▼ 小学校高学年で初めて歴史の授業があった。
人類誕生から石器時代まで、年表の左端が鮮烈だった。
そして、縄文時代が始まる。
土器に縄目の模様があるから「縄文式土器」と言う。
誰もが同じだろうが、
日本の歴史で最初に知った用語である。
同じ模様がある欠片が、
校舎の裏の崖を掘ると出てくると噂が広がった。
確か6年生になってすぐだった。
一度下校してから、数人でその崖に行った。
それぞれ小さなシャベルのようなもので、
土がむき出しになっている所を浅く掘り起こした。
私たちだけでなく、
何組ものグループが夢中になっていた。
少し離れた場所から、声が飛んできた。
「アッ、あった!」。
誰もが掘るのをやめて、その声に集まった。
5センチ程度の固い粘土の欠片だった。
順番に、それを手のひらに載せて見た。
本物の土器だったのかはなぞだが、
1か月ほど、その発掘にしばしば出かけた。
小さな菓子箱がいっぱいになるだけの欠片を集めた。
しかし、慣れは怖いものだ。
簡単に、いくつもいくつもそれを手にすると、
特別感が薄れた。
「どこにでもある」、「普通のこと」と思うようになった。
興味は一気に薄れ、その崖から子どもの姿はなくなった。
私も、その時だけで、
その後、集めた欠片をどうしたか、全く覚えていない。
▼ 伊達に移り住んでまもなく、
私が高校まで過ごした室蘭と隣接する市内に、
『北黄金貝塚』があることを知った。
また、西隣の洞爺湖町には、
入江貝塚・高砂貝塚の遺跡があることも、
道路脇の案内標示板で気づいていた。
そして、毎年『だて噴火湾縄文まつり』が、
開催されていることも、新聞記事で見ていた。
なのに、土器探しの意欲があせた小学生の体験からか、
一向に関心事にはならなかった。
そんな中、何年か前から『世界文化遺産への登録をめざし』の、
キャッチフレーズを市内でよく目にするようになった。
漠然と、新聞記事を斜め読みすると、
北海道、青森、岩手、秋田の4道県の縄文遺跡を、
まとめて世界遺産登録しようとしているらしいことが分かった。
それにしても、『世界遺産』級の価値ある遺跡が、
私の町や隣町にあるとは想像できなかった。
だから、疲弊する各道県の観光振興の一手だろうと、
受け止めていた。
▼ ところが、今春になると、世界遺産登録に、
現実味を帯びた報道がしばしば流れ出した。
不思議だった。
確かに、北海道と北東北の10数カ所に、
縄文遺跡は点在していると言う。
遺跡とは言えないだろうが、
私の小学校の崖にあった土器の欠片も、
縄文時代の痕跡だったのだろう。
それらが、いくつかきちんとした姿で発掘された。
だから、「世界遺産に!!」したい。
それだけでは、どうしても腑に落ちなかった。
1ヶ月程前になるだろうか。
家内の友人から、伊達にゆかりある大学の先生が、
テレビで、縄文遺跡の解説をすると知らせがあった。
これまた漠然と、テレビから流れるその先生の講義が、
耳に入ってきた。
『北海道・北東北の縄文遺跡群』が、いかに世界遺産級のものか、
学者らしい語調で、整然と話していた。
「当地で1万年以上続いた縄文の時代」。
「人類史上まれな農耕前の定住生活」。
「縄文人には信仰、精神文化が」。
それらの言葉が、次々と私を惹きつけた。
途中からはしっかりと聴き入っていた。
私の薄い歴史認識とは別次元の、
初めて知る壮大な人類の営みに息を飲んだ。
「そうか。だから『世界文化遺産』への登録なんだ!」。
4道県が推す取り組みの意義が、私なりに理解できた。
「凄い!」と、胸が熱くなった。
▼ 数日をおいて、
すぐ近くなのに、見てなかった洞爺湖町の2つの貝塚へ出向いた。
入江貝塚は、人影もなく、
どこを見ていいのかさえ分からず、戸惑った。
それに比べ、高砂貝塚は、整備が進んでいた。
通路のいたる所に、ガイド板が設置されていた。
見学順路に従って、その遺跡を知ることができた。
そして、定住生活をした縄文人の空気感を、
わずかだが肌で感じることができた。
▼ さて、ここから先は、文末にふさわしくなくなる。
大きく外れた話題に、身勝手さを許してほしい。
見学順路の終わり付近2カ所に、貝塚があった。
どちらも広さは、100坪以上はあっただろう。
そこに、一面の貝殻が野ざらしになっていた。
近くのどこにも、ガイド板はないが、
縄文時代の貝塚、そのままだった。
貝殻は、見学路からでも手にすることができた。
1つ1つが縄文人が残した貝殻だと思うと、
近くにいるだけで、身震いがしてきそうだった。
「絶対に傷めたりしない」と、
一度大きく深呼吸し、そっと1枚の貝殻を拾い上げた。
よく見ると、帆立貝と同じ形状だった。
きっと縄文人も手にしたであろう貝殻を持って、
「何千年もの時を経てるんだ!」。
そうつぶやきながら、すっかり魅了されていた。
そして、貴重な体験に感謝しながら、
貝殻を元の位置に戻し、帰路についたのだ。
それから、10数日が過ぎた。
ついに、ユネスコが、4道県の縄文遺跡群を世界遺産に、
正式登録したニュースが流れた。
身近に世界が認める貴重な歴史遺産がある。
それだけで、やけに嬉しかった。
さて、ニュースでは、遺跡の前で登録を喜ぶ町の声を伝えた後、
「この貴重な文化遺産を多くの方に見てもらいたいですね。」
キャスターは微笑んだ後、こう付け加えた。
「この貝塚の復元には、まだまだ沢山の貝殻が必要です。
是非、皆さんのご協力をお願いします」。
それは私が見た高砂貝塚のことではなかったが、
一瞬、息が止まりかけた。
でも、あれが「復元だ」などとは・・・・。
あの日、一緒に見学した家内は言う。
「あれも復元に決まっているでしょう。
本物の貝塚なんて思う人は・・いないよ!」。
高砂貝塚で、貝殻を手に身震いした時間を、
取り戻したかった。
「せてめ、『復元』のガイド板があれば・・」。
心がドッと沈んだ。
夏 「紫陽花」がいい
人類誕生から石器時代まで、年表の左端が鮮烈だった。
そして、縄文時代が始まる。
土器に縄目の模様があるから「縄文式土器」と言う。
誰もが同じだろうが、
日本の歴史で最初に知った用語である。
同じ模様がある欠片が、
校舎の裏の崖を掘ると出てくると噂が広がった。
確か6年生になってすぐだった。
一度下校してから、数人でその崖に行った。
それぞれ小さなシャベルのようなもので、
土がむき出しになっている所を浅く掘り起こした。
私たちだけでなく、
何組ものグループが夢中になっていた。
少し離れた場所から、声が飛んできた。
「アッ、あった!」。
誰もが掘るのをやめて、その声に集まった。
5センチ程度の固い粘土の欠片だった。
順番に、それを手のひらに載せて見た。
本物の土器だったのかはなぞだが、
1か月ほど、その発掘にしばしば出かけた。
小さな菓子箱がいっぱいになるだけの欠片を集めた。
しかし、慣れは怖いものだ。
簡単に、いくつもいくつもそれを手にすると、
特別感が薄れた。
「どこにでもある」、「普通のこと」と思うようになった。
興味は一気に薄れ、その崖から子どもの姿はなくなった。
私も、その時だけで、
その後、集めた欠片をどうしたか、全く覚えていない。
▼ 伊達に移り住んでまもなく、
私が高校まで過ごした室蘭と隣接する市内に、
『北黄金貝塚』があることを知った。
また、西隣の洞爺湖町には、
入江貝塚・高砂貝塚の遺跡があることも、
道路脇の案内標示板で気づいていた。
そして、毎年『だて噴火湾縄文まつり』が、
開催されていることも、新聞記事で見ていた。
なのに、土器探しの意欲があせた小学生の体験からか、
一向に関心事にはならなかった。
そんな中、何年か前から『世界文化遺産への登録をめざし』の、
キャッチフレーズを市内でよく目にするようになった。
漠然と、新聞記事を斜め読みすると、
北海道、青森、岩手、秋田の4道県の縄文遺跡を、
まとめて世界遺産登録しようとしているらしいことが分かった。
それにしても、『世界遺産』級の価値ある遺跡が、
私の町や隣町にあるとは想像できなかった。
だから、疲弊する各道県の観光振興の一手だろうと、
受け止めていた。
▼ ところが、今春になると、世界遺産登録に、
現実味を帯びた報道がしばしば流れ出した。
不思議だった。
確かに、北海道と北東北の10数カ所に、
縄文遺跡は点在していると言う。
遺跡とは言えないだろうが、
私の小学校の崖にあった土器の欠片も、
縄文時代の痕跡だったのだろう。
それらが、いくつかきちんとした姿で発掘された。
だから、「世界遺産に!!」したい。
それだけでは、どうしても腑に落ちなかった。
1ヶ月程前になるだろうか。
家内の友人から、伊達にゆかりある大学の先生が、
テレビで、縄文遺跡の解説をすると知らせがあった。
これまた漠然と、テレビから流れるその先生の講義が、
耳に入ってきた。
『北海道・北東北の縄文遺跡群』が、いかに世界遺産級のものか、
学者らしい語調で、整然と話していた。
「当地で1万年以上続いた縄文の時代」。
「人類史上まれな農耕前の定住生活」。
「縄文人には信仰、精神文化が」。
それらの言葉が、次々と私を惹きつけた。
途中からはしっかりと聴き入っていた。
私の薄い歴史認識とは別次元の、
初めて知る壮大な人類の営みに息を飲んだ。
「そうか。だから『世界文化遺産』への登録なんだ!」。
4道県が推す取り組みの意義が、私なりに理解できた。
「凄い!」と、胸が熱くなった。
▼ 数日をおいて、
すぐ近くなのに、見てなかった洞爺湖町の2つの貝塚へ出向いた。
入江貝塚は、人影もなく、
どこを見ていいのかさえ分からず、戸惑った。
それに比べ、高砂貝塚は、整備が進んでいた。
通路のいたる所に、ガイド板が設置されていた。
見学順路に従って、その遺跡を知ることができた。
そして、定住生活をした縄文人の空気感を、
わずかだが肌で感じることができた。
▼ さて、ここから先は、文末にふさわしくなくなる。
大きく外れた話題に、身勝手さを許してほしい。
見学順路の終わり付近2カ所に、貝塚があった。
どちらも広さは、100坪以上はあっただろう。
そこに、一面の貝殻が野ざらしになっていた。
近くのどこにも、ガイド板はないが、
縄文時代の貝塚、そのままだった。
貝殻は、見学路からでも手にすることができた。
1つ1つが縄文人が残した貝殻だと思うと、
近くにいるだけで、身震いがしてきそうだった。
「絶対に傷めたりしない」と、
一度大きく深呼吸し、そっと1枚の貝殻を拾い上げた。
よく見ると、帆立貝と同じ形状だった。
きっと縄文人も手にしたであろう貝殻を持って、
「何千年もの時を経てるんだ!」。
そうつぶやきながら、すっかり魅了されていた。
そして、貴重な体験に感謝しながら、
貝殻を元の位置に戻し、帰路についたのだ。
それから、10数日が過ぎた。
ついに、ユネスコが、4道県の縄文遺跡群を世界遺産に、
正式登録したニュースが流れた。
身近に世界が認める貴重な歴史遺産がある。
それだけで、やけに嬉しかった。
さて、ニュースでは、遺跡の前で登録を喜ぶ町の声を伝えた後、
「この貴重な文化遺産を多くの方に見てもらいたいですね。」
キャスターは微笑んだ後、こう付け加えた。
「この貝塚の復元には、まだまだ沢山の貝殻が必要です。
是非、皆さんのご協力をお願いします」。
それは私が見た高砂貝塚のことではなかったが、
一瞬、息が止まりかけた。
でも、あれが「復元だ」などとは・・・・。
あの日、一緒に見学した家内は言う。
「あれも復元に決まっているでしょう。
本物の貝塚なんて思う人は・・いないよ!」。
高砂貝塚で、貝殻を手に身震いした時間を、
取り戻したかった。
「せてめ、『復元』のガイド板があれば・・」。
心がドッと沈んだ。
夏 「紫陽花」がいい