ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

秋 は 食 欲 !!

2024-10-26 10:55:02 | 北の湘南・伊達
 休日のお昼時、久しぶりに伊達観光物産館へ行った。
駐車場は空きスペースが少なかった。
 札幌や苫小牧それに旭川ナンバーの車まであり、
当地の特産品が人気なようで、嬉しくなった。

 物産館では、10月になると、
伊達産ジャガイモ、玉ねぎ、カボチャの3点セットの
地方発送が始まる。

 この日は、その申し込みが目的だった。
首都圏の友人と息子の計5軒へ発注した。
 当地の秋の味覚だ。
「きっと美味しいに違いない!」。
 喜んでもらえたらいいなぁと願った。

 さて、1週間後にそれぞれから、
お礼のメールが届いた。
 中には、肉じゃがの写真までそえて・・・。
「みんな、大歓迎!」

 私たちも早々、ジャガイモを茹でた。
家内はバターをのせ、
私はと言えば、「そんな食べ方する人いないよ」と言われても、
砂糖で甘みを加え、朝食のテーブルへ・・・。
 期待通り、「うまい!」。
黙々と食べる。
 やっぱり、秋は食欲を誘う。
今秋の味覚から、3つ記す。

  ① 秋刀魚
 2、3年前から、秋の鮮魚売り場に秋刀魚を見ることが少なかった。
あっても、庶民の味ではなく高値がついていた。
 「こんな高いんじゃ・・!」
秋刀魚を手にしなかった。

 ところが、今年は秋口から秋刀魚を鮮魚売り場で見た。
価格も、昨年までとは違った。
 庶民の値だった。

 どれも、小ぶりで細かったが、
はたして味はどうなのだろう。
 姿かたちから、若干不安があった。

 でも、大きそうなのを4匹袋につめた。
「まずは、煮て食べてみよう」。
 私の提案に、家内も同意した。

 1匹を2つに切って、
8切れの秋刀魚の煮付けが、夕食に並んだ。
 
 実に久しぶり、秋の味だった。
秋刀魚の美味しさを思い出した。
 「やっぱり、秋は秋刀魚だね」
そう言いながら、箸が進んだ。
 そして、「今度は塩焼きに大根おろしをそえて」
と決めた。

 しばらく日をおいて、秋刀魚の塩焼きが、
食卓にのった。
 皿の横には、大根おろしも。
骨をとった秋刀魚の身にそれをのせて食べた。

 これぞ、まさに秋刀魚だった。
もう少し大ぶりであってほしいが、
美味しさに大差はなかった。

 懐かしさとともに、
「やはり秋刀魚は、塩焼きがいい!」
 楽しみが増えた。

  ② りんご
 秋は次々と美味しい果物が店先に登場する。
桃、ぶどう、梨、りんご、柿・・・。
 すぐに手が伸びそうだが、
どうもりんごだけは、子供の頃からさほど好まなかった。

 ただし、アップルパイは別だ。
どんな洋菓子よりも好きで、
当地のK菓子補のその美味しさは最高。

 そのりんごについてだが、
今年の秋は、我が家の常温庫にいつも数個がある。

 嬉しいことに、秋になると、
数日おきに玄関のチャイムがなった。
 急いで玄関ドアを開けると、
レジ袋に入った野菜や果物を掲げ、
「少しだけど、食べて・・・!」
ご近所さんが笑顔で立っている。

 どうしたことか、
今年はりんごを頂くことが多い。
 
 「ちょっと、余市まで行ったので・・」
「親戚から頂いたリンゴだけど・・・」
 「友だちと旅行で寄った道の駅で買ったから・・」
頂いた袋には、3,4個の真っ赤なりんごが入っている。

 それを毎朝、食べやすく切って食卓の真ん中に置く。
2人分のデザートである。
 私の先入観は、なかなかそれに手が伸びない。
ようやく一切れを食べると、
次に手が伸びないのがいつものこと・・。

 ところが、その朝のりんごは違った。
しぶしぶ食べた筈なのに、自然と次の一切れに手が伸びた。
 特別美味しいと感じた訳じゃなかったが、
もう一切れが欲しかった。
 そんな欲求が、その次も続いた。

 家内は黙って、りんごに手を伸ばす私を見ていた。
そして、皿に一切れも無くなってから、
「私の分まで全部食べて、どうしたの!?」
と、笑った。

 確か、その日のリンゴは七飯町産のものと聞いた。
当地からは、やや遠いところである。
 来年の秋、また機会があるといい。
「ええ!・・・」
 お裾分けに期待するなんて・・。
「まったく!」と私に呆れた。

  ③ 新そば
 市内には、美味しいおそば屋さんが何軒もある。
近隣市町村から、わざわざ出向いてくる人気店も・・。

 ここ数年、私はいつも同じ店で食べている。
それも、『鴨せいろ』以外を注文することはない。
 大好きな味である。

 新そばの季節を迎えた。
その店のご主人は、全国的に有名なそば店で修行し、
当地で店を持った。
 そばに、正面から向き合っているように思えた。
この時期になると、いち早く新そばにする。

 混雑を避け11時の開店にあわせ、
店の駐車場に入った。
 のれんが掛かっていない。
家内が、店に入り確認をした。
 営業しているとのことだった。
珍しく、開店時にやや混乱しているようだった。
 
 店は、4人掛けのテーブル席が4つと、
奥に10数人用の小上がり席1つあるだけ。
 
 店に入ると、先客がその小上がり席にいた。
小さな子ども連れで、大きな声の中国語が飛び交っていた。

 そこから一番遠い席に座ったが、
話し声から小上がりは満席のようだった。
 こんな小さなおそば屋もインバウンドかと驚いた。

 店員さんが、注文を受けにきた。
いつもと同じにした。
 「団体さんが入ったので時間がかかります。
お許しください」
 店員さんは、忙しく戻っていった。

 その後、次々と席は埋まったが、
奥の小上がりからは、大声の中国語が続いていた。
 でも、その席に注文したおそばが運ばれると、
店内は、いつもの落ち着きを取り戻した。

 注文から30分が過ぎた頃、
私たちのそばが、やっと届いた。

 新そばの香りがした。
しかも、いつもより太切りで、より美味しく感じられた。
 店主のそばへの気遣いが伝わってきた。

 私たちが食べ終わるころに、
小上がり席も再び賑やかになった。
 
 観光立国に日本中が移行している。
さて、彼らはこの店のそばの美味しさが分かっただろうか。
 新そばの味は、どうだったのだろう。 

 私には見当も付かない問答に、困り果てながら、
秋色に染まり始めた帰路を進んだ。




      街路樹の柿 たわわに
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自治会長 あれこれ

2024-09-28 10:37:31 | 北の湘南・伊達
 1期2年間の副会長を経て、
昨年度から自治会長をしている。
 定番の役割の他に、会長ならではの様々なことがある。
最近の中から、2つ記す。

 ▼ 宅地開発が進む前から、この地域に居を構えていた方々がいる。
記録には、70年前に37世帯が暮らしていたとある。
 その1戸だと思われる家が空き家になって、
もう5年以上が過ぎた。

 その家は、生け垣に囲まれた2階建てで、
外から見ただけでも、6つか7つの部屋はあるようだ。

 その空き家に、人が住んでいると言う。
それも、複数の外国人らしい男女だと・・。
 そんな情報が聞こえてきた。

 思いあたる節があった。
夏になる前から朝夕に自転車に乗った男女が、
我が家の前を通るのを何度が見た。
 その中には、イスラム教のスカーフをかぶった女性もいた。
きっとそのメンバーに違いないと思った。
 
 海外からの技能実習生なのだろうか。
いずれにしても、この地域内の家で暮らしているのだ。
 会長として、ある程度のことは知っておく必要があった。
まずは、訪問することにした。
 
 毎日、自転車で移動していることは間違いないので、
夕方、玄関横に5台の自転車があることを確かめてから、
インターホンを押した。

 しばらく時間がかかったが、玄関が開いた。
20代と思われる若者が現れた。
 アジア系の顔をしていた。
外国の人と直感した。

 「こんにちは、日本語、分かりますか」
ニコニコ顔で、ゆっくりと言ってみた。
 「ハイ、少しだけです」。
親指と中指を動かし「少し」を表して、私に見せた。

 まずは自己紹介である。
身振り手振りを交えながら
「私は、この当たりの人たちのリーダーをしています。
ツカハラと言います」

 「ハイ!」
理解できたのかどうか、明るく返事がきた。
 「ここで暮らして、どこかでお仕事をしてるんですね?」
「そうです。そうです」
 私は、続けた。
「どこで仕事をしてるの?」
 「センカジョウです。センカジョウ!」
「そうですか。そのセンカジョウはどこにあるの?」

 彼には、その説明が難しかったようだった。
部屋の奥に、自国語で声をかけた。

 同世代の男女が現れた。
女性はスカーフをかぶっていた。
 3人で、私が尋ねた場所を伝えようと
自国語で話し合いながら困っていた。

 私は、スマホを取り出しグーグルマップを示め、訊いた。
「センカジョウは、どこ?」
 すると、彼らは一斉に自分のスマホを出し、
その場所を知らせようと懸命になった。

 何度も何度も堂々巡りをしたが、
そこは私も知っている所だった。
 「ああ、ここで仕事してるんですね。
ここまで、自転車で行ってるのね」
 3人は口々に「はい、そうです!そうです」。
嬉しそうだった。
 1つの事が分かるだけで、彼らとの距離が縮まっていった。

 次を尋ねた。
「どこの国から来たんですか?」
 若者は 即答した。
「インドネシアです!」

 「そうですか。インドネシアですか!」。
たまたま、インドネシア語の挨拶だけは知っていた。
 なので、「じゃ、テレマカシ!」
3人の表情が、パッと明るくなった。
 そして、嬉しそうに「テレマカシ!」と返してくれた。
 
 「テレマカシ」後は、さらに打ち解けて話が進んだ。
簡単な日本語とスマホでのやりとりだったが、
彼らの世話役をしている方の連絡先も分かった。
 そして、11月までここで暮らし、仕事をすことも。

 最後に、「困ったことがあった時は、いつでも電話していいよ」。
私の電話番号も教えた。
 「ありがとうございます」
素直で明るい青年たちに、心が軽くなった。

 ▼ 役員の方から電話があった。
長年空き家になっているNさん宅前の歩道に、
幅15センチ程の穴が空いている。  
 急いで工事するように市役所へ要望してほしい。
そんな内容だった。

 まずは現地を見てからと、車でそこへ行ってみた。
丁度、花壇の手入れをしているお隣の奥さんがいた。
 自治会長だと声をかけると、
すぐに穴のところまで来てくれた。

 「近くに保育所があるんです。
そこの小さな子どもらが、よく散歩でこの道を通るんです。
 もしも、この穴に足でも取られたらって、
いつも心配してるんです」。
 私より10歳は年上と思える白髪の奥さんは、
静かにそう言った。
 
 いつの間にか、 同じように白髪のご主人も現れた。
「何かで蓋をしておこうと思っても、
私じゃ、ここを塞ぐような石は重くて、
とても無理で困ってたんです」
 
 歩道の穴に、心痛めていた老夫婦の気持ちが伝わってきた。
「わかりました。まずは、自治会にあるカラーコーンを
この穴の上に置くことにしますね。
 それから、ここの写真を撮って、
それをもって市役所にお願いに行ってきます」。

 2人は、「そうですか。すみません」と、
何度も何度も真白な頭をさげた。
 「じゃ、後ほど、また来ます」。
その場を離れながら、2人の誠実さが心に浸みていた。

 その穴は、5日後に塞がれていた。

   
 

       秋・コスモス 
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こ の 街 の  あ れ こ れ

2024-09-07 11:47:47 | 北の湘南・伊達
 ▼ つい先日、室蘭民報に掲載された
『楽書きの会』同人M氏の随筆が、心にとまった。

 要約する。
M氏が、カルチャーセンター前の公園を歩いていた時だ。
 札幌から来たという70歳代後半とみられる紳士が、
「文化的な感じがして、いい公園ですね」と。

 そして、翌朝、
栃木から来たという60歳前後の男性が通りがかりに、
「伊達は町並みといい公園といい、いい所ですね」と言った。

 そこでM氏は、こう綴る。
『改めて自分の街のことを考えてみたが、
他所から見た彼の目を引きつけたのは何処なのか、
伊達の街の魅力とは何か、明確な答えが浮かばない』。

 そして、こうも・・・。
『昨日今日、続けてこんなに褒められて考えた。
 「いい街」というのは、空気のようなもので、
当たり前だから意識しない。
 住みにくさを言えと言われたら、
5つや6つ誰でも言えるだろうにである。
 我が街の魅力を知らないことに・・・
「うしろめたさ」を感じてしまった・・・』と。

 私も12年をこの街で過ごした。
町並みのよさや公園のよさなどに慣れてきたようだ。
 「危ない! 危ない!」。
 
 ▼ 台風10号が、ゆっくりと九州と四国を横切り、
その後、愛知県付近で熱帯低気圧に変わった。

 台風の近くだけでなく、
その後も全国各地で大雨による被害が数日続いた。

 北海道でも、冠水被害があった。
JRは栗山付近で線路の地盤が崩れ、復旧に数日を要した。
 近隣では、登別や苫小牧で主要道路の冠水があったらしい。

 そして、西日本も東日本も再び猛暑に見舞われている。

 そんなニュースが流れていた午後だ。
好天に誘われ、久しぶりに家内とパークゴルフへ行った。
 当地にしては日差しが強かったが、
すでに夏の風ではなく心地よかった。

 そんな陽気だからか、
パークゴルフ場には、顔見知りが数人いた。

 その中の1人が、誰にでもなく言った。
「いい所だね、ここは。
 東京とかは、35度だってよ。
台風だって、ここまで来なかったし、
その影響の豪雨も登別までで、伊達は全然降らない。
 お陰で、こうしてパークができる。
ありがたいことだ!」

 「本当に、そうですね」
言いながら、改めて気候の良さに気づかされた。
 「そうだった! ここは北の湘南・伊達だ!」。

 ▼ アイアンは、伊達に移住する以前からのものだ。
ドライバーは、移住してすぐに買い換えた。

 コロナ禍以前に比べ、めっきり飛距離が落ちた。
当然、体力の衰えによるものだ。
 致し方ない。
でも、それを少しでも補ってほしいと、
バーゲン品だが、新しいアイアンとドライバーに買い換えた。

 早速、ラウンドで使ったが、
振り慣れないからか、思うように飛んでくれない。
 少し振り込んだ方がいいと思った。

 そこで、暑い日中を避けて、
朝のラジオ体操を終えてすぐ、
伊達カントリーの打ちっ放し練習場へ行った。

 休日に加え、同じことを考える人がいるようで、
いつもは閑散としているのに、打席が半数ほど埋まっていた。
 やや端の方の席で、練習を始めた。

 しばらく練習をしていると、
すぐ後ろの打席で打ち始めた方がいた。
 クラブを変えて練習する時に、
その方を見た。

 長身で、男性にしては珍しく
ゴルフ帽ではなくサンバイザーだった。
 まだ若々しい感じだが、どこかで見覚えがあった。

 しばらく練習を続けた。
すると、後ろの彼に声をかけた人がいた。
 彼は、練習を中断し気さくに応じていた。
甲高い声だった。
 特徴のあるその声でピンときた。
      
 昨年4月、当時の市長が後継推薦した候補に大きく差をつけ、
初当選した現市長だった。
 まだ40歳半ばと若い。
これからのラウンドに向けた練習なのか。
 それとも単なる練習なのか。
しばらく市長と隣り合わせの席で打ちっ放しに汗を流した。

 市長とは何度か会合の席で挨拶を交わしていた。
しかし、この場はプライベートだ。
 その必要性はないと思った。
それにしても、隣同士でゴルフ練習とは・・・。
 「小さな街だから!・・・」のこと。

 ▼ 市街地には3つの小学校がある。
昨年度から、その1つの小学校の学校運営協議会の委員をしている。
 
 その小学校では校舎の立て替えがあった。
今年度に入ってから、旧校舎の解体も行われた。
 改めて、新校舎の全外観を見ることができた。

 初めて新校舎に入ったときから、釈然としなかったことが、
改めて大きな疑問になった。
 それは、建て替えた校舎が4階建てであること。

 東京23区の小学校には、4階建ての校舎が多い。
その主な理由は、校地確保の難しさである。
 2階や3階建て校舎の場合、広い校地を必要とする。
そのため、狭い校地ではどうしても4階建てになるのだ。

 それに比べると、当地の小学校はどこも、
小学生の体力では利用しきれない程広い校庭があり、
驚くほど広大な校地なのである。
 どう思いを巡らせても、4階建てにする意図が分からない。

 火災や地震発生で避難する場合、
高学年と言えども、4階からでは相当の時間を要することになる。
 3階からの避難に比べても、そのリスクは大きい。
加えて、毎日の昇降は子どもにも教職員にも負担は大きい。
 なのに何故、4階建てなの・・・。
 
 まさかと思うが、稚拙な想像をしてしまった。
実は、我が家を新築した時に熱心な建設業者さんが
「当社では、100年間もつ住宅を考えて建ててます」
と説明した。

 100年の耐久年数はともかくとして、
半世紀以上の使用を想定して、新校舎の建て替えをしたと思う。
 この先も少子化や地方の人口減少は進むだろう。
それに伴って、学校の統廃合も必然である。

 「それを睨み、小中学校合同校になっても使える校舎を、
想定して建て替えた!?」
 「まさか、まさか」と強く思う。

 それにしても、
「まだまだ、この街には分からないことが・・・」。 
 



    歩道脇の花壇 『 花 盛 り 』 
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10 周 年 !!

2024-07-13 11:32:44 | 北の湘南・伊達
 年齢と共に、同じ事をくり返し口にするようになるらしい。
言いながら、これは以前にも言ったことがある。
 ふと、そう思うことが増えてきた。

 これから記すことも、ここで何度綴ったことか。
まあ、10年の節目であるから、
それを承知で、再び・・・。

 還暦から4年目、『人生をリセット』とか、
『東京を卒業』とか、粋がって伊達に移住してきた。
 2012年の6月のことであった。
全てが新鮮で、毎日が充実していた。

 ところが、2年目の春だ。
右手に異変がおきた。
 診断は「尺骨神経損傷」だった。

 5月の連休明けに、手術を受けた。
結果は、期待ほどのものではなかった。

 移住してから始めたランニングは少しずつできたが、
クラブをしっかり握れず、
大好きなゴルフができなくなった。

 左手で箸を使う日々が続いた。
右手で大好きなラーメンを食べたいと、
麻痺の残る手に箸を持たせて、リハビリに努めた。

 いつまでもしびれと痛みが続いた。
やがて血圧が異常に高くなった。
 処方されていた4種類の漢方薬を止めたら、
数日して、血圧は正常値を示すようになった。

 医療への不信感、いっこうに改善しない右手、
不自由な暮らしの継続に、イライラ感は増した。

 まだ当地には、友人も知人もいなかった。
そのイライラをぶつけるのは家内だけだった。
 申し訳なかった。
だから、2階の自室で過ごす時間を増やした。

 時間をつぶすために、PCを覗いた。
そこで、色々な方のブログに出会った。
 こんな表現の場、こんな情報交換の機会があることに驚き、
惹かれていった。

 左手だけで入力することになるが、
ブログ開設に興味が湧いた。
 手術から2ヶ月が過ぎていた。
ブログ『ジューンべリーに忘れ物』を開設した。
 2014年7月7日であった。

 ジューンベリーは、庭にある唯一の樹木である。
シンボルツリーにと、造園業者さんがこの木を選び植えてくれた。

 伊達での今とその光景を、『ジューンベリー』にした。
そして、ここに至るまでの一歩一歩を『忘れ物』に例えた。
 その2つを重ねたところに、
今の私の居場所があるように思え、ブログの表題にした。

 あれから丸10年の歳月が過ぎた。
「忘れ物」のままになっている退職までの道道を、
思いつくままブログに刻んだ。
 私を知る校長先生たちがそれを読み、
先生方に役立つと印刷して配っていた。
 想像しなかった反響に胸が躍った。

 一方、「ジューン」の意である6月には特別の想いがあった。
その名のついた「ジューンベリー」のもとで過ごす日常を、
そのまま記した。
 そのブログを通し、伊達での暮らしぶりを知った友人が、
そんな日々を内容に講演する機会の設定に尽力してくれた。 
 講演後も、同様のテーマでの依頼があった。

 また、6年前になるが、私の講演を聴いた「楽書きの会」主宰の方から、
同人にとお誘いを受けた。
 以来、年に何回も地元紙へ執筆したエッセイが、
掲載されるようになった。
 そして、今ではそれを読んで下さる方と知り合いにまでなった。
 
 10年を迎え、今後が気になる。
きっと,これからも変わらないスタンスで、
読んでいる人がいると信じ、
同様の想いを綴っていくことになるだろう。
 素敵なライフワークを見つけたものである。

 さて、全くの偶然だが、
10周年の記念を祝うかのように、
7月6日(土)室蘭民報の
文化欄『大手門』に再び随筆が載った。

 今回も、いくつかのお褒めの言葉を頂いた。
なかでもその日の早朝、兄から電話があった。

 「おはよう。
今、新聞読んだよ。
 今までで一番良かった。
家族みんなで過ごしたあの頃を思い出したよ。
 大変だったけど、いい時代だったんだな。
ありがとう。
 嬉しかったよ!」。

 兄は、言いたいことを言い終えると
すぐに電話を切った。
 ジワッとこみ上げるものがあった。

  *     *     *     *     *

         ご褒美だって

 昭和30年に戻る。
まだ戦後が色濃く残っている時代だったが、
製鉄所のある街はどこの家庭もある程度の暮らしをしていた。
 なので、1年生の多くは赤や黒の皮のランドセルだった。
ところが、私のそれは薄茶色の厚い布製で、
しかもそこには男の子と女の子が手をつないでいる絵があった。
 子供なりにも、他とは違って貧しい暮らしなことは知っていた。
だから、そのランドセルを前にしても何も言わなかった。
 ただ「これで学校へ行くのか!」と少しも嬉しくなかった。  

 ところが、こんなことがあった。
入学間近の日だった。
 近所のおばさんが、私を洋服屋へ連れて行った。
母が仲よくしていたおばさんだった。
 洋服屋に入るなり、小学生がかぶる学生帽の売場へ行った。
当時は、黒のその帽子をかぶる男の子が多かった。
 店の方と一緒に、私の頭に学生帽をかぶせ、
大きさの品定めをした。
 「少し大きいけど、これでいい?」。
おばさんは私を見た。
 突然のことに私は戸惑った。
頭の学生帽を両手でさわりながら、
「これ、どうするの?」
 「小学校へかぶっていきなさい。
買ってあげる。」
 おばさんは明るく言った。
私はますます戸惑った。
 親以外から何かを買ってもらったことなどなかった。
嬉しい顔もできないまま、押し黙った。
 おばさんはさらに明るく、
「遠慮しなくていいの。
 毎日毎日長いこと保育所に通ったでしょ。
えらかったよね。
 この帽子は、そのご褒美!」。
私は、3才の秋から保育所通いをしていた。
 それを、おばさんは知っていて、
ご褒美だと言った。

 夕食の後、家族みんなに学生帽を見せながら、
おばさんがそう言ったと胸を張った。
 母は、新聞紙を細く折りたたみ帽子の内側にはめ、
目を真っ赤にしながら私の頭にかぶせた。
 帽子の隙間がなくなり、丁度よくなった。
1年生になると毎日、その帽子をかぶって通学した。
 他の子と違うランドセルは気になったが、
それより学生帽が私を元気にしてくれた。




   オオハナウドの上で仲良く      
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D I A R Y 5月

2024-06-01 16:56:08 | 北の湘南・伊達
  5月 某日 ①
 庭のシンボルツリー・ジューンベリーが、
満開になったのは、連休の最中だった。
 1週間も経たない内に、
愛車の屋根やフロントガラスに白い花びらが降った。
 その後は、柔らかな新緑で枝先まで被われている。

 ご近所の庭には、赤いシャクナゲが咲き、
色とりどりの芝桜が日差しを受けて鮮やか。
 今年も、つい散歩の足が止まってしまった。

 中旬になると、自宅横の『嘉右衛門坂通り』は、
真っ白なツツジが沿道に連なる。
 目を奪われないように気をつけながら、
毎年ハンドルを握る。

 それも、薄茶に変色し、
今は、その道の街路樹に寄り添うように、
6月のルピナスやアヤメの蕾が膨らみ、
開花の時を迎えている。

 こうして、時を止めず季節は確実に移り行く。
「バラも間もなく香るだろう」
 そう想うだけで、また気持ちが弾む。
 
 だが、先週、歴史の杜公園の野草園に、
「恋の花」と歌われた黒百合が、咲き乱れていた。
 一気に咲いた黒色の花に、癒やされるどころか、
不気味さを感じたのは,私だけだろうか。
 どうしても、この花は馴染めない。

 
 5月 某日 ②
 昨年11月下旬に、大きな手術をした姉が、
連休前に一事帰宅した。
 そして先日、再び横浜の娘の所へと戻っていった。

 しばらく術後の経過を見てから、
もう1度手術が必要かどうかを判断するのだとか・・。
 80歳を過ぎた高齢者であるが、
まだまだ長生きしたいとチャレンジしたこと。
 無事、健康を取り戻すよう、願うばかりである。

 さて、再度新千歳空港まで送る道々、
姉と交わした会話が心に残った。

 半年間、横浜暮らしを体験し、その感想を姉は口にした。
「年寄りにとっては、田舎暮らしより、
都会暮らしのほうがいいと、私は思ったわ」。
 「へえぇ! 意外だなあ。
どうして、そう思ったの?」

 「だって、こっちにいたら、
月に1回の病院通いだって、
バスの本数が少ないから、1日がかりでしょう。
 何か欲しい物があって、買い物をと思っても、
店は少ないし遠いしで、なかなか手に入らないでしょう。
 だから、できないことが多いよね。
本当に、不便! こっちは!
 でも、都会はサッと出かけられて、
簡単に病院へも買い物にも行ける。
 便利で快適だとつくづく思ったの」

 姉は明るく、一気に言い切った。
確かに、利便性で言うと姉の主張通りである。
 異論はない。
だが、私は言った。

 「それは、ある程度財源が
豊かな人だから言えることじゃないか。
 年金だけで暮らす人にとっては、
都会暮らしは辛いもののようだよ」。

 姉は、無言だった。
私は続けた。 
 「退職した映画好きの先生の話だけど、
なかなか映画も見れなくなったって・・・。
 だって、確かに映画館はシニア料金だけど、
駅まで車で行っても駐車料金は取られワ。
 都心まで往復すると電車賃も安くないワ。
それに昼食まで考えたら、大変な出費になるって」。

 「確かに、そうかも・・。
でもね、運転のできない私は、
ここに居たら、目の前のコンビニだけの生活よ。
 車があって、運転してどこにでも行ける人は、
まだ違うのかも・・。
 ここでは何もできないわよ」
姉の想いは確かに否定できない。
 
 今、私は多少不便さを感じながらも、
車がある。
 運転ができる。
都会暮らしよりずっといいと思っているが・・・。
 さて、これから先の正解は、
・・・・分からない。

  5月 某日 ③
 昨年度、自治会長を受けると同時に、
某協議会の副会長になった。
 今年度は、その協議会の役員改選期であった。  

 どこの組織も同じで役員の引き受け手がいない。
会長が私を訪ねてきた。
 「会長をやってほしい」と言う。

 お断りするには、
「引き続き副会長ならできます」
と、言うしかなかった。

 そして、今後も同じ会長、副会長、事務局長の体制となった。
そこで、今年度初の三役会議を行った。

 検討事項が終った後、
多少時間があったので、初めて3人で雑談になった。

 まず会長の年齢を聞いて驚いた。
彼は今年89歳になると言う。
 自治会長は15年も務めているとか・・。

 続いて、事務局長のNさんにもビックリ。
私とさほど変わらない年齢だが、
会長と同じ自治会で、
これまた15年も総務として会長を支えていると言う。

 「誰も引き受け手がなく、
気がつくとこんなにも長くなってしまったよ」
 2人は口を揃えてそう言う。

 そして、
「私もNさんも、病気もちだけども、
頼られているうちはと思ってね」と。

 私は、わずか自治会長2年目のひよっこだと思った。
2人の前で、「大変な役を受けてしまって・・」などと、
軽々しく言えない。
 それよりも、 1つとしてぼやくことなく、
淡々と今を語る2人。
 見習いたいと思った。
 

  

 庭の『ブルースター』 ~例年に増して華やか 
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