ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

自分探しの 第1歩・・!?

2021-10-30 14:09:54 | あの頃
 家内とは、学生時代に知り合った。
だから、その頃のことがティータイムの話題になった。
 久しぶりのことだ。

 同じサークルに所属していたので、
共通の友人も少なくない。
 また、お互いの友だちについても、名前と顔は思い出せる。

 薄れていた記憶をたよりに、
サークルに加わった頃の私を綴ってみる。
 それは、自分探しの第1歩と言えることかも・・・。


 ① 『子どもを守る歌』に揺さぶられ

 何とか大学に入学したものの、
私は自分を律することができずにいた。

 講義の多くに、興味が湧かなかった。
いや、私の理解を超えたレベルで、
講義が進んでいるように思えた。
 要するに、講義内容についていけなかったのだ。

 だから、次第に欠席が多くなった。
勉学だけでなく、あらゆることに意欲を失っていった。

 そのまま夏が過ぎ、1年生の前期が終わった。
単位の習得は、ほとんどが未修だった。
 体調も良くなくなっていった。

 思い切って、大学の保健室のような医務室のような部屋をノックした。
養護教諭のような看護婦さんのような女性が、話を聞いてくれた。
 「大学生活で楽しいと思えるものが、
見つかるといいのだけど・・・」。
 そのアドバイスが、小さな光になった。
 
 高校で少しだけ体を動かしたことのある
サッカー部とバレーボール部を見学に行った。
 サッカー部のハードさに尻込みした。

 バレーボール部ならと、体験入部をさせてもらった。
6人制バレーは初めてだった。
 基礎練習は一応何とかついて行けたが、
試合形式の練習になるとダメだった。
 フォーメーションが理解できないのだ。

 練習の後のミーティングで、
くり返し基本的な動き方を教えられた。
 しかし、私にはそれをしっかり学ぼうとする気力がなかった。
まさに『三日坊主』。
 早々とバレーボール部を退散した。

 『楽しいと思えるもの」が見つからないまま、
悶々とした日が続いた。

 そんなある日の夕暮れ時だった。
西日に照らされたサークル室が並ぶ棟の廊下を通った。

 アコーディオンの伴走で男女の歌声が聞こえてきた。
部屋と廊下はガラス窓で仕切られていた。
 思わず立ち止まって、その部屋を覗いた。

 数10人の学生が整列し、指揮に合わせて歌っていた。
初めて聴く曲だった。
 突然、歌の途中で、1人の女性が前へ進み出て、
声を張り上げた。

 今もその声を思い出せる気がする。
濁りのない澄んだソプラノ。
 彼女は、すっと背筋を伸ばし、西日を受けながら歌った。

 『どう教えたらいいのだろう。
どう知らせたらいいいのだろう。・・・・・』。
 子ども達を目の前に、女教師が思い悩む心情を、
切々と歌い上げていた。

 音楽の力に初めて出会った瞬間だったと言えるかも・・・。
体中が熱を帯びた。
 「俺も、あんな優しい心根をもった先生になりたい!」。
そんなことを想いながら、コーラスが終わってもまだ、
その部屋を覗いていた。
 耳と心に余韻が響いていた。

 その時、男子学生がガラス窓を開け、笑顔で言った。
「中に入って、一緒に歌いませんか」。
 急に体の熱が醒め、私は一礼して、
急ぎ足でその場を後にした。

 その曲と歌声が忘れられなかった。
たびたびサークル室の前をゆっくり素通りし、
歌っている学生らに気づかれないように聴き耳を立てた。

 ソプラノの独唱が入るその歌は、
『子どもを守る歌』という題名だと知った。
 そして、それを歌っているサークルの名が、
『うたう会』と言うことも分かった。

 でも、その時の私は、
もしも再び、ガラス窓を開け「一緒に・・・」と誘われても、
あの日と同じように急ぎ足で、
その場を去ることしかできなかっただろう。
 
 声を合わせ一緒に歌う楽しさなど、
想像もできなかったのだ。


 ② 『えの目の恵比寿太鼓』に揺さぶられ

 そのイベントが、どんな内容だったのか、思い出せないが、
大学があった小都市で一番大きなホールが会場だった。

 きっと私は暇を持て余して、
その会場にいたのではないだろうか。
 「会場に出向いた動機・・・?」。
それも、全く分からない。

 催しがかなり進んでからだ。
暗転の会場の、広いステージ中央を、
スポットライトが明るく照らした。

 そこに、和太鼓が1台、縦に置かれていた。
そして、頭に豆絞りを巻き、パッチに半纏姿の若者2人が、
太鼓のそばで、バチを高々と構えていた。

 会場に男性のアナウンスがゆっくりと流れた。
「石川県は能登半島に伝わる『えの目の恵比寿太鼓』。
太鼓をたたくのは、H大学うたう会の4人です。
 日本海の荒波に負けずに打ち鳴らす太鼓の響きを、
どうぞお聴きください」。

 急に緊張が走り、背筋が伸びた。
「あの部屋でコーラスをしていたメンバーが、和太鼓をたたく!」。
 意外性と一緒に、身を乗り出していた。

 スポットライトの中で、ゆっくりとバチが打ち下ろされ、
どこか懐かしい、聞き覚えがあるようなリズムをゆっくりと刻み始めた。
 そのリズムに合わせ、もう1人が力いっぱい太鼓にバチをたたきつけた。
2人の太鼓の音が、広い会場に轟いた。

 そして、次々と広い会場を揺り動かすような太鼓の音響が、
くり返しくり返し轟いた。

 訳が分からないまま、何故か私の鼓動が大きくなった。
太鼓の打ち手が次々と交代し、
次第次第に刻むリズムは速くなった。
 それでも、2人の打ち手の息はピタリとあって、
暗転の会場からの視線を、
スポットライトの太鼓にだけ注がせた。

 やがて、会場から大きな拍手が、湧き上がった。
私も思わず一緒に拍手を送っていた。

 鳴り止まない拍手の中、4人は太鼓を囲み、
数回力強くバチを振り降ろし、「ヤーッ!」のかけ声と共に、
会場から太鼓の音が消えた。
 
 パッと舞台が明るくなり、4人は太鼓の前で一礼し、
舞台袖にかけ足で消えていったのだ。 

 その後、いつ会場を出たのか、覚えがない。
外の公園は、赤や黄に色づいた木立におおわれていた。
 その小道を歩きながら空を見上げた。
「あの和太鼓をたたきたい。あの歌も唄いたい。
だから『うたう会』に・・・。どうしようか・・・」。

 数日後、思い切ってサークル室のドアをノックした。
「太鼓をたたいてみたいんです・・。
それから『子どもを守る歌』も唄えるようになりたいんです・・」。
 ドアをあけてくれた先輩に、やっと聞こえるような細い声で伝えた。

 「入会したいんだって!」
先輩は、部屋にいたメンバーに大声で言った。
 大きな拍手と一緒に、私はサークル室に招き入れられた。

 その日から、学内に顔見知りが増えた。
コーラスも和太鼓も、次第に楽しくなった。
 その上、難しい講義をみんな苦労しながら学んでいることも分かった。

 『楽しいと思えるものが、見つかるといい』・・。
アドバイスどおり、その後の私は大学生活を謳歌した。

 追記すると、1年後に入学し、すぐにサークルに入った女子に、
寸劇のアドリブでやけに息が合うのがいた。
 それからずっと息を合わせ、今も過ごしている。



    すっかり秋の装い ~マイガーデン    
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そ の 時 々 ~ 某会誌より

2021-10-23 11:27:45 | 思い
 10年前になる。
当地へ転居する時に、
それまでの縁を多少なりとも繋いでおこうと、
某OBの会へ籍を置くことにした。

 年数回の集まりは、当然東京都内が会場のため出席できず、
唯一参加できるのは、年1回発行される会誌への執筆だった。

 先日、今年の会誌が届いた。
会員各位の近況を知ることができ、
小誌の隅々まで目を懲らした。
 
 ふと、暇に任せ、今までの会誌を取り出し、
私自身の一筆を読んでみた。
 どんな想いで書き記したのか、その時々が蘇った。

 会誌を通して振り返ると、
あっと言う間だと思っていた歳月を、
1つ1つ私らしく歩んでいたように思えた。   
 貴重な『証』と言えそうだ。


◆2013年
        移住して1年

 冬を越えてからでなければ伊達への移住の是非は決められない。
ようやく顔馴染みになった地元の方々からそんな声を聞き、
1年が過ぎた。

 1日中、降り積もる雪を、朝と夜2回も
玄関先、ガレージ、自宅前の歩道と雪を掻く。
 氷点下の寒さに頭から手足の先まで完全防寒し、
最小限の外出で済ませる日が続く。
 予想以上の過酷さにただただ呆れる。

 しかし、芽吹きの春を迎え、
一斉に草木の開花が訪れ、その色彩の鮮やかさに心を奪われ、
そして今、盛夏の時。
 山々は濃い緑に覆われ、北の大地の本当の逞しさを教えられる。
そう、私にとって移住は正解だったと思う。


◆2014年
        ジューンベリー 

 伊達への引っ越しは6月だった。
その日初めて、完成した我が家と庭を見た。

 その庭で迎えてくれたのが、
穏やかな風に揺れるジューンベリーの樹だった。

 私にとって6月は、かねてより1年の中でも
思い出のある特別な月であった。
 まさにシンボルツリーにふさわしい樹との出会いだった。

 『ジューンベリー・・・?』
それは通常6月に赤紫色の実がなることからの命名のようだ。
 伊達では、7月初旬に実をつける。
今年も、ジャムにし、ご近所にも配った。
 (ブログ『ジューンベリーに忘れ物』抜粋)


◆2015年
       ブログ『南吉ワールド2』抜粋

 『ジューンベリーに忘れ物』という面倒なタイトルをつけたブログも、
週1の更新をくり返し、1年が過ぎた。

 この間、57編におよぶ私の想いを、その週その週、
遠慮なく記させてもらった。
 今日も、このブログを開き、目を通してくださる方々の存在が、
大きな励みになっている。
 心からお礼を申し上げたい。

 さて、昨年10月18日『南吉ワールド』の題で、
そのブログに新美南吉の代表作と言える
『てぶくろを買いに』と『ごんぎつね』について触れた。

 優れたストーリー性に魅了されるが、
人間への不信とも思える冷ややかさに、
私は釈然としない読後感をもった。


◆2016年
       ついに そして まだまだ

 毎日をサンデーにしないため始めたジョギング。
四季折々変化する伊達の景色に風を感じ、楽しさを知った。

 そして、地元開催の大会へ参加。
それを皮切りに5キロ、10キロ、ハーフと
年々挑戦する距離を伸ばし、自己記録にチャレンジ。

 そんな積み重ねが、
ついに今年、フルマラソンにトライ。
 5時間13分で完走。

 きっとゴールしたら、喜びの涙がと思いきや、
究極の疲れがそんな感情さえ忘れさせてしまった。

 でも、充実感がたまらない。
今度は5時間を切る。
 その意気込みで、今日も走っている。
私はまだまだチャレンジャーなの・・?


◆2017年
        北に 魅せられ

 移住してすぐに気づいた。
伊達には都会の喧騒とは無縁な空気が流れていた。
 朝に漂う爽やかな風と共に出会う大人も子どもも、
朝の挨拶を欠かさない。
 スーパーに並ぶ野菜も魚も、
ひと目でその新鮮さが私にも分かった。

 そして、何よりも私は北海道が彩る四季の折々の表情に、
すっかり心を奪われた。
 そんな日々と暮らすだけで、全てが満ちた。

 ところが3年前、
北の大自然としっかり向き合う人々に心が騒いだ。
 事実、黙々と淡々と悠々と働く、その姿がまぶしかった。

 それが大きな力になった。
ずっと温めていたブログにも、
初めてのマラソン大会にもチャレンジしようと決めた。


◆2018年
        伊達の錦秋

 ▼荒々しい有珠山が朝日を浴び、頂の山肌を紅色に染める。
裾野の樹木は、これまた秋の赤。
 上から下まで山は丸ごと深い赤一色に。

 風のない朝、ツンとした空気の山容が
私の背筋を伸ばしてくれる。

 ▼線路の跡地がサイクリングロードに。
紅葉した桜並木のその道を2キロほど進むと、『チリリン橋』だ。
 下を流れる長流川に沢山の鮭が遡上。

 産卵を終え、横たわるホッチャレ。
それを目当てに群がる野鳥。
 命の現実を見ながら、私も冬へ向かう。

 ▼明治の頃、クラーク博士が
伊達でのビート栽培と砂糖生産を推奨した。
 今も秋とともに製糖工場の煙突からモクモクと白い煙が上る。
そして、町中はほんのりと甘い香りに包まれる。


◆2019年
        軽夏の伊達を切り取って

 畑は春キャベツとブロッコリーの収穫期だ。
ジャガイモとカボチャの花も咲き始めた。

 少し離れたところに噴火湾が見える。
時折、海面を朝霧がおおう。
 そのはるか先に、駒ヶ岳のさっそうとした勇姿がある。
走りながら両手を広げ、大きく深呼吸をしてしまう。

 再び住宅街へと戻る。
香りに誘われて、顔を向ける。
 手入れの行き届いた花壇に、
とりどりの薔薇が満開の時を迎えていた。

 先日まで、凜としたアヤメの立ち姿が
ジョギング道を飾ってくれていた。
 真っ白なツツジも、ルピナスの赤や紫も道端で咲き誇っていた。
なのに、その時季は終わった。
 『季節の移ろいをあきらめることがあっても、
慣れることはない。』


◆2020年
       『コロナ禍の春ラン』から

 ついに春が来た。
梅も桃も桜も一斉に咲いた。
 白木蓮も紫木蓮もコブシも、みんな咲いた。
日の出も早い。
 目ざめも早くなる。
いい天気の日は、6時半にランニングスタートだ。

 人はまばら。3密の心配など要らない。
でも、この陽気だからか、時折ランナーとすれ違う。
 みんな若い。
多くはイヤホンをしている。
 挨拶しても、視線すら合わせない。

 ところが、近づいてきたランナーが、
私の左腕にあるオレンジ色の腕章を見た。
 「おっ、ガードランナーズだ。お疲れっす!」。
さっと頭を下げ走り去った。

 『走りながら、子どもやお年寄りの見守りを!』。
そんな趣旨に「私でよければ」と腕章をして走っている。

 それをねぎらう飾らないひと言だ。
「別に、何もしてないのに!」。
 でも、誰も見ていないことをいいことに、
少し胸を張った。

 きっとアカゲラだろう。
ドラミングの音が空に響いていた。
 一瞬、コロナを忘れた。


◆2021年
        春の早朝 窓からは

 いつもより早い時間に目ざめた朝。
4時半を回ったばかりなのに、外はもう明るい。
 家内に気づかれないよう、そっと寝室を出て、
2階の自室のカーテンを開けた。

 窓からは、緩い下りの『嘉右衛門坂通り』が見える。
明るさを増す空には、一片の雲もない。
 風もなく、穏やかな一日の始まりを告げているようだった。

 ゆっくりと坂を下る2つの後ろ姿が、視界に入ってきた。
この時間の外は、まだ冷えるのか、
2人とも、ニット帽に冬用の黒の上下服だった。
 男性はやや足を引きずり、女性の腰は少し前かがみになっていた。

 何やら会話が弾んでいるようで、ゆっくりと歩みを進めながら、
しばしば相手に顔を向け、笑みを浮かべているよう。
 愉しげな背中だった。

 私の視線など気づく訳もない。
早朝も早朝、人も車も通らない日の出前の坂道を、
2人だけの足取りが下って行った。
 布施明の『マイウエイ』が、心に流れていた。



      秋空に 柿
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「秋風が心地いい」!!

2021-10-16 11:57:21 | 今 を
 ▼ 当地に居を構えてから、
次第に感じるようになったことがある。
 それは、「冬がつまらない!」。

 雪が降った朝は、雪かきをする。
それはそれで、ご近所総出の一斉作業で、
不思議と一体感があり、冬ならではのよさを感じる。

 新雪を照らす日の出の眩しさには、
時々、雪かきの手を休めて見とれてしまう。
 これも、北国の冬だからこその素晴らしさだ。

 しかし、明らかに行動が制限されるのが冬だ。
外出もままならない。
 寒さに負けず、雪上をランニングするのは、
年齢的に無茶。
 当然、ゴルフ場はクローズ。
長距離のドライブは、リスクが大きく、
旅行もためらわれる。

 それが分かれば分かるほど、
やっぱり「冬が、つま・・!」と心が沈む。

 さて、今は秋真っ盛り。
伊達を囲む山々も紅葉してきた。
 もうじき、市街地の街路樹も、
秋の草花と一緒に色彩豊かになる。

 そんな美しさを、
「過酷な冬を乗り越えるため、
大自然がくれたプレゼント!」と思ってきた。

 でも、そんな秋を綺麗に感じれば感じるほど、
「冬がつまらない」と思うこととのギャップが、
大きくなっていった。
 だから、年々秋はため息が増えた。

 当然のように、紅葉狩りに出かけても、
帰路には元気を失った。
 
 「そんなこと誰も感じない」と、
自分に問い直してみても、
紅葉する木々と山々に、
気分はうつむいたまま・・。

 しかし、今年はその想いを一掃した。
いや一掃しようと決めた。
 午後になると決まって強く吹く秋風も、
冬の前ぶれと思うのはやめた。
 それよりも「心地いい」と思うことに・・・。  

 「そう!」。
今日に立ち止まり、美しい秋を堪能するのだ。
 「それだけでいい!」。

 冬を想起して心沈むのは、
「あまりにもネガティブ!
 実に勿体ないこと!」。

 そのことに、やっと気づいた。

 ▼ 10月2日『室蘭民報』の「大手門」欄に載った私の随筆を転記する。   

  *     *     *     *     *

          秋の花便り

 秋口になるのを、楽しみにしている花畑が、近くにある。
色鮮やかなガーベラとコスモスが、広い角地一面に咲き乱れるのだ。

 伊達に暮らし始めて3年目の夏、
その花畑を造っている方とはじめて出会った。
 農作業へ行く途中だったが、
美しい花畑の感想とお礼を口にした。
 とっさのことでうまい言葉が出てこなかったが、
精一杯の気持ちを伝えた。

 すると、
「それはそれはどうも。・・もう歳だけど、でも来年もがんばるわ」。
 嬉しそうな表情だった。
私も笑顔で頭をさげ、そのまま別れた。
 その方は、農業用一輪車を押し畑へ向かい、
少し距離があいた。
 突然、後ろから大きな声が届いた。
「あのさ、来年まで生きていたら、やるから!」。
 「エッ!」、ふりかえって急いで言葉を探した。
その方は、すかさず「そう言うこと!」。
 手を挙げ、ゆっくりと遠ざかっていった。

 だが、それからも毎春、
畑には小さな苗が整然と植えられた。
 徐々に緑色が増し、やがて秋が訪れ、
色とりどりの花が私の足を止めた。

 ところが、一昨年の秋だ。
その方の急逝が伝わった。
 なのに、ガーベラもコスモスも、凜と華やかに咲いた。
「もう、この花畑も見納め」。
 何度もカメラを向けた。
シャッターを押す指が、いつもより私に力を求めた。

 そして、再び春が・・。
ビックリした。
 雪の解けたその畑は、いつの間にか整地され、
縦と横にまっすぐ小さなガーベラの苗が植えられた。
 夏が近づき、畑を囲むように無数の芽が出た。
コスモスだと気づいたのは、かなり日が過ぎてからだった。

 秋、前の年と同じようにガーベラもコスモスも花盛りを迎えた。
あの方は逝ってしまった。
 でも、その遺志を継いだ方がいた。
花畑の前で、胸がいっぱいになった。

 そして、今年も、
私の街にあの角地から秋の花便りが届く。

  *     *     *     *     *

 このブログにも、
何度か登場した近所にある花畑のエピソードだ。

 今秋から、秋への心構えを変えたその証として、
あの花畑を待ち望む心情を、書いてみた。

 新聞に掲載されると、数人から反響があった。
中には、久しぶりに涙が流れ、
「日頃のモヤモヤした気持ちまで晴れました」と、
メールが届いた。

 「いつも、人と人とのつながりを大切にしていて、
・・大事ですね」とも。

 そして、2か月ぶりに、
薬をもらうために通院した待合室で、こんなことも。

 右半身が不自由な女性が、座席を探していた。
ソーシャルディスタンスで、席が少ない。
 すかさず、立ち上がり私の席を譲った。

 それを見て、看護師さんが駆け寄ってきた。
「ツカハラさん、ありがとうございます!」。

 杖をたよりに、ゆっくりと椅子に座りかけたその女性が、
突然、顔を見上げた。
 そして、明るい声で小さく言った。
「ツカハラさんって・・!? 
 あのムロミン(室蘭民報)の?」。

 表情は、私の一文を読んだことを伝えていた。
小さくうなずいた私に、
女性は杖に力を込めながら、ゆっくりと頭を下げてくれた。
 
 処方箋を受け取り、病院を出ると、
透明な青空と心地いい秋風だった。
 その空を見上げたままでいたかった。

 誰にだろうか、何へだろうか、
無性に「ありがとう!」と言いたくなった。

 


  今日 近所の花畑・満開のガーベラ  
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父 と お 酒

2021-10-09 13:40:38 | あの頃
 ▼ 明治生まれの父は、私が29歳の時に亡くなった。
享年70歳、酒が大好きだった。

 若い頃は知らないが、
私の記憶にある父には、酒にまつわる醜態が多く、
家族中が嫌な思いをさせられた。

 酒が入っていない父は、穏やかで仕事熱心だった。
知性的な一面も・・・。
 だが、酒が進み酔いがまわると、制御不能となり、
酔いつぶれるまで飲み続ける人だった。

 だがら、その防御策として、
我が家には、お酒の買い置きがなかった。
 1升酒があると、それを全部飲み干すまで、
「もう1パイ!」「もう1杯!」と言って飲んだ。

 仕方なく、「晩酌は2合」と母が決めた。
毎夕、小学生の私が、空瓶を抱え2合分の酒代を握りしめ、
酒屋へ「お使い」に行かされた。

 そのお酒を、父はコップに入れると「一気飲み」した。
残りの1合も、あっと言う間に、
喉をグイグイと鳴らしながら、美味しそうに飲み干した。

 「これで毎日が過ぎるのなら、それでいい」と、
どんな天気の日でも、私は小走りでその「お使い」をした。

 しかし、月に1回、いや2ヶ月に1回程度だったろうか、
出かけたまま、父が戻らない日があった。

 定番なので、家族みんなが分かっていた。
繁華街の飲み屋さんをハシゴしているのだ。
 そして、最後はどこかの店で酔いつぶれる。
深夜か早朝まで帰ってこないこともあった。

 時には、その店の常連さんが我が家に立ち寄り、
「酔いつぶれているよ」と教えてくれた。
 知らせがくると、兄は何も言わずに
リヤカーをひいて、父を迎えに行った。
 小1時間もしないで、
リヤカーに酔いつぶれた父を乗せ、
兄は帰ってきた。

 姉と私はこれまた何も言わずに、
その父を抱えたり引きずったりして、
布団に寝かせた。

 「また、こんなに飲んで、
ショウガナイ父ちゃんね!」
 母は、布団で酔いつぶれている父を、
立ったまま見降ろし、いつもボロボロと泣いた。

 父が帰らない日、私は、時々母に言われ、
父を迎えに、飲み屋街へ行った。

 その時の様子を、若い頃に書いた
物語『サルビアのそばで』(本ブログ15/10/23、30に掲載)で、
再現している。一部を転記する。

  *     *     *     *     *

 ・・・・、1ヶ月に1回か2回、
お母さんが帰って1時間がすぎても2時間がたっても、
お父さんの帰らない日があるのです。

 そんなときは、必ず「たけし、父さんをさがしておいで。」
と、お母さんが言うのです。
 とても怒っているようで、こわい顔なので、
たけし君は、「いやだよー。」と言えず、
暗くなった道を歩きだすのでした。

 たけし君には、お父さんのいる所がだいたいわかっているのでした。
そこは、夜でも人でにぎわっている場所です。
 お酒を飲んだ人が、肩を組みながら大声で歌をうたって歩いていたり、
ろじうらでおしっこをしている大人がいたり、
どこかの店からはレコードの歌が聞こえてきたりしています。
 赤いちょうちんをぶらさげている店もあります。
よっぱらいばかりの所です。
 たけし君はそんな所へ行くのでした。

 たけし君は、お酒を飲んでいる人ばかりの店を、
一軒一軒のぞいて歩きます。
 のれんをくぐり戸を開けると、決まって女の人が、
「いらっしゃい。」というのです。
 子どもが入ってきたので、変な顔をしてたけし君を見るのです。
たけし君はそんなことを気にもしないで、店の中を見回します。
 「お父さんはいないかなあ。」と思って。

 そんなことを何軒かしていると、
お父さんをみつけることができます。
 たけし君は、もうだいぶよっているお父さんのところに近づいて、
「父さん、帰ろうよ。」と言うのです。
 お父さんは、なかなか帰ろうとしません。
たけし君は、よっぱらいばかりいる店がいやなので、早く帰りたくなります。
 なんべん「帰ろう。」と言っても、お父さんは腰を上げてくれないので、
たけし君は、そこで大声をはり上げてなくのです。
 すると、お父さんはしかたなく、店を出てくれるのでした。

 店を出てからがまたたいへん。
なかなかまっすぐには歩いてくれません。
 横へふらふら、前へよろよろ。
たけし君は、道路のわきにあるドブにおちやしないだろうかと心配で、
お父さんのうでを、両手で力いっぱいおさえながら、
家までつれて行くのでした。

 しかし、いつもと違う日があったのです。
お酒を飲んでいるらしくお父さんの帰りがおそい日でした。
 たけし君は、いやいやよっぱらいのいる店をさがし歩いていました。
お父さんはやはりお酒を飲んでいました。

 その日だけは、「父さん。」と言うと、
「おう、帰ろう。」と、すぐに店を出てくれました。
 やっぱりよっていました。
でも、そんなにふらふらしていないようでした。
 たけし君は、お父さんのうでを両手でおさえながら歩きだしました。

 すると、「きょうは、だいじょうぶだ。」と言って、
お父さんは、たけし君の前にしゃがみこんだのです。
 たけし君には、それがなんだか、すぐにわかりました。

 たけし君は、お父さんの背中にいそいで飛びつきました。
お父さんの首にしっかりとつかまりました。
 ゆっくりとお父さんは立ち上がって歩きだしました。
大きな背中でした。
 歩くたびに、たけし君の体はゆれました。

 たけし君はお父さんの背中に顔をくっつけました。
お父さんの臭いがしました。
 お酒の臭い、たばこの臭い、あせの臭い、そして魚の臭いもしました。
じっと目をとじて、たけし君はその臭いをすいました。
 たけし君は、その臭いが大好きになりました。

 大好きなお父さんの臭いを胸いっぱいにすって、
大きな背中にゆられながら、
たけし君とお父さんは夜道を帰ったのでした。
 ・・・・・・

  *     *     *     *     *

 物語での、再現である。
若干のデフォルメはあるが、私と父の昔の昔の1コマだ。

 お酒を通した父とのこんな温もりがあったからかどうか、
2人の兄は、酒を一切口にしなかった。
 私だけは、学生時代から機会があれば、
楽しくお酒を飲んだ。

 今は、アルコール度3%の『ほろよい』1缶で大満足だが、
現職の頃は、同僚や先輩達と時間を忘れ、
時には、はしご酒も・・・。
 
 父とは、1度だけ、
上野公園内の小洒落た焼き鳥料理の店で、
チビリチビリとお銚子を数本空けたことがある。

 少し千鳥足の父と腕を組み、
思い出話をしながら、公園内を抜け、
駅まで夜風に吹かれた。
 美味しいお酒だった。

 「父さん、またこうやって飲もうね」。
そう約束したが、2度目は叶わなかった。




    秋迎える 稀府 (まれっぷ)岳 
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『 億 劫 に は ! 』

2021-10-02 13:00:30 | 今 を
 ▼ 先週土曜日『室蘭民報』の「大手門」にあった随筆を、
転記する。

  *     *     *     *     *

     遠 く 感 ず る
                  南部 忠夫

 日々介助に明け暮れている。
 近頃、どこへ行くにも遠く感ずるようになった。
 つい最近、息子夫婦が札幌からやって来た。

 高齢の両親がどのように暮らしているのか、
ずっと気に掛けていてくれるのだ。
 まん延防止策が取られている中を、
両方ともワクチン接種が終わっているのを言い訳にして、
強行突破して来たのだ。
 コロナ流行以来2年ぶりの再会だった。

 2時間ちょっとの滞在で、
慌てて札幌へ戻って行った。
 
 私は強く距離感の違いを感じた。
札幌はいやに遠く感じられるのだ。
 物理的距離は同じでも、
高齢になると心理的距離が遠く遠く感じられるのだ。
 札幌往復なんて何の苦もなくできたものが、
今では札幌へ行くのでさえ、遠くて億劫になる。

 息子の転勤先によって、いろんな市を走り回ったが、
遠いと思ったことがなかった。
 函館の親戚や、長沼町の実家などへ行くのに
遠いなど思った事はなかった。

 今はどうだろう。
苫小牧が遠くなり、支笏湖、洞爺湖が遠くなり、
白老牛を食べに行くのが遠くなった。
 登別・室蘭などは通勤距離くらいにしか思っていなかったのに、
胆振は広いと思ってしまうのだ。

 恐ろしいのは市内の善光寺が遠く思われ、
伊達駅までもが遠く思われるのだ。

 何しろ高齢による体力の低下は
距離感の相違に現れる事を知った。
            (楽書きの会、伊達市元町)

  *     *     *     *     *

 筆者の南部忠夫先生は、
私を『楽書きの会』へ誘ってくださった方だ。
 長年にわたり、会の主宰をされている。
きっと80歳は超えているように思う。

 随筆を読みながら、『高齢による体力の低下』は、
どうすることもできないことと思いつつも、
身につまされた。
 でも、私はまだまだと思い直した。
一方、心理的距離感には、
思い至る節が「無きにしも非ず」・・かも!?

 ▼ 私にもあった20歳代のころだ。
大学で彫刻を学んでいたA氏が、
高名な彫刻家であるT・H氏のアトリエを訪ねた時のことを、
教えてくれた。

 終戦後もパリに在住し、文化芸術活動に関わり、
帰国後は、彫刻創作のかたわら、
後進の指導にあたっていたT氏だった。

 学生のA氏は、初めて鎌倉・稲村ヶ崎のT氏のアトリエに、
友人と2人招かれた。
 T氏は、もうかなりの年齢だった。

 緊張する学生を、アトリエで迎えたT氏は、
すぐに2人に椅子を勧めた。
 そして、部屋の片隅で、自ら急須に湯を注ぎ、
お茶を煎れてくれた。

 「塚ちゃん、あのT・H先生がだよ。
極々あたり前のように、
俺たちにお茶を煎れてくれたんだよ。
 本物の芸術家って、こうなんだよ。
凄いよね」。

 そして、A氏からこんな話も、
「それからも、アトリエには何度か行ったけど、
お茶だけじゃないんだ。
 とにかくまめによく動く。

 アトリエなので創作の場だから、
いつもかたわらに粘土があるんだけど、 
彫刻と向き合っているときだけでなく、
俺たちに椅子を勧めておいて、
先生は、ずっと立っているんだ。

 ずっと立って、何かしら立ち仕事をし、
動きながら、俺たちに話しかけるんだよ。
 疲れなんて、知らない人みたいにさ。
年寄りなのに・・」。

 50年も前の話だが、ずっと心にあった。
真似できないと思いつつも、それを聞いてからは、
ちょっとだけ真似してきた。

 授業中は、どんな場面でも椅子に腰掛けないようにした。
管理職になってからは、
来客には、できるだけ私自身がお茶を煎れるようにした。

 ▼ 『毎日がサンデー』になってからの私はどうか。
この暮らしも10年目になる。
 しかも、コロナ禍がもう2年も・・・。

 いつからだったろうか、
1つのキーワードを課してきた。
 「何事も、億劫には思わないこと!」。   

 ところが、・・・・。

 先日、深夜に長い夢を見た。     
早く覚めてほしいと願っても、
いつまでも夢は続いた。

 あら筋は思い出せない。
伊達に来てから知った人もいた。
 若い頃に仲よくしていた人、
職員室で机を並べていた人、
 酒の席で一緒だった人、
校長の頃の町の人、次々と現れた。

 そして、口々に私に聞こえないところで、
眉を寄せ、「あいつはダメだ」「あの人はダメよ」と言う。
 聞こえないはずの声が、次々と聞こえてくる。
同じトーンの「あいつ・あの人」は、私のことに間違いない。

 夢の中で、ダメな私の言動を必死で探した。
心当たりがないままでいる。
 すると、また知った顔の人が現れ、何かが始まる。
最後には厳しい表情で、
「あの人はダメ」とささやく。
 「ダメ」の声だけが、ハッキリと私まで聞こえる。

 やっと夢が終わり、目覚めると、
枕には汗のシミが大きく残っていた。
 夢と知りつつも、無性に心が沈んだ。
 
 その後、何度も何度も寝返りし、
これまた長い夜を過ごした。
 ため息ばかりのまま、朝を迎えた。 

 でも、・・・。
予定していた通り、
5キロの朝ランに出る。
 「億劫に思うな!」
うつむき加減の私を励ました。

 そして、1キロ過ぎの急坂を何とか上り終え、
下り坂に差しかかった先の空を見た。
 朝日で私の前が、真っ赤に染まっていた。

 まぶしさに目を細めたが、
その陽差しが心まで届いたよう・・。
 急に、沈んでいたものが、浮上した。
心がパッと変わった。

 「これからも、心沈むことに出会うだろう。
年齢とともに、心も体も衰えるに決まっている。
 でも、あの彫刻家のように振る舞いたい。
そして、今朝のように、
『何事も、億劫には思わない』私でいよう。」
 
 気づくと、いつもより軽快な足どりで走っていた。
気持ちのいい汗が、ふき出してきた。




    秋 の 落 日 ~イン伊達    
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