ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

心 動かされて・ ・ ・

2018-06-21 20:23:44 | 思い
 1、朝日新聞「折々のことば」鷲田清一 から

  ①
 『電車が人身事故で止まった時、車内で誰かが
  舌打ちしたりする光景が、すごく怖いです。
                  稲葉俊郎
    テレビでは、心を揺さぶるドラマもニュ
   ースやCMで不意に中断される。感情が細
   切れにされ、しかも人はそれに慣れる。他
   人の死ですらただの「情報」になって、人
   を悼む気持ちがすっと立ち上がらなくなる
   と大学病院医師は憂う。心に病をもつ人も
   実はそういう事実に深いダメージを受けて
   いるのではないかと。音楽家・大友良英と 
   の対話「見えないものに、耳をすます」から』
                 2018.4.25

 一読して、背筋が冷えた。
現職の頃、出勤時に、何度か同様の電車事故情報に遭遇した。
 「舌打ち」までは行かないが、被害に遭われた方を思うよりも、
まず先に、遅刻が気になった。
 通勤経路の変更に思考がいっていた。

 まさに、『人を悼む気持ちがすっと立ち上がらなくな』っていたのだ。
反省しきりである。

 「戦場では、戦友の屍を置き去りにした。
そうしなければ生き延びることができなかった。」
 そんな戦争体験談が脳裏をよぎった。

 そこまで冷淡で殺伐とした感情ではないけれども、
あの頃、分刻みの忙しさに追われていた。
 最優先されたのが、その日常だ。
それは、戦場体験はあまりにも大げさだが、
同じ行動パターンではなかろうか。
 自問してしまった。

 確かに、『感情が細切れにされ、…人はそれに慣れ』ているのだ。
それだけじゃない。
 『他人の死ですらただの「情報」にな』り、
歪んだそんな『情報』が、身の回りにあふれているのだ。

 どんどん感情が鈍化されている。
いや、鈍化していく条件が十分にある。

 つい先日、走行中の新幹線で、
乗客3人が刃物で殺傷される事件があった。
 犯人は、「誰でもよかった」と動機を言っているらしい。
10年前の秋葉原事件も同様だ。
 鈍化した感情の極みだ。
あまりにも現実感のない、非道な犯行に憤慨する。

 それにしても、類似した無頓着さ、厚かましさ、
感情を逆なでする言動が、身の回りにありはしないだろうか。
 強く自戒する。  

  ②
 『この人でなければ絶対ダメだと思える人の下
  で働かなければモチベーションを保ち続けら
  れない。
                  岸田周三
    「自分が心からおいしいと思う店」で修
   業せよと、フレンチのシェフは言う。人を
   駆るのは、あんなふうになりたいという憧
   れ。心を激しく揺さぶられたからこそ憧れ
   るのだが、あんなふうにということ以外は
   実は知らない。だから、技術以上にその人
   の表情や身のこなしを1つ1つ食い入るよ
   うに見る。「月刊専門料理」昨年4月号から。
                2018.6.19

 久しぶりに『憧れ』の言葉に触れた。
『あんなふうになりたい…以外は・・知らない。
だから、…その人の表情や身のこなしを
1つ1つ食い入るように見る』。

 私にも身に覚えがある。
中学校と大学の恩師、そして最初に赴任した学校のA先生、
その三氏に、私は鷲田さんが語るような憧れを抱いた。

 3人は、それぞれ大きく違う個性を持っていた。 
当然、憧れを持った頃の私の年令も違う。
 しかし「あんなふうに」と言う気持ちは、
教師としての私のモチベーションになった。

 ずっと、心にあった。
ずっと「なりたい人」、「近づきたい人」だった。
 確かに、それが私を育ててくれた。
出逢いに、今も感謝している。

 さて、現職を離れてからはと言えば、
この言葉さえ遠くなりつつあった。
 しかし、新しい憧れの出現を、密かに期待している向きもある。

 伊達に来て、様々な出会いがあった。
親しくお付き合いをさせていただいている方もいる。
 しかしなのだ。

 例えばだ。
4月、『伊達ハーフマラソン』の選手宣誓は、
大会参加者の最高齢92歳の男性だった。
 宣誓原稿を用意し、力強く声を張り上げた。
その後、5キロを完走し、ゴールした。
 わざわざ旭川から、参加したらしい。

 「すごい」と思いながら、その後ろ姿を追った。
日頃の練習、健康管理、走ろうとする意欲を想像し、
頭が下がった。
 しかし、それだけだ。
これからの私の『憧れ』には、遠いのだ。

 もう『憧れ』などとは、無縁な年令と言えそうだ。
そう思いつつも、いや・・。
 いくつになっても、
『その人の……1つ1つを食い入るように見る』。
 そんな私でありたいと思ってしまう。
いつまでも『憧れ』の人の背中に、熱い視線を送り続ける私でいたい。
  

 2 映画『万引き家族』 から

 カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞し、
話題をよんでいる。

 その映画のあらすじを、ネットから引用する。   

 『 高層マンションの谷間にポツンと取り残された
今にも壊れそうな平屋に、
治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀の4人が
転がり込んで暮らしている。

 彼らの目当ては、この家の持ち主である初枝の年金だ。
足りない生活費は、万引きで稼いでいた。

 社会という海の底を這うような家族だが、
なぜかいつも笑いが絶えず、
互いに口は悪いが仲よく暮らしていた。

冬のある日、近隣の団地の廊下で震えていた幼い女の子を、
見かねた治が家に連れ帰る。
体中傷だらけの彼女の境遇を思いやり、
信代は娘として育てることにする。

 だが、ある事件をきっかけに家族はバラバラに引き裂かれ、
それぞれが抱える秘密と切なる願いが
次々と明らかになっていく──。 』

 話題性とあらすじに惹かれ、久しぶりに映画館に座った。

 「日本に、こんな貧困があるのか」。
カンヌ映画祭に参加した方が、そう評したらしい。
 その驚きを否定できないまま、
スクリーンに映し出される1コマ1コマに釘づけになった。

 6人の「万引き家族」のその暮らしぶりが、
貧困なだけではない。
 ワンカットワンカットに描かれる小さなドラマも、
見る者の胸を締め付けた。切ない思いにさせた。

 現在の家庭生活のメンツを守るため、
初枝にわずかなお金を握らせる亜紀の親。

 幼い女の子の両親が、虐待の事実を隠し、
『お涙頂戴』のインタビューに応じる。
 それを真に受け、報道するマスコミ。

 取り調べのためならと、
子どもが心に傷をおうことをも頓着しない警察官の尋問。

 それらの数々は、経済的な貧困とは無縁だが、
心の貧しさを色濃く描き出していた。

 確かに映画はフィクションである。
しかし、日本の現実をしっかりと切り取っていた。

 徐々に徐々に社会の貧困化が進んでいること、
その危機感への、映画人の強いメッセージを感じた。

 受け止め方は様々だろう。
切なさと無力感の中、終盤の2つのカットに、私は救われた。

 施設に戻る翔太を見送る治の穏やかなまなざし。
そして、
 「どうしてそんなことを?」の警察官の問いに、
静かに涙し続ける信代のいくつもの表情。

 2人の真心が、スクリーンから届けられた。
私に小さな勇気が湧いた。 



  

一部復旧した『水車アヤメ川自然公園』にて

           ≪次回更新は 7月7日(土)の予定≫ 
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70歳の 花冷えから青葉へ

2018-06-16 11:16:49 | ジョギング
 (1)
 昨年11月末、ハーフマラソンで11回目の完走をした。
ゴール直後、私はつぶやいていた。
 「もっと走れた。」
「俺はまだできる。来年は必ず自己ベストをだしてやる。」
 「とんでもない年寄りだこと!? それで十分だ!」

 その後の私は、やけに意欲的だった。
「もっと走れる。できる。」
 そんな思いで朝のジョギングに熱が入った。

 ところが、年が明け、伊達の冬が変わった。
それまでの暖冬から、冷え込みが厳しくなった。
 積雪も増した。

 同時に、私の体調も変わっていた。
なのに、走りたい気持ちが強かった。
 加えて、年令を忘れ、何の根拠もなく、
体調の回復を信じた。
 「今に、良くなる」と。

 しかし、総合体育館のランニングコースを
5キロ走るたびに、翌日まで疲労感が残った。
 最近は、5キロ走でそんなことはなかった。

 咳や喉の痛みが続いた。頭痛もあった。
それでも、少し良くなったと思うと、
「もう大丈夫。」とまた走った。

 1月、2月と、そんな日を過ごした。
しかし、いつもと違う体に慎重であるべきだった。
 とうとう、3月には通院、投薬の日々となった。

 薬剤師さんからは、
「いくら薬を飲んでも、体をゆっくり休めないと治りませんよ。」
と、言われた。

 私は、自己ベストは別にしても、
4月15日の『伊達ハーフマラソン』を走りたかった。
 70歳になって最初の大会なのだ。

 薬が効いて、少し体調が良くなると、
薬剤師さんの忠告を無視し、5キロならと走った。
 そして、また疲労感が残り、風邪の症状をぶり返した。

 ついに、ため息がもれ、うつむく回数が多くなった。
落ちこんだ。

 渋々、70歳の誕生日の夜、日記にこう記した。
 「体力の衰えを、素直に認めよう。年なんだ。」
無念さにおおわれた。気づくと、小さく唇を噛んでいた。

 大会当日は、
沿道から声援を送るだけの人になっていた。
 今年も道内各地から3000人のランナーが、伊達に集まった。
参加者には、『春一番』を走る熱気があった。
 なのに、曇天に加え、私の周りだけは、『花冷え』がしていた。

 もう5月20日の洞爺湖マラソンで、
42,195キロにチャレンジする気持ちも萎えていた。
 「体調回復が先決だろう」。
自分に言い聞かせた。

 70歳を迎えた私から、すっかり自信も気力も消えていった。
「年令以上のことをしようとしていたのではないか・・。
 健康どころか、健康を害することをしているのでは・・。」
 そんな自問で、私はますます『花冷え』に囲まれた。

 (2)
 チャレンジを捨てた洞爺湖マラソンの日がきた。
快晴だった。
 車で20分も行けば会場に着く。
なのに、朝食後、自宅の庭に立ち、
草花を眺め、ばく然と緩い時間を過ごしていた。

 その時、お隣さんの玄関ドアが開いた。
若い夫妻がおそろいだった。
 奥さんは、ランナースタイルで、
ご主人は、車で洞爺湖まで送ると言う。

 「今年も、10キロ、走ってきます。」
その声が、生き生きと輝いた。
 「そうですか。頑張って!」
私は、陽春を受け、スクスク伸びる『青葉』の花壇で、
静かに2人の車を見送った。

 わずかな時間が過ぎた。
それは突然だった。
 沈んでいる私の足元から、湧き上がるものがあった。
青臭い言葉の数々だった。

 「声援を送っているより、送られる方がいいに決まっている。」
「俺、見送ってばっかり。」
 「矢っ張り、走りたい!」
「俺だって、走ってきますと言いたい。」

 「も一度、チャレンジしよう。」
「年甲斐もなく、無理している!? それでいいじゃないか。」
 「どれだけやれるか。しょぼくれているより、立ち向かう方がいい。」

 背筋がすっと伸びた。
少しだけ空を見た。
 澄んだ青色が広がっていた。

 「青くて、いいじゃないか」。
また年令を忘れた。

 翌朝から、再び走り始めた。
3週間後の『八雲ミルクロードレース大会』だ。
 ハーフを完走しょう。
それを目指そうと、朝を走った。

 (3)
 体調は、ほぼ回復した。
2週間前には、医師からの薬の処方もなくなった。

 だが、ハーフを完走するには、不安があった。
明らかに、今日までのジョギングが足りない。
 なのに、この場にいることにウキウキしていた。
 
 10キロとハーフのランナー約300人が、一緒にスタートした。
私は、最後尾から走り始めた。
 後ろには、10人程の足音があった。

 6月10日午前10時、八雲陸上競技場から一般道に出た。
15分も走らないのに、周りのランナーはまばらになった。

 当然、沿道に人影を見ることはなかった。
時々、柵のむこうから牛が私を見ていた。

 5キロ過ぎからは、
20メートル以上も前に、女性ランナーが1人いるだけになった。
 後ろからの足音もいつしか消えた。

 去年より、酪農家の廃屋が増えた気がした。
一瞬、切なさで胸がつまった。

 牧場と牧草地の間の一本道を、1人走った。
その広大さが、スピード感覚を奪った。
 それでも、1歩1歩足を前へ進め、規則正しくリズムを刻んだ。
私を邪魔する何物もなかった。
 走ることに、集中するだけだった。

 ところが、私の心が動きだした。
嬉しかったのだ。

 遠くのゴールを信じ、前を向いて走り続けていた。
絶対に完走できると思い込んで走っていた。
 そして、ゆっくりでも確かな足どりだった。

 『体力の衰え』と認め、肩を落とした日。
もうマラソン大会を走る日が来ないのではと、凹んだ時。
 「あれは昔の昔」と回顧するだけになると、湿った私。

 ところが、胸にゼッケンをつけて走っている。
それが、嬉しいのだ。

 1キロごとのラップは、どんどん落ちていった。
息が苦しい。足も重たい。
 なのに、どこかがずっと弾んでいた。

 記録は、自己記録ワースト1。
不思議と、そこに悔しさなどない。
 それより、
私は70歳の『花冷え』から『青葉』へと走り抜けた。
 「やった」と小さく言いながら、ゴールした。
 

 
  

  満開を迎えた ヤマボウシ
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次第に わたしも・・・

2018-06-09 15:46:41 | 北の湘南・伊達
 ▼ 30代になり、抜け毛がひどくなった。
そんなに遠くない年令で、頭髪がなくなると予感した。
 その頃のことだ。

 勤務校のPTA主催で、野球大会があった。
貴重な日曜日だが、
多くのお父さん達が河川敷のグランドに集まった。

 学年ごとに、チームをつくり、その対抗戦だった。
私も、担任をしていた学年のチームに参加させてもらった。

 父親の保護者と教員が交流する機会は少ない。
ほとんどのお父さんとは初対面だ。
 私は、ベンチで代打要員になった。

 野球経験のある方が多く、どの人も動きが俊敏だった。
その中でも、私のチームの三塁手に目がいった。

 打球への動き、送球の姿勢が、かっこよかった。
打席では、ヒットを連発し、大活躍だった。
 試合中に、Fちゃんのお父さんだと知った。

 全試合が終わった午後、町会会館で打ち上げがあった。
私も、その酒席に喜んで参加した。

 選手のお父さん、お手伝いのお母さん、教職員などで、
会場はいっぱいになった。

 私は、そのにぎやかな宴席で、Fちゃんのお父さんを探した。
「野球、上手ですね。すごい」。
 そのひと言が、言いたかった。

 目で追いかけた。どこを探してもいない。
仕方なく、横にいた役員さんに言った。

 「Fちゃんのお父さん、上手でしたね。
ここにいたら、いいのにね。」
 「先生、隣のテーブルにいますよ。ほら」。
そう言って指さした先に、ツルツル頭の方がいた。

 グランドで野球帽を被っていた勇姿とは、大きく違った。
私は、「そうですか」の後が、続かなかった。
 「いつか、私もそんな対象になるのだろう。」
急に、気持ちが沈んだ。

 さて、その経験は、伊達に来て、
しばしば私にも降りかかった。
 その一例を記す。

 日頃、私は帽子を愛用しない。
それでも、ジョギングやゴルフでは必需品だ。

 4年前になる。
ご近所さんのパークゴルフ会に仲間入りさせてもらった。

 初めて一緒にプレイした日だ。
大ベテランの方と一緒の組で回った。
 初対面だったが、時間が過ぎ、
ラウンドが進むにつれ、うち解けた。
 人柄の良さが、プレイにもにじみ出ていた。
後半は、冗談を言い合ったりもし、楽しく終わった。

 たまたま、その夜は打ち上げ会が計画されていた。
遠慮なく、参加させてもらった。
 20人近い方々だったが、
そのほとんどが馴染みのない顔だった。

 私は、座る席に困った。
つい先ほど一緒だった大ベテランの隣が、空いていた。
 軽く会釈して、そこに腰を下ろした。

 「こんな会に誘って頂き、嬉しいです。」
私は、挨拶もそこそこに話しかけた。
 「そうですか。」
大ベテランからは、それだけしか返ってこなかった。

 しばらく時間をおいて、再び声をかけた。
「みなさんと初めてご一緒させてもらって、
楽しかったです。」
 「あっ、そう・・・。」

 ラウンド中とは、別人のようだった。
不思議な違和感に包まれた。

 次の瞬間、「もしや」と思い立った。
当然、この打ち上げに帽子は不要だった。
 頭髪の少ない私の頭をおおうものは、何もなかった。
大ベテランの目に、私は違う人なのではなかろうか・・・。

 今度は、ポケットから今日のスコアカードを取り出し、
「Aコースの2番で、OB。あれにはまいりました。」

 大ベテランの表情が一変し、私の顔を見た。。
「ああ・・、あそこ・・。残念だったね。
でも、それからはまあまあで・・。」
 その後は、ラウンド中と変わらない、楽しい会話が続いた。

 伊達で暮らし始めてから、これに類似したことはいくつもあった。

 家内と一緒の朝のジョギングで、挨拶を交わしていた女性と、
はじめてスーパーで会った。
 家内には、笑顔を向けたが、
キャップなしの私には、不思議そうな顔で会釈し、立ち去った。

 自治会の会議で同席した方と、
朝のジョギングで、すれ違った。
 ランニング姿に帽子の私に、よそよそしい挨拶が返ってきた。
後日、それを伝えると、
「気づかなかった」の答えがもどってきた。
 「どうして?」と訊きたかったが、愚問だと気づいた。

 ▼さて、今年も6月7日がきた。
伊達に移住して、丸々6年が過ぎた。

 頭髪と帽子による、初対面の洗礼を受ける機会は、
めっきり減った。
 それどころか、私は随分と『伊達の人』になってきた気がする。

 冬から続いた風邪による体調不良も、
春爛漫に誘われ、かなり回復した。
 今は、週に数回は、朝のジョギングに汗を流している。

 「今、我が家の前を走って行きましたね。もう大丈夫ですか。
次の大会には出られそうですね。よかった。」
 5キロを走り、自宅に戻るなり、
マラソン仲間からのラインだった。

 「まだまだ体力が回復していません。
次の大会は、参加できそうにありません。」
 「そうですか。いい走りのように見えましたけど。」

 思いがけないラインの嬉しさが、
走り終えた爽快感に加わった。

 それから数日後だ。別の仲間からのラインだ。
「大会不参加なんですね。
先日、走っている姿を車から見ました。
 てっきり大会に向けて走っていると思いました。
残念です。
 僕は、頑張って走ってきます。」

 考えもしない現役バリバリのランナーたちからのエールだ。
しかも、2人ともランニング中の私を見てのもの。
 大きな励ましを貰った。

 そして、つい先日。
久しぶりに10キロコースの終盤だった。
 車道と歩道の段差に腰かけて、
愛犬の毛づくろいをしている女性がいた。

 その方の後ろを通り過ぎながら、当然のように
「おはようございます」と声をかけた。

 その時、振り向いた同世代のその女性が、とっさに言った。
「あら、いつも見てますよ。」
 ビックリして、その顔を見た。
女性も、自身が発した言葉に驚きの表情を浮かべた。

 自然と表情がゆるんだ。
なぜだろう。
 やけに心が弾んでいた。

 伊達でも今日までの日が、
こうして私の周りに人の輪を広げてくれている。
 大切な1コマ1コマだと思う。
大事にしたい。

 この後だが、私の筆が若干滑ることを許して欲しい。
まずは、朝のジョギングですれ違った2人だ。
 
 旧胆振線のサイクリングロードを走っていた。
前方から、小さな愛犬2匹と散歩する男性が近づいてきた。

 白文字がプリントされたしゃれた藤色のTシャツを着ていた。
それが、今年の洞爺湖マラソンの参加賞だと気づいた。

 「アッ、そのTシャツ、洞爺湖マラソンのだ。」
朝の挨拶もそこそこに、私は言った。
 通り過ぎながら、「そう」と返ってきた。
ニコッとした。

 同じ日、歴史の杜公園までようやく走り着いた。
そこに大型犬と散歩する男性がいた。

 ロシアの女子スケーターに秋田犬を贈ったと、
しきりに報道していたことを思い出した。

 その秋田犬と特徴が同じだった。
耳が折れ、尾を巻いていた。

 ここでも、朝の挨拶もそこそこに、私は言った。
「アッ、この犬、秋田犬かな?」
 通り過ぎる私に、「そう」と返ってきた。
またニコッとした。

 自宅まで走り着いてすぐ、
「洞爺湖マラソンのTシャツ」、「秋田犬」を家内に教えた。

 以前、
「伊達の人は、挨拶も自己紹介もなく、突然フレンドリーに接してくる」
と、私は評した。

 家内は言った。
「今朝のそれって、伊達の人でしょう。あなた」。
 「エッ・・。あぁ・・。そう・・」。
どう切り換えしていいのか、迷いながら、
「次第に、わたしも・・・」。 





 満開の 大手毬 <だて歴史の杜公園>
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児童詩に 思いを馳せ

2018-06-02 13:55:55 | 思い
 (1)
 5月末、NHK北海道地方の番組を見た。
北海道クローズアップ『大地の詩人たち~十勝児童詩誌「サイロ」~』である。

 初めに、この番組の案内を転記する。

 『電気も水道もない貧しい農村が広がっていた
昭和30年代の十勝。
 サイロは、そんな農村の子ども達に
“文化の火”を灯そうと始まった雑誌です。

 これまで誌面に掲載された詩は、1万2千編以上。
日々の暮らしの中で、幼い胸に湧き上がった大切な思いを、
時代を越えて伝えます。

 創刊当時に詩が載った少女は、
70になった今も、その喜びを忘れていません。
 20年前に詩を残した少年は、
今、父親となって息子の作る詩を楽しみます。』

 創刊から58年である。
今も、十勝の子ども達が綴った詩が掲載され、発刊されている。
 その事実に、驚いた。
そして、テレビの映像に釘付けになった。
 
 『サイロ』は、十勝で暮らす人々の「心のアルバム」だと言う。
確かに、当時の幼い詩人らは、月日を重ねた今も、
詩を記した思いを忘れずに、今日を過ごしている。

 まさに『サイロ』は、十勝の人たちの宝物、そう思えた。

 さて、番組では、過去にこの雑誌に掲載された入選作のいくつかが、
コトリンゴさんの朗読で紹介されていた。
 その映像も素晴らしかったが、児童詩の魅力を再確認できた。
2編を記す。


   昭和50年入選 「 父 の 手 」
                    外堀一広(小学4年)

 父の手を見た
 シワシワだ  
 ぼくの小さいとき
 だいてくれた父の手
 その手は ふとんのようだった
 ぼくがいたずらしたとき
 たたかれた父の手
 その手は 針のようだった
 きたない 馬ふんをだした手
 屋根の雪おろしをした手
 この父の手も
 今は地下鉄工事で働いている
 父の手のシワシワは
 そんな苦労のあとなんだ


 * 外堀さんの今の手はどんなだろう。
きっと当時の父の手に似ているに違いない。
 想像するだけで、楽しくなる。
合わせて、家畜の「馬ふん」、出稼ぎの「地下鉄工事」に、
時代の背景が見えてくる。


  平成17年入選 「 幸 せ 」
中村こより(小学6年)

 幸せって 何だろう
 一体何を 幸せと言うのだろう
 畑がどこまでも 続いている
 時といっしょに 風は流れ
 すき通る青空
   夢のように雲がうかび
 小麦 ビート じゃがいも
         緑がゆれて
 あざやかな花
   きれいなちょうがまう
 終わりのない 細くて長い道
 風を切って かけぬける
 葉がこすれ合う オルガン
 川は流れて 鳥は飛んで行く
 幸せって 何だろう
 一体何を 幸せと言うのだろう
 これが 幸せと言うのなら 
 今 私は笑っている


 * 十勝の大自然を淡々と言葉に置き換え、
幸せを問う少女に、大人たちはどんな答えができるだろう。
 「これが 幸せと言うのなら
今 私は笑っている」と記した中村さんは、
その後も、幸せと言える何かときっと出会っているはず。
 そんな人だから書ける詩だと思う。


 (2)
 40年も前に買い求めた詩集がある。
『岡真史詩集「ぼくは12歳」高史明・岡百合子編』だ。

 表紙には、暗い空と荒波が描かれ、紙飛行機があった。
その紙飛行機の跡に、
小さく『ひとり ただ くずれさるのを まつだけ』の文字がある。
 そんな本の装丁に興味をもち、購入した。

 詩の作者・岡真史さんは、在日朝鮮人二世の小説家・高史明さんと、
高校教師・岡百合子さんの息子さんである。
 中学1年、12歳の夏のこと、近所の団地から身を投げ、自死した。
動機は、全く不明だと言う。
 無類の読書好きだった。

 父・高史明さんは、この詩集の「あとがきとして」で、こう記している。

『この詩集は、真史の死後に発見された詩の手帳を
もとにしております。
 真史は、人知れず詩を書いていたのでした。

 それは6年生の晩秋からはじめられて、
死のその日に終わるものです。
 ……
 その詩は、まだ幼く、つたないものであるといえるでしょう。

 しかし、人に読ませることを目的としたものではないが故に、
おのずから流れでたと思える透明な光があります。

 少年のみがもちうる多彩な色どり、陽気さ、甘さ、
弱さや無邪気さの糸に縫いこまれて、
その透明な光が、小さな輝きを放つように思えます。

 ……こう思ってしまう親の甘さをお許し下さい。』 

 私は、父・高史明さんが言う、
少年の目に映った世の暗さと光りを、
数々の詩から感じ、なかなか読み進めなかった。
 今も、12歳の少年の心を、
真正面から受け止められていないと思う。
 
 詩集発行の翌年、高橋悠治氏が10編を歌曲集に付した。
その中から、矢野顕子さんが歌唱収録した3編を記す。

   
   みちでバッタリ

 みちでバッタリ
 出会ったョ
 なにげなく
 出会ったョ
 そして両方とも 
 知らんかおで
 とおりすぎたョ
 でもぼくにとって
 これは世の中が
 ひっくりかえる
 ことだョ
 あれから
 なんべんも
 この道を歩いたョ
 でももう一ども
 会わなかったよ


   小まどから

 小まどから
 アイツは いつも
 オレをみつめる
 なんだかとっても
 オレを気にしている
 なにかもとめる
 目をしている
 目がまるで
 花びんになったみたいだ
 よし花びんに花をいれよう
 そして
 花を咲かしてみよう
 それを
 お前がもとめるのなら


   リンゴ

 あそこのリンゴ
 あと数分で
 おちるでしょう
 じっとみてます
 じっとみてます

 リンゴは
 もうえだと
 くっついていないかも
 しれないのに
 おちません
 おちません

 なんだかみていると
 まぶしくなります
 リンゴが日光に
 反射するからですか?
 それとも

 あのしんぼうづよさが
 まぶしいのですか?
 じっとみてます
 じっとみてます


 (3)
 まずは、1編の児童詩を記す。

   しゃぼん玉

 ふうっー
 息を入れた。
 どんどん大きくなる。
 まき紙を 大きくゆらすと
 音なくはなれて
 形を自分から
 フニャラ フニャラと
 作っていく
 形ができたら
 フワーフワーと
 とんでいく。

 ストローに 息をフーといれる
 次々といっぱい出る。
 小さなしゃぼん玉。
 初めは
 いきおいよく
 空中に出ると
 スピードが
 少しずつ 少しずつ
 おちて
 フンワリ フンワリ
 とんでいく。
 大きな風がふくと
 またスピードを
 上げてとんでいく。 


 我が子が小学3年のときに書いたものだ。
確か、市内小学校の文集に載ったとかで、見せてもらった。
 細かな描写に驚き、そっと書き写した。

 「見たとおり、詩にしてごらん。」
そんな指導しかできなかった私にとって、
息子のこの詩は、大きな刺激になった。





エッ! 今どき 菜の花畑 びっくり ポン!    
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