ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

『 軽 い 』 に 続 き

2020-11-21 17:19:02 | 思い
 ▼ コロナの第3波である。
どこまで感染拡大が続くのか。
 日本中、誰もが心を痛めている。
ついつい気持ちが暗くなる。

 それにしても、不安な日々をどれだけ過ごしてきただろう。
そして、これから先、どれだけ続くのだろうか。
 今は、逃れることができない現実である。
みんなで支え合い、励まし合いながら、
一日一日を過ごしたい。

 と言いつつ、どうしても不透明感が拭えない。
多少つまらなくても、
しばしコロナを忘れる一手を考えなくては・・・。

 まずは、エッセイスト・飛鳥圭介さんの『軽い」を転記する。

   *    *    *    *    *

 おじさんは毎朝6時に起床し、ざっと入浴する。
これは一年中変わらない。
 朝食と身支度を済ませて、
約20分ほどの道のりを駅まで歩くのだ。

 その朝は何だか心身が快調だった。
1年に何度もない爽快な気分だ。
 「ああ、こんな良い日はきっといいことがあるに違いない」
と口笛を吹きたくなった。
 いつもの道を歩きながら、自分の体の身軽さにびっくりした。
まるで足に羽が生えたように弾んで歩行できるのだ。
 脚も膝も痛まず、呼吸も楽だ。

 駅に着き、電車を待つ間に背負ったリュックから本を取り出そうとした。
そのときになってやっと気づいたのだった。
 リュックを背負っていないことに!

 何が身が軽い、だ。
本と老眼鏡とお弁当、その他雑多なモノが詰め込んである
けっこう重いリュックを背負わなければ身軽に決まっている。
 心身快調、が聞いてあきれる。

 こうなったら仕方がない。
足取り重く、また家まで引き返すことにした。
 ところが家に着いたら妻は不在だ。
「あっ、彼女は病院に行く日だった」。
 家のカギも携帯もリュックの中だ。

 「なんて日だ!」

 とうとうワシは健忘症の域を超えてしまったのか。

   *    *    *    *    *

 ▼ 家のカギも携帯もないまま、
その後の飛鳥さんは、どうしたのだろう。

 誰にでもありそうな話なだけに、愉快・・。
やけに、明るい気持ちにさせてもらった。
 私も、『軽い』に続き、カギにまつわること・・。

 ① 2年ほど、自治会の総務として、
毎月末に班長さんのお宅へ、
市の広報など各家庭への配布物を届けて回った。

 玄関のインターホンを押し、
配布物を届けに来た旨を伝える。
 すると、室内から声か戻ってくる。
その返答と行動が、2つのパターンに別れていた。

 1つは、「ハーイ、お待ち下さい。」の後、
しばらくして中から玄関のカギを解錠する。
 もう1つは、「どうぞ、お入り下さい。」の後、
私が玄関ドアを開ける。

 つまり、玄関ドアが施錠されているか、解錠してあるかの違いだ。
我が家は、常に施錠している。
 だから、「どうぞ、お入り下さい」には、いつも違和感があった。
でも、少なくないパターンがそれだった。

 ある懇親会で、そのことを話題にしてみた。
施錠している派は、解錠に驚き、
解錠している派は、施錠に首を傾げた。

 「だって、いつ誰が、
黙って家に入ってくるか、分からないでしょう。
 カギを開けておくなんて、不安でできない」。

 「ウチに来られた方を、いつでも迎え入れるために、
カギは開けておかなきゃ。
 カギをかけておいたら、来るなって言ってるみたい」。

 双方の主張は、ずっと平行線だった。
私はそれを聞きながら、解錠しておく方々に共感しつつも、
なかなかできることではないと呟いていた。

 つい先日も、ご近所さんから電話を頂いた時のことだ。
「これからつぶの塩辛もっていくから・・。ウチに居て・・。」
 数分で、インターホンが鳴った。
ならば、玄関のカギを解いておけばいい。
 それが、人を迎えるマナーだと解錠している派は言うだろう。
だが、それができない・・・。  
 ご近所さんはどう思ったことか・・・。

 ②
 伊達での最初の冬だった。
その日、家内は9時からのボランティアで、
社会福祉会館へ行くことになっていた。

 目ざめると、その年1番の積雪だった。
朝食を済ませるとすぐ、2人で雪かきにかかった。

 まだ、慣れていない。
時間ばかりがかかった。
 「ボランティアには遅れて行けない。」
と、家内だけ雪かきを止め、社会福祉会館へ急ぐことになった。

 着替えを済ませ、鞄を抱え、
家内は、忙しく玄関ドアを閉め、カギをかけた。

 私は、スコップで雪を放り投げながら、
車のハンドルを握る家内を見送った。

 それから小1時間は、雪と格闘しただろうか。
ようやく自宅前の歩道と駐車場に積もった雪がなくなった。
 頭と背中は、汗で濡れていた。

 早々、着替えようと玄関ドアのノブを引いた。
「ううん!?」。ドアが開かない。
 「そうか、カギをかけていたなあ・・。」
家内が、施錠している姿を思い出した。

 あの時、私も家内もなんの不自然さも感じないままだった。
そう思いつつ、ポケットを確かめた。
 キーが入っているはずがない。

 「俺は、自分のウチから閉め出されたのか!」。 
その迂闊さが腹立たしく、悔やまれた。

 こうなったら、家内のいる社会福祉会館まで行って、
自宅のキーをもらうしかない。
 私の車のキーは、当然家の中だ。
まだ除雪の進んでいない道を、歩いて行くしかなかった。

 片道20分余りを履き慣れない長靴で向かった。
雪かきスタイルの出で立ちで、
初めて社会福祉会館の受付に立った。

 案内された部屋では、
家内のボランティア仲間が会議中だった。
 私は赤面しながら、家内からのキーを待った。

 「迂闊な施錠!
軽くみてはいけない!」
 決して忘れないゾー!



   歩道脇のドウダンツツジが真っ赤
 
          ※次回のブログ更新予定は、12月5日(土)です。
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続々・もう一度行きたい

2020-11-14 17:18:47 | あの頃
 雪虫が飛んでいると気づいたばかりだったが、
つい先日の朝、カーテンを開けると、
一面真っ白になっていた。
 私の嫌いな冬がやって来てしまった。

 同時に、コロナの猛威である。
「寒くなると、ウイルスの感染力が強くなります。」
 半年前から聞いていたことだ。
「そのために十分な備えが必要です。」
 それも、よく言われていた。

 どれだけのことができていたのか。
北海道では、医師会会長が、
「感染者数がこのままの状態で後1週間も続いたら、
医療崩壊がありうる」と言いだした。

 「これだけ、冬への警告が言われていたのに・・、
どうして?」。
 そう思ってしまうのは私だけなのだろうか。

 そんな不満より、来るものが来たのだ。
一市民ができることは、3密を避け、手洗いとマスクの徹底。
 そして、免疫力を高めること。
そんなことに限られるが、何とか乗り越えたいと強く思う。

 さて、北の町は、落葉が進んだ。
周りの山々は、稜線が透けて見えるようになってきた。
 豊かな葉に被われ『太っていた山』が、
すっかり痩せていく。

 だからか、一昨年も昨年もこの時期に、
ブログに「もう一度行きたい」と題して、
若い頃に出掛けた思い出を記した。

 そんなことで、何かを紛らわし、
小さな高揚感を求めているのかも・・・。
 今年も、綴ることにする。

  <8>
 ▼ 教職2年目、6年生担任だった秋の初め、
社会科見学で、鎌倉を訪ねた。
 学校からバスで2時間半余り。
最初の見学先は、鎌倉八幡宮だった。
 広くて長い参道を、子ども達を先導して歩いた。

 急に、高校の修学旅行で、
列に埋もれて、同じ道を進んだことを思い出した。
 それから6年が過ぎ、
こうして子供らと一緒にいることを誇らしく思っていた。

 その後、鎌倉の大仏に寄った。
ここでは、高校の時と同じ場所に立ち、
集合写真を撮った。

 子供を引率していることを忘れ、
あの時と同じ場所から、大仏を見上げた。
 背景の山も空の大きさも変わらなかった。
私の変容などとは無縁な歴史の不動を感じた。

 ボーッと立っていた私に、近寄ってきた子が訊いてきた。
「先生、何見てるの?」。
 「凄いなって、思わない。この大仏!」
しばらく見上げてから、その子は答えた。
 「よく、わからない」。
「そうか」。

 「いつかこの子も、私と同じような想いで、
この大仏を見る時が来る」。
 そう信じた。

 江ノ島が見える海岸で、昼食にした。
思い思い、砂浜に陣取り、
海と空を見ながらお弁当を食べた。

 「足だけ海に入りたい。」
そんな声に押された。
 足だけのはずが、
ズボンやスカートを濡らす子が続出した。
 楽しげな子供の顔が、今も思い浮かぶ。

 ▼ それから、たびたび鎌倉へ行った。
連休にマイカーを走らせ、渋滞に巻き込まれた。
 初詣に鎌倉を選び、満員の電車に、
家族4人で、押しつぶされそうになった。

 そんなことにも懲りず、電車で2時間余り、
北鎌倉駅や鎌倉駅に降りた。
 高速道路の整備が進むと、
自宅から1時間半で鎌倉市内に着いた。

 行くたびに、貴重な歴史に出会い、心躍った。
さだまさしが歌った「縁切寺」にも「源氏山」にも行った。
 どこでも、静かな風が流れていた。

 竹のお寺『報国寺」では、
竹林を射る陽光を受けながら、少し浮かれて散策した。
 銭洗い弁天では、半信半疑のまま千円札と小銭を
ザルに入れて清めてみた。
 
 夏の盛りに江ノ電で「極楽寺」まで足を伸ばした。
満開のサルスベリに迎えられた。
 その美しさに、漢字で『百日紅』と書くことに納得した。

 大きな木立に囲まれた円覚寺。
境内にある茶店に座り、抹茶をいただく。
 誰一人として声を張り上げたりしない。
いや、それを許さないものが漂っていた。
 
 ▼ そんな鎌倉に、ある日、突然出向いた。
校長になって2年目のことだった。

 私と先生方が大きく対立していた。
その年、都教委は教職員への人事考課制度の導入を進めた。
 当然、私はその実施を進める立場にあった。
性急な導入に、私の学校の先生方は抵抗した。

 職員室の雰囲気が一変した。
私はくり返し趣旨を説明し、先生方から同意を得ようと努めた。
 しかし、堂々巡りの日々が続いた。
まだ、校長経験の浅い私には、打開策が見つからなかった。

 疲れた。眠れない日が続いた。
いつもの私ではなくなっていった。
 友人らにも相談した。

 そして、ついに精神科の医師を訪ねることにした。
今、その時を振り返ると、
人生で最大のピンチだったと思う。

 医師は、長いこと話を聞いてくれた。
そして、家内を同席させ、「うつ病傾向にある」と診断し、
「1週間、学校を休むように」と言った。
 そして、「1週間たって、行く気持ちになったら、
出勤してみるといいですね。」とも・・・。

 その場で1週間の休暇を私は決め、
病院を出た。
 少し肩の荷が軽くなっていた。
10時過ぎ、都心の空を見上げた。
 快晴だった。

 突然、思いついた。
家内に言った。
 「鎌倉に行きたい!」。
その足で、鎌倉へ向かう電車に乗った。

 私には、行きたいところがあった。
「建長寺仏殿の地蔵菩薩のところ!」。

 それまでに何度かその仏像を見た。
うす暗い舎内に鎮座し、
ジッと私を見る半眼開きにいつも惹かれた。
 時には叱られ、励まされ、褒められた。
そして、いつも見守られているような気持ちが芽生え、
勇気を得た。

 その日、なにも期待などしていなかった。
その仏像の前に行きたい。
 そう思いついただけだった。
 
 家内はなにも訊かずに、ついてきてくれた。
そして、建長寺の山門を通り、
仏殿の前に立った。

 地蔵菩薩は、変わらず半眼開きのまま私を見た。
私は、その姿を見上げた。

 ザラザラした心が変わっていくようだった。
乾いたままの私ではなくなっていくような気がした。
 わずかだが、しかし大切な時間だったように思えた。

 その後、駅前通りの鄕土料理店に入った。
確かランチコースをオーダーした。
 そこで『なすの田楽』が出た。
一口食べてすぐ、向き合う家内に、
目を丸くして言った。
 「こんな美味しいもの、久しぶりだ。」
1週間後、私は再出発し、ピンチを脱した。

 その後、鎌倉はいつでも行けると思い、
そのままだ。

 もう一度、鎌倉八幡宮の参道を歩いてみたい。
そして、なによりも、あの地蔵菩薩の前に立ってみたい。
 今なら、「何をしている!」と、
『喝』を入れられるかも・・・。




   か ら 松 林 の 晩 秋
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続 ・ 学校の珍プレー

2020-11-07 17:42:33 | あの頃
 ▼ 先週土曜日のことだ。
珍しく、このブログにコメントが届いていた。

 私の教え子からで、
あまりの嬉しさに、込み上げるものがあった。
 30年以上も前の日々が、一気に蘇ってきた。

 本棚の一角にある何冊もの卒業アルバムから、
当時のものを探し出した。
 一人一人の子供の顔写真を見ながら、
しばらく幸せな時を過ごした。

 その後、ふと、
学校の番外編である『学校の珍プレー』の続編が、
書きたくなった。

 ▼ まずは、卒業アルバムのことから・・。
私の場合、小・中・高校の卒業アルバムはずっと大切に持っている。

 だから、生涯の宝物になるに違いない。
そう思って、6年生の担任になると、
写真と作文が一冊になったアルバムづくりに、
力が入った。

 異動した学校で初めて高学年を受け持った時だ。
アルバム作りの時期が迫り、
いくつもの業者からサンプルが届いた。
 
 引き続き、前年度までの業者に委託するのが通例だが、
ある業者からのサンプルに惹かれた。

 装丁も「生涯の宝物」に相応しく、しっかりとしていた。
顔写真の子供の表情が豊かで、
工夫のある集合写真にも斬新さがあった。
 価格も手ごろだった。

 ところが、その業者は横浜市内に拠点があった。
原稿のやりとりや写真構成の打ち合わせなどが、
手軽にできる距離ではなかった。

 30年も前のことだ。
今とは、伝達手段が違う。
 電話と郵送だけである。
多くは、業者が頻繁に来校し、対面で連絡調整をした。
 学校と業者が遠距離なのは、致命的な問題だった。

 ところが、駆けつけた業者から提案があった。
業者が費用負担をして、
職員室にファクシミリを置くというのだ。

 不確かだが、電話回線を使って、
文書や写真のやり取りができるものがあると、聞いてはいた。
 しかし、それを実際に見たことがなかった。

 まだ普及していなかったファックスが繋がれば、
横浜市内からでも、支障なく、
アルバム作りができると業者は力説した。

 私たちは、その提案を信じ、
アルバム作りを委託することにした。

 やや日にちをおいてから、
見たことのなかったファックス機が、
職員室の一角に設置された。

 先生方みんなで、その機械を囲んだ。
横浜の業者から、
試運転としてサンプルの写真が送られてくることになっていた。
 興味津々だ。

 「ピー」の音が鳴り終わると、置かれた機械の下から、
ゆっくりと印刷された写真が現れた。

 「へぇ~、すごいね。」
「これが、横浜から届いたのか!。」
 「便利なもんだなぁ。」 

 送られた上質紙の写真を、交互に手に取って見た。
顔の表情がしっかりと分かる写真に、私も驚いた。

 その時だ。
「だけど、この写真、どうやってあの電線を通ってきたんだ。
この紙が送られてきたんだよな。」
 写真を手にした先生が、
不思議そうに窓から見える電線に目をやった。

 私も、言われるまま、校庭の向こうにある電線を見て、
同じように不思議な気持ちになった。
 何人もの先生が、外をジッと見た。

 「紙が電線を通って、送られてくるはずがないでしょ。
紙はここ。
 電気信号が送られてくるんだよ。」

 メカに強い先生が、
紙の置かれた引き出しを指しながら言い出すまで、
私たちは、不思議な現象にぼう然としていた。

 ▼ その学校のプールは、
片側2車線の道路をはさんだ向こう側にあった。

 そこへは、いったん正門を出てから、
迂回し、信号機のある横断歩道を渡って行くのだ。

 夏のプールは、多くの子どもが楽しみにしている時間だ。
校舎内で着替えを済ませ、校庭で準備体操をする。
 その後は、水着のままバスタオルをもって、
ガヤガヤとプールに向かう。
 当然、信号で止められることもある。

 幸い人通りは少ない。
一般の通行人へ、迷惑をかける気遣いは、
さほどいらない。

 水泳の授業を終わった後も、迂回して、
信号機のある横断歩道を渡って、学校へ戻る。

 このプールが、先生方にとって一大事なのだ。
子ども達と一緒での、プールへの往来は平気だ。

 しかし、当番になった先生は一人で、
一足早くプールへ行き、プール入り口の解錠、
薬剤の投入、濾過器の点検等々を行うのだ。

 プールを終えた後にも、一人だけ残り、
シャワーや濾過器の最終点検をし、施錠するのだ。

 プールには、更衣室がない。
子ども達同様、先生方も校内で水着に着替え指導に臨む。
 当番の先生も水着に着替えて、その仕事をするのだ。

 水着の上からTシャツと短パン、ビーチサンダル姿で、
救急セットと毛布などを抱え、
一人で4車線を横断して、プールを行き来する。

 車も人も,決して多くはない。
それでも、都内である。
 いつも誰かに見られていた。
当番の先生は、その恥ずかしさに耐え、
学校とプールを往復した。

 そんな中でも、最悪の場面があった。
プールの入口前には、1時間に2,3本のバスが止まる停留所があった。
 間が悪いと、プールの解錠や施錠が、
バスの乗降と一致する。

 そのバス停を利用する方の多くは、
プールがあることも、
教員が入口の開閉をしていることも知っている。

 だから、先生方のスタイルにもさほど奇異な目を向けない。
しかし、バスの乗客は違う。
 ましてや、それが水着の女の先生なら、
車内から一斉に、鋭い視線が向けられるのだ。

 私は、その奇異な視線に対し、
「なに、見てるんだよ!」
と、強気の目力で応じた。

 しかし、タオルで涙をおさえながら、
職員室へ戻ってくる女の先生を何度も見た。 




秋のイチョウに 青い空
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