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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

数々の『ことば』から

2015-08-28 22:27:49 | 出会い
  そ の 1

 高校1年の正月だ。
私は、生徒会の役員をしていた。
 そのつながりで、1学年先輩の女子から年賀状をもらった。
そこに、『私の好きな詩です。』と記されていた。

  己の意思をもって
  己の身をぶっつけ
  己がために前進しよう

    何事にも左右されず
    何者にも迷わされず

  己を知りながら
  己を表しながら
  己らしく生きていこう


 この詩のことは、何故か気恥ずかしくて、多くを語ってこなかった。

 当時の私は、高1なのに奥手で、
他人のまねごとをするのが精一杯だった。
 だから、自分自身を見つめるまでには至っていなかった。

 そんな私には、『己』と言う語は、新鮮で衝撃的だった。
私に歩み方・生き方を問いかける、大きな糸口になった。

 なのに、この詩をどこにも書き留めていなかった。
それなのに、いつも、記憶の奥底にあった。
 今日までに何十回と、数えきれないほど、
くり返し思い返し、反すうしてきた。

 2連目にはもう1行言葉があったように思う。
長い年月の間に、知らず知らず勝手に、
言い直した部分もあるようにも思う。

 年令や、その時々の環境で、心に響く箇所は違っていた。
強い言葉の連なりに、赤面していた時代もあった。
 でも、確かに、長年私を励ましてくれた言葉である。


  そ の 2

 私に限ったことではないだろう。
日々の暮らしには、時として、想像もしないような
喜びや幸せ感が訪れる。
 また、それとは裏腹に、
ただただじっと耐えることを強いられたり、
踏み出すべき道さえ分からないまま佇んだりする時がある。

 社会と言う大きな波間での営み、
人と人との関わりが織りなす一日一日、
そこで人は、必ずや理不尽と思う場面に遭遇する。
不条理さを強くする瞬間がある。
そんな日々の狭間で、誰もが惑う。

 名言は、そんな私たちのために生まれ、人生の羅針盤として、
それぞれの心に生き残り、生き続けていると思う。

 40年の教職生活であった。
不勉強と経験の甘さ、未熟な人間性が、様々な壁になった。
その壁を越え、前へ進むのに、沢山の言葉から力を頂いた。

 『日々是好日』、『行雲流水』、『喫茶去』、『一行三昧』など、
いわゆる禅語に魅せられた時もあった。
 しかし、いまも深く心に刻まれている言葉が2つある。


  『漂えど沈まず』

 稀代な小説家・開高健がよく使った言葉である。
しかし、この言葉は彼のオリジナルではなく、
フランス・パリが「ルテチア」と呼ばれていた中世の頃、
町の標語だったものらしい。
 セーヌ川が氾濫しても、嵐が来ても、俺たちは沈まないと言う
当時の水上商人組合の心意気を示したものとのことだ。

 この言葉について、開高健さんは、
『男の人生をわたっていくときの
本質を鋭くついた言葉ではあるまいか。」
と、書き残している。
 
 男だからではないが、人としての重責を決して投げ出さない。
そんな底知れない強さが、心を捉え、生きる指標になっている。


  『タフでなければ 生きてられない
     優しくなければ 生きている資格がない』


 アメリカのレイモンド・チャンドラー氏が書いた
ハードボイルド小説「プレイバック」で、主人公が言った名台詞である。

 敵の少ない経営者と称された、第7代経団連会長の平岩外四氏が、
昭和51年東京電力の社長就任記者会見の席で、
「座右の銘とか、好きな言葉は?」と問われた。
 その時、「座右の銘ではないが。」
と、前置きして取り上げた言葉でもある。

 そして、昭和53年、角川映画『野生の証明』でキャッチコピーに使われ、
一気に広まった。

 私が、この言葉を知ったのは、40歳代になってからである。
特に、管理職になって数年が過ぎたある日から、
机上の目に止まる所に書き置き、常に心に刻んできた。

 『実るほど頭をたれる稲穂かな』
大先輩の校長先生から、「人の前に立つ者としての心得だ。」
と、贈って頂いた先人の一句である。

 しかし、学校の管理職が置かれた現実は、
この言葉通りには行かなかった。
 時として、前面に強さを求められることがしばしばだった。
 私は、そんなタフな日々に慣れることができなかった。
精神的にかなり追い込まれた。
 その時だった。この言葉を突然思い起こした。
 まさに救世主の言葉だった。

 本物のたくましさの答えを得た想いだった。
目の前に明かりが灯った。
私の道しるべだと思った。心地よささえ覚えた。
 管理職としての、いや、人としての生き方を決めてくれた。

 そして今、伊達の地で、
大自然と共に生きるタフと優しさを目の当たりにしている。
 改めてこの言葉の深さに教えられている。


  そ の 3

 校長職を退き、第二の人生がスタートしてから、
私は、重責からの開放感とは別に、次の歩みへの心許なさを感じていた。

 伊達へ移住することに対する期待感は大きいものの、
その道の先がどこにつながっているのか、見当もつかなかった。

 「塚ちゃん、伊達に行って何するの?」
友人たちからは、代わる代わる訊かれた。
「行ってから決める。それが一番いいと思っている。」と、応じた。
 それで正解なのだが、
しかし、私のその答えにはどことなく『芯』がなかった。

 そんな時だった。
NHKのテレビ番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』の
『プロフェッショナルを導いた言葉』を観た。
 その道のプロ中のプロが、その歩みから導き出した言葉を、
「ことばの力」として紹介していた。

 9名のプロフェッショナルが言う、9つの珠玉の言葉であった。
 第二の人生を、ヨチヨチ歩きしていた私に、
次の4つの言葉が、
心許なさに『芯』をもたらしてくれた。


  『まだ、山は降りていない。登っている。』
               <訪問看護師のパイオニア・秋山正子さん>


 46歳で余命3ヶ月と診断されたガン患者さんがいた。
無口で我慢強い性格。
心のうちはもとより世間話もしない。
 秋山さんは、
「そろそろ山を降りているんだから、
荷物をおろしたらどうかしら?」
と、声をかけた。
その時、返ってきた言葉がこれだった。

 強い気持ちで癌と闘っている。
人という存在の強さを知ったと彼女は言う。
 私のこれからの歩みも、これだと決めた。


  『決まった道はない。ただ行き先があるのみだ。』
               <野生動物専門の獣医師・齊藤慶輔さん>


 絶滅危惧種オオワシの調査のために
行ったサハリンでのこと。
 トラックが泥道で何度も動かなくなった。
「ロシアは大変だね。予定通りにはいかないね。」
と、運転手に声をかけた。
 すると、ロシア人の運転手が、
片言の英語で応えた言葉がこれだった。

 その言葉に齊藤さんははっとさせられたと言う。
 野生動物のおかれた現実は厳しい。
しかし、だからこそ奔走する。
進むべき道は、自分が作ればいいと言う。

 どんな道を歩むかではないのだと気づいた。
どこに向かうかが問われるのだと。
 これからの道は自らの手で作り出すんだ。
 深い霧が晴れていった。力が湧いた。


  『人は変られないが、自分は変えられる。』
               <絵画修復家・岩井季久子さん>


 岩井さんが絵画修復の仕事を始めた頃は、
まだまだ女性の少ない時代だった。
様々な軋轢に苦しみながらつかんだ言葉がこれだった。

 試練や壁は、自らを鍛え強くしてくれる。
人生を良くするのも悪くするのも、
自分の考え方次第だと、岩井さんは語る。

 現職時代に巡り会っていたかった言葉である。
今からでも、遅くはない。
肝に銘じて生きていこうと思った。


  『得(う)るは、捨つるにあり。』
                <靴職人・山口千尋さん>

 25歳の時、大手靴メーカーに勤務していた山口さんは、
退職して、本場イギリスへの留学を考えていた。
 会社は、1年の休職を提案してくれた。
彼は迷い、尊敬する先輩に相談した。
「辞めればいいじゃないか。」
先輩は即答した。
 その時、浮かんだ言葉がこれだった。

 何かを捨てなければ、大事な物を得ることなどできない。
彼は、職を辞し、イギリスに渡った。
そして、この言葉は苦しい修行生活の拠り所になったと言う。

 この言葉には、絶対的な真理があると思った。
現職時代を振り返り、感じるところがあった。
 同時に、黒板五郎さんがリュックに
いっぱいのカボチャを背負い、
上京するシーンが目に浮かぶ、
あのテレビドラマ『北の国から』(脚本・倉本聰)の
「東京を卒業」のセリフを借りて、
「東京を卒業して、伊達に行きます。」
そんな想いが間違ではないと、意を強くした。




80歳の農家さんが作るお花畑 ガーベラが満開
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若くして逝った友

2015-08-21 22:07:01 | 思い
 日々の暮らしの中で、彼を思い浮かべることは、さほどない。
しかし、毎年、お盆の頃になると彼を思う。

 わずか20年の人生だった。
 体調不良を訴えてから、10日余り。
 急変を知らされたご両親が、北海道から東京に駆けつけたのは、
亡くなる3日前、残暑が厳しい8月末のことだった。

 医師は、面談するとすぐに、会わせたい人がいるなら、急ぐようにと告げた。
ご両親は、呼吸さえままならない我が子に、会いたい人はいるかと訊いた。
 彼は、とぎれとぎれの荒い息で、私の名前を言った。
北海道にいる私を呼び寄せることに、ご両親はしばらくためらった。
飛行機利用が、まだ頻繁ではない時代だった。
 それでも、容態が悪化する息子を見て、
2日後、私の実家に電話をした。

 何の前触れなく、急を知らされた私の父母と兄は、
言葉を失った。

 当時、大学3年だった私は、夏休みにもかかわらず、
実家に戻らず、自由気ままな毎日を過ごしていた。
 友だち数人と、ゆるい計画のままリュック片手に、
『放浪の旅』と称して出かけた。
 下宿先には、「2泊3日の旅行。」とだけ言い、行き先は伝えなかった。

 丁度出発した午後、兄から下宿に電話があった。
下宿の女将さんは、行き先を確かめなかったことを何度も詫びた。

 3日後、下宿に戻ると、待っていたかのように、
実家から電話があったことと、
内容は分からないが、兄の声が尋常ではなかったことを知らされた。
 それまでに経験のない胸騒ぎがした。

 下宿の電話を借りた。電話はすぐにつながり、兄が出た。
いつも穏やかな兄が、「どこ遊び歩いてたんだ。」と声を荒げた。

 そして、彼が死んだ。東京で葬式は済んだ。
「お前に会いたいって、最期まで言っていたと。」
と、声を詰まらせた。

 電話の向こうの兄が信じられなかった。
呆然と受話器を置いた。小さくチリーンと置いた電話が悲しい音をたてた。
うなだれる私の背中に、下宿の女将さんが、
「だいじょうぶ。」と声をかけてくれた。

 一段一段、下宿の狭い階段を上がった。
2階にある4畳半の自室に戻った。
 窓を開けた。東京がどっちか分からなかったが、
夏の青空を見上げ、彼の名前をつぶやいてみた。
 遠くで、蝉の声が重なっていた。


 中学3年のときだった。
担任が替わり、学級の雰囲気が一変した。
それまで、さほど交流のなかったクラスメイトが打ち解け合った。
 自然、気の合った者同士がさらに交流を深め、友情が芽生えた。

 私は、彼を含め4人の友を得た。5人グループで楽しい毎日を過ごした。
その中で彼が一番優秀だった。
 だから、担任の勧めもあって、
当時新設されたばかりの旭川工業高等専門学校にチャレンジした。

 私たちが地元の高校に進学する中、
彼は親元を離れ、一人、高専へ旅立ち、寮生活を始めた。

 私が高校を卒業し、大学生活を始めたとき、
彼は、それまでの寮生活を離れ、学校近くで間借り暮らしを始めた。

 2月の大寒波の日だった。
彼の暮らす部屋を初めて訪ねた。
 氷点下30度にでもなろうかという日だった。
経験のない寒さの中、二人で鍋料理の買い物をした。
鱈ちりのゆげに包まれても、部屋は中々温まらなかった。
 飲み慣れないビールを口にした。
次第に酒の勢いで体が温もった。

 彼は、高専で学んだ知識と技術を語った。
時間を忘れたように、彼が話す内容は、
すべて科学的で、確かさにあふれていた。
 エンジニアのしっかりとした考え方を、
彼から教えられた気がした。
 危うさだらけの自分が恥ずかしかった。

 しかし、酔いと一緒に一組きりのふとんに二人でくるまり、
シンシンと冷え込む寒さを感じながらも、
私は、彼の友人であることに誇らしさを感じていた。

 亡くなる4ヶ月前のことだ。
 彼は、5年間の学業を終え、
東京にある電機メーカーの工場に就職することになった。
 私は、エンジニアとして一人立ちする彼に、エールを送りたかった。

 3月末、彼も私も実家に戻っていた。
仲間5人の他に、同級生や後輩も集め、壮行会を開いた。

 感情を表に出さないタイプの彼であったが、
その日は珍しく、大きな声で笑い、一人で拍手を送ったりと賑やかだった。
東京での仕事に、ファイトいっぱいの彼を見て、私は嬉しかった。

 帰り際、この会を企画した私に、彼は感謝を口にした。
私は、用意していた犬の置物と、
思いつきだけの自作の詩を1つ、就職祝いにと手渡した。
 それが、彼との永遠の別れとなった。

 彼が亡くなって10日後、
ご両親は遺骨になった彼と一緒に帰路についた。
 その連絡を待ち、早速、彼の実家を訪ねた。

 彼の最期を見届けなかったことを、深々と詫びた。
 「まずは顔を見せてあげてください。」
両親の言葉に促され、遺骨と遺影の前に座った。

 遺影には、見慣れた彼の微笑みがあった。
こみ上げてくるものを感じた。
 遺影の横に、あの日別れ際に渡した置物の犬と、
私が書いた詩が小さな額縁に納まり、置かれていた。
目を疑った。

 整頓が行き届いた彼の部屋の一角に、
犬と額縁の詩があったのだと言う。
 「大切にしていたんだと思うのよ。」
彼のお母さんは、消えそうな声で言い、顔をタオルで覆った。
 大きな声で、彼の名前を叫びたかった。

 「また、お邪魔します。」と約束した。
両親は、「いつでも、待ってるからね。」と、見送ってくれた。
 秋を思わせるような風が、山から吹き下ろしてきた。
 命の非情さが憎かった。

 それから2年が過ぎた春、
私は東京の小学校へ赴任が決まった。
 彼の急死は原因が分からないままだった。
「水が合わなかった。」という声をいくつも聞いた。

 「俺は、彼の想いの分も生きる。」
何をどう生きるのか、釈然とはしなかったが、
私は、勤務先が決まったとき、そう意気込んだ。

 東京へ出発する前日、
就職祝いを包み、彼のお母さんが実家を訪ねてきた。
 私の手を両手で強く包み、「負けないでね。」と言った。
そして、「縁を切らないでね。」と何度もくり返した。

 それから、40年、東京圏で暮らした。二人の子どもに恵まれた。
東京は、私の全てを大きく育ててくれた。
出会った多くの方々から、沢山の力を頂いた。私の成長の糧だった。
流れる時間の全てが刺激的だった。
毎日をワクワクしながら過ごした。
東京からいっぱいエネルギーをもらった。

 彼は、わずか4ヶ月しか知らなかった東京の力。
速すぎた一人の男の生涯だった。
生きていたら、凄いエンジニアだったと思う。

 私は彼の分も生きることができただろうか。
今、その答えを出すことはできない。
 でも、いつか、それを彼に訊いてみたいと思う。




「北海道らしいかな!」   腰折れ屋根の牛舎
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『児童文化手法』の開発と普及

2015-08-14 19:59:45 | 教育
 私は、平成17・18年度に東京都小学校児童文化研究会の
第16代会長を務めさせてもらった。
 その後は、顧問として現職メンバーの後押し役をしている。
本会は、平成22年度に創立50周年の節目を迎えた。

 さて、この児童文化研究会であるが、
全国的にはまだまだ十分なネットワークが出来上がってはいない。
 歴代会長の一人が、
「いつかはメジャーな研究会に。」と強調した程である。
 しかし、毎年開催する研究大会には、
500名を越える参加者があり、
その注目度や期待感は衰えを知らない。

 本会の第一の目標は、
私たちが提唱する『児童文化手法』を有効活用した授業の
開発とその普及にある。

 過去に私が記した児童文化手法についての文を付す。
 多少なりとも理解の一助になればと願っている。


 ① 授業の魅力と児童文化手法

 21世紀の中核を生きる児童には、
「生きる力」を育むことが重視されている。
 そのために、学校には、
どの子にも基礎・基本の定着を完全なものにすると共に、
自ら学ぶ意欲や思考力・判断力・表現力などの
資質や能力を伸ばすことが求められている。
 これには、くり返しくり返し学習する授業とあわせて、
教師には、児童にとって魅力ある授業の構築が求められ、
課題になっている。

 一口に魅力ある授業を定義づけることは難しいが、
私は3つの要素を上げたい。
 その一つ目は、その授業の目標(めあて、課題)が、
児童にとって魅力あること。
 二つ目は、その授業での学習方法(展開、手法、形態)が、
児童にとって魅力あること。
 三つ目は、その授業で共に学習するメンバー(クラスメイト、教師)の
全員あるいは一部に、児童が魅力を感じること。
 この3つの要素の1つでも児童が感じた時、
児童にとってその授業は魅力的なものとなり、
興味関心が喚起され、意欲は高揚するのである。

 さて、授業の魅力と児童文化手法についてである。
 多種多彩な児童文化手法は、
その授業の目標を児童自身のものとして感じ取り、
課題意識へ高めていくことに大いに活用できる。

 例えば、道徳の時間で題材となりうる説話を、
“パネルシアターを使って行う。”
あるいは“素話の手法を取り入れる。”“腹話術を使う。”

 これらの手法を授業の冒頭に取り入れることにより、
児童には、より明確な目標(課題意識)を示すことができる。
併せて、児童はその説話に入り込み、
課題を自らのものとして受け止めることができる。
 魅力的な目標に迫ることができるのである。

 そして、様々な授業でその学習の成果を、
“見立て劇の手法を活用して発表する。”
“ペープサートや紙芝居を使う。”
“ゲームや手品を取り入れ”楽しい雰囲気で発表する。

 これらの手法を活用することは、
児童に、発表することそのものへの魅力を感じさせることになる。
 さらには、学習の道筋を明瞭なものにする手助けにもなるのである。
つまり学習方法に魅力が加わると言える。

 また、いろいろな学習展開の節目節目の児童活動での、
“劇的な表現を取り入れる。”“群読の手法を活用する。”
“ゲームで理解度を試す。”“リズムダンスをしてみる。”等々の、
児童文化手法は、教科や単元の特性に応じて
あらゆる場面で活用できる。
 これが、学習方法、授業展開に豊かさをもたらし、
楽しく学習することに結びつくのである。
 児童に学習の魅力を感じ取らせることになる。

 言うまでもないが、児童文化手法は教育技術である。
教師は、その技術を習熟すればする程、
授業での有効活用は広がる。
 児童に魅力ある授業を提供することができるのである。

 児童に魅力的な授業を提供する教師を、
児童はともに学習するメンバーの一員として
魅力を感じるのは当然のことである。


 ② 児童文化手法とその活用

 子どもが主体的に学習に取り組むためには、
学習に対する極めて純粋な意欲あるいは動機が必要になる。

 教師に褒められたいから、認められたいから、
あるいは叱責を受けるから、だから課題に取り組む。
 このような外的刺激からの動機によって進められる学習は、
その働きかけが失われてしまえば、
学習への意欲も同時に消えてしまうことになる。
 いわゆる外発的動機づけでは、
真の主体的な学習は実現しない。

 自然や社会の様々で具体的な事象を捉え、
『不思議だ』『何故だろう』
『知りたい』『やってみたい』
と言った、子どもの内なるところから発せられる知的好奇心、
そして、それに導かれて得られた達成感や成就感が、
真の学習への意欲であり、動機となるのである。
 この内発的な動機づけが、主体的に学習する子どもの姿を
実現する原点である。

 さて、児童文化手法についてである。
児童文化手法は、教師が習得する教育技術の1つである。

 『人形劇、朗読劇、劇遊び、ごっこ劇、
朗読、群読、影絵、紙芝居などの劇的表現活動。    
 語り聞かせ、読み聞かせ、口演童話、
腹話術、子ども落語など話術による活動。
 体育での身体表現、創作ダンス、民舞、
和太鼓などの体育的表現。
 パネルシアター、エプロンシアター、
ペープサート、手品などの表現活動』などが、
代表的な児童文化手法として上げられる。

 これらは各教科・領域の学習の中に、
教師の様々なな指導の工夫として
有機的に取り入れられ、子供たちに示されている。
 また、子供たち自身が、これらの手法を
学習の到達段階での成果を表現する方法として用いたりもする。

 本来、児童文化手法は前述したように、
教師の教育技術として開発・発展してきたものである。
言い換えるなら、大人から子どもに提供された手法であった。
 しかし、今日の学習においては子ども自身がその手法を自らのものとし、
それを積極的に活用し、自己を表現する手法になってきている。

 子どもの内発的な学習への意欲・動機づけ、
そして、その興味関心の持続をより確かなものにするため、
児童文化手法は有効な手段なのである。
 それは、この間の教育改革と、
その実践として進められている授業改善のうねりの中で、
実証されてきた。

 くり返しになるが、
自然や社会の事象を示し、それへの内発的な意欲・動機づけには、
単にその事象を言葉や映像で
コミニュケーションを図るだけでは物足りない。
 児童文化手法は、児童に豊かなコミュニケーションを提供し、
児童自身が実感をもってそれらの事象を捉え、
鮮明な課題意識とその持続を保証するものである。
 その手法は子どもの手を通し、
あるいは教師と子どもの共同した営みを通し、
さらに工夫と広がりを見せようとしている。





 北竜町の『ひまわりの里』   「凄い!」の言葉だけ
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『真の平和への道筋』

2015-08-07 22:03:11 | 時事
 1945年7月15日、前日の空襲に続き室蘭市は、
アメリカ艦隊計13隻による艦砲射撃を受けた。
 午前9時30分から10時30分までの1時間に、
1トン砲弾860発が打ち込まれた。

 アメリカのねらいは、軍事工場であった製鉄所と製鋼所だった。
ところが、その社員が暮らす住宅地にまで砲弾は飛んできた。
 死者485人のうち439人が、一般市民だった。

 私は、戦後生まれであるが、家族は皆、その砲撃の渦中にいた。
まだ3歳にも満たない姉も、何故かその時の恐怖が脳裏にあると言う。

 私は、幼い頃からくり返し、
その日の地獄絵のような様相を、父から聞かされた。

 「爆撃が治まり、防空壕から出て真っ先に見たものは、
電線に宙づりになっていた血だらけの死体だった。
だが、それには頭も首も腕もなかった。」
 「隣の防空壕は、跡形もなく吹き飛び、
逃げ込んだはずの人は1人もいなかった。
ただ静まりかえり不気味だった。」

 小さな私の心は、そんな話を聞くたびに、
震えが止まらず、母にしがみついた。

 話の終わりに、両親は、口をそろえて
「あんなことは、二度と絶対にあってはならない。」と言った。

 私は、そんな両親からの体験談を通し、
戦争の恐怖を私自身に染みこませた。

 しかし、『戦争を知らない子供たち』ではないが、
今や『戦争を知らない初老』である。

 先日も、報道で知ったことであるが、
沖縄戦では、北海道出身の兵士が、
他県に比べて多数戦死しているとか。
 その訳を、ある学者が、
「沖縄人と北海道人の命を楯にしたのではなかろうか。
それは本土の人間とは違うと言った考えがあったように思う。」
と話していた。

 それを、簡単に鵜呑みにはできないが、
戦争の残虐性を改めて知らされた思いがした。
 真実ならばと、大きな憤りも感じた。
 そして、自己反省とともに、
戦争を知らない者として、70年前の惨劇を、
今後も機会ある毎に、心して学び続けなければと思った。

 過去、身近にこんな事があり、心に刻んだ。
 もう10年も前である。

 今も続いているだろうが、
私が着任した東京都内の小学校では、
東京大空襲や太平洋戦争開戦の日あたりに、
平和についての行事が組まれていた。

 当時、私が赴任していた学校でも、
『平和を考える集会』が計画されていた。
 担当の先生が、校長の私に相談を持ちかけてきた。

 私の学校は、東京大空襲で校舎が全焼し、
学校へと逃げ込んだ人々の多くが犠牲になった。
 担当者は、「その惨状を子供たちに伝えたい。」
「この地域で、空襲体験をした方に、その様子を全校児童に話してもらいたい。」
と言うのである。
 私は、その提案に賛成した。
担当者は、私に、語り手の依頼を託した。
私は、何のためらいもなく快諾した。

 早速、地域の有力者Mさん宅を訪ねた。
そして、集会の主旨と具体的な計画を説明し、語り手捜しをお願いした。
Mさんは、「学校のお力になれるなら。」と引き受けてくれた。

 それから半月、ヤキモキさせられたが、
集会の2日前、ようやく語り手が決まったと連絡があった。
 集会の日に、現れたのは顔馴染みのお店のご主人Sさんだった。

 下町特有の口調で、空襲の恐怖を全校児童に30分も話し続けてくれた。
「真っ黒な死体が、爆風で布きれのように、
いくつも転がっていった。」
「学校の玄関の床石には、焼けた死体の黒い跡が残り、
何年経っても目をそむけた。」
 体験者でなければ語れないことが、次から次へと続いた。

 翌日、お礼のため再びMさん宅を訪ねた。
 そこで教えて頂いたことが、今も強く心を捉えている。
Mさんは、私からの語り手依頼を受けると早速、
数人の町会役員に集まってもらった。
そこで、語り手の人選をした。しかし、その人選が難航した。
それは、私には思いも寄らないことだった。

 学校の周辺には、何人もの空襲体験者はいた。
しかし、
「Aさんは生きのびたものの、ご両親をなくしている。」
「Bさんもそうだ。」
「Cさんは、兄さんと妹さんを亡くした。」
「Dさんは、確かお祖母さんもお祖父さんも。」
「だから、きっと思い出したくはないだろう。」
「いや、思い出させるのは気の毒だ。」
「Eさんも、Fさんも、頼むわけにはいかない。」
 こんな会話が、次から次へと続き、人選は苦慮したのだと言う。
 そして、ようやく肉親には亡くなった方がいなくて、
空襲体験のあるSさんに頼むことができたのだった。
 
 それまで私は、悲惨な体験であっても、
それを後世に伝えようと言う使命感があれば、
語り手は誰でもできると思っていた。
 しかし、Mさん達の人選の苦慮から、
その体験から受けた苦しみの深さを教えられた。
そして、その傷みをそっと包む人々も知った。
 私は、本当の『戦争を知らない』と赤面し、唇を噛んだ。

 広島に原爆が投下され、70年。沢山の報道特集があった。
その中に、70年がたってはじめて体験を語った方がいた。
 長年閉ざしていた思いの深さと、
どうしても伝えたいと言う思いの強さが、
空襲体験の語り手探しに苦慮したMさん達と重なった。
 再び戦争という惨劇の重大な罪と苦悩をくり返してはいけないと思った。

 そうだ。昨日の平和記念式典での広島市長の平和宣言が心にある。
『武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みの実現に
忍耐強く取り組むことこそが重要だ。』
と、述べ、
『憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を
世界へ広めることが求められる。』
と訴えている。

 市長は式典後の記者会見で、こうも述べた。
「あえて『安保法制』という固有名詞を記述しなくても、
おのずと熟議してほしいという気持ちは伝えられる。」と。

 


    『秋桜』が 咲き始めた
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