(1)
大学に入ってすぐ煙草に興味をもった。
まだ、『しんせい』や『いこい』と言った銘柄が主流だったが、
それより、若干高価な『ハイライト』が目に止まった。
味がどうのこうのよりも、両切り煙草ではなくて、
フィルターがついている新しさと、
パッケージのファッション性に惹かれた。
学生寮の4人部屋に、私1人の時、
大人たちを真似て、くわえ煙草に初めてマッチで火をつけた。
一瞬、心を決め、その煙を吸った。
頭がクラッとした。
片手で煙草をつまんだまま、しばらくジッとしていた。
それから、思い直して、再び煙草をくわえて吸った。
得体の知れない重たいものが、手や足の先に向かって血管を移動していった。
危険な感じがして、慌てて近くの灰皿に煙草の先を押しつけた。
それでも、興味は消えなかった。
その日の夜、布団に潜り込み、二本目の煙草を口にした。
一度目ほどのクラクラも血管の変化もなかった。
むせることもなく、ゆっくりと時間をかけて、
何回か吸っては吐きをくりかえした。
半分を残して、灰皿でもみ消した。
布団に体を埋めると、天井がゆっくりと回っていた。
不安な気持ちのまま寝入った。
その日以来、味などさっぱり分からないまま、
大人へのデビューと勝手に決めつけ、喫煙を続けた。
丁度どんなことにも背伸びをしてみたい年頃だったと思う。
当時は、男性の8割近くが喫煙していた。
病弱、虚弱体質、あるいはまじめの頭に馬鹿がつく者以外
大人はみんな、煙草を吸うものと思っていた。
今と違い、どこでも遠慮なくくわえ煙草で、大手を振っていた。
私も、年を重ね、次第にその味がわかるようになった。
大学を卒業する頃には、一日20本を吸うようになっていた。
(2)
『目覚めのいっぷく』、『食後のいっぷく』、
『寝しなのいっぷく』、そして『トイレでいっぷく』。
一日の節目節目で、胸ポケットから煙草を一本取り出し、火をつける。
煙草の煙を大きく吸う。それをゆっくりとはき出す。
その行為が、一時的であっても、忙しい時間への小さなオアシスになっていた。
勝手に、『煙草は心の健康』と自分を納得させていた。
しかし、『百害あって一利なし』と聞いていた。
長男が4歳の時、喘息を発病した。
症状は改善されるどころか、悪化していった。
重い喘息発作で、深夜に病院へ行くことが多くなった。
医師からは、
「お子さんのため、お父さんは煙草をやめてください。」
と、何度も言われた。
ヒューヒューゼイゼイと荒い息を繰り返す小さなわが子を見て、
煙草を止めれば、喘息も治るのではと意を固めた。
なのに、私の禁煙は、イライラが次第次第に強くなり、
2日と続かなかった。
仕方なく、息子の前での、喫煙だけは避けるように心がけた。
やがて、年齢と共に、酒を飲む機会が増えていった。
宴席などで酒量が増すと、
それにあわせたように煙草の本数が増えた。
だから、翌朝の目覚めは、不快感オンリー、
頭は重く、食欲はゼロ状態だった。
それでも、
『二日酔いでも、キョーイク!(今日行く・教育)』
とばかり、満員電車に身を任せ、学校へ向かった。
酒量はともかく、この不快感を和らげたいと、禁煙にチャレンジした。
1日、2日と、煙草を机の引き出しに入れたまま。
しかし、いつもは何も気にならない周りの話し声に、訳もなくピリピリした。
怒りっぽい態度と不安定な精神状況が徐々に徐々に強くなった。
明らかに、禁煙がもたらしていることが分かった。
無性に煙草が吸いたい。
やがて我慢の限界とばかり、机の引き出しに手が伸びる。
二日酔いの不快感などそっちのけで、煙草に火をつけ、いっぷくする。
すると、すうっと気分が落ち着き、怒りっぽさも不安感も消えた。
そんな禁煙へのチャレンジを、何度繰り返したことか。
ことごとく失敗に終わった。
だから、好きや嫌いなどではなく、
私は煙草と縁を切ることができないと思った。
(3)
2000年頃からだろうか、
人々の健康志向が大きなうねりとなった。
その話題の一つが、煙草だった。
煙草愛好者の肺がん率の高さ。
そして、それまで聞き慣れなかった『受動喫煙』なる、
喫煙しない方への健康被害が、取り沙汰されるようになった。
遂に、2002年だったと思う。
千代田区が全国に先駆けて、『「歩きたばこ」禁止条例』を施行した。
まさかまさかと思う間もなく、
都内の公立学校では、校内での喫煙の規制が始まった。
他区では、校地内喫煙の全面禁止といった規制もあったが、
幸い私の勤務する区では、
校地内の定められた1箇所での喫煙が許された。
各校は、子どもの目につきにくい校舎の裏手などに喫煙所を設け、
愛好者はそこで灰皿を囲んだ。
私の勤務校でも、校地の隅、校舎と倉庫の隙間を喫煙所にした。
親しくしていた保護者が、雨の日でも不自由しないようにと、
無償で屋根を付けてくれた。
私は、一日に何回もそこへ足を運んだ。
真夏が到来した。
冷房の効いた快適な校長室から、
炎天下、薄暗い校舎と倉庫の隙間に、何度も何度も行く。
風も通らない蒸し暑い場所で、一人煙草を吸う。
頭からも顔からも、背中からも汗が流れる。
その汗の中で、人目をはばかり、煙草をくわえている私。
突然、「そこまでしてでも、吸いたいか。」
私自身の姿に、怒りがこみ上げた。
50歳を過ぎた男の、みじめな姿を見た。
こみ上げた怒りの中で、「もう、止めよう。」と口をついた。
(4)
夏休みに入ってすぐ、当時はまだ珍しい
『禁煙外来』の看板がある総合病院を訪ねた。
混雑する待合所で長時間過ごし、診察室に入った。
初対面の医師に、「禁煙したい。」と告げると、
訳も訊かず、一度私の顔を見ただけで、カルテにペンを走らせた。
「まあ、やってみなさい。」
その横顔が、うっすらとニタリ顔になった気がした。
「詳しいことは、後ほど。」と言われ、退席した。
医師の対応、その不快な思いのまま、
看護師から説明を受け、薬局へ行った。
『禁煙パッチ』なるものを、腕などに毎日貼って2ヶ月を過ごす。
その間、煙草を吸わずにいられたら、禁煙は完了するとのことだった。
当時はまだ保険がきかない処方で、
2ヶ月分で2万数千円の出費であった。
医師のニタリ顔の意味が少し分かった。
「高額をかけて、失敗はできないよ。でも、果たして頑張れるかな。」
そんな顔だったと思った。
なめられた気がして、悔しかった。
「必ず、やってやる。」
そこが、医師の思う壺だったのかも。
私は、そのパッチを毎日貼り替え、
1本の煙草を吸うこともなく、
喫煙時と同じ気持ちで毎日を過ごした。
そして2ヶ月。
ニタリ顔の医師は、
「禁煙完了です。もう吸いたいと思わないでしょう。」
と、笑った。
よく禁煙の鬼門は、止めてから1ヶ月、3ヶ月、
半年、1年、3年後にやってくると聞いていた。
そこを越えて、初めて煙草との決別だとか。
禁煙パッチを終えて1ヶ月後、
鬼門の1つをクリアーしたある日だった。
親しくしている先輩校長と、酒を飲むことになった。
彼は、愛煙家だった。
居酒屋で向かい合ってすぐ、彼は煙草に火をつけた。
乾杯のあと、私は、
「煙草を止めて、1ヶ月になる。」
と、報告した。
それを聞いた彼は、急に表情を固くした。
ビールの入ったコップをテーブルに置き、、
私を下から上へとゆっくり見てから、強い口調で、
「煙草を止めた。なあんだ、意志が弱いなあ。」
と、言い捨てた。
はじめて達成した禁煙への、痛烈なひと言だった。
「世間が何と言おうと、どうしようと、俺は止めない。」
彼は、胸を張った。
私は、少しだけ敗北感に見舞われ、背を丸くした。

2日前 雪化粧した だて歴史の杜公園と有珠山
大学に入ってすぐ煙草に興味をもった。
まだ、『しんせい』や『いこい』と言った銘柄が主流だったが、
それより、若干高価な『ハイライト』が目に止まった。
味がどうのこうのよりも、両切り煙草ではなくて、
フィルターがついている新しさと、
パッケージのファッション性に惹かれた。
学生寮の4人部屋に、私1人の時、
大人たちを真似て、くわえ煙草に初めてマッチで火をつけた。
一瞬、心を決め、その煙を吸った。
頭がクラッとした。
片手で煙草をつまんだまま、しばらくジッとしていた。
それから、思い直して、再び煙草をくわえて吸った。
得体の知れない重たいものが、手や足の先に向かって血管を移動していった。
危険な感じがして、慌てて近くの灰皿に煙草の先を押しつけた。
それでも、興味は消えなかった。
その日の夜、布団に潜り込み、二本目の煙草を口にした。
一度目ほどのクラクラも血管の変化もなかった。
むせることもなく、ゆっくりと時間をかけて、
何回か吸っては吐きをくりかえした。
半分を残して、灰皿でもみ消した。
布団に体を埋めると、天井がゆっくりと回っていた。
不安な気持ちのまま寝入った。
その日以来、味などさっぱり分からないまま、
大人へのデビューと勝手に決めつけ、喫煙を続けた。
丁度どんなことにも背伸びをしてみたい年頃だったと思う。
当時は、男性の8割近くが喫煙していた。
病弱、虚弱体質、あるいはまじめの頭に馬鹿がつく者以外
大人はみんな、煙草を吸うものと思っていた。
今と違い、どこでも遠慮なくくわえ煙草で、大手を振っていた。
私も、年を重ね、次第にその味がわかるようになった。
大学を卒業する頃には、一日20本を吸うようになっていた。
(2)
『目覚めのいっぷく』、『食後のいっぷく』、
『寝しなのいっぷく』、そして『トイレでいっぷく』。
一日の節目節目で、胸ポケットから煙草を一本取り出し、火をつける。
煙草の煙を大きく吸う。それをゆっくりとはき出す。
その行為が、一時的であっても、忙しい時間への小さなオアシスになっていた。
勝手に、『煙草は心の健康』と自分を納得させていた。
しかし、『百害あって一利なし』と聞いていた。
長男が4歳の時、喘息を発病した。
症状は改善されるどころか、悪化していった。
重い喘息発作で、深夜に病院へ行くことが多くなった。
医師からは、
「お子さんのため、お父さんは煙草をやめてください。」
と、何度も言われた。
ヒューヒューゼイゼイと荒い息を繰り返す小さなわが子を見て、
煙草を止めれば、喘息も治るのではと意を固めた。
なのに、私の禁煙は、イライラが次第次第に強くなり、
2日と続かなかった。
仕方なく、息子の前での、喫煙だけは避けるように心がけた。
やがて、年齢と共に、酒を飲む機会が増えていった。
宴席などで酒量が増すと、
それにあわせたように煙草の本数が増えた。
だから、翌朝の目覚めは、不快感オンリー、
頭は重く、食欲はゼロ状態だった。
それでも、
『二日酔いでも、キョーイク!(今日行く・教育)』
とばかり、満員電車に身を任せ、学校へ向かった。
酒量はともかく、この不快感を和らげたいと、禁煙にチャレンジした。
1日、2日と、煙草を机の引き出しに入れたまま。
しかし、いつもは何も気にならない周りの話し声に、訳もなくピリピリした。
怒りっぽい態度と不安定な精神状況が徐々に徐々に強くなった。
明らかに、禁煙がもたらしていることが分かった。
無性に煙草が吸いたい。
やがて我慢の限界とばかり、机の引き出しに手が伸びる。
二日酔いの不快感などそっちのけで、煙草に火をつけ、いっぷくする。
すると、すうっと気分が落ち着き、怒りっぽさも不安感も消えた。
そんな禁煙へのチャレンジを、何度繰り返したことか。
ことごとく失敗に終わった。
だから、好きや嫌いなどではなく、
私は煙草と縁を切ることができないと思った。
(3)
2000年頃からだろうか、
人々の健康志向が大きなうねりとなった。
その話題の一つが、煙草だった。
煙草愛好者の肺がん率の高さ。
そして、それまで聞き慣れなかった『受動喫煙』なる、
喫煙しない方への健康被害が、取り沙汰されるようになった。
遂に、2002年だったと思う。
千代田区が全国に先駆けて、『「歩きたばこ」禁止条例』を施行した。
まさかまさかと思う間もなく、
都内の公立学校では、校内での喫煙の規制が始まった。
他区では、校地内喫煙の全面禁止といった規制もあったが、
幸い私の勤務する区では、
校地内の定められた1箇所での喫煙が許された。
各校は、子どもの目につきにくい校舎の裏手などに喫煙所を設け、
愛好者はそこで灰皿を囲んだ。
私の勤務校でも、校地の隅、校舎と倉庫の隙間を喫煙所にした。
親しくしていた保護者が、雨の日でも不自由しないようにと、
無償で屋根を付けてくれた。
私は、一日に何回もそこへ足を運んだ。
真夏が到来した。
冷房の効いた快適な校長室から、
炎天下、薄暗い校舎と倉庫の隙間に、何度も何度も行く。
風も通らない蒸し暑い場所で、一人煙草を吸う。
頭からも顔からも、背中からも汗が流れる。
その汗の中で、人目をはばかり、煙草をくわえている私。
突然、「そこまでしてでも、吸いたいか。」
私自身の姿に、怒りがこみ上げた。
50歳を過ぎた男の、みじめな姿を見た。
こみ上げた怒りの中で、「もう、止めよう。」と口をついた。
(4)
夏休みに入ってすぐ、当時はまだ珍しい
『禁煙外来』の看板がある総合病院を訪ねた。
混雑する待合所で長時間過ごし、診察室に入った。
初対面の医師に、「禁煙したい。」と告げると、
訳も訊かず、一度私の顔を見ただけで、カルテにペンを走らせた。
「まあ、やってみなさい。」
その横顔が、うっすらとニタリ顔になった気がした。
「詳しいことは、後ほど。」と言われ、退席した。
医師の対応、その不快な思いのまま、
看護師から説明を受け、薬局へ行った。
『禁煙パッチ』なるものを、腕などに毎日貼って2ヶ月を過ごす。
その間、煙草を吸わずにいられたら、禁煙は完了するとのことだった。
当時はまだ保険がきかない処方で、
2ヶ月分で2万数千円の出費であった。
医師のニタリ顔の意味が少し分かった。
「高額をかけて、失敗はできないよ。でも、果たして頑張れるかな。」
そんな顔だったと思った。
なめられた気がして、悔しかった。
「必ず、やってやる。」
そこが、医師の思う壺だったのかも。
私は、そのパッチを毎日貼り替え、
1本の煙草を吸うこともなく、
喫煙時と同じ気持ちで毎日を過ごした。
そして2ヶ月。
ニタリ顔の医師は、
「禁煙完了です。もう吸いたいと思わないでしょう。」
と、笑った。
よく禁煙の鬼門は、止めてから1ヶ月、3ヶ月、
半年、1年、3年後にやってくると聞いていた。
そこを越えて、初めて煙草との決別だとか。
禁煙パッチを終えて1ヶ月後、
鬼門の1つをクリアーしたある日だった。
親しくしている先輩校長と、酒を飲むことになった。
彼は、愛煙家だった。
居酒屋で向かい合ってすぐ、彼は煙草に火をつけた。
乾杯のあと、私は、
「煙草を止めて、1ヶ月になる。」
と、報告した。
それを聞いた彼は、急に表情を固くした。
ビールの入ったコップをテーブルに置き、、
私を下から上へとゆっくり見てから、強い口調で、
「煙草を止めた。なあんだ、意志が弱いなあ。」
と、言い捨てた。
はじめて達成した禁煙への、痛烈なひと言だった。
「世間が何と言おうと、どうしようと、俺は止めない。」
彼は、胸を張った。
私は、少しだけ敗北感に見舞われ、背を丸くした。

2日前 雪化粧した だて歴史の杜公園と有珠山