ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

3人の 悲報

2025-01-18 12:57:21 | 思い
 朝刊でいの一番に開くページは、お悔やみ欄である。
自治会の役員になってからは、
葬儀に参列したり、近隣の方へ訃報を伝えたりする。
そのために、必要な情報源なのだ。

 先日、そのお悔やみ欄に、
市内の方で50歳男性の氏名があった。
 喪主は、妻となっていた。

 知らない名前だったが、
その年齢の逝去に驚いた。
 まだまだ若い。
いったい何があったのだろう。
 きっとお子さんもまだ小さいのでは・・。
そんなことが脳裏を走った。

 それから数日後だ。
ある会合に、その方と一緒の職場だった人がいた。

 「前日まで、元気に仕事をして、
夕方、別れたんです。
 でも、翌朝、奥さんからの電話で、
亡くなったと知らせが入ったんですよ」
と言う。

 お子さんが3人いて、
一番下の子はまだ小さいと顔を曇らせた。

 いつもと変わらず就寝し、
翌朝、奥さんが起こすと、
すでに冷たくなっていたそうだ。

 どれだけ同情しても仕切れない。
どれほど無念だったことだろうか。
 ただただ切なくなった。

 さて、私にはこの1年もたたない間に、
親しくしてもらった友人らの悲報が3つも届いた。
 冷静に思い出を綴ることはなかなか難しい。
でも、その努力をしたい。


 ◆ 彼は、初めて校長として着任した小学校の、
PTA会長だった。
 下町の小さな建築会社の社長さんで、
いつも忙しく動き回って仕事をしていた。

 だから、4月1日に校長として彼と挨拶を交わした時も、
所々に汚れがしみ込んだ作業着姿だった。

 「Bチャン、今日くらいはネクタイ締めて、
初めての校長先生に挨拶しなければ」
 ネクタイにスーツの副会長さんが
あきれ顔でそう言った。

 でも、彼は笑顔だった。
「そうしようと思ったけどサ、時間が足りなくて。
校長先生すみません。こんな格好で」
 私は、肩肘をはらないそんな下町気質が、
いっぺんに好きになった。

 だからその日、校長室で2人きりになった折りに、
「会長さん、お互いに遠慮なく、
本音でお話ができればいいなあと思います」
と言った。

 彼は、即答した。
「いいんですか。一番望んでいたことです。
 よかった!」

 以来、2人の距離が急激に縮まった。
PTAの会議が終わると、
彼が声をかけ、役員さん達と一緒によく居酒屋の暖簾をくぐった。
 若干お酒の力もかりながら、本音での付き合いが始まった。

 その後、異動で他の小学校に行ってからも、
彼ら役員さんとよくお酒を飲んだ。
 やがて、年1回の旅行が恒例行事になった。

 旅行では、彼はいつも私の横にいた。
10歳離れた弟のように、遠慮なく接した。
 出会ったときの言葉通り、付き合い続けた。

 その彼が、脳腫瘍に見舞われた。
手術のできる箇所ではなかった。
 腫瘍は徐々に進行した。

 入院し療養生活を送っていることを知らなかった。
突然、逝去のメールが飛び込んだ。
 「えっ、そんな!」と返信するのがやっとだった。
  
 ある時、彼に仕事を頼む関連業者さんが私に言った。
「この社長は、いい加減な仕事は決してしないんです。
いつも頼まれた以上にしっかりと仕上げてくれます。
 だから、安心して依頼できるんです」

 私は肉親が褒められたような気分になった。
「立派だね。そんな風に仕事を褒めてもらえる人って
めったにいないと思うよ。私まで嬉しくなった!」
 その時の少しテレた彼の顔を思い出した。
涙があふれた。

  
 ◆ 私より6歳上の先輩だった。
近づきになれたのは、初めて教頭になり赴任した小学校の、
彼は前教頭だったから。
 新任教頭で、事務手続きなど分からないことだらけだった。
遠慮なくよく電話をし、教えてもらった。
 生真面目だった彼は、いつも丁寧に応じてくれた。
心強かった。

 彼がゴルフを始めた頃、私もクラブを振るようになった。
やがて、年齢差を気にせず一緒にラウンドする機会がふえた。
 一時は、ライバルと互いに認め合った。
しかし、ゴルフへの熱意が違った。
 彼はドンドン上達し、1ランクも2ランクも上を行くようになった。

 年に数回、同じメンバーでのゴルフコンペがあった。
そこで、彼と顔を合わせた。
 先輩であることを気にせず、
コンペでも親しくさせてもらった。

 伊達に移り住んだ翌年の夏、
奥様と一緒に、我が家を訪ねてくれた。

 そこで児童文化研究会の大先輩が、
奥様の小学生時代の担任であることがわかった。
 早速、大先輩の連絡先を教えて上げた。

 奥様は、東京に戻るとすぐ、
小学校の懐かしい担任に電話をした。
 そして、60年ぶりの再会を果たした。

 彼との縁は、それに限らない。
私が所用で東京へ行った時には、
都心の賑わいの中で、
「あれ塚原さん!」と呼び止める声がした。
 思わず声の方を見ると、
あの生真面目な顔だったことも・・。

 その彼が癌にやられた。
闘病生活を送りながら、
退職校長会の仕事だけは最期までやり通した。

 死期が迫っていることも知らず、
私は会誌への原稿提出が遅れ、彼をやきもきさせた。
 届いた原稿を奥さんに託し、その数日後に彼は逝った。
やっぱり生真面目な彼のままだった。 
 
 
 ◆ 今年になってからだ。
伊達に来てからは、年賀状交換だけになったが、
毎年元日には、彼からの年賀状が届いた。
 なのに今年は来なかった。

 今年の私のように体調を崩し、
発送が遅れたものと、さほど気に止めなかった。

 ところが、数日前だ。
奥様の名で葉書が届いた。
そこには『夫I・Tは 昨年12月15日逝去しました』とあった。
 寝耳に水のごとくであった。

 教頭時代から15年に渡り、
彼を含めた4人で、月1ゴルフをしていた。
 教頭4人の共通の趣味であったが、
毎月そろってラウンドするのは、難しいことだった。

 それぞれの家族の理解と協力があって、
続けることができた。

 4人は、偶然だが私を先頭に1歳違いだった。
そして、校長昇進も偶然1年違いで、年齢順だった。

 しかし、ゴルフの腕前は、彼が遙かに上で年齢順でなかった。
どんなスポーツも同じだろうが、
体力や技術の他に、メンタルが勝敗を左右する。

 彼のゴルフは、いつも強気だった。
どんな場面でも、自信をもってクラブを振った。
 いつも不安げにプレーする私とは大違い。
彼の強気は、多くの場合いい結果につながった。
 それに比べ私の結果は、期待外れの連続。
いつも彼のメンタルに一目置いた。

 3年前に、癌が見つかった。
医師からは、「余命1年」と言われたらしい。

 その時から、大好きなゴルフは止めた。
もしかするとできなくなったのかも。
 昨年の年賀状には、
「ゴルフはしてません」とだけ記されていた。
 体調のことなど一切記述はなかった。
だから、闘病生活など想いもしてない。
 そこへの悲報だ。

 きっとゴルフと同じ。
「余命1年」の宣告に、彼は強気で立ち向かったに違いない。
 辛い日々をひと言も私たちに告げず、
強いメンタルで、1年の命を3年に延ばしてみせた。 
 「凄い!」


 

      やっと 畑も 銀世界
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新聞のコラム欄から

2024-11-02 11:03:29 | 思い
 新聞の購読者が少なくなっていると言われて久しい。
今は、情報の入手はスマホで十分である。
 なのに、朝日新聞、北海道新聞、室蘭民報の3紙が、
毎朝、郵便受けに届く。
 スマホの情報を信用していない訳ではない。

 私は、朝日新聞の『天声人語』と『折々のことば』のコラムを、
毎日楽しみにしている。
 家内は、もっぱら北海道新聞の愛読者である。
そして、室蘭民報は土曜日の文化欄に、
私が所属している『楽書きの会』同人のエッセイが掲載される。

 3紙の購読にはそれぞれの動機があるが、
時々、どれか1紙を止めようと話題になるが、
いつも2人の合意ができず、保留になる。
 無駄遣いをしているようで、どうも始末が悪い。

 さて、私が楽しみにしているコラム欄だが、
この半年の間で、強く心に残った記事を紹介する。


  ◎8月3日『天声人語』

  パリ五輪の3日目、柔道女子
 52㌔級の1回戦。開始から45秒
 後、モザンピークの選手を相手
 にきれいな投げ技が決まった。
 その瞬間、マリアム・マハラニ
 選手(24)は拳を握り、泣きそう
 な顔で喜びをかみしめた。インドネシア
 代表の柔道選手が五輪で勝利したのは、
 初めてだった▼ラニの愛称で呼ばれるマ
 ハラニ選手を支えてきたのは、実は日本
 人の指導者たちだ。その一人、安斎俊哉
 さん(64)は10年前、ジャカルタの柔道場
 で「速さと根性」が際立つラニに、ピン
 ときた。鍛えれば、いけるかもしれない
 ▼安斎さんは1988年、国際協力機構
 (JICA)が初めてインドネシアへ派
 遣した青年海外協力隊の一員だ。以来、
 立場が変わっても同国で柔道指導を続け
 ている。これまで7人の代表を五輪へ送
 り込んだが、一度も勝てなかった▼「五
 輪で1勝」は、インドネシア柔道連盟に
 とっても悲願だった。ラニの可能性に賭
 け、安斎さんらの協力で何度も日本の大
 学などへ「出稽古」に送り込んだ。この
 2年は五輪出場に必要なポイントを得る
 ため、国際大会にも派遣。大陸枠に滑り
 込んだ▼ラニは2回戦で、準優勝したコ
 ソボの選手に一本負けした。「すごく速
 くて防御できなかった」。次の五輪を目
 指し、稽古のために翌日の便で帰国した
 ▼パリにいるのは、メダル獲得の大きな
 期待を背負う「スポーツ大国」の選手ば
 かりではない。大舞台で控えめな目標
 に挑む選手らを、国籍が異なる指導者
 が地道に支えていることもあるのだ。

 * インドネシアのラニ選手に限らず、
各国五輪選手の一人一人に、
きっとかけ替えのないドラマがある気がする。
 テレビ映像とは異なり、
このような文面を読むと、心への刻まれ方が違う。
 特に、国籍が異なる地道な指導者・安斎俊哉さんの、
インパクトが凄い!
  

  ◎6月11日『折々のことば』  
 
 僕がもたもたしていると、パッとやって
 くれるでしょう。あれは、やめてもらえ
 ないかな。
                堀田力 
  脳梗塞で倒れ、視力や記憶の一部を
 失った元検事の福祉事業家は、機能回
 復に取り組む中、至れり尽くせりの世
 話をしてくれる妻に一つだけ、注文す
 る。相手が起きようとした時、すかさ
 ず手を添えるのが看護、起ききれず後
 ろに倒れる寸前に手で支えるのか介護
 だと聞いたことがある。婦人公論」4
 月号での妻・明子さんとの対談から。

 * 私の地域にグループホームがある。
自治会長として、そこの運営推進会議に隔月で出席している。
 利用者さんの様子の報告があり、
それを受けて職員への要望や助言などをするのが主な目的である。
 私は、地域とのパイプ役としての参加であり、
介護については全く門外漢である。
 だか、この一文で介護の難しさを知った。
ご苦労に頭が上がらない。


  ◎9月 1日『折々のことば』

 がんがどの段階で発見されるかも運なら
 ば、ベストフィットの専門家にかかるこ
 とができるかどうかも運かもしれません
                仲野徹
  自分のたちを知る人であれば、微か
 な異変にも気づいてもらえそう。診察
 室でも、仕事や家族のことを楽しそう
 に聞いてくれる医師がいい。昔、私が
 早期発見で命拾いしたのも、あんな医
 者嫌いがこの程度のことでわしとこに
 来るのはおかしいと、老医師が訝しん
 だから。ついてたのか。医学者の『こ
 わいもの知らずの病理学講座』から。

  * どんな時にどんな医師に出会うかは運だと言う。
筆者も経験から「ついていたのか」とまで。
 私も、同様の経験をしている。
幸運に恵まれた。
 特に2人の名医との出会いが、今の健康に繋がっている。
詳しくは、本ブログ・16年4月29日『医療 悲喜こもごも』に記した。


  ◎9月14日『折々のことば』

 なんだかうまくいったなとおもうことは、
 全部、つらい思いをしたあとだった
               小田和正
  だから「つらいことは信用できる」
 とシンガー・ソングライターは言う。
 でも無理はしていない。無理しないと
 いうのは楽をすることではない。これ
 までずっと自分に負荷をかけてきた。
 70歳を迎える今もステージではキーを
 下げずに歌い、走る。そのつど駆け抜
 け、後で繕ったりしない。「楽したもの
 は信用できない」からと。2017年
 の発言。『時はまってくれない』から。

  * あの素敵な高音の歌声を生で聴いてみたかった。
実現していない。
 おそらく叶わないと思う。
でも、彼の心情に触れ、
ますますコンサートへ行きたくなった。
 「辛い思いの先に,成功体験がある!」
彼のCDを聴くたびに、これからの私の励みになると思う。




      ジューンベリーの秋色
                 ※次回のブログ更新予定は、11月23日(土)です。
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老いることの意味

2024-08-31 12:29:43 | 思い
 ▼ 二男が誕生した年に父は亡くなった。
もう47年も前になる。
 享年70歳、胃がんだった。

 余命3ヶ月と医師に宣告されたが、
一時は自宅で療養するまでに回復し、
9ヶ月後に逝った。
 最後の言葉は、「俺の生命力もそろそろ終わりのようだ」。
看取った兄たちからそう聞いて、さすが私の父と思った。

 母は、96歳まで生きた。
膵臓にガンがあったようだが、
それよりも死因は老衰だった。

 次第に弱っていったが、
亡くなる1ヶ月程前に母を見舞った。
 しきりに「私にだけ見える虫が飛んでるのよ。
わずらわしいわ」と愚痴った。
 そして、「きっと、もう会えないね」とも。

 病室を出ると、車いすで廊下まで出てきた。
私がエレベーターに乗るのを見届けた。
 そのドアが閉まるまで、母は小さく手を振り続けた。
私は、変わらない表情のままでいようと必死だった。

 さて、私に「その時」が来たら、
どんな振る舞い方をするのだろうか。
 2人のように、ありのままを受け止めて、
鬼籍に入れるだろうか。
 悪い夢見で目覚めた朝、
気だるい体を起こしながら、そんなことを思った。

 最近は、最期のことが頻繁に心を横切るようになった。
そんな年齢だからなのか。
 それとも私の精神が老けたからなのか。

 ▼ 小中学校が夏休みになり、
今年も2週間のラジオ体操が行われた。
 70人もの子どもと大人が集まる日もあった。
多くは、6時半ぎりぎりに会場の広場に駆け込む。

 ある朝、私とは反対方向から来たご夫婦と、
広場の入り口でバッタリ。
 挨拶を交わし、少しの時間だが立ち話になった。
いつも、ご主人との会話だ。
 「特にどこが悪い訳でもないけど、
最近は何をやるにも腰が重くなってしまい、困ります」

 同世代だ。共感できた。
「同じですよ。どこへ行くのも、
ちょっと体を動かすのも。
 いやですね。歳ですかね」。

 すぐ横をラジオ体操のカードを首に提げた子どもが
勢いよく走って行く。
 やや恨ましそうな目で追っていると、
珍しく奥さんが加わってきた。

 「そうですよ。
あの子たちのようにはいきませんが、
まだまだお若いですよ。
 主人とは違います。
羨ましいくらい」

 誰のことかと思った。
「私ですか。そんなことはありません」
 「いつお会いしても、お元気で明るくて、
はつらつとしていらっしゃる」。

 「とんでもない」と否定しながらも、
奥さんの言葉を真に受け、気を良くした。
 いつもより元気にラジオ体操をした。

 体操を終えての帰り、
連休の時、10数年ぶりに再会した大学時代の友人夫妻を思い出した。
 わずか数時間の我が家訪問だったが、
帰る際に、私の事を
「うちの主人より、ずっとずっと若々しい」と、
家内と同級の彼女が言った。

 そう! 彼女もあの奥さんも、
私の容姿を言ってるのじゃない。
 きっと雰囲気に若さを感じてのこと。
「それでもいいじゃないか!
若く思ってもらえたのだから」

 少し浮き浮きしていた。
今日も暑い日になるだろうと思いつつも、
やけに足どりが軽かった。

 ▼ ところで、最近の私の実際はどうだろうか。
コロナ禍前と比べると、老化は確実に進行しているように思う。
 
 視力・聴力の機能低下は明らかに進行している。
2か月毎に眼科へ通院し、
1日3回点眼薬を欠かさないようにしている。
 それでも、ゴルフボールの落下地点が見えなくなった。
車を運転していても視野の狭さを感じ、不安なることもある。

 聴力は、「耳が遠くなった」に尽きる。
テレビのボリュームを上げないと、
聞き取れないことが多くなった。

 特に、バラエティー番組での早口でのやり取りが、
聞き分けられない。
 だから、家内が笑っていても、
一緒に笑えないことが増えた。

 野球中継の解説も同じで、
応援の歓声と一緒になるともう聞き取れないのだ。

 人との会話でも、不都合がある。
よく聞こえずに、聞き返すこともたびたびだ。
 発言者の声も、一部が不明瞭な場合が多くなった。
聞こえたふりを粧ったり、
話の前後から類推したりすることも・・。

 そんな機能低下と同時に、体力の低下も著しい。
スロージョギングでさえ、無理なように思えてきた。
 朝、5キロをゆっくり走っても、
その後は疲れたまま1日を過ごすことになるのだ。
 もう2ヶ月も走ってない。
ようやく1週間前から朝の散歩を始めたが、
継続には自信がない。

 加えて感受性の衰えだ。
柔らかな感性が、陰ってしまっている。
 大自然の豊かさにも、人々の温もりにも、
想像を超えた劇的な出来事にも、
さほど心躍らないのだ。
 だから、それを期待しての行動も当て外れになる。
ドキドキ感やわくわく感が減っている。

 そんな近況をひと言で言おう。
「これら全てが、私のストレスになっている!」。

 年齢とともに、できないことが増えていく現実。
もう歳だからと、諦めることのなんと多いことか。

 しかし、「そんなあるがままを受け入れていいの?」
年齢と共に訪れる老いは当然だが、 
「どう老いるか」を決めるのは、私自身と思いたい。

 このまま老いのストレスを抱えたまま過ごす・・?
それとも、「あるがまま」へチャレンジする・・?
 「老いることの意味」は、
いずれの道を選択するかなのではなかろうか。

 


      収穫の時 玉ねぎ
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お 盆 の ピ ザ 

2024-08-24 12:41:40 | 思い
 昨年のお盆は、スケジュールの都合で、
芦別のお墓へ行けず、失礼をした。

 今年こそはと、13日に家内の両親が眠る芦別市民墓地へ
行くことにした。
 そして、15日には私の両親のお墓参りへと計画を立てた。


 まずは、13日について・・・。
芦別までは、高速道を利用して3時間半はかかる。
 私も後期高齢者である。
日頃、運転には十分に気をつけている。

 それにしても、この距離をいつまで運転できるか。
今年限りとは決めていないものの、
近い将来にはマイカーを止め、
「列車とバスでお墓参りへ行く」時がくるだろう。
 そう思うと、助手席に家内を乗せたロングドライブも、
貴重な時間のように思えた。

 さて、お昼をかなり過ぎてから、
芦別の道の駅に着いた。
 駐車場は、お盆ならではの賑わいだった。

 「まずは昼食!」と、2階のレストランへ行った。
その混雑は予想以上だった。
 出入口のフロアは、
予約表に記入した人たちでいっぱいだった。
 容易に1時間以上の待ち時間が予想できた。  

 早々に退散し、お土産品が並ぶ1階で、
菓子パンやおにぎりなどで昼食替わりにしようとウロウロした。

 そのフロアの奥へ進むと、
『ピッツァ芦別』と言うオープンカフェのようなピザ専門店あった。
 カウンターを囲むように、4人がけのテーブル席が5つ6つあった。

 ここには空席があった。
カウンターに尋ねると、注文を受け付けているという。
 2階の混雑との差に違和感があった。
勝手に、「評判が良くないのかも」と思った。
 それよりも今は空腹を満たしたかった。

 店のコーナーにあった自販機から、
ピザマルゲリータの食券を一枚求めた。
 写真にあった大きさなら、2人でシェアするのに十分だった。

 備え付けのピザ釜があった。
焼き上がるまで、時間がかかるようだった。
 空いていたテーブル席で待ちながら、
スマホで『ピッツァ芦別』を検索してみた。

 「横市フロマージュ舎のカマンベールチーズ」や
「横市フロマージュ舎直営」の言葉が並んでいた。

 つまりは、地元にある横市フロマージュ舎で
作ったチーズをつかったピザをこの店で提供し、
経営していることが分かった。

 急に、期待で胸が膨らんだ。
「横市」さんの名は、若い頃からたびたび家内から聞いていた。
 高校時代の友達が結婚した相手が「横市」さんなのだ。

 手作りチーズ工場で頑張っていた彼女とは、
毎年年賀状交換をしていた。
 しかし、数年前に他界した。
その「横市」さんのお店、
「横市」さんのチーズを使ったピザなのだ。

 丁度、お盆であった。
テーブルに置かれた焼きたてのピザを、
黙ってゆっくりと味わった。
 トマトにマッチしたチーズの美味しい味、
そしてピザ生地の美味しさにもチーズは合っていた。
 私の中では、美味しいと思ったピザベスト3に入った。
 
 「評判が良くないかも」などと推測したことを、
家内の友達にそっと詫びた。
 そして、たまたまに違いないが、
席まで空けてくれていたことに感謝した。 
 だって、食べ終わる頃には、
店の入口に長い行列ができていたのだ。


 次は15日について・・・。
去年は、兄と姉、私たちの4人でのお墓参りだった。
 姉が横浜の娘の所で、術後の療養をしているため、
今年は3人だ。

 お墓参り後のことだが、
数日前に、珍しく兄が我が家の庭が見たいと連絡があった。
 「それじゃ、夕ご飯も一緒に食べることにしよう」
と、話がまとまった。

 和食店なら行き慣れているだろう。
きっと中華や焼き肉も美味しい店を知っているに違いない。
 なら、市内に私も家内もお勧めのイタリアンレストランがある。
急ぎ「5時半過ぎに」とそこを予約した。

 その店はイタリアンらしく、
取り分けて食べるコースメニューがある。
 気取らずにシェアでき、3人には丁度よかった。

 最初の4種の前菜を食べ始めてすぐ、
兄は「美味しい」と呟いた。
 その中の2種は鯖と桜鱒の魚を使ったものだったが、
どれも驚いたように「美味い!」とうなずいた。

 次の、パスタ料理は2皿だった。
ペペロンチーノ風とボロネーゼ風。
 どちらも、軽い味付けで私好みだが、
兄は、慣れないフォークに苦戦しながらも、
黙々と食べていた。

 そして、静かに、
「オレの店では、小鉢料理にスパゲティーを使うことがあるけど、
こんな味付けはしない。美味しいなあ」。

 デザートの前は、
いつ食べても満足するピザマルゲリータだった。
 1枚を3人で取り分けた。
兄は、不慣れな手つきで6つに切られた1つを、
自分の小皿に移した。
 私たちのようにはかぶりつかず、
それを再び小さく切り分け、ゆっくりと味わっていた。

 食べ終えてから、
「スーパーなんかで売っているのを、
チンして食べたことはあるけど、
それとは全然違うなぁ。
 初めて本当のピザを食べたよ。
なるほどな、美味しい。
 今日は、いい物を食べさせてもらっている」。

 兄の顔は、コース料理を終えるまで、
終始仕事人の表情だった。
 私の教職生活は、兄の援助があったからである。
わずかだが、お礼ができたのかも・・・。

 遠くで母が、喜んでいるように思えたお盆であった。




     米不足解消を願う
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12年! 心の変容が・・?

2024-07-20 11:06:17 | 思い
 S区退職校長会から会誌への原稿募集が来た。
例年のことである。
 2012年に当地へ移り住む時に、
多少でも縁つなぎになればと、入会した。
 以来、毎年会誌への寄稿だけは続けてきた。

 ブログや地元紙に書いたことに加筆したものが多いが、
その時々、思いついた近況報告のようなものである。
 それでも、「毎年楽しみに待ってます」と、
便りをいただいたことも・・・。

 300字程度のものだが、列記すると、
この12年間の心の変容が見えるかも・・・。
 「試してみる!」。 


  ① 北の大地にて  ~ 2012年

 『田舎過ぎず都会過ぎない』。
そんな表題が随分と私を惹きつけ、この地に住む動機の一つにした。
 思いの外涼しい真夏。
新天地で目にするものに今までにない感動を覚える。

 すぐそばの緩やかに傾斜した畑には、
キャベツ、南瓜、麦が日一日と確かな生長を教え、
馬鈴薯の白と紫の花が広がる風景に、どんなお花畑より目を奪われる。

ラーメン店や蕎麦屋の味は、どこの暖簾を潜っても私を裏切らない。
水がいいのだとか。
 中心街でのフリーマーケットに沢山の店が軒を並べ、
その賑わいに心躍ったりもする。
 6月からの日々、チョット振り返ってみると、
私は結構満足しているようだ。


  ② 移住して1年  ~ 2013年

 「冬を越えてからでなければ、
伊達への移住の是非は決められない」。
 ようやく顔馴染みになった地元の方々からそんな声を聞き、
1年が過ぎた。

 1日中、降り積もる雪を、朝と夜2回も玄関先、
ガレージ、自宅前の歩道と雪を掻く。 
 氷点下の寒さに頭から手足の先まで完全防寒をし、
最小限の外出で済ませる日が続く。
 予想以上の過酷さにただただ呆れる。

 しかし、芽吹きの春を迎え、一斉に草木の開花が訪れ、
その色彩の鮮やかさに心を奪われ、
そして今、盛夏の時、山々は濃い緑に覆われ、
北の大地の本当の逞しさを教えられた。
 そう、私にとって移住は正解だったと思う。


  ③ ジューンベリー  ~ 2014年

 伊達への引っ越しは6月だった。
その日初めて、完成した我が家と庭を見た。
 その庭で迎えてくれたのが、
穏やかな風に揺れるジューンベリーの樹だった。

 私にとって6月は、
かねてより一年の中でも思い出のある特別な月であった。
 まさにシンボルツリーにふさわしい樹との出会いだった。

 『ジューンベリー・・・?』
それは通常6月に赤紫色の実がなることからの命名のようだ。
 伊達では、7月初旬に実をつける。
今年も、ジャムにし、近所にも配った。
         (ブログ『ジューンベリーに忘れ物』抜粋)


  ④ ブログ『南吉ワールド2』抜粋  ~ 2015年

 『ジューンベリーに忘れ物』という面倒なタイトルをつけたブログも、
週1の更新をくり返し、1年が過ぎた。

 この間、57編におよぶ私の想いを、
その週その週、遠慮なく記させてもらった。
 今日も、このブログを開き、
目を通してくださる方々の存在が、大きな励みになっている。
 心からお礼を申し上げたい。

 さて、昨年10月18日『南吉ワールド』の題で、
そのブログに新美南吉の代表作と言える『てぶくろを買いに』と
『ごんぎつね』について触れた。

 優れたストーリー性に魅了されるが、
人間への不信とも思える冷ややかさに、
私は釈然としない読後感をもった。


  ⑤ ついに そして まだまだ  ~ 2016年

 毎日をサンデーにしないため始めたジョギング。
四季折々変化する伊達の景色に風を感じ、楽しさを知った。

 そして、地元開催の大会へ参加。
それを皮切りに5キロ、10キロ、ハーフと
年々挑戦する距離を伸ばし、自己記録のチャレンジ。
 そんな積み重ねが、ついに今年、フルマラソンにトライ。

 5時間13分で完走。
きっとゴールしたら、喜びの涙がと思いきや、
究極の疲れがそんな感情さえ忘れさせてしまった。

 でも、充実感がたまらない。
今度は5時間を切る。
 その意気込みで、今日も走っている。
私はまだまだチャレンジャーなの?


  ⑥ 北に 魅せられ  ~ 2017年

 移住してすぐに気づいた。
伊達には都会の喧騒とは無縁な空気が流れていた。
 朝に漂う爽やかな風と共に出会う大人も子どもも、
朝の挨拶を欠かさない。
 スーパーに並ぶ野菜も魚も、ひと目でその新鮮さが私にも分かった。

 そして、何よりも私は北海道が彩る四季の折々の表情に、
すっかり心を奪われた。
 そんな日々と暮らすだけで、全てが満ちた。

 ところが3年前、
北の大自然としっかり向き合う人々に心が騒いだ。
 事実、黙々と淡々と悠々と働く、その姿がまぶしかった。

 それが大きな力になった。
ずっと温めていたブログにも、初めてのマラソン大会にも
チャレンジしようと決めた。
 

  ⑦ 伊達の錦秋  ~ 2018年

 ▼荒々しい有珠山が朝日を浴び、頂の山肌を紅色に染める。
裾野の樹木は、これまた秋の赤。
 上から下まで山は丸ごと深い赤一色に。
風のない朝、ツンとした空気の山容が私の背筋を伸ばしてくれる。

 ▼線路の跡地がサイクリングロードに。
紅葉した桜並木のその道を2キロほど進むと、『チリリン橋』だ。
 下を流れる長流川に沢山の鮭が遡上。
産卵を終え、横たわるホッチャレ。
 それを目当てに群がる野鳥。
命の現実を見ながら、私も冬へ向かう。

 ▼明治の頃、クラーク博士が伊達でのビート栽培と砂糖生産を推奨した。
今も秋とともに製糖工場の煙突からモクモクと白い煙が上る。
 そして、町中はほんのりと甘い香りに包まれる。


  ⑧ 軽夏の伊達を切り取って  ~ 2019年

 畑は春キャベツとブロッコリーの収穫期だ。
ジャガイモとカボチャの花も咲き始めた。

 少し離れたところに噴火湾が見える。
時折、海面を朝霧がおおう。
 そのはるか先に、駒ヶ岳のさっそうとした勇姿がある。
走りながら両手を広げ、大きく深呼吸をしてしまう。

 再び住宅街へと戻る。
香りに誘われて、顔を向ける。
 手入れの行き届いた花壇に、
とりどりの薔薇が、満開の時を迎えていた。

 先日まで、凜としたアヤメの立ち姿がジョギング道を飾ってくれていた。
真っ白なツツジも、ルピナスの赤や紫も道端で咲き誇っていた。
 なのに、その時季は終わった。

 『季節の移ろいをあきらめることがあっても、慣れることはない。』



  ⑨ 『コロナ禍の春ラン』から  ~ 2020年 

 ついに春が来た。
梅も桃も桜も一斉に咲いた。
 白木蓮も紫木蓮もコブシも、みんな咲いた。
日の出も早い。
 目ざめも早くなる。

 いい天気の日は、6時半にランニングスタートだ。
人はまばら。
 3密の心配など要らない。
でも、この陽気だからか、時折ランナーとすれ違う。
 みんな若い。
多くはイヤホンをしている。
挨拶しても、視線すら合わせない。

 ところが、近づいてきたランナーが、
私の左腕にあるオレンジ色の腕章を見た。
 「おっ、ガードランナーズだ。お疲れっす。」
さっと頭を下げ走り去った。
 『走りながら、子どもやお年寄りの見守りを!』。
そんな趣旨に「私でよければ」と腕章をして走っている。

 それをねぎらう飾らないひと言だ。
「別に、何もしてないのに!」。
 でも、誰も見ていないことをいいことに、少し胸を張った。

 きっとアカゲラだろう。
ドラミングの音が空に響いていた。
 一瞬、コロナを忘れた。


  ⑩ 春の早朝 窓からは  ~ 2021年

 いつもより早い時間に目ざめた朝。
4時半を回ったばかりなのに、外はもう明るい。
 家内に気づかれないよう、そっと寝室を出て、
2階の自室のカーテンを開けた。

 窓からは、緩い下りの『嘉右衛門坂通り』が見える。
明るさを増す空には、一片の雲もない。
 風もなく、穏やかな一日の始まりを告げているようだった。

 ゆっくりと坂を下る2つの後ろ姿が、視界に入ってきた。
この時間の外は、まだ冷えるのか、
2人とも、ニット帽に冬用の黒の上下服だった。

 男性はやや足を引きずり、
女性の腰は少し前かがみになっていた。
 何やら会話が弾んでいるようで、ゆっくりと歩みを進めながら、
しばしば相手に顔を向け、笑みを浮かべているよう。
 愉しげな背中だった。

 私の視線など気づく訳もない。
早朝も早朝、人も車も通らない日の出前の坂道を、
2人だけの足取りが下って行った。
 布施明の『マイウエイ』が、心に流れていた。 


 ⑪ すげーえ すげー  ~ 2022年

 連休明けから、朝のジョギングを再開した。
5月の風に誘われ、
一斉に花咲く野草や樹木に心寄せながらゆっくりと走る。

 ある朝、中学校近くの道でのこと。
まだ真新しい制服の男子3人が、横並びでやってきた。
 楽しげに会話する姿が、青空によく似合っていた。

 すれ違いざまに、話し声が聞こえた。
「いくつぐらいだ?」。
 同時に、1人の子と目が合った。
応じる必要などなかった。
 なのに、春の陽気がとっさに言わせた。
「七十四!」。

 「余計なことを口走った」。
少し悔いたその時だ。
 背中から声が届いた。
「すげーえ。ぼくのおじいちゃんより上だ」
 「俺のジッちゃんよりもだ。すげーえ、すげー」。

 急に恥ずかしくなった。
振り向くことも出来ず、
それまでよりも少し足早に走って、照れを隠した。


 ⑫ スケッチ・今春  ~ 2023年
 
 福寿草とクロッカスが、冬の終わりを告げている。
モノクロだけの暮らしに色彩が加わり、
この街の雪融けは一気に進む。

 我が家の庭では、宿根草が一斉に芽吹き、
あちこちで、新芽が地表を押し破り、姿を現す。
 「すごい!」。
このエネルギーは正真正銘、春到来の合図。

 やがて、アヤメ川沿いの散策路には、
キクザキイチゲやアズマイチゲ、キバナノアマナが花をつけ、
歴史の杜公園の野草園には、カタクリや水芭蕉が、私の足を止める。

 「今年は、春が早そうですね」。
ご近所さんと、そんな挨拶を交わす。




    もう 宵待草が咲いている
                ※ 次回ブログの更新は 8月3日(土)です
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