それは、私だけではなく、
3年5組全員にとって全く予期しない提案だった。
中学生の時の出来事なので、その記憶には曖昧さがある。
5月末に校内弁論大会なるものが企画されていた。
連休明けだっただろうか、
ホームルームの時間に、学級で一人、その弁士を決めていた。
私の学級は、2年生の時、次第次第に学級の雰囲気に落ち着きを無くし、
後半は、まさに今で言う学級崩壊状態だった。
子ども心に私は、その主な原因が担任の無気力な指導にあると思っていた。
だからだろうか、3年生進級時に、私の学級だけ担任が替わった。
まだ、十分には子どもを把握していないはずの新担任M先生が、
中々決まる気配のない弁士の話し合いに、業を煮やしたのか、
突然、私の名を上げ、『やってみないか。』と言ったのである。
M先生が、私の何をもって、そんな推薦をしたのか、今もってわからない。
当時の私は、決してみんなから注目されるような存在ではなかった。
ホームルームなどでも、意見を述べたりすることはなく、
崩壊していた学級にあっても、ただただ毎日そんな嫌な空気が、
頭上を通り抜けてくれることだけを願い、
物静かにうつむき息を殺し、過ごしていた。
だから、主張したいことなども何もなかった。
ましてや、全校生徒の前に一人立って、
自分の想いを述べるなど、全くの想定外であった。
私だけでなく、学級の誰一人として、私にそんな力があるなど、
考えてもいなかったはずである。
担任が替わったとは言え、
まだまだ学級の雰囲気に変化のない時期だった。
何事にも、全員の腰が引けていた。
だから、M先生の提案に
全員が「これ幸い。」とばかりに大きな拍手をした。
私は、今までに経験したことのない多くの視線の中で、
新しい担任と学級の全員に向かって、
「やりたくありません。」「無理です。」「できません。」
と、言う勇気がなく、弁士をすることになった。
誰もがそうであるように、私の人生にも数々の岐路があった。
その岐路が、今日の私につながっているのだが、
その最初の分かれ道が、
この中学校3年生の校内弁論大会だったと私は思っている。
2週間後の大会に向かって、オドオドする日々が始まった。
一度だけ、M先生は何の心配事もないような、
そんな底抜けに明るい表情で、
「大丈夫だあ。言いたいことを言いたいだけ言えばいい。」
と、私の両肩を鷲づかみにして、励ましてくれた。
それっきり、声をかけてくれることはなかった。
周りの友だちも、ただ面白そうに
「がんばれよ。」「しっかりね。」と、無責任だった。
近所にいる大学生に相談してごらんと母に勧められ、訪ねてみた。
「言い出しはなあ、
『何々について、私の考えを述べたいと思いますので、お聞き下さい。』
から始めるんだ。」
とだけ教えてくれた。
「その先は、本人が考えな。」と、突き放された。
泣きたくなるような、悶々とした思いで、数日が過ぎた。
それでも私は、6年生の算数での、ちょっとした勉強の体験談を書き上げた。
原稿は、誰にも見せなかった。
母は、「大きな声で言うためには、練習だよ。」
「誰もいない所で、何回も大きな声で読む練習をすると、
いい声が出るようになるから。」と、教えてくれた。
私は、それを鵜呑みにした。
学校から帰ると、一人、小学校の裏山に登った。
小高い山の頂上は、熊笹の平地が広がっていた。
私は、誰もいないのを確かめては、大空に向かって原稿を読み上げた。
読むたびに、気になった箇所を何回も何回も直した。
そして、再び大空に声を張り上げた。
テレビニュースで見た国会の代表質問の場面を思い浮かべ、
時々原稿用紙から目を離し、遠くを見たりする練習もした。
原稿は、いつの間にか最初に書いたものとは、随分と違うものになった。
やがて、誰もいない山の上の原っぱで、
大声を張り上げて語る楽しさを、私は味わうようになった。
そして、遂にその日が来た。
3年生の各学級代表8名が次々に壇上に上った。
私は、5番目に演壇の前に立った。
何故か舞台に上がるとそれまでの緊張から解放された。
あの熊笹の原っぱで、声を張り上げている気持ちよさを感じていた。
時折、原稿に目を落としながら、私はマイクに声をぶつけていた。
徐々に、沢山の真剣な顔を感じた。
いくつもの熱い視線が伝わってきた。
全校生徒が並ぶ横に、長机の席があった。先生達がいた。
M先生が、私を見ながら、何度も何度も笑顔でうなずいていた。
多くの生徒とM先生のそんな姿に、
演壇で語る私は、それまでに体験したことない熱いものが、
体中を駆け巡っていることに気づいた。
今、この瞬間、私に向けられた期待に応えているんだと思った。
嬉しかった。
そして、何やら不動なものが、少しだけ心に芽生えた。
無事、弁論を終え降壇した私は、それまでとは確かに違っていた。
審査の結果、一位になった。
その後しばらくは、いろんな会場での大会によばれ、演壇に立った。
そのたびに、山の上の原っぱで練習をした。
自己主張など全く無縁だった私が、機会に恵まれた。
そして、自分の想いを伝えることの楽しさを知った。
あえて、かき分けてまで人前に出て、語ろうとは思わない。
しかし、声がかかると、夢中になって話し始めるのは、
あの岐路があったからなのだと思う。
それにしても、
M先生の、『やってみないか。』が、そうさせてくれたのである。
感謝の一語と共に、
私にとって、教育活動の凄さをくり返しくり返し教えてくれる出来事である。
雪解け水が流れる 『春の小川』はサラサラ
3年5組全員にとって全く予期しない提案だった。
中学生の時の出来事なので、その記憶には曖昧さがある。
5月末に校内弁論大会なるものが企画されていた。
連休明けだっただろうか、
ホームルームの時間に、学級で一人、その弁士を決めていた。
私の学級は、2年生の時、次第次第に学級の雰囲気に落ち着きを無くし、
後半は、まさに今で言う学級崩壊状態だった。
子ども心に私は、その主な原因が担任の無気力な指導にあると思っていた。
だからだろうか、3年生進級時に、私の学級だけ担任が替わった。
まだ、十分には子どもを把握していないはずの新担任M先生が、
中々決まる気配のない弁士の話し合いに、業を煮やしたのか、
突然、私の名を上げ、『やってみないか。』と言ったのである。
M先生が、私の何をもって、そんな推薦をしたのか、今もってわからない。
当時の私は、決してみんなから注目されるような存在ではなかった。
ホームルームなどでも、意見を述べたりすることはなく、
崩壊していた学級にあっても、ただただ毎日そんな嫌な空気が、
頭上を通り抜けてくれることだけを願い、
物静かにうつむき息を殺し、過ごしていた。
だから、主張したいことなども何もなかった。
ましてや、全校生徒の前に一人立って、
自分の想いを述べるなど、全くの想定外であった。
私だけでなく、学級の誰一人として、私にそんな力があるなど、
考えてもいなかったはずである。
担任が替わったとは言え、
まだまだ学級の雰囲気に変化のない時期だった。
何事にも、全員の腰が引けていた。
だから、M先生の提案に
全員が「これ幸い。」とばかりに大きな拍手をした。
私は、今までに経験したことのない多くの視線の中で、
新しい担任と学級の全員に向かって、
「やりたくありません。」「無理です。」「できません。」
と、言う勇気がなく、弁士をすることになった。
誰もがそうであるように、私の人生にも数々の岐路があった。
その岐路が、今日の私につながっているのだが、
その最初の分かれ道が、
この中学校3年生の校内弁論大会だったと私は思っている。
2週間後の大会に向かって、オドオドする日々が始まった。
一度だけ、M先生は何の心配事もないような、
そんな底抜けに明るい表情で、
「大丈夫だあ。言いたいことを言いたいだけ言えばいい。」
と、私の両肩を鷲づかみにして、励ましてくれた。
それっきり、声をかけてくれることはなかった。
周りの友だちも、ただ面白そうに
「がんばれよ。」「しっかりね。」と、無責任だった。
近所にいる大学生に相談してごらんと母に勧められ、訪ねてみた。
「言い出しはなあ、
『何々について、私の考えを述べたいと思いますので、お聞き下さい。』
から始めるんだ。」
とだけ教えてくれた。
「その先は、本人が考えな。」と、突き放された。
泣きたくなるような、悶々とした思いで、数日が過ぎた。
それでも私は、6年生の算数での、ちょっとした勉強の体験談を書き上げた。
原稿は、誰にも見せなかった。
母は、「大きな声で言うためには、練習だよ。」
「誰もいない所で、何回も大きな声で読む練習をすると、
いい声が出るようになるから。」と、教えてくれた。
私は、それを鵜呑みにした。
学校から帰ると、一人、小学校の裏山に登った。
小高い山の頂上は、熊笹の平地が広がっていた。
私は、誰もいないのを確かめては、大空に向かって原稿を読み上げた。
読むたびに、気になった箇所を何回も何回も直した。
そして、再び大空に声を張り上げた。
テレビニュースで見た国会の代表質問の場面を思い浮かべ、
時々原稿用紙から目を離し、遠くを見たりする練習もした。
原稿は、いつの間にか最初に書いたものとは、随分と違うものになった。
やがて、誰もいない山の上の原っぱで、
大声を張り上げて語る楽しさを、私は味わうようになった。
そして、遂にその日が来た。
3年生の各学級代表8名が次々に壇上に上った。
私は、5番目に演壇の前に立った。
何故か舞台に上がるとそれまでの緊張から解放された。
あの熊笹の原っぱで、声を張り上げている気持ちよさを感じていた。
時折、原稿に目を落としながら、私はマイクに声をぶつけていた。
徐々に、沢山の真剣な顔を感じた。
いくつもの熱い視線が伝わってきた。
全校生徒が並ぶ横に、長机の席があった。先生達がいた。
M先生が、私を見ながら、何度も何度も笑顔でうなずいていた。
多くの生徒とM先生のそんな姿に、
演壇で語る私は、それまでに体験したことない熱いものが、
体中を駆け巡っていることに気づいた。
今、この瞬間、私に向けられた期待に応えているんだと思った。
嬉しかった。
そして、何やら不動なものが、少しだけ心に芽生えた。
無事、弁論を終え降壇した私は、それまでとは確かに違っていた。
審査の結果、一位になった。
その後しばらくは、いろんな会場での大会によばれ、演壇に立った。
そのたびに、山の上の原っぱで練習をした。
自己主張など全く無縁だった私が、機会に恵まれた。
そして、自分の想いを伝えることの楽しさを知った。
あえて、かき分けてまで人前に出て、語ろうとは思わない。
しかし、声がかかると、夢中になって話し始めるのは、
あの岐路があったからなのだと思う。
それにしても、
M先生の、『やってみないか。』が、そうさせてくれたのである。
感謝の一語と共に、
私にとって、教育活動の凄さをくり返しくり返し教えてくれる出来事である。
雪解け水が流れる 『春の小川』はサラサラ