ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

喰わず嫌い  『ノリの佃煮』編

2015-01-29 21:28:58 | あの頃
 私の育った家庭は、
鮮魚をはじめとした食料品の行商を細々と行っていた。
 最初はリヤカーに商品を積み、両親が売り歩いていた。
やがて、私より10才年上の兄が、中学を卒業してすぐに、
それに加わるようになり、
その兄が運転免許を取ってからは、
リヤカーに代わってトラックでの商売になった。

 貧しい暮らしではあったが、
末っ子の私は、兄弟がうらやむほど
両親からはえらく可愛がられ、勝手放題に育った。

 そのためかどうか、
食べ物には好き嫌いが激しく、
家族みんなに気を遣わせた。

 そのことは、この年齢になった今もさほど変わらない。
 先日も、一泊で温泉旅館を予約すると、
すかさず、「何か食べられないものはございませんか。」と、尋ねられ、
その問いが食べ物アレルギーへの対応であることに気づかず、
嫌いな食べ物を次々と並べたてた。

余談になるが、その旅館の夕と朝の食事から、
私の嫌いな食べ物はみごとに姿を消し、
何にも嫌いな物のない家内の献立とは、
いたるところに違いがあった。
ただただ、そんなご配慮に恐縮し、何度も
「料理長さんによろしく」
と、頭を下げた。

 そんな私であるが、
これまでに、嫌いから好きに転じた食べ物がいくつもある。
そこには、必ずエピソードがあった。

 その、一つを紹介する。

 小学校3年生の時、腎臓病に見舞われた。
2ヶ月以上にわたって『安静と食事制限』が命じられた。

 来る日も来る日も布団に横たわり、行商に出かける両親を見送った。
私が読める本など我が家にはなかった。
暇を持て余すのだが、安静と言われている。
 外出はおろか、ひんぱんに布団から起き上がることも許されていなかった。
毎日、布団の中から目の前にある柱時計の振り子と長針の動きだけ見て過ごした。
寂しいと思うと苦しくなるので、そう思わないように努めた。

 それに加えて辛かったのは、食べ物である。
 味のついた物は一切摂ってはいけないことになっており、
白いご飯と、お湯で薄めてほとんど味のない豆腐の味噌汁、
醤油のかかっていない焼き魚、
それに鰹節だけのったほうれん草のお浸しなど、
それが毎日の食事だった。

 そんな日々であったが、唯一の楽しみは、
鏡に映る私自身の顔を見ることだった。
むくんで大きくなった顔が、
少しでも小さくなったら、病気が良くなっていることと聞かされていた。
 トイレに行くだびに、鏡を見て、細い顔を作った。

 約2ヶ月が経過し、パンパンだった顔が変わった。

毎週1回、一人で病院に通った。
その日、珍しく尿検査が追加された。
その後、診察室に入ると
「もう大丈夫だよ。普通に暮らしていい。
走っても、何を食べても、学校へ行ってもいいよ。」
と、お医者さんが言った。

 病院を出ると、走って家に帰った。
曇り空だったと思っていたが、
空が明るく晴れわたっていた。
6月下旬だったのだろうか、
緩やかな風がやさしく頬をかすめていった。

 息を切らしながら家に着くと、当然誰もいなかった。
すぐに台所に行った。
「何か食べ物はないか。」と、探した。
お櫃にご飯が残っていた。少しだけ味噌汁もあった。
あとは何も見当たらなかった。

食器戸棚を開けてみると、そこに『江戸むらさき』のビン詰があった。
今まで、私はこのノリの佃煮に箸をつけたことなどなかった。
ビンの中の真っ黒でベタベタした感じのものを、
どうしても食べる気にはなれなかった。

 『味のついたもの禁止』の掟が解けた今、
兎にも角にも、甘くてもしょっぱくても酸っぱくてもいいから、
味という刺激が欲しかった。

 私は、食器戸棚から『江戸むらさき』のビンを取り出し、蓋を開けた。
プーンと嗅いだことない臭いがした。
もう一度、あたりを目で食べ物探しをしたが、
もう何でもよかった。
味のする物をという欲望は、
未経験という壁を簡単に越えさせてしまった。
 私は、『江戸むらさき』に挑戦することにした。

 お茶碗に冷めたご飯をよそうと、
家族のみんながするように、ご飯に『江戸むらさき』をのせた。
一口、そして二口。
その時の味は、あれから60年が過ぎた今も
しっかりと思い出すことができる。

 その日、私の診断の結果が気がかりだったのだろう、
珍しくお昼時に両親が行商から戻ってきた。

 私は、急いで家から出て、母に飛びついた。
 「母さん、『江戸むらさき』、美味しいね。」
と、明るい声で言った。
 母は、「良かったね。良かったね。」とくり返し、
私を抱きかかえてくれた。
 母の涙が、私の顔に落ちた。

 今も、旅行先でよくノリの佃煮のビン詰を
おみやげにと買い求める。
 それぞれその土地の美味しさに若干の違いがあり、
それはそれで私を楽しませてくれる。

 しかし、60年前とほとんど変わることのない
桃屋の『江戸むらさき』ビン詰。
 時々、スーパーの棚に並んでいるのが目に止まる。
私にとっては、最高峰で特別なノリの佃煮である。
それだけに手軽には買い求めたりしないのだが、
いつまでも変わらすにあり続けてほしいと願っている。





近所の畑の新雪 その上にあった足跡 北狐?それとも蝦夷鹿?

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授業をデザインする

2015-01-22 15:49:52 | 教育
 教師の仕事は、①学習指導、②生活指導であるが、
その他に、③外部との連携・折衝、④学校運営がある。

 今回は、その中から『学習指導』について記すことにする。

 学習指導は、主に授業で行われる。

その授業を進める上で、欠かせない視点として
 ・ねらいに沿って、ブレないこと
 ・興味関心を揺さぶること
 ・意欲を高めること
 ・子どもの反応に的確に応じること
 ・授業の改善点を次に生かすこと
などが上げられるが、
 私が最も重視するものは、その授業をデザインする力である。

 教師には、その授業のねらいを達成させるため、
全ての授業において、しっかりと授業をデザインすることが求められる。

 授業を形づくる主な授業デザインの要素は、次のようなものである。

 ① ねらいに沿った効果的な発問の吟味
 ② 理解の手助けとなる板書計画等の工夫
 ③ ねらい達成のための活動形態の確立
 ④ 理解を容易にする学習材の選定
 ⑤ 学習思考を配慮した授業の流れの創造


  加えて、授業をデザインするには、次に上げる配慮が重要である。

 (1)一単位時間をワンセットの流れと捉えデザインする

 「この授業は、これをして、これをして、これをする。」
と言った、並列で細切れの授業ではダメである。
 「これを理解させる。」と、言った明確な目標に基づいた、
一連の流れとして授業を捉え、メリハリがあり、
試行錯誤があるバラエティに富んだものにしたい。


 (2)学習課題を明示し、意識化する

 授業のねらいが、そのまま学習課題となってもよいが、
その授業の学習形態、例えば「………についてみんなで相談する。」等、
本時の学習スタイルを示すのも学習課題である。

 この学習課題は、その授業を通じ一貫としてめざすことなのだから、
必ず板書等をして、視覚的にも常に意識できるようにしたい。
なお、意識の継続には、
できるだけコンパクトでインパクトのある一文であることが望まれる。

 また、課題の達成は、「こんなことに役立つ」「今後こんな力になる」等、
課題の価値が、子供にも理解できると、意欲の高揚に大きくつながるであろう。
そのため、教師はその授業のねらいや学習課題のポジションを
的確に把握する必要がある。


 (3)授業と課題解決の流れを板書する

 黒板等は、授業における重要な学習の道具である。
従って、黒板にはその授業以外の情報があってはならない。
よく「今日の宿題」「本日の予定」等、
諸連絡が黒板の片隅にあったりするが、
これは、黒板の乱用であり、慎みたい。

 板書は、その授業の思考の流れが、
結果として、その一面で分かるものが望まれる。
従って、授業の途中で、今までの板書を消すことなど、あってはならない。

 その授業の終末で、本時の学習課題から課題解決まで、
振り返ることができる板書が、望ましいのである。
だから、板書の計画案が完結すれば、、
その授業の基本的なデザインもできたことになる。


 (4)授業の冒頭に「一人学習」の時間を設ける

 学校における授業の基本は、学び合い、そして高め合うことにある。
従って、子供同士による情報や意見等の交換は、授業のメインである。

 つまり、話し合い等の集団活動であるが、
そこへ進む前に、それぞれの子どもが自分の考えや感じたことを
確かめたり、整理したりする時間=「一人学習」の時間が、
必要なことを、私は強く主張したい。

 子どもは、5分でも10分でも、そんな時間があれば、
その後の話し合い等に、
より自信をもって積極的に関わっていくことができるのである。

 学習課題を子ども達が共有した後、
子どもが「一人で学習」する時間を設定することなく、
話し合い等にすぐに参加できる子どもは、決して多くはない。


 (5)活発なやり取りの仕組みと方法を会得する

 課題に対応する子ども達の様々な思考が、よりよいものを生み出し、
一歩また一歩とその達成へ近づいていく、それこそが授業の醍醐味である。
そのためには、その道を進む、
子ども同士のやり取りの確かな道筋をつくることが重要である。

 例えば、自分の考えをみんなの前で発表する。
その後、質問や違う考えに耳を傾け、
それに対応し、それまでの自分の考えを
さらに深めたり、追加したりして修正するなど、
学級やグループでの話し合いの方法を、
どの子も会得することが大切である。

 そのため、教師は、常にそのことへの指導の視点をもち、
学級の学習集団としてのレベルアップを図るよう、
努めなければならないのである。


 結びになるが、授業は教師と子どもによる共同作業である。
 教師は、ねらい達成をめざすと共に、
子どもの興味関心をはじめ、学習への取り組み状況への理解と対応を
授業デザインに組み入れることを欠いてはならない。

 それぞれの子どもの学習ニーズに応じてこそ授業デザインなのである。




久々の青空 ≪伊達・東山≫ 
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北の温もり  沐冬

2015-01-14 09:32:46 | 出会い
 右手の痛みと痺れ、麻痺が少しでも和らいでほしい。
そんな思いで、月1、2回の日帰り温泉通いが続いている。

 よく行くのは、車で30分程のT温泉である。
 大浴場は、一面の大きなガラス張りで、
晴れた日は噴火湾の大海原がキラキラと輝いてまぶしいくらい。
特に、冬のこの時期は日射しが、広い浴場の奥まで届き、
より一層開放的な温泉にしてくれている。

 いつものように入浴後は、
その温泉の食堂で、お気に入りの醤油ラーメンを注文し、席に着いた。

 その日、珍しく家内が雄弁だった。

 女湯で見た素敵な出来事を、私に教えてくれた。

 大浴場に入ると、10名前後がそれぞれ湯舟につかったり、
体を洗ったり、洗髪したりしていた。

 入ってすぐの円いジャグジーのついた浴槽のそばで、
お年寄りが一人座り込み、手桶でその浴槽の湯を汲み、体にかけていた。
そして、また湯を汲み体にかける。
何度も何度も、それを繰り返していた。

 家内はちょっと気になったが、
横を素通りし、大きなガラス張り近くの広い浴槽に入った。

 しばらくして、後から浴場に入ってきた40歳過ぎの方が、
ジャクジーのそばのそのお年寄りに声をかけた。

 「お婆ちゃん、どうしたの。お風呂、入らないの。」
 「足が悪いから、入れないんじゃ。ころんだら、大変じゃろ。」
 「あら。」
 「いつも、こうして温泉かけて、温まっているんじゃ。」
 「お婆ちゃん、入れてあげようか。」
 「………。」
 「大丈夫! 私ね、介護士の資格もっているよ。
毎週2、3回は入浴の介護してるから、安心して。」

 二人の会話を家内は、浴槽につかりながら背中で聞いていた。

 「お婆ちゃん、お風呂に入れて、どう。
私、S子と言います。お風呂から出たくなったら、呼んでちょうだい。
あそこで、体洗っているから。」
 「ありがとう。やっぱり、気持ちいいわ。」

 それから、どれくらいしてからだろうか、
S子さんを呼ぶお婆ちゃんの声がした。
 「今、行くからね。待ってて。」
 S子さんは、急いで体の石けんを流し、
お婆ちゃんの所に行った。

 そして、お婆ちゃんが浴槽から上がるのを手助けしながら、
「お婆ちゃん、私は毎週火曜日のこの時間は、ここに来てるから、
その時ならお風呂に入れてあげれるから、おいで。」
「いいの。すまないね。」
「かまわないよ。」

 その後、二人の会話は次第に遠くなり、家内には聞き取れなかった。
 だが、ガラスの向こうの真冬とは裏腹に、
明るい日射しと温かい温泉のゆっくりと流れる湯煙の中で、
その大浴場にいた人みんなの、
心までをも温もりで包んでいたのではないだろうか。

 移住して3回目の正月を迎えた。
新天地での暮らしは、今も様々な驚きを私にくれる。
そして、その多くは私の心を熱くし、
今日を生きるエネルギーに変えてくれている。
 ところが、
「したっけさ」 「なして」 「そうだも」 「だめだべさ」等々、
耳慣れない北の言葉に、時として心がざらつく時がある。
やがて慣れるのだろうが、
私にはその言葉の数々が荒々しいものに聞こえ、
言葉の主まで雑な人のように思えていた。

 しかし、家内から聞いた
お年寄りと入浴を手助けする女性のやり取りは、
まさに北の女性の真骨頂。
人肌の温もりまで、私に伝えてくれた。





真冬でも竹は緑色(伊達ならではかな)
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 輝   き            (第9回文芸思潮エッセイ賞佳作)

2015-01-06 15:00:34 | 投稿
 暖簾をくぐると、いつもカウンターに陣取り、包丁を握っている。
その姿は、なぜか30年前に他界した親父を思い出させた。
 「どうだ、儲かってるか。」
の私の問いに、返ってくる答えは決まって、
「なんもだ。」
と、歯切れが悪いのだが、
そこにはどういう訳が悲壮感はなく、どこか穏やかな空気さえ流れていた。

 「俺の趣味は商売。」
と、言い切ってしまうほど、彼の人生は紛れもなくそれだけだった。
中学校を卒業してから今日まで60年間にわたり
一貫しており、ブレることはなかった。
まさに、天職と言えるのだが、その歩みは細々として頼りなく、
しかし良心的な商売人と言えるものだった。

 振り返ってみると、今でこそ客席30数名の小料理屋であるが、
かつては従業員20名を越える活気ある鮮魚店の店主であった。
みんなから、『社長』と呼ばれた時代もあった。
だが、時代の波は彼を押し上げたりはしなかった。

 年齢と共に体力は衰え、そして店も少しずつ売り上げを大型店舗に奪われていった。
15年前、転機が訪れ、彼は魚屋をたたみ、
今までの仕出しや惣菜造りの経験を生かし、
魚料理中心の小料理屋を始めた。

 決して大きくはない町の小さな魚料理店である。
勝負は、新しい顧客の開拓ではなく、確かなリピーターの獲得である。
それには、そこそこの値段と共に料理の質が問われた。
いつも美味しいものを提供する。
それこそがこの店の生きる道なのであった。
時折出向く私の舌に、その味は合格だった。

 客の何人かが帰りがてらに会計をしながら、
「相変わらず美味しいものを出すね。」
などと、言っているのを聞いたことがある。
私は、そんな声が彼の励みになっているのだろうと思いながらも、
一向に好転しない店の経営に、斜陽の町での商売の難しさを感じていた。

 彼は、人生の全てをかけ一途に、
魚屋と小料理屋の違いはあれ、
美味しいものを提供することに毎日を費やしてきた。
もっともっと彼は救われてもいいはずだと私は思う。

 朝は人より早く起き、魚市場へ軽トラで駆けつけ、
60年におよぶ目利きで美味しい魚を厳選する。
そして、どんな客の注文も快く受け、
時には後始末が深夜になることもある。
なのに彼に揚揚として光は差さなかった。

 実は、私は彼の稼ぎによって学費を捻出してもらい大学にいった。
そして、夢であった教職についた。
その上、12年間にもわたり校長として1校を預かり、
理想とまではいかないものの、
しかし『人生の旬』とまで思えるような仕事もさせてもらった。
それに比べ、彼の
人生はあまりにも違いすぎた。

 しかし、ある日のことだ。

 私は、とあるガラス工房の店で
ちょっとしたお土産にとガラスボールを買い求めた。
 ガラス製品なだけに梱包に手間が掛かっていた。
その持てあました時間に、
店内にあったこの町近辺の名店を紹介する小洒落たタウン雑誌を手にした。

 「ああ、この店、知っている。」
「そうか、やっぱり紹介されるか、この店は。」
などと思いながら、時には全く知らないイタリアンレストランに驚き、
「今度いってみたいなあ。」
なんて、無責任にページをめくっていた。

 すると、見慣れた暖簾のある店先の写真が現れた。
店の名前はもちろんのこと、彼の名前もフルネームで紹介され、
朝の仕入れに始まり、見事な包丁さばき、
そして料理への心意気まで紹介され、味の確かさとともに店を絶賛する記事だった。
「店主は茶目っ気たっぷりの表情で『いつでもお待ちしてます。』と言っていた。」
と、彼の人柄まで伝えていた。

 私は、本屋とは違うガラス工房の店内で立ち読みしながら、
目頭が熱くなるのを覚えた。
そして、しばらくそのページから目を離すことができなかった。

 私達は、人生の中でどれだけ人から褒められる機会に恵まれるだろうか。
励ましの意味を込めての賞賛なら私にも何度か経験はある。
また、仕事柄、褒めることで成長する力になると期待しての賛辞を
何人もの人に送ってきた。
しかし、この記事にそんな目論見は全くなかった。

 本当に美味しい料理を出す店だからこその記事なのである。
今までこの店と関わりのない雑誌記者による感じたままの
偽りのない評価なのである。
そこには、彼が美味しいものを提供しようと
精一杯歩み続けたことへの、本当の言葉が並んでいた。

 こんな偽りのない報われ方に、私は彼の弟として心を熱くした。
そして、こんな素敵な記事を書かせた彼を誇りに思うと共に、
彼のようなひたむきな歩みには、
必ずや清純な輝きが訪れると信じることができた。




噴火湾ギリギリの無人駅・北舟岡駅(よく鉄道ファンが立ち寄る)
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