ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

喰わず嫌い 『くだもの』編

2016-01-27 20:35:03 | あの頃
  1 サクランボ

 誰が見ても、私には食べ物に対する大きな偏見があった。
最近、それがよく分かった。
 そのことについて、筆を走らせる。

 私は、通常、食べ物とは『料理したもの』を言うと思ってきた。
 料理、それは『調理して出来上がった食べ物』のことだ。
そして、『調理』とは、食材を切ったり、つぶしたり、蒸したり、
骨を除いたり、錬ったりしてから、
次ぎに、炒めたり、煮たり、揚げたり、冷やしたりすることで、
 つまり、料理する課程や技術、それが『調理』なのである。

 だから、例えば、洗っただけの1本まんまのきゅうりを、
ガブリと食べることは、調理して出来上がった物ではない。
なので、通常食べ物とは言わないと、私は主張してきた。

 偏見と分かっていながら言うが、
私自身は、そんな食べ方をするような『野生の人間』ではない。
 きゅうりを生で食べるにしても、
せめて、食べやすいようにスライスするのが、、
食べ物としての常道だと思ってきた。

 だから、リンゴの丸かじりや、
皮ごとミカンを食べるなど、論外だった。
 例え、くだものであっても、
木になっていた物をもぎ取っただけで、口に入れるのは、
『野蛮』なことと思った。
 最低限、そのくだものを小さく切り分けたり、
芯や種を取り除いたりといった調理を経て、
「それでこそ食べ物。」と思うのである。

 さて、サクランボのことである。
つい最近まで私が、知っていたサクランボは、
フルーツパフェの一番上にのっていた。
あんみつに添えられていたこともある。確か、冷やしそうめんの器にも。
 赤一色で親指大ほどの丸い実に細い蔓、それがサクランボだった。

 誰も、そのサクランボをめあてに料理を注文などしない。
きっと、清涼感を演出してくれるものとして、
一粒のサクランボはあった。

 私は、注文した品にサクランボがあると真っ先に端に除けた。
そして、それを口に運ぶことはなかった。
 味は、おおよそ知っている。だが、食べる気にはなれない。
その一番の理由は、小さいくだものとは言え、丸ごとである。
サクランボに、なんの調理もされていない。
 だから、食べることに抵抗感があった。

 ところが、2年前である。
7月の某日、町会の懇親会があった。
 40名ほどの宴席であったが、
役員の方々が工夫を凝らし、テーブルの上は賑やかだった。

 日本酒の一升びんが席を回り、
男性陣はめいめいなみなみとコップに注ぎ、活気づいた。
さすが、北の男たちである。酒が強い。

 酒のつまみと一緒に、目の前の紙皿に、
山盛りのサクランボがあった。
 私の右からも左からも時々手が伸び、
その山は次第に崩れた。
 誰とはなく、「さすが壮瞥の佐藤錦だ。美味しいね。」
と、声が交わされた。
 同意する言葉と共に、サクランボの山は小さくなった。

 決してそれに手を伸ばさない私に気づき、
「遠慮しないで、どうぞ。」
と、勧められた。
 まだ馴染みの薄い方からの声だった。
 むげにすることもできず、私は同意し、
サクランボに手を伸ばした。

 薄い皮がやぶれ、軽い酸味と品のいい甘さが、口に広がった。
 驚いた。
私の知らないサクランボの美味しさだ。
「どう、美味しいでしょう。」
の問いに、ハッキリと大きく頷いた。

 食べ物に対する私の変な理屈など、どこかへ飛んでしまった。
遠慮がちに、でも次々とサクランボに手が伸びた。
 前の皿のサクランボがなくなると、誰かが気をきかせて、
どこかから追加がきた。
 私は、それにも手を伸ばした。

 会の終わりには、私の食べっぷりを見て、
残ったサクランボを袋に入れ、持たせてくれた。
 嬉しかった。

 翌朝、そのサクランボもすぐになくなった。
以来、壮瞥の佐藤錦は、私の大好物になった。

 調理などしなくても、そのままが一番の味があった。
そんな食べ物、食べ方があっていいと思った。

 はなはだ恥ずかしいが、
『野生の人間』や『野蛮』を返上させてもらう。



  2 メロン

 ネット模様のあるメロンが、一般に出回り始めてから、
まだ30数年にしかならないと思う。

 私が幼い頃は、今は『北海カンロ』と言うようだが、
「味瓜」と呼ばれたものがあった。
しかし、メロンなど写真でも見たことがない、夢の食べ物だった。

 『ウリ売りが ウリ売りに来て ウリ売り残し 売り売り帰る ウリ売りの声』
という早口言葉があった。
 小学生の頃、その言葉にある「ウリ」として思い描いたのは、
野球のボールを一回り大きくした楕円形の「味瓜」だった。

 それから何年かして、プリンスメロンなる物が出回った。
こちらは、ソフトボールくらいの大きさで、若干いびつな円形をしていた。

 味瓜もプリンスメロンも、どことなく地味な緑色で、
ネット模様はどこにもなかった。
 私は、くだものの鮮やかな色からはほど遠い、
その色合いから野菜とよく間違えた。

 どちらも、甘い香りがした。しかし、甘みが薄く、
私にはくせのある独特な味に感じられた。
 当然、1、2度食べてはみたが、
それからは「嫌いなくだもの。」にしてきた。

 従って、その後、夕張メロンをはじめとした北海道メロンが出回っても、
「嫌い。」と言い張って、食べなかった。

 あれは、2人の息子が、小学生の頃だった。
夏休みを利用して、家内と息子2人で、実家に里帰りをした。
 私は、仕事の都合で、数日遅れで追いかけることにしていた。

 久しぶりの慣れない一人暮らしだった。
まだ、コンビニなどがない時代だ。
 食事は、自分で用意するか、近くの食堂かラーメン屋等ですませた。

 その日は、何故か間が悪く、夕食にありつけなかった。
それでも、一食くらい欠けでも大丈夫と思い、床についた。
 ところが、なかなか寝付けなかった。どんどん目が冴えた。
併せて、次第次第に空腹感が増していった。

 深夜になってしまった。
とうとう、私はがまんができず、布団を離れ、冷蔵庫を開けた。
 「食事は何とかする。」と言う私の言葉を信じ、
家内は、冷蔵庫に何の作り置きも残していかなかった。

 ただ、数日前に北海道の生産地から届いていたメロンが半分、
オレンジ色を見せてラップに覆われていた。
 くり返しになるが、メロンは私の嫌いな食べ物である。
しかし、深夜一人、空腹で眠れない。

 ついに、私は嫌いを承知で、
口に合わないであろうメロンを食べることにした。
ただただ、一時の空腹を満たすための、「緊急避難」だった。

 ラップをとり、真ん中の種を除け、
スプーンで果肉をすくい口に入れた。

 驚いた。
口の中が、それまで味わったことのない、
上品で爽やかな甘さでおおわれた。
味瓜やプリンスメロンのくせのある味とは違った。
綺麗な甘みだった
 空腹も手伝っただろうが、思わず「美味しい。」と口をついた。

 数日後、実家で会った家内に、
「メロンって美味しいなあ。」と、いの一番に言った。

 あの空腹感が、私にメロンを食べさせてくれた。
それがなければ、今も「メロンは、どうも……。」と言っていただろう。

 まさに、『喰わず嫌い』、そのものだ。
  



  隣町・壮瞥町から見た 昭和新山(手前)と有珠山
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軽はずみな ひと言が

2016-01-22 22:01:26 | 素晴らしい人
 再び、小さい頃の回想録から書き始める。
 確か、5年生の時だ。学芸会があった。

 今は、全員が学芸会に参加し、舞台に立つが、
当時は、選抜された者のみが演じた。
 同学年4学級の中から、各10数名が選ばれ、
何故か私もその一人になった。
 演目は、『アリババと40人の盗賊』だった。

 主にその劇を指導したのは、他の学級の担任で、
笑顔が印象的なAと言う男の先生だった。

 放課後、初めての練習で、配役が発表になった。
私は、盗賊の一人だった。
渡された台本を見ると、セリフが3つあった。
 同じ盗賊でも、「ヒラケー、ゴマー。」と、
唱える役があるが、残念ながらそれではなかった。

 何回かセリフ合わせがあってから、舞台練習が始まった。
 私の役は、盗賊のお頭と二人だけで舞台に登場し、
悪いたくらみを確かめ合うものだった。

 具体的なセリフは、思い出せない。
しかし、その言い回しは、それ程悪人くさい言い方ではなかった。
 だから、練習を重ねるごとに、子どもなりに違和感を強くした。
そして、何回かの練習を通して、
とうとう、もっと悪役らしい言い方を見つけた。
 しかし、みんながみんな、台本通りのセリフを言っていた。
セリフを変えている者は、一人としていなかった。

 言い訳がましくなるが、
当時の私は、物静かで口数の少ない子だった。
 だから、いつも私の行動は、多くの友だちにしたがった。
周囲の雰囲気、今で言う空気感に常に敏感で、
『でる釘』として、打たれることをすごく嫌った。

 その私が、このセリフにだけはこだわった。
 迷いに迷った。何度も足踏みをしたあげく、
思い切って、劇指導のA先生に提案してみることにした。
 それまで、A先生と言葉を交わしたことも、
名前を呼ばれたこともなかった。
 私にとって、大きな大きな行動だった。

 舞台練習が終わり、体育館を出ようとするA先生を呼び止めた。
 “自分のここのセリフを、
こんな言い方にしたんですけど、いいですか”
と、訊いた。
 A先生は、突然の申し出に、若干戸惑ったようだったが、
軽く「ああ、いいよ。」と、言ってくださった。 

 私は、「ありがとうございます。」と頭を下げた。
それまでに経験のない、満たされたものが、体を熱くした。
 言ってよかったと思いながら、A先生から離れた。

 その時、A先生に同じ学年のBという女の先生が近寄った。
 「どうしたんですか。」と、A先生に尋ねた。
「セリフの言い方を変えたいんだって。」とA先生が応じた。
 それを聞いて、B先生は小声で、
「そんな生意気なことを」と。

 その声は、はっきりと私に届いた。

 急に、冷たいものが全身を走った。
 どうやって体育館を後にしたのか、どうやって家に帰ったのか、
覚えがなかった
 ただ、「そんな生意気なこと」という言葉が、
私の体中、そして私の周りを駆け巡っていた。

 「生意気なこと」を、私はしたのだ。
いいことをした。勇気を出した。「いいよ。」と言ってもらえた。
そう思った行動が、「生意気」だった。
 
 『本物の絶望』の欠けらにもならないことだろうが、
私の心を逆なでするひと言だった。
 しばらく私はこの言葉に縛られ、自由を失いながら過ごした。

 B先生に、うらみ節を言うつもりは全くない。
教師の何気ない、軽はずみなひと言なのだから。

 さて、つい先日のことになる。
『植松さん国内外から共感』と題する
新聞の見出しが目に止まった。

 記事の冒頭を引用する。
『分野を問わず、豊かな発想力で活躍する人に
舞台で自身の発想や思いを語ってもらい、
ネット動画で世界に発信する「TED(テッド)」。
その札幌版に出演し、
国内外で強い共感を巻き起こしている人がいる。
町工場でロケット開発を実現した
植松電機(赤平市)専務の植松努さん(49)だ。』

 今は雪深い、旧炭鉱町である北海道赤平市の国道38号線沿い、
そこに鉛筆型の鉄骨塔をもつ工場がある。植松さんの工場である。
 家内の実家が、その隣町なので、年に何回かはその横を通る。

 新聞から得たことだが、
高さ57メートルのこの塔は、「微小重力実験」用の施設で、
世界でもドイツとここにしかないものらしい。
 ドイツでは、1回の使用料が100万円以上するが、
ここは3万円とのことだ。

 会社は社員18人で、本業はリサイクルで使う
特殊なマグネットの開発だそうだ。
 その稼ぎで、『みんなにもできる!宇宙開発』を掲げ、
宇宙事業を続けている。

 植松さんは、火薬を使わない安全なポリエチレンで飛ばす
「カムイロケット」の開発で、一躍有名になった。
 まさに、最近テレビドラマで話題を呼んだ
『下町ロケット』そのままである。

 早速、ネット動画「TED」を見た。
そこで、彼のお話を聞いた。

 彼が最初に語ったのは、
幼少期から少年時代・中学生の時までのことだった。
 3歳の時にアポロ11号の月面着陸を見た。
以来、宇宙への夢を膨らませていった。

 だがら、中学生の時に、
「飛行機やロケットの仕事をしたい。」と言った。
すると、先生から
「よほど頭が良くないと無理だ。
おまえなんかにできるはずがない。」
と、言われた。

 彼は言います。
「今できないことを追いかけることが、
夢って言うんじゃないですか。」
 少年時代の反発と孤独感を、
彼は、いつもの作業着姿で語り続けた。

 そして、涙ぐみながら、
小学校1年生の先生がよく言った
「どうせ無理」という言葉を口にした。

「この言葉は、私たちから自信と可能性を奪ってしまう。」
「どうせ無理という言葉は、とても簡単に遣える言葉で、
やったことのない人が遣う言葉だ。」
「どうせ無理がなくなると、いじめや暴力、戦争、
児童虐待がなくなるかもしれない。」
と、彼は言い続ける。

 私は、植松さんの話に耳をすましながら、
教師の軽はずみなひと言の重罪と、
言葉の持つ無限の重みを思い知らされた。

 「できるはずがない。」、「どうせ無理。」
その言葉への、レジスタンスと反骨心が、
今も彼の中で脈々と息づいていると思った。

 また、今日までの、辛く切ない道々を思った。
教職にあった者として、すごく心が痛んだ。

 そして、「そんな生意気な。」
 教師の軽はずみなひと言。
あの時、傷ついた少年が急に蘇り、目元を熱くした。





 伊達から車で30分 オロフレ峠からの洞爺湖

 
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シリーズ『届けたかったこと』  (1)

2016-01-15 22:30:14 | 教育
 毎週月曜日の朝は、全校朝会があった。
5分間程度であったが、全校児童と全職員を前に話をした。
それを、12年間くり返した。
 また、始業式、終業式をはじめ様々な全校行事でも、
壇上に上り、マイクの前に立った。

 その都度、話題を決め、コンパクトに話をまとめようとし、
それでも、子どもや先生達に届けたい私の想いを言葉にした。
 時には、若干の変化をと思い、
その場でできるゲームを全員でしたり、手品を披露したりもした。
また、私のマスコット人形『ダッチャン』を登場させたこともあった。

 ふり返ると、そんな小さな工夫をしながら、
「子どもの背中を押してあげることができれば。」と、
そんな願いを、5分間に託したように思う。

 不定期になるが、シリーズ『届けたかったこと』と題し、
全校に話したことを、記していくことにする。



 1 『教室はまちがうところ』です

 新しい学年が始まりました。
クラス替えがあった学年も、そうでない学年も、
まだワクワクした毎日ではないでしょうか。
 そんな時だから、是非みなさんに紹介したい詩があります。
 長い長い詩です。

 もう何十年も前になりますが、
静岡市にある安倍川中学校の蒔田晋治先生が書いた詩です。
では、読みますね。聞いて下さい。


     教室はまちがうところ
               蒔田 晋治

   教室はまちがうところだ
   みんなどしどし 手をあげて
   まちがった意見を 言おうじゃないか
   まちがった答えを 言おうじゃないか

   まちがうことを おそれちゃいけない
   まちがったものを ワラッちゃいけない
   まちがった意見を まちがった答えを
   ああじゃないか こうじゃないかと
   みんなでだし合い 言いあうなかでだ
   ほんとうのものを みつけていくのだ
   そうしてみんなで 伸びていくのだ

   いつも正しく まちがいのない
   答えをしなくちゃ ならないと思って
   そういうとこだと 思っているから
   まちがうことが こわくてこわくて
   手もあげないで 小さくなって
   だまりこくって 時間がすぎる

   しかたがないから 先生だけが
   かってにしゃべって 生徒はうわのそら
   それじゃあちっとも 伸びてはいけない

   神さまでさえ まちがう世の中
   ましてこれから 人間になろうと
   しているぼくらが まちがったって
   なにがおかしい あたりまえじゃないか

   うつむき うつむき  
   そうっとあげた手 はじめであげた手
   先生がさした
   どきりと胸が 大きく鳴って
   どきっどきっと からだが燃えて
   立ったとたんに 忘れてしまった
   なんだかぼそぼそ しゃべったけれども
   なにを言ったか ちんぷんかんぷん
   わたしはことりと すわってしまった

   からだがすうっと 涼しくなって
   ああ言やよかった こう言やよかった
   あとでいいこと うかんでくるのに

   それでいいのだ いくどもいくども
   おんなじことを くりかえすうちに
   それからだんだん どきりがやんで
   言いたいことが 言えてくるのだ
   はじめからうまいこと 言えるはずないんだ
   はじめから答えが あたるはずないんだ

   なんどもなんども 言ってるうちに
   まちがううちに
   言いたいことの 半分くらいは
   どうやらこうやら 言えてくるのだ
   そうしてたまには 答えもあたる

   まちがいだらけの ぼくらの教室
   おそれちゃいけない ワラッちゃいけない
   安心して 手をあげろ
   安心して まちがえや

   まちがったって ワラッたり
   ばかにしたり おこったり
   そんなものは おりゃあせん

   まちがったって だれかがヨー
   なおしてくれるし 教えてくれる
   こまった時には 先生が
   ない知恵しぼって 教えるで

   そんな教室つくろうやあ

   おまえへんだと 言われたって
   そりゃあちがうと 言われたって
   そう思うんだから しょうがない
   だれかがかりにも ワラッたら
   そう思うんだ なにが悪い
   まちがってること わかればヨー
   ひとが言おうが 言うまいが
   おらあ自分で あらためらあ
   わからなけりゃあ そのかわり
   だれが言おうと こずこうと
   おらあ根性 まげねえだ

   そんな教室つくろうやあ


 お話を終わります。




 2 三つの汗を流す日がきた

 心配していたお天気も回復し、絶好の運動会日和になりました。
 町会長さんをはじめ、多くのご来賓の皆様をお迎えし、
また、皆さんのお家の方も、早朝からこんなにも大勢おいでくださり、
皆さんを囲んでいます。嬉しいですね。

 ご来賓の皆様、そして保護者並びにご家族の皆様、
ご来校、誠にありがとうございます。
どうぞ、今日一日、
子ども達の勇姿に精一杯の声援を頂ければ、幸いに存じます。

 さて、児童の皆さん、いよいよ待ちに待った運動会が始まりました。
 運動会は、3つの汗を流す日です。どんな汗だと思いますか。

 1つ目の汗、それは、自分のために流す汗です。
 今日は、各学年ごとに短距離走をはじめ、
団体競技、団体演技などがあります。
 そのために、皆さんは今日までしっかりと練習に取り組んできました。
そして、今日です。

 その成果をどうぞ思う存分に発揮してください。
そして、自分のため、そう、あなた自身のために沢山の汗を流して下さい。
 運動会の一つ目に流す汗、それはは、自分のために流す汗です。
 
 続いて2つ目の汗、それは、友のために流す汗です。
運動会は、赤組は赤の勝利のため、白組は白の勝利のためにあります。
 だから、自分の持っている力は、
赤の人は赤組勝利のために、白の人は白組勝利のために使うのです。
 それは、競技だけではなく、応援も同じです。
 今日は、赤組は同じ赤の友のために、白は同じ白組の友のために、
競技に、応援に沢山の汗を流す日です。
それが2つ目の汗です。

 そして、3つ目の汗、それは何でしょう。
それは、みんなのために流す汗です。 
 朝早くから、いや昨日から、それ以前からも、
そして今日一日中、赤も白も関係なく、
運動会のためみんなのために、汗を流す仕事があります。

 自分の椅子や友だちの椅子を運ぶ。この万国旗を張る。
鼓笛の演奏をする。そして、ラインを引いたり、
用具の出し入れをしたり、音楽を流したり、
色々色々とあります。
 これらのの仕事のすべては、今日の運動会のため、
つまりは、みんなのために流す汗です。
運動会は、みんなのために流す汗があるからできるのです。
 それが、3つ目の汗です。

 さあ、運動会の始まりです。
今日一日、沢山たくさん、3つの汗を流しましょう。
 みなさんの、流した汗に、そんな頑張りに、
おいで頂いたご来賓やお家の方々から、
きっと、惜しみない声援と拍手がいただけると、私は思います。

 お話を終わります。





  新雪の朝 2階の窓から見た有珠山
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初めてのクラシック

2016-01-08 19:40:47 | 出会い
 前回のブロクで、私の教育エッセイ『優しくなければ』から、2つを掲載した。
その駄文集の冒頭に、こんな一文がある。



      文化の香り

 私が中学校2年生の時のことです。

 すでに若干多感な時期を迎えていた私でしたが、
音楽のT先生に密かに惹かれていました。
 それは決して私だけではなく、
多くの男子生徒が同じ思いを持っていたはずです。
ですから、それまでさほど好きでも嫌いでもなかった音楽の時間を、
どの子もやけに待ち遠しい時間に感じていました。
 変声期と併せて楽器音痴だった私なのに、
打楽器ならと進んで手を挙げてみたり、
それは今思い出すと滑稽そのものです。

 そのT先生について忘れられないことがあります。
音楽鑑賞の時間のことです。
バッハだ、モーツアルトだと言われても、
坂本九の『上を向いて歩こう』が、一番と思っていた私に、
それはどうでもいいことでしたが、
先生を困らせてはと、おとなしく話を聞くでもなく聞いていました。

 先生は、鑑賞のたびに作曲家や曲の解説を丁寧にした後、
「では、これからレコードをかけますね。」
と、おもむろにLPレコードをジャケットから取り出すのです。
 それはそれは、そのレコードを大事そうに、
左手の手のひらをめいっぱい指までひろげて片手でもち、
もう一方の手にスプレーを持って、
レコード盤にシューと吹く付けるのです。
そして、専用の赤いスポンジブラシでやさしく、
ゆっくりとレコード盤をそっとふくのです。

 私たちは、そんな先生の一連のしぐさをじっと見つめ、
レコード盤がプレーヤーに収まるまで見届けるのです。

 先生は、きっと雑音のない美しい澄んだ音色を聞かせようと、
そうしてくれたのだと思います。
 しかし、そのスプレーがそれ程効果があるものかどうか、
少なくとも私の耳には、それはどうでもよかったのです。

 だが、音楽鑑賞の時のこの一連のT先生のしぐさに、
「文化という香り」を、私は感じてしまったのです。

 私には分からないことでしたが、
音楽を本当に聞き分けることができる先生にとっては、
あのスプレーはすごく重要なことだったのでしょう。
 そう思うと、「T先生のその行動はまさに文化なんだ。
文化ってそういうものなんだ。」

 私は、何にも分からない思春期の初めに、
そうやって文化という言葉と出会ったのです。
                       ≪ 結 ≫



 くり返しになるが、思春期の入口で出会った一コマである。
T先生は、今どうされているのか、全く分からない。
 T先生との出会い、そして、T先生を通して私がハーッと気づいたことは、
今でも、貴重なことだったように思う。

 さて、付け加えたいことがある。

 その曲は、初めて聴いたクラシックではない。
しかし、私の心に残った最初のクラシック音楽である。

 「協奏曲と言って、いつものオーケストラ演奏とは違う音楽です。」
T先生は、そんな説明をしてくださったように思う。

 私は、その曲が始まってすぐに聴き入ってしまった。
今となっては、そのあら筋を思い出すことは難しいが、
その曲を聴きながら、勝手に物語を思い描いていた。
 ストーリーが曲の流れと一緒に浮かんだ。
勝手に、その曲からイメージが膨らんだ。
恋心のようなワクワクする場面が迫ってきた。
心地よい風が吹いていた。青空に真綿のような雲が浮かんでいた。
かと思うと、真っ赤なドレスをまとった女性が、優雅に踊っており、
そこに恋がたきが登場したりもした。

 私は、その曲が流れている間中、自分の居場所も忘れ、
ただ頬杖をつき、放心したように、その劇中にいたように思う。

 演奏が終わりT先生は、「どうでしたか。」と感想を求めたようだった。
何人かが挙手をし、思いを言っていたようだが、
私の耳には届いていなかった。
 そんなことより、私には、その曲の流れるような音色が残っていた。
そして、その曲と一緒に思い描いた物語の映像が、脳裏にあった。

 先生は何を思ったのだろう。突然、私を指名した。
私は、ハッとする間もなく立ち上がり、
「いろいろな物語や場面が浮かんできた。」と口をついた。
 T先生はすかさず、
「聴いていて、笑顔になったり、悲しくて涙が出たりすることがあります。
物語なんで素敵ですね。」
と、私に言ってくださった。
 その日、下校はいつもより心も体も軽かった。

 その曲は、メンデルスゾーン作曲の『ヴァイオリン協奏曲』だったが、
その時、たった一度しか聴いていない。なのにしっかりと心に残った。

 いつ頃だろう、成人してからだと思う。町角か、店先か、レストランか、
どこかで有線からその曲が流れた。
 当時、私に何があったのか、思い出すことはできないが、
間違いなく暗くて重たい気分の時だった。
 一瞬にして、心が高ぶった。晴れた。
久しぶりに聴くその曲に、こみ上げるものがあった。
 あれから、一度も耳にしていないのに、旋律をありありと思い出せた。
力が湧いた。しっかりと励まされた。音楽には力があると感じた。

 以来、たびたびこの曲を思い出した。
決まって、私の力になってくれた。

 つい先日、昨年の暮れのことだ。
今、話題になっている山田洋次監督の映画・『母と暮せば』を観た。

 長崎の原爆で、息子を失った母の、その後の物語である。
母・信子と、亡霊で登場する息子・浩二のもっぱらの話題は、
結婚を約束していた町子のことだった。

 浩二と町子には思い出の曲があった。
それが、なんと『メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲』だった。
 劇場に何度も、ヴァイオリンの澄んだ音色が流れた。

 町子はやがて、生き残って戦地から戻った黒ちゃんと呼ぶ同僚と結ばれるが、
その二人の最初の出会いにも、この曲があった。

 私は、この曲のドラマチックさと
ヴァイオリンの繊細で流れるような美しい調べが、
心を揺り動かし、歩を前へ進める力になることを体験的に知っている。
 だが、山田監督が『井上ひさし氏に捧ぐ』とした映画である。
そのストーリーの柱に、あまたある名曲から
「この曲に。」としたことに、映画を観ながら
驚きと共に、震えるような感動を覚えた。 

 監督とこの映画の音楽担当をした坂本龍一氏に、
この曲を用いた経過を尋ねるすべはないが、
私の初めてのクラシックに、新しいページが加わったのは確かである。





   だて歴史の杜公園の 『大手門』 
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教育エッセイ『優しくなければ』より

2016-01-01 10:47:06 | あの頃
 新年 明けましておめでとうございます。
2016年が、いい年でありますようにと願っています。

 さて、私は平成21年3月に定年退職を迎えました。
その後、2年間再任用校長を努め、
平成23年3月、現職生活にピリオドを打ちました。

 その記念として、現職の折々に書いた文章のいくつかをまとめ、
東京都教職員互助会の後押しを頂き、
教育エッセイ『優しくなければ』として出版しました。
 その中から2つを掲載します。




     親 孝 行


 10歳も年の差がある兄の、確か中学2年生の運動会でのことです。

 実は、小さい頃から足が速く、目立ちたがり屋の私にとって
運動会は最高の舞台でした。
 それに比べ、兄は運動音痴でいつも最後を競っていました。
そんなことも手伝っていたのでしょうか、兄は運動会前日に、
「運動会を休んだらダメなのか。」
と、担任に何度も尋ねたそうです。
 先生は兄のそのしつこさに音を上げ、
「具合が悪くなったり、大事な用事があった場合には
休んでもしかたない、」
と、答えたのです。
 それを聞いた兄は急に元気になり、担任に一礼をすると、
跳ぶような足取りでその場を去ったのでした。

 案の定、翌日、運動会の入場行進に兄の姿はありませんでした。
しかし、兄は誰もが予想だにしなかったのですが、
校庭の外れにしっかりと陣取っていました。

 その頃、私の家は父の商売がうまく行かず
貧困のどん底にありました。
 親子6人で、笑いこそ絶えませんでしたが、
食事も粗末で、着る物も私など上から下まで
近所の方からの貰い物でした。

 そんな状況を気遣ってなのでしょうか、
兄は、朝早く起きて新聞配達をしたり、
休みの日には父の商売を手伝ったりしていました。

 そんな兄でしたから、人で賑わう運動会は、
格好の商売チャンスと考えたのでしょう。
 前日、担任から「大事な用事があれば……」と聞いてすぐ、
その足で町のお店に行き、
リヤカーとアイスボックスを借り受け、
運動会の校庭でアイスキャンデー屋をすることに決めたのです。
 お店の方も兄の真剣なまなざしと、
少しでも親を助けたいと言う兄の思いに、
快く協力をしてくれたのでした。

 私は、それこそまだ小学校入学前で、
途切れ途切れの記憶しかありませんが、
型の崩れた学生帽をかぶり、
校庭の片隅でニコニコ顔でアイスキャンデーを売っていた兄の姿を、
今も思い出すことができます。

 あの頃とは確かに時代は変わり、
貧困の手助けをするような親孝行は極めてまれだと思います。
 しかし、親を思い、何かの手助けや感謝の意を伝える親孝行と言う行為は、
子ども達にしっかりと教えていかなければと思います。
その範は、親を持つ私たち大人ではないでしょうか。
但し、私の場合はたまたま、この兄からそんなことを学びました。




     スタートライン


 昭和46年3月、北国の春は雪解けから始まります。
しかし、その年は春が遅く、根雪がまだ窓辺をおおいつくし、
やわらかな春の陽差しを遮っていました。

 私は、なんとか大学を卒業し、
教員として、東京へ向かう準備をしていました。

 高校生の修学旅行と教員採用試験のために、
それまでに3度程上京したことはありました。
 しかし、東京での暮らしには、
ただ不安だけで、心がいっぱいでした。

 それまで、東京での暮らしなど
考えてもみませんでした。
 東京は西も東もわかりませんでした。

 北海道の山深い、小さな小学校の先生を、夢見ていた私にとって、
教員の第一歩は、あまりにも違いすぎるものでした。

 父が、
「自分の生まれ育った土地で先生をやってこそ、
本当の教育ができるのだ。」
と、常々私に聞かせていました。

 それだけに、東京の教壇に立つことに、
私は、一種のおびえさえ持っていたのでした。

 母は、そんな私に、わざわざ綿を打ち直して、
新しい布団を一組作ってくれました。
 「北海道のような厚くて重い布団は、もういらないから。」
と、誰から聞いてきたのか、
それまでの布団より、薄くて軽いものを作りました。
 まだ、東京での住まいが決まっていなかった私は、
その布団を、赴任先の小学校に送りました。

 東京へ出発する数日前、私は父に呼ばれました。
丸いちゃぶ台をはさんで対座した私に、
父は茶封筒に3万円のお金を入れて、差し出しました。
 「父さんが、渉にわたす最後のお金だ。
後は立派な先生になって、自分の働いたお金で暮らしていきなさい。」
父は、それだけ言いました。

 私は、自分の胸の内をひと言も言わず、
ただ深々と頭をさげ、茶封筒を受け取りました。
 あれは、私にとって、親との別れの儀式だったのかも知れません。
何故か、涙がいつまでもいつまでも止まりませんでした。

 出発の日、姉一人が駅まで見送りに来てくれました。
私は、駅の小さな待合所で、ゴム長靴から、
姉がお祝いにと買ってくれた真新しい黒い革靴に履き替えました。

 改札口で、姉に「じゃ……。」と精一杯無理をして笑顔を作った私は、
それから一度も振り返らず、一歩一歩確かな足取りで、
プラットホームへ向かうつもりでした。

 背中の方から、
「いい先生になんなさい。」
と、それこそとてもやさしい姉の声がとんできました。
 目の前の階段が、にわかににじんでしまい、
私は歩くことができなくなってしまいました。
 姉に背をむけたまま、何度も「うん、うん、」と、
うなずいていたことを忘れることができません。

 毎年おとずれる東京の3月は、
いつも明るくすがすがしい光につつまれています。
 しかし、私の心の中の3月は、
いつも昭和46年に戻ってしまうのです。
そして、両親や兄姉の温かさを思いだし、
「ねえ、俺、ちょっとはいい先生になったかな。」
と、そっと北の空に尋ねてしまうのです。





散策路・『水車アヤメ川自然公園』の雪化粧
コメント (1)
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