ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

美味しい店 み~つけた!

2017-04-28 22:19:33 | 
 2週間程前のことになる。
お向かいの奥さんが、
大きなビニル袋に詰め込んだほうれん草を、
2抱えも持ってきた。

 「これ、食べて。」
「エッ、こんなに!」
 家内はその量に、今にも悲鳴を上げそうだった。

 地元の農家さんから、
ビニールハウス1棟分のほうれん草を、頂いたのだそうだ。
 まったく、豪快な話である。

 毎日収獲しているが、「多すぎて困っている。」と、
お向かいさんは曇った顔をした。

 ビニル袋のほうれん草は、採ったばっかり。
シャキッと生きがよく、美味しそうだ。

 早速、2人で食べる数日分を残し、
大量のほうれん草を、レジ袋に小分けした。

 伊達で知り合った方々に、次々と電話を入れた。
それを車に積み、配り歩いた。

 中には、パンパンのレジ袋を見て、
「食べきれないから、近所の娘の所に持って行くわ。」
と、おっしゃる方も。

 伊達に来て5年になる。

 昨年の秋は、頂き物のカボチャが何個も、
物置に転がっていた。
 年を越し、春先までカボチャ料理が食卓にあった。

 そんな暮らしに、大分慣れてきたとは言え、
都会では体験できない有り様に、つい心が浮かれてしまう。

 さて、北海道は食の宝庫である。
四季折々の旬の農産物、新鮮な魚貝類、
そして、最近ではスイーツも台頭してきている。

 だから、私の食生活も次第次第変化している。
一番は、生野菜サラダを、
毎朝食べるようになったこと。
 新鮮な野菜の味とシャキシャキ感は、
伊達で知った。

 次は、北海道ならではの、美味しいお店である。
これもたくさん見つけた。
 そして、リピーターになっている。
その中から3店を記す。


 ① とうふ店

 洞爺湖の温泉街をぬけ、
羊蹄山に向かって、1時間弱、ひたすら車を走らせると、
真狩村がある。

 そこから、まもなくニセコ町という所に、
『湧水の里』がある。

 ここは、京極町の『ふきだし公園』と並んで、
羊蹄山の雪解け水が、
ふんだんに湧き出ているところとして、
道民には、よく知られている。

 初めてそこを訪ねたとき、湧き出る水の勢いに、
しばらくぼう然とした。

 道内各地のナンバープレートをつけた車が、
からの大きなペットボトルを何本、いや何十本も積んで、
その湧き水を汲みに来ている。
 料金無料の銘水が汲み放題なのだ。

 そんな『湧水の里』のすぐそばに、
「名水とうふ店」がある。

 「きぬ名水」「ふんわりもめん」「あげとうふ」など、
豊富な種類と品数が、店内に並ぶ。
 試食もできる。とてもうまい。
だから、どれを買おうか、迷いに迷う。

 そして、いつも買いすぎる。
何日も食卓にとうふが並ぶ。

 それでも、ここのとうふは飽きがこない。
どれも納得できる美味しさなのだ。

 きっと羊蹄山の湧き水と、
北海道産大豆の成せる技なのだろう。
 とうふの本来の味、うまさを教えてもらった。

 スーパーのものに比べ、はるかに高価だ。
それでも、数ヶ月に一度は車を走らせ、
買い求めたくなる。


 ② ピザ屋

伊達インターから高速道を、函館方面へ1時間程走る。
ブナの北限とされる原生林が広がる黒松内町に着く。

 私も、そのブラ林を何度か散策した。
秋、紅葉のブナは、陽光と調和し、
強烈な美しさだった。
 強く心に刻まれている。

 加えて、この町は、
食に対してこだわりを持っていると聞いた。

 確かに、
『道の駅くろまつない「トワ・ヴェールⅡ」』には、
地元産のパン、チーズ、ソーセージ、ワイン等が並び、
販売されている。

 そして、この道の駅の一角に、
『天然酵母熟成 ピザドゥ』がある。

 道内では、「美味しいピザ」として、
広く知られるようになり、休日ともなれば、
30分や60分待ちは、当たり前なのだ。

 ピザのメニューは、10数種類だ。
どれも食欲をそそられるのだが、
私は、『マルゲリータ』をいつも注文する。

 しばらくすると、テイクアウトが可能なように、
八角形の箱に入ったピザが出来上がる。

 天然酵母熟成のピザ生地がふっくらと盛り上がり、
その上にモッツァレラチーズがとろけ、
バジルやトマトなど野菜がのっている。

 チーズのあっさりとした絶妙な味加減と、
新鮮な野菜の美味しさが、
これまたピザ生地と、見事にマッチングしている。

 「これは、美味しい!」
何度食べても、一口目の感想はいつも同じだ。

 今までに食べたどこのお店のピザより、
ここのが一番と思うのは、私だけではないようだ。


 ③ 元祖室蘭ラーメン

 私の生まれ故郷・室蘭は、カギの手の形をした半島にある。
その外海は、太平洋の大海原で、
海と陸の境目の多くは、険しい断崖になっている。

 昭和10年に創業したという「元祖室蘭ラーメン『清洋軒』」は、
その断崖が間近に迫る市内舟見町にある。

 急坂の中頃にある店先には、
『清洋軒』の大文字が鮮やかな暖簾がかかっている。

 年齢のいったご夫婦と、
その父親によく似た顔の息子さんの3人が、
カウンターの向こうで、忙しくラーメンを作る。

 なぜ「元祖室蘭ラーメン」なのか、その真意は分からない。
「きっと、室蘭最古のラーメン店だからではないか。」と、
勝手に推理している。

 ここの塩ラーメンが、大のお気に入りだ。
若干黄色みのある透き通ったスープ。
 それに、一切添加物を使っていないという、
中太のやや縮れた麺。
 メンマと桃色のなると、ネギ、麩、
そしてチャーシューがのっている。

 まったくシンプルな一杯だが、
レンゲですくった最初のスープを口にすると、
もう一口、もう一口とレンゲが進む。
 毎回、麺に行く前に、
「美味しい!」と声が出てしまう。

 その後は、無言。
今日のこの一杯を十分に堪能する。
 なぜか、食べ終わる頃には、冬でも額から汗が流れ出す。

 店には、味噌味も醤油味もある。
また、「日華ラーメン」と称する、
かき揚げ天ぷら入りのオリジナルなものもある。

 しかし、私は一切それらには興味がない。
この店は、塩ラーメンだけで、十分に私を満たしてくれる。

 先日、ネットで、
「人生の最後は、清洋軒の塩ラーメンにする。」
との書き込みを見た。
 その境地には、なかなかなれないが、
十分に理解ができる。





 梅や桜より先に エゾムラサキツツジ

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69歳の 浅春

2017-04-21 16:02:57 | ジョギング
 4月16日 第30回春一番伊達ハーフマラソンがあった。
昨年に引き続き、ハーフの部に挑戦した。
 その大会にまつわるエピソードを2つ記す。

 (1)
 4月11日、69歳の誕生日を迎えた。
60代最後の1年である。
 力む程のことではないが、特別な1年と思えば、
それなりの年になるような気がする。

 とにかく、何か新しいことができれば、
それはそれで嬉しい。

 さて、同じ日である。
北海道新聞室蘭胆振版に、
『「30年」市民の力で定着 伊達ハーフマラソン』の表題で、
半ページの特集があった。

 そのトップに、『地元ランナー』として以下の文面と、
『本番と同じコースで練習する
「スマイル ジョグ ダテ」のメンバー』として、
私を含め5人のランニング姿の写真が載った。
 
 * * *

 例年、道内外から多数のマラソン愛好者が集う
春一番伊達ハーフマラソン。
伊達市のランナーも全体の1割弱を占め、
グループをつくるなどして走りを楽しんでいる。
30年目の大会を控えた地元ランナーたちの横顔を紹介する。

 愛好団体「スマイル ジョグ ダテ」は、
市温水プール・トレーニング室を運営する道南スコーレが
呼びかけ3年前に結成した。
現在、20人のメンバーがおり、
当日は応援を含め全員が参加する。

 メンバーで元小学校校長の塚原渉さん(69)は、
千葉市から移住した翌年の2013年に5キロに初出場。
その後、順調に距離を伸ばし、今回は2度目のハーフに挑む。
マラソンは伊達に来て始めたといい、
「身近な場所で大会をやっているのがいい」と語る。

 ≪後略≫

 *  *  *

 珍しく朝から電話が鳴った。メールも届いた。
「新聞、読んだよ。」
「ビックリした。」
 地元の方々からの温かい声だった。

 実は、仲間に加えてもらっている「スマイル ジョグ ダテ」は、
3月中旬から3回練習を計画していた。

 その2回目の時、新聞記者さんが取材に来ていた。
たまたまそこに居合わせたメンバーで、
ハーフに挑戦するのは私だけだった。
 それで取材の求めに応じた。
記者さんに問われるまま、気軽に答えた。

 ところが、この記事に、思いのほか反響があった。
中には、「校長先生だったんですか。」と、
上から下までまじまじと見る方まで現れた。

 伊達に移り住んで5年。そろそろ前職を知られてもいい。
「そうなんです。これからもよろしく。」と、
頭を下げた。

 この記事の反響に限ったことではないが、
地元には、随分と多くの顔見知りができた。

 だから、今年のハーフマラソン大会は、
昨年まで皆無だった沿道からの応援に、何度も励まされた。

 給水所のボランティアさんに、2人も知り合いがいた。
水分補給と共に、その顔を見ただけで、新しい力が湧いた。

 家内のコーラス仲間の方からも声が飛んできた。
自然にスマイルになっていた。

 ベースダウンの終盤には、
予想より遅い通過に気をもんでいた同じ自治会の方々がいた。
 私の姿を見るなり、安堵したのが分かった。
その表情に、走り抜けながら、癒やされている私がいた。

 そして、ゴールまで後200メートルのコース脇、
「スマイル ジョグ ダテ」の真っ黄色のTシャツ姿10数人が、
私に声をそろえてエールを送ってくれた。

 「すごく、うれしい!」
思わず私も声を張り上げた。
 ついゴールまで全力走になってしまった。

 新聞記事と沿道の応援。
今年の『伊達ハーフマラソン』は、
地元開催ならではのよさを、初めて感じた大会になった。

 (2)
 あれは、2月末のことだ。風の強い日だった。
外でのジョギングを断念した。
 代わりにと、トレーニング室へ出かけた。
人が多い早い時間帯を避け、お昼時をねらった。

 案の定、ランニングマシンの利用者も少なく、
私ともう一方だけだ。
 予定の速さと時間で走り切り、十分に汗を流した。
小さな達成感があった。

 その時、新顔の男性インストラクターが寄ってきた。
「いい走りですよ。」
 突然の言葉に、私は汗をふきふき若干戸惑った。

 「ずっと陸上をやってたので、走り方は分かるんです。
いいフォームですね。」
 すっかり明るい顔に変わった。

 「若い頃から、走っていたんですか?」
「いいえ、5年程前から…、初心者です。」
 「じゃ、小さい頃、足速かったんじゃないですか。」
「まあ、いちおう・・。」
 「しっかりと地面に力が伝わる走り方になっています。
なかなかです。」

 この年齢になって、こんなにも真っ直ぐな誉め言葉は久しぶりだった。
素直に嬉しかった。
 帰宅するとすぐに、家内に胸張って教えた。
翌日からは、ランニングマシンでの走り方をイメージして走った。
 ますます走ることが楽しくなった。

 ところが、それから2週間後、
10数年ぶりにインフルエンザで寝込んだ。
 体調の戻らない日が続いた。
久しぶりに年齢を感じ、弱気にもなった。

 ようやく10日後に、ジョギングを再開できた。
そこから、異変が始まった。

 それまでと変わらない距離を走っても、疲れ方がひどかった。
走る速度も、比べものにならないくらい遅かった。
 ピッチが上がらないのだ。

 だからと、2、3日休んで、
それからまた走っても同じ結果だった。
 きっとインフルで体調が回復していないからと、
自分を納得させる日をくり返した。

 しかし、いつまでも変わらないまま、
伊達ハーフマラソンまで、残り1週間の土曜日がきた。

 雨模様だったので、久しぶりに総合体育館の2階にある、
1周200mの周回コースで走ることにした。

 25周で5キロ、50周で10キロになる。
家内と一緒に5キロを走った後、
私一人でもう5キロと走り始めた。

 すると、このコースでよく見かける同世代の方が、
私の後を走り出した。
 3周程してから、今度は並走した。

 そして、走りながら、3つの注意が飛んできた。
① 腿が上がりすぎ、足音をたてず、ふぁっと足をつく!
② 前かがみになりすぎ、腰を高くし、胸を張る!
③ 腕のふりがバラバラ、右手と同じように左手をふり、左右バランスよく!

 ビックリした。一度も話したことのない方だ。
その方からの、前触れさえない指摘だ。

 しかも、2月に「フォームがいい!」と、
あんなに誉められていたのに・・・である。

 ためらいはあったが、後ろから私の走りをチェックし、
その上並走までしての、自信満々のアドバイスなのである。
 無視できなかった。

 私は、3つの指摘を気にかけながら走った。
不思議なことがおきた。
 走りが軽くなった。
 呼吸も窮屈ではなくなった。
 それまでよりスイスイと足が前に出た。
走り終えると疲労感が違っていた。
 いっぱいお礼を言った。

 翌日から、アドバイスを反すうしながら走った。
明らかに違った。

 大会の3日前、もう一度総合体育館に行ってみた。
運よく、その方がいた。
 私が走り出すと、すぐに後ろを走ってくれた。
「だいぶ、よくなった。」と何度も言って頂いた。

 しかし、走り続けると、足音も大きくなった。
腰も落ちた。腕ふりもバランスが悪くなった。
 すぐ後ろから注意が飛んだ。
まだまだフォームが安定していないことが分かった。

 きっと、あの時、身に余る褒め言葉をもらい、
慢心したのだろう。
 慢心は、過去にも似たような失敗があった。
私の欠点である。

 それが原因で、本来の走り方を崩したのだろう。
それを、突然のコーチ出現で、指摘された。
 好運だった。

 だが、その修正は十分ではなかった。
不安は的中した。
 大会当日、10キロを過ぎた辺りから悪い走り方になった。
疲れが増すにつれ、それを直せないまま走った。
イライラしながらゴールに向かった。

 当然、目標タイムには届かず、
疲労感いっぱいのゴールだった。

 次は、5月の洞爺湖のフルマラソンだ。
それまでに、正しいフォームを固めよう。
 課題が明確になった。
だから、やる気になっている。



 

エゾエンゴサク ≪だて歴史の杜・野草園≫
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方言 あれこれ

2017-04-14 22:50:02 | 出会い
 伊達も、ようやく春。
この時期になると、
朝のジョギングも少し明るい気分になる。
 私一人ではもったいない。
家内を誘うことが多くなった。

 つい先日、二人並走して、
いつもの農道へかけ上がった。

 このブログに何回か登場した愛犬と一緒に散歩する彼に、
(私はその方を『サンダルに片手ポケット』と勝手に言っている)
出会った。

 その方は、朝のあいさつと一緒に、
必ず短いひと言をくれる。
 その朝は、久しぶりに家内を見たからだろう。
こんな声が飛んできた。

「母さん、ゆるくないなぁ。」

 私は、一瞬、その言葉がのみ込めなかった。
家内も無反応だった。

 すぐに二の矢がきた。
「たいへんだなってこと。」
 そうだった。
「ハーイ!」
 走りながら、家内が素早く応じた。

 有珠山と昭和新山を背景にした春、
早朝の伊達でのワンカットである。
 
 しかし、『ゆるくない。』とは、
久しぶりに聞いた北海道言葉だ。
 地元でしか耳にできないが、
私の感覚にピッタリくる。

 さて、方言の話題である。
小学生の頃、担任の先生が教えてくれた。
 「私たちの北海道は、
昔、日本全国から人々が集まってきました。
 なので色々な地方の言葉が混ざり合ったので、
東京の言葉と同じになったんですよ。」

 私は、北海道の大学を卒業して、
すぐに東京の小学校に赴任した。
 だから、言葉遣いだけは、心配していなかった。

 なのに、北海道にも方言があることを、
すぐに気づかされた。

 体育の準備運動で、校庭を3周走った子ども達に、
「こわいか?」と尋ねた。
 首を横にふるのを見て、もう3周走らせたことは、
以前、このブログに書いた。

 私にも方言があると痛感したが、
どれがそれかは曖昧だった。
 それにともなった失敗エピソードは、数々あった。

 ある時、熊本出身の先輩教員と、
そんな失敗談で盛り上がった。

  ◆ まずは、私から語る。

 新米先生の初日だ。5年生の担任だった。
すぐに大掃除があった。

 元気のいいY君が、みんなに声をかけながら箒で、
ゴミを集めて、ゴミ箱に入れた。

 「それじゃY君、そのゴミ、なげてきて。」
今日初めて顔を合わせた先生からの、声かけである。
 明るかったY君の表情が、一変した。

 「どこから、なげるんですか?…屋上…か…ら…。」
私を向いたその声は、次第に小さくなっていた。

 私は、明るい声で応じた。
「何言ってるんだよ。焼却炉に決まってるだろう。」

 ごみ箱をかかえたまま、
Y君は大の仲良しのF君の耳元で、ささやいた。
 「焼却炉から、投げるのか。」
「そんな…、違うと思うけど……。」

 2人は、ゴミ箱を持って、そっと教室を出て、
隣の教室の先生の所へ行った。

 しばらくして2人は、空のゴミ箱をもって、
笑顔で戻ってきた。
 「ゴミ、投げてこいって言うから、
本当に投げるのかと思ったよな。」
「ビックリしたよなぁ。」

 「そうか、ゴミはなげるじゃなくて、捨てるなんだ。」
私は、2人に明るく詫びた。
 2人は、ニコニコしていた。
ホッとした。

  ◆ 次は、熊本出身の先輩だ。

 これまた先輩が新米先生の頃だ。
まず1つ目。

 彼は、椅子に腰を下ろす時、必ず「どっ!」と短く言った。
また、反対に腰を上げる時も、
「どっ!」と短く声を発した。

 その「どっ!」は、
彼が生まれ育った熊本のその地方では、
正座やあぐらでも、椅子でも、必ずそう言って、
座り、立ち上がるのだと言う。

 彼には、ごく普通のこと。
誰もがそう言っていると思っていた。
 だから、教室でも「どっ!」と発して、
座ったり、立ったりしていた。

 ある日、女の子が不思議そうに訊いた。
「先生、『どっ!』ってなんですか。」

 彼は、一瞬混乱した。しかし、
「だって、座ったり立ったりするでしょう。
だから『どっ!』って。」
 女の子は、困った顔のまま、その場を去った。

 その表情が気に留まった。
教室の子ども達を注意して見た。
 誰も「どっ!」などと言ってなかった。

 職員室の先生方を注視した。
みんな、無言のまま座り、無言のまま立った。
 「どっ!」と言って、平然としていたことに赤面した。

 数年後、彼は、同郷の方と結婚した。
奥様は今も、家庭では「どっ!」と言っているとか。
 それが座ったり立ったりする時には、
シックリいくと彼も言う。

 理解できそうだが、
なんとなく滑稽に思うのは失礼なことだろうか・・。

 先輩の2つ目は、『あとぜき』である。

 熊本を代表する方言のようだ。
先輩から聞くまで、『あとぜき』など耳にしたことがなかった。

 先輩が小中学生の頃、学校の生活目標として、
『あとぜき』の4文字は、
教室や廊下にたびたび掲示された。
 この4文字で、目標の意味は十分に理解できたそうだ。

 謎解きのような話であった。
熊本で『あとぜき』と言えば、それは、
「出入りのため開けた扉は、最後まできちんと閉めること」
を意味なのだ。

 「ちゃんとあとぜきせんかい!」
こんな遣い方をする。
 先輩は、その言葉で扉の開閉をしつけられた。

 だから、東京で教員になって、
なんのためらいもなく遣った。

教室のドアを開けたまま、廊下に飛び出した子に、
大きな声で言った。
 「あとぜき!」

 その声はどの子に向けらたのか。
何を意味しているのか。誰にも理解できなかった。
 廊下に出た子も、教室にいた子ども達も、
何事もなかったかのような態度のままだった。

 先輩は、その反応に違和感を覚えた。
そして、「もしかして、『あとぜき』は方言か・・?!」
 ぼう然としたまま、目を丸くした。

 さて、『あとぜき』に限らず、
方言には、独特の意味合いや利便性がある。

 なので、方言を標準語に直訳するのはなかなか難しい。
それでも、いくつかの北海道の方言を標準語にして、終わる。

 ・おばんです = 今晩は
 ・はっちゃきこく = 一生懸命やる
 ・ぺったらこい = たいら、ひらたい
 ・みったくない = みっともない
 ・あずましくない = おちつかない、居心地がよくない
 ・はんかくさい = ばかみたい
 ・もちょこい = くすぐったい
 ・だはんこく = 駄々をこねる
 ・じょっぴんかる = 鍵をかける、戸締まりをする
 ・こてんぱ = さんざん
 ・げれっぱ = 一番びり
 ・なんもさ = どうと言うことはない





エゾノリュウキンカ≪だて歴史の杜・野草園≫ 
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若手教員へ 伝言

2017-04-07 22:22:17 | 教育
 校長として着任した2校目には、
教職経験6年未満という、若手の教員が数名いた。

 教育的情熱を前面にして、
子ども達と向き合う姿を目の当たりにした。
 これからの学校教育の担い手に、期待が膨らんでいった。

 2年が過ぎてから、思い切って彼らに提案をした。
毎月1回、夜6時から2時間、
「私が主催する勉強会をしよう!」

 「強制ではないよ。」「あくまで自主参加だよ。」と、
強調はしたものの、自校の校長の誘いである。
 無視する訳にはいかず、彼らは参加してきた。

 1回毎の、研修テーマは、参加者の輪番で提案させた。
事前準備も事後提出物もなし。
 その場で、テーマに沿った私の話を聞き、
その後は、質疑応答・意見交換で会を進めた。

 具体的で、実践につながるよう願った。
内容は、各教科の指導、生活指導、学級経営、
そして保護者対応、ついには先輩教員との付き合い方まで
多彩であった。

 2年後に、私は異動となり、
会はそれでピリオドとなった。

 ところが、1年後、彼らの代表から電話がきた。
「そちらの学校まで行くので、勉強会をしてください。
 ……私たちだけでなく、そちらの学校の若い先生たちも、
参加したいと言ってるので、是非お願いします。」

 私は、ためらった。
「多忙な毎日に、拍車をかけることになりはしないか。」
 しかし、くり返し電話があり、
10名程による勉強会を再開した。

 彼らは、毎月時間をやりくりして参加した。
欠席者がいた時は、
記録したノートを回し読みしていたらしい。

 その会で、くり返し口にしたことがいくつかある。
その中から、3つを記す。


 1、先々のため子ども理解を

 子どもに限ったことではないが、
人は誰でも自分を理解し、
認めてくれる人がいてほしいと望んでいる。

 そんな人がいると、
日々を楽しく、ハツラツと生きていく力ができる。
 子どもの場合、そんな存在が成長の原動力となる。
親や教師が、それである。

 私が信条としてきた
『教育は子ども理解に始まり、子ども理解に終わる』
の起点は、そこにある。

 だから、若手教員には、
子ども理解の重要性を常々強調した。

 しかし、若手教員の多くは、
それを強調するまでもなく、
子ども理解を得意としていた。

 常に子どもに寄り添い、共感しながら、
毎日を過ごしていた。
 これは、若手教員の最大唯一の強みと言っていい。

 先輩教員に比べ、若手教員は子どもとの年齢差が小さい。
その分だけ、子どもの感情や発想に対し、
直感的に共感でき、理解が容易なポジションにいるのだ。

 また、子どもも親より年齢差がなく、
より身近な人として若手教員を見ている。
 つまり越えるハードルが低い。
簡単に自分への理解が期待できる。
 それが、若手教員なのである。

 若手教員は、指導技術が未熟であっても、
学習内容への理解が不十分でも、
直感的に子ども理解ができ、
良好な関係を作ることができる優れた特性を持っている。

 これは、どんなに優秀なベテラン教員であっても、
かなわない能力である。
 「若い先生よ、胸を張って、子どもの前に立て!」
と言う根拠は、ここにある。

 しかし、やがて若手教員もキャリアを積む。
子どもとの年齢差も大きくなる。
 それでも、子ども理解は教育における、
重要ファクターである。

 容易には子ども理解ができなくなるにつれ、
必要になるのが、
子ども理解の重要性を意識した確かな目である。

 くり返しになる。
年齢を重ねるにつれ、
いや年齢を重ねてこそ求められるものが、
子どもを理解する柔軟な感性と技能なのだ。

 若手教員である今から、
それを習得する努力を、始めてほしいのだ。


 2、異動こそ最大の研修

 東京都の場合、若手教員は、
初任の学校で概ね6年を過ごすと、定期異動となる。
 彼らには、大きな転機である。

 「異動は最大の研修。」
私は、この言葉と一緒に彼らを送り出してきた。

 彼らは、今までの学校が唯一の学校であった。
しかし、転任校との違いが、彼らに新しい視野を与える。
 学校教育の奥深さや難しさに気づく、好機となるのだ。

 私は、担任として4校に、管理職として5校に勤務した。
その全ての学校が、いたるところで違っていた。

 それまでの学校では、
校内研修は毎年研究テーマが設定され、
年数回は研究授業があった。
 そのプロセスを通して、研修するものと思っていた。

 ところがその学校は、全く違っていた。
校内研修とは、それぞれの先生が研修する時間だった。
 だから、学校としての研究テーマはもちろん、
研究組織も研究授業の計画もなかった。

 月1,2回の校内研修の時間には、
教室等に、先生方は閉じこもった。
 どんな研修をしているのか、
かいもく見当がつかなかった。

 大いに違和感を覚えた。
校内研修とは何かについて、
随分と思い巡らす機会になった。
 
 そのような事例は、数々ある。
ある学校では、盛んに上履き不要論が話題に上った。
 校庭の自由遊びに、
細かなルールが設けられている学校もあった。

 校務分掌の決め方、学校運営組織は、
どこの学校も違った。

 それらの全てが、転入した若手教員に驚きと、
戸惑いを与えるだろう。
 そして一歩立ち止まり、
その是非を吟味するだろう。
 それが、まさに研修なのである。

 「今までそうしてきたから」
「前任校のやり方がいい」など、
前例踏襲型の発想は禁句である。

 それぞれの学校は、
長年の実践と実情を通した試行錯誤と、
創意工夫の結果として、今がある。
 
 ならば、異動の第一歩は、その事実を受け止め、
まずはそれを受け入れるところから始めたい。

 そして、じっくりと新鮮な目で課題を探り、
改善策を練ることだ。


 3、不安を受け止め共有

 つい先日も、中教審教育課程部長・無藤隆氏の言葉を、
引用させてもらったが、『劇的に変化する社会』である。
 『5年後、10年後さえ予測できない』のである。
これからの子ども達は、誰よりも長く、
その社会を生きることになる。

 私が若い頃、様々な想いが現実になった。
家にテレビ、洗濯機、冷蔵庫が置かれた。
 そして、電話のベルが居間に響いた。

 仕事について間もなく、マイカーを手に入れた。
そんな暮らしの変化に、自然と浮かれた。
 次は、こんなことを叶えたいと前を向いた。

 しかし、今、子ども達はどうだろうか。
ここ伊達では、習い事に親は送り迎えの車をとばし、
そこから降りた子は、これまたバック片手に走り出す。

 学習塾の灯りは、夜の町で際立って明るく、
熱気が外まで伝わってきた。
 スケジュールに追われる子どもの一日は、夜遅くまで続く。

 その一方、6人に1人の子が、貧困と向き合っていると聞く。
習い事にも学習塾にも行けず、
ひっそりと暮らす子がいるのも、確かなことである。

 私が現職だったころに比べ、
子ども達の現状は、二極化が進行している。

 そんな子ども達を、学校は毎日迎える。
子ども達は、それぞれの荷を感じさせず、
元気よく過ごす。
 時に賞賛され、叱責を受け、
次の目標へと踏み出すのだ。

 そんな学校と家庭の往復を通して、
どの子も次第に成長する。
 それは、いつの時代も同じである。
やがて、自分たちの先を見る機会が、次第に増していく。

 さて、そこで、現代はいったい何が見えるのだろう。
私が歩んできた道とは違う。
 すぐ先でさえ不透明な、見えにくい未来なのではないだろうか。

 たぶん曖昧な感覚だけであろう。
でも、その不透明感は、
きっと成長とともに不安へと増大する。

 そんな子ども達に教師は、どう対応すればいいのかである。
「心配なんかいらない。」「安心していていいんだよ。」
それは、全く説得力を持たない。

 実は、先行きへの不安感は、
教師とて同じなのではなかろうか。
 だから、素直に子ども達の不安を受け止め、共有すること。
それだけは、教師として貫きたいと、私は思う。

 「あなたと同じように、
私も、これから先が心配です。」
 そんな共感が、子どもに力を与えると信じる。 

 そして、変化の激しい社会であっても、
自分の想いや願いに向かって、真っ直ぐ歩み続ける姿を、
見せることができれば、それでいいのではないだろうか。




 散策路の片隅 キクザキイチゲ(紫系)が開花
  
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