ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

給食でしか・・無性に食べたく

2024-10-19 10:37:08 | あの頃
 就寝前のひと時、テレビのチャネルを回していたら、
バラエティー番組で学校給食が話題になっていた。

 「某居酒屋のメニューにある『チリコンカン』は、
学校給食で食べた懐かしい味だ」と言う。
 急に興味がわいた。

 「チリコンカン・・・?」
私の記憶にはない献立名だった。
 どうやら豆料理のようで、
牛肉、大豆、玉ねぎなどをトマトと一緒に煮込んだものらしかった。
 
 番組では、それを美味しそうに食べる居酒屋の場面が
紹介されていた。
 少しお酒がまわったお客さんが、
チリコンカンを前に言う。

 「これ、給食でしか出たことがなかったけど、
昔、よく学校で食べました。
 人気がありましたよ。
あの頃も美味しかったし、今も時々食べたくなります!」。

 さて、私の給食体験だが、小学校4年から始まった。
当時は、いつもコッペパンと牛乳(脱脂粉乳だったかも)、
それにおかずが1品ついた。
 給食が美味しかったイメージはない。
でも、いつもみんなと同じ物を食べることができた。
 それがすごく嬉しかった。

 教職についてからは、ずっと給食のお世話になってきた。
ふと、テレビ番組のあの彼のように、
「給食でしか食べたことがなかったものってあっただろうか?
今も食べたくなる給食ってあるだろうか?」
 現職の頃に想いを巡らせてみた。

 
  ① 給食でしか食べたことがなかったもの

 まず上げたいのは、『ミネストローネ』だ。
最初に食べたのは、ベテラン教員になってからだ。

 「ミネストローネ」と献立表にあっても、
どんな物か想像できなかった。
 気さくな栄養士さんだったので、前の日に訊いてみた。 
 
 すると、イタリア料理で綺麗な色のスープだと言った。
その日の朝、同じ説明を子ども達にし、
「楽しみだね」と言った。
 本当は、私が一番楽しみにしていた。

 トマトの色だとも知らずに、
具だくさんの赤いスープの美味しさに驚いた。

 今は、たまたま入ったレストランで、
本日のスープが「ミネストローネ」だったりすると、
宝くじにでも当たったような気分になる。

 次は、デザートとして出てきた果物、『ビワ』である。
長野県や千葉県が主な生産地らしいが、
それまで見たことのないフルーツだった。

 きっと知識として、名前は知っていたと思うが、
ビワとの初対面は、担任をしていた教室でだった。
 どうやって食べるのか、知らなかった。

 子ども達が、手で器用に皮をむくのを見て、
真似してむいた。
 その後も盗み見て、食べ方を知った。

 食べ慣れずに、果汁がこぼれ落ちそうになり、
子ども達に気づかれないようにと緊張して食べた。

 真ん中に予想外に大きな種があった。
慌てて、私のだけだろうかと子ども達の種を見回した。
 そんなことがあったけど、上品な甘さが一度で好きになった。

 今は、当地でも春にスーパーのフルーツコーナーに、
箱入りのものが並ぶ。
 高価な値が付いている。

 「これじゃ、この辺りの学校では、
給食に出ることはないだろう」
と思いつつ、私も素通りしている。

 最後は、冷凍みかんだ。
冬を迎える頃から春まで、よく普通のみかんが出た。
 時季的には珍しいことではなかった。

 しかし、いつからだろうか。
みかんの前に、冷凍みかんの日が時々あった。

 給食の配膳をしている間に、冷凍が徐々に解けだした。
給食のお盆が濡れ、パンにその水が浸みることがあり厄介だった。
 
 皮は柔らかくてむきやすい。
一房一房も食べやすかった。
 でも、どうして冷凍みかんが出るのか不思議だった。
 
 時折、思い出してスーパーで探してみたが、
冷凍みかんが人気商品だとは思えなかった。
 今も、やっぱり不思議なまま冷凍食品のケースを覗くことがある。


  ② 今も食べたくなる給食

 ネットに、こんな触れ込みのアンケート調査があった。
『ときどきふと思い出して、無性に食べたくなる給食ってありますよね。
なかでも特に好きだったメニューが人それぞれあるかと思うので、
みんなの “推し” をアンケートで調査してみました』。

 そのベスト3は、1位『揚げパン』、2位『わかめごはん』、
3位『カレーライス』であった。
 どれも、十分に納得できた。
その1つ1つは、私にとっても『今も無性に食べたくなる給食』である。

 他にも食べたくなる給食がある。
その中から、2つを記す

 1つ目は、『煮込みうどん』である。
特に低学年の場合だが、
給食の配膳を子どもだけに任せることができないメニューであった。
 煮込みうどんは、担任が給仕しても大変だった。

 苦労してやっと全員に取り分けて、食べ始めるのだが、
いつ食べても、このうどんは本当に美味しかった。

 学校によって、またその時々によって、
煮込みの具材も味付けも違った。
 それでも、具だくさんでその味がよくうどんにしみ込んでいた。
給食でしか食べられないうどんだった。

 ある時、あまりにも美味しかったので、
栄養士さんに、どこの製麺所のものか尋ねた。
 返ってきた答えは、
「普通の業務用冷凍うどんです」。
 これには、ビックリした。

 2つ目は、『おでん』だ。
 これも、配膳が難しかった。
何種類もの具を均等に取り分けるのだが、うまくいかない。
 だから、「だいたい同じにするけど、全部は同じにならないよ」
と、納得させてから給仕した。

 高学年になると、みんなが何度も当番を経験していたので、
その苦労がわかっていた。
 不満を言う子などいなくなった。

 このおでんだが、煮込みうどんと同様で、
色々な具の旨みがしみて、実に美味しいのだ。

 特に、大根は思い出すだけで、唾液がでてしまう。
どこのおでん屋にも負けない美味しさだった。

 もう一品、忘れられないのが昆布だ。
固く結んだ昆布だがすごく柔らかく、
普段は好まない具材だが、喜んで食べた。
 ご飯まで、いつも以上に美味しかった。




     牧草ロール 着々と冬支度 
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あの頃の給食事情

2024-06-15 19:00:27 | あの頃
 ▼ 家内と一緒のゴルフは、
いつも、地元・伊達カントリーの午後スタートである。
 18ホールを一気に回ると、
スコアーの善し悪しに関わらず、
年々、疲労感が強くなってきた。

 だから、帰宅後は2人とも、
テレビの前に座り動こうとしない。
 夕飯は、スーパーの弁当や外食が、
ここ1、2年の定番になった。

 先日も、ハンバーグレストランへ行った。
若年層に人気のお店であるが、
この店の味が好きになり、年に数回は行くようになった。

 席に着くとすぐに、
店員さんから期間限定メニューの紹介があった。
 最近聞き慣れてきた『ディッシュ』だった。

 きっとボリュームがあるだろうと思いつつ、
美味しそうな写真に引かれて、注文した。

 運ばれてきたのは、1枚の平たくて深い皿に、
写真通りハンバーグともう一品、
それにライスと野菜が載っていた。

 案の定、食べ応えのある量に驚きながらも、
時間をかけて、箸を動かした。

 くり返しになるが、『ディッシュ』で使う食器は、
1枚の皿だけである。
 ふと、食事後の食器洗いは皿1枚と箸1膳で済む。
安価で料理を提供したいお店にとっては、
人件費削減を考えるとこれは最適なメニューではなかろうか。

 そんなことに想いを巡らせながら、
ついついあの頃の給食事情を思い出していた。

 ▼ 今もそうだろうが、都内23区の小中学校は、
それぞれの学校の給食室で調理をして提供する自校給食であった。
 ところが、教頭として赴任したK区の某小学校には、
栄養士が配属されてなかった。
 
 区教委から届いたその月の献立表を基に、
学校行事に合わせてアレンジした独自の献立を作成するのも、
その食材を発注するのも、調理の手順を決めるのも、
業者への支払いも、
給食担当の先生と調理員さんで手分けして行っていた。
 教頭の私は、そのまとめ役だった。

 担任の頃は、子ども達と一緒に配膳をし、
楽しい雰囲気の中で、残さず時間内に食べさせることが役目だった。
 それとは異なる経験のない仕事であった。

 ▼ 毎週、給食担当の先生と調理員さんに、
私も加わり、打ち合わせ会を行った。
 次週の発注から調理手順まで、細部にわたって話し合った。

 その場で、度々押し問答になることがあった。
それは、その日その日の食器の種類だった。

 用意する食器は、献立によって異なるはずだ。
でも、調理員さんからは、
「1人2種類までの食器にしてほしい」
と、いつも要望したのだ。
 
 「この献立は、食器を3つにして食べさせたい」
給食担当の先生が主張する。

 「食器2つと3つでは、食器を揃えて運ぶのも食器洗いも、
作業量が全然違います。
 度々は、無理です。
今週の野菜炒めは、使い捨てアルミ皿で出しましょう」

 「使い捨てにすると、それ分だけ給食費を使うことになります。
献立にも影響します。
 決していいことではありません」

 険悪な雰囲気で話し合いはしばらく続く。
そして結論は、次の3つのいずれかに決まる。
 ・本来は3つの食器のところを、何とか2つで盛る
 ・1つの食器を使い捨て皿にする
 ・調理さんに頑張ってもらって3つの食器に盛る。

 そして、いつも最後は誰かがつぶやく。
「調理員さんがもう1人いれば、
いつだってできることなのに」と。

 ▼ K区で教頭を6年経験した後、
S区に校長として着任した。
 そこでは、給食調理の民間委託が進んでいた。

 それまで、調理員は学校規模によって若干違ったが、
小学校も中学校も1校4、5名の区職員だった。

 ところが、民間委託になると調理員の人数にも違いがあった。
献立の変化に応じて、民託の会社からヘルプの調理員が、
派遣される仕組みになっていた。
 フルタイムで1、2名増員が日常的にあった。

 教頭として頭を痛めた食器数の問題も、
2種類から3種類になる日は、
会社が、午前中だけ勤務のパートさんを、
時間延長で対応したりしてくれた。
 
 そればかりではなかった。
4,5名に固定されていた調理員では、
決してできなかった給食が、2つ可能になったのだ。

 その1つは、月に1,2回の『セレクト給食』である。
その給食の1週間くらい前に、
各学級で担任から口頭でのアンケート調査がある。 

 例えば、 
「来週の木曜日は、セレクト給食です。
 焼きそばとナポリタンのどちらがいいですか」
担任の問いに、子ども達は挙手で答える。

 セレクト給食の日、挙手した子供の人数分の給食が教室に届くのだ。
誰もが同じ献立ではなく、食べたい方の給食なのである。

 この日の給食室は、完全に2種類の違う献立を作ることになる。
当然、人手も大きく必要になる。
 会社は、それに応じてその日だけの調理員を派遣してくれた。
民間委託だからできることだった。

 もう1つは、私が最後に勤務した小学校で実施していた給食である。
年に1回だけ、しかも5年生と6年生だけ限定の『バイキング給食』だった。

 これには、1学年全員で使える広いランチルームが必要だった。
その部屋に、多彩なメニューが用意される。
 5年生と6年生が日にちをかえての、
バイキング方式での給食だった。
 お盆と取り皿を持ち、
思い思いの好みで好きなだけ取ればいいのである。
 そして、好きな量だけ食べることができた。

 この日、『バイキング給食』でない学年は、
通常の給食であった。
 だから、給食室は他学年の給食と同時にバイキング用も作った。  
それに応じて調理人員を派遣できる民間委託ならではの給食である。

 さて、今はどうなっているのだろう。
伊達市内はセンター方式の給食である。
 これまた、おもむきが違うことだろう。  
 



    花 盛 り 街路樹のヤマボウシ
※次回のブログ更新予定は 6月29日(土)です 
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3 度 の 盗 難

2024-05-25 11:53:13 | あの頃
 幸いなことに、今まで大きな災難にはあってこなかった。
全く運がいい。
 だが、思い起こせば盗難に3度もあっている。

 「2度あることは3度ある」と言う。
「だからもうあうことはない!」と安心している・・訳じゃない。
 「もう懲り懲り」と願いつつ、記憶をたどってみる。 

  ① 最初の盗難
 二男がまだヨチヨチ歩きの頃、分譲団地に転居した。
5階建て団地の1階だった。

 小さい子供が2人だ。
保育所から帰ると、3日に1回は洗濯が必要だった。
 家内が夕食の準備をしている間、
洗濯はもっぱら私の仕事だった。

 当時は、まだ全自動洗濯機ではなく二槽式だ。
洗剤で洗った後に脱水槽へ移し、
脱水後、再び洗濯槽に入れて、すすぎ洗い。
 その後、再び脱水槽へ移動して脱水。
すすぎ洗いの行程は2度繰り返した気がする。
 とにかく手間がかかった。

洗った後は、1つ1つ物干しハンガーに干した。
 夜はそのままベランダの竿竹にぶら下げ、
悪天候でなければ、
翌日の夜まで干したままにした。

 さて、団地の1階ベランダだが、
普通のアパートに比べると床面が高かった。
 簡単には侵入できない。
しかも、周囲は芝生の広場で見通しがきいた。
 
 それでも、もしものためにとベランダへの出入口は施錠した。
干した洗濯物への警戒は、全くしていなかった。

 ところが、帰宅後いつものようにベランダへ、
昨夜の洗濯物を取り込みに行った。

 違和感があった。
確か物干しハンガーの全ての洗濯バサミに、
4人の下着と靴下をつるしたはずだ。
 なのに、ところどころ歯抜け状態になっていた。
もう1つの物干しハンガーも同じだった。 
 
 「もしかして下着泥棒!」
そう思って見ると、
家内のものが全て無くなっていた。

 「やられた!
夜中か、それとも日中か!?」
 怒りがふつふつとこみ上げた。

 私の知らせを聞いて、家内もベランダへ飛び出した。
そして、物干しハンガーを確かめながら、
「私のだけじゃないわよ。
あなたの色柄のブリーフも無くなっている!」。

 「そっか! きっと俺のブリーフも女物と思ったんだ。
男物と気づいて、今ごろガッカリしてるさ。
 馬鹿なやつだ!!」。
そう言い放つと、怒りが一気に消えた。


  ② 空き巣の善意
 子ども達1人に1部屋をと、
同じ団地だが部屋数の多い間取りへ転居した。
 今度は、2階にした。

 やがて2人には、ここから高校、大学へと
通ってもらうつもりでいた。
 しかし、現実は違った。

 長男が、京都の大学へ合格した。
胸を張って、京都暮らしを始めた。
 友人が、
「それを、合法的家出と言うんだよ」
と教えてくれた。
 それから3年後、二男までが同じように
「合法的家出」をした。

 そんなことがあった年の夏休みだった。
父の墓参りにと、家を空けた。

 1週間後、職場や知り合いへのお土産を買い込み、
帰路についた。

 団地2階の鉄扉にキーを刺した。
施錠したはずなのに、音もなく軽くカギが回った。
 不思議な気持ちのままノブを回し、玄関の扉を開けた。
室内から風が外へ流れた。  

 違和感が増した。
何かがいつもと違っていた。
 まさかと思いつつも、
もしものことを想像し家内を玄関口に残した。
 私だけ靴を脱ぎ、室内へ入った。

 テレビを置いた台と周辺の収納棚の引き出しが、
全て外され、積み重なっていた。
 「ねぇ、やられた。泥棒だ!」
家内へ叫んだ。

 キッチンの部屋、和室、私の机がある部屋。
そして、息子らがいた部屋と次々に回った。
 どの部屋も、引き出しの全てが外され、
部屋ごとに綺麗に積み重ねられていた。
 
 クローゼットや押し入れも、物色した形跡があった。
タンスの大きな引き出しも外され、横に重ねてあった。
 被害がどの程度か不安になった。 
 
 「まずは警察!」と連絡した。
しばらくして数人の刑事さんらが来た。
 私達への聞き取りの後、
足跡や指紋の採取を始め、
侵入経路など泥棒の行動を捜索した。
 私達には、盗まれた物を確認するようにと指示があった。

 部屋とベランダの間のガラス窓が、
施錠部分だけ割れていた。
 泥棒は、何らかの方法で2階のベランダに上った。
そして、窓ガラスを小さく割ってカギを開け、部屋へ入ったのだ。
   
 きっと犯行は夜だったに違いない。
数日は戻らないと知ってか、
侵入後は時間をかけて全部屋を丁寧に物色した。
 それは、きれいに積み上げた引き出しから、
私にも推測ができた。

 被害は、それぞれの引き出しにあった現金だけだった。
さほどの額ではなかった。
 タンスの引き出しには、数冊の預金通帳も印鑑もあった。
でも、それには手を出さずそのままだった。
 衣類も装飾品も、1つとして盗まれていなかった。

 それどころか、捜査した刑事さんも思わず、
「律儀な泥棒だ」とつぶやいたが、
食器棚の引き出しにあった封筒の現金だけは、
そのままになっていた。 

 その封筒には、毎月私の母と
家内の両親に送る1万円札が数枚入っていた。
 封筒の表には家内の字で
「お母さんと私の父母へ送るお金」と書いてあった。

 「きっと泥棒は、封筒の表書きを見て盗みをためらった」
私もそう思った。
 泥棒なのに善良な人のように思え、
怒りを一瞬飲み込んだ。


 ③ 酔いが覚める
 その日は、S区による監査委員監査があった。
主に教頭先生と事務職員の仕事内容が、
厳格にチェックを受けた。
 不備があれば、当然監督責任を校長の私が負うことになる。
結果は大きな指摘もなく、無事終えることができた。

 その夜、駅前で教頭さんと2人でお酒を酌み交わした。
お酒の勢いもあって、
その後、彼の好きなカラオケへ足を伸ばした。
 珍しく酒量も進んだ。
時間も遅くなった。

 彼とは駅で別れ、電車に乗った。
車内はガラガラで、空席があった。
 座るとすぐに、寝てしまった。

 電車が、駅に停止したのに気づいて、目が覚めた。
私が降りる1つ前の駅だった。
 このまま座っていたら、また寝るような気がした。

 寝過ごさないようにと立ち上がり、
ドア近くの手すりまで移動した。
 いつの間にか手すりにもたれ、立ったまま寝入ってしまった。

 電車が止まった揺れで、目覚めた。
幸いなことに、私の降車駅だった。
 カバンを持っているのを確認し、ホームに降りた。
ゆっくりと階段へと歩き出した。

 急に、異変を感じた。
いつも二つ折り財布のあるスーツの内ポケットが軽い。
 ポケットを、手で触ってみた。
「財布がない!」

 立ち止まって、スーツを広げ内ポケットを見た。
一気に酔いが覚めた。
 内ポケットの入口ボタンはしっかり止まっていた。
ところが、ポケット下の裏地がスッと切られ、
口を開けていた。
 そこから財布は抜き取られたのだ。

 手すりにもたれて眠った間のことだろう。
まんまとやられてしまった。
 それにしても、裏地を一直線に切るなんて、
あまりにも危険な手口だ。
 気づかずに寝入っていたのが、幸運だったかも。

 駅からのタクシー代もないまま、
しばらくは冷静さを失っていた。




 クリンソウと言うらしい ~だて歴史の杜『野草園』
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猛暑への備え あれこれ

2024-04-27 10:17:11 | あの頃
 ① 自宅に初めてエアコンを設置したのは、
30歳代になってすぐだった。

 それまで賃貸の団地住まいだったが、
近くにやや広い分譲の団地が販売された。
 家族が4人になったこともあり、
思い切って購入することにした。

 そこへ移るときに、
LDKの部屋だけエアコンを付けた。
  
 その後、近隣の地域を2度転居したが、
エアコンのある部屋は、1室から2室に増えた。
 当たり前のように、夏の生活必需品になっていた。

 ② ところが、首都圏での最後の夏のことだ。
その年、あの3,11があった。
 大地震、大津波、そして原発事故と続いた。

 住んでいた千葉市の海浜地区は、
方々で液状化現象が発生した。
 電柱が軒並み傾いた。
戸建住宅の中には大きく家屋が傾斜し、
住めなくなった家庭もあった。

 その上、首都圏は原発の影響で電力不足になった。
計画停電が実施された。
 道を挟んだ隣の住宅街一帯が停電になり、
真っ暗闇という事態が何日も続いた。

 ニュースはしきりに節電を呼びかけた。
当時、30階建てマンションの9階で暮らしていた。
 高層階の方々はともかく、
私たち2人は節電のためエレベーターの使用をひかえた。

 60歳を過ぎたばかりだったが、
9階までの上りは息が切れた。
 階が増すにつれ、足がどんどん重くなった。
それでも、あの惨事を思い浮かべ、
「これくらいは!」と頑張った。

 やがて夏が迫り、
夜になっても昼間の暑さが解消しなくなった。
 当然、自宅でもエアコンの出番だった。

 しかし、計画節電は終了したものの、
相変わらず電力事情は、改善されていなかった。
 「エアコンは、28度に設定して使用してください」
そんなアナウンスがくり返されていた。

 私は、エアコン使用をためらった。 
9階住まいだ。
 窓を開け放っていても、空き巣の心配はなかった。
深夜も開けたままでよかった。
 ならばと、
「どこまでエアコンを使わないでいられるか、
やってみないか!?」
 家内に提案してみた。

 真夏、最高潮の暑さが続いたが、
それでも、窓を開けていれば、
寝苦しさも耐えられた。
 
 扇風機にうちわ、それにかき氷で、
エアコンを使うことなく夏を乗りきった。

 ③ その年の秋、
伊達の我が家は、基本設計が終わり、
諸費用等の提案があった。
 正式な工事契約の前に業者さんとの話し合いが必要になった。

 家内と一緒に伊達まで来た。
そして、建設会社の担当者2人と対面した。
 2人と会うのは3度目だった。
気心も分かり、遠慮なく相談ができた。

 その席で、エアコン設置が話題になった。
私達は、伊達の暑さについて経験がなかった。
 2人の意見を参考に決めようと思った。

 ところが、2人の考えは割れた。
私達と同世代の上司は、
「このくらいの暑さ、エアコンは要りません。
我慢できますよ」と。
 そして、現場を取り仕切る若手は、
「これから先を考えると、行く行くは必要になります。
付けて置いた方がいいかと思います」。

 脳裏に浮かんだのは、今年の夏の経験だった。
東京のあの暑さを、エアコンなしで乗り切った。
 「このくらいの暑さ・・・我慢できますよ」 
同世代の意見に心が傾いた。

 基本設計にあった2台のエアコン設置は、
削除となった。
 
 ④ それから11年が過ぎ、
昨年の夏だ。
 日本だけじゃない、世界中が凄い暑さだった。
温暖化を越え、沸騰化とまで言われ、
それを伊達でも実感した。

 突然、エアコンの設置について、
「行く行くは必要になります」。
 建設会社若手の言葉が蘇った。
でも、急のエアコン設置は無理に違いなかった。

 せめて新しい扇風機でもと、家電量販店へ出向いた。
「今日、ようやく店に届いた人気の品です」
 店員さんのセールスについのせられ、
高価な一機を購入した。

 しかし、それとて猛暑をしのぐまでには至らなかった。
期待が外れた。
 「絶対に、来年の夏までにはエアコンを付けよう」
そう思いながら、
高価な扇風機の風に涼をすがり、夏を越えた。
 
 ⑤ 年明けてすぐ、
自治会の会館の冷房化が、役員会の話題に上った。
 「早く発注しないと夏に間に合わないのでは」
そんな意見が飛び出した。
 「きっと、値段も上がっているはず」
と言う意見も・・・。
 早々担当を決め、見積もりをとった。

 店によって、対応に開きがあったが、
設置工事も値段も、心配には及ばなかった。
 発注すると、すぐに工事日決まり、
あっという間に、取り付けが完了した。

 「ならば」と、我が家も夏を待たずに設置をと、
再び家電量販店へ行った。
 タイミングよく、エアコンの大セールをしていた。
通常の日より、数万円安い値がついていた。
 設置は、家を建てた業者に頼んだ。

 高密度高断熱の寒冷地仕様の家である。
きっと、室内の冷気もさほど戸外へ流失しないのでは・・・。
 期待しながら、今夏の猛暑を待つことに・・・・・。




     枝先まで 満開 
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4 月 の 学 校 風 景 よ り

2024-04-13 12:37:25 | あの頃
 4月ももう第2週である。
朝のジョギング中に、
交通安全の黄色いカバーをかけたランドセル姿を見た。
 小学校に入学したばかりの1年生である。

 ある子は、途中までだろうけどお母さんが付き添っていた。
兄弟なのか近所の子なのか、上級生と一緒の子もいた。
 1人で登校する1年生はいない。
それだけでホッとするのは、私だけだろうか。
 
 朝食を摂りながら、家内とかわした
学校の4月にまつわる話題から2つ。

 
  ≪その1≫
 私の小学校では、入学式の進行役は副校長(教頭)先生だった。
「ただ今より、新1年生が入場します。
皆様、拍手でお迎えください」

 すると、『1年生になったら』のピアノと、
大きな手拍子の中を、
先生方の誘導で、式場の前方に並ぶ椅子席へと、
緊張したピカピカの1年生が入場を始める。

 並んだ列の順に椅子に座ると、すぐに式は始まる。
初めて体育館に入った子ばかりだが、
キョロキョロする間などない。
 式は次々と進んでいく。

 『開式の辞』『礼』そして『国歌斉唱』。
続いて『校長先生のお話』。
 私の出番である。

 入学式での私の話は、毎年ほとんど同じパターンだ。
第一声は、
「1年生の皆さん、H小学校へのご入学、
おめでとうございます」
である。
 すると稀に、やや遅れて「ありがとうございます」と、
バラバラに声が返ってくることがある。

 でも、ほとんどの年は無反応。
無言でジッと私を見たまま。
 そこで、「あれ、なんか変だよ。
私は、おめでとうございますって言いましたよ。
 さて皆さんは、なんて言えばいいのかな?」
ソフトな声で訊く。
 
 「ありがとうございます!」
そうつぶやく子が1人2人と出てくる。
 「そうだね。ありがとうございますって言うんだよね。
いいー!?
 できるかな!?
じゃ、やり直しますよ」。

 子ども達がうなづくのを確かめてから、
再び「1年生の皆さん、ご入学おめでとうございます!」
と、一礼する。
 今度は、一斉に「ありがとうございます」と大きな声だ。
式場は一気にアットホームな雰囲気に変わる。

 次に、お客様やお家の方、6年生のお兄さんやお姉さんが、
皆さんの入学を祝って、式場にいることを伝える。

 そして、おもむろに上着の内ポケットから、
1枚の紙を取り出しながら言う。
 「これから、『ぞうさんぞうさんお鼻が長いのね』の
歌詞を作ったまどみちおさんの詩を読みます」。
 すると、1年生は不安そうな表情で、その詩を聞く。

     チョウチョウ
           まど・みちお

  チョウチョウは
  ねむる とき
  はねを たたんで ねむります

  だれの じゃまにも ならない
  あんなに 小さな 虫なのに
  それが また はんぶんに なって
  そっと…

  だれだって それを見ますと
  せかいじゅうに
  しーっ!
  と めくばせ したくなります

  どんなに かすかな もの音でも
  チョウチョウの ねむりを
  やぶりはしないかと…

 静かにゆっくりと詩を読んだ後は、できるだけ短く、
「半分になって眠るチョウチョウも、
それを見て、世界中にしーっと目配せするまどさんも、
なんて優しいんでしょうね。
 すごいね。
さあ、みなさんもそんな優しい子になれるといいなあって、
私は願っています」。

 その後、式場後方席の保護者へ、
祝意を伝え、私の話を終えるのだが、
入学式ではいつもこの詩を読んだ。
 緊張した1年生の中に、明るい表情になる子がいる。
「それでいい」と納得していた。


  ≪その2≫
 東京に限ったことではないようだが、
不思議と入学式から数日の内に、必ず雨が降った。

 まだ慣れてないランドセルを背負い、
これまた、慣れない通学路を学校へ向かうのだ。
 それだけでも大変なのに、雨である。

 雨がっぱを着る子もいれば、
大きな雨傘をさし、
時には強い風に見舞われる。

 当地では、
そんな朝は学校近くまで、車で送る保護者を見かける。
 しかし、私が勤務した小学校は、
どこでもそんなことを黙認しなかった。

 だから、入学したばかりの1年生にとって、
この雨は、最初の大きな試練なのだ。

 毎年、どの子も上級生の助けを借りながら、
なんとか無事に登校してくる。
 でも、担任にとって、気が気でない朝である。

 学校に着いてからも心配だ。
傘の置き場を覚えているだろうか。
 雨がっぱの掛け方も場所も分かるだろうか・・。
 
 だから、いつもは教室で子どもを迎えるが、
この日だけは児童用昇降口で、
担任は1年生を迎えるのである。
 
 初めて雨の中を登校した1年生は、
玄関で担任を見て、ホッとした表情を浮かべる。
 こんな機会があったから、距離が近づく子もいる。

 さて、退職する3年前であった。
S区教委の雇用制度が変わり、
私の学校の主事さん3人が、
一気に民間会社からの派遣になった。

 3人の主な仕事は、校舎内外の清掃、来客の応対、
簡単な破損修理などだった。
 勤務する前に、
2週間ほど学校勤務の研修を受けてきたが、
 男性1人女性2人は、
共に学校は初めての仕事場だった。

 それでも、初日の4月1日から、
細々とした仕事を精力的に行った。
 その様子を見て一番安堵したのは、
副校長先生だった。

 やはり、その年も入学式から数日して、
雨の朝になった。
 2人の1年担任は、
やっぱり昇降口で、登校する新1年生を待った。

 いつもは校門で子どもを迎える私も、
この日だけは、
人手が必要だろうと昇降口にいることにした。

 校門を抜け、登校する子ども達が現れた。
どの子も傘をさし、1年生にあわせ、
ゆっくりとした足どりで近づいて来た。

 それを見た主事の3人が、
乾いたタオルの入った段ボール箱を持って、
昇降口に現れた。
 そして、担任と私からやや離れた後ろに控えた。
初めてのことだった。
 何が始まるのか、分からなかった。
 
 担任は、傘の置き場を教えカッパを脱ぐ手助けをし、
私も同じように慌ただしく1年生の世話をした。

 合間に、後方の3人を見た。
傘を置いたり、カッパを脱いだりした1年生を
呼び止めていた。
 そして、
「冷たかったでしょう。大変だったね」
と言いながら、
雨で濡れた頭や肩を、タオルで拭いていた。

 黙ったまま、拭かれる1年生に
「ありがとうございます!っていいな」
と、助言する高学年の声が聞こえた。
 
 時には、「ボクも拭いて」と、
ねだる2年生3年生もいた。
 どの子も嬉しそうに教室に向かっていた。
長い教職だが、初めて見る雨の日の光景だった。
   
 以来、退職までの3年間、
雨の日には必ず、昇降口で濡れた子どもの体を、
3人は「冷たかったね。大変だったね」
と言いながら、タオルで拭いていた。

 いい学校で退職を迎えたと今も想う。




    お気に入りの散歩道8 もう春
                  ※次回のブログ更新予定は 4月27日(土)です
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