新年 明けましておめでとうございます。
2016年が、いい年でありますようにと願っています。
さて、私は平成21年3月に定年退職を迎えました。
その後、2年間再任用校長を努め、
平成23年3月、現職生活にピリオドを打ちました。
その記念として、現職の折々に書いた文章のいくつかをまとめ、
東京都教職員互助会の後押しを頂き、
教育エッセイ『優しくなければ』として出版しました。
その中から2つを掲載します。
親 孝 行
10歳も年の差がある兄の、確か中学2年生の運動会でのことです。
実は、小さい頃から足が速く、目立ちたがり屋の私にとって
運動会は最高の舞台でした。
それに比べ、兄は運動音痴でいつも最後を競っていました。
そんなことも手伝っていたのでしょうか、兄は運動会前日に、
「運動会を休んだらダメなのか。」
と、担任に何度も尋ねたそうです。
先生は兄のそのしつこさに音を上げ、
「具合が悪くなったり、大事な用事があった場合には
休んでもしかたない、」
と、答えたのです。
それを聞いた兄は急に元気になり、担任に一礼をすると、
跳ぶような足取りでその場を去ったのでした。
案の定、翌日、運動会の入場行進に兄の姿はありませんでした。
しかし、兄は誰もが予想だにしなかったのですが、
校庭の外れにしっかりと陣取っていました。
その頃、私の家は父の商売がうまく行かず
貧困のどん底にありました。
親子6人で、笑いこそ絶えませんでしたが、
食事も粗末で、着る物も私など上から下まで
近所の方からの貰い物でした。
そんな状況を気遣ってなのでしょうか、
兄は、朝早く起きて新聞配達をしたり、
休みの日には父の商売を手伝ったりしていました。
そんな兄でしたから、人で賑わう運動会は、
格好の商売チャンスと考えたのでしょう。
前日、担任から「大事な用事があれば……」と聞いてすぐ、
その足で町のお店に行き、
リヤカーとアイスボックスを借り受け、
運動会の校庭でアイスキャンデー屋をすることに決めたのです。
お店の方も兄の真剣なまなざしと、
少しでも親を助けたいと言う兄の思いに、
快く協力をしてくれたのでした。
私は、それこそまだ小学校入学前で、
途切れ途切れの記憶しかありませんが、
型の崩れた学生帽をかぶり、
校庭の片隅でニコニコ顔でアイスキャンデーを売っていた兄の姿を、
今も思い出すことができます。
あの頃とは確かに時代は変わり、
貧困の手助けをするような親孝行は極めてまれだと思います。
しかし、親を思い、何かの手助けや感謝の意を伝える親孝行と言う行為は、
子ども達にしっかりと教えていかなければと思います。
その範は、親を持つ私たち大人ではないでしょうか。
但し、私の場合はたまたま、この兄からそんなことを学びました。
スタートライン
昭和46年3月、北国の春は雪解けから始まります。
しかし、その年は春が遅く、根雪がまだ窓辺をおおいつくし、
やわらかな春の陽差しを遮っていました。
私は、なんとか大学を卒業し、
教員として、東京へ向かう準備をしていました。
高校生の修学旅行と教員採用試験のために、
それまでに3度程上京したことはありました。
しかし、東京での暮らしには、
ただ不安だけで、心がいっぱいでした。
それまで、東京での暮らしなど
考えてもみませんでした。
東京は西も東もわかりませんでした。
北海道の山深い、小さな小学校の先生を、夢見ていた私にとって、
教員の第一歩は、あまりにも違いすぎるものでした。
父が、
「自分の生まれ育った土地で先生をやってこそ、
本当の教育ができるのだ。」
と、常々私に聞かせていました。
それだけに、東京の教壇に立つことに、
私は、一種のおびえさえ持っていたのでした。
母は、そんな私に、わざわざ綿を打ち直して、
新しい布団を一組作ってくれました。
「北海道のような厚くて重い布団は、もういらないから。」
と、誰から聞いてきたのか、
それまでの布団より、薄くて軽いものを作りました。
まだ、東京での住まいが決まっていなかった私は、
その布団を、赴任先の小学校に送りました。
東京へ出発する数日前、私は父に呼ばれました。
丸いちゃぶ台をはさんで対座した私に、
父は茶封筒に3万円のお金を入れて、差し出しました。
「父さんが、渉にわたす最後のお金だ。
後は立派な先生になって、自分の働いたお金で暮らしていきなさい。」
父は、それだけ言いました。
私は、自分の胸の内をひと言も言わず、
ただ深々と頭をさげ、茶封筒を受け取りました。
あれは、私にとって、親との別れの儀式だったのかも知れません。
何故か、涙がいつまでもいつまでも止まりませんでした。
出発の日、姉一人が駅まで見送りに来てくれました。
私は、駅の小さな待合所で、ゴム長靴から、
姉がお祝いにと買ってくれた真新しい黒い革靴に履き替えました。
改札口で、姉に「じゃ……。」と精一杯無理をして笑顔を作った私は、
それから一度も振り返らず、一歩一歩確かな足取りで、
プラットホームへ向かうつもりでした。
背中の方から、
「いい先生になんなさい。」
と、それこそとてもやさしい姉の声がとんできました。
目の前の階段が、にわかににじんでしまい、
私は歩くことができなくなってしまいました。
姉に背をむけたまま、何度も「うん、うん、」と、
うなずいていたことを忘れることができません。
毎年おとずれる東京の3月は、
いつも明るくすがすがしい光につつまれています。
しかし、私の心の中の3月は、
いつも昭和46年に戻ってしまうのです。
そして、両親や兄姉の温かさを思いだし、
「ねえ、俺、ちょっとはいい先生になったかな。」
と、そっと北の空に尋ねてしまうのです。
散策路・『水車アヤメ川自然公園』の雪化粧
2016年が、いい年でありますようにと願っています。
さて、私は平成21年3月に定年退職を迎えました。
その後、2年間再任用校長を努め、
平成23年3月、現職生活にピリオドを打ちました。
その記念として、現職の折々に書いた文章のいくつかをまとめ、
東京都教職員互助会の後押しを頂き、
教育エッセイ『優しくなければ』として出版しました。
その中から2つを掲載します。
親 孝 行
10歳も年の差がある兄の、確か中学2年生の運動会でのことです。
実は、小さい頃から足が速く、目立ちたがり屋の私にとって
運動会は最高の舞台でした。
それに比べ、兄は運動音痴でいつも最後を競っていました。
そんなことも手伝っていたのでしょうか、兄は運動会前日に、
「運動会を休んだらダメなのか。」
と、担任に何度も尋ねたそうです。
先生は兄のそのしつこさに音を上げ、
「具合が悪くなったり、大事な用事があった場合には
休んでもしかたない、」
と、答えたのです。
それを聞いた兄は急に元気になり、担任に一礼をすると、
跳ぶような足取りでその場を去ったのでした。
案の定、翌日、運動会の入場行進に兄の姿はありませんでした。
しかし、兄は誰もが予想だにしなかったのですが、
校庭の外れにしっかりと陣取っていました。
その頃、私の家は父の商売がうまく行かず
貧困のどん底にありました。
親子6人で、笑いこそ絶えませんでしたが、
食事も粗末で、着る物も私など上から下まで
近所の方からの貰い物でした。
そんな状況を気遣ってなのでしょうか、
兄は、朝早く起きて新聞配達をしたり、
休みの日には父の商売を手伝ったりしていました。
そんな兄でしたから、人で賑わう運動会は、
格好の商売チャンスと考えたのでしょう。
前日、担任から「大事な用事があれば……」と聞いてすぐ、
その足で町のお店に行き、
リヤカーとアイスボックスを借り受け、
運動会の校庭でアイスキャンデー屋をすることに決めたのです。
お店の方も兄の真剣なまなざしと、
少しでも親を助けたいと言う兄の思いに、
快く協力をしてくれたのでした。
私は、それこそまだ小学校入学前で、
途切れ途切れの記憶しかありませんが、
型の崩れた学生帽をかぶり、
校庭の片隅でニコニコ顔でアイスキャンデーを売っていた兄の姿を、
今も思い出すことができます。
あの頃とは確かに時代は変わり、
貧困の手助けをするような親孝行は極めてまれだと思います。
しかし、親を思い、何かの手助けや感謝の意を伝える親孝行と言う行為は、
子ども達にしっかりと教えていかなければと思います。
その範は、親を持つ私たち大人ではないでしょうか。
但し、私の場合はたまたま、この兄からそんなことを学びました。
スタートライン
昭和46年3月、北国の春は雪解けから始まります。
しかし、その年は春が遅く、根雪がまだ窓辺をおおいつくし、
やわらかな春の陽差しを遮っていました。
私は、なんとか大学を卒業し、
教員として、東京へ向かう準備をしていました。
高校生の修学旅行と教員採用試験のために、
それまでに3度程上京したことはありました。
しかし、東京での暮らしには、
ただ不安だけで、心がいっぱいでした。
それまで、東京での暮らしなど
考えてもみませんでした。
東京は西も東もわかりませんでした。
北海道の山深い、小さな小学校の先生を、夢見ていた私にとって、
教員の第一歩は、あまりにも違いすぎるものでした。
父が、
「自分の生まれ育った土地で先生をやってこそ、
本当の教育ができるのだ。」
と、常々私に聞かせていました。
それだけに、東京の教壇に立つことに、
私は、一種のおびえさえ持っていたのでした。
母は、そんな私に、わざわざ綿を打ち直して、
新しい布団を一組作ってくれました。
「北海道のような厚くて重い布団は、もういらないから。」
と、誰から聞いてきたのか、
それまでの布団より、薄くて軽いものを作りました。
まだ、東京での住まいが決まっていなかった私は、
その布団を、赴任先の小学校に送りました。
東京へ出発する数日前、私は父に呼ばれました。
丸いちゃぶ台をはさんで対座した私に、
父は茶封筒に3万円のお金を入れて、差し出しました。
「父さんが、渉にわたす最後のお金だ。
後は立派な先生になって、自分の働いたお金で暮らしていきなさい。」
父は、それだけ言いました。
私は、自分の胸の内をひと言も言わず、
ただ深々と頭をさげ、茶封筒を受け取りました。
あれは、私にとって、親との別れの儀式だったのかも知れません。
何故か、涙がいつまでもいつまでも止まりませんでした。
出発の日、姉一人が駅まで見送りに来てくれました。
私は、駅の小さな待合所で、ゴム長靴から、
姉がお祝いにと買ってくれた真新しい黒い革靴に履き替えました。
改札口で、姉に「じゃ……。」と精一杯無理をして笑顔を作った私は、
それから一度も振り返らず、一歩一歩確かな足取りで、
プラットホームへ向かうつもりでした。
背中の方から、
「いい先生になんなさい。」
と、それこそとてもやさしい姉の声がとんできました。
目の前の階段が、にわかににじんでしまい、
私は歩くことができなくなってしまいました。
姉に背をむけたまま、何度も「うん、うん、」と、
うなずいていたことを忘れることができません。
毎年おとずれる東京の3月は、
いつも明るくすがすがしい光につつまれています。
しかし、私の心の中の3月は、
いつも昭和46年に戻ってしまうのです。
そして、両親や兄姉の温かさを思いだし、
「ねえ、俺、ちょっとはいい先生になったかな。」
と、そっと北の空に尋ねてしまうのです。
散策路・『水車アヤメ川自然公園』の雪化粧