「そんな馬鹿な!」
と、言われそうだ。
伊達と、生まれ故郷・室蘭は隣り合っていた。
そのことに気づいたのは、
6年半前、伊達に住み始めてからだった。
室蘭は、風が強く、曇り空が多い。
伊達には、広いゴルフ練習場がないので、
時々、白鳥大橋を渡って、室蘭市入江まで練習に行く。
伊達は、快晴なのに、車を進めると、
雲行きが急変することが、しばしばある。
地元の人は、口をそろえて言う。
「伊達と室蘭は、(気候が)違うから」。
18歳まで過ごしたその町だが、
その地しか知らなかった私には、
気候の善し悪しは、論外だった。
だが、高校時代のことだ。
霧の濃い朝。
当時、男子は下駄履き登校が流行っていた。
バス停から学校まで10分弱の道は、
霧で先が見えなかった。
カランカランと下駄の音、
そして、時折霧の中から女子の話し声と、
明るい笑いが聞こえた。
学校の玄関に着くと、
いつもと変わらない現実・日常だが、
あの濃霧の通学路だけは、鮮明に残っている。
私の好きな室蘭の1コマだ。
さて、私の高校生活だが、
最近、伊達から室蘭へのハンドルを握りながら、
思い出すエピソードがいくつかある。
精神的に幼かった私なので、
あの頃を「青春の門」とは言えない。
あえて言うなら『青春の門前』が、いいかも・・。
<その1>
2年生のクラス替えで、
口数の少ない男子と一緒になった。
たまたま隣の席に座ることに。
毎朝、私より先に着席していた。
いつも私が、「おはよう」と言う。
彼は、私を見上げてから、無言で頭を下げた。
授業中はもちろん、
休み時間も、彼から話しかけられたことはなかった。
しかも、私が話しかけても、
「そう」「いいえ」「わかりました」「それはどうかな・・」程度で、
会話が弾むことはなかった。
彼への印象は、次第に悪くなっていった。
1か月程が過ぎた頃だったろうか、
体育の授業で、バスケットがあった。
チームを作り、試合をした。
そこで、ドリブルもシュートもままならない彼を見た。
そして、5月末、体育祭があった。
クラス対抗の球技大会だ。
私はバレーボールの一員になった。
彼も一緒のチームだった。
何回か練習をした。
彼はトスどころが、アンダーサーブもネットを越えなかった。
運動が苦手なんだと思い、
口数の少なさにも、少し寛大な気持ちになった。
ところが、彼が剣道部に所属し、
部活動に励んでいると聞いた。
若干耳を疑った。
翌朝、彼に尋ねた。
「剣道部だって?」
「アッ、はい。」
「剣道、できるの?」
「はい。」
「いつから?」
「前から。」
「へぇ-」
そこで、終わればよかった。
私の勇み足だった。
バスケットやバレーの運動ぶりが残っていた。
剣道だって同様と思った。
「一度、防具を着けて剣道をやってみたいなぁ。」
「やってみる? いいよ!」
「初めてでも、まあ負けないな」。
その言葉が、彼に火をつけたのだ。
数日後、部活を終えてから、
初めて剣道の防具を身につけた。
窮屈で重かった。
何人か見物人がいた。
彼は、竹刀で面を打てと言った。
竹刀を構え、思い切り振り下ろした。
「もっと強く。」
彼に言われるまま、力を込めた。
すると再び、
「もっと強く」。
さらに大きな声がとんだ。
数回、くり返した。
息が弾んだ。
「次は僕が面を打つから、竹刀で防いで」
彼に言われて、竹刀を頭上に構え、
面を防ぐことにした。
彼は竹刀を構えた。
次の瞬間だ。
顔面に彼の胴着が迫り、目をつむった。
突然、「メーン!」
体育館に響き渡る声とともに、
頭上にすごい衝撃が、落ちてきた。
私は、声も出せないまま、お尻から床に落ちた。
そして、まさに大の字になり、一瞬気を失った。
その後、どんな言葉をかわし、
防具をとったのか、記憶はない。
翌朝、いつも通り、彼は隣の席にいた。
私の「おはよう」に、変わらず見上げてから頭をさけた。
以来、時々私は、
「剣道、頑張って」と言った。
その度に、「ありがとう」
と、明るい声で応じてくれた。
<その2>
高校生活の多くは、生徒会活動に明け暮れた。
1学年の後期から3学年の前期まで、
2年もの間、生徒会室に入り浸っていた。
だから、学校祭2回、体育祭4回の運営に携わった。
1つ1つの催しが成功裏に終えた時の達成感は、
経験を重ねるごとに大きくなった。
さて、1年の秋、生徒会の役員になってすぐ、体育祭があった。
私は体育部担当だった。
しかし、先輩役員に指示されても、その仕事の半分もできなかった。
申し訳ない気持ちだった。
そんな時、休憩時間の談笑で、2年生の生徒会長が言い出した。
「体育祭は運動部ばかり目立つけど、
生徒会役員も目立ちたいなあ。」
すかさず、私と一緒に体育部担当の2年生が応じた。
「じゃ、俺はクラス対抗のバスケットで優勝するよ。」
会長が笑顔で私を見た。
「君は、どうする?」
私は、口ごもった。
「バスケットもバレーもサッカーも、
優勝なんてできないし・・・。困りました・・・。」
すると役員の1人が、冗談ぽく言った。
「マラソンで10位以内なんて・・・。」
「それはいい。」
「頑張ってみろよ。」
「マラソンは、根性だからなぁ。」
責任のない軽い言葉が、同じ役員から飛んだ。
そして、最後に会長が締めた。
「そんな深刻に考えない。
できればでいい・・。できればで・・」
まったく自信がなかった。
でも、みんなの役に立ちたかった。
マラソンコースは10キロだった。
警察への届け出のため、
生徒会顧問の先生と、2度3度と自転車で下見をした。
アップダウンの多いコースだった。
そこを野球部や陸上部など運動部の男子と一緒に走る。
そして10位以内。
それは、無理に決まっていた。
なのに、その日まで、私は登下校のバスを止め、ランニングした。
その努力だけでもしなければと思った。
そして、いよいよ当日がきた。
あの日以来、役員の誰もマラソンのことを話題にしなかった。
私一人が、気にかけていた。
運動部の屈強に混じって、スタートラインの先頭に立った。
会長をはじめ役員に、結果より意欲だけは知って欲しかった。
どこまで彼らについていけるか、イチかバチかだった。
コースは熟知していた。
前半より後半に上りが多く、苦しくなる。
私の前を走っていた屈強が次第にバテていった。
最後はただ勢いだけだった。
ゴールして、渡された順位カードを見た。
4位と書いてあった。
それを見たら、急に力が抜けた。
その後、何をして、どうやって帰宅したのか覚えがない。
その夜から、高熱に襲われ、3日も寝込んだ。
家族は、マラソンで寝込んだ私に呆れた。
回復すると、「馬鹿もほどほどにしろ。」
父は、本気で私を叱った。
3日ぶりに生徒会室に顔を出した。
誰も4位の私を話題にしなかった。
父の叱責が、こたえた。
≪つづく≫
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/23/d05053041a302af9d363f09d55adb65d.jpg)
我が家の庭も 枯れススキ
次回ブログ更新予定は 12月1日
と、言われそうだ。
伊達と、生まれ故郷・室蘭は隣り合っていた。
そのことに気づいたのは、
6年半前、伊達に住み始めてからだった。
室蘭は、風が強く、曇り空が多い。
伊達には、広いゴルフ練習場がないので、
時々、白鳥大橋を渡って、室蘭市入江まで練習に行く。
伊達は、快晴なのに、車を進めると、
雲行きが急変することが、しばしばある。
地元の人は、口をそろえて言う。
「伊達と室蘭は、(気候が)違うから」。
18歳まで過ごしたその町だが、
その地しか知らなかった私には、
気候の善し悪しは、論外だった。
だが、高校時代のことだ。
霧の濃い朝。
当時、男子は下駄履き登校が流行っていた。
バス停から学校まで10分弱の道は、
霧で先が見えなかった。
カランカランと下駄の音、
そして、時折霧の中から女子の話し声と、
明るい笑いが聞こえた。
学校の玄関に着くと、
いつもと変わらない現実・日常だが、
あの濃霧の通学路だけは、鮮明に残っている。
私の好きな室蘭の1コマだ。
さて、私の高校生活だが、
最近、伊達から室蘭へのハンドルを握りながら、
思い出すエピソードがいくつかある。
精神的に幼かった私なので、
あの頃を「青春の門」とは言えない。
あえて言うなら『青春の門前』が、いいかも・・。
<その1>
2年生のクラス替えで、
口数の少ない男子と一緒になった。
たまたま隣の席に座ることに。
毎朝、私より先に着席していた。
いつも私が、「おはよう」と言う。
彼は、私を見上げてから、無言で頭を下げた。
授業中はもちろん、
休み時間も、彼から話しかけられたことはなかった。
しかも、私が話しかけても、
「そう」「いいえ」「わかりました」「それはどうかな・・」程度で、
会話が弾むことはなかった。
彼への印象は、次第に悪くなっていった。
1か月程が過ぎた頃だったろうか、
体育の授業で、バスケットがあった。
チームを作り、試合をした。
そこで、ドリブルもシュートもままならない彼を見た。
そして、5月末、体育祭があった。
クラス対抗の球技大会だ。
私はバレーボールの一員になった。
彼も一緒のチームだった。
何回か練習をした。
彼はトスどころが、アンダーサーブもネットを越えなかった。
運動が苦手なんだと思い、
口数の少なさにも、少し寛大な気持ちになった。
ところが、彼が剣道部に所属し、
部活動に励んでいると聞いた。
若干耳を疑った。
翌朝、彼に尋ねた。
「剣道部だって?」
「アッ、はい。」
「剣道、できるの?」
「はい。」
「いつから?」
「前から。」
「へぇ-」
そこで、終わればよかった。
私の勇み足だった。
バスケットやバレーの運動ぶりが残っていた。
剣道だって同様と思った。
「一度、防具を着けて剣道をやってみたいなぁ。」
「やってみる? いいよ!」
「初めてでも、まあ負けないな」。
その言葉が、彼に火をつけたのだ。
数日後、部活を終えてから、
初めて剣道の防具を身につけた。
窮屈で重かった。
何人か見物人がいた。
彼は、竹刀で面を打てと言った。
竹刀を構え、思い切り振り下ろした。
「もっと強く。」
彼に言われるまま、力を込めた。
すると再び、
「もっと強く」。
さらに大きな声がとんだ。
数回、くり返した。
息が弾んだ。
「次は僕が面を打つから、竹刀で防いで」
彼に言われて、竹刀を頭上に構え、
面を防ぐことにした。
彼は竹刀を構えた。
次の瞬間だ。
顔面に彼の胴着が迫り、目をつむった。
突然、「メーン!」
体育館に響き渡る声とともに、
頭上にすごい衝撃が、落ちてきた。
私は、声も出せないまま、お尻から床に落ちた。
そして、まさに大の字になり、一瞬気を失った。
その後、どんな言葉をかわし、
防具をとったのか、記憶はない。
翌朝、いつも通り、彼は隣の席にいた。
私の「おはよう」に、変わらず見上げてから頭をさけた。
以来、時々私は、
「剣道、頑張って」と言った。
その度に、「ありがとう」
と、明るい声で応じてくれた。
<その2>
高校生活の多くは、生徒会活動に明け暮れた。
1学年の後期から3学年の前期まで、
2年もの間、生徒会室に入り浸っていた。
だから、学校祭2回、体育祭4回の運営に携わった。
1つ1つの催しが成功裏に終えた時の達成感は、
経験を重ねるごとに大きくなった。
さて、1年の秋、生徒会の役員になってすぐ、体育祭があった。
私は体育部担当だった。
しかし、先輩役員に指示されても、その仕事の半分もできなかった。
申し訳ない気持ちだった。
そんな時、休憩時間の談笑で、2年生の生徒会長が言い出した。
「体育祭は運動部ばかり目立つけど、
生徒会役員も目立ちたいなあ。」
すかさず、私と一緒に体育部担当の2年生が応じた。
「じゃ、俺はクラス対抗のバスケットで優勝するよ。」
会長が笑顔で私を見た。
「君は、どうする?」
私は、口ごもった。
「バスケットもバレーもサッカーも、
優勝なんてできないし・・・。困りました・・・。」
すると役員の1人が、冗談ぽく言った。
「マラソンで10位以内なんて・・・。」
「それはいい。」
「頑張ってみろよ。」
「マラソンは、根性だからなぁ。」
責任のない軽い言葉が、同じ役員から飛んだ。
そして、最後に会長が締めた。
「そんな深刻に考えない。
できればでいい・・。できればで・・」
まったく自信がなかった。
でも、みんなの役に立ちたかった。
マラソンコースは10キロだった。
警察への届け出のため、
生徒会顧問の先生と、2度3度と自転車で下見をした。
アップダウンの多いコースだった。
そこを野球部や陸上部など運動部の男子と一緒に走る。
そして10位以内。
それは、無理に決まっていた。
なのに、その日まで、私は登下校のバスを止め、ランニングした。
その努力だけでもしなければと思った。
そして、いよいよ当日がきた。
あの日以来、役員の誰もマラソンのことを話題にしなかった。
私一人が、気にかけていた。
運動部の屈強に混じって、スタートラインの先頭に立った。
会長をはじめ役員に、結果より意欲だけは知って欲しかった。
どこまで彼らについていけるか、イチかバチかだった。
コースは熟知していた。
前半より後半に上りが多く、苦しくなる。
私の前を走っていた屈強が次第にバテていった。
最後はただ勢いだけだった。
ゴールして、渡された順位カードを見た。
4位と書いてあった。
それを見たら、急に力が抜けた。
その後、何をして、どうやって帰宅したのか覚えがない。
その夜から、高熱に襲われ、3日も寝込んだ。
家族は、マラソンで寝込んだ私に呆れた。
回復すると、「馬鹿もほどほどにしろ。」
父は、本気で私を叱った。
3日ぶりに生徒会室に顔を出した。
誰も4位の私を話題にしなかった。
父の叱責が、こたえた。
≪つづく≫
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/23/d05053041a302af9d363f09d55adb65d.jpg)
我が家の庭も 枯れススキ
次回ブログ更新予定は 12月1日