ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

意志が弱いなあ!!

2015-11-27 16:24:20 | あの頃
 (1)
 大学に入ってすぐ煙草に興味をもった。
 まだ、『しんせい』や『いこい』と言った銘柄が主流だったが、
それより、若干高価な『ハイライト』が目に止まった。
 味がどうのこうのよりも、両切り煙草ではなくて、
フィルターがついている新しさと、
パッケージのファッション性に惹かれた。

 学生寮の4人部屋に、私1人の時、
大人たちを真似て、くわえ煙草に初めてマッチで火をつけた。
一瞬、心を決め、その煙を吸った。
 頭がクラッとした。
片手で煙草をつまんだまま、しばらくジッとしていた。
 それから、思い直して、再び煙草をくわえて吸った。
得体の知れない重たいものが、手や足の先に向かって血管を移動していった。
 危険な感じがして、慌てて近くの灰皿に煙草の先を押しつけた。

 それでも、興味は消えなかった。
その日の夜、布団に潜り込み、二本目の煙草を口にした。
 一度目ほどのクラクラも血管の変化もなかった。
むせることもなく、ゆっくりと時間をかけて、
何回か吸っては吐きをくりかえした。
 半分を残して、灰皿でもみ消した。
布団に体を埋めると、天井がゆっくりと回っていた。
 不安な気持ちのまま寝入った。

 その日以来、味などさっぱり分からないまま、
大人へのデビューと勝手に決めつけ、喫煙を続けた。
丁度どんなことにも背伸びをしてみたい年頃だったと思う。

 当時は、男性の8割近くが喫煙していた。
病弱、虚弱体質、あるいはまじめの頭に馬鹿がつく者以外
大人はみんな、煙草を吸うものと思っていた。

 今と違い、どこでも遠慮なくくわえ煙草で、大手を振っていた。
 私も、年を重ね、次第にその味がわかるようになった。
大学を卒業する頃には、一日20本を吸うようになっていた。


 (2)
 『目覚めのいっぷく』、『食後のいっぷく』、
『寝しなのいっぷく』、そして『トイレでいっぷく』。
 一日の節目節目で、胸ポケットから煙草を一本取り出し、火をつける。
 煙草の煙を大きく吸う。それをゆっくりとはき出す。
その行為が、一時的であっても、忙しい時間への小さなオアシスになっていた。
勝手に、『煙草は心の健康』と自分を納得させていた。
 しかし、『百害あって一利なし』と聞いていた。

 長男が4歳の時、喘息を発病した。
症状は改善されるどころか、悪化していった。
重い喘息発作で、深夜に病院へ行くことが多くなった。
 医師からは、
「お子さんのため、お父さんは煙草をやめてください。」
と、何度も言われた。
 ヒューヒューゼイゼイと荒い息を繰り返す小さなわが子を見て、
煙草を止めれば、喘息も治るのではと意を固めた。
 なのに、私の禁煙は、イライラが次第次第に強くなり、
2日と続かなかった。
仕方なく、息子の前での、喫煙だけは避けるように心がけた。

 やがて、年齢と共に、酒を飲む機会が増えていった。
宴席などで酒量が増すと、
それにあわせたように煙草の本数が増えた。
 だから、翌朝の目覚めは、不快感オンリー、
頭は重く、食欲はゼロ状態だった。
 それでも、
『二日酔いでも、キョーイク!(今日行く・教育)』
とばかり、満員電車に身を任せ、学校へ向かった。

 酒量はともかく、この不快感を和らげたいと、禁煙にチャレンジした。
 1日、2日と、煙草を机の引き出しに入れたまま。
しかし、いつもは何も気にならない周りの話し声に、訳もなくピリピリした。
怒りっぽい態度と不安定な精神状況が徐々に徐々に強くなった。
 明らかに、禁煙がもたらしていることが分かった。
無性に煙草が吸いたい。
 やがて我慢の限界とばかり、机の引き出しに手が伸びる。
 二日酔いの不快感などそっちのけで、煙草に火をつけ、いっぷくする。
すると、すうっと気分が落ち着き、怒りっぽさも不安感も消えた。

 そんな禁煙へのチャレンジを、何度繰り返したことか。
ことごとく失敗に終わった。
 だから、好きや嫌いなどではなく、
私は煙草と縁を切ることができないと思った。


 (3)
 2000年頃からだろうか、
人々の健康志向が大きなうねりとなった。
 その話題の一つが、煙草だった。
煙草愛好者の肺がん率の高さ。
そして、それまで聞き慣れなかった『受動喫煙』なる、
喫煙しない方への健康被害が、取り沙汰されるようになった。

 遂に、2002年だったと思う。
千代田区が全国に先駆けて、『「歩きたばこ」禁止条例』を施行した。
 まさかまさかと思う間もなく、
都内の公立学校では、校内での喫煙の規制が始まった。

 他区では、校地内喫煙の全面禁止といった規制もあったが、
幸い私の勤務する区では、
校地内の定められた1箇所での喫煙が許された。
 各校は、子どもの目につきにくい校舎の裏手などに喫煙所を設け、
愛好者はそこで灰皿を囲んだ。

 私の勤務校でも、校地の隅、校舎と倉庫の隙間を喫煙所にした。
親しくしていた保護者が、雨の日でも不自由しないようにと、
無償で屋根を付けてくれた。
 私は、一日に何回もそこへ足を運んだ。

 真夏が到来した。
冷房の効いた快適な校長室から、
炎天下、薄暗い校舎と倉庫の隙間に、何度も何度も行く。

 風も通らない蒸し暑い場所で、一人煙草を吸う。
頭からも顔からも、背中からも汗が流れる。
その汗の中で、人目をはばかり、煙草をくわえている私。

 突然、「そこまでしてでも、吸いたいか。」
私自身の姿に、怒りがこみ上げた。
 50歳を過ぎた男の、みじめな姿を見た。
こみ上げた怒りの中で、「もう、止めよう。」と口をついた。


 (4)
 夏休みに入ってすぐ、当時はまだ珍しい
『禁煙外来』の看板がある総合病院を訪ねた。

 混雑する待合所で長時間過ごし、診察室に入った。
初対面の医師に、「禁煙したい。」と告げると、
訳も訊かず、一度私の顔を見ただけで、カルテにペンを走らせた。
「まあ、やってみなさい。」
 その横顔が、うっすらとニタリ顔になった気がした。
「詳しいことは、後ほど。」と言われ、退席した。

 医師の対応、その不快な思いのまま、
看護師から説明を受け、薬局へ行った。
『禁煙パッチ』なるものを、腕などに毎日貼って2ヶ月を過ごす。
 その間、煙草を吸わずにいられたら、禁煙は完了するとのことだった。
 当時はまだ保険がきかない処方で、
2ヶ月分で2万数千円の出費であった。

 医師のニタリ顔の意味が少し分かった。
「高額をかけて、失敗はできないよ。でも、果たして頑張れるかな。」
そんな顔だったと思った。
 なめられた気がして、悔しかった。
「必ず、やってやる。」
そこが、医師の思う壺だったのかも。

 私は、そのパッチを毎日貼り替え、
1本の煙草を吸うこともなく、
喫煙時と同じ気持ちで毎日を過ごした。
そして2ヶ月。
 ニタリ顔の医師は、
「禁煙完了です。もう吸いたいと思わないでしょう。」
と、笑った。

 よく禁煙の鬼門は、止めてから1ヶ月、3ヶ月、
半年、1年、3年後にやってくると聞いていた。
 そこを越えて、初めて煙草との決別だとか。

 禁煙パッチを終えて1ヶ月後、
鬼門の1つをクリアーしたある日だった。
親しくしている先輩校長と、酒を飲むことになった。

 彼は、愛煙家だった。
居酒屋で向かい合ってすぐ、彼は煙草に火をつけた。
 乾杯のあと、私は、
「煙草を止めて、1ヶ月になる。」
と、報告した。

 それを聞いた彼は、急に表情を固くした。
 ビールの入ったコップをテーブルに置き、、
私を下から上へとゆっくり見てから、強い口調で、
「煙草を止めた。なあんだ、意志が弱いなあ。」
と、言い捨てた。

 はじめて達成した禁煙への、痛烈なひと言だった。
「世間が何と言おうと、どうしようと、俺は止めない。」
彼は、胸を張った。
 私は、少しだけ敗北感に見舞われ、背を丸くした。




2日前 雪化粧した だて歴史の杜公園と有珠山 
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実現したい学力向上策 ①

2015-11-20 22:25:13 | 教育
 9月末、久しぶりに学生時代の友人10人程と札幌で一夜を過ごした。
全員、教職をまっとうし、今はそれぞれ第二の人生を謳歌している。
 それでも、共通の話題は『学校』のことであった。

 北海道でも極寒で知れわたる町に勤務していた友人からは、
「氷点下20度以下になると、1度下がるごとに
登校時間が1時間遅くなる。そんなルールがある。」
と聞き、私の想像をはるかに越えた暮らしぶりに、息を飲んだ。

 その一例に限ったことではないが、各地の学校事情に触れ、
もっぱら東京の子どもと小学校の環境しか知らない私が、
軽々に学校教育を語ることに赤面した。

 それでも、この日、一夜の語らいで、強く印象に残ったのは、
学力向上への取り組みであった。
 現在も、多少なりと学校と関わりのある友人たちから、
口をそろえて語られたのが、
学力向上策としての「家庭学習の取り組み」である。

 確かに、学力調査の結果として、
学力の高い地域と家庭学習の関連性が指摘されている。
 だから、学力向上のため、家庭学習に力を入れる。
その発想と取り組みが、今日学校では強調されていると言う。

 確かに、私も現職の時、教委の求めに応じ、
自校の学力向上策の一つとして、
『学年×15分』の家庭学習習慣の確立を掲げた。

 現在、私が暮らす近隣小学校でも、
同様の家庭学習時間が設定されている。
 併せて、「毎日、全員が宿題に取り組む」ことと、
「自習学習の推奨」が、学力を支える取り組みとされている。
 毎日の宿題提出と家庭での確認が、子どもと保護者に求められている。

 私は、このような学力向上の実践を否定するものではない。
しかし、「これが全てではなかろう。」と声を大にしたい。

 現職時代、思い描いていた小学校での向上策の主なものを付す。
ただし、ここに示すいくつかは、自校で実現し、
いくつかは、職員のコンセンサスを得ることができず、志半ばとなった。
 
 余談になるが、私は、学校運営での上意下達のような手法を極力避けた。
それは、学校教育には似合わないからである。
 教員は、自身が深く納得してこそ、
はじめて子どもの指導に説得力が加わるのである。
だから、校長として、職員のコンセンサスを重視した。
 一人一人の職員が自信を持って胸張って指導にあたってこそ、
学校は、活力をもつ。
 安易な指示・命令での学校運営では、子どもの大きな変容は決して望めない。


 (1)45分間の授業時間を厳守

 始業のチャイムが鳴る。
担任がまだ教室にいない。
子ども同士のけんかの仲裁をしている。
あるいは、廊下に整列し、理科室への教室移動を始める。等々。
 これらは、今も、学校によっては見られる光景なのではなかろうか。
つまり、チャイムと同時に授業が始まっていないのである。
 私はこれを、授業のロスタイムと呼んでいる

 このようなことで、
例えば、5分間授業の始まりが遅れたとする。
 すると、45分間の授業は、40分間になってしまう。

 それが、毎時間くり返されたとしたら、、
1日を5校時として、25分間、授業時間が少なくなることになる。
 2日間で、1単位時間(45分間)のタイムロスが生まれる。
週にして2~3時間、2週間で1日分の授業時数(5時間)となる計算である。

 学力向上策の第一は、
授業時数の拡大でも、授業日数の増加でもない。
まずは、『45分間の授業を、
できうる限りロスなく進める』ことである。

 そのため、始業チャイムと同時に
毎時間授業を始め、45分間の授業を目標とすることである。
 教室移動は、常に業間に行う。
中休みや昼休みは、チャイムが終了ではなく、
チャイムは授業の始まりと捉える。
4、5分前には休み終了の合図をし、
教室で始業を待つようにしたい。

 職員朝会や児童朝会等も時間を厳守し、
長引くようなら後日持ち越し等の対応をする等、
授業時間の厳守を、学校運営の最優先事項にする。

 学校によっては、様々な習慣や約束事がある。
従って、最優先事項への迫り方や、改善方法も一律ではない。
全教員の英知を結集して取り組み、授業時間の厳守に努めたい。

 なお、当然のことであるが、
始業と同時に授業を始める環境として、
児童の学習意欲、良好な人間関係、学級の明るい雰囲気、、
学校職員とも連携した学校全体の同一歩調が必要になる。


 (2)担任による個別指導の実施

 都内の小学校では、『放課後学習教室』と称される
学力向上策が実施されているところがある。
 主な実施内容は、対象学年を定め、本人の同意や自主参加を原則としている。
指導者は、校外からそのための講師を雇用する。
朝自習でも活用するドリルを使ったり、それ用のプリントを用意したりして、
毎週数回、小1時間程度が、主流かと思う。
 主には、国語や算数の基礎基本に関する補習的学習である。

 若干誤解される言い回しになるが、
私は、『どんな教育活動もやらないより、やった方がいい。』
と思っている。
 だから、このような学習教室も、
『やらないよりは、やった方がいい。』と思う。

 しかし、同じように放課後を活用した学力向上策であっても、
より有効性が期待できるのは、担任による個別指導である。

 私は、できる限り
放課後の教師と子どもの自由な時間の確保に、心を砕いた。
そして、その時間を活用した個別指導に、学力向上の力があると考えてきた。

 学校の放課後には、様々な会議が設定され、
多様な研修が準備され、出張も多い。
 教師は、授業が終わると子どもに急いで下校するよう促し、
会議への出席や出張へと急ぐ。

 これでは、子どもの相談に応じたり、学習への遅れを手助けしたり、
時には子ども理解につながる楽しい団らんに興じたり、
学習意欲への動機づけを行ったりするのは、
遠いものになってしまう。

 学校は、大胆な会議等の精選を断行しなければならない。
例えば、毎月の職員会議は、2,3ヶ月に1回にする。
職員会議前の事前会議である企画委員会(運営委員会)は廃止し、
主幹や副校長との事前協議や決済を経て,職員会議に臨む。
 さらには、学校毎にルールを定め、
各種定例会議も必要に応じて行うものとする。
加えて各会議の廃止や総合、そして長期休業中の開催にするなど、
従来の慣行にとらわれない見直しを行うことが重要である。

 それによって生まれた放課後の時間を、
子どもの個別指導に当てるのである。

 ここで私が最も強調したいことは、
小学校の子どもにとって一番有効な個別指導の相手についてである。
 言うまでもないことだが、それは、
その子の最大の理解者、つまり学級担任である。

 学習内容へのつまづき、理解不足のポイント、
そして、その子の意欲喚起の手立て等を熟知しているのは、
担任をおいて他にはいない。

 個別指導に限らず、小学校の子どもの成長は、
一部の教科を除いて、その教科の専門性より子ども理解が
優先されると、私は思っている。
 従って、授業において手の届かなかった個別指導を
放課後に、担任が行う。
そのため、学校はその体制づくりに、
じっくりと取り組むことが重要になる。

                  ≪つづきは、後日とする。≫




   晩秋の有珠山と昭和新山
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芸 術 の 秋 2015

2015-11-13 22:14:24 | 素晴らしい人
 北の大地は、晩秋から初冬へと、日ごとにその様相を変えている。
しかし、私はこの2日ほど、『芸術の秋』を過ごした。

 昨日は、伊達から車で約30分の登別市民会館で、
人気落語家さんによる『落語三人噺』があった。
 その3人の落語家さんの1人が、柳家花緑師匠だった。

 もう10年も前のことになる。
当時、校長として勤務していた小学校を会場に、
全国公立小学校児童文化研究発表大会があった。

 その記念講演の講師として、
落語界のサラブレッドと称される花緑師匠をお招きした。
 生意気にも、その講演では40分程度だったが、
私と師匠との対談があった。
 落語の楽しさや話芸。話術、授業での話し方等々について、
意見交換をさせてもらった。

 約500名の参加者を、大笑いに包む師匠のたくみなプレゼン能力に、
私は学ぶところが大きく、貴重な時間だった。

 その師匠が、わざわざ北海道まで、しかも近隣の町まで来られる。
私は、大好きな洞爺湖の月浦ワインをもって、楽屋までお邪魔した。

 楽屋の廊下で出迎えてくれた師匠は、
公演前の慌ただしい時間をぬって、
突然やってきた私と、しばし10年前の思い出に花を咲かせてくれた。

 「1日、わずか30分ほどの高座のために、
後の残り23時間30分をどう過ごすか。
 笑いのために、その時間の全てを使う。
それが落語家だと思うんです。」
 対談での私の問いにそう答えてくれたことが、なつかしく蘇ってきた。

 私の北海道への移住に、師匠はくり返し、
「大きな決断。大きな決断。」と、かみ締めるように声にした。
 私は、恥ずかしさのあまり、
「東京を卒業しただけ。」
と、軽口で応じた。

 短い時間ではあったが、心を通わすことができた。
素敵な宝物のような時間になった。

 久しぶりの師匠の高座は、
やはり玄人受けするレベルの高い笑いだった。
知人から紹介を受け、
初めて師匠の落語を、上野鈴本で聞いたとき、
「この方は落語家さんと言うより、
噺家さんと言う方が相応しい。」と口をついた。
 今回も、そう思った。

 つきなみだが、決して気取ることなく
続く日々の精進が、あの素晴らしい才能を、
開花させているのだと思った。
 別れ際にいただいた師匠の4枚の絵カードには、
こんな言葉が、添えられていた。
 
 『全ては お陰様のおかげ』

 『感謝が増すと 喜びが増える
  感謝が減ると 愚痴が増える』

 『リラックス することの大切さ
  緊張が 意識に壁を作る』

 『人生は
  感謝を見付ける
  旅である』


 続いて、もう一つの『芸術の秋』は、前々日11日であった。
 以前、このブログで記したが、
井上陽水コンサート「UNITED COVER2」である。
 地元も地元、我が家から徒歩10分、
だて歴史の杜カルチャーセンター大ホールが、その会場だった。

 先日日曜日、同じ会場で、『伊達市民音楽祭』が催され、
家内の所属する女性コーラスも、
そのステージで、3曲ほど声を張り上げた。
そんな私の生活圏でのコンサートである
 ファンなら、誰もがうらやむであろう。
私は、自宅で軽い夕食を済ませてから、
ゆっくりと歩いて会場に向かった。

 何かの間違いでもいいと思ったが、
6列目の席にいる私のすぐ近くに、彼は現れた。
 「ダテのみなさん、イブリのみなさん、
初めまして、井上陽水です。」
 コンサートの最初の登場場面が、一番苦手と言う彼は、
若干はにかんだ口調であいさつをした。

 嬉しかった。
伊達で陽水のライブなんて。
誰に何と言われようが、年甲斐もなく、
少しこみ上げるものがあった。すっかり一ファンだった。

 「伊達に、ようこそ。」
後ろの席から、声が飛んだ。
同感だった。
年令が邪魔をし、声にならなかった。

 3曲ほど聞き慣れた曲を歌ってから、
「『そうそう、あのライブで井上さんが、こんなことを言っていた。
こんな言葉が心に残り、5年後の私を支えている。』みたいな、
そんなことは、決して言えない。
でも、今日は、楽しんでいって下さい。」
 彼らしいメッセージに、会場は大きな笑いと拍手だった。

 彼は、10数曲のカバー曲を熱唱した。
そのいくつかで、選曲するに至った想いを語った。
 家内のむこう隣りに座った女性が、
「本物の芸術家だよね。」
と、感嘆しながら話しかけてきた。

 彼が歌う一曲一曲から、その歌に込められた想いが、
私にも伝わってきた。
 彼は、いくつかの曲に、
「若い頃は、そんな曲、そんな歌が
あったなあ程度にしか思わなかった。
 それなのに、それから何十年が過ぎ、
今聴いてみると、全く違って聞こえる。」
 そんな主旨のことを、くり返し言った。
 それは、歌に限ったことではないと思いながら、大きくうなずけた。

 彼は、友人の奥様が他界したことを話題にし、
そして『シルエット・ロマンス』を、
「ああ あなたに恋心 盗まれて」と歌った。
 このフレーズ一つを聴いても、
年令と共に変化する理解の有り様、
そして、彼の表現の非凡さに、私は酔った。
 いつだって、キレイに生きる素晴らしさが、
彼の歌声と演奏にあふれていた。
 『5年後の私を支える言葉』はないが、
彼のサウンドからは、同じようなメッセージを感じることができた

 あるコーナーでは、まどみちおさんの童謡『ぞうさん』を口ずさんだ。
「そうか、かあさんのお鼻も長いんだ。深い話だな。」とも。
 そして、『この愛をもう一度』に至っては、
「なんか、ちょっとと思う歌詞なんだけど、でも、今歌うとこうなる。」
 まさに、一大ラブソング。熱いものが全身を駆け巡った。
 
 コンサートの最後に、
「みなさん、お体に気をつけてください。」と言いながら、
「なんか、校長先生みたいな言い方になってしまいました。」だって。
相変わらずシャイなまま幕が下りた。

 会場を出ると、冬を思わせるような冷たい空気が、
真っ暗な公園の緑をおおっていた。
 私は、その冷たさまで余韻にし、ゆっくりと家路に着いた。

 そろそろ冬タイヤに切り替えよう。
でも、私の秋はまだまだ。
 『食欲の秋』は、きっとエンドレス。冬だってそのまんまかも。
そして、『スポーツの秋』は、
11月末3度目のハーフマラソン挑戦まで続く。





秋の噴火湾 むこうに見えるのは駒ヶ岳
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北の温もり  彩秋

2015-11-06 22:00:09 | 出会い
 周辺の山々は、1ヶ月程前より色を変え、
濃い緑色から赤と黄色の輝きへと移ってきた。

 まもなく、すべての山の木は落葉し、幹と枝だけになる。
春の山は、木々が新しい葉におおわれ、『山がふとる。』と言う。
それに対し、秋の終わりは、『山がやせる。』と言うらしい。
 こんな情感ある表現に、日本語の素晴らしさを覚えるのは、
私だけなのだろうか。

 もうしばらくすると、山は雪に閉ざされる。
だから大自然は、多彩な色で今を飾り、
これから厳しい季節へ立ち向かう人々に、
贈り物をしているのだと私は思っている。

 移住して4回目の秋である。
太陽の軌道が変わり、その陽差しがずいぶんと低くなった。
 だから、山々の斜面は、その光りを真正面から受ける。
それだけでも、この時季の山はまぶしくて綺麗。
なのに、色づく。山の美しさは、最高潮だ。

 4年越しの紅葉狩りになるが、
是非とも行きたいドライブコースがあった。
 平成14年の公募で命名された『ホロホロ峠』を通過する
山岳の北海道道86号白老大滝線である。
 ハンドルを握ることに、さほど不便さを感じないまでに
右手は回復してきた。
 大自然からの贈り物のおすそ分けをと、思い切ってマイカーで向かった。

 今は、『四季彩街道』と名づけられているが、
この道は、道内有数の豪雨地域である。
 道路建設は、着工から20年の歳月を費やす難工事のすえ、
平成10年に開通した。
 今も、1月から4月下旬までは冬季通行止めとなる。
そのため、工事が継続されていると言う。

 快晴とは言えない日だった。
白老ICを出て、山へと向かって30分、
案の定、ポツリポツリと雨に見舞われた。
 しかし、それ以上にはならず、時折、雲間から青空も見えた。
休日だからか、ひっきりなしに乗用車やオートバイとすれ違った。

 峠に近づくにつれ、助手席の家内の歓声が増した。
凄いのひと言である。
 そこは、木々が紅葉しているというよりも、
眼下の、その一つ一つの山が、
まさにすっぽりと赤や黄色におおわれ、連なっていた。
 幾重ものあざやかな彩りの山肌が、私の視界の全てになった。

 前置きが長すぎた。
この峠道を超えたところに、北湯沢温泉郷がある。
大規模温泉ホテル2軒、そして温泉旅館・宿舎が数軒点在している。
 紅葉狩りの終着は、日帰り入浴ができる、
ここの大型温泉ホテルへ立ち寄ることだった。

 客室230室、最大収容人員1368名のホテルである。
日帰り客もさることながら、
その日も、山吹色の作務衣に着替えた宿泊客で賑わっていた。

 いつものように家内とは、入浴時間の確認をして別れた。
脱衣室も広く、隅々まで見渡すのが難しいほどだった。
 私が、脱衣を始めた時だった。
車イスが入ってきた。
 山吹色の作務衣、眼光が鋭く丸刈り、大柄な方だった。
介助の方はなく、車イスをゆっくりと動かし、
私とは正反対の脱衣かごに向かった。
 
 浴室に入ると、これまた広く、
温泉の温度ごとに、39度から42度まで、
大きな浴槽が、5つ、6つに分かれていた。
その他に、露天風呂に打たせ湯、サウナに水風呂等々。

 私は、もっぱら低温半身浴派で、そこでの長湯が好きだった。
一度、体を洗って、再び低温浴へ。
 その浴槽に、車いすで脱衣室に入ってきた方が来た。

 彼は、杖をつき、両足には滑り止めなのだろうか、 
真っ白で薄手の軽そうな、かかとにベルトのついた
サンダルをはいていた。
 タオルを首にぶら下げ、浴槽の介助用パイプに杖を立てかけ、
そのパイプを手がかりにして、一歩一歩確かめるように湯船に入った。
 全身を湯にうめても、パイプを片手でしっかりと握っていた。

 左半身が不自由なのだろう。
左ひじは曲がったまま、歩行もなかなか難しいようで、
その動きはものすごくゆっくりだった。
 しかし、見事なまでに屈強な体つきだ。
180センチはあるだろうと思った。
 ゴマ塩のイガグリ頭などから、私と同世代だと思う。
背中の盛り上がった筋肉が、
厳しい仕事に従事してきたことを想像させた。

 じっと湯につかっていた彼は、
おもむろに介助用のパイプをたよりに、立ち上がろうとした。
そして、それをあきらめた。
 しばらくして、またその動作をした。

 不思議に思い、私は彼の視線の先を見た。
一面ガラス張りのその先には、
紅葉した山の斜面が、西陽を受けていた。奇麗だった。 
 彼は、そのガラス窓まで近づきたかったのだと思った。

 「ガラスのところまで、手を貸しましょうか。」
私は、近づいて声をかけた。
 一瞬、私を見上げて、
「いやいい。ガマンする。」
力強く、しっかりとした口調だった。固い意志を感じた。
「そうですか。」
静かにその場を離れた。

「ありがとう。」
彼の声が届いた。
 武骨な声だったが、湯煙の中をゆったりと流れていった。

 その後、彼は首のタオルを、介助用パイプにかけ、
片手で上手にしぼり、顔の汗をぬぐった。
 そして、これまた一歩一歩杖をつきながら、シャワーへ向かった。

 彼の後ろ姿から、私は勝手に、
「こんな体になっても、まだまだ引き下がったりしない。」
そんなみなぎる強さを感じた。

 そうだ、時間を忘れていた。
私は、急いで湯を上がり、汗をふきふき、脱衣室を出た。

 日帰り客用の休憩室は、賑やかだった。
幸い家内は、まだいなかった。
 私は、混雑をさけ、
宿泊客も利用するロビーの一角に腰をおろした。

 若干離れた、はす向かいに、
作務衣がよく似合う、同世代と思われる女性がいた。
 男子用の脱衣室の方に体を向け、イスに軽く腰かけていた。
時折、タオルで顔の汗をおさえながらも、
背筋をすっと伸ばしたその姿勢は、
他の湯あがり客とはちがって見えた。

 しばらくして、再びその女性に目が行った。
その時、脱衣室から車イスが出てきた。
 車イスは、その女性に近づいた。
女性は、立ち上がり、一言二言、言葉を交わしていた。
 彼は、女性が抱えていた大きめの浴用手提げ袋を自分の膝にのせた。
女性は後ろにまわり、静かに車イスを押しながら、
ホテルの奥へと去って行った。

 あの凛として見えた女性の姿が分かった。
あれは、不自由な体で、一人入浴する夫を案じていたのだ。
 それを知っていたのだろう。
彼は、そのねぎらいとして、大きめの手提げ袋を膝に置いたのだ。

 「ご主人、一人でしっかり入浴してましたよ。」
そんな言葉は、大きなお節介と気づいた。

 やはり、北の大地には、デカい男がいる。




掘り出したビート根の長い山 やがてダンプカーで製糖工場へ
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