ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

『すいとん』と          第10回文芸思潮エッセイ賞佳作

2015-04-30 15:28:32 | 投稿
 記憶という糸をたぐり寄せたとき、
その先端のすぐそばから、こんな出来事が蘇ってきました。

 もう60年も前のことになります。
あの人が、箸とお椀を持ったまま、
静かに涙を流した夕食どきのことです。

 貧しくても仲睦まじい家庭でした。
特に、黒ずんだ卓袱台を家族6人で囲む夕食は、
私にとっていつも幸せを感じる時間でした。

 確か4年生のときだったと思います。
私の通う小学校でも、この年から給食が始まり、
一度だけ食べた『すいとん』を母に何度もねだり、
ようやく作ってもらった日のことでした。

 嬉しくて、今まさに箸をつけようとしていた私の目の前で、
あの人の仕草が突然止まったのです。
「どうしたの。」
と、母に小声で尋ねながら、私はあの人をじっと見ていました。

 固く唇をかみ締め、涙を浮かべていました。
そして、箸もおかず、お椀もおかず、
目から涙がこぼれ、頬をつたい、流れ出したのです。
 家中に息を飲むような時間が流れました。

 あの人の涙など、それまで一度も見たことがありませんでした。
 私の横に座っていた母も涙を流し、割烹着で顔を覆いました。
二人の兄は正座していた膝に両拳を添えたままうつむき、
姉ももらい泣きを始めました。

 「何があったの、」
 私には、見当がつきませんでした。
ただ家族6人の全ての時間が止まり、
それでも柱時計の音だけは正確に聞こえていました。

 すいとんの入ったお椀を持ったまま、
流れ落ちる涙をぬぐおうともしないあの人。
 やがて、涙で声を詰まらせながら、
あの人の人生の第一歩を、私の小さな心に教えてくれました。



 大正7年、11歳のときのことだ。
俺は7人兄弟の長男で、
親父は酒と博打に明け暮れ、
母親が小料理屋の下働きをして持ってくるわずかなお金まで、
使い果たしてしまうような奴だった。

 俺は、少しでも母親を楽にしようと、
家を出ることにしたんだ。
 母は、東京に行って働くという俺に、真新しい草履と、
汽車賃だと言って、わずかばかりの小銭を握らせてくれた。

 俺は、もう二度とこの家には戻らない決心をし、
宇都宮から上野へと行った。

 親戚も頼る人もいない東京で、11歳の子どもが働ける所など、
なかなか見つかりはしなかった。
そのうち、母親からもらったお金は次第に減り、
毎晩上野のお山で野宿をした。
何日も水だけの日を過ごした。

 そして、とうとうお金が底をつき、
一食分そこそこしかなくなってしまった。
腹がへってへって目まいさえしてきた。

 俺は意を決して、有り金を全部出し、
「これで、何か食べさせて。」
と、食堂に入り頼んだ。
 これでもう何にも食えなくなると思うと、心細さだけになってしまった。
ただ、空腹に耐えられなかった。
その時の俺には、もう明日などどうでもよくなっていた。

 急に、おの勝手放題の父親や、口数が少なく黙々と体を動かす母親、
二つ年下の弟や4人の弟妹に会いたくなった。
俺は、食堂の椅子に腰掛けながら、半ベソをかいていた。

 そんな俺の前に、ゆげの上がった丼が置かれたのだ。
 「熱いからゆっくり、お食べ。」
と言う食堂の女将さんの声もそっちのけにして、
俺は夢中でそれを食べた。
肩で息をしながら、汁と団子を食べた。
途中からは涙も鼻水も一緒に泣きながら食べた。

 それが、初めて食べた『すいとん』だったのだ。

 俺のその姿があまりにも惨めだったのだろう。
テーブルに勢いよくすいとんを差し出してくれた女将さんが声をかけてくれた。
 涙をぬぐいながら「どこかで働きたい。」と見上げた俺に、
「つらくても辛抱できるなら。」と、その食堂で働くことを許してくれた。

 何年も修業をし、俺はそこで沢山の人に温かい料理を作った。
しかし、すいとんだけは特別なもので、
湯気のせいにしながら、いつも厨房で目頭をおさえた。



 あの人に話を聞いたその日から、
私はすいとんをねだらなくなりました。
 そして、給食ですいとんが出ても、どうしても箸が進まなくなりました。
すいとんを目の前にすると、11歳のあの人の辛さと、初めて見たあの人の涙が、
鮮やかに思い浮かび、
私は弾けてしないそうな悲しさで心がいっぱいになるのでした。

 時は流れ、今、『すいとん』は貧しい時代の代表的な食べ物として、
よく取り上げられます。
しかし、私にとってのそれは、
あの人が絶望の中から立ち上げるきっかけになった食べ物であり、
どんな献立よりも、心がざわつく料理なのであります。

 人は本当の苦しみや辛さを経験してこぞ、
真の優しさを自分のものにできると言います。
あの人の生涯、それはあの『すいとん』が物語るように、
私の想像を超えた辛さからのスタートでした。

 だからこぞ、あの人、私の父は幾つになっても
超えることのできない存在なのだと思うのです。





カタクリが咲いた ≪有珠善光寺カタクリの丘にて≫
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北の味覚と輝き

2015-03-19 22:48:48 | 投稿
 40年勤めた東京での暮らしを終え、
私は、故郷・北海道でその後を過ごすことにした。

 勤務の気晴らしにと始めたゴルフを、体の動く限り気軽にやれたらいい、
そんなことを思いつつの大英断だった。
 移り住んだ伊達には、一人の友人もおらず、
家内だけがゴルフ相手だったが、
自宅から車で15分と恵まれたコースで、週一のプレイを楽しんでいた。

 山々が色づき始めたある日。
コースの片隅の林からグリーンキーパーの方が、
両手に山盛りの黄色く艶のあるキノコを持って現れた。
 彼はとても誇らしげに、それをかざし、
「持っていきな。」
と、気さくに声をかけ、カートの前カゴにそのキノコを入れてくれた。
 私は、どこで採った、どんなキノコかも分からぬまま、
それでも旧知の仲のように振る舞う彼に、
形だけのお礼を言いプレイを続けた。
 彼が遠のいてから、家内に
「訳の分からないキノコ、俺は食べない。あんたも止めとけ。」
と、小声で言った。

 プレイ後、ビニール袋にそのキノコを入れ、
「持ち帰るのが、頂いた彼への礼儀。」
と思い、片手にぶら下げ、クラブハウスへ移った。

 ハウス内には、臨時の野菜売場が設けられていた。
その陳列台に目をやると、
私がぶらさげているキノコと同じものが、
五百円の値をつけ、私の半分程度の量でいくつも並んでいた。
値札には『落葉キノコ』と名があった。

 帰宅すると、早速そのキノコについて調べてみた。
すると、唐松の根元にしかないキノコで、
多くの愛好家たちがキノコ狩りをし、その味を楽しむとあった。

 その日の夕食、家内が味噌汁にした。
私は、不安が払拭されないまま、それでもその味噌汁を口にした。
確かにキノコ好きには、たまらない味だと思った。
 キノコをさほど好まない私だが、ついお代わりをしていた。
北国の秋の味覚との出会いであった。

 そして晩秋。
落葉キノコが生息していたゴルフ場のあの唐松林は、
雪を目前にして橙色に紅葉した。
 尖った細い橙色の落ち葉は、風とともに舞い上がり、
あたりの全てを、光り輝く橙に染めた。
私は、そのさり気ない、秋宴の美しさに心を奪われた。

 そして、あのグリーンキーパーさんの、
これまたさり気ない振る舞いを思い出し、
彼から、北の味覚と晩秋の輝きという贈り物を貰った気がした。

   ≪平成25年夏『第5回心に響く…北のエピソード』入選≫




クロッカスが咲いていた! ビックリ!
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 輝   き            (第9回文芸思潮エッセイ賞佳作)

2015-01-06 15:00:34 | 投稿
 暖簾をくぐると、いつもカウンターに陣取り、包丁を握っている。
その姿は、なぜか30年前に他界した親父を思い出させた。
 「どうだ、儲かってるか。」
の私の問いに、返ってくる答えは決まって、
「なんもだ。」
と、歯切れが悪いのだが、
そこにはどういう訳が悲壮感はなく、どこか穏やかな空気さえ流れていた。

 「俺の趣味は商売。」
と、言い切ってしまうほど、彼の人生は紛れもなくそれだけだった。
中学校を卒業してから今日まで60年間にわたり
一貫しており、ブレることはなかった。
まさに、天職と言えるのだが、その歩みは細々として頼りなく、
しかし良心的な商売人と言えるものだった。

 振り返ってみると、今でこそ客席30数名の小料理屋であるが、
かつては従業員20名を越える活気ある鮮魚店の店主であった。
みんなから、『社長』と呼ばれた時代もあった。
だが、時代の波は彼を押し上げたりはしなかった。

 年齢と共に体力は衰え、そして店も少しずつ売り上げを大型店舗に奪われていった。
15年前、転機が訪れ、彼は魚屋をたたみ、
今までの仕出しや惣菜造りの経験を生かし、
魚料理中心の小料理屋を始めた。

 決して大きくはない町の小さな魚料理店である。
勝負は、新しい顧客の開拓ではなく、確かなリピーターの獲得である。
それには、そこそこの値段と共に料理の質が問われた。
いつも美味しいものを提供する。
それこそがこの店の生きる道なのであった。
時折出向く私の舌に、その味は合格だった。

 客の何人かが帰りがてらに会計をしながら、
「相変わらず美味しいものを出すね。」
などと、言っているのを聞いたことがある。
私は、そんな声が彼の励みになっているのだろうと思いながらも、
一向に好転しない店の経営に、斜陽の町での商売の難しさを感じていた。

 彼は、人生の全てをかけ一途に、
魚屋と小料理屋の違いはあれ、
美味しいものを提供することに毎日を費やしてきた。
もっともっと彼は救われてもいいはずだと私は思う。

 朝は人より早く起き、魚市場へ軽トラで駆けつけ、
60年におよぶ目利きで美味しい魚を厳選する。
そして、どんな客の注文も快く受け、
時には後始末が深夜になることもある。
なのに彼に揚揚として光は差さなかった。

 実は、私は彼の稼ぎによって学費を捻出してもらい大学にいった。
そして、夢であった教職についた。
その上、12年間にもわたり校長として1校を預かり、
理想とまではいかないものの、
しかし『人生の旬』とまで思えるような仕事もさせてもらった。
それに比べ、彼の
人生はあまりにも違いすぎた。

 しかし、ある日のことだ。

 私は、とあるガラス工房の店で
ちょっとしたお土産にとガラスボールを買い求めた。
 ガラス製品なだけに梱包に手間が掛かっていた。
その持てあました時間に、
店内にあったこの町近辺の名店を紹介する小洒落たタウン雑誌を手にした。

 「ああ、この店、知っている。」
「そうか、やっぱり紹介されるか、この店は。」
などと思いながら、時には全く知らないイタリアンレストランに驚き、
「今度いってみたいなあ。」
なんて、無責任にページをめくっていた。

 すると、見慣れた暖簾のある店先の写真が現れた。
店の名前はもちろんのこと、彼の名前もフルネームで紹介され、
朝の仕入れに始まり、見事な包丁さばき、
そして料理への心意気まで紹介され、味の確かさとともに店を絶賛する記事だった。
「店主は茶目っ気たっぷりの表情で『いつでもお待ちしてます。』と言っていた。」
と、彼の人柄まで伝えていた。

 私は、本屋とは違うガラス工房の店内で立ち読みしながら、
目頭が熱くなるのを覚えた。
そして、しばらくそのページから目を離すことができなかった。

 私達は、人生の中でどれだけ人から褒められる機会に恵まれるだろうか。
励ましの意味を込めての賞賛なら私にも何度か経験はある。
また、仕事柄、褒めることで成長する力になると期待しての賛辞を
何人もの人に送ってきた。
しかし、この記事にそんな目論見は全くなかった。

 本当に美味しい料理を出す店だからこその記事なのである。
今までこの店と関わりのない雑誌記者による感じたままの
偽りのない評価なのである。
そこには、彼が美味しいものを提供しようと
精一杯歩み続けたことへの、本当の言葉が並んでいた。

 こんな偽りのない報われ方に、私は彼の弟として心を熱くした。
そして、こんな素敵な記事を書かせた彼を誇りに思うと共に、
彼のようなひたむきな歩みには、
必ずや清純な輝きが訪れると信じることができた。




噴火湾ギリギリの無人駅・北舟岡駅(よく鉄道ファンが立ち寄る)
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