなかった。

 きっと、「夕食だけは1人じゃなく」、
食べたかったのだろう。

 待ちに待った午後10時近く、
帰宅した2人と一緒に食卓を囲んだ。
 しかし、疲れ切っている2人は、母との会話まで余裕がなく、
入浴後すぐに布団につくのが、日課だった。

 近所には、親しくしてくれる同年代の方が2,3人いた。
だが、茶飲み友だちとは言え、
歳とともにその機会が少なくなっていった。
 次第に人とのふれあいが減り、会話がなくなっていった。

 いつからか、兄たちが頼んだ夕食の献立が、
時々違った。
 煮魚が焼魚に、油炒めが煮物になったりした。
味付けに首を傾げることも、増えていったと言う。

 それらを指摘すると、
「いつも言われた通りにしているよ。」の答えが返ってきた。
 ついには、朝食の洗い物がそのままの日が増えた。
明らかに、母に変化が出始めた。
 兄は悩んだ。

 ある日、母は毎日がつまらないと言いだした。
母なりに考えたのだろう。
 「同じ年頃の人がいる老人ホームに入りたい。
話し相手がほしいの。」
 真顔で、そう言った

 父が亡くなった時の家族会議で、
兄は「俺が最期まで見る。」と、母との同居をみんなに約束した。

 「なのに、老人ホームに預けるのは、
その約束に反することになるべ。」
 生真面目な兄は、そう言い張った。
しかし、「本人がそれを望むのだから・・」。

 私をはじめ、親族の声に押され、
兄は地元の老人ホームに母を預けた。
 兄はその時の心境をこう言った。

 「みんなに言われて、入所させたけど、
姥捨て山に連れて行ったみたいで、辛かったよ。」

 ところが、その母は、兄や私たちの予想に反し、
大変身をとげた。

 入所した老人ホームでは、毎日のように様々な催し物があった。
それまでの日常に比べ、変化に富んだ毎日だった。
 日課もしっかりと決まっていた。
時には、それに遅れた。
 すると、入浴の機会さえ逃すことにもなった。

 母は、ホームの流れに従おうと、懸命になった。
日々、若干の緊張感があった。

 その上、ちぎり絵など、
「人生で初めて!」にチャレンジする機会も訪れた。

 大相撲の星取り予想に、ホームのみんなで一喜一憂した。
星取り予想の的中率一番の人には、
ホームからトロフィーのプレゼントがあった。
 母も一度頂いたと大喜びした。

 長期休みを利用して、私もその老人ホームを訪ねた。
久しぶりに私と顔を合わせた母の開口一番は、
「毎日忙しくて、楽しいよ。」だった。
 姥捨て山などとは、全く無縁だと思った。
母の言葉に、ずっと心が温かかった。

 白髪が多くなった髪の毛を染めたい。
毎日、新聞を読みたい。
 そして、若い頃夢中になった歴史小説を読んでみたいと、
言いだした。

 こうして母は見事に復活した。
96歳までの長寿を生き、静かに旅立った。

 もう10年以上も前のことだが、
私は、母から老いてからの道を、教えてもらった気がしている。

 しかし、まだまだ先と思いつつも、
私にも老いの道が、徐々に現実味を帯びてくる。
 その覚悟と共に、様々な迷いも生まれる。

 つい先日、こんなことがあった。

 ご近所におられた方が、
『サービス付き高齢者向け住宅』に転居された。
 「80を越えたら、こういう所で暮らそうと決めていたの。
いい所がみつかったから・・・。」
 数年前、ご主人に先立たれた彼女は、
そう言い残していった。

 先日、そこでの暮らしにも慣れた頃だろうと、
訪ねてみた。
 1人住まいと2人住まいがある共同住宅である。
1人用の彼女の部屋は、思いのほか手狭に感じたが、
しっかりとプライバシーは守られているようだった。

 毎日3食を共にする食堂は、明るく開放感があった。
高齢者には、食事は最大の楽しみである。
 ここに集まり、みんなでワイワイ言いながらの、
楽しい食事風景が想像でき、嬉しくなった。

 その時だ。「でもね。」
彼女は、一緒にここで食事をする男性のことを、
話し始めた。

 彼はすでに90歳を越え、独り身だった。
食堂へは毎回いち早く顔を出し、
一番端のお気に入りの席を陣取った。

 自分から話しかけようとはしなかったが、
周りの人の声かけには、
いつも穏やかな明るい表情で応じた。
 身のこなしにも、服装にもセンスがあった。
食事は、少量だが、美味しそうに残さず食べた。

 その彼が、週に一度だけ、
暗い顔で席に着く日がある。
 朝と夕の献立が洋風の日が、毎週1回はある。
彼は、その献立が苦手だった。
 その日は、ほとんどの料理に手が伸びないのだ。

 いつものお盆を持って、厨房のカウンターに並ぶ。
その日、朝はトーストにサラダなど、
夕方はハンバーグやスパゲティーが出てくる。

 彼は、それらを持って、お気に入りの席に着く。
そして、そのメニューを見て、
毎週、大きなため息をつくのだ。

 「少しでも食べたら。」
周りに促され、ほんの少量を口に運ぶが、
まったく箸が進まない。
 再び、大きなため息の時間が続く。

 別メニューなど、ここでは許されない。
他の食べ物を食堂に持ち込むことも禁じられている。

 だから、毎週1回、彼は必ず満たされない食事の時間を、
ここで過ごし、これからも過ごす。

 それが、ある90歳を越えた男性の食生活の一端である。
私は、その話に胸が詰まった。
 やるせない想いで、いっぱいになった。

 彼がここまでどんな人生を歩んできたのか。
なぜ、この住まいにいるのか。
 それを知ることはできない。

 たとえ、どんな歩みであっても、人生の終末である。
毎週必ずやってくる、辛い食事の時間。

 彼のわがままが招いたことと、言えるだろう。
しかし、それではどうしても納得できない私がいた。
 そのわがままを受け入れてやりたいと思いつつ、
私は帰路に着いた。

 老いてからの道の一例であろう。
私が彼なら、どうするのだろう。
 毎週、ため息をつきながら過ごすのか。
答えが見つからないまま、迷い道に入ってしまった。





  我が家の庭 『タイツリソウ』
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