ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

私の知る 『銀 座』

2018-07-28 16:30:20 | あの頃
 高校の修学旅行で、観光バスの中から銀座を見た。
男は背広にネクタイ、女はハイヒールを履いていた。
 「ここは、皆さんおしゃれをして歩くんですよ。」
バスガイドの言葉を聞きながら、
ゆったりと歩を進める人々に、物珍しい視線を投げていた。

 東京に勤務してから、時々だがその銀座に足が向いた。
まさに「お上りさん」だ。
 大きな街である。私が知る銀座は、わずか。
その思い出の一部を記す。


 1、『千疋屋』

 教員になって初めての夏、帰省した時だ。
東京暮らしに話がおよんだ。
 その時、父から『千疋屋』の名前を聞いた。

 若い頃、東京で働いていたとき、
「一度でいいから『千疋屋』に行ってみたかった。」
 懐かしそうに、辛く貧しかった当時を振り返り、
そんなことを言った。
 以来、銀座通りのその店先を通る度に、父を思い出した。

 東京に勤務して4年目の夏、長男が産まれた。
父は、大喜びした。
 1か月を待って、東京の夏は暑いからと、
北海道に母をおいて、1人で孫の顔を見にきた。

 当時の同僚達が、そんな父を囲んでと、
上野公園近くに、酒席を設けてくれた。

 都心に足を伸ばしたついで、
若干早めに自宅を出て、銀座に父を案内した。
 目当ては、『千疋屋』。

 父と私、男2人で、
『千疋屋』2階のフルーツパーラーで向かい合った。
 酒好きの父が、私の勧めに応じて、
メロンジュースをストローで飲んだ。
 私も同じ物を注文した。

 「これは美味いもんだ。」
私も同感だった。
 それ以上に、父の満足そうな顔が嬉しかった。

 2人で向き合ったあの席は、今も私の記憶にある。


 2、『夢屋銀兵衛』

 都心区の小学校に勤務していた時だ。
出張帰りに、よく立ち寄った美味しいコーヒー店があった。
 通りから直接階段を下りた地下1階だった。

 その日も、その喫茶店が目当てだった。
行ってみると、店の構えが変わっていた。
 喫茶店ではなく、レストラン風だった。

 通りに面した階段口に、店の案内があった。
無国籍料理『夢屋銀兵衛』となっていた。

 「無国籍」にも目がいったが、
店名『夢屋銀兵衛』に興味が湧いた。

 一緒だった同僚らを誘い、
若干早い食事をと、入店した。

 驚いたことが2つあった。
まずは、メニューが1つだけで、前菜に始まり五品程のコースで、
しめがデザートだった。

 もう1つは、飲み物のコースターだ。
丸い厚紙製のそれには、
『夢』の文字が大きく書かれていた。

 和洋おりまぜたそのコース料理は、
若干高級感があり、それなりの値段だった。
 それよりも何よりも、
私は店名とコースターの『夢』が気に入った。

 以来、その店が同じ銀座内に移転しても利用した。
友人が、校長職に就いた時も、
大先輩が退職後、再び公職についた時も、
その店の、ワンメニューを楽しみ、
『夢』のコースターにのったグラスで乾杯した。

 最近では、もう4年も前になるが、
結婚した息子を囲んだ家族だけの祝宴にここを選んだ。


 3 『博品館』

 小学校と同じ敷地内にある幼稚園の兼任園長を務めた。
毎月、『お誕生日会』があった。

 前回紹介したが、その会で誕生月の園児と『ダッチャン』が握手をした。
それに加え、最初の4月、園児達に手品をして見せた。
 これが、予想以上に好評だった。
次の月も是非やってほしいとなった。

 手品のネタは、いくつか持っていた。
しかし、半年もしないうちに切れてしまった。
 同じ物を2度やるわけにはいかない。
「園児達の期待に、何とか応えなければ・・」
 困った。

 休日に、銀座8丁目のおもちゃ店『博品館』へ、
出掛けてみた。

 その店の4階には、手品用品が売っていた。
それだけではなかった。

 プロのマジシャンが、その商品をつかって実演し、
さらには使い方まで伝授してくれるのだ。

 私が、幼稚園児に見せたいと伝えると、
簡単で、驚きのあるものをいくつか取り出し、
手品の手ほどきをしてくれた。

 簡単にできそうな物や若干練習が必要な物があった。
3つ程、買い求めた。
 ひと月に1つずつ披露すれば、3か月分になった。

 それを使って演じ終えると、再び『博品館』へ足が向いた。
次第に、マジシャンと顔馴染みになった。

 「トランプを使ったカード手品だって、
十分、幼稚園児に通用します。」
 そんな誘いに乗って、トランプマジックにもチャレンジした。
若干手こずったが、結果は大成功だった。

 それをマジシャンに報告すると、
「では次はこれを」と、次々と新種の手品を勧めてくれた。

 今、我が家の物置には、
大きなケース箱に沢山の手品グッズがある。
 月1回、5年間にわたる私の財産である。
その多くは、『博品館』で手に入れた。


 4 『キリンシティ』

 もう30年も前になるだろうか。
首都圏の主要駅の周辺や駅ナカに、『キリンシティ』があった。

 主にキリンビールを提供するビヤホールと言っていいだろう。
私は、その店の『キリンブラウマイスター』という銘柄の生ビールが大好きだ。

 その生ビールに限らないが、
この店では、注文した1杯の生ビールが出てくるまでに、
他店より随分と時間がかかった。

 それは、ワイングラスのように足の長いグラスに、
2度ならず3度に分けてビールを注ぐからなのだ。

 だから、運ばれたビールの泡がフワリと柔らかい。
口当たりがたまらなくいい。
 その味に惹かれ、帰りの電車をよく途中下車した。

 ところが、各駅から年々『キリンシティー』が姿を消した。
退職の頃、私が知っていたのは、銀座店だけになっていた。

 今も、東京に行く機会があると必ず足が向く。
以前のように何杯もおかわりなどできない。

 その分、料理のメニューに目が行く。
さすが銀座だといつも思う。
 洒落たビールのお供がいっぱい。
その上、旬の食材を工夫した新しいものも、食欲を誘う。

 さて、今度行けるのはいつになるのだろう。
『キリンブラウマイスター』と、それにあう料理がいい!
 



   トウモロコシ畑 花盛り
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『ダッチャン』の パワー

2018-07-20 22:05:19 | 出会い
 ▼ 顧問をしている東京都小学校児童文化研究会では、
毎年『東京都小学校連合学芸会』を開催している。
 第54回になる今年は、12月20日(木)に、
オリンピック記念青少年総合センターカルチャー棟大ホールで、
行うことになっている。

 都内の区や市を代表し、8~10校の児童が舞台狭しと、
渾身の演技を披露する。
 毎回、演じる者、観る者、それぞれに感動がある。
学校内では得られない貴重な体験だ。
 多忙を極める学校であるが、
このような機会を決して絶やさず、今後も継続してほしいと願っている。

 さて、取り組み方に違いはあるが、大阪では
毎年2月に『大阪市こども演劇フェステイバル』が行われる。
 これは、私たちの研究会と繋がりが深い
「大阪市小学校学校劇と話し方研究会」と、
大阪市立こども文化センターが主催している。

 校長になってから、何度か大阪まで行った。
そして、大阪の子ども達が演じる劇に見入った。

 ある年、ベテランの女性教員が、司会進行をしていた。
大阪弁を巧みに遣い、会場を盛り上げていた。

 その上、参加者を明るい雰囲気に包みこむ秘策を、
彼女は持ち込んでいた。
 それは、なんとも愛らしい動物のつり人形だった。
 
 その人形を片手に彼女が登場するだけで、
会場は静まり、和やかな空気が流れた。
 つり人形の仕草が、すごくかわいい。それに目がいった。
そして、彼女の話にうち解け、みんな笑った。

 「素晴らしい」。
感激と共に、「これを取り入れたいなぁ。」と思った。

 ▼ その年の夏休みだった。
母の墓参りを済ませ、
その後、当時観光地として脚光を浴びていた小樽へ足を伸ばした。
 人で賑わうお土産屋街を歩いた。

 ある土産店の前で、呼び込みをする店員がいた。
何気なくその手元に目がいった。
 思わず声をあげそうになるくらいだ。

 両手に、ダチョウの子どもと小さなラクダのつり人形を、
ぶら下げていた。
 思わず駆けより、店員に言った。
「そのつり人形、ほしい!」

 大阪で司会の女性が手にして人形とは違う。
でも、愛らしさは負けてなかった。
 きっとその店員が愛用している人形に違いない。
私は、旅のついでとばかり、無理を承知で店員に頼んだ。

 店員は、人形をあやつりながら、あっさりと応じた。
「店の階段を2階まで上がったところの左棚にあります。
まだ、1つか2つなら残っていると思いますよ。」
 「売っているの!?」

 人をかき分けるようにして店に入った。
階段を駆け上がり、左の棚を探した。
 店員が動かしていたダチョウとラクダが一体ずつ、
それぞれビニール袋に収まっていた。

 高価でも構わないと思った。
でも、私の小遣いで買えた。

 ホテルに戻るとすぐに、人形を動かしてみた。
ダチョウは二本足だった。
 その足1本ずつと頭、計3本の糸でつながれていた。
ラクダは、4本の足と頭、計5本の糸だった。

 ダチョウは、すぐに思うように動いてくれた。
しかし、ラクダは、練習を重ねても、うまくいかない。
 5本糸には、ほとほと手をやいた。

 ▼ 夏休みが終わってすぐ、全校朝会があった。
「夏休み中に、素敵な出逢いがありました。
1日も早く皆さんに紹介したくて、この日を待っていました。」

 そう言い終えると、私は一度朝礼台を降りた。
そして、ダチョウの子どものつり人形を手にして、
再び登壇した。

 全校児童の目が、ダチョウの子どもに注がれた。
いつもは、無言で私の話を待つ子たちだが、
あちこちで指を差しながら、ひそひそ話を始めた。
 校庭のザワザワがしばらく続いた。
 
 何も言わず、壇上で、つり人形の足や頭を動かした。
シーンと静まり、全員の目が人形に注がれた。

 「ダチョウの子どもです。かわいいでしょう。
これからは、時々こうして皆さんの前に登場します。
 そこで皆さんにお願いがあります。
この子に名前をつけてください。」

 校長室の前にポストを置いた。
1週間を区切って、名前を公募した。
 毎日、10枚ほどの名前が投函された。

 複数枚だが同じ名前カードが、2種類あった。
『ダーちゃん』と『ダッチャン』だった。

 次週の全校朝会で2つの名前から1つを決めることにした。
「みんなの拍手が、大きかった方にします。」
 結果は、「ダッチャン」が圧倒した。
こうして、ダチョウの子どものつり人形に名前がついた。

 その年の秋、学芸会があった。
私は、ダッチャンをつれて、校長あいさつの舞台に上った。
 ダッチャンは、中央のマイクまで歩いて、私に着いてきた。
子どもからも保護者からも、大きな拍手と歓声があった。

 「ダッチャンも、みんなの劇を見て、
すごいすごいって声を上げていたよ。」
 そう言うだけで、子ども達の表情が輝いた。
保護者も笑顔笑顔になった。
 会場が沸いた。
ダッチャンは、一気に人気者になった。



 一方、ラクダのつり人形だが、練習の甲斐なく、
うまく動かすことができなかった。
 ずっと自宅の押し入れの中となった。

 ▼ 翌年、幼稚園が併設されている小学校へ異動になった。
4歳児と5歳児が通う幼稚園の園長を初めて兼任した。

 すべてに戸惑った。
まずは入園式だ。
 今までその式に列席したこともなかった。
園長としての挨拶がある。イメージがなかった。

 ダッチャンの力を借りることにした。
まずは、小学校の入学式同様、
最初に来賓への謝意と保護者への祝意を伝えた。
 その後は、入園児へのお祝いの言葉。

 「みなさん、こんにちは。
園長先生です。今日からみなさんはサクラ組さんです。
 楽しい楽しい幼稚園での毎日が、始まりました。
ご入園、おめでとうございます。
 みなさんの入園をお祝いして、お家の方やお客様も来ています。
嬉しいですね、
 実は、私のお友達も、みなさんのお祝いに来ました。」

 そこまで話して、私は演台の下から、
ダッチャンを取りだし、前へ進んだ。
 ダッチャンは、私と一緒に歩き、園児たちの前に立った。

 最初に、歓声を上げたのは、保護者と来賓だった。
そして、年長の園児、先生たちと続いた。
 入園児は、黙って見つめていた。

 ダッチャンは、
「仲よくしようね。」「ケンカはダメ。」
「名前を呼ばれたら、ハイだよ。」
と私を通して話した。
 その後は、私と一緒に園長席に戻った。

 翌日から、ダッチャンは幼稚園の人気者になった。
「今度は、いつ会えるの?」
 園児達から質問攻めにあった。

 そこで、次のことを思いついた。
幼稚園では毎月、『お誕生日会』がある。
 その時、ダッチャンが登場して、
お誕生日の子、一人一人と握手をするのだ。

 園児達は、自分の誕生日会を心待ちするようになった。
そして、ダッチャンが手(足)を差し出し、
握手してくれる時を、ワクワクしながら待った。
 
 その後の私は、ダッチャンのパワーを機会あるごとに借り、
小学校と幼稚園での日々を過ごした。

  



    小さな川べりに咲いていた
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あの1年があったから

2018-07-14 19:53:01 | 感謝
 教職に就いて15年目のことである。
昭和60年、36歳の時だ。
 私は、1年間学校を離れ、研修する機会に恵まれた。

 当時、東京都立教育研究所(都研)の心身障害教育研究室が、
4年計画で、『通常学級に在籍する心身障害児の事例研究』のテーマで、
研究所員、指導主事、教育研究生による共同研究を行っていた。

 その数年前、年度は違うが、自閉症のT君や、脳性マヒのYちゃんと、
通常学級で共に過ごした。
 2人からは、教師として沢山のことを学んだ。
その経験が生きる場があればいいと常々思っていた。

 共同研究のそのテーマを見て、これならと思った。
翌年の教育研究生に応募した。

 教員採用試験以来、久々の論文試験と面接試験にチャレンジした。
運良く3名枠の中に入った。

 通常学級の担任だった私の他に、
通常学校に併設されている心身障害児学級の男性担任と、
養護学校の女性担任が、その年度の研究生になった。

 毎日、目黒駅から徒歩数分、
大きな窓がある都研の心身障害児教育研究室に通った。
 そこで4人の指導主事と3人の研究生で過ごした。

 私にとって、その1年はすごく貴重な経験だった。
見方を変えれば些細なことだろうが、
あの頃の私には、新鮮で刺激的な数々だった。
 そのたわいもない、でも私が大事にした出来事を書く。


 ①
 教育研究生としての初日、辞令交付式のようなものがあった。
人数は、50人以上いただろうか、定かではない。
 研究所長さんなどの挨拶の後、
研究生を担当する指導主事によるガイダンスがあった。
 研究生の心得として、服装についてその指導主事は時間をさいた。

 「都研や各種研究機関に通うのだから、みっともない格好はよしましょう。
男性は背広にネクタイ、女性もそれに準じた服装が、
いいのではないでしょうか。」
 嫌みのない、さらっとした言い方だった。

 あの頃、1,2着しか背広を持っていなかった。
急いで、安価な既製品を2着ほど買い求めた。
 ネクタイも、数本調達した。

 1ヶ月もすると、ネクタイと背広にすっかり慣れた。
それまでのカジュアルな服装より、ずっとずっと便利だった。

 何よりも組合せが、限られた。
白いワイシャツ、ネクタイ、背広、それに黒の革靴、
それでいいのだ。

 以前は、毎日、ポロシャツやカラーシャツを選び、それにあったズボン。
各種チョッキかブレザー、ジャンパーをそれに合わせた。
 靴も紐皮靴やスニーカー等々から・・。
結構な時間がかかった。面倒だった。

 ところが、その負担が軽減された。
予想外に、楽なのだ。
 以来、その1年が終わっても、通勤はネクタイと背広に決めた。


 ②
 研究室では、よく電話が鳴った。
私のデスクは、研究生の中で一番電話機に近かった。

 電話が鳴ると、いつも4人の指導主事の内1人が受話器を取った。
研究室で数日が過ぎた。
 たまたま、女性のS指導主事が1人だった時だ。

 電話が鳴り、
私は気を利かせ、初めてその受話器を取った。

 「はい、都立教育研究所心身障害教育研究室です。」
「すみません。H先生お願いします。」
 「あのぉ、ただ今、席をはずしていますが、」
「そうですか。いつ戻られますか。」

 私には指導主事の動静は分からなかった。
「少々、お待ち下さい。」
 S指導主事に尋ねた。

 S指導主事は、私から受話器を取り、その電話に応じた。
そして、受話器を置くなり、強い口調で言った。

 「研究生の皆さんが、研究室の電話に出て対応できることは、
何もありません。
 どんな時でも、指導主事1人はこの部屋にいますから、
電話は取らないでください。
 ・・それから、『心身障害教育研究室です』ではなく、
『心身障害教育研修室でございます』ですよ。」

 痛烈だった。
「わかりました。申し訳ありません。」
 頭に血が上っていた。
しかし、言われる通りだった。

 ここは学校と違う。
上下関係が明確な場所だ。
 思い知った。

 一語一句にも気を遣い、過ごすことになった。
それが、後々私の役に立った。
  

 ③ 
 まだ給料の振り込みなどと言った制度がない時代だった。
毎月15日には、在籍校まで給料をもらいに行った。
 
 その機会に、1ヶ月分の研究等々の経過を管理職に報告した。
合わせて、忙しい先生方を捕まえては、職員室で歓談した。
 月1回、ちょっと肩の力が抜ける時間だった。
 
 何回か、そんな日をくり返し、気づいた。
それは、子ども達の声だった。

 時折、教室から聞こえてくる歓声もいい。
グループごとに何かを話し合っているような、
騒然とした声もいい。
 休み時間に校庭で遊ぶ甲高い声もいい。
友だちの頑張りを後押しする真っ直ぐな声援もいい。

 それまでの14年間、私は毎日、
そんな子ども達のエネルギーある声に囲まれてきた。
 その声と一緒が、私だった。

 その声と離れてみて、分かった。
子どもの声がいい。子どもの声が好きだ。
 その声のするところで、毎日を過ごしたい。
働きたいと強く思った。

 いつからか、翌年の4月、
学校に戻る日を心待ちするようになった。


 ④
 約1年間の研究成果をまとめる時期になった。
3月上旬の研究発表会が半月後に迫っていた時だ。
 研究室の指導主事から指示があった。

 「他の研究室の研究生は、発表原稿を棒読みするでしょうが、
あなた方3人は、ノー原稿で1人45分間の発表をしてください。」

 いつか講演などを依頼される時が来る。
その時、原稿の棒読みと言う訳にはいかない。
 原稿がなくても話ができる。
想いが伝えられる。
 今がそんな経験を積む好機だと言うのだ。

 当然、ノートパソコンも、パワーポイントも、
プロジェクターもない時代だ。
 OHPが研究発表の必要アイテムだった頃だ。
1人でOHPを操作し、マイク片手に発表するのだ。

 発表会の3日前、4人の指導主事を前にして、
リハーサルを行った。
 私は3番手だった。
1人目は、1時間半が過ぎても終わらなかった。
 2人目は、1時間15分かかった。

 「3番手は、45分の時間内でまとめてね。」
指導主事から檄がとんだ。
 私は、舞い上がった。

 1年間の成果を誇張して言い続けた。
なんと1時間半をはるかに越えた。
 真っ赤な顔でギブアップを告げた。

 指導主事4人は、無言でリハーサル会場を後にした。
残った3人で、昼食も忘れて練り直しをし、頭を整理した。

 残された時間と必死に格闘した。
3人とも追い詰められた。
 自分の発表で精一杯だったが、苦しい思いは共有していた。
夢中だった。

 だから、3人が、当日、45分の時間内で、
原稿の棒読みなどしないで発表を終えた時、
達成感と共に、小さな自信を得ることができた。
 掛け替えのない体験は、その後、様々な場面で生かされた。 


 ⑤
 1年間の研修を終え、都研を去る日がきた。
退所式のようなものがあった。
 その席で、研究生を担当した指導主事が、挨拶に立った。

 いつも研究生の気持ちを汲んでくれた指導主事だった。
最後に、彼がどんな話をするか、興味があった。
 少し前かがみになりながら聞いた。

 「教育研究生としての1年を終え、学校に戻ります。
この1年を決して無駄にせず、
頑張ってほしいと願っています。
 今後、皆さんが進む道は、3つの内のいずれかです。」

 彼は、その3つの道を説き、「どの道でもいいから」と強調し、
「この1年をその道で役立ててほしい」と結んだ。

 私は、彼が示した3つの道を記憶に留めた。

 1つ目は、日々自分の得意技を磨きながら、
優れた教育実践者として、目の前の子どもと歩み続ける。
 2つ目は、10数年後を目途に、教育的視野を広げ、
やがて1校のリーダーとして学校経営を行う。
 3つ目は、実践を通して自身の専門性を磨き、
指導主事として教育行政等で活躍する。

 それから数年後、私も3つの道のいずれを歩むか迫られた。
当然、子どもの声がする所で働く気持ちは揺るがなかった。
 実践者の道か、1校のリーダーの道かだった。

 蛇足だが、3人の研究生のその道は三様だった。
心身障害児学級の男性担任は、1つ目の道、
通常学級担任の私は、2つ目の道、
そして、養護学校の女性担任は、3つ目の道へ進んだ。 
 




    独特の匂い漂う 栗の花 
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住まいが 出来るまで

2018-07-07 17:22:23 | 北の湘南・伊達
 主にはご近所さんだが、時には遠方からも来客がある。
その方々から、住まいについて、お褒めを頂くことがある。
 そして、「どうやって、建てたんですか。」と質問される。

 伊達に住み始めてから6年になるから、その2年前のことだ。
その年の『夏、初めての伊達で見た、触れた、接した、聞いた
幾つもの景色と風と人と音が、私をここ(伊達)へ導い』てくれた。
(本ブロク2015.7.3「縁~伊達へ導く」より)

 中でも、宅地選びと住居建築については、
この時、地元S建設の方と知り合ったことが、幸運につながった。

 その方が紹介してくれた伊達市内のいくつかの宅地から、
「住むならここ」と直感した空き地があった。
 千葉に戻って数週間後、あそこなら購入してもいいと固まった。

 「契約のため、再び伊達に行くことになる。」
そう思うと、若干気が重かった。
 ところが、S建設の支社が千葉にあると言う。
知らなかった。ビックリした。めぐり合わせだ。

 だから、「出張で土地売買の手続きに行きます」。
その展開に、また驚いた。

 そして、宅地の契約が済んだ。
でも、自宅建築をはじめとした移住計画は決まっていなかった。

 ところが、年が明けてすぐだった。
突然、S建設の副社長さんから初めて電話があった。
 「千葉支社に来ています。
時間があったら、お目にかかりたい。」

 「次の土曜日なら」と、
家内と一緒に指定された県内の私鉄駅前へ行った。

 同年代の副社長さんだった。
挨拶もそこそこに
「近くに我が社のモデルハウスがあるので、そこへ・・」
と、私の車の後部座席に座った。

 和風の素敵な住宅だった。
「いい家でしょう。隅から隅まで見て下さい。」
 副社長さんの自慢気な口ぶりが頼もしかった。
やけに私の心を動かした。

 その家の造りに好印象を持ったが、それよりも
「この方なら、家造りを託してもいい」。
 これまた直感した。
「伊達の我が家は、副社長さんにお願いしようかな。」
  
 「一生懸命、やらせてもらいます。」
私の思いに、副社長さんは万歳をしながら、
表情を明るくした。

 その後は、副社長さんとメールでのやり取りが始まった。
まずは、設計である。
 家内と相談し、いくつかの要望を伝えた。
その第一は、様々なデコレーションは、きっと飽きがくる。
 なのでシンプルがいいこと。
次は、暖かい家であること。
 そして、部屋数、一部2階建て、駐車場、物置、玄関の位置など、
思いつくままを書き送った。

 副社長さんからは、
これからも使う家具とそのサイズなどの問い合わせがあった。
 すぐにでも移り住むかのような勢いになった。

 そんな時、兄弟から、
「どうせなら早く移って、暮らしに慣れた方がいい」。
 そんなアドバイスが届いた。
私は、そのままの勢いに乗ることにした。

 最終設計に入る前に、伊達で副社長さんと再会した。
直接設計プランの説明を受けた。
 部下1人を横におき、時間を忘れて熱く語り続けてくれた。

 プランには、私と家内の要望が反映されていた。
持ち込む家具の配置も組み込まれていた
 その上、随所に寒冷地での快適な住まい造りの工夫があった。

 家の外回りは、想像以上の断熱材だった。
窓はトリプルガラスで、サイズは部屋に応じたオリジナル製。
 内装にも工夫があった。
壁紙を使わず、湿気がこもらない珪藻土入りの塗り壁。
 フローリングは、合板材より暖かい、無垢の床材を採用、等々。

 その上、耐震性も万全だった。
私の直感に間違いはなかった。
 信頼して家造りを任せられた。
正式な建築契約を取り交わし、その日は終わった。

 洞爺湖温泉に宿を取った。
翌朝、早々だった。
 副社長さんから電話が来た。
「1時間でいいです。千葉に戻る前にお会いしたい・・・。」

 新千歳からのフライトまでに、若干時間があった。
副社長さんが待つ伊達の本社へ急いだ。

 「気になって、昨夜布団の中でもう一度考えたんです。
ウッドデッキですが、この方がいいのではないかと。」
 手書きしたウッドデッキのデザインを示し、
説明に熱が入った。
 変更の善し悪しより、私はその熱意に打たれていた。

 二つ返事で、ゴーサインをしながら、
いい人とめぐり会ったことに感謝した。

 それから1,2ヶ月後だったろうか、
設計図に沿った我が家の模型が送られてきた。
 「そこまでやるんだ。」
またまた驚きとともに、新居の全容に胸おどった。

 「次は、この家にふさわし外壁です。
今度、伊達でお会いした時、ご希望を伺います。」
 そんなメールが届いた。

 休日の朝、千葉の近隣住宅街を、家内と二人で散歩した。 
家々の外壁に目をこらした。
 「あんな色合いもいい。」「これは派手すぎ。」
などと、吟味した。
   
 夏、再度伊達へ。
外壁の希望が、おおよそ固まっていた。
 ところが、私たちの提案は一蹴された。

 「それは、新建材を使った外壁ですね。
長くは持ちません。
 ご希望が強ければしかたありませんが、
でも、それは使わない方が・・。
 100年もつ家を造りたいんです。」

 私と家内は、副社長の車に乗った。
そして、S建設が造った市内の家々を見て回った。
 新建材ではない外壁ばかりだった。

 突然の展開に、戸惑った。
今さら、100年もつ家はいらなかった。
 でも、その熱い意気込みに共感した。

 「プロの意見が知りたいです。
私の家に相応しい外壁はどれですか。」
 副社長さんは、ハンドルを急転させ、
ある1件の家の前に私たちを案内した。

 落ち着いた雰囲気の外壁だった。
「こんな感じが合うのでは・・」
 即断した。
「これがいい。」

 イメージとは随分違った。
しかしだ。
ここでも直感した。
 プロの意見に乗った。

 最後は、庭だ。
草花には興味がなかった。
 その上、高齢になっていく。
雑草取りなどの庭仕事が、無理になる日も近い。
 だから、駐車場以外の土地は、
「飾り砂利」を敷くよう要望した。

 ところが、
「宿根草をメインにしたローメンテナンスの庭にしませんか」。
 副社長さんに口説かれた。
そんな庭を、数軒見て回った。
 惹かれた。

 そして今、シンボルツリーをジューンベリーにした緑豊かな庭に、
次々と宿根草の花が咲いている。
 時折、道行く方が目を止めている。
確かにローメンテナンス。
 雑草取りなど、手をわずらわすことは少ない。
それより、折々の草花にワクワクする私になった。





  今年もジューンベリーに沢山の実が 
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