ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

身近に 世界文化遺産! が

2021-07-31 11:41:55 | 北の湘南・伊達
 ▼ 小学校高学年で初めて歴史の授業があった。
人類誕生から石器時代まで、年表の左端が鮮烈だった。

 そして、縄文時代が始まる。
土器に縄目の模様があるから「縄文式土器」と言う。
 誰もが同じだろうが、
日本の歴史で最初に知った用語である。

 同じ模様がある欠片が、
校舎の裏の崖を掘ると出てくると噂が広がった。
 確か6年生になってすぐだった。

 一度下校してから、数人でその崖に行った。
それぞれ小さなシャベルのようなもので、
土がむき出しになっている所を浅く掘り起こした。
 私たちだけでなく、
何組ものグループが夢中になっていた。

 少し離れた場所から、声が飛んできた。
「アッ、あった!」。
 誰もが掘るのをやめて、その声に集まった。
5センチ程度の固い粘土の欠片だった。
 順番に、それを手のひらに載せて見た。

 本物の土器だったのかはなぞだが、
1か月ほど、その発掘にしばしば出かけた。
 小さな菓子箱がいっぱいになるだけの欠片を集めた。

 しかし、慣れは怖いものだ。
簡単に、いくつもいくつもそれを手にすると、
特別感が薄れた。
 「どこにでもある」、「普通のこと」と思うようになった。
興味は一気に薄れ、その崖から子どもの姿はなくなった。
 私も、その時だけで、
その後、集めた欠片をどうしたか、全く覚えていない。

 ▼ 伊達に移り住んでまもなく、
私が高校まで過ごした室蘭と隣接する市内に、
『北黄金貝塚』があることを知った。

 また、西隣の洞爺湖町には、
入江貝塚・高砂貝塚の遺跡があることも、
道路脇の案内標示板で気づいていた。 

 そして、毎年『だて噴火湾縄文まつり』が、
開催されていることも、新聞記事で見ていた。

 なのに、土器探しの意欲があせた小学生の体験からか、
一向に関心事にはならなかった。
 
 そんな中、何年か前から『世界文化遺産への登録をめざし』の、
キャッチフレーズを市内でよく目にするようになった。

 漠然と、新聞記事を斜め読みすると、
北海道、青森、岩手、秋田の4道県の縄文遺跡を、
まとめて世界遺産登録しようとしているらしいことが分かった。

 それにしても、『世界遺産』級の価値ある遺跡が、
私の町や隣町にあるとは想像できなかった。
 だから、疲弊する各道県の観光振興の一手だろうと、
受け止めていた。  
 
 ▼ ところが、今春になると、世界遺産登録に、
現実味を帯びた報道がしばしば流れ出した。

 不思議だった。
確かに、北海道と北東北の10数カ所に、
縄文遺跡は点在していると言う。

 遺跡とは言えないだろうが、
私の小学校の崖にあった土器の欠片も、
縄文時代の痕跡だったのだろう。

 それらが、いくつかきちんとした姿で発掘された。
だから、「世界遺産に!!」したい。
 それだけでは、どうしても腑に落ちなかった。
 
 1ヶ月程前になるだろうか。
家内の友人から、伊達にゆかりある大学の先生が、
テレビで、縄文遺跡の解説をすると知らせがあった。

 これまた漠然と、テレビから流れるその先生の講義が、
耳に入ってきた。
 『北海道・北東北の縄文遺跡群』が、いかに世界遺産級のものか、
学者らしい語調で、整然と話していた。

 「当地で1万年以上続いた縄文の時代」。
「人類史上まれな農耕前の定住生活」。
 「縄文人には信仰、精神文化が」。
それらの言葉が、次々と私を惹きつけた。
 途中からはしっかりと聴き入っていた。

 私の薄い歴史認識とは別次元の、
初めて知る壮大な人類の営みに息を飲んだ。

 「そうか。だから『世界文化遺産』への登録なんだ!」。
4道県が推す取り組みの意義が、私なりに理解できた。
 「凄い!」と、胸が熱くなった。

 ▼ 数日をおいて、
すぐ近くなのに、見てなかった洞爺湖町の2つの貝塚へ出向いた。

 入江貝塚は、人影もなく、
どこを見ていいのかさえ分からず、戸惑った。

 それに比べ、高砂貝塚は、整備が進んでいた。
通路のいたる所に、ガイド板が設置されていた。
 見学順路に従って、その遺跡を知ることができた。
そして、定住生活をした縄文人の空気感を、
わずかだが肌で感じることができた。

 ▼ さて、ここから先は、文末にふさわしくなくなる。
大きく外れた話題に、身勝手さを許してほしい。

 見学順路の終わり付近2カ所に、貝塚があった。
どちらも広さは、100坪以上はあっただろう。
 そこに、一面の貝殻が野ざらしになっていた。

 近くのどこにも、ガイド板はないが、
縄文時代の貝塚、そのままだった。
 貝殻は、見学路からでも手にすることができた。

 1つ1つが縄文人が残した貝殻だと思うと、
近くにいるだけで、身震いがしてきそうだった。

 「絶対に傷めたりしない」と、
一度大きく深呼吸し、そっと1枚の貝殻を拾い上げた。
 よく見ると、帆立貝と同じ形状だった。

 きっと縄文人も手にしたであろう貝殻を持って、
「何千年もの時を経てるんだ!」。
 そうつぶやきながら、すっかり魅了されていた。

 そして、貴重な体験に感謝しながら、
貝殻を元の位置に戻し、帰路についたのだ。

 それから、10数日が過ぎた。
ついに、ユネスコが、4道県の縄文遺跡群を世界遺産に、
正式登録したニュースが流れた。
 
 身近に世界が認める貴重な歴史遺産がある。
それだけで、やけに嬉しかった。

 さて、ニュースでは、遺跡の前で登録を喜ぶ町の声を伝えた後、
「この貴重な文化遺産を多くの方に見てもらいたいですね。」
 キャスターは微笑んだ後、こう付け加えた。
「この貝塚の復元には、まだまだ沢山の貝殻が必要です。
是非、皆さんのご協力をお願いします」。

 それは私が見た高砂貝塚のことではなかったが、
一瞬、息が止まりかけた。
 でも、あれが「復元だ」などとは・・・・。

 あの日、一緒に見学した家内は言う。
「あれも復元に決まっているでしょう。
 本物の貝塚なんて思う人は・・いないよ!」。
  
 高砂貝塚で、貝殻を手に身震いした時間を、
取り戻したかった。
 「せてめ、『復元』のガイド板があれば・・」。
心がドッと沈んだ。 




      夏 「紫陽花」がいい   
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今 夏 は ・・・・ !

2021-07-24 11:53:52 | 思い
 ▼ 本格的な夏が、伊達にもやって来た。
と言いつつも、他の地の比ではない。
 日中の暑さも、夕方を迎えると風が心地よく、
小1時間をかけた庭の雑草取りも苦にならない。

 その庭では、ジューンベリーの実の収穫がすでに終わった。
そして、白蝶草や草夾竹桃など、白い花が満開のときを迎え、
清涼感を演出している。
 ここから8月末までが、短い夏である。

 ▼ つい先日、ご近所の奥さんと世間話をする機会があった。
共に同世代の2人暮らしで、しかも伊達へは退職後の移住と、
共通点があった。

 転勤の多い仕事で、全国各地を転々とした暮らしだったようだ。
だからか、ご主人は今、家庭菜園や海釣りなど、
伊達での暮らしを謳歌していると、奥さんは嬉しそうに教えてくれた。 

 だが、こう表情を曇らせた。
「今は、これでいいですよ。
コロナで東京の息子や孫に1年以上も会えてないこと以外は、
ここでの暮らしに何も不満はありません。
 でもねえ、10年後を考えると、心配になりません?」。

 「そうですね・・・・・」。
一緒にいた家内も、私と同じように返す言葉に困っていた。
 真剣に10年先を考えたことがない。
だから、奥さんには失礼だったが、
こんないい加減な返答を私はした。

 「この人はいいんですよ。
最期は、私が見届けることに決めているので・・・。
 それまでは、今と変わらない暮らしができるでしょう。
でも、その後の私ですよね・・・。
 息子らも遠いし、1人きりになるのかな・・・?」

 明るい声でそう言いながら、
実は、気持ちは次第に沈んでいった。

 だから、ことさら歯切れいい口調で、
少しテレながら、今度は本気を言った。

「でも、10年先は誰にもわかりません。
それより、今ですよ。
 やれる内に、やりたいことを楽しみたい。
この夏だって、モタモタしていたら、
すぐに過ぎてしまう。
 大切に、大切にしないと・・・」。

 本当は、「10年なんて、あっと言う間に過ぎてしまいますから」と、
続けたかった。
 でも、不安げな奥さんには、遠慮した。

 ▼ 今年の冬は、雪が多かった。
雪かきに時間がかかる朝が、しばしばだった。
 春が待ち遠しくて、たまらなかった。

 なので、雪融けの隙間から、黄色い福寿草を見た時は、
今まで以上に胸が熱くなった。

 そして、芽吹きの季節から新緑の春と進み、浮かれ気分。
そんな時の『緊急事態宣言』。
 巣ごもり生活の始まり。

 だが、その間も季節の移ろいは遠慮なく進んだ。
振り返ると、5月も6月も淡々と過ぎてしまった。

 「ウカウカしていたら、すぐに秋になり、
また、冬がやってくる」。
 そんな不安感に襲われてしまう。    
  
 ▼ だから、今の一日一日をどうするかだ。
『ランニングとブログ、
それにGolfと、少しだけ何かお手伝い!』。
 今も、今までもその暮らしぶりがいい。

 でも、今夏は何かを私に求めたい。
もう年だからと後ろ向きになるのは・・、避けたい。
 それよりも、
「こんな事があった、こんな事ができた。夏!」
と、振り返れるといい。

 「そう思える何かはなに・・?」。
「まずは、今まで通りを続けることから・・かな?」。。
 朝ランでいっぱい汗を流そう。
ブログを通し、自分と真摯に向き合おう。
 そして、Golfの一打一打を注意深くスイングしよう。
きっと、その続きに何かか待っている。
 そう信じたい・・・。

 そうそう先日、
地域の老人クラブの役員さんが訪ねてきた。
 コロナで中止していたクラブの集まりを9月から再開する。
その最初の会を、私の講演会にしたいと言う。
 またまた「まさかまさか」の展開だ。

 「集まったみんなが、笑顔になる話が聞きたい・・・」。
「2年前に、お話を聞いた方々が、是非もう一度って・・」。
 嬉しい声かけだった。
「どれだけ期待に応えられるか・・。不安ですが・・」
と言いつつ、今夏は、その準備もしようと決めた。

 ▼ さて、コロナ禍の危ういオリンピックが始まった。
その展開次第では、私の周囲も影響を受ける。
 振り回されないことを願いたい。

 しかし、
「緊急事態宣言下では、運動会も部活動もできなかったのに、
どうしてオリンピックだけはやるの?」
 テレビでキャスターが、組織委員会関係者に子ども達の疑問をぶつけた。
「その質問は、私自身もどなたかに訊いてみたいと思っていました」。

 こんな応酬に、落胆するのは私だけ・・・。  
ただただ想像を越えた混乱がないことだけを祈りたい。
 今夏のもう1つは、これだ。

 さて、来週は2回目のワクチン接種である。
副反応次第では、ブログ更新ができないかも・・・。




  道路脇の花壇 マリーゴールド 花盛り 
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説教・説話・法話・・から

2021-07-17 11:52:44 | 思い
 (1)
  *     *     *     *     *
≪教育エッセイ『優しくなければ』より≫ 

      心の持ち方

 いつの頃からだろうか、
私は史跡や古寺を訪ね歩くことが好きになりました。

 なかなかそんな時間は作れないのですが、
それでも夏と冬の休みには、近くは鎌倉、
遠くは京都・奈良方面まで出かけていくことがしばしばです。

 ある時、さほど名の通ったお寺ではなかったのですが、
その山門に「よろしければ、お持ち下さい。」と記された机に、
『心の持ち方八カ条』と題された紙片か重ねてありました。
私は、何気なくそれを手にし、一行一行にうなずくと共に、
大切なことを教えられたなと感じました。

人生を生き抜くことは、そうたやすいことではありません。
でも、この八か条の教えが役に立つときがあるかも………。

 一、腹をたてるより 許す方がよい
 二、にくむより 愛する方がよい
 三、不平を言うより 感謝する方がよい
 四、ぐちを言うより 喜ぶ方がよい
 五、力むより まかせる方がよい
 六、いばっているより 謙虚な方がよい
 七、うそをつくより 正直な方がよい
 八、けんかするより、なかよくする方がよい

  *     *     *     *     *

 この一文は、50代頃の寺社巡りから記したものだ。
別の寺院では、こんな「こころに響くことば」にも接し、
急ぎ書き写した。

 【 批判ばかり受けて育った子は 非難ばかりします
  敵意に満ちた中で育った子は 誰とでも戦います
   ひやかしを受けて育った子は はにかみやになります
  ねたみを受けて育った子は いつも悪いことをしているような気を持ちます
   心が寛大な中で育った子は がまん強くなります
  励ましを受けて育った子は 自信を持ちます
   公明正大な中で育った子は 正義感を持ちます
  思いやりのある中で育った子は 信頼を持ちます
   人にほめられる中で育った子は 自分を大切にします
  仲間の愛の中で育った子は 世界に愛を見つけます 】

 また、次の『子育て四訓』も、先人からの貴重な教えと感じ、
色々な機会に、引用させてもらった。

 一 乳児は しっかり肌を離すな
 一 幼児は 肌を離せ 手を離すな
 一 少年は 手を離せ 目を離すな
 一 青年は 目を離せ 心を離すな

 これらの言葉は、時代や民族の違いを超え、
長く語り継がれてきたようだ。
 確かに、人として生きていく上での真理があり、
その言葉が説く奥深さに、学ぶところが大きい。

 これらをお寺などの門前で知り、
時には、自分の言動を振り返る大切な指針にもしてきた。
 
 言い添えるが、特段、神仏を深く信仰してきた訳ではない。
日常の中で触れる機会が多い宗教が、
たまたまお寺や神社だっただけのことだ。

 (2)
 50歳を過ぎてからは、葬儀が多くなった。
その多くは、仏式であった。

 北海道だけかどうかは、定かではないが、
お通夜の席で、僧侶が参会者を前に、
説教?、説話?、法話?だろうか、
故人を偲んでお話をする時間がある。

 母が亡くなってもう15年以上になるが、
その葬儀での、お坊さんのお話が忘れられない。
 前述したような人生訓ではない。
だが、仏門に身を委ねた方の矜持を強く感じ、
心打たれた。
 その後、私の小さな道標になっている。

 その僧は、父が他界する以前から、
お盆や祖父母の命日には、我が家の仏壇に向かい、
お経を上げていた。
 なので、亡くなった母をよく知っていた。

 しばらく、母との思い出話をした後、
その僧は、花の終わり方を話題にした。

 「花の最期つまり枯れ方は、花によって様々・・・。
例えば、桜は散る。まさにぱっと咲いて、ばっと散ります。
 それに比べ、梅の花は、
花びらが1つ1つこぼれるようになくなっていきます。
 梅は散らない、こぼれるのです。

 椿はどうでしょうか。あの花はそのまんま地面に落ちます。
椿は落ちる。
 あの大きな牡丹は、どうでしょう。
牡丹は、崩れると言われています。
 そして、朝顔や菖蒲は・・?
しぼむのではないでしょうか!」。

 僧は、その後、人の死も変わりないと言い、
「パッと散る方も、静かにこぼれる方も、潔く落ちる方も、 
一気に崩れる方も、少しずつしぼむ方もいる。
 それに、善し悪しなどはありませんが、
今日の故人は、どんな終わり方だったか。
 きっとこのお方らしい・・・」。
と、続いた。
 「母さんはこぼれるような最期だった」
と、私は小さくつぶやき、
あふれそうな涙を堪えていた。

 僧のお話は、その後も続いた。
「よく神仏は見えないから、
信じられないとおっしゃっる方がいます。

 同じように、例えば自然界の風も見えません。
しかし、少しの風でも樹木の枝は揺れます。
 強い風は、その木の葉まで遠くへ飛ばします。

 枝が揺れることで、木の葉が飛ぶことで、
私たちは風の存在に気づきます。
 見えないから、風はないと思う人は誰もいません」。

 静かな語りが、さらに私の心を奪った。
「故人は、仏となり、見えない存在に変わります。
でも、これからもきっと、
すぐ近いところでずっと見守っています。
 見えないからと否定せず、
是非そう信じて、私たちは生きていきたいものです」。

 その夜、母の逝去を目の当たりに、
塞ぎきっていた私を力づけるのに、十分な僧侶のお話だった。  
 今も、その想いに変わりはない。

 


     赤に染まった漁港の夕凪
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「ジ・エンド!」と決める日まで

2021-07-10 17:07:04 | ジョギング
 ▼ 最初に、6月26日(土)付け地元紙・『室蘭民報』の、
文化欄「大手門」に掲載された随筆を転記する。

  *     *     *     *     * 

        勝手にチャレンジャー!
              
 伊達に居を構えてからは、「毎日がサンデー」。
ダラダラと朝を過ごし、そのまま1日が終わるようで、怖かった。
 だから、ジョギングを始めた。
毎朝、決めた時間に決めた道をゆっくり走る。
 なら、ウオーキングでもよかったが、少し見栄を張った。
自宅から3キロ足らずの周回を荒い息に汗だくで、スロージョギング。
 でも、気分は晴れやか。そのまま1日が過ごせた。

 冬は、走れない日が続き、春が待ち遠しかった。
そんな2月、家内と、
ある店先で『春一番伊達ハーフマラソン』のポスターを見た。
 「ハーフだけでないよ。10キロも、ほら5キロもある!」。
思わず口にした。
 5キロのコースは毎朝ジョギングしている道と、一部が重なっていた。
地元の大会。身近なコース。心が動いた。
 「5キロなら・・」。でも、心細かった。強引に家内を誘った。

 4月、家内と一緒に5キロの部に出場。
いつもの道を、少し速く走った。
 ゴール後、記録証を貰った。
無性に嬉しかった。
 それを頭上にかざし、写メを撮り、すぐに息子らへ送った。
私は有頂天になった。
 その勢いのまま、知り合いなどいないのに、
10キロの部の健脚たちを、拍手で迎えようと沿道に立った。

 そこに、沢山のランナーに混じって、
手首と手首を紐でつないだ視覚障害の方と伴走者が走り着いた。
 テレビ画面以外で、初めて見るシーンだった。
ゴールした2人の後ろ姿を目で追った。
 素敵だった。互いの健闘をねぎらい、讃えあっていた。
視力にハンディがありながら走りきった女性と、
その援助をし続けた男性。
 2人の背中が「まぶしくてまぶしくて」。
そっと有頂天にしていた記録証を後ろに隠し、
「なんか恥ずかしい!」と呟いた。

 大会会場から自宅までの道々、「伴走者になりたい。」と何度も思った。
でも、私には無理。
 せめて、あの2人と同じ10キロを走りたい。
身の程知らずと思いつつも、このままではいられなかった。
 だから、あの日、私は紐で結ばれたランナー達の
『勝手にチャレンジャー』になった。
    
  *     *     *     *     *

 ▼ この随筆は、同じようなことを何度か
ブログに綴ってきたことを、コンパクトに書き直したものだ。
 8年前のこのエピソードを契機にして、
私のチャレンジは今も続いている。

 あの時、「勝手にチャレンジャー」になっていなかったら、
大会でずっと5キロを走り、満たされていたと思う。

 10キロの完走を目指して、
それまでより距離を伸ばしての朝のジョギングや、
その後のハーフやフルマラソンの意欲も、
あの出会いがなければ、決して湧いてはこなかったはずだ。

 ▼ お陰で、『伊達ハーフマラソン大会』をはじめ、
洞爺湖、八雲、旭川、そして東京・江東区の大会に、計20回も参加してきた。
 そして、途中棄権を3回経験したものの、5キロ1回、10キロ2回、
ハーフ13回、フルマラソン1回を完走した。

 今も、週に2,3回は、30分から1時間のジョギングをし、
コロナ後に、各マラソン大会が再開する日を心待ちにしている。

 ▼ さて、そんな威勢のいいことを言いつつも、
確かに年齢を重ねている。
 「まだまだ!」と思いつつも、走るペースは年々遅くなっている。
回復力も以前との違いを強く感じる。

 それでも・・・・・!
私を『勝手にチャレンジャー』へと誘い、励ます出会いが、
この町の道々には、今までも、
これからもいくつもいくつもあると思う。

 だから、「ジ・エンド!」と私が決める日まで、
きっと、荒い息と大汗をかきながら、
走り続けるに違いない。

 ▼ 数日前だ。
深夜の雨が上がっていたので、
予定通り、家内と一緒に5キロを走りはじめた。

 有珠山に昭和新山、日によっては羊蹄山も、
望める農道に続く坂道にさしかかった。
 そこで、愛犬を連れた『サンダルに片手ポケット』の彼に
久しぶりに出会った。

 荒い息のまま、私が先にあいさつをした。 
「おはようございます・・。お元気そうで・・!」。
 彼は、相変わらず足もとはサンダル。
そして、いつも片手をズボンのポケットに入れ、
もう一方で愛犬の綱を握っていた。

 ゆったりとした口調が、返ってきた。
「おや! 今日は母さんも一緒かい。
強い雨降ったけど、この先の道も大丈夫だ。
 水たまりもない。普通に走れる!」。

 「そうですか。行ってきます。」
「ああ、気つけてなぁー!」

 彼とは、この付近の道でしか出会ったことがない。
名前も住まいも知らない。

 なのに、もう5、6年も前から、この道を走った時には、
すれ違いながらの挨拶とさりげない短いやり取りを、
期待するようになった。
 
 この朝も、私たちが走るこの先の水たまりを、
気にかけてのひと言だ。
 とっさの思いつきであっても、
その温もりに、たまらなく惹かれる。

 ▼ 半年前になるだろうか。
市内の斎場で、大きな葬儀があった。
 
 地元紙の訃報通知の欄に、
私より3歳年上で亡くなられた経歴と共に、
顔写真があった。
 市内では指折りの会社の会長さんで、
その顔には、見覚えがあった。

 時々走る道沿いに、
10数台の作業用トラックが駐車するスペースがある。
 その方は、いつも数人の若者と一緒にそこにいた。

 少し離れた所にいる彼らに、
私は大声で朝の挨拶をし、そこを通り過ぎた。

 やがて、早朝に出勤する従業員を出迎えるために、
その方がいることに気づいた。

 同じ頃、その方も、私がそこを月に何回か、
走りながら通ることに気づいた。

 以来、私の姿を見ると、
わざわざ通りまで足を運んでくれた。
 そして、穏やかな伊達の朝に似合いの、
清々しい笑みを浮かべ、
「おはようございます」と言ってくれた。

 私も会釈と一緒に挨拶を返しながら、
明るい表情で、そこを走り抜けた。

 いつも、いつも、それだけ。
でも、いつからか、その出会いを望んでいた。

 今朝も、そこを通った。
当然、あの姿はない。
 つい面影を求めて、従業員の中を探した。
きっと、これからもここを通る度にそうするだろう。

 


     国道沿いの ラベンダー 
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