30歳代の頃、私は都心区の小学校に勤務していた。
丁度、バブル景気真っ只中の時だった。
しかし、当時の私には、
そんな歴史的渦中を過ごしている自覚はなかった。
北海道の大学を出て、東京の小学校へ勤務し、
10数年が経っていた。
首都圏での暮らしにも慣れ、十分都会人のつもりでいた。
しかし、出張のため、スーツ姿で、
通称『ママチャリ』と呼ばれる前カゴつきの自転車をこぎ、
銀座4丁目『和光』を通り過ぎた時、
誰にも気づかれないように、私はこうつぶやいていた。
「俺、ママチャリで銀座のど真ん中だよ。すげーぇ!」
確か小学4年の時だ。
近所の家で、テレビのプロレス中継を初めて見せてもらった。
そのCMで、夜のネオンに輝く銀座4丁目交差点が、
映し出されていた。
東京のキラキラ模様に、うっとりした。
その同じ場所を、勤め人風の格好で、
しかも地元に勤務しているからこそのママチャリだ。
それは私にとって、心を熱くするのに十分な場面だった。
話は、若干変わる。
今年2月のことだ。
その当時、同じ小学校に勤務していた先輩から、
1枚の葉書が届いた。
“偶然出逢った同僚と意気投合し、すでに還暦を過ぎた者同士、
同じ学校に勤務した先生たちのミニミニ同窓会をすることにした。”
と記されていた。
そして、連絡先がわかる先生の情報協力と、出席依頼があった。
遠く離れた私にまで、声をかけてくれた。
嬉しかった。協力を惜しまなかった。
そして、二つ返事で、4月、その同窓会に出席した。
30年もの時が過ぎていた。
しかし、どこのどんな同窓会もそうだろうが、
全てがつい先日のことのように、思い出された。
うち溶け合い、会話が弾んだ。
時間が早かった。
併設されていた幼稚園に、ショートカットがよく似合い、
子ども、保護者、同僚を問わず、
誰からも人気のあった先生がいた。
小学校の職員室でも、評判は同じだった。
一緒にテニスやボウリングをした思い出があった。
その先生がいるだけで、明るい雰囲気ができた。
3,4年前に知ったと言う。
大病の末、亡くなったと言うのだ。
病気のことを知っていた人も少なかったらしい。
家族など数人だけが、その最期を見送った。
誰もが、初めて知った悲報だった。
その時だけは、みんなが沈んだ。
さて、話題が旧校舎から新校舎におよんだ。
バブル景気の渦中だ。
道路を挟んだ区立中学校が、小学校の裏に新築された。
狭い土地を有効活用し、中学校と特別養護老人ホーム、
保育園の複合施設だった。
確か6階か7階建て。
屋上には開閉式屋根のプールがあり、話題となった。
中学校が移転した跡地に、
幼稚園と一緒に小学校の新校舎を建設する運びになった。
職員会議等の席に、区の担当スタッフがたびたび出向き、
新校舎の企画を説明した。
正面玄関は、ホテルのロビーを思わせるような3階までの吹き抜けと聞き、
イメージさえできなかった。
また、4階には当時として珍しい大きなランチルームが予定されていた。
この新校舎では、他にもいくつも驚きがあった。3つほど記す。
1つ目は、プールである。
中学校は、屋上の開閉式屋根だった。
そして、小学校は、真逆の地下。しかも温水プールだ。
小学校の夏のプール指導を最優先にするが、
このプールは、一般区民への開放型とする。
そのため、フルシーズン用として地下の室内に作ることが考えられた。
主旨は、十分に納得できた。
しかし、夏のまぶしい日差しを受けた水面がない。
季節感のない水泳指導には、違和感があった。
無理を承知で言ってみた。
「地下プールでは、自然の光がない。
周りに空堀でも掘って、太陽光を入れられないでしょうかね。」
その時、区のスタッフはメモを取りながら、納得の表情だった。
次の説明会では、地下のプールサイドの両面をガラス張りとし、
外は空堀の設計案になっていた。
無理が通った。
プールに太陽光が入ることになったのだ。
ただただ「凄い!」と、ぼう然となった。
2つ目は、音楽室である。
熱心に指導する音楽専科の先生だった。
新校舎の音楽室について、注文をつけた。
それは、これからの音楽指導を思い描いた、熱い思いの提案だった。
彼女は言った。
「個人やグループでのレッスンが大事なんです。
音楽室の一角に、2つか3つ防音の個室を作ってください。
レッスンの様子が見えるように、ガラス張りでお願いします。」
音楽室を防音にすることは当然だ。
しかし、ガラス張りの防音個室なんて、
その必要性は理解できても、現実味のない要望だと思えた。
ところが、区のスタッフは、本気でそれを取り入れた。
ここでも、「凄い」ことが起きた。
3つ目は、4階のランチルームだ。
設計では、一緒に給食の調理室も4階になっていた。
小学生や幼稚園児の日常を、1階もしくは低層階で優先的に過ごさせる。
そのため、先の2つを最上階に設けたのだ。
ここまではよかった。
ところが、給食資材の搬入でつまづいた。
給食の食材は、毎朝いち早く搬入になる。
そのため、どこの学校も給食室は1階にあり、
専用の出入口を利用し、
直接納入業者から受け取るようになっていた。
4階では、これができなくなる。
大きな設計変更が必要になった。
区のスタッフは、暗い表情でその経過報告に来校した。
管理職と一緒に教務主任だった私も同席し、
その説明を聞いた。
「校舎内に入らず、直接4階の調理室に行けるよう、
外用のエレベーターを設置できないのかな・・・。」
教頭先生の小さなつぶやきだった。
なんとその発想が設計に生かされた。
業者は、新たに設計が加えられた専用のエレベータで、
毎朝食材等を運ぶことになったのだ。
4階のランチルームと調理室のためにそこまでやる。
「凄い」の驚きと共に、少し尻込みしたくなる私がいた。
驚きは他にいくつもあった。
都心区の潤沢な財力とバブル景気が、
そんな新校舎を実現させた。
そんな勿体ないと思う向きもあるだろう。
だが、未来を生きる子ども達には、
可能な限り、先の先を行く教育環境を用意してあげていいと私は思う。
そんな驚きの新校舎から25年が経った。
今、小学校の周辺には、超高層マンションが乱立している。
児童数も右肩上がり、学級増で、普通教室が不足しているらしい。
だから、特別教室を普通教室に替えている。
さて、あのランチルームはどうなっているのだろうか。
4月のミニミニ同窓会の終盤は、そんな話題で持ちっきりだった。
いい香り! スズラン
丁度、バブル景気真っ只中の時だった。
しかし、当時の私には、
そんな歴史的渦中を過ごしている自覚はなかった。
北海道の大学を出て、東京の小学校へ勤務し、
10数年が経っていた。
首都圏での暮らしにも慣れ、十分都会人のつもりでいた。
しかし、出張のため、スーツ姿で、
通称『ママチャリ』と呼ばれる前カゴつきの自転車をこぎ、
銀座4丁目『和光』を通り過ぎた時、
誰にも気づかれないように、私はこうつぶやいていた。
「俺、ママチャリで銀座のど真ん中だよ。すげーぇ!」
確か小学4年の時だ。
近所の家で、テレビのプロレス中継を初めて見せてもらった。
そのCMで、夜のネオンに輝く銀座4丁目交差点が、
映し出されていた。
東京のキラキラ模様に、うっとりした。
その同じ場所を、勤め人風の格好で、
しかも地元に勤務しているからこそのママチャリだ。
それは私にとって、心を熱くするのに十分な場面だった。
話は、若干変わる。
今年2月のことだ。
その当時、同じ小学校に勤務していた先輩から、
1枚の葉書が届いた。
“偶然出逢った同僚と意気投合し、すでに還暦を過ぎた者同士、
同じ学校に勤務した先生たちのミニミニ同窓会をすることにした。”
と記されていた。
そして、連絡先がわかる先生の情報協力と、出席依頼があった。
遠く離れた私にまで、声をかけてくれた。
嬉しかった。協力を惜しまなかった。
そして、二つ返事で、4月、その同窓会に出席した。
30年もの時が過ぎていた。
しかし、どこのどんな同窓会もそうだろうが、
全てがつい先日のことのように、思い出された。
うち溶け合い、会話が弾んだ。
時間が早かった。
併設されていた幼稚園に、ショートカットがよく似合い、
子ども、保護者、同僚を問わず、
誰からも人気のあった先生がいた。
小学校の職員室でも、評判は同じだった。
一緒にテニスやボウリングをした思い出があった。
その先生がいるだけで、明るい雰囲気ができた。
3,4年前に知ったと言う。
大病の末、亡くなったと言うのだ。
病気のことを知っていた人も少なかったらしい。
家族など数人だけが、その最期を見送った。
誰もが、初めて知った悲報だった。
その時だけは、みんなが沈んだ。
さて、話題が旧校舎から新校舎におよんだ。
バブル景気の渦中だ。
道路を挟んだ区立中学校が、小学校の裏に新築された。
狭い土地を有効活用し、中学校と特別養護老人ホーム、
保育園の複合施設だった。
確か6階か7階建て。
屋上には開閉式屋根のプールがあり、話題となった。
中学校が移転した跡地に、
幼稚園と一緒に小学校の新校舎を建設する運びになった。
職員会議等の席に、区の担当スタッフがたびたび出向き、
新校舎の企画を説明した。
正面玄関は、ホテルのロビーを思わせるような3階までの吹き抜けと聞き、
イメージさえできなかった。
また、4階には当時として珍しい大きなランチルームが予定されていた。
この新校舎では、他にもいくつも驚きがあった。3つほど記す。
1つ目は、プールである。
中学校は、屋上の開閉式屋根だった。
そして、小学校は、真逆の地下。しかも温水プールだ。
小学校の夏のプール指導を最優先にするが、
このプールは、一般区民への開放型とする。
そのため、フルシーズン用として地下の室内に作ることが考えられた。
主旨は、十分に納得できた。
しかし、夏のまぶしい日差しを受けた水面がない。
季節感のない水泳指導には、違和感があった。
無理を承知で言ってみた。
「地下プールでは、自然の光がない。
周りに空堀でも掘って、太陽光を入れられないでしょうかね。」
その時、区のスタッフはメモを取りながら、納得の表情だった。
次の説明会では、地下のプールサイドの両面をガラス張りとし、
外は空堀の設計案になっていた。
無理が通った。
プールに太陽光が入ることになったのだ。
ただただ「凄い!」と、ぼう然となった。
2つ目は、音楽室である。
熱心に指導する音楽専科の先生だった。
新校舎の音楽室について、注文をつけた。
それは、これからの音楽指導を思い描いた、熱い思いの提案だった。
彼女は言った。
「個人やグループでのレッスンが大事なんです。
音楽室の一角に、2つか3つ防音の個室を作ってください。
レッスンの様子が見えるように、ガラス張りでお願いします。」
音楽室を防音にすることは当然だ。
しかし、ガラス張りの防音個室なんて、
その必要性は理解できても、現実味のない要望だと思えた。
ところが、区のスタッフは、本気でそれを取り入れた。
ここでも、「凄い」ことが起きた。
3つ目は、4階のランチルームだ。
設計では、一緒に給食の調理室も4階になっていた。
小学生や幼稚園児の日常を、1階もしくは低層階で優先的に過ごさせる。
そのため、先の2つを最上階に設けたのだ。
ここまではよかった。
ところが、給食資材の搬入でつまづいた。
給食の食材は、毎朝いち早く搬入になる。
そのため、どこの学校も給食室は1階にあり、
専用の出入口を利用し、
直接納入業者から受け取るようになっていた。
4階では、これができなくなる。
大きな設計変更が必要になった。
区のスタッフは、暗い表情でその経過報告に来校した。
管理職と一緒に教務主任だった私も同席し、
その説明を聞いた。
「校舎内に入らず、直接4階の調理室に行けるよう、
外用のエレベーターを設置できないのかな・・・。」
教頭先生の小さなつぶやきだった。
なんとその発想が設計に生かされた。
業者は、新たに設計が加えられた専用のエレベータで、
毎朝食材等を運ぶことになったのだ。
4階のランチルームと調理室のためにそこまでやる。
「凄い」の驚きと共に、少し尻込みしたくなる私がいた。
驚きは他にいくつもあった。
都心区の潤沢な財力とバブル景気が、
そんな新校舎を実現させた。
そんな勿体ないと思う向きもあるだろう。
だが、未来を生きる子ども達には、
可能な限り、先の先を行く教育環境を用意してあげていいと私は思う。
そんな驚きの新校舎から25年が経った。
今、小学校の周辺には、超高層マンションが乱立している。
児童数も右肩上がり、学級増で、普通教室が不足しているらしい。
だから、特別教室を普通教室に替えている。
さて、あのランチルームはどうなっているのだろうか。
4月のミニミニ同窓会の終盤は、そんな話題で持ちっきりだった。
いい香り! スズラン