ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

スランプ・・? いやいや!

2018-12-29 15:11:39 | 思い
 ▼今年を振り返ることから始める。

 もう4年半も前のことだ。
伊達に移って、丸2年を迎えようとしていた頃、
右手の尺骨神経マヒに見舞われた。
 2時間以上の手術を受けた。
経過は、私の期待を裏切った。

 今も、右手の指には、若干の運動障害が残っている。
その上、握力が弱い。
 掌の3分の1には、痺れがあり、触覚が鈍いまま。
でも、わずかずつ回復している。

 原因は不明だ。
しかし、怪我とも言えるこの病気に、
私は発病当初から強気だった。

 抜糸から1週間後だったろうか、
医師から、車の運転は無理だが、
ジョギングならばと許可がでた。
 痛みや痺れを無視し、
うっぷん晴らしとばかり、
すぐに朝のジョギングを始めた。
 
 それが幸いした。
以来、体力の衰えなど無縁な日々を過ごした。
 調子に乗り、
年に5回もマラソン大会にエントリーし、
ハーフやフルを走った。

 ところがだ。
今年1月に入ってからは、様相が変わった。
 1度かかった風邪が完治しない。
体調不良が、長引いた。
 ジョギングも休みがちになった。

 それでも、寒さが緩み、温暖な気候になると、
走れる日が続いた。
 いつも体調を気にかけながらだが、
ジョギングで汗を流した。
 走り終えると爽快だった。
その日は、一日中明るい気持ちで過ごした。

 ところが、11月に入り、風が冷たくなった。
走り終えると、喉に痛みを感じるようになった。
 そして、微熱が出た。
またまた風邪ぎみな日と、そうでない日をくり返した。

 体調を見ながら、
総合体育館のランニングコースを、
30分ほど走った。
 そんな日も、減っていった。
1月から春先までと変わらない日々に戻った。

 私の気持ちは、尺骨神経マヒの時とは打って変わった。
強気と真逆になった。
 12月に入ってからは、外出も避けた。
2週間も『静養の日』と称した暮らしが、
続いている。
 イライラ感だけが、私を包んでしまった。

 「去年は、風邪で満足に走れなかった。
今の元気さと比べると嘘みたい。」
 新しい年は、そう語れるといい。
きっとそうなると信じて、年を越すことにしよう。

 ▼ そんな重たさを引きずっていた矢先だった。
朝日新聞の『折々のことば』に励まされた。
 その2つを記す。
 
 ①
『持てる力を、他に使いようがないまま無駄遣
 いしてしまう、そこにこそ青春の魅力が潜ん
 でいるのかもしれません。 
              トゥルゲーネフ

  青春の特権は、「なんでもできる」ではな
 く「なんでもできると思える」ところにある
 と、19世紀ロシアの作家は言う。何をした
 って同じと感じる現代の若者にはやや酷か
 も。一方、すぐにこの世から失せる身、で
 きないことは何もないと、怖じ気なく思え
 るのが老いだとすれは、それも捨てたもの
 でない。小説『初恋』(沼野恭子訳)から
              2018.12.20』

 日頃、老いなどを無視し、遠ざけることに、
エネルギーを使ってきた。
 しかし、『すぐにこの世から失せる身、
できないことは何もないと、怖じ気なく思えるのが老いだ』
の一文に、心惹かれた。
 気がつくと、ここ数年、
ためらうことを忘れ、チャレンジャーでいた。
 知らずに、『老い』の心情にいたのだろう。
ならば、『それも捨てたものではない』と、思えた。
 『すぐにこの世から失せる身』?、まだまだ早いが、
そんな開き直りこそ、特権に違いない。
 だから、今を悔いなく過ごしているのだ。

 体調を気にかけながら、『なんでもできると・・』。
これからも、それでいこう!

 ②
『受け身の心がなく、積極的に外に働きかけよ
 うとするだけのプランには、どこかに嫌味が
 あり不自然さがある。  
                川喜田二郎

   KJ法という、情報整理と創造性開発の
  ための思考と議論の方法を考案した文化人
  類学者の言葉。知的にであれ政治的にであ
  れ、社会で力をもつ人は、「正直に現場を
  うけとめて、そこから問題をつかみだして
  くる」プロセスを疎かにしがちで、人の心
  をつないでゆく力に欠け、状況に柔軟に対
  処するのも下手だと言う。『発想法』から
               2018.12.27』

 教職に就いて15年が過ぎていた頃だ。
「これからの実践にも役立つから」と、友人に勧められ、
人生で初めて「中公新書」を買い求めた。
 その本は、
川喜田二郎著『続発想法 KJ法の展開と応用』
だった。

 書かれていたことの多くは、記憶にない。
私には、難解な1冊だった。

 だが、その著書を基に、
教員5人で3日間ほどかけて、ケンケンガクガクと、
KJ法とその発想を学ぼうと試みた。

 その時、私なりに理解した著者からのメッセージは、
その後の私に、大きな力をくれた。

 久しぶりに触れた川喜田先生の発想、
『受け身の心がない、・・・』と、鷲田氏のコメントは、
最近ザラザラとしていた私に、しっとりと浸みた。
 そして、「よーし! また、前へ進もう。」
そんな私にしてくれた。 
 
 さて、この機だ。
川喜田先生が、そのように述べたかどうか、定かではない。
 しかし、先生の著書から学び、
私に寝付いていることを述べ、今年を結ぶ。

 『360度の視野で見る』。
どんな物事でも、一方向からだけ見ていてはいけない。
 前だけでなく、後ろからも横からも、
上からも下からも、斜めからも、
つまり全方向から見て、初めてそれが何かわかる。
 思いもしない発想に、衝撃を受けた。

 『先入観なく、あるがまま、ありのままを見る』。
先入観は、真理を知る上で邪魔になる。
 まずは、そのままをそのまま受けとめる。
著名な画家の絵と聞いただけで、
初めて見たその瞬間から素晴らしく見えたりする。
 それまでの私は、それ一辺倒で赤面した。

 『不要と思えることでも、後で意味をもつことがある』。
いつも何が重要で不要かを探っている。
 だから、何一つとして不要などと決めつけられるものはない。
なのに、安易にそれを即決することがある。
 不要と思っていたものの中に、
実は重要なヒントがあることがしばしばなのに。
 何かをはき違えていたことを、痛感させられた。





  今年も時折 ジューンベリーが雪化粧

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70歳の清秋 ~北都と首都にて

2018-12-15 20:11:14 | ジョギング
  ① 清秋の北都
 今年4月、満70歳を迎えた。
節目の1年が始まった正月、
私は例年以上に気合いが入っていた。

 『70歳の記念に、
もう1度フルマラソンを完走したい。』
 何を隠そう、密かにそんな思いを胸にしていた。

 しかし、体調が整わないまま春を迎えることになった。
4月『伊達ハーフマラソン』も、
5月『洞爺湖マラソン』のフルも、
エントリーはしたものの、出場できずに過ぎてしまった。
 70歳の私は、不安を大きくした。
密かな目標も、見事に摘まれてしまった。

 それでも6月、八雲の『ミルクロードレース』の、
スタートラインに立った。
 70歳初めてのハーフマラソンにチャレンジだ。

 このマラソン大会への出場は、連続4回目だが、
10キロの部とハーフの部を合わせても、300人程度。
 走り始めて間もなく、沿道に人の姿はなく、
私の近くにランナーもいなくなった。
 1人淡々と足を進めた。
 
 6月16日のブロク『70歳の 花冷えから青葉へ』は、
その時の私の変化を、こう記している。

 『私の心が動きだした。
嬉しかったのだ。

 遠くのゴールを信じ、前を向いて走り続けていた。
絶対に完走できると思い込んで走っていた。
 そして、ゆっくりでも確かな足どりだった。

 『体力の衰え』を認め、肩を落とした日。
もうマラソン大会を走る日が来ないのではと、凹んだ時。
 「あれは昔の昔」と回顧するだけになると、湿った私。

 ところが、胸にゼッケンをつけて走っている。
それが、嬉しいのだ。

 1キロごとのラップは、どんどん落ちていった。
息が苦しい。足も重たい。
 なのに、どこかがずっと弾んでいた。』

 マラソン大会への参加、
その喜びを今まで以上に感じた。
 「走ることができる」。
それだけで、明るい気持ちになれた。

 そして、そのまま北海道の短い夏がきた。
思いがけず腰痛に見舞われた時があり、
また年令を痛感させられた。
 でも、決して無理せず、
走れる時に朝のジョギングに気持ちのいい汗を流した。

 9月末、北都にて、
『第10回旭川ハーフマラソン』があった。
 この大会も、4年連続の参加になる。

 例年より、1週間遅い開催だった。
北都の秋は早い。
 公園の樹木も、街路樹も、
いつも以上に赤や黄に色づいていた。

 その日、私は今までとは全く違う心境で、
競技場にいた。
 いつもなら、「無事完走できるか。」
「自己ベストは出せるだろうか。」
 「水分補給はどうしたらいい・・?」など、
不安や自信のなさなどから、緊張感に包まれた。

 しかし、明らかにリラックスしていた。
八雲の嬉しさが、しっかりと根付いていた。
 スタートの合図を、ワクワクしながら待った。

 目標はたった1つ、
大会が決めた2時間40分以内にゴールすること、
それだけだった。
 私は、背筋を伸ばし胸を張って、走り始めた。

 この大会は、3キロから6キロ付近までを、
自衛隊の駐屯地内を走る。
 そこでは、沿道の両側に等間隔で並んだ自衛隊員が、
声援を送ってくれる。

 まだ『北海道胆振東部地震』の救援活動が、
続いている最中だった。
 それでも、私たちランナーに時間をさいてくれた。

 駐屯地から一般道へ出る時だ。
「ありがとうございました。」
 思いがけず大声で叫んでいた。
すると、他のランナーも、
私と同じように、次々と叫んだ。
 出入り口門の一番近くにいた他とは違う制服の隊員が、
姿勢を正し、最敬礼を返してくれた。
 
 その後も、マイペース。
走ることの楽しさを感じながら、
市街地と河川敷のコースを進んだ。

 途切れ途切れだが、沿道から声援を送る方がいた。
時々届く私への「頑張って」の声に、
必ず大きくうなずき、走り続けた。

 21キロの長丁場だ。
苦しい走りになることもあった。
 そんな時は、少しペースダウンして、足を進めた。
「70歳のランナーはそれでいい。」
自分に言い聞かせた。

 声援には、相変わらず大きくうなずき、
胸を張った。
 しばらくすると、いつもの走りが戻ってきた。

 そして、ついに明るい表情のまま、競技場に戻った。
最後の150メートルは、全力疾走でゴールした。
 記録は、私のワースト1の更新だった。
それより、楽しく完走できた。
 それで、満足だった。
八雲の走りが、そのまま続いていた。

 この大会の特徴は、年代別のエントリーだ。
男子70歳代以上の部は、35人が完走した。
 その中で、24番目のゴールだった。
十分、満足した。


  ② 清秋の首都 
 11月25日は、『第38回江東シーサイドマラソン大会』だった。
気温12度、無風、快晴とは言えないが、好天に恵まれた。
 なんと言っても、北海道に比べ、日差しが明るい。
そのまぶしさに、色づいた銀杏が綺麗だった。
 この大会も、4年連続の参加になる。

 10キロの部とハーフの部の合計4720名がエントリーした。
会場の夢の島競技場は、多くの人で賑わっていた。
 受付も、トイレも、荷物預かり場もすぐに人の列ができた。
それだけで、久しぶりに都会の活気を感じ、嬉しかった。

 私と同じハーフ壮年(50歳以上)男子の部は、
755名が参加した。

 実は、これまでに参加したハーフマラソンで、
この大会が一番関門が厳しいのだ。

 5キロごとに、関門が設けられている。
その5キロを、1キロ平均7分以内で走らなければ、
その後の走行が止められる。

 中でも最大の難関は、
スタートして最初の5キロの関門である。
 そこを、スタートから35分以内に通過しなくてはならない。

 ところが、私のようなランナーは、
他のランナーの邪魔にならないよう最後尾からのスタートとなる。
 私らは、スタートの合図から、約1分半後に、
スタートラインをまたぐのだ。

 それでも合図から35分後に、5キロの関門が閉鎖になる。
つまり、実質33分半しかないのだ。
 これは、今の私の走力ではやっとのタイムなのだ。

 どの大会もマイペースでゴールまで楽しく走りたい。
それが、70歳ランナーの想いだ。
 しかし、この大会では、その想いは5キロ通過後になった。

 競技場を出た私は、
道いっぱいに広がる沢山のランナー達に混じって、
明治通りと永代橋通りを走り、
5キロの関門へ向かった。
 
 関門には、何人もの役員が待ち構えていた。
時計を手にした役員が叫んだ。
 「関門、閉鎖まで後2分!」。

 つまり、私は5キロを31分半で走ったのだ。
その速さが、私からスタミナを奪ったのだろうか。
 いや、そこを無事通過でき、安堵したからなのか。
その後の私は、苦しい走りに終始した。

 「きっと今にいつもの走りになる」。
そう信じて、走り続けた。
 しかし、つらい走りが続いた。

 呼吸がきつい。腿の筋肉が張っていた。
「10キロまで行ったら、今回は棄権しよう。」
 そう決めて、進んだ。

 いつもなら、この辺りから前のランナーを抜きながら進んだ。
それどころか、抜かれ抜かれの走りだ。
 穏やかな気持ちではなかった。

 しかし、「もう少し走れそう。」
「もう少し走れる。」
 くり返し私を励まし、
1キロまた1キロと進んだ。

 ついに15キロを過ぎた。
そこまで、何とか2つの関門をクリアーした。
 しかし、ついに前傾姿勢で、
うな垂れながらの走りになった。
 もういつ歩きだしてもおかしくなかった。

 丁度、一般道から公園内の遊歩道に、
コースが切り替わるところまできた。
 そこに、わずか5センチほどの段差があった。

 その段差の両側に、ユニホーム姿の役員がいた。
「段差があります。気をつけでください。」
 声を張り上げ、連呼していた。

 近づきながら、思った。
「両側の2人は、こうして1時間以上も、
ランナーに注意を促してくれている。・・・ありがたい!」

 そう思ったのなら、
気をつけて、わずかその5センチをクリアーすれはいい。
 それが、2人への私の応えになるはずだ。

 なのに、私は、その段差につまずいてしまった。
足が上がっていなかった。
 思いっきり頭から転げそうになるのを、
必死でこらえて立ち止まった。

 「大丈夫ですか」
女性の役員が駆け寄ってくれた。
 「すみません。注意してもらったのに、
すみません。」
 2度3度と頭をさげた。

 「わずか5センチなのにこの有り様。情けない。」
一気に気持ちが沈んだ。
 と同時に、
「こんな役員の方々がいるからこそ・・。
そうだゴールまで頑張れ!」
 もう1度、くいしばった。

 その後も、何人もが私を抜いていった。
ヘロヘロになりながら、ゴールに着いた。

 まさか、涙がこみ上げるとは思わなかった。
頭からタオルをかぶった。
 想像さえしなかった。
70歳の私に、少し感動していた。

 14回目のハーフだった。
こんな完走も、私のキャリアの1ページ。
 でも、まだ私のメンタルは軟弱じゃない。
「まだまだ、やれる。」
 来年、71歳のランナーへとつながる経験だと信じた。
 
 


  冬の『大雄寺』(亘理伊達家の菩提寺末寺)
           ※次回のブロク更新予定は 12月29日
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私の『青春の門』前 ~高校の頃 あれこれ②

2018-12-01 17:21:33 | あの頃
  <その3>
 高校を卒業するまで、『鉄の町・室蘭』で育った。
あの頃、最大の市街地は中央町だった。
 いつも人が行き交い、活気があった。

 その賑わいのど真ん中に、『丸井今井デパート室蘭店』があった。
私たちは、そのデパートを「丸井さん」と呼んだ。
 年に何回かだが、そこへ買い物に行く時は、
「よそいきの服」で出掛けた。

 さて、高校1年の初冬のことだ。
生徒会役員として、体育祭や学校祭を経験し、
その活動にもかなり慣れてきていた。

 ある週の役員会の議題は、
『冷害に苦しむ農民への救済』だった。

 私には、訳が分からなかった。
上級生の役員たちが、真顔で議論を始めた。

 昭和39年(1964年)である。
その年、北海道は農作物が大冷害に見舞われた。
 記録では、その被害総額は578億円だったとか。

 役員会は、「高校生でも、何か困窮する農家へ手助けはできないか。」
そんな話し合いだった。

 全く議論についていけなかった。
でも、農家が作物被害を受けている事実だけは分かった。
 「俺たちでも、何かできることがあるはず・・。」
上級生たちは、知恵を出し合っていた。

 しかし、私は『鉄の町』の子だ。
それまで何回か、汽車の窓から田んぼや畑を見た。
 だが、あぜ道を歩いたことも、農家を訪ねたこともなかった。
農家の暮らしぶりが、思い描けなかった。
 私は、ただぼう然と話し合いに同席した。
意見を求められたが、何も言えないままだった。

 長い会議の末、1つの行動が決まった。
私も、賛成に挙手をした。
 それは、募金活動だった。

 期間は1週間とした。
生徒会役員数名が交代で、「丸井さん」の前に立つ。
 そこで、『冷害に苦しむ農民への募金』を呼びかけるのだ。

 顧問の先生を通して、学校の許しを得た。
早速、募金箱を作った。
 『冷害に苦しむ農民へ募金を』と書いたノボリも作った。
手製のメガホンも用意した。
 誰もが初めての経験だった。
生徒会室で、何回か打ち合わせと練習をした。

 募金初日は、役員全員で「丸井さん」の大きなウインドウ前に並んだ。
日暮れの早い季節だった。
 チラチラと粉雪が舞っていた。
雪化粧した歩道に、「丸井さん」のきれいな明かりがこぼれていた。

 生徒会長が、メガホンを握って、行き交う人々に訴えた。
私は、募金箱を抱える女子上級生の横に立った。
 大声を張り上げて、
「冷害で苦しむ農家へ、募金をお願いします。」
そう呼びかける係だった。
 ところが、それがなかなか言えなかった。

 横並びの役員たちは、
それぞれ大声で募金を呼びかけはじめた。
 「ねえ、がんばろう。」
募金箱を持った上級生の女子から励まされた。

 その時、その募金箱に無言のまま小銭を入れて、
通り過ぎた方がいた。
 最初の賛同者だった。

 「間違ったことをしていない。
正しいことをしているんだ。
 胸を張っていいんだ。」
体の芯が熱くなっていった。
 「ありがとうございます。」
2人で、一緒に大声を張り上げた。

 そしてついに、私は、
「冷害で苦しむ農家へ、募金をお願いします」。
 何度も何度も、通行人にくり返し訴えていた。

 募金活動は、予定より1週間延長して続けられた。
役員以外の生徒からも、活動に加わる者が現れた。
 授業が終了するとすぐ、路線バスで中央町まで行った。
「丸井さん」のウインドウの明かりが、
寒さを忘れさせてくれた。
 ノボリに募金箱、そして横一列で声を張り上げた。

 あの募金活動が、どれだけのものだったのか、
それを立証することなどできない。
 だが、高校時代の稚拙な正義だが、
仲間と共に、そんな行動をした私を誉めたいと、
今も思っている。


  <その4>

 これまた「丸井さん」にまつわる1コマである。
高校3年になると、大学進学と就職へ進路希望が決まっていった。
 当時、私の高校は、進路によるクラス分けがなかった。

 10月頃からだろうか、
私立大学の推薦入学がボチボチと決まり始めた。
そして、就職希望者の勤め先も1人、2人と分かった。

 小学校から同じクラスになることが多かった女子がいた。
3年になっても、すぐ近くに机を並べた。
 他の女子とはちょっと違った。
異性を意識せず、同じ話題で盛り上がった。
 家が近いこともあり、
帰り道が一緒でもためらいがなかった。

 その彼女の就職先が決まった。
それが、なんとあの「丸井さん」だった。
 第1希望だったらしく、とびっきりの笑顔でクラス中に伝えた。
私も、嬉しかった。
 まだ進路を決めかねていた私だったが、刺激になった。

 そして、冬休みだ。
私は、大学受験を決め、猛勉強を始めていた。
 その頃、彼女は、就職先の「丸井さん」で、
今で言う『実習研修』をしていた。

 学校からの帰り道、
「実習は、ランジェリー売場になった。」
と聞いていた。

 ここで私の無知さを笑ってほしい。
『ランジェリー』の意味が分かっていなかった。
 その言葉の響きから、何か洋風な素敵な売場を想像した。
「丸井さんのランジェリー売場」を、色々と妄想し、
興味がわいた。

 だから、受験勉強の息抜きを兼ねて、その売り場へ行き、
ついでに実習中の彼女を激励しようと思った。

 正月明けの平日だった。
バスに乗り、「丸井さん」まで行った。
 すぐに案内所のカウンターで訊いた。

 「ランジェリー売場は、2階です。
エレベーターで上がって左手にございます。」
 お化粧をした制服の女性が教えてくれた。
その表情が不思議そうだったが、気にかけなかった。

 行った先のマネキンはどれも、透けるような女性用の下着姿だった。
陳列ケースに並んでいる物も、色こそ違うが同様の物ばかりだった。

 それでも、私は鈍感だった。
売場の女店員に訊いた。
 「あのー、ランジェリー売場って・・?」
「ここですけど、どうしました。」
 突然、顔が真っ赤になるのが分かった。
胸の鼓動が尋常ではなくなった。
 声が詰まった。

 それでも、なんとか声に出した。
「ここで、高校生のNさんが実習していると聞いて・・」
 精一杯だった。
「ああ、今日はお休み。」
 女店員は、そう言って離れていった。
 
 「お休み」に安堵した。
同時に、居てはいけない所にいることに慌てた。
 急いで「丸井さん」を飛び出した。
大きく息をはき、心を落ち着かせた。

 冬休みが終わった教室に、彼女がいた。
正直にありのままを伝えた。
 すると、もう1人、そこを訪ねた男子がいた。
ホッとした。

 でも、
「ランジェリー売場を知らないなんて、男はダメね」。
 彼女にサラッと笑われた。
また胸の鼓動が、尋常ではなくなった。

 まさに『青春の門前』と言える出来事だ。 
 
 


  推定樹齢135年 銀杏の老木も寒々

       ≪次回ブログ更新予定は、12月15日(土)≫ 
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