ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

巧みな『しゃべり』方を ~教師の資質として

2016-07-29 22:02:10 | 教育
 中学3年の担任M先生は、
このブログで、すでに3回登場してきている。

 2年生の荒れた学級を、見事に立て直してくれた。
そして、それまで自分に自信が持てなかった私を、
何度も励まし、背中を押してくれた。

 伊達に移住してすぐ、隣町に住む先生を訪ねた。
数年前に腰を傷め、歩行は杖を頼りにしていた。
 いつ頃覚えたのだろうか、
「大好きなゴルフができなくなった。」
と呟いたのが、印象に残っている。

 さて、中学生だった私から見て、
M先生の最大の武器は、先生ならではの話し方だった。
 一つ一つの言葉、その言い回しは、
他の先生とは違い、すっと私に入ってきた。
分かりやすかったと言ってもいい。

 あの頃、私の学級に、男子生徒の多くが注目する
『学級のマドンナ』がいた。
 彼女は、中3になってすぐ転入してきた。
口数の少ない子だった。
 その子がいると思うだけで、多感な男子は登校の心が弾んだ。

 ところが、半年あまりで、突如転校することになった。
マドンナとの最後の日、
先生は私たち男子の気持ちを察したのか、
帰りのホームルームでこう話した。

 「逢うは別れの初めなり。あのなぁ、昔の人はそう言って、
別れの悲しさや寂しさをこらえたんだ。
 君たちも、今、それが分かるだろう。」

 下校の道々、先生の言葉が、私の中を何度も巡った。
せつない気持ちを、コントロールするのに十分だった。

 そんな体験がいくつもあったからだろう、
先生に勧められ、教職を志した時、
あの『しゃべり』方を、私も身に付けたいと思った。
 
 言うまでもないことだが、
教師の資質として求められるものは、
いわゆる『子どもを見る目』と『教材を見る目』である。
 教員養成課程のすべては、そこに注がれていると言ってもいい。
まさに、教師の生命線である。

 その2つの資質に加え、強調したいものがある。
それが、指導の手や足となる指導技術・指導手法である。
 つまり、深く理解した子どもに、熟知した教材で教える。
さて、その次であるが、
どのようにして理解へと導くかだ。

 そこには、学習展開の工夫と共に、
様々な指導手法・テクニックの活用が必要になる。
 その重要なワザの一つが、
話術、つまり『しゃべり』方だと私は言いたい。

 M先生は、その巧みな『しゃべり』方で、私たちを魅了した。
私も見習いたいと常々思った。

 私が『しゃべり』方を学んだ一事例を紹介する。

 30代の中頃、こんな出会いに恵まれた。
 二人の息子が小学生になり、
放課後は学童保育ルームにお世話になった。

 当時、私の居住する市には、公設の学童保育ルームがなかった。
市から補助金を頂きながら、保護者によって自主運営されていた。
 保護者会で選出された7名の役員が、
そのルームの管理運営を担った。

 誰もなり手がなく、私が保護者会長になった。
月一回の定例役員会は、様々な案件の審議で深夜まで及んだ。
 7名の職業は様々だった。
当然、発想や視点には違いがあった。
しかし、ルーム運営の重責にあることで、心は一つだった。

 そのメンバーの一人に、K氏がいた。
鉄道マンで、架線管理が専門のフットワークのいい行動派だった。

 彼は会議の中で、誰もが一目置く程の調整力を発揮した。
会長の私は大いに救われた。

 いつも、私たちを笑いの渦に巻き込んだ。
和やかな雰囲気を演出してくれた。
 そして、意見の違いを越える切っ掛けを作ってくれた。
とにかく、その楽しい『しゃべり』方は、巧みと言えた。

 「Kさん、その『しゃべり』方は、どこで学んだの。」
ある時、頃合いをみて尋ねた。

 「あのね、秋葉原駅のデパート前。
あそこで、いつも実演販売をしている人がいるの。
 慌ただしく行く交う人がいるでしょう。
その人たちの足を止め、その商品のよさを売り込むんだ。
挙げ句の果てには、それを買わせてしまうんだよ。
 それは、うまいもんさ。
その人を見るのが、大好きなんだ。
『しゃべり』方が最高。」

 興味がわいた。さっそく足を運んでみた。
 忙しそうに行き交う人々が立ち止まり、
人だかりができていた。

 丁度、台所洗剤の実演販売をしていた。
次々とくり出される言葉の機関銃。
立ち止まる人々を飽きさせない、
言い回しと実演が見事に調和した振る舞い方。
 そして、人を引きつける明るいトーン。
私は聞き惚れた。

 「ねえねえ。この界隈のオフィスビルには、
たくさんのかわいいOLさんが働いているでしょう。
 毎朝、大事な部長さんにお茶を入れていることだろうね。
その中には、部長さんの湯飲みの茶渋を取ろうと、
発癌性物質が入っていることも知らずに、
まめに漂白剤につけている方がいる。
 やがて、部長さんは胃の調子がおかしくなり、胃癌と分かる。
そして、遂に退職。それがまさしく『イガン退職』。
そうならないために、この洗剤。」
 人だかりが、一気にドッと笑い出す。
「すごい。」と、胸躍った。

 以来、しばしばそれが聞きたくて、
秋葉原駅で途中下車した。
 そのたびに、実演販売に魅了させられた。

 教委の研修会も校内研修会も、教師の資質向上に一役かっている。
しかし、それが全てではない。
 私の場合、秋葉原の実演販売が、
私の『しゃべり』方を高めてくれる一助になった。

 私が顧問をしている『児童文化研究会』には、
よく寄席に行く教師がいる。
観劇に、しばしば足を運ぶ者もいる。
 中には、無声映画の弁士から教えを受けている者もいる。

 迫り方は、多種多様でいい。
現職の先生方には、子どもの心をガッチリととらえる、
巧みな『しゃべり』方を、身に付けて欲しいと願っている。





 もう秋桜が咲き出した トホホ…
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郵便受けをここに

2016-07-23 18:24:15 | 北の大地
 最初に、2年前の朝日新聞『天声人語』から抜粋する。

  『早くに父が亡くなり、家には
  新聞を購読する余裕がなくなっ
  た。好きなのでなんとか読み続
  けたい。少年は新聞配達を志願
  した。配った先の家を後で訪問
  し、読ませてもらおうと考えた
  のだ▼元鳥取県出雲市長で衆院議員を務
  めた岩國哲人さん(78)の思い出だ。日
  本新聞協会の新聞配達エッセーコンテス
  トの大学生・社会人部門で今年、最優秀
  賞になった。題して「おばあさんの新聞」
  ▼小学5年の時から毎朝40件に配った。
  読み終わった新聞を見せてくれるおじい
  さんがいた。その死後も、残されたおば
  あさんが読ませてくれた。中3の時、彼
  女も亡くなり、葬儀に出て実は彼女は字
  が読めなかったと知る。「てっちゃん」
  が毎日来るのがうれしくてとり続けてい
  たのだ、と。涙が止まらなくなった……
  ▼岩國さんはこれまで新聞配達の経験を
  語ってこなかった。高校の同級生で長年
  連れ添った夫人にも。しかし、今回、お
  ばあさんへの感謝の気持ちを表す好機と
  思い、応募した。「やっとお礼が言えて
  喜んでいます」。きのう電話口で岩國さ
  んはそう話した   <後略>    』

 残念だが、今もって『おばあさんの新聞』と題する
このエッセーは読んでいない。
 しかし、『天声人語』からでもその感動は、
十分に伝わってくる。一読して、私も涙した。

 私には、新聞配達の経験はない。
大学に入学してすぐ、
親からの送金をあてにしないようにと、
配達見習いはしたものの、
その大変さに3日で音を上げてしまった。

 それを小学5年から長年続け、
しかも、そこに「おばあさんの新聞」と言った
想像を越えたドラマがあるなんて……。
 またまた、今も胸が熱くなる。

 さて、新聞配達には挫折した私であったが、
学生時代に頑張ったアルバイトがある。
 それは、真冬だけに限った郵便配達だった。

 大学1年の冬、先輩の下宿を訪問した。
その時、先輩は室内なのに濃い色のサングラスをしていた。
ビックリして尋ねると、「雪目にやられた。」と言う。

 新雪におおわれた好天の日に、長時間外にいると、
日差しの照り返しで目を傷めることがある。
 それを私たちは、「雪目」と呼んでいた。

 一度「雪目」になると、ちょっとした明かりでも、
まぶしく感じ、目を開けていられなくなる。
 完治までの数日、部屋でもサングラスが必需品になった。

 先輩は、12月から郵便配達のアルバイトを始めたと言う。
それで「雪目」になった。

 私は、それまで冬限定の郵便配達のアルバイトが
あるなんて知らなかった。

 私の大学は、北海道の小都市にあった。
鉄道の要所として、石炭産業が盛んな時代は、
活気ある町だったらしい。

 碁盤の目のように整備された街並みを外れると、
そこは広大な平野がどこまでも続く田園地帯だった。
 冬は、道内有数の豪雪地であった。

 当時、雪のない季節、
広い水田地帯に点在する農家さん宅の郵便物は、
局員が赤い自転車で配達した。
しかし、いったん雪が積もり始めると、
自転車は用をなさず、徒歩の配達となった。
 自転車に比べ、2,3倍の人手が必要になった。
そこで、学生アルバイトなのである。 

 学生の有志が、後期のカリキュラムを工夫し、
週2,3日その仕事をした。

 私は、翌年、後期だけでなく、
1年間のカリキュラムをしっかりと工夫し、
そのアルバイトをすることにした。

 12月から3月まで、週3日の勤めだった。
確か1日千円の日当だったと思う。
 学生は、月1万円もあれば暮らせた時代だ。  

 真冬の雪道を、その日配達する郵便物と、
下宿先で作ってもらったお握り2個を、
郵便局のマーク入りのリックに背負い、配達して回った。

 雪目防止のサングラスが必要な好天ばかりではなかった。
時には、途中から天候が急変することもあった。
 だが、暴風雪警報でも出ない限り、
中止になることはなかった。

 2月末だったと記憶している。
天気予報がはずれ、
市街地から田園地区に入ってすぐ、吹雪になった。
 いつか回復するだろうと思い、配達を続けた。
判断が甘かった。

 吹雪は衰えず、しばしば、今で言うホワイトアウト状態になった。
進む方向が分からなくなり、立ち止まった。
 
 朝9時過ぎに郵便局を出た。
毎回、同じコースを歩き、
その道に点在する農家さん宅の郵便受けに、手紙等を入れた。
 新聞も郵便物として夕刊と朝刊を帯封したものを届けた。
帰りは、リックが全て空になり、
局に2時半から3時には着いた。

 ところが、荒れに荒れたその日、
5時を回っても局に戻れなかった。
 初めて体験する大自然との、真剣勝負だった。
肉体的な本当の過酷さを体中が感じた。
 すごく怖い時間が、何度も何度も私を襲った。

 辺りが全て暗くなってから、
ようやく郵便局に戻ることができた。
 もう誰もいないだろうと集配室の扉を押した。
部屋の温かさが、急に私を包んでくれた。
 口数の少ない係長さんが一人、いつもの席にいた。
 
 さっと立ち上がり、
ただぼう然と立っていた私に歩み寄り、
「大変だったね。」と、2度3度と肩を叩いてくれた。
 それまでの緊張が一気にほどけた。
近くにあった椅子に、崩れるように腰掛けた。
「助かったんだ。」と、うな垂れた。
 係長さんは、私の全身についた雪をはらい、
無言で席に戻った。

 翌日も元気に郵便局に行った。
打って変わって無風、雲一つない快晴だった。
 新雪の照り返しが激しく、サングラスで雪目対策しながら、
定まりの時間に、定まりの雪原の一本道を進んだ。

 こんな日は、心が軽かった。
一軒一軒の郵便受けに投函して回る。
それだけなのだが、楽しかった。
 「昨日はこの辺りで方向を見失った。」などと、
思い出したりしながら、少し道から外れた木陰で、
昼食のお握りを2個食べた。
 お茶替わりに、その辺の新雪を口にした。

 それは、食べ終え、再び一本道を進みはじめ、
まもなくのことだった。

 ゆるくカーブした右手に、長い私道があった。
3、400メートル先に、防雪林に囲まれた農家さん宅があった。
毎回、新聞の郵便があった。

 その日、その私道の曲がり角、
一本道の脇で、男性が私を待ち構えていた。
 私を見るなり、突然言った。
「昨日もあんたが、配達に来たのか。」

 そうですとうなずく私に、
「今日から、郵便受けはここにしたから。」
と、言った。
 指さす方を見ると、太い白樺の幹に郵便受けが、
くくりつけられていた。

 「いいんです。今まで通りで。」
そう言う私に、
「いいんだ。大変だから。
昨日みたいな日もあるから……。無事でよかった。」と。
 「ありがとうございます。」
そう言うのがやっとだった。

 飾らない一つ一つの言葉と、白樺の郵便受けが、心に浸みた。

 私の郵便配達は、翌年も続いた。
2年とも同じコースだった。
 白樺の郵便受けに、毎回郵便物を入れた。
そのたびに、その郵便受けにそっと触った。
 広い雪原にたった一人の私を、温かい気持ちにしてくれた。




収穫の時が来た 秋蒔き小麦の畑
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私の保育所くらしから

2016-07-15 22:13:49 | あの頃
 『私の記憶する中で、一番幼く、
そして今も深く刻まれていることを書きます。

 3歳の頃です。
父は、ある事情から急に勤めをやめ、
生活に苦しみ、魚の行商を始めました。
母も一緒に慣れない商売に精を出しました。

 3歳の私は、父と母のひくリヤカーの隅に陣取り、
「おばちゃん、きょうの魚、おいちぃよ。いっぱい買って。」
「あら、坊や、美味しそうね。いくらなの?」
「えっ、ぼく、売れないよ。お魚じゃないもん。」
と、元気がよかったそうです。

 しかし、北国の夏は短く、
次第に寒さに向かっていく中で、
父も母もいつまでも
私をリヤカーに乗せておけないと悩みました。

 夕方遅く、暗い夜道を幾度となく私をつれて、
民生委員さんのお宅へ頭をさげに行きました。
 当時、私の住んでいた町では、
3歳児を保育所で預かる制度がありませんでした。
しかし、父も母も必死で頭を下げ続けました。

 私は、10月の初雪の頃、
特例として保育所への入所が許されました。

 玄関まで母につれられてきましたが、
先生に幾度も頭を下げて去って行く母を、
私はじっと見つめていました。
そして、こぼれ落ちそうな涙を、
両手の甲で思い切りぬぐったと言います。

 遊戯室でたくさんのお兄さんお姉さんに紹介されました。
その後、みんなはオルガンに合わせて、スキップをしました。
 私は、その部屋の隅で、
大きな椅子に足をぶらつかせて座っていました。
オルガンを弾きながら、
「わたるちゃんも、スキップしてごらん。」
 先生は、すんだ声で言いました。

 全員の目が私を見ました。
私は、みんなと同じように跳びはねようとしました。
 しかし、3歳の私にはそれができませんでした。

 私は、体全部の声をはり上げて泣きました。
そして、「お家に帰る。」と言って泣きやみませんでした。

 いつまでも泣き続ける私を、
先生はとうとう家まで手をひいて行ってくれました。
 「ほうら、お家には誰もいないでしょう。
保育所に帰りましょう。」
 そう言う先生に、
私はただうつむいて動こうとしませんでした。

 私はひとり、誰もいない鍵のかかった玄関前で、
母の帰りを待つことになりました。
 先生は、小走りに帰ってしまい、
涙をぬぐった私は、
今にも雪の落ちそうな鉛色の空の下で、
ひとり膝をかかえて、玄関前から動きませんでした。』

 上記は、私の教育エッセイ『優しくなければ』に掲載した
「一番幼い記憶」と題する一文である。

 3歳の私が、様々ないきさつを経て、
保育所デビューした、その日の出来事である。

 今さらと思われるだろうが、
私の原点の一つが、ここにあるように思える。

 新しいものにチャレンジする時に、
必要以上に身構えてしまうこと、
失敗への恐れに至っては、
並大抵のものではないこと等々は、
この出来事が出発点になっているように思う。

 玄関前で母を待ち続け、涙も枯れてしまった昼過ぎ、
ようやく母の姿を目にしたあの瞬間、
大きく息をはき、
体中の力が全部抜けてしまったような感覚だった。
それは、今も身体が覚えていて、忘れようとしない。

 両親は、我が子をおいていった保育所に、
怒ろうとしなかった。
「特例を取り消されては。」と考えたからだろう。

 理不尽さを不問にしたまま母は、
「明日は、途中で帰るって言わないんだよ。」
と、温かく私を抱き寄せながら、
目を真っ赤にしていた。
 私は、涙はもう無いはずなのに、
「わあぁ。」と大声をだし、
冷たい体で母につかまった。

 翌日から、グズグズとして、
中々保育所に行こうとしない私を、
小学生だった姉が強引に連れて行った。
 母に言われたとおり、
二度と途中で帰ると言い出すことはなかった。 

 私は、当時としては、
誰よりも長い保育所くらしを経験した。
 3歳から6歳まで、あいまいだが、
いくつかの記憶が、今も残っている。
 先日、何気なく思い出したエピソードを2つ追記する。
いずれも、どこかで私を形成する動機になっている
気がしている。


   1 ドーナツ

 当時、保育所に通う子どもが、何人いたのか知らない。
 毎朝だったと思うが、遊戯室に全員が集められ、
朝会のようなものがあった。
 年々、その列の位置が左から右に移り、
年長になると、一番日差しがいい所に並んだ。
 早くそこに並びたかった。

 体が小さい方だった私は、
いつも前から3,4番目に並んでいた。
 だから、後ろにどれくらいの子が並んでいたのか分からなかった。
当然、人数の検討などつかなかった。


 毎朝、所長先生が前に立ち、お話をした。
一つとしてお話は思い出せない。
全くお話しに関心がなかったからだろう。
ただ、「じっとしていなければ。」と思っていた。

 ある朝、近くに立っていた子が隣りの子をつつき、
ささやくような声での言い合い始まった。
 すると、突然、所長先生が怖い声で、
「お話を聞きなさい。」と二人をにらんだ。
私は縮み上がった。 
 怖さが倍加した。お話が終わるまで、ただただ固まる日が続いた。

 所長先生は、いつも黒いスカートをはいていた。
金縁メガネをかけ、長い髪を後ろでしっかりと束ねていた。
 背筋がすっと伸び、メガネと同じ色の金歯を時々見せながら、
お話をした。
笑った顔など見たことがなかった。

 ところが、ある日、その怖い怖い所長先生が、
おやつにドーナツを作ってくださると聞いた。
 当時は、まだまだ食料事情が厳しい時だった。
私はドーナツを知らなかった。
 先生や友だちの話を総合すると、砂糖のついた甘いお菓子で、
輪っかの形をしたものだと理解した。

 午後、所長先生が遊戯室の隣の調理室へ入って行った。
その日、私は風邪気味で内遊びだった。
 数人の友だちと、
恐る恐る遊戯室からガラス越しに調理室を見た。

 怖い顔の所長先生が、大きな丸い器で粉をねった。
それを、ちぎって丸めてから、その真ん中をくりぬいた。
 「あれ、ドーナツだ。」友だちが指さした。

 所長先生は、油の入った鍋に、
輪になったドーナツを次々と入れた。
 沈んだドーナツが、きつね色になって浮かんできた。
私は、まばたきも忘れたように、油に浮かぶドーナツを見た。

 その時だった。
調理室の所長先生が、私たちの方に顔を上げた。
 メガネの縁がキラッとした。怖いと思った。
息が止まりそうになった。

 突然、所長先生がニコッとした顔をした。
口元の金歯が見えた。笑った顔を初めて見た。
 油の鍋から、きつね色のドーナツを箸ですくい上げ、
私たちにかざして見せた。
 やさしく微笑んだ顔だった。
また、息が止まりそうになった。

 おやつの時間、
きつね色のドーナツには砂糖がいっぱいついていた。
 一つずつドーナツが配られ、
声をそろえて所長先生にお礼を言った。

 所長先生は、いつもの怖い顔に戻っていた。
でも、はじめてのドーナツと一緒に、
あのやさしい所長先生の顔は、私の心にしっかりと刻まれた。

 6歳で保育所を去る日、
所長先生は相変わらず怖い顔で、修了証を私に差し出した。
 私は、あのドーナツの日を思い出し、
ニッコリとして、それを受け取った。
 その時、目と目が合った。
所長先生は、調理室と同じ顔をした。

 ドーナツが話題になると、所長先生を思い出すことがある。
人は誰でも優しいんだと信じた。その第一歩だったのかも。


 2 サンタクロース

 クリスマス会なんて、前年までなかったのに、
急に遊戯室にクリスマスツリーが飾られた。
 「トナカイがひくソリに乗って、
明日サンタさんがやって来ます。」
 先生は明るい声で言った。
それまで、クリスマスと言う言葉さえ知らなかった。

 「遠い遠い国から、真っ赤な服を着て、
白いヒゲのサンタクロースが、
大きな袋に沢山のプレゼントをつめてやってくるんだ。」
友だちが、得意気に教えてくれた。

 次の日、保育所の全員が遊戯室に集まった。
クリスマスの音楽らしい曲が流れていた。
 いつしか鈴の音と共に、サンタさんがやってきた。

 教えてもらった通りの格好で、重たそうな袋を肩にし、
ふらふらとふらつきながら、私たちのそばまで近づいた。
 何やら不思議な言葉を遣った。
その言葉と真っ白な長いヒゲから、遠い遠い国の人なんだと思った。
私の心も普通ではなくなった。

 一人一人に、分からない言葉を言いながら、
プレゼントを手渡してくれた。嬉しかった。
わざわざ来てくれたんだと思うと、さらに嬉しさが増した。
 サンタさんもクリスマスも大好きになった。

 やがてサンタさんが帰り、会は終わった。
その後、全員で記念写真を撮ることになった。
 用意されたひな壇の位置に、みんな着いた。

 私はたまたま最前列の端に座ることになった。
そして、私の横に椅子が一脚用意された。
 いつの間にか、帰ったはずのサンタさんがそこに座った。
私は、混乱した。
そして、さらに混乱は続いた。

 先生がサンタさんに小声でこう言った。
 「今日は、ありがとうございます。
子ども達、大喜びです。」
 すると、サンタさんも、私にも分かる言葉で、
「それは、よかった。うまくいきましたね。」
と、明るく応じた。

 その後も、二人の会話はしばらく続いた。
 私は、ただただビックリして、
二人の顔をキョロキョロと見続けた。
 そして、私は気づいた。
白いヒゲで覆われたサンタさんの目元に、
見覚えがあった。声も聞き覚えがあった。
 よく行く酒屋のおじさんだと気づいた。
 急に胸の膨らみがしぼんだ。

 「サンタさんは、ニセ物だ。」
私は誰にも言わなかった。

 翌日、先生が
「来年もサンタさんが来るといいね。」と言った。
みんなの歓声とは別に、私はじっと下を向いていた。

 楽しそうなみんながうらめしかった。
一人蚊帳の外にいる寂しさを知った。
「先生のウソつき。」
そっとつぶやいた。 




 いつもの年より 大きな栗の木は 花盛り
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教職の素晴らしさ

2016-07-08 22:18:42 | 教育
 このブログを始めて2年が過ぎる。
この間、100を越える思いを綴ってきた。
 勝手だが、今や大切なライフワークとなっている。
それにしても、さてさていつまで続けることができるやら。
 どんなことでも、先々には不安がついて回るものだ。

 ブログを始めてすぐ、その年の8月末だが、
『小学校教師のモチベーション』について書いた。
 意外にも、このページへの訪問者が多く、人気がある。

 私は、この末尾にこう記した。
 『小学校教師とは、
「子どもへの熱心な働きかけが、
はるか先、いつか必ず実を結ぶ。」
そう確信できる人に与えられる仕事だ。』
 この時はあえて、小学校教師と強調したが、
このことは教育にたずさわる全ての教師に言えることである。

 ところで、ここ数年、欠かさず見ている朝ドラであるが、
つい先日、『トト姉ちゃん』の戦後編に、こんな場面があった。

 終戦直後の大混乱と貧困の中、
常子は女学校時代の親友と再会した。
 そして、その親友の家庭を訪ねた。

 ものすごく裕福だった親友は、戦争で父も夫も亡くし、
母と幼子と3人、粗末な間借りでの、貧しい暮らしをしていた。

 だが、その最低とも言える貧困の中で、
親友は、女学校の恩師、東堂先生から教えて頂いた、
平塚らいてうの本『青鞜』を、宝物のようにしていた。
 その一節、「原始、女性は実に太陽であった。
真正の人であった。今、女性は月である。」を支えにし、
いつか「私も太陽に」と、自分を励ましていると聞いた。

 私は、このシーンに心が動いた。
改めて教職の素晴らしさを感じた。

 東堂先生が、熱い思いを込めて語った平塚らいてうの言葉。
それをしっかりと受け取った教え子。
 そして、今の苦難の日々を、
その言葉をかみ締めながら生きている姿。

 そこに、教師の存在する価値があると、
語っているように思えたのだ。
 しかし、親友のそんな思いは、東堂先生には届かないだろう。
 それでも、教師は、
きっと誰かの何かを支え、励ますと信じ、
今日も、熱い思いを語り続けているのである。
 もう一度強調したい。
教師とはそういう存在なのである。

 しかし、そんな教師の足下を見てみよう。
若干、古いデーターになることを許して欲しい。

 ベネッセの調査によると、
2010年の小学校教師の平均睡眠時間は、
5時間51分であった。
 日本人有識者の平均に比べると、
1時間4分も少ない。
 毎日、7時36分には出勤し、19時5分に退勤する。
実に平均11時間29分も学校にいる。

 これだけでも、多忙さがよく分かる。
私も私の同僚たちも同様の日々を送った。
 なんとかそんな多忙さから、
少しでも解放してあげたいと願っている。

 また、同じ調査で、教師の7割以上が、
次の5つを悩みとして上げている。

 ① 教材準備の時間がとれない。
 ② 作成する書類が多い。
 ③ 教育行政が学校の状況を把握していない。
 ④ 特別支援が必要な子どもへの対応が難しい。
 ⑤ 休日出勤や残業が多い。

 これは、多忙さと共に、それに対する行政の理解不足、、
さらには、直面している教育課題を示している。
 まさに、忙しさの中で苦悩する姿、そのままである。

 しかしである。そのような中にあっても、なお、
多くの教師が、このような『教職の魅力』を上げている。

 ㋐ 子どもと喜怒哀楽をともにできる。
 ㋑ 子どもとともに成長できる。
 ㋒ 社会を支える人を育てることができる。
 ㋓ 子どもの成長にかかわれる。
 ㋔ 専門知識や経験をいかせる。

 教師の宿命なのだろうか。
日々、子どもとの関わりの中で、
「できた」「分かった」「やってみたい」「教えてほしい」
「うれしい」「悔しい」等々の、生き生きとした声を聞き、
成長する子どもの姿を、目の当たりにできることは、
実に楽しいのである。
 これが、教師にとって、意欲の源泉である。

 だから、そのためにと、教師は、
自分の持てる力を存分に生かしたり、
自らを高めようしたりするのである。

 そして、そんな日常の営みが、
子どもや社会の未来を形成する行為に、
繋がっていることを、教師は十分に認識している。
 『教職の魅力』にある「社会を支える人」
「成長にかかわれる」の言葉から、
それをくみ取ることができるだろう。

 つまりは、『学校は子どもの未来のためにある。』
そのために、教師は毎日汗をかき、
子どもとともに歩む歳月を喜びとしている。
 これもまた、教職ならではの素晴らしさであろう。

 本稿の結びに、昨年某紙の投稿欄にあった
『小学校で討論の仕方を学んだ』を付す。
 教職の素晴らしさを語る一文である。

 『私が小学校4年生の時だ。
担任の先生は、常にきちんと意見を言うことを求めた。
内向的だった私にはしばしば苦痛だったが、
その1年が自分を大きく変えたと思っている。

 学級会では、先生指導のもとに児童の手でレジュメが作られる。
議題、提案、大前提、小前提、質問、賛成意見、反対意見、
結果といった欄がある。
議長は回り持ちで、事前に会議の仕方を学ぶ。
あくまでも公平な議事進行を求められる。
全員が、どんな意見でも尊重することを学んでゆく。

 議題は様々で、1個しかないドッジボールを
どう公平に使うかなどを話し合った。
最初はぐたぐたしていた学級会が、そのうち整然としたものになり、
子ども達の意見発表も活発になっていった。
対立しても、後まで尾を引くことはなかった。
感情的になってしまうこともあったが、
ワンクッション置いて考える習慣を持つことができた。
担任の先生の思いのこもった指導だったのだろうが、
その後の人生で本当に役立った。≪略≫      53才・女性』
 


 

 街路樹のヤマボウシ 今が満開
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ああ 思い込み

2016-07-01 22:04:15 | 出会い
 (1)
 ここ数日、伊達は海霧が発生している。
聞くところによると、
北海道や千島列島等の夏に見られる自然現象らしい。

 快晴なはずなのに、濃い霧に海も山も街も包まれる。
どうやら海霧は、音までもさえぎるようで、
全てが静寂に覆われた感じがする。
 それはそれで、私の好きな伊達のワンカットである。

 この霧は、海の良質なミネラルを
大地に運んでくるとか。
この適度な湿り気が、農作物の生育にはいいらしい。

 地元では、「ガス」と言い、
「今朝は、ガスが濃いね。」等と、
朝の挨拶代わりにもなる。

 当然だが、海霧の朝は、風がない。
私にとっては、最高のジョギング日和である。
 こんな日は、10キロを走ることにしている。
 
 さて、本題の『ああ 思い込み』に移る。

 最近、本州からも「熊出没」のニュースが頻繁に届く。
しかし、北海道ではこの時期、
毎年このニュースがテレビ、新聞を賑わす。

 数年前には、札幌郊外の住宅地にも、熊が現れた。
北海道最大の都会にして、その有り様である。
 道内では、いつどこに出没しても、
おかしくないのだ。

 この伊達でも、我が家から徒歩30分程度の、
山の中腹で『熊出没注意』の看板を見たことがあった。

 「もしも熊に出会ったら、決して熊を刺激せず、
一歩一歩後ずさりをして、遠ざかるように。」。
 ニュースキャスターはそうしきりに言う。しかし、
「そんなのは無理なこと。でも、命がかかっていたら、
それが唯一の逃げ道と思ったら、やれるかも。」
 そんな自問自答をしてみたりもする昨今である。

 ある朝、同じようなニュースを聞いた後、
ジョギングに出発した。
 海霧が発生し、周りの山々が霧に隠れていた。
まだ車がまばらな舗装路と、
静かな畑道をゆったりと走った。

 私は、市内に10キロのコースを4つ設定している。
この日は、「O牧場コース」と命名している道を走った。
 8キロ走ったあたりで、O牧場の脇を走り抜けるのである。
 
 S字にくねった舗装路の緩い上り坂の先に、
O牧場の腰折れ屋根の牛舎はある。
 私が走る道とその牛舎の間には、
何段にも積まれた牧草ロールと牧草地があった。
 辺りに民家はなく、畑とビニルハウスだけがある。
 
 その日、S字を曲がり終えると、
うっすらと海霧に包まれたO牧場が見えた。

 緑色の牛舎と真っ白な牧草ロールの山が、
霧にぼやけていた。

 そこでだった。
 手前の牧草地の端に、
こげ茶色をした四つ足の動物が、ま横を向いていた。

 熊出没のニュースが、脳裏をよぎった。
「エッ。熊!」
足がもつれそうになった。

 「こんなところに、熊が。いや、そんな訳ない。」
そうは思うものの、
「いつ、どこで出会っても…。」と。
 「このまま、走って近づくのは危険だ。」
動悸が大きくなった。

 「霧でよく見えない。」
「熊のようだ。いや、そんなはずない。」
「しっかり見てみよう。
そのためには、もう少し近くまで。」

 何げなく走りつつ、O牧場の脇まで行くと決めた。
「もしも、本当に熊ならどうする。」
 そんなことを思いつつ、
霧の中のごげ茶色をじっと見ながら走った。

 「熊か。熊か?」
「そんなはずない。」
「大きさは確かに……。」
「色も確かに……。」

 霧が少しだけ晴れた。
「うーん?熊にしては足が長いぞ。足、細い!
なに、尾っぽが。」

 「熊じゃない。何だ。なんだ。あれは?」
もっと近くまで、走った。
「ポニー、じゃないか。」

 そのまま、いつも通り、
コースを走り抜け、帰宅した。
 家内に、そのままを報告するも、
あの緊迫感が伝わらない。 

 ちょっとイライラしながらも、
「ああ、思い込みでよかった。」
そっと胸をなで下ろした。


 (2)
 2つ目は、「熊出没」とは全くかけ離れた
『ああ 思い込み』である。

 私は、再任用校長を退いた後、
1年間だけだが、区教委の教育アドバイザーとして、
若手教員を育成する仕事をした。
 そのため、某小学校の一角にある教職員研修室に、
週4日出勤した。

 そこは、JR駅からバスで10分、
徒歩なら25分の所にあった。
 私は、健康のためと称して、往復を徒歩にした。

 駅から10分も歩くと、川を改修した親水公園があった。
朝夕の徒歩通勤には、とても快適な道だった。

 その思い込みは、駅から親水公園までの、
人通りの多い駅前通りでのことだった。

 通りの両脇には、大きなホテルやコンサート会場、
そして反対側には、コンビニや美容室等が軒を並べていた。
 その1つに、定食を主とした
24時間営業のレストランがあった。
 私は、毎朝、その店の前を定時に通過した。

 その時間に、必ず、そのレストランに入る女性がいた。
どちらかと言えば、地味な服装の中年女性で、
いつも同じ手提げ鞄を持っていた。

 私とは反対方向から来て、その店のドアを押した。
いつ頃からか、しっかりと顔も覚えた。
 物静かで、まじめな感じがした。

 毎朝同じ時間に、その店に入っていく様子を見て、
「ここで朝食を済ませてから、どこかに出勤するのだ。」
と、理解した。
 ちょうど、女性が一人で朝食をとるのにふさわし感じの、
明るいレストランだと思った。

 そんな朝食習慣も、大都会での一人暮らし女性には、
珍しくないパターンなのだろうと納得した。

 しかし、それにしても毎朝同じレストランに通い、
いったい何を食べているのだろう。
 私にとっては、全く関わりのないことだが、
通勤の道々、時にはそんなことを思いつつ、
歩を進めていた。

 半年以上も過ぎた日だった。
 丁度お昼時だっただろうか。
出張からの帰り、珍しくそのレストランの前を通った。

 何気なく、大きなウインドー越しに、
レストランの中を見た。
 すると、そこに毎朝見るあの女性の姿があった。
ビックリして歩を緩めた。

 その女性は、ウインドーのそばのテーブルに近づき、
手に持っていた器をテーブルに置いた。
 「なに、彼女はお客ではなかったのか。」
「ここの、ウエイトレスだったのか。」

 だから、毎朝、同じ時間に店に入ったのだ。
朝食のための入店ではなかった。
出勤だったのか。

 勝手に独身女性の朝食習慣とばかり。
何という勝手な思い込み。
ほどほどにしなくてはと恥じた。


 ◆ 私の人生、(1)や(2)だけでない。
 いろいろと、『ああ 思い込み』が多いように思う。
まったくもって「トホホ…」である。





 ジューンベリーの実が赤くなってきた 
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