ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

医療 悲喜こもごも

2016-04-29 21:23:55 | 思い
  ≪1≫
 1月下旬、年1回の健康診断に行った。
以前、定期検診でガンが見つかり、
その後の治療によって完治した知人がいた。
 それを知ってからは、
欠かさずに健診は受けることにしている。

 毎年のことである。慣れた手順で検査が進んだ。
ところが、思わぬ検査で驚かされた。
 血圧であった。

 若い頃は、低血圧気味で、その後は年令と共に、
徐々に上昇傾向にはあった。
 しかし、本来食事は薄味で、
塩分の少ない物を好んだ。
その上、ここ数年は、朝のジョギングと散歩等で、
決して運動不足などと、
言わせない暮らしである。
 親兄弟に高血圧を患った者はなく、
子ども達も無縁である。

 それなのに、
今まで見たことのない高い数値であった。
担当の方が、再測定をしたが同じだった。

 その後の内科医による問診では、
ただただ首を傾げる私に、
「隠れ高血圧と言うのもありますから。
年令も年令ですから。」
 淡々とした医師の口調とは裏腹に、
私は穏やかになれなかった。

 10日後、健診結果が郵送されてきた。
案の定、高血圧の再検査となっていた。
 どう考えても、不思議である。
腑に落ちないのである。

 何かの間違いではないか。
とりあえず、ドラッグストアにある血圧計を、
初めて利用させてもらった。
総合体育館に常設してある血圧計にも、
チャレンジした。
 1週間、毎日測定したが、
その数値は高いままだった。

 週に4,5日続けてきたジョギングも、
危険なのではないだろうか。
 不安だけがつのった。

 とにかく、再検査よりも先に、
私なりに血圧上昇の原因を探ってみようと思った。

 ここ1,2年の暮らしをふり返った。
変化したことはなにか。
それは何よりも、右腕の尺骨神経マヒである。
 手術をしてから、まもなく2年になる。

 あれからずっと、毎日欠かさず薬を飲み続けている。
痛み止めの錠剤と、
マヒと痺れを緩和する3種類の漢方薬である。

 「本当に、感心するね。」と家内は言うが、
飲み忘れの残薬など一つも出さずに、
この2年間、私はその薬を飲み続けてきた。

 一度、担当医に副作用の心配を尋ねたが、
「それは大丈夫。」と即答された。
 それを、私は鵜呑みにしてきた。

 ところが、毎回診察後、処方箋を持って行く薬局で、
薬剤師さんが、いつも
「飲んでいて、お変わりはありませんか。」
と、訊いてくることをふと思い出し、
急に違和感を覚えた。

 改めて、毎回いただくその薬の説明書きを、
探し出し、読んでみた。
『他の漢方薬を併用する場合は、
その旨を主治医または薬剤師にお伝えください。』
同じ文面が、3種類の漢方薬の注意事項にあった。
 副作用の予感がした。

 薬への知識など全くない。
しかし、何か分かることはないかと、
ネットの検索に挑戦した。

 これは、ずぶの素人の見立てである。
間違いも多分にあるだろう。
 漢方薬の併用が原因で、
『偽性アルドステロン病』があることが分かった。
 その症状の1つとして、血圧上昇があった。
 症状は、服用から数週間、あるいは数年で出る人、
全くそのような症状のない人など様々なようである。

 私の血圧上昇が、これに当たるかどうか、
半信半疑だった。
 私の知り得た理解では、
その薬を止めることによって改善されるのである。
 私は自己責任で、
3種類の漢方薬の服用を止めることにした。

 4日から数週間で改善が見られるはずである。
毎日、血圧計を探しまわり、測定した。
相変わらず高い日が続いた。
 服用を止めて10日、若干下がったように思えた。
そして、2週間後、高い数値がなくなった。
 胸をなで下ろした。

 1ヶ月後、服用を止めて初めて、
担当医の診察を受けた。
 「血圧が上がっていたので、漢方薬を止めてみたんです。
すると、正常値に戻ったんです。」
「そうですか。それじゃ、漢方薬は止めましょう。
稀に、そうなる人がいるんです。」
 これまた、即答された。

 「先生、血圧がすごく上がって、私、驚いたんですよ。」
ちょっと強い口調で、言いたかった。

 でも、いまだ右腕は治っていない。
完治までには、きっとまだ1年はかかるだろう。
担当医には、今後もお世話になる。
 私は、何も言わずに、診察室を後にした。

 患者は、医師の前ではやはり弱者なのだと思った。



  ≪2≫
 まもなく40才と言う頃である。
働きざかりのはずなのに、一日中疲労感があった。
 早く床についても、翌朝疲れが抜けていなかった。
同僚達にそんな弱音を漏らすと、
いいお医者さんがいると紹介された。

 個人の開業医なのに、その内科医院には、
最新の医療検査機器がそろっていた。
 院長先生は、時間をかけて、
私の状態を聞き取ってくれた。

そして、
「とにかく体の上から下まで、すべて調べてみましょう。」
と、言ってくれた。

 血液検査、尿と便の検査、
レントゲンにバリューム検査と、
まさに、大がかりな人間ドックが、
4、5回に分けて行われた。
 私は、仕事の都合をつけながら、その検査を受けた。

 検査の途中で、十二指腸に潰瘍が見つかり、
それが体調不良の要因だろうとのことだった。
 それでも、予定通り検査は続けられ、
最後の検査となった。
 それが、大腸にバリュームを入れるものだった。
私には、はじめての検査だった。

 院長先生が、私のお尻にバリュームを入れようとした。
「どうしたんですか。これは。」
 院長先生の声は、ことのほか大きかった。

 私は、お尻を出して横になったまま、
「実は、若い頃から痔が悪くて、2回ほど手術をしました。
うまくいかなくて、そのままに。」
「そうですか。じゃ、それは後で。」
 検査は、そのまま続けられ、無事に終わった。

 着替えの済んだ私を、院長先生は診察室に呼んだ。
「少しお金がかかりますが、この紹介状をもって、
この病院へ行ってください。
この先生なら、きっと治してくれます。」
 思いがけないことだった。

 「先生、私は もう治らないと諦めています。
この痔の痛みとは、一生、付き合っていくつもりですから、
もう、いいんです。」
 「あのね、あのような症状を見て、
医者としてそうですかと、放っておくわけにいきますか。
この先生でもダメな時は、諦めるしかないけど。」

 私は、強引とも思えるが、
気持ちのこもった院長先生の言葉に動かされた。
 紹介された病院を訪ねることにした。

 痔の専門医であるその病院には、
老若男女が日本全国から来ていた。
 長い時間待たされたが、そのベテラン医師は、
紹介状と私のお尻を見てから、
「ベットが空き次第、手術をしましょう。」
と言ってくれた。

 手術と入院に、3週間はかかるとのことだったので、
私は、夏休みを利用して、
人生で3度目の痔の手術を受けた。

 後で知ったが、
痔の専門医としては、日本で屈指の名医であった。

 退院後、最後の診察で、その医師は私にこう言った。
「きっと10年は大丈夫でしょう。
実は、私は大腸ガンを患っています。
でも、後10年は頑張って生きています。
また悪くなったら、その時はもう一度手術をしてあげます。
安心して下さい。」
 優しい声が、胸に響いた。

 あれから、30年になる。
私は、痔の痛みを知らずに今日もいる。
ただただ、感謝である。

 医師の鑑が、二人いた。





ブルーの花が美しい山野草・エゾエンゴサク
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遊び心 と 幼心 

2016-04-22 21:54:49 | あの頃
 私は、男3人女2人の5人兄弟の末っ子である。
今とは違い、当時はよくあったようだが、
一番上の姉とは20歳以上も年の差があり、
二人の兄とは12歳と10歳、
一番近い姉でさえ6歳も離れていた。

 だから、子どもの頃は、当然、
対等な感じは全くなく、いつも上下関係の仲だった。

 兄弟の中で、一番明るく、行動的だったのは、
このブログにもしばしば登場する10歳違いの兄で、
幼い頃から私の記憶に、鮮明に残っている。

 確か5歳、小学校入学前である。
今にして思えば、滑稽なだけであるが、
兄のちょっとした遊び心が、
私の幼い心を痛めた出来事があった。
 その2つを記す。



  1 お湯になっちゃうの!


 私は、北海道室蘭に生まれました。

 大きな製鉄所や製鋼所があり、
昔から『鉄の町』として有名でしたが、
加えて、海がとても綺麗で、その美しさは今も変わりません。
 その海に、10歳も年上の兄と、
一緒に行った時のことです。

 兄は、まだ5歳の私を自転車の後ろに乗せて、
海に長々と突き出している防波堤の先まで、
連れて行ってくれました。

 秋になろうとしている頃だったと思います。
兄は、釣り糸を垂れ、
私はその周りで時間を過ごしていました。

 ふと、遠くに目をやると、
真っ赤な太陽が水平線先の、海の上にありました。
雲一つない晴れ渡った日でした。
 私は、その太陽があまりにも大きかったので、
しばらくぼう然と見入っていました。

 波はなく、海は真っ平らで、
青い空がそのままの色で染めていました。
 穏やかな海の先からは、太陽の朱色の陽差しが、
少しだけ扇を広げたように、海面に伸びていました。

 突然、兄が太陽の日差しを顔に受けながら、
言いました。

 「見てみろ。あの太陽はものすごい熱さで、
燃えているんだぞ。
 その熱い熱い太陽が、もう少しするとこの海に、
だんだんと沈んでいくんだ。
そうしたら、この海はどうなるか分かるか。」

 私が、不思議そうな顔で兄を見ると、
それこそ今まで見たこともない真剣な表情で、
兄は私の顔を見て言いました。

 「いいか、この海がな、
ジューッという、ものすごい音をたて、
熱い熱いお湯になるんだ。
お前なんか、一片にやけどしてしまうぞ。」
「エッ、ここがお湯になっちゃうの。」

 私は、もう怖くて怖くて、
釣り糸を垂れる兄の手を、力いっぱい引っ張って、
「早く帰ろう。早く帰ろう。」
と、大泣きしたのでした。

 兄が、「ウソだよ。ウソだよ。」と言っても、
防波堤から離れるまで、私は泣き止まなかった。
 


  2 小人さんが住んでるの!

 我が家で、テレビを見ることができるようになったのは、
小学校4年生の時でした。
 それまで、娯楽の第一は、ラジオでした。


 記憶は、実にあいまいで混沌としていますが、
当時人気のあった、花菱アチャコが出ている、
ラジオドラマを、毎週、家族そろって聞いていました。

 5歳の頃だったかと思います。

 ドラマには、バス通りに面した店先が出てきました。
内容は全く思い出せませんが、
バスやトラックが走る音がしました。
時には、自転車のベルの音も聞こえました。
 たいそうにぎやかな町だったようでした。

 幼心にも私は、そのバス通りの賑わいや
たくさんの人々のやりとりが、
茶だんすの上にあるラジオから聞こえてくることが、
不思議でなりませんでした。

 ある日、思い切って、
学校から帰ったばかりの兄に訊いてみました。
 「どうして、ラジオから人の声や、
自動車の音がするの。
犬の声だって聞こえるよ。ねえ、どうして。」

 10歳年上の兄は、私を見て、
一瞬、明るい表情を作りニコリとしましたが、
すぐに真顔になりました。

 「あのなぁ、あのラジオの箱には、
何人もの小人が住んでいるんだよ。
 小さくて、よく見えないけど、小人の町があり、
小人が乗る車も自転車も走っているんだ。」

 私は、ビックリして、
胸がドッキンドッキン鳴りました。
 「ラジオの小人たちが困らないよう、
兄ちゃんや俺たちで、毎日交代で、
あの箱の中に食べ物をやってるんだぞ。
お前ももう大きくなったから、
どうだ、水くらい毎日あげられるか。」

「うん、できる。どうやってラジオに入れるの。」
「箱の中は大変だから、コップに水を入れて、
ラジオの横に置いておけばいい。できるか。」
「大丈夫。椅子に乗ればできる。」
 兄からの思いがけない提案に、
私は嬉しさで、いっぱいになりました。 

 さっそく、その日の夕方、
兄たちが遊びから戻ってこない時に、
押し入れから踏み台を取り出し、
コップに入った水を、ラジオの横に置いた。

 「小人さん、今日から僕がお水をあげます。
これでいいですか。小人さん、さあお水をどうぞ。」
 小人たちが、驚かないようにと、
小さな声でやさしく言いました。

 翌日も、その翌日も、水を入れ替えました。
 そして、それにだいぶ慣れた日でした。

 母がいましたが、私は構わず、
夕方、踏み台を取りだし、水を取り替えました。

 「小人さん、お水をどうぞ。」
 それを聞いた母は、目を丸くしました。
「何をしてるの。」
「ぼくが、小人さんに水をあげることになったの。」
私は、胸を張りました。

 「誰に言われたの。」
 「小人さんなんか、いないわよ。」
 「だまされたのよ。」
 「からかわれたのよ。」
母は、たてつづけに言いました。

 私は、「小人さんはいない。」と聞かされ、
突然、悲しくなりました。
 兄にウソをつかれたことよりも、
もう水をあげられないことが寂しくて、
声を上げて泣きました。

 母は、遊びから戻った兄を、大声で叱っていました。
兄のニヤリッとした顔が、泣きじゃくる私を見ていました。




春一番を飾るキバナノアマナ・花言葉は『前途洋々』
 
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シリーズ『届けたかったこと』  (4)

2016-04-15 19:30:15 | 教育
 月曜日の朝、全校朝会での校長講話を思い出しながら、
子ども達へ『届けたかったこと』を記している。
 その第4話である。


 7 満開の桜を見ながら

 すっかり春になりました。
今年は、いつもより春の訪れが遅かったようですが、
それでも、ここにきて暖かい日が続いています。

 見てごらん。校庭の横にある5本の桜の木も、
今が盛りとばかりに満開です。
 この時季が、春の一番美しい時ではないでしょうか。

 今日は、桜についてお話します。
 どんな花も、空に向かって、つまり上を向いて花が咲きます。
ところが、桜の花だけは、その木の下にいる私たちの方、
つまり下を向いて咲きます。
 だから、木の下から見ても、一段ときれいなんです。

 この桜ですが、15、6の種類があるそうです。
校庭の桜をはじめ、今咲いているのは、
ソメイヨシノという種類です。

 これは、江戸時代の終わり頃、
江戸の染井町の植木屋さんがその苗を売り出したので、
この名がついたと言われています。

 枝々についた桜の花が、その木をおおい隠すほどすごく、
その上、満開の花が散るときは、
まさに花吹雪という言葉があるように、一気で、
その様がいさぎいいのです。
 それが、江戸の人々の気質によく合っていて、大人気となり、
たちまちの内に、江戸中に植えられたということです。

 桜は、水はけのよい場所を好みます。
水気の多い沼や川の畔では、堤の上に植えると、
よく育ち、花の色もよいのです。

 桜の名所と言われる、千鳥ヶ淵や上野公園の桜の木が、
大きく、花も美しいのは、
水はけのよい丘の上にあるからなのです。

 同じ桜の花でも、春、早く咲くのと遅く咲くのとがあります。
彼岸桜は寒い年でも、
関東では2月の終わりには咲く、早咲き桜です。

 遅く咲くのは、八重桜で、4月中旬から下旬に咲きます。
八重桜の本当の名は、里桜と言います。
 里桜は、伊豆半島に自然に生えていたもので、
それが全国に広められたものだそうです。

 日本からアメリカのワシントンに贈られ、
今では、毎年桜祭りでアメリカ中の名物になっているのは、
この里桜だそうです。

 今日は、桜のいろいろについて、お話しました。



 8 昔話『大根どろぼう』
 
 今日は、私が小学生の時、
担任の先生から聞いた昔話をします。

 小学校3,4年の頃だったと思います。
学校の裏山に、友だち数人でよく遊びに行きました。
 所々に畑があり、そこには大根や人参が植えてありました。
僕たちは、誰もいないことをいいことにして、
時々、その畑の大根や人参を抜き、
近くの小川で土を洗い流し、
おやつだと言って、かぶりつきました。

 そんなことをくり返していた時に、聞いたお話です。
だから、今でもそのお話は、しっかりと覚えています。

 『ある村に、目の不自由なお父さんと、
小さい子どもが住んでいました。
目の不自由なお父さんは、いつも、小さな子どもをおんぶして、
子どもの目をたよりに、
村の人から仕事をもらって、細々と暮らしておりました。

 ある年のこと、
雨が降らなくて、米が一粒もとれない年がありました。
村の人々はみんな米の代わりに、草や木の根を食べて、
ようやく命をつないでいました。

 そんなようすですから、だれも目の不自由なお父さんに、
仕事など頼みませんでした。
目の不自由なお父さんと子どもは、
何日も、食べ物を口にしない日が続きました。

 村の中に一軒だけ、田植えのできない田んぼで大根を作り、
それを米のかわりに食べている家がありました。

 目の不自由なお父さんは、ある夜、子どもをおんぶして、
その大根畑に忍び込みました。

 大根を一本抜いて、背中の子どもに訊きました。
「おい、誰も見ていないか。」
「うん。」

 また、一本抜いては、
「おい、誰も見ていないか。」
「うん。」

 また、一本抜いては、
「おい、誰も見ていないか。」
「うん。だけど、お月さんが見ているよ。」
 目の不自由なお父さんは、この声を聞いて、
大根畑の中にヘタヘタと座り込みました。

 「ああ、そうだった。すまないことであった。」
と、三本の大根をもって、
畑の持ち主のところへ、あやまりに行きましたと。』

 この話をきいてからは、誰も畑の大根や人参を、
抜いたり食べたりしませんでした。
 そして、しばらくしてから、
その畑で野良仕事しているおじさんを見かけ、
みんなで勇気を振り絞り、謝りました。
 すごくドキドキしました。

 お話を終わります。



 9 鬼がいる

 今年度、最後の全校朝会です。
このメンバーで集まることは、もうありません。
 そんな時だから、私は、
是非明るく楽しいお話をしたいと思っていました。

 ところが、その願いは叶いません。
今日はとても苦しく、辛い話をしなければなりません。

 実は、2週間程前から、この学校で本当に不思議な、
そう私だけではなく、先生方みんなで考えでも考えても、
どうしても考えられない出来事が、いくつもいくつもありました。

 学級によっては担任の先生から、
すでに聞いているお友達もいるかと思います。
 そのいくつかを、まずお話します。

 授業で、よく使うようになった電子黒板がありますね。
あれには、ノートパソコンが一緒についています。
 2週間位前になります。
それを使おうと思って、
いつも置いてある廊下のはずれに行ってみると、
そのノートパソコンだけがなくなっていました。

 それから、数日して、
今度はパソコンルームで授業をしようと、
その準備に行ってみると、
一番奥のパソコン本体だけがなくなっていました。

 これは、おかしいと思って、
先生方みんなで、学校中を調べてみると、
理科室のビデオデッキなどもなくなっていたのです。

 今、この学校では、こんな不思議なことがおきています。
 そこで、私は、思いました。

 みなさん、この学校には、
人間の姿をした鬼がいるんです。
 人の心を忘れてしまった鬼です。

 どんな訳があって、こんなことをするのか、
私は分かりません。
 でも、学校の物を盗んだ人がいたら、
そして、悪いことをしたと気づいた人がいたら、
勇気を出して謝りなさい。

 謝ることによってだけ、
あなたの心に住んでいる鬼は、消えるのです。
 大勢の中で、謝る勇気がなかったら、
私の部屋に来なさい。

 私のところにもくる勇気がなかったら、
どうか担任の先生に、そっと話してください。

 それもできない勇気のない人は、
決しておなたの心に住む鬼を、
追い払うことなどできません。

 心に鬼をもったまま勉強しても、絶対に人間にはなれません。
今より、もっと大きな悪いことを平気でやるだけの、
鬼になってしまいます。

 それで、いいのでしょうか。
いいわけがありません。

 お話を終わります。

 (その日の放課後、5年生の担任に、そっと話にきた子がいました。
友だちと一緒に盗んだ物は、押し入れの奥から出てきました。)




   旧シャミチセ川 と つくし
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立ち止まって

2016-04-08 22:04:37 | 時事
 もう名刺など要らないのに、
パソコンで簡単に作成できたからと、
持ち歩いている。
 しかし、さほど使う機会はない。

 その名刺にある私の肩書きは、元小学校長でも、
某研究会顧問でもなく、『素浪人』とした。
 本当は、『竹光さえ持てぬ情けない素浪人』としたかったが、
長過ぎたので、自ら却下した。

 さて、その『素浪人』の暮らしぶりだが、
2年前に右肘の手術をし、以来、好きなゴルフができず、
そのうっぷんもあって、
ジョギングとマラソン大会参加を楽しみに、日々を送っている。

 しかし、それだけでは飽き足らず、
その上、これ以上老け込まないうちにと言った思いもあって、
やれドライブだ、読書だ、創作だ、四季折々の散策だ、
温泉だ、美食だ、山登りだ等々と、
次から次と楽しみを作り、今をおう歌している。
 さらには、いつか再び、お役に立てる機会があれば、
何かの力にと、思ったりもしている。

 そんな私だが、周辺にあるつい見逃してしまいそうな、
ちょっとした出来事に、立ち止まってしまうことがある。
 心が揺り動かされたいくつかを、
手当たり次第、列記してみる。


 <1>
 若い頃から朝日新聞を愛読している。
その理由の1つが、『天声人語』である。
 毎朝、それに目を通すのが習慣だ。

 その鋭い視点に、深く教えられることは、今も変わらないが、
それに加え、最近、同じ一面にある『折々のことば』にも、
よく目が止まる。
 鷲田清一さんの哲学的な思考が、
私には、とても新鮮なものに感じられる。

 3月下旬、そのコラムにこんな一文があった。

『教育においてもっとも大切なことは、すべて
 を意識化してはならぬということ、またそん
 なことはできぬと諦めること
                 福田恆存
   教育は「信頼が支配する領域」。見張る
  かのように警戒や不信の目で子どもを見る
  人は、子どものみならず、子どもに対する
  自分の態度をも信じていない。つまり、人
  のあいだで最初に立ち上がり最後まで残る
  「自然発生的なもの」を信じていない。教
  育は計算してどうこうなるものではないと
  評論家は言う。「教育・その本質」から。』

 これは、子どもに限ったことではないと思った。
人として成長する本質と言えるのではなかろうか。

『信頼が支配する領域』
『警戒や不信の目で見る人は…自分の態度をも信じていない。』
『計算してどうこうなるものではない。』
 同感と感動である。
人を育てることの真理を見事に言い当てていると思う。
心が熱くなった。

 時々、若い先生をはじめとした声に、
表立ってはいないものの、
パワハラかと思える言動を見る。

 そんな管理職の机上に、
この新聞の切り抜きを置いておきたいものだ。

 
 <2>
 プロ野球の人気選手だった人が、
覚せい剤の所持と使用で逮捕された。
 野球選手を夢見て、練習に励む子ども達を思うと、
残念でならない。

 その覚せい剤について、こんな新聞記事があった。

 『覚せい剤の成分メタンフェタミンは1893年、
薬学者の長井永義が合成に成功した。
第2次世界大戦中、日本はメタンフェタミンを、
欧州では別の覚せい剤成分アンフェタミンを兵士に与え、
士気高揚や恐怖心克服、疲労回復などを図った。』

 改めて、戦争の残酷さや悲惨さ、非人間性を知った思いがした。
今では、使用そのものが犯罪とされる薬物が、
正々堂々と兵士に与えられていた事実。

 そのねらいは、士気の高揚。
つまりは、戦闘、殺りくのやる気を高めるため、
そして、人の命のやり取りや破壊への恐怖心を、
克服するために使われたのである。

 新聞記事にはこんな記述もあった。
『使った瞬間、脳がクリアになり
何でもできるという万能感に支配される』。

 きっと、兵士たちはそんなニセの高揚感を持たされ、
戦場に立たされたのだろう。
 こんな犯罪が他にあるだろうか。

 強い憤り、そのやり場がないままでいる。


 <3>
 2月のニュースだ。
 JR登別駅で、乗客の荷物を無料で運ぶ、
ポーターサービスの実証実験が、始まったとあった。

 これは、外国人旅行者から、
大きな荷物を持って、改札口と駅ホームを結ぶ階段の昇降が、
大変だという声を受けてのことらしい。

 確かに、エレベーターを設置すれば、それで済むことだが、
今のJR北海道にはその力がないように思う。
 そこで、旧国鉄時代、上野駅や青函連絡船で活躍していた、
赤帽さんにヒントを得たのか、
荷物運びの助っ人、つまりはポーターサービスとなったのだろう。

 新聞記事によると、実証実験初日は、
『市職員と委託業者の6人が10本の特急に合わせて実施。
うち5人は普段は公共施設の除雪などをしている60~80代だ』とのこと。

 それを利用した『中国から夫婦で訪れた30代女性は
「中国ではないサービスで優しいですね。
でも、ポーターがお年寄りで頼むのが恥ずかしい」
と話した』そうである。

 外国人旅行者は、旅行したその時、その国で出会った人や物、
気候、風景を通して日本を知り、
それが日本のイメージとなるのである。
 それは、私たちが海外にいった場合も同じである。

 さて、60~80代のポーターを見て、
外国人は、日本の労働環境をどう受け止めただろうか。
 高齢になっても、元気に働く人たちがいる国と思っただろうか。
 いや、『頼むのが恥ずかしい。』の声は、
決してそんな風には見えていないように思う。。

 そうだ。誰に対しても
「あるがまま」、「ありのまま」でいいんだ。
 でも、それにしても、ポーターの年令について、
心にすき間風が・・・。それは、私だけ。


 <4>
 温泉大好き人間ではないが、
近くに気軽に入れる温泉があるのは嬉しい。
 今は、月に1、2回、右手のリハビリを理由に、
日帰り温泉へ行く。

 さて、最近テレビでは旅番組が頻繁である。
中でも、地元北海道のよさを取り上げたものに、
目が行ってしまう。
 それを見て、「今度、是非に」などと、
一人刺激を受けたりもしている。

 もう2、3年前になるだろうか。
道南・函館方面を紹介するものがあった。
 いわゆる旅人が、
さほど名の通ったところでない小さな港町や、
農漁村を訪ね歩くものだった。

 私も一度だけ行ったことがあるが、
函館から恵山にむかう道からの海岸風景が、
海と空の青さが一つになり、ひときわ綺麗に映し出されていた。

 番組では、旅人がふと立ち寄った港町の、
しかも、その町の人だけの共同温泉浴場を紹介した。

 海岸べりにあって、7、8人がやっとの
海に向かって、半分露天のような浴場だった。

 旅人が尋ねると、地元の年寄りは、
「お風呂は1つだけだ。」と言う。

 「すると、混浴ですか。」
「そうだよ。1つだもの。」
「それじゃ、みなさんご一緒に。」
「そうさ。」

 ビックリ顔の旅人に、
「何もだ。だって、小さい頃から一緒だもの。」
表情一つ変えずに言った。
 「そうですか。そうですか。」
旅人は、そう応じるのが精一杯。

 私も、旅人と同じ心境だった。
そんな大らかさは、私のどこにもないと思った。

 あの真っ青な大海原のもとでの暮らし、
だからこそ育つ感情なのだろう。
 そう理解することに決めた。




水芭蕉が咲いた(だて歴史の杜公園・野草園)
 
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だての人名録 〔3〕

2016-04-01 22:19:09 | 北の湘南・伊達
 昨年9月に2週続けて、『だての人名録』と題して、
「1 ワケあり」から「6 どうして来るの」まで、
伊達で出会った人とのエピソードを記させてもらった。
 その第3話である。


 7 ジョギングでのワンカット

  (1)登校時の温もり

 伊達の市街地には、3つの小学校と2つの中学校がある。
四季折々の様々な変化の中、
子ども達は、活気ある登校を日々くり返しているように、
私には見える。

 ▼ 冬のシンシンと凍てつく氷点下の朝。
だが、風もない。歩道も除雪されている。
 こんな日ぐらいは、思いっきり着込んでジョギングを。

 鼻と頬とおでこを真っ赤に染めながら、
学校に向かう3人の女子中学生。

 朝の挨拶と一緒に「今日は、寒いね。」
と、白い息の声をかける。
 透明感いっぱいの笑顔でうなずき、
「はい。」と言いながら、
「おはようございます。」と応じてくれた。

 「気をつけて、行きなさい。」と私。
すると、声をそろえて「頑張って下さい。」

 東京の子ども達とは違う温もりを感じ、
私は明るい気持ちで、白い息を大きくはいた。

 ▼ 雪解けが進んだ3月、久しぶりに朝のジョギング。
10分も走れば、住宅地は畑の景色に変わる。

 その人通りのない道で、ランドセル姿の少年によく出会う。
いつも、棒きれを振り回したり、鼻歌に石蹴りだったりと、
のんびりゆったりのマイペース登校だ。

 ところが、その日は珍しく、私の姿を見るなり、
「おはようございます。」と一緒に、
「今ね、リスが横切ったの。」の声が飛んできた。

 そして、走り寄る私に、
「車にひかれない?」「大丈夫?」
と矢継ぎ早に訊いてきた。

 「心配なんだね。」
「ねえ、誰に言ったらいいの。」
「あのね、リスは賢いから、きっと大丈夫だよ。
心配しないで、学校へ行きな。」
 不満げな顔をしながらもうなずき、歩きだした。

 私は、その横を走り抜けながら、
もう一度「リスは賢いから、大丈夫。」
と、念を押した。

 しばらくして、後ろから
「ありがとう。」
少年の声が届いた。


  (2) エッ ちがうよ

 ジョギングを楽しむという新聞記事を見た。
そこに、長続きするコツの1つとして、
マラソン大会に出場することとあった。
 つまりは、具体的な目標を持つことが、
継続の力になると言う説である。

 今、私はまさにその説の通りでいる。
次の大会に向けて、雪道やら体育館ランニングコース、
トレーニング室ランニングマシンと、
冬の間も細々と走り続けてきた。

 ただ、私は小さい頃から風が大嫌い。
特に冬の北風は、いつも私から全てのやる気を奪っていた。
 だから、少しでも風があると、
冬は絶対に外でのジョギングはやめにした。

 ところが、その日は穏やかな光につつまれ、
まったく風を感じなかった。
 真冬の厳寒期、
ジョギングは午後3時頃からと決めている。
それは、日中で1番気温が高いと感じるから。

 一人勇んで、10キロを走ることにした。
雪もほどよく解け、歩道の路面も見えていた。

 コースの後半、小学校の脇を通ることにした。
丁度、下校する高学年の子ども達に出会った。
 学校が近づくにつれ、行く交う子どもが増えた。
私は、その一人一人に、「おかりなさい。」と声をかけた。

 朝とは違い、多くの子どもは、その返事に困り、
軽く頭を下げ、私をちょっと見してすれちがった。
 中には、あわてて「ただいま。」と、応じる子もいたりで、
私はついつい笑顔で、その道を走った。 

 しばらく行くと、前方から楽しそうに会話しながら、
二人の男の子が肩を並べて、近づいてきた。
 私は二人の邪魔にならないようにと、
ちょっとだけ車道に出た。

 丁度、すれ違う、その時、
その一人が私に向かって、
「オジサン、がんばって。」
と、力強い声で言ってくれた。

 すごく嬉しかった。
 「ありがとう。」と言おうとしたその瞬間、
もう一人の子が、
「エッ、ちがうよ、」と言った。
 そして、「オジサンじゃないよ。」
小さな声だったが、私の耳に届いた。

 私は「ありがとう。」を飲み込み、
その場をかけぬけた。
 「こんなことでは、めげない。」と、思いつつ、
でも、私の走りはそれまでより、
明らかに遅くなっていた。
 
 しかし、曲がり角でふり返ってみると、
二人は、じっと私の後ろ姿を見ていた。
 何故かすまない気持ちになった。
「頑張って、走ろう。」と思い直した。


  (3) 先生でしょ

 この地に移り住むにあたって、心に決めたことがある。
それは、前職のことである。
 教職にいたことは、私の誇りである。
しかし、今はそれを退いた立場である。
しかも、私の前職を全く知らない地である。

 だから、今までの経験で、
何かものを言うことだけは止めよう。
 そう決めた。

 だから、教員にありがちな口調や仕草には、
十分に気をつけて、毎日を過ごすことにした。

 そうは言っても、つい気づかずに、
その日常が出てしまうことがあるらしい。

 朝のジョギング、よく登校する子ども達と出会う。
その時、必ず朝のあいさつを私からする。
 この町の子ども達は、どの子もしっかりとあいさつができる。
素晴らしいと思う。
そのことにもっと胸を張ってもいいとさえ思う。

 そんな子ども達である。
何度かあいさつを交わしているうちに、
子どもが先にあいさつをしてくれるようになった。

 私は、嬉しさのあまり、
あの頃、校門であいさつを交わしていた頃の口調に戻り、
「ハイ、おはようございます。」をくり返した。

 すかさず、一緒に走っていた家内から、
「ハイは、止めた方かいいよ、ハイは。」と言われた。

 こんな有り様である。
気づかない時と場で、私は前職を見せているようである。

 さて、春から秋にかけ、朝のジョギングの時、
走り始めてすぐにお会いする女性がいる。
 私よりいくつか年上のように思う。
ジョギングの私と家内とは反対側の歩道を、ウオーキングする彼女は、
決まって右手を軽く挙げて、朝のあいさつをしてくれる。

 当然、名前も住居も知らない方だったので、
私と家内の間では、「手を挙げるおばさん」と言っていた。

 ある朝、私はジョギング、家内は散歩と、別メニューの日だった。
いつもにように、同じような所で手を挙げて、
反対側の歩道から私にあいさつをしてくれた。

 「あら、奥さんは。」と訊かれた。
「後ろから来ます。散歩です。」
「そうですか。」
 私は、そのまま走り過ぎた。

 予定のコースを走って戻ると、家内が
「手を挙げるおばさんと、立ち話をしたよ。」
と言い出す。 

 「名前も住まいも教えてもらった。」
そして、
「それでね、お二人とも先生でしょって、言ったの。」と。
「ビックリして、何も言えなくて、そうですって言ったけど。」

 何故、分かったのか、今もって不思議である。
走る姿だけ、朝のあいさつだけ、
それでもにじみ出てしまうのだろうか。

 それだけで、気づいた人がいるんだ。
「そうなのか。」「そうなんだ。」
 あれからずっと自問している。
 
 


「春のはかない草花」の代表・菊咲一華(キクザキイチゲ) 
コメント
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