ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

『初めての岐路』から

2015-04-17 22:22:26 | 恩師
 それは、私だけではなく、
3年5組全員にとって全く予期しない提案だった。

 中学生の時の出来事なので、その記憶には曖昧さがある。
5月末に校内弁論大会なるものが企画されていた。
連休明けだっただろうか、
ホームルームの時間に、学級で一人、その弁士を決めていた。

 私の学級は、2年生の時、次第次第に学級の雰囲気に落ち着きを無くし、
後半は、まさに今で言う学級崩壊状態だった。
子ども心に私は、その主な原因が担任の無気力な指導にあると思っていた。
だからだろうか、3年生進級時に、私の学級だけ担任が替わった。

 まだ、十分には子どもを把握していないはずの新担任M先生が、
中々決まる気配のない弁士の話し合いに、業を煮やしたのか、
突然、私の名を上げ、『やってみないか。』と言ったのである。
M先生が、私の何をもって、そんな推薦をしたのか、今もってわからない。

 当時の私は、決してみんなから注目されるような存在ではなかった。
ホームルームなどでも、意見を述べたりすることはなく、
崩壊していた学級にあっても、ただただ毎日そんな嫌な空気が、
頭上を通り抜けてくれることだけを願い、
物静かにうつむき息を殺し、過ごしていた。

 だから、主張したいことなども何もなかった。
ましてや、全校生徒の前に一人立って、
自分の想いを述べるなど、全くの想定外であった。
 私だけでなく、学級の誰一人として、私にそんな力があるなど、
考えてもいなかったはずである。

 担任が替わったとは言え、
まだまだ学級の雰囲気に変化のない時期だった。
何事にも、全員の腰が引けていた。
 だから、M先生の提案に
全員が「これ幸い。」とばかりに大きな拍手をした。

私は、今までに経験したことのない多くの視線の中で、
新しい担任と学級の全員に向かって、
「やりたくありません。」「無理です。」「できません。」
と、言う勇気がなく、弁士をすることになった。

 誰もがそうであるように、私の人生にも数々の岐路があった。
その岐路が、今日の私につながっているのだが、
その最初の分かれ道が、
この中学校3年生の校内弁論大会だったと私は思っている。

 2週間後の大会に向かって、オドオドする日々が始まった。

 一度だけ、M先生は何の心配事もないような、
そんな底抜けに明るい表情で、
「大丈夫だあ。言いたいことを言いたいだけ言えばいい。」
と、私の両肩を鷲づかみにして、励ましてくれた。
それっきり、声をかけてくれることはなかった。

 周りの友だちも、ただ面白そうに
「がんばれよ。」「しっかりね。」と、無責任だった。

 近所にいる大学生に相談してごらんと母に勧められ、訪ねてみた。
 「言い出しはなあ、
『何々について、私の考えを述べたいと思いますので、お聞き下さい。』
から始めるんだ。」
とだけ教えてくれた。
「その先は、本人が考えな。」と、突き放された。

 泣きたくなるような、悶々とした思いで、数日が過ぎた。
それでも私は、6年生の算数での、ちょっとした勉強の体験談を書き上げた。

 原稿は、誰にも見せなかった。

 母は、「大きな声で言うためには、練習だよ。」
「誰もいない所で、何回も大きな声で読む練習をすると、
いい声が出るようになるから。」と、教えてくれた。
私は、それを鵜呑みにした。

 学校から帰ると、一人、小学校の裏山に登った。
小高い山の頂上は、熊笹の平地が広がっていた。
 私は、誰もいないのを確かめては、大空に向かって原稿を読み上げた。
読むたびに、気になった箇所を何回も何回も直した。
そして、再び大空に声を張り上げた。

 テレビニュースで見た国会の代表質問の場面を思い浮かべ、
時々原稿用紙から目を離し、遠くを見たりする練習もした。

 原稿は、いつの間にか最初に書いたものとは、随分と違うものになった。
やがて、誰もいない山の上の原っぱで、
大声を張り上げて語る楽しさを、私は味わうようになった。

 そして、遂にその日が来た。

 3年生の各学級代表8名が次々に壇上に上った。
私は、5番目に演壇の前に立った。

 何故か舞台に上がるとそれまでの緊張から解放された。
あの熊笹の原っぱで、声を張り上げている気持ちよさを感じていた。
 時折、原稿に目を落としながら、私はマイクに声をぶつけていた。

 徐々に、沢山の真剣な顔を感じた。
いくつもの熱い視線が伝わってきた。
 全校生徒が並ぶ横に、長机の席があった。先生達がいた。
M先生が、私を見ながら、何度も何度も笑顔でうなずいていた。

 多くの生徒とM先生のそんな姿に、
演壇で語る私は、それまでに体験したことない熱いものが、
体中を駆け巡っていることに気づいた。
 今、この瞬間、私に向けられた期待に応えているんだと思った。
嬉しかった。
そして、何やら不動なものが、少しだけ心に芽生えた。

 無事、弁論を終え降壇した私は、それまでとは確かに違っていた。

 審査の結果、一位になった。
その後しばらくは、いろんな会場での大会によばれ、演壇に立った。
そのたびに、山の上の原っぱで練習をした。

 自己主張など全く無縁だった私が、機会に恵まれた。
そして、自分の想いを伝えることの楽しさを知った。

 あえて、かき分けてまで人前に出て、語ろうとは思わない。
しかし、声がかかると、夢中になって話し始めるのは、
あの岐路があったからなのだと思う。

 それにしても、
M先生の、『やってみないか。』が、そうさせてくれたのである。
感謝の一語と共に、
私にとって、教育活動の凄さをくり返しくり返し教えてくれる出来事である。





雪解け水が流れる 『春の小川』はサラサラ
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ラクダ色の革カバン

2014-11-19 20:00:22 | 恩師
 大学に入学して最初に受けた講義は『一般社会学』だった。
 北海道の小都市にある小さな教育大学にあって最も大きな教室に、
私たち1年生だけでなく沢山の学生がいた。
私は、前方中央の席を選び、講義の始まりを待った。

 しばらくすると、
いかにも学者風でよれよれの背広にネクタイ、猫背、
その上、白髪まじりで長めのパサパサ髪をオールバックにした教授が、
静かに静かに教壇に立った。

 私は、A田先生のその立ち振る舞いを見て、
「うわぁ、大学だ。」
と心が高ぶり、ギリギリの成績ではあったが、
こうして大学という舞台にいることに、この上ない幸せを感じた。

 先生は、くたびれたラクダ色の革カバンから
2,3冊ノートを取り出し、それを机に置くと、
おもむろに白いチョークを握り、
『SOCIOLOGY』と筆記体文字で大きく黒板に書いた。

 私は、当然読めなかった。
しかし、何も見ず、
手慣れている風にスラスラとスペルを書く姿を目の前にし、
新入生の私は目を見張り、思わず「すごい。」とつぶやいていた。

 以来1年間、私はこの講義だけは一度も欠かさず聴いた。
残念なことに講義内容の多くは理解できなかったが、
専門用語の横文字を殴り書きし、その文字を指さしながら、
それでもちょっと照れくさそうに、誰とも目を合わせず、
しかし熱の入った語り口調での講義に、私は一人のぼせていた。

 だから、2年生から始まるゼミでは、
A田研究室のゼミを選択した。
「これで、毎週先生とお話ができる。」
それだけでワクワクした。

 しかし、劣等生の私だった。
専門書などどれだけ頑張っても理解不能。
そんな私でも、先生は他のゼミ生と分け隔てなく問いかけてくれた。

先生の質問に答えるどころか、
私はその質問の内容さえ分からなかった。
先生は、
「いいんだよ。塚原君、
質問が質問として理解できたら、
それはその質問の半分が分かったことになる。
頑張りなさい。」
と、私を励ましてくれた。

 風貌などは全く似てはいないのだが、
どこか父に共通するものを感じ、
私は次第に甘え上手になった。
いつ頃からか同期のゼミ生と二人で、
先生のご自宅に伺うようになった。

 夕食後、大学の近くにある平屋の質素なお住まいを訪ねると、
先生一人が出迎えてくれた。
座卓のある広い居間に通された。
いつ行っても、先生は、初めにガラスコップと箸を卓に並べ、
次に台所から、日本酒の一升びんを片手にぶらさげ、
一方の手にロースハムを10枚ほど並べた大皿を持ってきた。
 当時、ロースハムは高価なものだったが、
それを肴にお酒をいただいた。
何も分かっていない学生二人の談論風発を、
先生は穏やかな表情で聞いてくれた。

 ある時、酒の勢いで私は本音を言った。
「僕は頭が悪く、特に物覚えがダメなんです。」
先生は、すかさず
「塚原君、君が大切だと思ったこと、
それだけを覚えておけばいい。つまり決定的瞬間だけ覚えておけばいいんだ。
後は全部忘れていい。」
私を縛っていた縄が一本ほどけた。
その言葉は、今も私を支えている。

 学生運動が盛んな時代だったが、
何とか4年生になり、夏、教員採用試験を受けた。
 結果は、不合格。
それでもめげずに第2次採用試験がある首都圏の都県を受験した。
これもことごとく不合格。
お先真っ暗な時、
東京都がこの年度だけ1月末に、
第3次採用試験を都内で実施することを知った。

 最後のチャンスと、受験を申し込んだ。
ところが、私には東京へ行く旅費がなかった。
それを知った友人達が
なんとか費用の半額をカンパと称して集めてくれた。
それでも、不足分を工面するめどが立たなかった。

 学食帰り、真冬のキャンパスをうつむきながらトボトボと歩いていた。
バッタリ先生に出会った。
 「君を探していたんだ。東京の受験、頑張りたまえ。」
と、くたびれたラクダ色の革カバンから祝儀袋を取り出した。
 袋には、『祈念 A田』と黒々とあった。
旅費の半額を賄うのに十分なピン札が入っていた。

 奇跡がおこり、私は1次筆記試験に合格した。
そして、2月、第2次作文・面接試験がこれまた都内でとなった。
再び、同じ悩みが訪れた。
ところが、これまた友人達のカンパ。
そしてキャンパスの雪道で、
「君を探していた。」
と、先生から『祈念』と書かれた祝儀袋。
 私は、経験したことない幸福感を力にし、2次試験も突破した。
卒業を目の前にして、江戸川区から採用内定の知らせも頂いた。

 大学を離れる日、
こんな私なのに、沢山の後輩達が駅まで見送りにきてくれた。
 数日前、私は先生へのお礼に代えて、
よくお酒を頂いたご自宅の屋根の雪下ろしを一人でやった。
先生は姿を見せなかった。
奥様に精一杯のご挨拶をし、お別れをしてきた。

 まだストーブに火が燃えている駅だった。
若者ののりで、大声をあげ、寂しさをごまかしながら、
それでも、別れのタイミングを見計らっていた時だった。
駅舎の扉が開いた。
まさかと思った。
黒の大きめのオーバーコートに
くたびれたラクダ色の革カバンをさげ、先生が入ってきた。

 言葉を失っていた私に、
先生は、焦げ茶の中折れ帽子をとって、
いつものようにちょっと照れたような表情で、
「塚原君、虐げられた者の味方でいたまえ。」
と、右手をさしだしてくれた。
初めて先生の手を握った。

 先生が亡くなられて、20年近くになるだろうか。
先生から託された『虐げられた者の味方』と言う言葉を忘れたことはなかった。
しかし、私にはあまりにも難しいことだった。

振り返ると、教師としてあるいは人間として、
私はどちらかと言えばいつも『虐げられた者』の側で生きてきた。
いや生きようとしてきた。
だが、「味方として何ができたか。」「味方であったか。」と問われると、
私は再び大学のゼミの時間に戻り、答えに詰まってしまう。

そんな私を見て、先生はきっと、
「その言葉を忘れなかっただけでいいんだよ。」
と言ってくれるような気がする。

 私は、まだ、一度も先生のお墓参りをしていない。
それどころが、先生のお墓がどこにあるのかも分からない。

 大きな忘れ物をしたままでいる。




街路樹のナナカマドが 赤い実だけに
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