ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

気 候 変 動 を 憂 う

2023-09-30 11:29:07 | 思い
  ①
 15年以上も前になるだろうか。
毎日のようにテレビに出ていた気象予報士のH氏が、
保護者の紹介で、特別ゲストとして6年生の理科授業を行った。

 授業で彼は、天気予報の役割や重要性を、
明解に語り、どの子もその話に真剣な表情を浮かべていた。

 授業を終えた彼に私は、
「時間があれば」と校長室へ誘った。
 「夕方5時からテレビのレギュラーがあります。
でも、まだ少々時間があるでの・・」
と、私が淹れたお茶に付き合ってくれた。

 そこでのやり取りで知ったが、
彼は、学生時代に気象予報士か教職の道かで迷ったと言う。
 教育実習の経験もあり教員免許も取得していた。
だから、あんなに子どもを引き付けた授業が、
できたのだと納得した。

 そんなことが契機となり、彼を講師に招いて、
S区内小学校長の研修会を聞くことができた。

 実は、今日までに演題などの記録を探せなかったが、
確か「気象予報士として学校教育へ期待すること」、
そのような内容でお話を頂いたと思う。

 彼は、スクリーンに様々な画像を映し出し、
世界各地の気象異変を紹介した。
 そして、気候に関する様々なのデーターを示し、
近年の移り変わる地球環境の有り様を解説した。

 すでに『地球温暖化』の言葉は、聞きなれていた。
しかし、その危機感は今ほどではなかった。
 「そんな脅威がやがてやってくるかも・・」。
私だけでなく、
多くの方がそう思っていたに違いない時代だった。
 
 そんな楽観を、彼は次々と否定した。
「脅威は、もう目の前まできています。
その危機を共有し、学校でも警鐘を鳴らしてほしいのです」。
 彼は、そんな願いで講演を結んだ。

 これが、地球温暖化による気候変動を、
私が身近なものに感じる第一歩だった。


  ②
 H氏の講演から、1,2年が過ぎた。
熱中症によって救急搬送される事件が都内でたびたび発生した。
 それがあったからだろう。
翌年度、区内小中学校の全教室を冷房化する計画が、
突然発表になった。

 各校長は、学校敷地内のどこに、
エアコンの室外機を設置するか頭を痛めた。
 言うまでもないことだが、
校舎の冷房化を想定して学校は建てられていない。
 その上、区内公立学校は、
限られた土地に効率よく作られていた。

 しかも、私のS区は都市ガスによる室外機での設置計画だった。
1台1台が大きく、重量の関係もあり屋上設置ができなかった。
 
 私の学校は、運がよかった。
近隣住宅との間に若干のスペースがあった。
 運転音などによる苦情の心配もなかった。
6月下旬、計画通り使用することができた。 

 その夏は、ひと際厳しい暑さだった。
冷房化はタイムリーであった。
 教委の英断に感謝した。
しかし、当時はまだ命の危険を感じる暑さなんて、
想像もできなかった。

 ところが、4年前になる。
研修会があり、都内の小学校を訪問した。
 体育館まで冷房化されていた。

 驚きの顔をした私に校長先生は、
「真夏は、プール以外屋外で運動できる日など
ほとんどありません。
 最近の猛暑は、命だって危なくなりますから・・。
体育館にクーラーをつけてもらったので、
やっと体育の授業も全校朝会もできるようになりました」。

 暑さが、以前よりはるかに過酷さを増していると、
実感したのだった。


  ③ つい先日、2か月ぶりに理髪店へ行った。
ハサミを動かしながら、
店主が「暑い夏でしたね」と話しかけてきた。
 そして、
「クーラーがないと夜も眠れませんでしたね」
と、私に同意を求めた。

 「実は私の家、クーラーがないんですよ」。
「そうでしたか。
よく、大丈夫でしたね。熱中症!?」。
「あ! はい」。

 店主の話は続く。
「この辺のご近所でも、熱中症のような症状で、
何人も救急車で運ばれたみたいです。
 クーラーはあったんですが、
つけてなかったみたいです」。
 「そうでしたか。それは大変でしたね」。
「クーラーがないと命に関わります。
 こんなこと、今年が初めてです・・」。

 「来年は、我が家もクーラーをつけないとダメかも」。
「そうですよ。
ついに、伊達もクーラーが生活必需品になったみたいですね」。

 さて、そんな話題に終始し、
散髪を終えての帰り道でのことだ。
 広い庭のあるご近所さん宅にさしかかった。
珍しく奥さんが太い柿の木を見上げていた。
 素通りすることもできず、
「こんにちは!」と声をかけた。

 私を見て、奥さんは不思議そうな顔で近づいてきた。
「ねえ、この柿の木なんだけど、1つも実をつけてないの。
暑かったからなのかしら」。

 伊達は柿の木の北限だと言われている。
毎年、ここの柿の木に限らず、
秋本番には市内のいたる所で、
柿は実りの時を迎える。

 今は、枝に小さな青い実をつけるはずである。
まさかと見上げた木には、
確かに1つの実も見当たらなかった。
 
 翌日、散歩がてら柿の木が街路樹になっている通りへ、
足を運んでみた。
 つややかな葉におおわれた柿の枝枝に、
あっていいはずの小さな実が1つとしてなかった。
 どの街路樹も同様だった。

 暑さが原因なのか気候変動の性なのか、
私には分からない。

 どうやら異変は柿に限らないようだ。
地元農家さんの畑では、収穫を迎えるはずのブロッコリーに
実が付かないとローカルニュースが伝えていた。

 私たちの知らないところで、
想像もつかない事態がどんどん進行しているのではないだろうか。
 気候変動と言う魔物に、
無知な私はただ不安だけが増殖している。 




      中秋の風にコスモス
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DATE 語 録 (4)

2023-09-23 09:36:16 | 北の湘南・伊達
 伊達に移住して12年目を迎えている。
この間、数々の出会い、エピソードがあった。
 それを思い出すまま、語録として綴る。
前回は、昨年の10月末に記した。
 今回は、4回目である。

 6.「私 むすめです」
 年に1回、社会福祉協議会が主催する
『お楽しみ昼食会』がある。
 コロナで中断していたが、4年ぶりに開催された。

 この昼食会は、75歳以上で1人暮らしの方が対象だ。
食事を取りながら、ピアノに合わせた歌入りゲームをしたり、
カラオケをしたりして2時間余りを過ごす。

 自治会長だからと、協議会の役員になっている私は、
この会の受付を頼まれた。
 開会の30分以上も前から、
私より年上の方々が、次々と受付をとおり会場の席に着いた。
 案の定、開会10分前には全員が揃った。

 受付や会場案内係の役員も、
参加者と同席し、一緒に会食する。
 各円卓は、指定席になっていた。
私の席のテーブルには、10人が座っていた。
 
 着席するとすぐ、
真向かいの男性と女性の会話が耳に飛び込んできた。

 男性は受付で渡した座席名簿を手に持ち、
隣の女性に話かけた。
 「Y田さんって、O山さんの隣のY田さんですか?」
「そうです。O山さんの隣のY田です」。
 「確か・・・、Y田さんのご主人はもう10年以上も前に、
・・亡くなりましたよね」。
 「そうです、そうです」。

 私より10歳以上も年長と思える男性の、
腑に落ちない表情は、さらに続いた。
 「でも、それに・・・奥さん・・も・・、
あれ! 私の勘違い・・!」。

 女性は、ハッと表情を明るくし応じた。
 「そうですよ。
だから、私、むすめです。
 誰もいない家になったので、
私、独り身なので、
3年前からあの家に住んでいるんです」。

 「そうですか。Y田さんのむすめさんですか。
そういうことか。なるほど」。
 謎が解けた男性の声は急に明るくなった。
やや恥ずかしそうに女性は続けた。
 「そう言っても、私も今年で75ですけど・・ね」。
「いやいや、そんなのは構わん、構わん」。
 
 私だけでなく、同席した方々も謎が解け、
安堵した顔になっていた。
 
 
 7.「100円の追加で」
 当地も人口減少が進んでいる。
その余波の1つが、各種店舗の閉店である。
 よく利用していたカジュアル衣料の店も、
2年ほど前に、突然店じまいをした。
 
 なので、このごろ、衣類を購入する時は伊達市内を諦め、
主には室蘭、時には苫小牧まで足を伸ばすことにしている。

 さて、そこで困ることがある。
ズボンの裾上げである。
 店によっては、1時間ほどの待ちで仕上げてくれるが、
多くの場合、数日後の仕上がりとなる。
 再度の来店を求められるのだ。
これが難儀なことである。

 そこで、多少費用がかかっても、
裾上げは市内の洋服リフォーム店にお願いすることにした。

 さて、その店だが、これも数少なくなった。
やっと探し当て、買い求めたズボンを2本持って、
初めてお店へ行った時だ。

 手慣れた店員さんが応対してくれた。
裾上げを依頼すると、
注文が多いので、数日かかるとの返事だった。

 他の店を探すのも手間なので、
数日を待つことを了解した。

 すると、「お急ぎの場合は、追加料金がかかりますけど、
それでよければできますよ」と言う。
 「追加料金って、いくらですか」。
いちおう参考までにと、訊いてみた。

 その回答にビックリした。
「100円の追加で、仕上がりは明日の夕方です」。 
 即答した。
「明日の夕方でお願いします。追加料金を払いますので」。
 



『かや』(岩手県以南に分布)の樹下 かやの実だらけ!
                ~だて歴史の杜にて
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私『楽書きの会』同人 (7)

2023-09-16 10:53:43 | 思い
 義母の3回忌が旭川である。
そのため「ご仏前に地元の銘菓を」と、
菓子店へ行った。

 私と家内の顔を覚えている店員さんが応対してくれた。
買い求める品が決まり、包装と支払いを家内に任せ、
私は駐車した車で待つことに・・。

 その後は、家内から聞いたことだが、
店員さんと家内の会話を再現する。

 「ご法事用ですね。お名前をお書きしますか?」
「お願います。塚原です」
 「下の名前もお書きしましょうか?」
「それじゃ、塚原渉でお願いします」
 「エッ! あの・・! 時々室蘭民報に書いている!?」
「はい・・」
 「息子と同じ字の渉なので覚えています。
毎回、載るのを楽しみにして読んでます」
 「そうでしたか。ありがとうございます」
「びっくりしました。ご主人があの塚原さんですか!
嬉しいです。
 次も楽しみにしていますと、お伝え下さい」。

 以来、私は1度もその菓子店へは行ってない。
その店員さんと顔を合わせることに、照れている。

 さて、4月以降に地元紙に載ったエッセイ2つと、
頂いた友人からの感想(【◎・・】)を記す。

 
  *     *     *     *

 =2023年5月6日に掲載された=

     あの口演童話が

 今のように本が普及していなかった時代、
童話は大人が子どもへ語り聞かすものでした。
 確かに私も母から色々なお話を聞きました。
これが『口演童話』の原点だと言います。

 団塊世代の私にとって、
全校児童が千人を超えていた室蘭の小学校での記憶は
実に曖昧です。
 しかし、あの1コマだけは今も鮮明に思い出すことができます。

 5年生のときです。
高学年だけが体育館に集められました。
 そこで東京から来たという偉い先生の紹介がありました。
その先生は『コーエンドーワ』をなさる有名な方だと、
校長先生はおっしゃいました。
 「東京の有名な先生!」。
それだけで私は緊張し、
椅子の前半分に腰を掛け背筋をすっと伸ばして、
お話を聞きました。

 若干小太りの先生は、
ゆっくりと舞台に立ち演壇の前で話し始めました。
 時に静まり時に大笑いをしながら、
私たちはお話に夢中になりました。
 私は、その話の中に出てきた一節を、
それから先ずっと忘れることなく、今に至っています。

 『坊やは、いつもお母さんの昔話を聞きながら眠りに着きました。
でも、時々お父さんが坊やを寝かせます。
 お父さんは昔話などしません。
坊やが何かお話してとねだると、
消防士のお父さんは、いつも同じことを言いました。
 それは“人間、世のため人のために働くこと、
それでおしまい。寝なさい寝なさい”でした』。

  “人間、世のため人のために働くこと”。
この言葉は、私の心を強く捉えて離しませんでした。
 当時、小さな魚屋をしていた我が家でしたが、
毎日、朝早くから夕暮れまで忙しく働く両親と兄を見て、
美味しい魚を売るのもそのためなんだと納得しました。
 そして「大人になったら僕もそんな仕事をする!」と
そっと自分に誓ったのでした。


 【 ◎エッセイをなるほどなあと思いながら、
読ませていただきました。
 塚原さんの家族の姿が、
朝暗い時間から夜遅くまで働いていた私の両親と重なりました。
 でもその姿を見ていて、
百姓にだけはなるまいと思っていた当時の自分を、
今更ながら恥ずかしく思いました。】


  *     *     *     *

 =2023年8月19日に掲載された=

     初めてのグルメ
     
 子供の頃、貧しかった。
でも、年に1回だけ父は兄弟4人を連れ、
とびっきりの贅沢をした。
 母は着物姿、父はその日だけネクタイを締め、
コードバンだと自慢する革靴を履いた。
 私たちも一番いい服で高級料理を食べに行った。
それは長年我が家の年中行事だったらしいが、
私の記憶は小学3年のその日が最初だった。

 市内中心街にあったレストランへ入った。
黒服に蝶ネクタイの男性が、店の個室に案内してくれた。
 真っ白な布の大きなテーブル席に、父から順に座った。
最後は私だった。
 母の隣の椅子を引き、その男性は笑顔で私に言った。
「お坊ちゃん、どうぞこちらへ」。
 椅子に座りながら顔が熱くなった。
頬が赤くなりうつむいて顔を隠した。

 「今日は、洋食のフルコースだ」。
父の落ち着いた声がした。
 ドキドキが続いていた。
テーブルに、いくつものフォークとナイフが並んだ。
 「料理が次々とでるけど、慌てないで食べなさい」。
父はそんな説明をしていたようだが、
私は『お坊ちゃん』が耳から離れず、
緊張の頂点のままだった。
 スープがきた。
みんなのまねをして何とか飲んだ。
 次は、肉だか魚だか、平皿にのった料理だった。
初めてフォークとナイフを使う。

 私は、どれを使うのかどう握るのか、
誰かに教えてもらいたかった。
 料理を運んできたあの男性もいなくなった。
家族だけの個室だ。
 遠慮なく訊けばいい。
なのに、ここでは『僕はお坊ちゃん』なのだ。

 私は勇気を出した。
母の耳元に小声で、
「ねぇ、お母さん!どのフォークとナイフ、使うの?」。
 母は、すぐに察してくれた。
誰にも気づかれないよう、小声で「母さんでいいの」。
 すっと心が静かになった。
大きな涙がボトッと落ちた。
 その後、涙をこらえ洋食のフルコースを食べ終えたようだが、
記憶は定かでない。
 だが、人生で1回だけ母を「お母さん」と呼んだ。
初めてのグルメのささやかな告白である。


 【◎わぁ素敵! 
どうしてこんなエッセイを生み出せるの?
 ぐっとくるね。
また、よく記憶しているね。
 涙がでるほどの出来事だから、
心の底にそっとしまってあったのですね。
 それをこの紙面の中に表現する力は、恐れ入ります。
心が温まってきました。】




     イタドリ 花盛り
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店員さん あれこれ

2023-09-09 09:56:34 | 出会い
 ① 数年前、パークゴルフサークルの幹事をしていた。
Aスーパーで年間表彰の景品を、メンバー分購入した。
 その店は、購入した品を1つずつ包装した上、
順位表示ののし紙まで貼ってくれると言う。

 数種類の日用雑貨を40点程選び、
レジで支払いを済ませた後、
サービスカウンターでそれをお願いした。
 ベテランの女性店員さんは2つ返事で引き受け、
「夕方までには仕上げておきます。
 その後でしたらいつでもお渡しできます」
と、笑顔だった。

 他のスーパーは包装までのサービスなのに、
その店員さんの対応に、
 「さすが、Aスーパーだ!」。
嬉しい気分で店を出た。

 夕方、やや時間を置いて、品物を受け取りに行った。
まだ、その店員さんがいた。
 私の顔を見るなり、
「できてますよ。お待ち下さい!」。

 すぐに、別室から台車に乗せた段ボール箱を押してきた。
「このまま車まで運びますね」。
 どこまで気が利くのだ。
恐縮した。
 「いや、ここからは私が・・。
台車はここにお返しすればいいですね」。

 店員さんの返答も聞かず、私は台車を押しながら、
何度も頭を下げていた。


 ② 他の店に比べ、Bスーパーの客層は若干若いように思う。
その理由はよく分からないが、店内は他よりも照明が明るい。
 それが一因かもと、勝手に解釈している。

 私も家内も、その明るさと駐車場の広さに惹かれ、
よくBスーパーを利用する。

 2人で、数日分の食料を買い込んできた日だ。
自宅に戻ると早々、家内はその1つ1つを収納し始めた。

 「あら、このベーコン、賞味期限が切れている。
気づかないで買ってしまった」。
 家内の驚きの声だった。

 「今時、賞味期限切れを販売するなんて!」。
私もビックリして、ベーコンの日付を見た。
 確かに2日前の月日が刻まれていた。

 「食べられない訳じゃないから、いいよね」。
家内は言う。
 でも、同じ物を購入する客がいるかもと思い、
私が、お店に連絡することにした。

 電話に出たのは、その口調で若い女店員さんと分かった。
「先ほどそちらの店で買い物をした者です。
 家に戻ってよく見たら、ベーコンの賞味期限が切れてました。
それでお電話しました」。

 私は、謝罪の後、ベーコンの種類や賞味期限の日付など詳細について
質問があると思って、そのベーコンを片手に持っていた。
 女店員は、即答した。
「そうですか。済みませんでした!」。
 「ハイ」。
私は応じた。

 その後、店の喧噪が受話器から聞こえた。
しかし、女店員さんは何も言わず、無言のまま。
 しびれを切らし、私は言った。
「それだけですか?」。
 女店員さんは「ハイ!」。
再び押し黙り、なんの応答もない。

 仕方ない。
「他の方と代わってもらえませんか!」。
 受話器を置く音がした。

 しばらく店内の喧噪が聞こえた。
今度は男性の声だった。
 全く引き継ぎがなかったようで、
「どんな用件でしょうか」と言う。
 ここまでの経過をかいつまんで伝えた。

 男性は忙しそうに早口で言った。
「分かりました。すみませんでした。
もう1度、しっかりと教育し直します。
 ありがとうございました」。
  
 賞味期限が切れたベーコンについては、
全く触れようともせず、電話は切れてしまった。

 その後は、ため息をくり返すだけ・・・。
ただただ・・ただただ・・。


 ③ 目の前にある『紋別岳』を登ったのは、
5年も前のこと。
 それからは「今年こそもう一度!」と思いつつ、
再登山が延び延びになっていた。

 自宅から車で5分のところに、
登山口の駐車場がある。
 そこから山頂までは2時間半だ。

 しかし、もう年齢も年齢だ。
「今年、チャレンジしなければ、もう無理かも!」。
 そんな思いで、9月に入ってから、好天を待った。
 
 つい先日のことだ。
秋を思わせる快晴だった。
 「どこまで行けるか不安」と言いつつ、
家内も同伴することに。

 朝食を済ませると、
お握りを2つずつ用意した。
 そして、山登りの昼食には必ず唐揚げだった。

 いつもなら家内が作ってくれた。
しかし、コンビニに美味しい唐揚げがある。
 家内に負担をかけないよう、それを買うことにした。

 ところがどこのコンビニへ行っても、
まだ販売していなかった。
 仕方なく、9時の開店が過ぎていたあのBスーパーへ行ってみた。

 ここの総菜売り場の唐揚げは評判がよかった。
「残念!」、まだ唐揚げが並んでなかった。
 
 諦めきれずに、しばらく待ってみた。
次々と総菜がならび始めた。
 しびれを切らし、総菜を運んできた女店員さんに訊いた。
「すみません。唐揚げはまだまだ出てこない?」。
 「ちょっと待って下さい。厨房に訊いてみます」。
その店員さんは、小走りで厨房へ入っていった。

 同じBスーパーでも、店員さんの対応の違いに驚きながら、
私はその後ろ姿を追い厨房前の扉で待った。
 すかさず、今度は男性の店員さんが現れた。
 
 「唐揚げですね。すぐ用意します。
どのくらいあればいいですか」。
 私は、恐縮した。
「いや、少しでいいんだ!」。
 その親切に親しみを込め、少し北海道訛りの言い方をした。

 「じゃ、3個もあればいいですか?」。
年寄りの1人暮らし、急ぎ弁当のおかずに、
とでも彼は思ったのだろう。
 「3個じゃ少ない」と言いたかったが、
忙しい最中、わざわざ接客してくれている彼にNOは言えなかった。 
 「3個じゃなくて、その倍はほしい!」。
私は、その言葉を飲み込んだ。
 代わって「すいません。3個でもいいですか?」と言っていた。

 彼は大急ぎで厨房に戻り、用意してくれた。
パックに唐揚げを3個入れ、料金シールは貼って持ってきた。
 「お待たせしました。ありがとうございます」。
丁寧に頭まで下げた。

 唐揚げ3個を両手で持ちながら、レジにむかった。
なぜか特別な唐揚げのように思え、嬉しかった。

 『紋別岳』山頂に2人が着いたのは、1時近くだった。
3個の唐揚げを2人で分けて食べた。
 登頂の歓びもあったが、つい笑みがこぼれていた。
 

 

     散歩道の ひまわり畑   
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D I A R Y 8月

2023-09-02 11:46:50 | つぶやき
 世界中が猛暑に見舞われた今年の夏。
当地も例外ではなかった。
 8月は、30度越えの日が何日もあった。
その上、最高気温の更新まで追加された。
 そんな夏から、私のトピックスを幾つか拾ってみた。
 

 8月 某日 ①

 確か5月だったと思う。
校長として3校12年にわたり勤務したS区教育委員会から電話があった。 
 突然のことで、その内容がなかなか理解できなかった。
落ち着いて聞くと、この私を
「小学校教育功労者として感謝状の贈呈候補者として、
都教委と文科省に推薦したい」
と言うことだった。

 予期しないことに、思わず尋ねた。
「私でいいのでしょうか?」。
 「様々な方からご推薦を頂きました。
私どもも今までの資料や先生の功績に関する文書にあたり、
決めさせて貰いました」。
 そんな返答だった。
そして、電話は「正式に決まり次第、
またご連絡致します」で終わった。

 5月6月が過ぎ、音沙汰がなく、
その話は立ち消えになったのだろうと思っていた7月の終り、
『03』から始まる電話が鳴った。

 S区教委の同じ声の方からだった。
「感謝状の贈呈が決まりました。
通知文を送ります。
 ご出席くださいますよう、よろしくお願いします」。

 数日後の8月某日、
『小学校教育功労者に対する感謝状の授与について』
と題する文書が届いた。
 以来ずっと、「感謝状の贈呈者が私でいいのか」と、
自問自答をくり返す日が続いている。
 ただただ恐縮している。


 8月 某日 ②

 昨年のお盆の墓参りは、兄夫婦と姉、
そして私たちの5人だった。
 今年は、義姉が施設に長期入所したため、
4人で行くことになった。

 あいにくの小雨模様だった。
登別にいる兄と姉の住まいを車で周り、
お墓へ行くことになっていた。

 雨が降り続いていた。
墓参の後で昼食にする予定だったが変更した。
 先に、昨年同様、温泉街や国道沿いの飲食店をさけ、
霊園から遠くないゴルフ場のレストランへ向かった。 

 クラブハウス内のレストランからは、
ゴルフ場の広々としてゴルフコースが一望できた。
 雨に洗われた緑が、一段と綺麗だった。
ふと、義姉にも見せてあげたいと思った。

 さて、4人とも同じ天ざる蕎麦を食べることにした。
食べながら、雨が止むことを期待した。
 時間は、十分にあった。
食後のコーヒーも追加した。
 しかし、天候は変わらず、
仕方なく、雨の中をお墓へ車を走らせた。

 車内で兄がつぶやいた。
「メニューにあった、あのサーロインステーキの定食。
 あれが食べたかったなあ」。
ハンドルを握りながら、耳を疑った。
 「お昼に肉を食べるの?」
思わず訊いた。
 「そうだよ。俺、朝からでも牛丼、食べるもん」。

 すかさず姉までもが言う。
「私も本当はサーロインがよかった。
めったに食べないからねえ」。
 
 メニューには、ざる蕎麦がなかった。
仕方なく、私は天ざるに決めた。
 それに、みんなが従った。 
年寄りは誰でも、その程度の軽い昼食がいい。
 自分勝手にそんな解釈をしていた。

 ところが、サーロインステーキだと言う。
兄姉の旺盛な食欲に驚いた。
 2人の元気の秘訣が少し分かった気がした。

 だから、「じゃ、来年のお盆は同じところで、
サーロインの定食を食べることにしよう」。
 私が提案した。
てっきり同意の返答があるものと思った。

 しばらくして、兄が再びつぶやいた。
「もしも元気だったらなあ・・。
 でも、いつ家の奴みたいになるか分からんからなぁ・・」。
急に胸が詰まった。

 霊園に着くと、突然雨が上がった。
この晴れ間は、兄の思いを父と母が汲んだからかも・・・。
 そう思うと、さらに胸が詰まり足が止まった。


 8月 某日 ③

 8週間ごと、定期的に眼科に通院している。
診察の予約券にも明記されているが、
診察終了までに2時間以上はかかるのだ。

 医師の診察前に、4から5種類の検査がある。
すぐにできる検査もあるが、
しばらく時間をおいてからのものもある。
 そこまででざっと1時間はかかる。

 そこから医師の診察までに、
次の1時間は、じっと待たされるのだ。
 そこにどんな理由があるかはわからない。
とにかく患者はみな、
その2時間を病院に居続けなければならないのだ。

 眼科診療の特殊な事情があるのか知らない。
機会があったら、誰かに教えてもらいたいといつも思う。

 さて、待合室で私の前の長椅子にいた老夫婦のことだ。
奥さんは、自前の車いすに座っていた。
 検査に呼ばれた。
検査のため病院の車いすに乗り換えるよう勧められた。
 
 しばらくして検査が終わり、待合室へ戻ってきた。
病院の車いすのまま、ご主人が座る長椅子の前にいた。

 やがて小さなうめき声が始まった。
車いすの奥さんからだった。
 近くのご主人は気にも止めない様子。
「いつものことなのかな」と思った。

 ところが、看護師さんが奥さんの前を通った時だ。
「ねえ、私の車いすに移して!」。
 奥さんが呼び止めた。
「どうしました」。
 「この車いす、座りづらくて!」。

 看護師さんの手を借りて、自分の車いすに移動した。
うめき声はすぐに消えた。
 その後も、待ち時間が続いた。

 さて、気づくと、奥さんはご主人の手を借りたのか、
長椅子に移り横になっていた。
 辛そうな様子が、私にもよく分かった。

 再び、奥さんは看護師さんに声をかけた。
「退院したばかりで、辛いの。
診察までまだまだかかるの?」。
 「そうですね。
まだしばらくはかかります」。

 奥さんの様子を見れば、
先に診察を受けさせても、誰も苦情など言わないと思う。
 それができなくても、
眼科医院でも急患に備えて、ベッドの1つはあるだろう。
 せめて、そこで横になるくらいの心遣いはできるはず。

 患者に寄り添う様子など全くない看護師の振る舞い。 
いや、「寄り添う必要などない!」この患者のいつもの振る舞いかも・・。 
 
 実は、釈然としないまま、他人ごとと見過ごすし、
何も言い出そうとしない自分に、苛立っていた。




   オオウバユリ 花のあと  
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