ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

明け方の 夢見

2023-01-28 11:53:35 | 思い
 目覚まし時計はいつも5時半にセットしてある。
その1時間以上も前から、
うつらうつらと寝返りをくりかえす朝が増えた。 

 そんな日に限って、とり留めもない夢を見る。
多くは、目覚めと共に忘れている。

 時には、思い出したい願望が強く、
しばらくは起き上がらずに、頭を巡らす。
 残念、そんな夢に限って蘇ってこないものだ。
 
 ところが、夢見心地がよかった訳でもないのに、
覚えたまま目覚める夢がある。
 決まってインパクトが強く、引きずってしまう。

 いずれも、最近ストレス満載のランニングに関する夢見である。


 ① 場所は、製縫工場のよう。
いろいろな形状の靴下が置いてあった。
 従業員らしい人の前で、私は次々と靴下を試着する。

 嫌みのない穏やかなその方が、
1つ1つの靴下のセールスポイントを上げ、
試着を勧めてくれた。
 
 私は一足を履いては、小走りにその場ランニングをする。
そして、首をかしげては、別の一足を履いてみる。

 その方は、丁寧な口調で、
他社との編み方や形状,素材の違いをずっと説明する。
 「これも、ランニング時のストライドが大きくなるよう
我が社が開発したものです」と続ける。

 私も懲りずに言う。
 「この年齢になると、一歩のストライド幅が狭くなって、
年々タイムが悪くなる。
 足腰にバネがなくなるからでしょうね。
なんとかそれをカバーしたくて・・・。
 靴下にそんな機能があればとすごくいいと思って・・。
他に優れた靴下はないですか?・・・」。

 工場の奥へ戻ったその方が、
それまでより厚手で5本指の一足を持って来る。

 「これはまだ試作段階のものですが、
ちょっと履いてみてください」。
 同じように試着し、再びその場ランニングをする。

 「これはいいかも。
早速、これを履いて走ってみたい。
 昔のように走れる気がする」
「お客様、先ほども言いましたが、
本製品は、まだ試作中です。
 商品になるまでには、今後5年はかかります。
それまで、お待ち下さい」
 「え! 5年もですか。
待てないかも知れない。
 だって私、80歳になってしまいます」

 急に息苦しくなって目覚めた。
窓辺のカーテンを見ながら、大きなため息がもれた。
 夢でもいい、1日も早い新製品の完成を!

 
 ② 今度は、靴下に替わって、
ランニングシューズの中敷き・インソールだった。
 
 それを作っている現場にいた。
夢は、そこで私に合ったインソールを注文し、
作って貰っている最中であった。

 左足の半月板損傷で、5キロを走っただけで、
翌日には痛みがでた。
 その痛みを解消するためインソールを特注したのだ。

 インソールの職人さんは、
私の足裏やランニングする足の運びを見て、
既存のインソールに布を追加したり一部を削ったりと、
試行錯誤をくり返してくれた。

 そして、「いかがでしょうか?」。
これで7回目だが、
改良したインソールをランニングショーズに敷き、
私の前に置いてくれた。

 それを履いて、部屋の周りを歩いたり走ったりしてみる。
その後ろ姿を見て、職人さんの表情がまたまた曇った。
 同じように、走った感触が期待外れなことに私も曇る。

 再び、違う素材のインソールを探し出し、
布を足したり削ったりする職人さん。

 それを見ながら、私は言う。
これも7回目だ。
 「10キロでいいから、左膝の心配をせずに、
走りたいんです。
 春には大会があるので、それまでには・・」。
 
 職人さんは、またうなずき、
黙々と私のインソール作りと向き合う。

 私のわがままに、胸が痛んだ。
「それでも走りたい」。
 その想いに、息が詰まった。

 突然、目覚まし時計が聞こえた。
窓辺のカーテンを見ながら、大きなため息がもれた。
 夢でもいい、私のインソールか完成するように!


 ③ 夕食は、私の大嫌いなホッキ貝の入ったカレーライスだった。
夢かもと思いつつも、我慢して食べた。
 矢っ張り好きになれない味だったが、完食した。
 
 翌朝、すっかり雪が消えた歩道を、
家内と一緒に走り出した。   
 アップダウンが続く5キロのコースだったが、
2人とも軽快な足どり。
 珍しく、走りながら言葉を交わすことができた。

 「こんなに調子よく走れるなんて、久しぶりだ!」
「どうして調子いいか、分かってる?」
 「さあ、思い当たることなんてないねえ!」
「ホッキカレーよ。がんばって食べたから、ご褒美よ!」。
 
 「へ~ぇ、嫌いな物を食べると調子よく走れるの!?
じゃ、今夜はタチ(真鱈の白子)の味噌汁にしますか」
 冗談で言い放った。

 夜の食卓に大量のタチが入った味噌汁がでた。 
調子よく走れるのならと、黙って味噌汁のタチを全部食べた。
 もう、味も好き嫌いも関係なかった。
それより、ランニングのため、その一心だった。
 朝ランの結果は、まさに快走だった。

 「調子いいよ。
明日も楽に走りたい。
 今夜は思い切っていくら丼だ!」
ついに最も苦手とする『いくら』までリクエストする私。 

 ゴクリと生唾を飲んだところで夢から醒めた
窓辺のカーテンを見ながら、大きなため息がもれた。 
 夢でもいい、いくらでもウニでも何でも食べるから!


 

     羊蹄山の冬 ~洞爺湖畔より 
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『OH! ラーメン』 その後

2023-01-21 11:03:12 | 北の大地
 2016年8月のブログでは3週にわたって、
大好きなラーメンについて綴った。
 タイトルは、『OH! ラーメン』『続・OH! ラーメン』
『伊達版・OH! ラーメン』である。

 小学生の頃に初めてラーメンを知った時から、
味噌ラーメンが最高に美味しかった地元『竹よし』の閉店までを、
一気に書いた。

 その後も、時々のブログで、
元祖室蘭ラーメン『清洋軒』や『宇宙軒・伊達店』、
洞爺湖の『一本亭』などの美味しさを紹介してきた。

 そして今は、塩ラーメンなら○○店、醤油ラーメンなら△△軒、
味噌ラーメンなら□□亭と、私なりのお気に入りのお店あり、
その味に満足している。

 しかし、好きな物への関心はつきない。
美味いと噂を聞くと、つい暖簾をくぐりたくなる。
 多くの場合、今のお気に入り店にはかなわない。

 ところが、最近見つけた2店は、
これから先も、度々足を運びたくなりそうだ。

 ① 銀座4丁目の交差点にある『和光』から
1本入った通りに、室蘭から進出したラーメン店があった。
 30歳代のことだったと思う。

 何度か、その暖簾をくぐった。
高校生の頃によく食べた懐かしいラーメンの味で、美味しかった。
 そんな故郷の味が、都心の賑わいの中にあった。
無性に嬉しかった。

 同じ学校の先生方に、自慢気に胸を張り、
『なかよし』の店名を上げ,紹介した。
 
 その店が何年そこにあったのだろうか。
しばらくしてから行ってみると、もう違う店に変わっていた。
 だから、店名も味も記憶から次第に遠のいた。

 ところが、伊達に住んでからゴルフの練習で、
しばしば室蘭まで行くようになった。
 練習場までの道路で、『なかよし』の看板を見た。

 あのラーメンの味を、懐かしく思い出した。
早速、店を探して行ってみた。
 カウンターだけの小さな古い店だったが、
お客さんが数人いて、活気があった。

 注文した醤油ラーメンは、
確かに濃い色で、銀座店のそれを思い出させた。
 決して不味いわけじゃない。
でも、あの味ではなかった。
 
 かなり期間を空けて、もう一度味を確かめに行った。
矢張り同じだった。

 さらにもう一軒、室蘭市内に同じ名のラーメン店を見つけた。
きっと同じだろうと思いつつも、カウンターに座り、
醤油ラーメンを注文した。

 スープの濃い色も、縮れた麺も変わりなかった。
やはり記憶にある美味しさではなかった。
 「もう30年以上も前の味だ。
同じ訳がない」とあきらめた。

 ところが先日、美味しいラーメンの店が、
兄との話題になった。
 初めてのことだった。

 「よく行くのは、『なかよし』だ。
あそこの醤油ラーメンが好きなんだ」。
 仕事柄、味にうるさい兄が、
『なかよし』をあげたことに驚いた。

 私は、すかさず食べたことのある2つの店をあげ、
期待外れだったことを伝えた。
 「ああ、その2軒じゃない」。
兄は別の『なかよし』を教えてくれた。
 興味が湧いた。

 数日後、教えて貰った道順で車を進め、
その店へ行った。
 2つの『なかよし』と同じで、古い店構えだった。
ご夫婦で切り盛りしているようだった。

 醤油ラーメンを注文した。
濃い色のスープは同じだが、縮れの少ない麺だった。
 若干の違いに期待し、食べ始めた。
美味しさも違った。
 私の記憶にある『なかよし』だった。
 
 まだ子供たちが小さかった頃に帰省した時、
母や兄と一緒に食べた時の味を思い出した。
 レンタカーを横付けして店に入ると、客はいなく、
「時間かかるけどいいかい」と店主が言ったとおり、
随分と待たされた時の味を思い出した。

 そうそう、あの『なかよし』は、確か「醤油ラーメン」ではなく、
「正油ラーメン」とメニューにあった気がする。
 それを確かめるのをいい口実にして、
近々また行こうと思う。

 ② 伊達観光物産館の案内カウンターに、
『伊達 ラーメン地図・マップ』のチラシが置いてある。
 市内6つのラーメン専門店の看板メニューと、
「こだわりの秘訣」が紹介されている。

 その中の1軒に、『元祖鶴つる亭』がある。
チラシでは、「ネギしおラーメン」が看板メニューとなっている。
 そして、次のように「こだわりの秘訣」が記載されている。

 『鶴つる亭は、こだわりの豚骨ベースのスープに定評がある。
出汁が十分に行き渡ったその味は、
一杯れんげで飲めば風味がたちまち口の中で広がり、
不思議と二杯 三杯…とやみつきになるほど。
 ひき肉も入っており、これがまたスープとの相性が。
チャーシューも厚くボリュームがあり、
サイドメニューのチャーシューおにぎりは、
ラーメンと肩をならべるほどの人気』

 移住してすぐに、鶴つる亭の「ねぎしおラーメン」を食べた。
ここもご夫婦で切り盛りしている店だった。
 味は、「こだわりの秘訣」に偽りはなかった。
でも、正直に言うと「リピーターになるほどでは・・・」が感想だった。
 
 その『鶴つる亭』の前を、時々車で通った。
店の横が駐車場になっている。
 お昼時には、いつも何台も車が止まっていた。
人気の店なのだ。
 私の感想とは違っていた。

 先日、久しぶりの酒席があった。
飲食店の話題から『鶴つる亭』の名前が出た。
 食べたことのある人からは、美味しいと評判がよかった。
「もう一度、行ってみよう!」。
 心変わりがした。 

 「ネギしおラーメン」ではなく、
みんなから評判のよかった「ネギ味噌ラーメン」を注文した。
 都会のラーメン店ではないのに、メニューは千円となっていた。
それでも、私以外の方も同じ注文をしていた。

 味噌味のスープの中に、縮れ麺と味のついたひき肉だけがあった。
その上に、多めの白髪ネギが山盛り。
 そのネギを少しずつ味噌スープに浸し、麺と一緒に食べた。
久々に美味しい味噌ラーメンに出会えた瞬間だった。

 「千円は決して高くない!」。
そう思いながら、人気の店を後にした。




   氷点下 寒い寒い西浜の海岸
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晴れたり曇ったり その8 <2話>

2023-01-14 12:37:02 | 北の湘南・伊達
 ① 料理は苦手。
だから、3食とも家内が作る。
 「せめて食器洗いくらいは・・」と、
朝夕は私がする。

 だが、金曜と土曜はそれも免除してもらう。
この2日は、『ブログの日』なのである。

 金曜は、朝食を済ませると、
朝刊へ目を通す時間も惜しみ、
2階の自室へと階段を上る。
 いつもは開けっ放しの扉も、
この日ばかりは遠慮なく締めることに。

 「さあて、何を書こうか」。
ノートパソコンを起動させる前に、
雑記ノートを机上に置く。
 
 日頃から思いついたことを、このノートにメモしている。
まずは、ブログに書けそうな題材をここから探るのだ。

 それを探し当てた時は、次に同じノートに、
ブログの骨子を、書き始める。

 ところが、1時間も2時間も粘っても、
ノートが何のヒントもくれない時がある。
 そんな日は仕方ない、散歩に出ることにしている。

 朝の散歩とは違う。
ブラブラ、トボトボとした調子で、
しかも両手を上着のポケットに入れ、
伏し目がちスタイルで歩く。
 人目など気にしない。

 ただただ、ブログの題材に思考を巡らし、
ゆっくりダラダラ・・。
 実は、今の今まで、そんな調子の散歩だった。

 しばらく歩いていると、
スーッと私の横に対向車が止まった。
 車に気づいて驚く私に、ドアウィンドウを降ろし、
見慣れた顔が声をかけてきた。

 「散歩ですか?」
「アッ、はい。そう・・」
 「どこまで?」
「その辺を、ブラブラ・・」

 こんな時の私は、いつもと違う。
気のない返事だ。
 だから、気づいたのだろうか、突然彼は言った。
「もしかして、ブログ?」
 ビックリした。

 「そうです!」と答えながら、
夏に同じような出会いがあったことを思い出した。
 その時、金曜日は散歩しながら、
ブログの題材を探していると話した。

 「やっぱり、そうだったか!
気をつけて、頑張って!」
 ドアウィンドウを上げながらそう言うと
私の「ありがとう」を聞かないまま、彼は走り出した。

 突然、思い出した。
今年も、年賀状が250枚も届いた。
 その中に、ブログを読んでいるからこその一筆が添えてあるものが、
何枚もあった。
 励まされた。
彼の車に急いで手を振りながら、力が湧いてきた。
 
 ② 年末からレンタルビデオにはまっている。
邦画も洋画も構わない。
 新作も旧作も構わない。
手当たり次第、目に止まった映画を借りては観る。
 それを返却しては、また次を借りるの、繰り返し。

 動機になったのは、大型テレビの購入だ。
サッカーのワールドカップが近づき、
急に大きな画面で見たくなった。
 地元のケーズデンキとヤマダ電機をはしごした。

 居間の広さにあった大きさで1年前の型が、
思いのほか安い値だった。
 『今でしょ!』と衝動買いした。

 画像も音色も綺麗なのだ。
「これならDVDも観てみたい!」。
 レンタルした映像は期待通りだった。

 この間、レンタルビデオで観た映画から、
惹かれたものを2つ記す。

 1つ目は『髪結いの亭主』だ。
フランス語の映画だが、 
制作はいつ頃なのか全くわからない。
 このタイトルを聞いたのは、相当前だった気がする。

 観ながら、『男はつらいよ』を思い出した。
確か第45作だ。
 マドンナが風吹ジュンで、
床屋を営む蝶子の店で寅さんが散髪をしてもらうところから、
ストーリーは展開した。 

 『髪結いの・・』もよく似ていた。
はじめて訪れた客は、
一人で店を切り盛りする女性に一目惚れをする。
 そして、支払をしながら「結婚して欲しい」と言って、店を出ていく。

 客は、3週間後再び来店する。
散髪後、叶わないと思いつつも、
店の女性に返答を尋ねる。
 すると、女性は男性の求婚に応じると答えるのだ。
その日から、夢のような「髪結いの亭主」生活が始まるのだった。

 さて、寅さん映画だが、
ある日、蝶子は店のドアを見て言う。
 「その鐘をね、チリーンって鳴らして、
いろんな男の人が入ってきて、
またチリーンって鳴らして出て行くの」と。
 そして、こうも、
「ずっと前、はじめて来た人が、
オレと結婚しないかって言って、
出て行ったの。
 今度、その人が来たら、
私いいよって・・」。

 脚本は山田監督に違いない。
『髪結いの・・』のパロディなのだろうが、
2つに共通した哀愁が、心に響いていた。

 それにしても、『髪結いの・・』の女性は、
2人の幸せ絶頂期に、突然、増水した河川に飛び込むのだ。
 「幸せのままでいたいから・・」。
彼女の残した言葉が、薄幸な人生を物語っていたようで、
いつまでも切なかった。

 2つ目は、最近の話題作『ドライブ・マイ・カー』だ。
巨匠・村上春樹氏の短編小説集『女のいない男たち』の1編が、
原作である。

 『女のいない・・』が発刊されたのは、2014年だった。
すぐ購入した。
 短編の内容よりも、きしみのない展開と文体に、
魅了されたことだけが記憶に残っていた。

 映画は、舞台俳優・家福と女性ドライバーみさきを
中心に展開するのは同じだが、
設定やストーリー性は大きく違った。
 でも、映画だからこそと思うシーンが多く、見応えがあった。

 映画の終末、家福は急逝した妻への
みさきは事故死した母への、
複雑な想いを払拭する場面が圧巻だった。

 自分の醜さを心に秘め、
それと1人で向き合い苦しんできた家福とみさき。
 その心情が、痛いほどに伝わってきた。

 苦しみから脱皮する2人に共感した時、
そっと私の扉をノックされたような気がして、
思わず身構えてしまった。

 でも、みさきの運転する真っ赤なターボ車の
エンジン音が、何故かその力を抜いてくれた。

 やっぱり、家福やみさきのように、
自分と向き合うなんて 中々!




   春の陽気 水かさを増す気門別川
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オ メ ガ の 腕 時 計

2023-01-07 11:55:08 | 思い
 3が日は、姉から贈られた登別温泉『滝の家』のおせちを、
食べて過ごした。
 味は勿論だが、見た目が綺麗で、
ついつい食べ惜しんだり・・・。
 それでも、熱燗やワインを飲みながら、大満足!
プチ贅沢を堪能した。

 2日は、兄が初めて泊まりがけで我が家へ。
夜は食卓を囲みがら、昔々の思い出話に時が過ぎた。
 そんな中、つい調子に乗って、
オメガの腕時計について語ってしまった。

 ① 形見分けのオメガ
 母が亡くなって17年になる。
享年96歳だった。

 葬儀が終わってから、
姉たちが兄と同居していた母の部屋に入ってみた。
 几帳面な人だったから、
案の定、隅々まで整理整頓がされていた。

 母の気性を一番知る長姉が、
真っ先に和箪笥の引き出しを開けてみた。
 中には、娘2人と嫁3人の名が付いた大きな風呂敷包みが
5つあった。
 母が着た和服と、その生地を使って縫った手製の小物入れなどだった。

 それが、母からの形見分けだった。
3人の息子へ宛てた物は何もなかった。

 仕方なく、母の部屋で思い出の品を探した。
老人ホームで手習いした水仙のちぎり絵があった。
 兄姉から許しを得て、
それを形見分けとして頂いた。
 今も、リビングの隅を飾っている。

 さて、父だが、
私が30歳の時、9ヶ月間に及ぶ闘病生活の末に亡くなった。
 当時の世相もあり、癌の告知はしなかった。
だから、最後の最後まで希望を捨てずに逝った。

 そんな訳で、遺言などはない。
店は、一緒にやっていた次男の兄が継ぐ。
 当然のことだった。
銀行口座等の蓄えも次兄へ。
 誰も、異論などなかった。

 葬儀がすべて終わった日、
母と兄弟家族が、居間に集まった。
 父の思い出の物を形見として分けることになった。
日常生活で使っていたものが全てだった。

 私は、兄弟5人の中で唯一、大学まで行かせてもらった。
例え日常品でも、思い出の詰まった貴重な品である。
 「あれもこれもほしい」は言える立場ではない。
そんな気持ちで、その場に座った。

 でも、密かに望んでいた物が1つだけあった。
父が愛用していた『オメガの腕時計』だった。
 
 珍しく父を訪ねてきた方に、
わざわざ腕から外して、見せていた。
 私も、1度だけ手にしたことがあった。
「これは舶来品だ。
ドイツのオメガ社製で、珍しい腕時計なんだ」。
 誇らしげに、教えてくれた。

 だから、狭い居間の真ん中にそれを置き、
母が「この腕時計、誰かもらって上げて」と、
言ったら、手を挙げるつもりでいた。

 ところが、私より先に長兄が、
「貰うワ!」とオメガを握ったのだ。
 私は、何も言えず、押し黙った。
「オレもそれ欲しい!」とは、どうしても言えなかった。

 仕方なく、父が最後まで病床で使っていた毛布を、
形見分けに貰った。
 以来40数年、押し入れの奥にある。

 ② 憧れのオメガ
 もしも父のオメガを譲り受けていたら、
きっと毎日誇らしげに左腕にしていただろう。
 あの日から、時折そう思い、
長兄が羨ましかった。

 オメガの腕時計がどれだけ高価なものか、
全く知らなかった。
 ただ、父の言葉だけが記憶にあった。
「舶来品」「珍しい腕時計」の代表がオメガだった。
 当時愛用していたセイコーの自動巻とは、
雲泥の差があることだけは、容易に推測できた。
 いつからか「オメガは憧れの腕時計」になっていた。

 そのオメガをアメ横街の時計屋で買った。
父を亡くして10年以上が過ぎていた。
 クオーツ型でオメガとしては、安価なものだった。
それでも、ついにオメガを手に入れた。

 すぐに、腕につけて上野の通りを歩いた。
思わずスキップしそうになった。
 「父と同じオメガ!」。
それだけで、浮かれた。

 それから、20年以上もの間、
オメガは、いつも私の左腕にあった。
 
 「お母さんが言ってたけど、
先生の腕時計って、すごく高級なんだってね」。
 わざわざ私の左腕を見に来る子が、何人かいた。
 
 その都度、言った。
「先生のはね、同じオメガでも安物。
 高級品じゃないの。お母さんにそう言ってね」。

 来校した保護者が、
オメガの腕時計に気づいたのだろう。
 とんだ誤解だが、でも少し嬉しかった。

 そのオメガが、動かなくなったのは、
伊達に移住してすぐだった。
 地元の時計店に修理をお願いした。
一度は直ったが、半年もしないでまたダメになった。
 もう修理も難しいと言われた。

 思い切って、買い換えることにした。
札幌のデパートまで出かけ、
私にとって2つ目のオメガを買い求めた。
 店員が薦めるオメガの中から、
高級そうなだが安価なものを選んだ。

 その腕時計でも、
きっと私の形見になると思い、今日も使っている。

 ③ 偶然のオメガ
 新しいオメガを購入して間もなく、
次男の結婚が決まった。
 形だけでもと、結納が行われることになった。

 両家の家族が集まり、料亭の畳の間で、
結納の儀を執り行った。
 そんな習わしがあるのかどうかは知らなかったが、
結びに、お嫁さんから息子へ、記念の贈り物があった。

 その場で、その品の紹介と披露があった。
なんとオメガの腕時計だった。

 オメガへの想いを息子らに語ったことはなかった。
まったくの偶然。
 でも「これも何かの縁!」。
私1人が、胸を熱くしていた。


 

    昭和新山・有珠山 ~壮瞥・立香から 
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