ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

あの時代の都心区だから

2018-05-26 18:03:33 | あの頃
 30歳代の頃、私は都心区の小学校に勤務していた。
丁度、バブル景気真っ只中の時だった。
 しかし、当時の私には、
そんな歴史的渦中を過ごしている自覚はなかった。

 北海道の大学を出て、東京の小学校へ勤務し、
10数年が経っていた。
 首都圏での暮らしにも慣れ、十分都会人のつもりでいた。

 しかし、出張のため、スーツ姿で、
通称『ママチャリ』と呼ばれる前カゴつきの自転車をこぎ、
銀座4丁目『和光』を通り過ぎた時、
誰にも気づかれないように、私はこうつぶやいていた。
 「俺、ママチャリで銀座のど真ん中だよ。すげーぇ!」

 確か小学4年の時だ。
近所の家で、テレビのプロレス中継を初めて見せてもらった。
 そのCMで、夜のネオンに輝く銀座4丁目交差点が、
映し出されていた。
 東京のキラキラ模様に、うっとりした。

 その同じ場所を、勤め人風の格好で、
しかも地元に勤務しているからこそのママチャリだ。
 それは私にとって、心を熱くするのに十分な場面だった。

 話は、若干変わる。
今年2月のことだ。
 その当時、同じ小学校に勤務していた先輩から、
1枚の葉書が届いた。

 “偶然出逢った同僚と意気投合し、すでに還暦を過ぎた者同士、
同じ学校に勤務した先生たちのミニミニ同窓会をすることにした。”
と記されていた。
 そして、連絡先がわかる先生の情報協力と、出席依頼があった。

 遠く離れた私にまで、声をかけてくれた。
嬉しかった。協力を惜しまなかった。
 そして、二つ返事で、4月、その同窓会に出席した。

 30年もの時が過ぎていた。
しかし、どこのどんな同窓会もそうだろうが、
全てがつい先日のことのように、思い出された。
 うち溶け合い、会話が弾んだ。
時間が早かった。

 併設されていた幼稚園に、ショートカットがよく似合い、
子ども、保護者、同僚を問わず、
誰からも人気のあった先生がいた。
 小学校の職員室でも、評判は同じだった。

 一緒にテニスやボウリングをした思い出があった。
その先生がいるだけで、明るい雰囲気ができた。

 3,4年前に知ったと言う。
大病の末、亡くなったと言うのだ。
 病気のことを知っていた人も少なかったらしい。
家族など数人だけが、その最期を見送った。

 誰もが、初めて知った悲報だった。
その時だけは、みんなが沈んだ。

 さて、話題が旧校舎から新校舎におよんだ。
バブル景気の渦中だ。

 道路を挟んだ区立中学校が、小学校の裏に新築された。
狭い土地を有効活用し、中学校と特別養護老人ホーム、
保育園の複合施設だった。
 確か6階か7階建て。
屋上には開閉式屋根のプールがあり、話題となった。

 中学校が移転した跡地に、
幼稚園と一緒に小学校の新校舎を建設する運びになった。
 
 職員会議等の席に、区の担当スタッフがたびたび出向き、
新校舎の企画を説明した。
 正面玄関は、ホテルのロビーを思わせるような3階までの吹き抜けと聞き、
イメージさえできなかった。
 また、4階には当時として珍しい大きなランチルームが予定されていた。 
 
 この新校舎では、他にもいくつも驚きがあった。3つほど記す。

 1つ目は、プールである。 
中学校は、屋上の開閉式屋根だった。
 そして、小学校は、真逆の地下。しかも温水プールだ。

 小学校の夏のプール指導を最優先にするが、
このプールは、一般区民への開放型とする。
 そのため、フルシーズン用として地下の室内に作ることが考えられた。

 主旨は、十分に納得できた。
しかし、夏のまぶしい日差しを受けた水面がない。
 季節感のない水泳指導には、違和感があった。

 無理を承知で言ってみた。
「地下プールでは、自然の光がない。
周りに空堀でも掘って、太陽光を入れられないでしょうかね。」

 その時、区のスタッフはメモを取りながら、納得の表情だった。
次の説明会では、地下のプールサイドの両面をガラス張りとし、
外は空堀の設計案になっていた。

 無理が通った。
プールに太陽光が入ることになったのだ。
 ただただ「凄い!」と、ぼう然となった。

 2つ目は、音楽室である。
熱心に指導する音楽専科の先生だった。
 新校舎の音楽室について、注文をつけた。
それは、これからの音楽指導を思い描いた、熱い思いの提案だった。
 
 彼女は言った。
「個人やグループでのレッスンが大事なんです。
音楽室の一角に、2つか3つ防音の個室を作ってください。
 レッスンの様子が見えるように、ガラス張りでお願いします。」

 音楽室を防音にすることは当然だ。
しかし、ガラス張りの防音個室なんて、
その必要性は理解できても、現実味のない要望だと思えた。

 ところが、区のスタッフは、本気でそれを取り入れた。
ここでも、「凄い」ことが起きた。

 3つ目は、4階のランチルームだ。
設計では、一緒に給食の調理室も4階になっていた。

 小学生や幼稚園児の日常を、1階もしくは低層階で優先的に過ごさせる。
そのため、先の2つを最上階に設けたのだ。

 ここまではよかった。
ところが、給食資材の搬入でつまづいた。

 給食の食材は、毎朝いち早く搬入になる。
そのため、どこの学校も給食室は1階にあり、
専用の出入口を利用し、
直接納入業者から受け取るようになっていた。
 4階では、これができなくなる。

 大きな設計変更が必要になった。
区のスタッフは、暗い表情でその経過報告に来校した。

 管理職と一緒に教務主任だった私も同席し、
その説明を聞いた。
 「校舎内に入らず、直接4階の調理室に行けるよう、
外用のエレベーターを設置できないのかな・・・。」
 教頭先生の小さなつぶやきだった。

 なんとその発想が設計に生かされた。
業者は、新たに設計が加えられた専用のエレベータで、
毎朝食材等を運ぶことになったのだ。

 4階のランチルームと調理室のためにそこまでやる。
「凄い」の驚きと共に、少し尻込みしたくなる私がいた。

 驚きは他にいくつもあった。
都心区の潤沢な財力とバブル景気が、
そんな新校舎を実現させた。

 そんな勿体ないと思う向きもあるだろう。
だが、未来を生きる子ども達には、
可能な限り、先の先を行く教育環境を用意してあげていいと私は思う。

 そんな驚きの新校舎から25年が経った。
今、小学校の周辺には、超高層マンションが乱立している。
 児童数も右肩上がり、学級増で、普通教室が不足しているらしい。
だから、特別教室を普通教室に替えている。
 さて、あのランチルームはどうなっているのだろうか。

 4月のミニミニ同窓会の終盤は、そんな話題で持ちっきりだった。


 


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ラジオ体操の景色から

2018-05-19 18:23:59 | 思い
 ▼ 小学生の頃、夏休みの朝は毎日ラジオ体操があった。
出欠カードを首にさげ、校庭まで半分かけ足だった。
 私もそうだが、あの時、多くの子が、何故か下駄履きだった。
朝霧に包まれた下駄の音が、記憶の底に残っている。

 体操が終わると、我先にと前にいる6年生から、
カードに出席印を押してもらった。

 6年生になった時、私もそのハンコを押す係になった。
少し偉くなった気がして、ラジオ体操に行くのが、
それまでより楽しくなった。

 当時、私は高鉄棒にぶら下がるのが好きだった。
懸垂はもちろん、逆上がり、蹴上がりなどは難なくやった。
 
 カードの判押しが終わり、
人気のなくなった校庭で、高鉄棒によくぶら下がった。
 そこへ同じ組のK君がやってきた。

 2人一緒に、懸垂を始めた。
K君は、10回で手を離した。
 私は、12回でやめた。
それが始まりだった。

 以来毎日、ラジオ体操が終わると、
2人で懸垂の回数を競った。
 いつからか、懸垂仲間が増えた。
K君に挑戦する子、私に挑戦する子、様々だったが、
最後は、いつもK君と私の決勝戦になった。
 次第に、K君が勝つようになった。

 そんなある日、私は、
「ラジオ体操からの帰りが遅い」と、
兄姉から、こっぴどく叱られた。
 そして、「明日からは、体操が終わったらすぐに帰ってこい」と、
もの凄い剣幕で言われた。
 私は、それに従うしかなった。
翌朝から、懸垂をせずに家に戻った。

 「K君に負けてばかりだがら、あいつ、懸垂やめたんだ。」
そんな噂が、聞こえてきた。
 気にしないようにしながら、
急いで家に戻って、朝食を食べた。

 悔しさが心に残った。
K君にではなく、事実とは違う噂に唇をかんだ。
 
 その後、教員になるまで、
夏休みのラジオ体操に参加する機会はなかった。


 ▼ 時は、何十年も過ぎる。
私が最後に勤務した小学校には、幼稚園が併設されていた。
 だから、園長を兼任した。

 この園は、公立園としては珍しく、年長組の『お泊まり会』があった。
夏休み直前、1泊だが、幼稚園のホールに貸し布団を並べ、
親元を離れた5歳児が、一夜を過ごすのだ。

 模擬縁日や肝試しで、夕食後を過ごすと、
泣きだす子もなく、次第に子ども達は眠りについた。

 翌朝は、パジャマから着替え、洗面を済ませると、
全員で、散歩をしながら、近所の小公園に向かった。
 目的は、ラジオ体操だ。

 私も園児たちと一緒に幼稚園で朝を迎え、
その小公園へ行った。
 念を押すが、年に1回のこと、
園児だけでなく、私も初めての体験だった。

 ところが、この小公園では、春夏秋冬を通し、
毎朝、ラジオ体操が行われていると言うのだ。

 その朝も、体操の服装やエプロン姿、
Tシャツ短パンなど思い思いの姿で、
近隣の方20数人が集まってきた。

 主には、高齢者だが、馴染みの顔同士、朝の挨拶をしながら、
1台のラジオに向かい、体操の開始を待つ。
 そこに、自転車で駆けつけたサラリーマンの背広姿が、
1人2人と加わる。

 「いつものこと。」
「朝はこれで始まるのが、日課。」
 そう言いながら、ラジオ体操の歌に合わせ、足踏みが始まる。

 「ラジオ体操は、夏休みだけの行事。」
そんな認識だった恥ずかしさを、誰にも気づかれまいとする私。

 そのそばで、『お泊まり会』でちゃんと朝を迎えられた誇らしさを胸に、
人まねをしながら体操をする園児たちがいた。


 ▼ 年に数回、東京へ行く。
最近は、宿泊先に錦糸町のロッテシティーホテルを利用することが多い。

 『旅先ジョギング』と称して、時々だが、
朝の大横川親水公園と錦糸公園を走る。
 おおよそ5キロのコースだが、思いのほか緑も多く、気持ちがいい。

 通勤ラッシュ前、行き交う人の多くは地元の方で、
数人で散歩を楽しむ同世代が目に付く。

 4月下旬のある朝、「最後の1キロを」と、錦糸公園の外周を走った。
時刻は6時半になろうとしていた。
 公園内の広場に、沢山の人が集まっていた。
ラジオ体操をする人たちだと分かった。
 その人数の多さに驚いた。
ゆうに200人は越えているだろう。

 私はその人たちを横目に、ゆっくりとジョギングする。
時間とともにラジオ体操のアナウンスが、公園内の広場から流れてくる。
 一斉に、その音に向いた人々が、体操の同じ動きを始める。

 淡々とそして整然と、アナウンスとピアノが刻むリズムにあわせた動きが、
広場で続く。
 私の走りは、そんな人々から少し離れていく。

 でも、まだそこは公園の一角であった。 
そこだけ、広場で体操する活気とは一線を引いた空気が流れていた。

 わずか4人の、年齢のいった女性がいた。
広場に背を向け、自分たちで用意したラジオの方をむき、
体操をしていた。
 4人に笑顔などなく、爽やかさとは無縁な、
重たい雰囲気があった。
 
 走りながら、不思議な違和感を覚えた。
「どうして・・。どうしてこんな片隅で、4人して・・・」
 
 やがて、「意地でも、広場の大勢とは、一緒に体操しない。」
そんな強い思いが、ありありと伝わってきた。
 どんな動機がそうさせたのか、きっと彼女らなりの経過があるのだろう。
何か訳ありだろう。

 しかし、桜の春の後、ツツジの赤が賑やかな都会のオアシスの朝である。
1日の始まりをラジオ体操からと集う人々がいる。
 その清々しさの中、そこにだけ漂う異様な空気感に、
私は何度もため息を重ねた。
 でも、そっと走り続け、その場を離れた。

 「もう1度、溶け込むことの勇気と、楽しさを知ってください。」
そうつぶやいてみた。


 ▼ 住宅街の中に、伊達市が用意した公園とは名ばかりの、原っぱがある。
そこで、夏休みに、小学生を対象にしたラジオ体操が行われる。

 年々その日数が減り、昨年度は1週間あまりだった。
「物足りない」と1人愚痴りながらも、
地元の子ども達とふれあえる貴重な機会と、私も参加している。

 夏の早朝、北の軽い空気に包まれた体操の合間、
見上げる空の大きさに、度々心奪われた。
 この時期だけでなく、毎朝、この大空の下で、
ラジオ体操ができたらいい。

 『季節の移ろいの中でラジオ体操』
そんなフレーズに、無性に惹かれる日々をくり返す。
 そろそろ本格的始動の時かな・・・。
 

 


   見頃を迎えた 八重桜 
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研究授業が育てる

2018-05-12 21:26:44 | 教育
 教職を離れて、7年になる。
学校の有り様もかなり変わったようだ。

 教室にタブレットが持ち込まれ、
授業で活用している事例が、ニュースになっていた。
 私の想像を越えており、その授業をイメージできなかった。
もう、老兵が立ち入るすき間は、とうになくなっていると感じた。

 だが、「IT」や「AI」の物凄い発達に伴い、
教育活動も、多様に姿を変える必要があることは理解できる。
 それはそれで、時代のニーズなのだ。
的確に迅速に対応してほしいと願っている。

 よく言われることだが、教育は『不易と流行』である。
タブレット導入のように時代に応じること、『流行』と、
いつの時代でも変わらないこと、『不易』の両者があって教育なのである。
 教育内容にも方法にも、『不易と流行』は求められる。

 そのため、教員には常に研修が必要になる。
今回は、その研修の根幹にある研究授業について触れる。

 念を押すことになるが、
教員は誰でも、日々の教育実践と合わせて、
研修を心がけ、それに時間をさく。

 研修の中心は、授業改善である。
研究課題が何であっても、その課題を達成する手段は、
授業以外にない。
 それは、医療の課題解決が、
治療方法(新薬開発を含む)以外にないのと同じである。

 教員に成り立ての頃、授業の基本すら理解していなかった。
同期や同学年の先生たちの授業を見て、
私自身の未熟さを痛感した。

 同僚や先輩に尻を叩かれ、研究授業をすることになった。
授業前に何度も授業検討会を開いてもらった。
 その度に、指導案を書き直した。

 緊張のあまり、眠れないまま研究授業の日を迎えた。
不安は的中した。最初の発問でつまづいた。
 思いのほか、時間ばかりが流れた。
予定していた計画の半分も進まなかった。

 研究協議会では、冷たい視線を感じた。
それより、情けない気持ちと子ども達への申し訳なさで、
胸がいっぱいになった。

 それから、何度研究授業を行っただろう。
いつもいつも進んで授業者になった訳ではない。
 
 最初の研究授業の傷は深かった。
でも、無駄でなかった。
 あの失敗を、毎日の授業で意識した。
以来、最初の発問だけは、工夫した。
 研究授業の機会があったからこその収穫だった。

 そんな貴重な経験があったので、不安だらけだったが、
研究授業の機会があると、
「頑張ります」と受けるようになった。

 1,2年に1度は、先生方に授業を見てもらった。
1年に2回、違う教科で研究授業を行ったこともあった。

 その都度、収穫よりも課題が明確になり、肩を落とした。
でも、翌日からの授業で、クリアすべきことが分かり、
新たな意欲が生まれた。

 いつからか、徐々にだが、授業展開の引き出しが増えた。
研究授業の賜物と思えた。
 その成果を、毎日の授業で活用できるようになっていった。

 もうベテランと言われる年令の頃だ。
難しい説明文で、国語の研究授業をすることになった。
 指導書や参考書をあてにせず、
教材の分析から指導計画、展開まで、
授業つくりのすべてを、オリジナルで実践した。

 その頃には、学級集団の雰囲気、各教科の授業への取り組み方、
そして、国語への興味関心など、
研究授業のその時間だけでなく、日頃の指導の重要性に気づいていた。
 そこにも力を入れ、実践を重ねた。

 その日、授業と協議会を終え、私は初めて充実感を覚えた。
「ここまでできるようになった。」
 そんな実感がようやく持てた。

 授業は奥が深い。まだまだ課題のある授業ではあった。
それでも、いい授業の入り口にまではたどり着いた気がした。
 嬉しかった。

 校長になってから、この経験をよく若い先生方に語った。
そして、チャンスを逃さず、
進んで研究授業をするよう助言した。
 「それが、教員としてのあなたを育てる」と強調した。

 さて、ここから先は、校長としての私を、
深く反省するくだりになる。

 校長としての私は、
校内研究にさほどエネルギーを傾けなかった。
 近隣の多くの学校同様、校内で研究テーマを設定し、
研究授業を軸に研修を進めた。

 しかし、年間の研究授業の回数は、
低・中・高学年各1回の3回だった。
 せめて各学年1回の6回が望ましいと思いつつも、
私はそれを言葉にしなかった。
 それは、多忙を極める先生方への私なりの配慮だった。

 学校を去って多くの月日が過ぎた。そして今、思う。
「なぜ、そんな気の遣い方をしたのだろう。」

 確かに、研究授業をするには、それまでに準備が多い。
・授業つくりの課題をしっかりと受け止めること
・授業のねらいを、いつも以上に深く理解すること
・授業展開の細部まで吟味し、指導の工夫に知恵をしぼること   
・子ども達の意欲や関心に適した学習方法を探ること
・学級を親和的な雰囲気で学習する場にすること
など、教材研究や学級経営に特別な取り組みを求められる。

 私は、研究授業に費やす事前の大変さにばかり目がいった。
「そのご苦労を先生方に強いるのは・・・」とためらった。

 しかし、それは軽率な判断だった。
げんに私のキャリアは、その研究授業を通して育てられた。 
 私の経験には、1度たりとも無駄な研究授業はなかった。

 ならば、「研究授業は、大きなエネルギーを使うが、、
教育課題や自らの資質向上のためには欠かせないものだ」
と、しっかりと説くべきだった。
 そして、各先生方に、研究授業の機会を数多く提供すべきだった。

 私は、先生方にとって貴重な研究授業のチャンスを、
奪ってしまった校長だった。
 悔いが残る。

 今、働き方改革が政治の焦点になっている。
教員の長時間労働もその対象だろう。
 9時過ぎまで職員室の明かりが消えない。
それが当たり前な教育現場は是非解消して欲しい。

 だからとばかり、校内研究を軽く扱い、
研究授業の機会をねじ曲げることだけは、
考えないで頂きたい。
 
  


   庭のジューンベリーが 華やか 
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凜として老後 ~私の母

2018-05-04 22:04:47 | 思い
 北海道の野山に、春がやって来た。
様々な緑色が、次から次と芽吹き、新緑がきれいだ。
 そして、モクレンやコブシの白、レンギョウの黄もいいが、
山桜の薄桃色が斜面を飾り、私の目を奪っている。

 じつは、私の母は、14年前のこの季節に亡くなった。
小鳥がさかんにさえずり、夜明けを告げていた時間帯に逝った。

 あの日、永久の別れに私は沈んでいた。
しかし、葬儀場近くにあった小さな山のあちこちに、
満開を迎えた山桜があった。
 前ぶれもなく、母からの励ましのように思え、
顔を上げ、涙をこらえた。

 今も、山々に点在する、丸みを帯びた大きな桜色を見ると、
母との別れを思い出す。
 そして、何故が力づけられている私がいる。

 その母については、このブログの
2015年3月『言葉にできないまま』と、
2017年『老いてからをどうする』で語った。

 今回は、父に先立たれた後、凜としていた母を記したい。
まずは、10年前に書いた『母より』を写す。


   *     *     *     *     *


 10月は、4年前に他界した私の母の誕生月であります。
明治41年の生まれですから、生きていれば百歳になるところでした。

 それこそ健康だった5年位前までは、
必ず毎日、新聞の隅々にまで目を通すほどで、
『今も、現役』と言った意識を持ち続け、暮らしていました。

 明治の人でしたので、
私を育てるにあたっても些細なところにまで気を配り、
箸の持ち方、鉛筆の握り方はもとより、
正座の仕方、帽子のかけ方、物はどんな物でも大切に使うことなど、
事細かに躾られた気がします。

 お陰で私は、一般的に常識と言われていることを大きく逸脱することなく、
青少年期を送ることができたように思います。

 30年前、父がガンで他界した時、
母はそれはそれは落胆し、
この先自分も半年と生きていられないとまで言い出す有様でした。
 そんな母の姿を見て、私たち兄弟はそれを疑わず、
一気に両親を失ってしまいはしないかと、
父の死に輪をかけるように悲しみに暮れたものでした。

 しかし、1人になった母は強く、
父の死からむっくと立ち直り、
1人暮らしを謳歌するかのように元気を取り戻しました。

 郷里の老人ホームで暮らす母を、
3年ぶりに訪ねた10年程前のことです。

 母の一室の窓辺では小さな野鳥が、
どうした訳か春より巣作りを始め、
私が訪ねた時には、ヒナにかえったばかりの幼鳥が、
さかんに親鳥が餌をくわえて飛来するのを、
待ち望んでいました。

 しかし、それ以上に私を驚かせたのは、母の姿でした。
私に久しぶりに会えると聞いた母は、
前日にホームの方に特別に依頼し、美容院に出かけて、
もう真っ白になった頭にパーマをかけ、
きれいに頭をセットしていたことです。

 よく母の世話をしてくれている姉の話によると、
父の墓へ行くときや久方ぶりの来客があるときは、
決まって頭をセットするとのこと。
 私はそれを聞き、またそれを目の当たりにし、
感動を覚えました。

 男女を問わず、いくつになっても忘れてはいけないこと、
そんなことをこの歳になってまで、
母より教えられた気がしました。

   *     *     *     *     *

 多くを語らなくても、一読するだけで、
父と死別した69歳から、亡くなった96歳までの、
母の老後が、どんなであったか、
分かっていただけるだろう。

 しかし、父が元気だった頃の母は、
生活の全てを父に託していたように思う。

 魚屋の食卓は、売れ残りを食べることもあって、
夕食の献立は、いつも父を頼りにする母だった。

 外出は決まって父と一緒で、前を歩く父の後ろを追っていた。
学生時代、珍しく母と私、2人で買い物に出た。
 自宅からすぐの交差点を渡ることになった。
信号機が赤にも関わらず、母は車道に出ようとした。
 慌てて、腕をつかみ静止させると、
「あら、青でしょう」と、横の青信号を指さした。
 いかに父をあてにした暮らしなのかを、実感した出来事だった。

 さらに言うなら、母は、
「だって、父さんがこれでいいって・・。」
と言って、いつもモンベ姿で、靴を嫌い、草履を愛用していたのだ。

 そんな母である。兄弟は、誰一人疑わず、
すぐに父を追って逝くだろう思っていた。

 ところが、翌年の3月末のことだ。
私の二男が、4月から保育所通いを始めることになった。

 きっと、尻込みするだろうと思いつつも、
せめて『慣らし保育の2週間』だけ、手を貸してほしいと、
電話で頼んでみた。

 1人で飛行機など、乗ったことのない母である。
なのに「1が月でいいの。私でよければ、手伝いに行くよ」。
 電話口から、元気な声がすぐに返ってきた。

 羽田空港の到着口から、多くの人たちに混じって、
大きな鞄を持った母が現れた。
 『人は変わる』。
私は、妙に心を熱くしながら、母を迎えた。

 それから7年もの間、年度末と年度始めの約2ヶ月、
仕事に追われる私と家内の手助けにと、
北海道と東京の間を、1人で飛行機に乗った。

 そして、我が家で家事の一切を引き受けてくれた。
その上、息子たちを迎えに、往復40分以上もかけて、
保育所まで行ってくれた。
 子ども達に、信号機の渡り方まで教えていた。
不思議な気持ちになった。

 実家に戻ると、1日に3,4時間は魚屋の店に立った。
馴染みのお客さんを相手に、
一緒に夕食の献立を考え、品物を売った。
 
 「父さん、今夜は何をこしらえたらいいの?」
いつもそう言っていた母の、転身ぶりに、
兄はただただ驚いた。

 その母も、80歳を越え、足腰が弱った。
数年後、店にも立てなくなり、本人の強い希望で、
老人ホームに入った。

 それまで母が小説を読む姿など、見たことがなかった。
「女学校の頃から、私、本が大好きだったの。」
 夏休みを利用して、初めてホームを訪ねた私にそう言うと、
たまたま持参していた山岡荘八の『織田信長』を手にとった。
 また驚かされた。

 「ここに来て、ゆっくり本が読める暮らしができるの。」
だから、「私は本屋へ行けないから、いい本を送ってほしいんだけど。」

 母から、そんな言葉が飛び出すとは思いもしなかった。
やや大袈裟だが、「同じ血が流れている。」そう思えた。
 訳もなく、嬉しかった。二つ返事で引き受けた。

 3,4ヶ月ごとに、4,5冊の本を送った。
特に、歴史小説を好んだ。

 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を母が読み終えた時、
長電話でその感想を言いあった。
 その夜は感激のあまり、寝つけないまま朝を迎えた。
いつまでも胸が熱かった。

 母の死因は、老衰とでも言えるものだった。
孫娘が、病室でその最期を看取った。
 徐々に、息が細り、こと切れたと言う。

 その1か月半前、私は母を見舞った。
1時間余りだったが、体調について、母は語り続けた。
 私は、母との最期を予感し、言葉に詰まり苦慮した。

 「忙しいのに遠くまでありがとう。もう帰りなさい。」
「そうだね。そうするね・・・。」
 それが、別れの会話になった。

 病室があった3階から、エレベーターに乗った。
遠くで、車いすの母が小さく手を振ってくれた。
 私も、そっと手を振った。
 


   

  サイクリングロードの 桜並木
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