ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

新聞のコラム欄から

2024-11-02 11:03:29 | 思い
 新聞の購読者が少なくなっていると言われて久しい。
今は、情報の入手はスマホで十分である。
 なのに、朝日新聞、北海道新聞、室蘭民報の3紙が、
毎朝、郵便受けに届く。
 スマホの情報を信用していない訳ではない。

 私は、朝日新聞の『天声人語』と『折々のことば』のコラムを、
毎日楽しみにしている。
 家内は、もっぱら北海道新聞の愛読者である。
そして、室蘭民報は土曜日の文化欄に、
私が所属している『楽書きの会』同人のエッセイが掲載される。

 3紙の購読にはそれぞれの動機があるが、
時々、どれか1紙を止めようと話題になるが、
いつも2人の合意ができず、保留になる。
 無駄遣いをしているようで、どうも始末が悪い。

 さて、私が楽しみにしているコラム欄だが、
この半年の間で、強く心に残った記事を紹介する。


  ◎8月3日『天声人語』

  パリ五輪の3日目、柔道女子
 52㌔級の1回戦。開始から45秒
 後、モザンピークの選手を相手
 にきれいな投げ技が決まった。
 その瞬間、マリアム・マハラニ
 選手(24)は拳を握り、泣きそう
 な顔で喜びをかみしめた。インドネシア
 代表の柔道選手が五輪で勝利したのは、
 初めてだった▼ラニの愛称で呼ばれるマ
 ハラニ選手を支えてきたのは、実は日本
 人の指導者たちだ。その一人、安斎俊哉
 さん(64)は10年前、ジャカルタの柔道場
 で「速さと根性」が際立つラニに、ピン
 ときた。鍛えれば、いけるかもしれない
 ▼安斎さんは1988年、国際協力機構
 (JICA)が初めてインドネシアへ派
 遣した青年海外協力隊の一員だ。以来、
 立場が変わっても同国で柔道指導を続け
 ている。これまで7人の代表を五輪へ送
 り込んだが、一度も勝てなかった▼「五
 輪で1勝」は、インドネシア柔道連盟に
 とっても悲願だった。ラニの可能性に賭
 け、安斎さんらの協力で何度も日本の大
 学などへ「出稽古」に送り込んだ。この
 2年は五輪出場に必要なポイントを得る
 ため、国際大会にも派遣。大陸枠に滑り
 込んだ▼ラニは2回戦で、準優勝したコ
 ソボの選手に一本負けした。「すごく速
 くて防御できなかった」。次の五輪を目
 指し、稽古のために翌日の便で帰国した
 ▼パリにいるのは、メダル獲得の大きな
 期待を背負う「スポーツ大国」の選手ば
 かりではない。大舞台で控えめな目標
 に挑む選手らを、国籍が異なる指導者
 が地道に支えていることもあるのだ。

 * インドネシアのラニ選手に限らず、
各国五輪選手の一人一人に、
きっとかけ替えのないドラマがある気がする。
 テレビ映像とは異なり、
このような文面を読むと、心への刻まれ方が違う。
 特に、国籍が異なる地道な指導者・安斎俊哉さんの、
インパクトが凄い!
  

  ◎6月11日『折々のことば』  
 
 僕がもたもたしていると、パッとやって
 くれるでしょう。あれは、やめてもらえ
 ないかな。
                堀田力 
  脳梗塞で倒れ、視力や記憶の一部を
 失った元検事の福祉事業家は、機能回
 復に取り組む中、至れり尽くせりの世
 話をしてくれる妻に一つだけ、注文す
 る。相手が起きようとした時、すかさ
 ず手を添えるのが看護、起ききれず後
 ろに倒れる寸前に手で支えるのか介護
 だと聞いたことがある。婦人公論」4
 月号での妻・明子さんとの対談から。

 * 私の地域にグループホームがある。
自治会長として、そこの運営推進会議に隔月で出席している。
 利用者さんの様子の報告があり、
それを受けて職員への要望や助言などをするのが主な目的である。
 私は、地域とのパイプ役としての参加であり、
介護については全く門外漢である。
 だか、この一文で介護の難しさを知った。
ご苦労に頭が上がらない。


  ◎9月 1日『折々のことば』

 がんがどの段階で発見されるかも運なら
 ば、ベストフィットの専門家にかかるこ
 とができるかどうかも運かもしれません
                仲野徹
  自分のたちを知る人であれば、微か
 な異変にも気づいてもらえそう。診察
 室でも、仕事や家族のことを楽しそう
 に聞いてくれる医師がいい。昔、私が
 早期発見で命拾いしたのも、あんな医
 者嫌いがこの程度のことでわしとこに
 来るのはおかしいと、老医師が訝しん
 だから。ついてたのか。医学者の『こ
 わいもの知らずの病理学講座』から。

  * どんな時にどんな医師に出会うかは運だと言う。
筆者も経験から「ついていたのか」とまで。
 私も、同様の経験をしている。
幸運に恵まれた。
 特に2人の名医との出会いが、今の健康に繋がっている。
詳しくは、本ブログ・16年4月29日『医療 悲喜こもごも』に記した。


  ◎9月14日『折々のことば』

 なんだかうまくいったなとおもうことは、
 全部、つらい思いをしたあとだった
               小田和正
  だから「つらいことは信用できる」
 とシンガー・ソングライターは言う。
 でも無理はしていない。無理しないと
 いうのは楽をすることではない。これ
 までずっと自分に負荷をかけてきた。
 70歳を迎える今もステージではキーを
 下げずに歌い、走る。そのつど駆け抜
 け、後で繕ったりしない。「楽したもの
 は信用できない」からと。2017年
 の発言。『時はまってくれない』から。

  * あの素敵な高音の歌声を生で聴いてみたかった。
実現していない。
 おそらく叶わないと思う。
でも、彼の心情に触れ、
ますますコンサートへ行きたくなった。
 「辛い思いの先に,成功体験がある!」
彼のCDを聴くたびに、これからの私の励みになると思う。




      ジューンベリーの秋色
                 ※次回のブログ更新予定は、11月23日(土)です。
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老いることの意味

2024-08-31 12:29:43 | 思い
 ▼ 二男が誕生した年に父は亡くなった。
もう47年も前になる。
 享年70歳、胃がんだった。

 余命3ヶ月と医師に宣告されたが、
一時は自宅で療養するまでに回復し、
9ヶ月後に逝った。
 最後の言葉は、「俺の生命力もそろそろ終わりのようだ」。
看取った兄たちからそう聞いて、さすが私の父と思った。

 母は、96歳まで生きた。
膵臓にガンがあったようだが、
それよりも死因は老衰だった。

 次第に弱っていったが、
亡くなる1ヶ月程前に母を見舞った。
 しきりに「私にだけ見える虫が飛んでるのよ。
わずらわしいわ」と愚痴った。
 そして、「きっと、もう会えないね」とも。

 病室を出ると、車いすで廊下まで出てきた。
私がエレベーターに乗るのを見届けた。
 そのドアが閉まるまで、母は小さく手を振り続けた。
私は、変わらない表情のままでいようと必死だった。

 さて、私に「その時」が来たら、
どんな振る舞い方をするのだろうか。
 2人のように、ありのままを受け止めて、
鬼籍に入れるだろうか。
 悪い夢見で目覚めた朝、
気だるい体を起こしながら、そんなことを思った。

 最近は、最期のことが頻繁に心を横切るようになった。
そんな年齢だからなのか。
 それとも私の精神が老けたからなのか。

 ▼ 小中学校が夏休みになり、
今年も2週間のラジオ体操が行われた。
 70人もの子どもと大人が集まる日もあった。
多くは、6時半ぎりぎりに会場の広場に駆け込む。

 ある朝、私とは反対方向から来たご夫婦と、
広場の入り口でバッタリ。
 挨拶を交わし、少しの時間だが立ち話になった。
いつも、ご主人との会話だ。
 「特にどこが悪い訳でもないけど、
最近は何をやるにも腰が重くなってしまい、困ります」

 同世代だ。共感できた。
「同じですよ。どこへ行くのも、
ちょっと体を動かすのも。
 いやですね。歳ですかね」。

 すぐ横をラジオ体操のカードを首に提げた子どもが
勢いよく走って行く。
 やや恨ましそうな目で追っていると、
珍しく奥さんが加わってきた。

 「そうですよ。
あの子たちのようにはいきませんが、
まだまだお若いですよ。
 主人とは違います。
羨ましいくらい」

 誰のことかと思った。
「私ですか。そんなことはありません」
 「いつお会いしても、お元気で明るくて、
はつらつとしていらっしゃる」。

 「とんでもない」と否定しながらも、
奥さんの言葉を真に受け、気を良くした。
 いつもより元気にラジオ体操をした。

 体操を終えての帰り、
連休の時、10数年ぶりに再会した大学時代の友人夫妻を思い出した。
 わずか数時間の我が家訪問だったが、
帰る際に、私の事を
「うちの主人より、ずっとずっと若々しい」と、
家内と同級の彼女が言った。

 そう! 彼女もあの奥さんも、
私の容姿を言ってるのじゃない。
 きっと雰囲気に若さを感じてのこと。
「それでもいいじゃないか!
若く思ってもらえたのだから」

 少し浮き浮きしていた。
今日も暑い日になるだろうと思いつつも、
やけに足どりが軽かった。

 ▼ ところで、最近の私の実際はどうだろうか。
コロナ禍前と比べると、老化は確実に進行しているように思う。
 
 視力・聴力の機能低下は明らかに進行している。
2か月毎に眼科へ通院し、
1日3回点眼薬を欠かさないようにしている。
 それでも、ゴルフボールの落下地点が見えなくなった。
車を運転していても視野の狭さを感じ、不安なることもある。

 聴力は、「耳が遠くなった」に尽きる。
テレビのボリュームを上げないと、
聞き取れないことが多くなった。

 特に、バラエティー番組での早口でのやり取りが、
聞き分けられない。
 だから、家内が笑っていても、
一緒に笑えないことが増えた。

 野球中継の解説も同じで、
応援の歓声と一緒になるともう聞き取れないのだ。

 人との会話でも、不都合がある。
よく聞こえずに、聞き返すこともたびたびだ。
 発言者の声も、一部が不明瞭な場合が多くなった。
聞こえたふりを粧ったり、
話の前後から類推したりすることも・・。

 そんな機能低下と同時に、体力の低下も著しい。
スロージョギングでさえ、無理なように思えてきた。
 朝、5キロをゆっくり走っても、
その後は疲れたまま1日を過ごすことになるのだ。
 もう2ヶ月も走ってない。
ようやく1週間前から朝の散歩を始めたが、
継続には自信がない。

 加えて感受性の衰えだ。
柔らかな感性が、陰ってしまっている。
 大自然の豊かさにも、人々の温もりにも、
想像を超えた劇的な出来事にも、
さほど心躍らないのだ。
 だから、それを期待しての行動も当て外れになる。
ドキドキ感やわくわく感が減っている。

 そんな近況をひと言で言おう。
「これら全てが、私のストレスになっている!」。

 年齢とともに、できないことが増えていく現実。
もう歳だからと、諦めることのなんと多いことか。

 しかし、「そんなあるがままを受け入れていいの?」
年齢と共に訪れる老いは当然だが、 
「どう老いるか」を決めるのは、私自身と思いたい。

 このまま老いのストレスを抱えたまま過ごす・・?
それとも、「あるがまま」へチャレンジする・・?
 「老いることの意味」は、
いずれの道を選択するかなのではなかろうか。

 


      収穫の時 玉ねぎ
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お 盆 の ピ ザ 

2024-08-24 12:41:40 | 思い
 昨年のお盆は、スケジュールの都合で、
芦別のお墓へ行けず、失礼をした。

 今年こそはと、13日に家内の両親が眠る芦別市民墓地へ
行くことにした。
 そして、15日には私の両親のお墓参りへと計画を立てた。


 まずは、13日について・・・。
芦別までは、高速道を利用して3時間半はかかる。
 私も後期高齢者である。
日頃、運転には十分に気をつけている。

 それにしても、この距離をいつまで運転できるか。
今年限りとは決めていないものの、
近い将来にはマイカーを止め、
「列車とバスでお墓参りへ行く」時がくるだろう。
 そう思うと、助手席に家内を乗せたロングドライブも、
貴重な時間のように思えた。

 さて、お昼をかなり過ぎてから、
芦別の道の駅に着いた。
 駐車場は、お盆ならではの賑わいだった。

 「まずは昼食!」と、2階のレストランへ行った。
その混雑は予想以上だった。
 出入口のフロアは、
予約表に記入した人たちでいっぱいだった。
 容易に1時間以上の待ち時間が予想できた。  

 早々に退散し、お土産品が並ぶ1階で、
菓子パンやおにぎりなどで昼食替わりにしようとウロウロした。

 そのフロアの奥へ進むと、
『ピッツァ芦別』と言うオープンカフェのようなピザ専門店あった。
 カウンターを囲むように、4人がけのテーブル席が5つ6つあった。

 ここには空席があった。
カウンターに尋ねると、注文を受け付けているという。
 2階の混雑との差に違和感があった。
勝手に、「評判が良くないのかも」と思った。
 それよりも今は空腹を満たしたかった。

 店のコーナーにあった自販機から、
ピザマルゲリータの食券を一枚求めた。
 写真にあった大きさなら、2人でシェアするのに十分だった。

 備え付けのピザ釜があった。
焼き上がるまで、時間がかかるようだった。
 空いていたテーブル席で待ちながら、
スマホで『ピッツァ芦別』を検索してみた。

 「横市フロマージュ舎のカマンベールチーズ」や
「横市フロマージュ舎直営」の言葉が並んでいた。

 つまりは、地元にある横市フロマージュ舎で
作ったチーズをつかったピザをこの店で提供し、
経営していることが分かった。

 急に、期待で胸が膨らんだ。
「横市」さんの名は、若い頃からたびたび家内から聞いていた。
 高校時代の友達が結婚した相手が「横市」さんなのだ。

 手作りチーズ工場で頑張っていた彼女とは、
毎年年賀状交換をしていた。
 しかし、数年前に他界した。
その「横市」さんのお店、
「横市」さんのチーズを使ったピザなのだ。

 丁度、お盆であった。
テーブルに置かれた焼きたてのピザを、
黙ってゆっくりと味わった。
 トマトにマッチしたチーズの美味しい味、
そしてピザ生地の美味しさにもチーズは合っていた。
 私の中では、美味しいと思ったピザベスト3に入った。
 
 「評判が良くないかも」などと推測したことを、
家内の友達にそっと詫びた。
 そして、たまたまに違いないが、
席まで空けてくれていたことに感謝した。 
 だって、食べ終わる頃には、
店の入口に長い行列ができていたのだ。


 次は15日について・・・。
去年は、兄と姉、私たちの4人でのお墓参りだった。
 姉が横浜の娘の所で、術後の療養をしているため、
今年は3人だ。

 お墓参り後のことだが、
数日前に、珍しく兄が我が家の庭が見たいと連絡があった。
 「それじゃ、夕ご飯も一緒に食べることにしよう」
と、話がまとまった。

 和食店なら行き慣れているだろう。
きっと中華や焼き肉も美味しい店を知っているに違いない。
 なら、市内に私も家内もお勧めのイタリアンレストランがある。
急ぎ「5時半過ぎに」とそこを予約した。

 その店はイタリアンらしく、
取り分けて食べるコースメニューがある。
 気取らずにシェアでき、3人には丁度よかった。

 最初の4種の前菜を食べ始めてすぐ、
兄は「美味しい」と呟いた。
 その中の2種は鯖と桜鱒の魚を使ったものだったが、
どれも驚いたように「美味い!」とうなずいた。

 次の、パスタ料理は2皿だった。
ペペロンチーノ風とボロネーゼ風。
 どちらも、軽い味付けで私好みだが、
兄は、慣れないフォークに苦戦しながらも、
黙々と食べていた。

 そして、静かに、
「オレの店では、小鉢料理にスパゲティーを使うことがあるけど、
こんな味付けはしない。美味しいなあ」。

 デザートの前は、
いつ食べても満足するピザマルゲリータだった。
 1枚を3人で取り分けた。
兄は、不慣れな手つきで6つに切られた1つを、
自分の小皿に移した。
 私たちのようにはかぶりつかず、
それを再び小さく切り分け、ゆっくりと味わっていた。

 食べ終えてから、
「スーパーなんかで売っているのを、
チンして食べたことはあるけど、
それとは全然違うなぁ。
 初めて本当のピザを食べたよ。
なるほどな、美味しい。
 今日は、いい物を食べさせてもらっている」。

 兄の顔は、コース料理を終えるまで、
終始仕事人の表情だった。
 私の教職生活は、兄の援助があったからである。
わずかだが、お礼ができたのかも・・・。

 遠くで母が、喜んでいるように思えたお盆であった。




     米不足解消を願う
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12年! 心の変容が・・?

2024-07-20 11:06:17 | 思い
 S区退職校長会から会誌への原稿募集が来た。
例年のことである。
 2012年に当地へ移り住む時に、
多少でも縁つなぎになればと、入会した。
 以来、毎年会誌への寄稿だけは続けてきた。

 ブログや地元紙に書いたことに加筆したものが多いが、
その時々、思いついた近況報告のようなものである。
 それでも、「毎年楽しみに待ってます」と、
便りをいただいたことも・・・。

 300字程度のものだが、列記すると、
この12年間の心の変容が見えるかも・・・。
 「試してみる!」。 


  ① 北の大地にて  ~ 2012年

 『田舎過ぎず都会過ぎない』。
そんな表題が随分と私を惹きつけ、この地に住む動機の一つにした。
 思いの外涼しい真夏。
新天地で目にするものに今までにない感動を覚える。

 すぐそばの緩やかに傾斜した畑には、
キャベツ、南瓜、麦が日一日と確かな生長を教え、
馬鈴薯の白と紫の花が広がる風景に、どんなお花畑より目を奪われる。

ラーメン店や蕎麦屋の味は、どこの暖簾を潜っても私を裏切らない。
水がいいのだとか。
 中心街でのフリーマーケットに沢山の店が軒を並べ、
その賑わいに心躍ったりもする。
 6月からの日々、チョット振り返ってみると、
私は結構満足しているようだ。


  ② 移住して1年  ~ 2013年

 「冬を越えてからでなければ、
伊達への移住の是非は決められない」。
 ようやく顔馴染みになった地元の方々からそんな声を聞き、
1年が過ぎた。

 1日中、降り積もる雪を、朝と夜2回も玄関先、
ガレージ、自宅前の歩道と雪を掻く。 
 氷点下の寒さに頭から手足の先まで完全防寒をし、
最小限の外出で済ませる日が続く。
 予想以上の過酷さにただただ呆れる。

 しかし、芽吹きの春を迎え、一斉に草木の開花が訪れ、
その色彩の鮮やかさに心を奪われ、
そして今、盛夏の時、山々は濃い緑に覆われ、
北の大地の本当の逞しさを教えられた。
 そう、私にとって移住は正解だったと思う。


  ③ ジューンベリー  ~ 2014年

 伊達への引っ越しは6月だった。
その日初めて、完成した我が家と庭を見た。
 その庭で迎えてくれたのが、
穏やかな風に揺れるジューンベリーの樹だった。

 私にとって6月は、
かねてより一年の中でも思い出のある特別な月であった。
 まさにシンボルツリーにふさわしい樹との出会いだった。

 『ジューンベリー・・・?』
それは通常6月に赤紫色の実がなることからの命名のようだ。
 伊達では、7月初旬に実をつける。
今年も、ジャムにし、近所にも配った。
         (ブログ『ジューンベリーに忘れ物』抜粋)


  ④ ブログ『南吉ワールド2』抜粋  ~ 2015年

 『ジューンベリーに忘れ物』という面倒なタイトルをつけたブログも、
週1の更新をくり返し、1年が過ぎた。

 この間、57編におよぶ私の想いを、
その週その週、遠慮なく記させてもらった。
 今日も、このブログを開き、
目を通してくださる方々の存在が、大きな励みになっている。
 心からお礼を申し上げたい。

 さて、昨年10月18日『南吉ワールド』の題で、
そのブログに新美南吉の代表作と言える『てぶくろを買いに』と
『ごんぎつね』について触れた。

 優れたストーリー性に魅了されるが、
人間への不信とも思える冷ややかさに、
私は釈然としない読後感をもった。


  ⑤ ついに そして まだまだ  ~ 2016年

 毎日をサンデーにしないため始めたジョギング。
四季折々変化する伊達の景色に風を感じ、楽しさを知った。

 そして、地元開催の大会へ参加。
それを皮切りに5キロ、10キロ、ハーフと
年々挑戦する距離を伸ばし、自己記録のチャレンジ。
 そんな積み重ねが、ついに今年、フルマラソンにトライ。

 5時間13分で完走。
きっとゴールしたら、喜びの涙がと思いきや、
究極の疲れがそんな感情さえ忘れさせてしまった。

 でも、充実感がたまらない。
今度は5時間を切る。
 その意気込みで、今日も走っている。
私はまだまだチャレンジャーなの?


  ⑥ 北に 魅せられ  ~ 2017年

 移住してすぐに気づいた。
伊達には都会の喧騒とは無縁な空気が流れていた。
 朝に漂う爽やかな風と共に出会う大人も子どもも、
朝の挨拶を欠かさない。
 スーパーに並ぶ野菜も魚も、ひと目でその新鮮さが私にも分かった。

 そして、何よりも私は北海道が彩る四季の折々の表情に、
すっかり心を奪われた。
 そんな日々と暮らすだけで、全てが満ちた。

 ところが3年前、
北の大自然としっかり向き合う人々に心が騒いだ。
 事実、黙々と淡々と悠々と働く、その姿がまぶしかった。

 それが大きな力になった。
ずっと温めていたブログにも、初めてのマラソン大会にも
チャレンジしようと決めた。
 

  ⑦ 伊達の錦秋  ~ 2018年

 ▼荒々しい有珠山が朝日を浴び、頂の山肌を紅色に染める。
裾野の樹木は、これまた秋の赤。
 上から下まで山は丸ごと深い赤一色に。
風のない朝、ツンとした空気の山容が私の背筋を伸ばしてくれる。

 ▼線路の跡地がサイクリングロードに。
紅葉した桜並木のその道を2キロほど進むと、『チリリン橋』だ。
 下を流れる長流川に沢山の鮭が遡上。
産卵を終え、横たわるホッチャレ。
 それを目当てに群がる野鳥。
命の現実を見ながら、私も冬へ向かう。

 ▼明治の頃、クラーク博士が伊達でのビート栽培と砂糖生産を推奨した。
今も秋とともに製糖工場の煙突からモクモクと白い煙が上る。
 そして、町中はほんのりと甘い香りに包まれる。


  ⑧ 軽夏の伊達を切り取って  ~ 2019年

 畑は春キャベツとブロッコリーの収穫期だ。
ジャガイモとカボチャの花も咲き始めた。

 少し離れたところに噴火湾が見える。
時折、海面を朝霧がおおう。
 そのはるか先に、駒ヶ岳のさっそうとした勇姿がある。
走りながら両手を広げ、大きく深呼吸をしてしまう。

 再び住宅街へと戻る。
香りに誘われて、顔を向ける。
 手入れの行き届いた花壇に、
とりどりの薔薇が、満開の時を迎えていた。

 先日まで、凜としたアヤメの立ち姿がジョギング道を飾ってくれていた。
真っ白なツツジも、ルピナスの赤や紫も道端で咲き誇っていた。
 なのに、その時季は終わった。

 『季節の移ろいをあきらめることがあっても、慣れることはない。』



  ⑨ 『コロナ禍の春ラン』から  ~ 2020年 

 ついに春が来た。
梅も桃も桜も一斉に咲いた。
 白木蓮も紫木蓮もコブシも、みんな咲いた。
日の出も早い。
 目ざめも早くなる。

 いい天気の日は、6時半にランニングスタートだ。
人はまばら。
 3密の心配など要らない。
でも、この陽気だからか、時折ランナーとすれ違う。
 みんな若い。
多くはイヤホンをしている。
挨拶しても、視線すら合わせない。

 ところが、近づいてきたランナーが、
私の左腕にあるオレンジ色の腕章を見た。
 「おっ、ガードランナーズだ。お疲れっす。」
さっと頭を下げ走り去った。
 『走りながら、子どもやお年寄りの見守りを!』。
そんな趣旨に「私でよければ」と腕章をして走っている。

 それをねぎらう飾らないひと言だ。
「別に、何もしてないのに!」。
 でも、誰も見ていないことをいいことに、少し胸を張った。

 きっとアカゲラだろう。
ドラミングの音が空に響いていた。
 一瞬、コロナを忘れた。


  ⑩ 春の早朝 窓からは  ~ 2021年

 いつもより早い時間に目ざめた朝。
4時半を回ったばかりなのに、外はもう明るい。
 家内に気づかれないよう、そっと寝室を出て、
2階の自室のカーテンを開けた。

 窓からは、緩い下りの『嘉右衛門坂通り』が見える。
明るさを増す空には、一片の雲もない。
 風もなく、穏やかな一日の始まりを告げているようだった。

 ゆっくりと坂を下る2つの後ろ姿が、視界に入ってきた。
この時間の外は、まだ冷えるのか、
2人とも、ニット帽に冬用の黒の上下服だった。

 男性はやや足を引きずり、
女性の腰は少し前かがみになっていた。
 何やら会話が弾んでいるようで、ゆっくりと歩みを進めながら、
しばしば相手に顔を向け、笑みを浮かべているよう。
 愉しげな背中だった。

 私の視線など気づく訳もない。
早朝も早朝、人も車も通らない日の出前の坂道を、
2人だけの足取りが下って行った。
 布施明の『マイウエイ』が、心に流れていた。 


 ⑪ すげーえ すげー  ~ 2022年

 連休明けから、朝のジョギングを再開した。
5月の風に誘われ、
一斉に花咲く野草や樹木に心寄せながらゆっくりと走る。

 ある朝、中学校近くの道でのこと。
まだ真新しい制服の男子3人が、横並びでやってきた。
 楽しげに会話する姿が、青空によく似合っていた。

 すれ違いざまに、話し声が聞こえた。
「いくつぐらいだ?」。
 同時に、1人の子と目が合った。
応じる必要などなかった。
 なのに、春の陽気がとっさに言わせた。
「七十四!」。

 「余計なことを口走った」。
少し悔いたその時だ。
 背中から声が届いた。
「すげーえ。ぼくのおじいちゃんより上だ」
 「俺のジッちゃんよりもだ。すげーえ、すげー」。

 急に恥ずかしくなった。
振り向くことも出来ず、
それまでよりも少し足早に走って、照れを隠した。


 ⑫ スケッチ・今春  ~ 2023年
 
 福寿草とクロッカスが、冬の終わりを告げている。
モノクロだけの暮らしに色彩が加わり、
この街の雪融けは一気に進む。

 我が家の庭では、宿根草が一斉に芽吹き、
あちこちで、新芽が地表を押し破り、姿を現す。
 「すごい!」。
このエネルギーは正真正銘、春到来の合図。

 やがて、アヤメ川沿いの散策路には、
キクザキイチゲやアズマイチゲ、キバナノアマナが花をつけ、
歴史の杜公園の野草園には、カタクリや水芭蕉が、私の足を止める。

 「今年は、春が早そうですね」。
ご近所さんと、そんな挨拶を交わす。




    もう 宵待草が咲いている
                ※ 次回ブログの更新は 8月3日(土)です
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いつか その時

2024-06-08 11:21:00 | 思い
 ▼ 『終活』!
好きになれない言葉だ。
 でも、どんな生命も必ずピリオドを印す。

 「私達も、いつかは死ぬのよね。
後何年こうしていられるのかしら」
 どんな話から、そんな言葉が家内から飛び出したか、
思い出せない。
 私は言葉に詰まり、曖昧な返答をした気がする。

 「後何年生きていられるのか」
それを思うと、好き嫌いなどではない。
 そろそろ『終活』と正面から向き合わなければ・・・・・。

 さて、1つだけ決めたことがある。
さほどのことではない。
 「終活もどき」のことで、笑ってしまう始末だが。
 
 4月からNHKのテレビ番組に、
5年ぶりに復活したものがあった。
 『新・プロジェクトX』だ。

 番組の初めに、
中島みゆきの『地上の星』が流れ、
その曲を時折交えながら、
名だたる者とは言えないが、ある分野で奮闘した人々を、
ドキメント風に紹介していくものだ。

 そして、決まってエンディングは、
これまた中島みゆきで、『ヘッドライトテールライト』が流れ、
それを聞きながら、45分間の番組は終わる。

 5年前も好きな番組だったので、
期待しながら先日も観た。

 震災で壊滅状態になった三陸鉄道の復活に、
奮闘した方々を取り上げていた。
 その献身的な姿に、度々胸が熱くなった。

 そして、やはり番組の終わりは、
いつものように『ヘッドライトテールライト』だった。
 じっと、歌詞を噛みしめながら聴いた。

  語り継ぐ人もなく
  吹きすさぶ風の中へ
  紛れ散らばる星の名は
  忘れられても
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない
  足跡は降る雨と
  降る時の中へ消えて
  称える歌は
  英雄のためと過ぎても
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない
  行く先を照らすのは
  まだ咲かぬ見果てぬ夢
  遙か後ろを照らすのは
  あどけない夢
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない 

 エンディング曲を最後まで聴き終えてから、
思いつきのように突然、
一緒に観ていた家内につぶやいた。

 「オレの出棺の時は、この曲を流してほしい」
当然、家内は何も言わなかった。

 その気持ちを察することもなく私は、
「・・忘れられてもいい、・・英雄たちのためと過ぎてもいい。
 でも、旅はまだ終わらない。
きっとそんな想いで、私は旅立つに違いない」
 強くそう思いながら、気づくと寂しさだけになっていた。

 
 ▼ 昨年4月、コロナで中止となっていた
自治会の親睦行事『観桜会』(お花見会)が、4年ぶりに行われた。
 あいにくの雨天で、会館内での飲食となった。

 その席にMさんがいた。
以前は、奥様と一緒に参加していたので、
「今日は、お1人ですか」と声をかけた。
 「はい、体調が悪く今日は私1人で、参加させてもいました」 
いつ声をかけても、丁寧に対応してくださる方だった。 
 
 そして8月、今度は盆踊りを兼ねた『夏祭り』があった。
参加者名簿に、Mさん夫妻の名があった。
 「お元気になられ、参加されるのだ」と、心待ちした。

 ところが、受付に現れたのはMさん1人だけ。
「奥様の名前もありましたので、
 てっきりお2人でとお待ちしていましたが・・」
声をかけてみた。

 「はい、そのつもりで楽しみにしてたのですが、
無理なようです。
 焼き鳥と焼きそばを頂いて、家で一緒に食べることにします」
精気のないMさんの表情が気になった。

 以来、Mさんにはお会いする機会もなく、
今年度を迎えた。

 毎日、いの一番に朝刊のお悔やみ欄に目を通す。
ある朝、そこにMさんの奥さんの名前があった。

 朝食を済ませたら、ご自宅をお訪ねし、
お悔やみをお伝えしようと思っていた矢先だった。
 電話が鳴った。

 Mさんからだった。
「自治会への連絡が遅れてしまいました」と切り出し、
丁寧な言葉遣いで、奥様の逝去を伝えてくださった。
 電話を頂いたことを恐縮しながら、
お悔やみを述べ電話を切った。

 その夜、自治会からの香典を持って通夜へ出向いた。
コロナ禍と同様の葬儀で、通夜前に焼香を済ませて私は退席した。
 Mさんとお会いできなかった。

 そして、2日後の午後、Mさんから再び電話があった。
焼香のお礼と葬儀が全て終了した旨の連絡だった。
 その声には、先日よりさらに力がなかった。

 最後に、その声のまま
「妻に先立れ、私1人になりました。
 でも、これからもここで暮らします。
皆さんにはお世話になると思います。
 よろしくお願いします」
 
 返す言葉に詰まったが、
「お力落としのことを思います。
 私たちにできるでしたら、何でもさせてもらいます。
遠慮なく、ご連絡ください」。
 「はい、分かりました。
ありがとうございます。
 ありがとうございます」。

 受話器を置いても、
「妻に先立れ、私1人になりました。
 でも、これからもここで暮らします」が、
いつまでも、今も、脳裏から離れない。




    い た る 処  ア ヤ メ
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