私の育った家庭は、
鮮魚をはじめとした食料品の行商を細々と行っていた。
最初はリヤカーに商品を積み、両親が売り歩いていた。
やがて、私より10才年上の兄が、中学を卒業してすぐに、
それに加わるようになり、
その兄が運転免許を取ってからは、
リヤカーに代わってトラックでの商売になった。
貧しい暮らしではあったが、
末っ子の私は、兄弟がうらやむほど
両親からはえらく可愛がられ、勝手放題に育った。
そのためかどうか、
食べ物には好き嫌いが激しく、
家族みんなに気を遣わせた。
そのことは、この年齢になった今もさほど変わらない。
先日も、一泊で温泉旅館を予約すると、
すかさず、「何か食べられないものはございませんか。」と、尋ねられ、
その問いが食べ物アレルギーへの対応であることに気づかず、
嫌いな食べ物を次々と並べたてた。
余談になるが、その旅館の夕と朝の食事から、
私の嫌いな食べ物はみごとに姿を消し、
何にも嫌いな物のない家内の献立とは、
いたるところに違いがあった。
ただただ、そんなご配慮に恐縮し、何度も
「料理長さんによろしく」
と、頭を下げた。
そんな私であるが、
これまでに、嫌いから好きに転じた食べ物がいくつもある。
そこには、必ずエピソードがあった。
その、一つを紹介する。
小学校3年生の時、腎臓病に見舞われた。
2ヶ月以上にわたって『安静と食事制限』が命じられた。
来る日も来る日も布団に横たわり、行商に出かける両親を見送った。
私が読める本など我が家にはなかった。
暇を持て余すのだが、安静と言われている。
外出はおろか、ひんぱんに布団から起き上がることも許されていなかった。
毎日、布団の中から目の前にある柱時計の振り子と長針の動きだけ見て過ごした。
寂しいと思うと苦しくなるので、そう思わないように努めた。
それに加えて辛かったのは、食べ物である。
味のついた物は一切摂ってはいけないことになっており、
白いご飯と、お湯で薄めてほとんど味のない豆腐の味噌汁、
醤油のかかっていない焼き魚、
それに鰹節だけのったほうれん草のお浸しなど、
それが毎日の食事だった。
そんな日々であったが、唯一の楽しみは、
鏡に映る私自身の顔を見ることだった。
むくんで大きくなった顔が、
少しでも小さくなったら、病気が良くなっていることと聞かされていた。
トイレに行くだびに、鏡を見て、細い顔を作った。
約2ヶ月が経過し、パンパンだった顔が変わった。
毎週1回、一人で病院に通った。
その日、珍しく尿検査が追加された。
その後、診察室に入ると
「もう大丈夫だよ。普通に暮らしていい。
走っても、何を食べても、学校へ行ってもいいよ。」
と、お医者さんが言った。
病院を出ると、走って家に帰った。
曇り空だったと思っていたが、
空が明るく晴れわたっていた。
6月下旬だったのだろうか、
緩やかな風がやさしく頬をかすめていった。
息を切らしながら家に着くと、当然誰もいなかった。
すぐに台所に行った。
「何か食べ物はないか。」と、探した。
お櫃にご飯が残っていた。少しだけ味噌汁もあった。
あとは何も見当たらなかった。
食器戸棚を開けてみると、そこに『江戸むらさき』のビン詰があった。
今まで、私はこのノリの佃煮に箸をつけたことなどなかった。
ビンの中の真っ黒でベタベタした感じのものを、
どうしても食べる気にはなれなかった。
『味のついたもの禁止』の掟が解けた今、
兎にも角にも、甘くてもしょっぱくても酸っぱくてもいいから、
味という刺激が欲しかった。
私は、食器戸棚から『江戸むらさき』のビンを取り出し、蓋を開けた。
プーンと嗅いだことない臭いがした。
もう一度、あたりを目で食べ物探しをしたが、
もう何でもよかった。
味のする物をという欲望は、
未経験という壁を簡単に越えさせてしまった。
私は、『江戸むらさき』に挑戦することにした。
お茶碗に冷めたご飯をよそうと、
家族のみんながするように、ご飯に『江戸むらさき』をのせた。
一口、そして二口。
その時の味は、あれから60年が過ぎた今も
しっかりと思い出すことができる。
その日、私の診断の結果が気がかりだったのだろう、
珍しくお昼時に両親が行商から戻ってきた。
私は、急いで家から出て、母に飛びついた。
「母さん、『江戸むらさき』、美味しいね。」
と、明るい声で言った。
母は、「良かったね。良かったね。」とくり返し、
私を抱きかかえてくれた。
母の涙が、私の顔に落ちた。
今も、旅行先でよくノリの佃煮のビン詰を
おみやげにと買い求める。
それぞれその土地の美味しさに若干の違いがあり、
それはそれで私を楽しませてくれる。
しかし、60年前とほとんど変わることのない
桃屋の『江戸むらさき』ビン詰。
時々、スーパーの棚に並んでいるのが目に止まる。
私にとっては、最高峰で特別なノリの佃煮である。
それだけに手軽には買い求めたりしないのだが、
いつまでも変わらすにあり続けてほしいと願っている。
近所の畑の新雪 その上にあった足跡 北狐?それとも蝦夷鹿?
鮮魚をはじめとした食料品の行商を細々と行っていた。
最初はリヤカーに商品を積み、両親が売り歩いていた。
やがて、私より10才年上の兄が、中学を卒業してすぐに、
それに加わるようになり、
その兄が運転免許を取ってからは、
リヤカーに代わってトラックでの商売になった。
貧しい暮らしではあったが、
末っ子の私は、兄弟がうらやむほど
両親からはえらく可愛がられ、勝手放題に育った。
そのためかどうか、
食べ物には好き嫌いが激しく、
家族みんなに気を遣わせた。
そのことは、この年齢になった今もさほど変わらない。
先日も、一泊で温泉旅館を予約すると、
すかさず、「何か食べられないものはございませんか。」と、尋ねられ、
その問いが食べ物アレルギーへの対応であることに気づかず、
嫌いな食べ物を次々と並べたてた。
余談になるが、その旅館の夕と朝の食事から、
私の嫌いな食べ物はみごとに姿を消し、
何にも嫌いな物のない家内の献立とは、
いたるところに違いがあった。
ただただ、そんなご配慮に恐縮し、何度も
「料理長さんによろしく」
と、頭を下げた。
そんな私であるが、
これまでに、嫌いから好きに転じた食べ物がいくつもある。
そこには、必ずエピソードがあった。
その、一つを紹介する。
小学校3年生の時、腎臓病に見舞われた。
2ヶ月以上にわたって『安静と食事制限』が命じられた。
来る日も来る日も布団に横たわり、行商に出かける両親を見送った。
私が読める本など我が家にはなかった。
暇を持て余すのだが、安静と言われている。
外出はおろか、ひんぱんに布団から起き上がることも許されていなかった。
毎日、布団の中から目の前にある柱時計の振り子と長針の動きだけ見て過ごした。
寂しいと思うと苦しくなるので、そう思わないように努めた。
それに加えて辛かったのは、食べ物である。
味のついた物は一切摂ってはいけないことになっており、
白いご飯と、お湯で薄めてほとんど味のない豆腐の味噌汁、
醤油のかかっていない焼き魚、
それに鰹節だけのったほうれん草のお浸しなど、
それが毎日の食事だった。
そんな日々であったが、唯一の楽しみは、
鏡に映る私自身の顔を見ることだった。
むくんで大きくなった顔が、
少しでも小さくなったら、病気が良くなっていることと聞かされていた。
トイレに行くだびに、鏡を見て、細い顔を作った。
約2ヶ月が経過し、パンパンだった顔が変わった。
毎週1回、一人で病院に通った。
その日、珍しく尿検査が追加された。
その後、診察室に入ると
「もう大丈夫だよ。普通に暮らしていい。
走っても、何を食べても、学校へ行ってもいいよ。」
と、お医者さんが言った。
病院を出ると、走って家に帰った。
曇り空だったと思っていたが、
空が明るく晴れわたっていた。
6月下旬だったのだろうか、
緩やかな風がやさしく頬をかすめていった。
息を切らしながら家に着くと、当然誰もいなかった。
すぐに台所に行った。
「何か食べ物はないか。」と、探した。
お櫃にご飯が残っていた。少しだけ味噌汁もあった。
あとは何も見当たらなかった。
食器戸棚を開けてみると、そこに『江戸むらさき』のビン詰があった。
今まで、私はこのノリの佃煮に箸をつけたことなどなかった。
ビンの中の真っ黒でベタベタした感じのものを、
どうしても食べる気にはなれなかった。
『味のついたもの禁止』の掟が解けた今、
兎にも角にも、甘くてもしょっぱくても酸っぱくてもいいから、
味という刺激が欲しかった。
私は、食器戸棚から『江戸むらさき』のビンを取り出し、蓋を開けた。
プーンと嗅いだことない臭いがした。
もう一度、あたりを目で食べ物探しをしたが、
もう何でもよかった。
味のする物をという欲望は、
未経験という壁を簡単に越えさせてしまった。
私は、『江戸むらさき』に挑戦することにした。
お茶碗に冷めたご飯をよそうと、
家族のみんながするように、ご飯に『江戸むらさき』をのせた。
一口、そして二口。
その時の味は、あれから60年が過ぎた今も
しっかりと思い出すことができる。
その日、私の診断の結果が気がかりだったのだろう、
珍しくお昼時に両親が行商から戻ってきた。
私は、急いで家から出て、母に飛びついた。
「母さん、『江戸むらさき』、美味しいね。」
と、明るい声で言った。
母は、「良かったね。良かったね。」とくり返し、
私を抱きかかえてくれた。
母の涙が、私の顔に落ちた。
今も、旅行先でよくノリの佃煮のビン詰を
おみやげにと買い求める。
それぞれその土地の美味しさに若干の違いがあり、
それはそれで私を楽しませてくれる。
しかし、60年前とほとんど変わることのない
桃屋の『江戸むらさき』ビン詰。
時々、スーパーの棚に並んでいるのが目に止まる。
私にとっては、最高峰で特別なノリの佃煮である。
それだけに手軽には買い求めたりしないのだが、
いつまでも変わらすにあり続けてほしいと願っている。
近所の畑の新雪 その上にあった足跡 北狐?それとも蝦夷鹿?