ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

異変は 突然やってきた!

2022-07-30 12:04:13 | 思い
 伊達に居を構えて、2回目の春を迎えた頃、
右腕の異変に気づいた。

 何の違和感もなく使っていた箸が、
徐々に使いにくくなった。
 やがて小さな物を摘まんで持ち上げるのが、
難しくなった。

 総合病院の外科を受診した。
医師は専門外だったのか、
「箸の使い方も年齢と共に、だんだんできなくなります。
しばらく様子を見て下さい」
と、言う。
 やや憤慨したが、静かに帰ってきた。

 それからは、腰の治療で何度か通院した接骨院で、
電気治療を受けた。
 しばらくして、専門医の受診を勧められた。
「もしかすると、尺骨神経損傷かも知れないので・・」。

 早速、専門医を探した。
幸いなことに、電話に出た総合病院の看護師が、
室蘭の製鉄記念病院の外科に、
手足を専門とする医師がいることを教えてくれた。

 数日後、受診した。
検査の結果、尺骨神経の移行手術が必要とのこと。
 
 ゴールデンウィーク開けを待って、
2時間の手術を受けた。
 術後は、期待したほど画期的な改善はなかった。

 「徐々によくなります」とその医師は言った。
あれから8年が過ぎた。
 確かに、麻痺していた右手首や薬指、小指は、
当時よりだいぶ感覚が戻ってきている。
 それにしても、完治まではまだまだ。

 でも、この間、伊達での暮らしを謳歌してきた。
朝のランニング、マラソン大会参加、
ゴルフ、近所の方々とのパークゴルフ。
 そして、術後で右手は使えなかったが、
左手だけでキーボードを打ち、このブログを始めた。
 やがて、私の随筆が地元紙に載るようにも・・。

 ところが、再び、異変は突然やってきた。

 5月下旬に、洞爺湖オンラインマラソンに参加した。
ランニング時に携帯したスマホのアプリに、
ランコースと、距離、タイムが、瞬時に記録され、
大会主催者へ自動送信される仕組みになっていた。
 私は、フルマラソンの距離を、4日かけて完走した。
後日、オンラインマラソンの完走記念メダルが届いた。
 達成感を味わえた。

 6月以降、曇天が多かった。
雨天をさけ週2回のペースで、5キロの朝ランを続けた。
 いつだって走り終えた時の爽快感は、格別。

 7月に入って4回目の朝ランでのこと。
その日に限ったことではなかったが、
4月から履き始めたシューズに、違和感があった。
 靴の中で左足の着地が外側に少しこすれていた。

 「こんな走り方をしていたら、いつかケガしたり・・」。
そう脳裏をよぎった矢先だった。
 左膝の裏側に電気のような痛みが走った。
でもその1回だけで、自宅までいつも通り走り終えた。

 ところが、翌日から徐々に徐々に膝の曲げ伸ばしに、
違和感が出始めた。
 やがて、膝をやや曲げて左足だけに体重をかけると、
痛みが走った。

 4日の間をあけて、ストレッチをしっかりしてから、
朝ランを試みた。
 最初の一歩から、痛みがあった。
「もしかしたら、走っているうちに痛みが和らぐかも」
と、期待して走り続けた。
 しかし、痛みは激しくなるばかり。
ついに1キロ半で走るのを止めた。

 それからは、歩くだけでも左足に痛みが・・。
2日置きに、接骨院で治療を受けた。
 通院後は、痛みが和らいだ。
回復に向かっていると信じた。

 そして、1週間後、再び朝ランに挑戦した。
同じ1キロ半のところで激痛に襲われ、
その後は、痛みをこらえて、どうにか自宅に戻った。

 再び接骨院で治療を受けた。
やや痛みがやわらぎ、ほっとする。

 平らな所を歩く時は、さほど痛くない。
パークゴルフの例会や、ゴルフにも行った。
 しかし、痛みは次第に増し、
とうとう痛みで深夜に目覚めるまでになった。

 仕方なく、地元病院の整形外科を受診した。
ベテラン医師は、触診後すぐに、
「膝に水が溜まっているので、
まずはそれを抜きます」と、
注射針を膝に刺した。

 「膝に水なんて、溜まったことありません」。
そう言う私に、
「抜いたら、見せてあげますから、じっとして」。
医師は、手慣れたように膝の水抜きをし、
太い注射器に採った水を見せてくれた。

 「半月板損傷ですね。どの程度かは、
MRIを撮ってみないとわかりません。
 ランニングによるケガでしょうが、
損傷次第では、手術ですね」。

 一瞬、医師の言葉に理解不能状態になった。
動揺していた。
 MRIの予約票と次回の診察予約票、
そして、1週間分の痛み止め薬の処方箋を握り、
病院を後にした。

 帰宅し、「半月板損傷」をネット検索した。
手術は30分から1時間程度で、
傷口も大きくないようだった。
 しかし、リハビリは長期のようで、
再び運動できるようになるまでに、
6か月以上の場合もあるとか・・。

 今週から小中学校の夏休みが始まった。
同時に夏らしい好天が続いている。
 私も、短い夏を楽しみたいと待ち望んでいた。

 しかし、緩い下り坂を歩くにも、難儀している。
自室までの階段昇降も痛々しい。
 これでは、どうやら左膝と向き合うことだけで、
夏は終わりそう・・。

 今後はどんなことがあるのだろう。
MRIの結果は・・。医師の診断は・・。
 手術になる・・。リハビリは・・・。

 その全てを受け入れ、
再び、伊達の朝を5キロ、10キロと、
ランニングする日を目指そう。

 どんな経験だって無駄じゃないと信じて・・。




   カボチャ畑が 華やか
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声に出しては読めない!

2022-07-23 13:49:36 | 教育
 3日前の午後だ。
前ぶれもなく鼻炎が始まった。
 花粉症の時に、くしゃみが止まらず、
その後、鼻の中の栓が壊れたかのように、
鼻みずが続くことがある。
 それと全く同じ症状だった。

 早々、買い置きしてあったアレルギー性鼻炎用の市販薬を服用した。
だが、治まる気配がない。
 仕方なく、これまた買い置きの点鼻薬を入れてみた。
多少、くしゃみも鼻みずも頻度が減った。
 横になると、症状がなくなることに気づいた。
いつもより、早くベットについた。

 そして、一昨日。
目覚めて動き出すと同時に、くしゃみが始まった。
 症状は、前日と同じ。

 朝食をとりながらも、鼻みずが続く。
もう一度、買い置きの市販薬の引き出しを探した。
 何年も前に服用した別の鼻炎用の薬があった。
半信半疑、その錠剤を飲んでみた。
 同時に、点鼻薬も。
しばらくすると、鼻水が止まった。

 だが、それも3時間と持たない。
再び鼻みずが出始め、
ティシューペーパーの箱を抱えて、日中を過ごす。

 夕食後、もう1度、朝と同じ錠剤を飲んだ。
ピタリと症状が治まり、ホッとする。
 
 そして、昨日だ。
今度は、くしゃみや鼻みずではなく、頭痛で目が覚めた。
 ベットを離れる前に検温が習慣になっている。
いつもよりやや高めだった。
 しかし、鼻炎の症状は消えていた。

 いつも通り朝食を済ませても頭痛は続いていた。
でも、金曜日である。
 ブログを書こうと机に向かう。
思考力も根気もなく、ただぼうっと。

 昨日までの鼻炎が影響しているかもと、
午前を休養に切り替えた。
 すると、ベットで熟睡。
昼食で、家内におこされ、念のために検温。
 なんと37、3度。
私にしては、高熱。
 BA.5は、風邪症状に似ていると言う。
コロナを疑った。
 その後も熟睡また熟睡。
不安だけが膨らんだ。

 幸い、今朝は、平熱。
で体調は『イマイチ』でも、
こうしてノートパソコンに向かうことができた。

 さて、今日のテーマだ。

 たった一人の孫は、もう小学2年になった。
そこで進級祝いを兼ねて、絵本を何冊か送った。
 
 その1冊は、
文・つちやゆきお、絵・たけべもといちろうの
『かわいそうなぞう』である。 

 まずは、ウィキペディアに載っているあらすじを紹介する。

  *    *     *     *    *    

 第二次世界大戦が激しくなり、
東京市にある上野動物園では空襲で檻が破壊された際の猛獣逃亡を視野に入れ、
殺処分を決定する。
 ライオンやクマが殺され、
残すはゾウのジョン、トンキー、ワンリー(花子)だけになる。

 ゾウに毒の入った餌を与えるが、
ゾウたちは餌を吐き出してしまい、
その後は毒餌を食べないために殺すことができない。
 毒を注射しようにも、象の硬い皮膚に針が折れてしまうため、
餌や水を与えるのを止めて餓死するのを待つことにする。

 ゾウたちは餌をもらうために必死に芸をしたりするが、
ジョン、ワンリー、トンキーの順に餓死していく。

  *     *     *     *     *

 これは戦時下の実話をものとにしていると聞いた。
それもあって、心が大きく揺さぶられる絵本である。

 担任していた教室には、必ずこの絵本を置いていた。
子供らは、いつでもそれを手にすることができた。
 休み時間や放課後に、真剣な表情で読んでいた子が何人もいた。

 忘れられないことがある。
2年生を担任していた時だった。
 「先生、この本、みんなに読んであげて」と、
持ってきた子がいた。
 「どうして」
私が尋ねると、その子は真剣な表情で、
「だって、かわいそうなぞうのこと、
みんなに教えてあげたいの」。
 
 実は、この絵本を読み聞かせる自信がなかった。
でも、真剣さに押され、私は約束した。

 そして、「帰りの会」の時間をつかって、
全員の前で、絵本を片手に読み聞かせを始めた。

 どの子も,絵本に釘付けになった。
そして、遂にやせ細った象が芸当をする場面まで進んだ。
 案の定、私は読むことができなくなってしまった。

 声がつまり、涙が流れた。
子供らは、そんな私に気づき、じっとしていた。

 その時のために用意していたタオルで、
顔を拭き、大きく息を整え、その場面を読んだ。
 それからも、何度も何度も声を詰まらせ、子供らはさらに静まり
私は、やっと最後まで読み終えた。

 読み聞かせが終わると、
必ず大きな拍手が返ってきた。
 その日だけは、どの子も拍手を忘れ、しばらく沈んでいた。

 以来、声に出して「かわいそうなぞう」を読んだことはなかった。
いや、声に出して読めないことが分かった。

 追記になるが、同じように声に出しては読めない作品がもう1つある。
大川悦生・作『おかあさんの木』である。
 これも、戦時下から始まる物語だ。
ウィキペディアに載っているあらすじを転記しておく。

  *     *     *     *     *
 
 今から数十年前、ある家に「おかあさん」と七人の息子が暮らしていた。
やがて日中戦争を皮切りに日本が戦争に入ると自分の息子たちは次々に召集され、
戦地へ赴いていった。

 おかあさんは息子が出征する度に裏の空き地に桐を植え、
息子が不在の間、代わりとなる桐に語りかけて息子たちを励まし続けた。
 初めは出征をするからには手柄を立てるようにと願っていたおかあさんも、
一郎が中国大陸で戦死し、遺骨となって戻って来たことをきっかけに、
次第に手柄を立てるより無事に戻ってくることを願うようになっていった。

 召集をかけられた全ての息子たちは、戦争が終わっても誰一人戻らず、
戦死または行方不明になっていた。
 おかあさんは次第に体が衰えていったが、
それでも息子たちの帰って来るのを心待ちにして、
自分が植えた七本の桐の木に絶えず語りかけた。

 しばらく経って軍人たちが次々に帰還する中、
ビルマで行方不明になっていた五郎が
片足を引きずった状態で家に戻ってきた時には、
おかあさんは「五郎」と名づけた桐の木に凭れかかったまま息絶えていた。




  収穫の日を待つ 雨に濡れた麦
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新 し い メ ニ ュ ー に

2022-07-16 14:07:28 | 出会い
 1日3食の全てが家内と2人だけ。
時には外食に出たくなる。
 ところが、身近の外食店にも限りがある。
店の雰囲気や味に、新鮮味が感じられず、
ため息することしばしば・・。

 お店にとって、「いつもの変わりなさ」を大事にするのは、
必要なことだと思う。
 しかし、その店ならではの新メニューなど、
新しさへのチャレンジに気づくと、私はことのほか嬉しくなる。
 2つを記す。

  ①
 私より10歳も上の兄は、
今も魚料理専門の店で、忙しく立ち働いている。

 年に数回、その店に顔を出すと、
10年前と何一つ変わらず、厨房のまな板を前に、
刺身包丁を握っている姿がある。

 しかし、体力の衰えは仕方なく、
最近は、昼食時間帯は息子らに任せているらしい。

 それでも、うまい魚への目利きは、
兄じゃなければダメなようで、
60歳になる息子を従えて、毎朝魚市場へ足を運んでいる。

 先日、久々に顔を出すと、
「いいところに来た。
今日は、美味い刺身がある。
 用意するから、待っていろ」。
相当自信があるらしく、兄の声には張りがあった。

 カレイの煮付け定食と一緒に出てきたのは、
白身の刺身だった。
 一切れを箸でつまんでみた。
身の締まり方や油のりに、見覚えがなかった。

 不思議そうな顔の私を見て、
「食べてみれ。美味いから」。
 またまた自信ありげな声だった。

 半信半疑、わさび醤油を少しつけてから、味わう。
ややふっくらとしているが、歯ごたいのある身だった。
 その上、咬めば咬むほど、品のある甘みが口の中で広がった。

 白いご飯とよくマッチした。
「これは!」と、もう1切れを口に。
 自信ありげな兄の態度に納得した。

 皿にならぶ刺身を再確認すると、
奮発したのか10数切れが、整然と並んでいた。
 嬉しくなった。

 だから、勢いよく訊いた。
「これ美味いなあ。なんの刺身なの?」。
 「なあ! 美味いべ。キンキだよ。
キンキの刺身!」。

 皿の刺身をじっと見た。
キンキの刺身なんて、見るのも聞くのも
食べるのも初めてだった。

 キンキは高級魚。
スーパーで、並んでいるのを見ることがある。
 やや大きめなら5千円の値がつく。
お頭をつけたまま煮付けにするのが、定番料理だ。
 じつに美味い。

 それが、生のまま。刺身なのだ。 
しかも、大きめの半身分が皿にもられて・・。

 もう言葉は邪魔だった。
白いご飯を片手に、カレイの煮付けも十分美味しいが、
それよりもキンキの刺身に心奪われた。
 ただ黙々と食べた。

 食べ終えてから、兄に言った。
「すごく美味かったけど、
キンキが刺身で出てくるなんて、ビックリだよ」。

 「3ヶ月くらい前になるかな。近くの回転寿司屋に行ったら、
キンキの握りがあってさ・・。
 そこで俺も初めて生のキンキを食べてみたさ。
これはいけると思って、うちでも刺身でだすことにしたんだ」。

 そう話しながらも、包丁を握る兄の手は休みなく動く。
立ち上がって、カウンター越しに手元をみると、
大ぶりのキンキが数匹、3枚に身おろしされていた。
 「明日、予約が入っているから、
刺身で出してやろうと思ってさ」。

 「それは、喜ぶよ!」。
お客さんの美味しそうな顔が、目に浮かんだ。

  ②
 東京で勤務していた頃、
時々北海道ラーメンが食べたくなった。
 そんな時に、何度か、
新橋駅近くにある『味の時計台』まで行った。

 初めて当地を訪ねた時、
『味の時計台』伊達インター店があることを知った。
 以来、自宅建築の打ち合わせに来るたびに、
昼食は、その店の味噌ラーメンにした。

 これから先、この美味しさが身近にある。
それだけで嬉しかった。
 移り住んでからは、懲りずによくその店でラーメンを食べた。

 3年前になるだろうか。
その日も夕食をラーメンにしようと、
2人で『味の時計台』へ行った。

 何を思ったのか。
その日の家内は、伊達インター店だけの特別メニューの一覧表を手にした。
 「たまには、違う物を食べてみる」と、
店オリジナルの『あんかけ焼きそば』を注文した。

 北海道ラーメンの名店『味の時計台』で、
ラーメン以外のものを注文する。
 そんな家内の思いつきに、私は納得がいかなかった。

 特別メニューを提供する店も店だが、
どの味のラーメンも、飽きのこない美味しさだ。
 客はその味を求めて、来店する。
店は『味の時計台』のラーメンに、
自信と誇りを持ってお客の提供すれば、それでいい。
 『あんかけ焼きそば』なんて、私には邪道にしか思えなかった。
私は、変わらず味噌ラーメンを食べた。
 当然、美味しいに決まっていた。

 数が月して、再び、暖簾をくぐった。
「だって美味しいんだもの」と、
家内は、また『あんかけ焼きそば』を注文した。
 周りのお客のオーダーが気になった。
『あんかけ焼きそば』は、かなりの人気だと知った。
 邪道と思い続けた私は、その人気を無視した。

 ところが、1年程前だったろうか。
「魔が差し!」。
 その日、目指した中華料理店が休業していた。
急遽、その足で『味の時計台』に向かった。

 邪道と思いつつも、そんないきさつが、
「同じ中華だ」と、家内と一緒の『あんかけ焼きそば』にさせた。

 10数種類の具材が入ったその焼きそばは、
食べ進めるにつれ、『味の時計台』ならではのものだと気づいた。
 名店のラーメンと変わらない美味しさに私は、十分満足した。
思い込んでいた「邪道」を、簡単に返上した。

 今は、味噌ラーメンより『あんかけ焼きそば』を食べに、
『味の時計台』伊達インター店へ行く。

 今年の春、その店の真っ赤な大看板がリニューアルされた。
見上げると、味噌ラーメンや醤油ラーメンが消え、
あんかけ焼きそばと餃子の文字が並んでいた。

 その看板に私は納得した。
そして、それを見た方が、
私のように「邪道」と思わず来店することを祈った。
 



    夏の花 ・ アジサイ 
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続々 晴れたり曇ったり <3話>

2022-07-09 13:01:37 | 北の湘南・伊達
 ① 我が家は、地元建設会社のSホームに建ててもらった。
注文建築だが、Sホームにはいくつかのポリシーがあった。
 その1つが、家の外観である。

 「お客様からどうしてもとご要望があった場合は別ですが、
外壁には新建材を使わないようにしています」。

 施工を担当したY氏はそう言うと、
Sホームが手がける外壁の施工例をいくつも紹介し、
実際の家も案内してくれた。

 その中から我が家は、モルタル塗装を主に、
道路に面した1階部分だけ道南杉を張った外壁にした。

 その道南杉は、焦げ茶色にペイントした。
しかし、丸10年が経ち、ペンキの色落ちが目立ちだした。
 4月、Sホームに道南杉の部分だけ塗り替えを依頼。
7月になってから、やっと作業が始まった。

 天候の影響もあったが、職人さん1人で3日間を要した。
その初日に驚きがあった。

 作業の様子を見ていた家内に、
刷毛を片手にした職人さんがボソッと言った。 
 「最近、ゴルフ場でお会いしませんが、行ってますか?」
家内は「エッ!」と言ったきりに。

 職人さんは、刷毛の手を休めずに、
「今朝、挨拶した時、ビックリしたさ。
 ご主人も奥さんもどっかで見た顔で・・。
それで、伊達カン(伊達カントリー倶楽部)でよく会う人だって、
思い出しまして・・。
 でも、今年はまだ会ってないかもと思いましてね」。

 家内の驚きは、すぐに私に知らされた。
作業の邪魔をしないようにと気遣いながら、
今度は私から声をかけた。
 伊達カンのメンバーさんだと分かった。
その上、クラブチャンピオンを戦うほどの、
腕前の方だとも・・。

 「去年もその前の年も、毎年何回も2人でいるところを、
伊達カンで見ましたから、覚えていたんです。
 ゴルフ好きなんだって、いつも思ってましたよ」。
気さくな方で、話が進んだ。

 ゴルフの上手下手はあっても、難しいコースは同じ。
「あの6番ホールの上り坂は、いつも苦労します」。
 私が言うと、忙しく刷毛を動かしながら、
「グリーンの横に、バンカーができたでしょう。
だから、益々難しくなってしまって。
 坂の下からなら、5番アイアンで打ってもバンカーが邪魔して・・」。
 
 そんな会話がしばらく続いた。
まさか、外壁塗装にきた職人さんと、
長々とゴルフ談義をすることになるとは・・。
 楽しい時間を過ごした。

 その勢いのまま、
1週間前から腰痛で通っている整骨院へ行った。
 そこの院長さんとは、もう6,7年の付き合いになる。
治療を受けながら、いつも話が弾み。

 「今朝、我が家の外壁塗装に来た人、
伊達のゴルフ場でよく私と家内を見かけていたんだって。
 もうビックリ」。

 すると、院長さんはすかさず、
「だから、伊達は田舎なんですよね。
 何でもかんでも、すぐ知られてしまう。
それが、いやだっていう人も結構いますよね」。

 今度は、私がすかさず、
 「確かに、そうだね。
狭い町だから、色々と分かってしまう。
 でも、そんなところ、私は嫌いじゃない・・」。

  
 ② 家の中以外では、マスク着用が常態になって、
2年半になろうとしている。

 当初、マスク不足で、手製の布マスクまで登場した。
私は、専らユニクロ製の布マスクを洗って、
繰り返し使用していた。
 しかし、感染予防効果には不織布マスクがいいと知り、
安価にもなったので、それを着用するようになった。

 ここ2ヶ月ほど前からは、
不織布でもダイヤモンドカットのものを好んで使っている。  
 マスクと口との間に隙間があり、呼吸が楽なのだ。

 だが、製造メーカーによって、
微妙に大きさや形状に違いがある。
 いろいろ試した結果、T社製がお気に入りになった。

 家内にも同社のマスクを勧め、
私のより「やや小さめ」を箱買いし、使い始めた。
 
 夕食は外でと決めていた日のことだ。
その前にスーパーへの買い物に付き合った。
 予定よりやや時間がかかった。

 一度帰宅し、買った物を冷蔵庫などに入れてから、
再度、出かけることにした。

 ⒉人とも、急いでいた。
いつもはそれぞれ決めた場所にはずしたマスクを置く。
 この時ばかりは、それぞれがテーブルに置き、手を洗いに行った。
 
 買った物の整理を終える家内を待って、再度出発。
急ぎマスクをして、あんかけ焼きそばの店へ。
 すぐに注文をし、正面の家内を見た。

 T社のマスクは中央上部にくぼみがあった。
家内のマスクは、そのくぼみがやや左にずれていた。
 すかさず、それを注意した。
「マスク、曲がってるよ。それ位、気づかないの!」。

 ややトゲのある言い方だった。
家内が、即言い返した。
 「あなたこそ、どうしたの? なんかそのマスク変だよ。
いつもと違う」。
 「どこが変なんだ」。
「顔にあってない感じ」。
 「そんなことないよ。まさかあんたのと間違える訳ないし・・」。
「そうよね。私のはいつも内側にファンデーションがつくから、
すぐわかるもの」。
 家内は、そう言って、マスクをはずして、確かめた。
「あら、やだ。ファンデーションついてない。
これ私のじゃない」。

 今度は、私が急いでマスクをはずして確かめた。
「ええっ!? ファンデーションが・・、ほら!」。

 ここでトゲトゲしいやり取りは終演。
「何やってるの! 2人して」。
 お店の方に気づかれないよう、
声を抑えて、笑ってしまった。


 ③ 5月末、ご近所さんご夫妻がそろってやって来た。
「東京へ行ってきました。これお土産。
 2年ぶりに孫にも会えたし、よかったわ」。
2人とも、それはそれは嬉しそうだった。

 触発された。
まだまだ不安だったが、6月下旬、私たちも東京へ。
 4泊5日で、息子や孫、友人と2年半ぶりの再会だった。

 息子からの提案で、
家族4人だけで夕ご飯を食べる予定を組んだ。
 4人での外食なんて、次男の大学入学祝い以来、
20数年ぶりだった。

 すでに40歳代の2人である。
私もそうだったが、油の乗った年代である。
 彼らなりの充実した仕事ぶりが垣間見え、
まぶしい位だった。

 私からは、貴重な機会なのでと前置きし、
終活的な話題を1つだけ切り出した。

 昨年2月に逝去した兄の骨納めが、5月の連休に終わった。
登別にある両親の墓で、一緒に眠っている。
 もう一人の兄も、最期はそのお墓に入りたいと言う。
でも、私は私のお墓を作り、そこに入りたいと思っている。

 そのことについて、息子らの想いを聞きたかった。

 祖父母の近くにお墓を作っても、北海道まではなかなか行けない。
そこに行っても、2人の思い出は蘇えらない。

 かといって、近くに墓があっても、すぐには行けるけど、
やはり2人との絆は、千葉だ。
 千葉にお墓があったら、
年に1回くらいは会いに行く気になるだろう。

 もうそんなことが話題になるのかと言いつつも、
2人は本音を言ってくれた。
 嬉しかった。

 「じゃ、千葉市の平和公園に墓地を買うことにしようかな」。
これで、終活の1つが済んだ。

 


     いたる所 栗の花が満開
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そうありたい人 同世代にも

2022-07-02 12:11:34 | 思い
 6月上旬、地元老人クラブで、
1時間半程、お話をする機会に恵まれた。
 前回のブログで、その時の内容を1部再現したが、
その続きを記す。

 講演の後半を『「人生100年時代・・」みたいな話題』と称し、
こう切り出した。

 (前ブログの再掲)
『好きな言い方ではありませんが、
昔に比べ「職場から墓場までが長く」なりました。
 墓場までの長い人生を、私も今生きているわけです。

 叶うなら、これからまだまだ続く、
長い時間が充実したものであってほしい。
 そう願うのは私だけではないはずです。

 実は、伊達に移り住んでからランニングを始めました。
ランニング中に、登下校の子供らに出会います。
 挨拶を交わし、すれ違ったり追い越したりの、
ほんのわずかな時間に、ちょっとしたふれ合いがあります。

 その時に子ども達から、
充実した今を生きる大切な刺激を受けています。
 3つほど紹介します。』

 その3つのエピソードを語った後、私はこう結んだ。

 『出会った子らのようでありたいと思いませんか。
どんなことも曖昧にせず、感動を真っ直ぐに表現し、
リスを見たあの子のように、透明感を持ち続けたいと、
私は思うのですが、いかがでしょうか。』

 その続きを再現する。

   *     *     *     *     *

 実は、私たちの身近にいる同世代の中にも、
あの子らと同じように、
充実した生き方の手がかりを教えくれている方々がいます。
 これも3つ、紹介します。

 1つ目、場所は総合体育館内のトレーニング室。
そのロッカールームでの1コマです。
 汗を拭きふき、着替えに時間がかかっていました。
すると、体を動かし終えた同世代の方が2人、戻ってきました。

 聞くとはなしに、2人の会話が耳に入ってきました。
「今夜は、シルバーのアルバイトで、斎場の交通整理なんだ。」
 「あれ、ちょっとした小遣い銭稼ぎになるよねぇ。」
「そうなんだよ。これからは寒いけど、
時々なら、いい小遣いが入るから・・。」
 「まあ、元気だからできるんだよ。」

 そう言いながらも、私より早く着替えが進んでいきます。
会話も続きました。
 「元気はいいが、最近物忘れがひどくてさ。」
「そうそう、同じだよ。」
 「家にいても、さっき置いた物の場所を、
すぐ忘れてしまうんだよ。
 探し物、ばっかりさ。」
「まったくだよ。忘れる! 忘れる!」
 「もう、どうしようもないわ。」
「本当だ。本当!」

 2人は、そう言い合いながら、
さっさと着替えを済ませ、ロッカールームを出て行きました。
 ところが、そのベンチにタオルが1枚残っていました。

 私は、あわてて廊下に顔を出し、タオルをかざして、
「あのー、タオル、忘れてますよ。」
 「ほら、また忘れた。」
私の声に振り返り、2人は顔を見合わせ、大笑いをしていました。
 
 おおらかに老いを笑い飛ばす2人。
全然老け込んでなんかいません。
 何故か肩の荷が軽くなりました。

 同時に、あの日「すげーえ、すげー!」
と言っていた中学生(前回ブログ参照)の、あの明るさを思い出しました。
 どこか似ているように思えてなりません。

 2つ目は、これまたトレーニング室での出会いです。
ランニングマシンで走って、大汗をかきました。
 他の機器を使うため、Tシャツを着替えにロッカールームへ戻った時です。

 そこで、汗を拭いていると、
見慣れない同世代の方が、額に汗を浮かべて入ってきました。
 私を見るなり、「定期券、持ってるの?」と、訊いてきました。

 伊達に来てからは、こんな何の前ぶれもない問いかけに、
だいぶ慣れたので、私は即答しました。
 「いや、回数券です。」
「そうか。」
 しばらく、沈黙がありました。

 ご存じかと思いますが、
トレーニング室の料金は1回300円、
回数券なら3000円で11回、
定期券は6000円で3ヶ月何回でも利用できます。

「それで、週どのくらい来るの。」
 再び訊いてきました。
「そうですね、週1回か2回です。」

 「じゃ、回数券がいいか。
俺さ、定期券買ったんだよ。
 それでさ、なんか勿体ないから、毎日来てるんだ。
損しないようにって、
時々、午前と午後の2回来る日があるんだけれど、
もう、疲れちゃって。」

 「それは、頑張り過ぎですよ。」
「そうか、体、壊しちゃうな。今度は、回数券にするわ。」
 話しながら着替えを済ませ、
「じゃ、また」と彼はロッカールームを後にしました。

 「エッ、勿体ないだって。1日2回も・・。誰か、止めてやらないと」
そう思いながら、その生真面目さが、
「エッ、ちがうよ、オジサンじゃないよ」
と、言い合っていた下校中の小学生(前回ブログ参照)と重なりました。

 そして、もう1人、紹介します。
市役所から依頼があり、国勢調査の調査員を引き受けました。
 担当は百数十軒の世帯でした。

 調査依頼を始めて3日目でした。
あるお宅を訪ねた時、ご主人は丁度家庭菜園の手入れをしていました。
 作業の手を止めて、調査書類を受け取り、
私からの一連の説明も真剣に聞いてくれました。

 そして、世帯主名と同居者の人数を聞き取ったその直後でした。
「これ、いつからやってるんだ。」
 「訪問ですか。3日前からですが・・。」
「3日も前からなのに、随分遅いじゃないか。
早くもって来いよ。」
 ご主人の声は、やや尖っていた。

 私は、その勢いと予期しなかった言葉に驚き、
「それはそれは、失礼しました」。
 軽く頭をさげ、その場を立ち去りました。
当然、不快感が残りました。
 でも、気持ちを切替えて、次の家へと・・。

 そして、翌日の夕暮れ時でした。
同じ通りで、留守だったお宅に再度依頼へ行きました。
 「早くもって来いよ」のお宅前を通りました。
たまたま玄関からあのご主人が出てきました。

 すぐに、私を呼び止めました。
「まだ、配っているの?」
 「はい、留守の所があるもんですから・・」。
できるだけ明るい声で応じながら、
またクレームかと身構えました。

 「丁度よかった。俺さ、昨日変なことを言ってしまった。
沢山の家を回るんだから、何日もかかるのに、
いや、済まなかった。」
 ご主人は、軽く頭をさげ、静かな表情で私に向かって続けました。
「あんたがいなくなってから、気づいてさ・・。今、会えてよかったよ」。
 「いえ、いえ・・、そんな・・。」

 ご主人の気持ちの変化が、手に取るように分かりました。
そして、リスの出現とその後の不安、困惑、
そして安堵する少年の思い(前回ブログ参照)と、
このご主人の心境に、共通性を感じました。

 さて、「学ぶ」と言う言葉の語源は、
「真似る」だと聞いたことがあります。
 今日、紹介した子ども達や同世代の方々から、
これからの長い人生の過ごし方を学びたいと思いました。
 まずは、日々の何気ない時と場で、「見よう見まね」。
そっと、真似てみよう・・と。
 



    ヒナゲシの季節も過ぎる
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