記憶という糸をたぐり寄せたとき、
その先端のすぐそばから、こんな出来事が蘇ってきました。
もう60年も前のことになります。
あの人が、箸とお椀を持ったまま、
静かに涙を流した夕食どきのことです。
貧しくても仲睦まじい家庭でした。
特に、黒ずんだ卓袱台を家族6人で囲む夕食は、
私にとっていつも幸せを感じる時間でした。
確か4年生のときだったと思います。
私の通う小学校でも、この年から給食が始まり、
一度だけ食べた『すいとん』を母に何度もねだり、
ようやく作ってもらった日のことでした。
嬉しくて、今まさに箸をつけようとしていた私の目の前で、
あの人の仕草が突然止まったのです。
「どうしたの。」
と、母に小声で尋ねながら、私はあの人をじっと見ていました。
固く唇をかみ締め、涙を浮かべていました。
そして、箸もおかず、お椀もおかず、
目から涙がこぼれ、頬をつたい、流れ出したのです。
家中に息を飲むような時間が流れました。
あの人の涙など、それまで一度も見たことがありませんでした。
私の横に座っていた母も涙を流し、割烹着で顔を覆いました。
二人の兄は正座していた膝に両拳を添えたままうつむき、
姉ももらい泣きを始めました。
「何があったの、」
私には、見当がつきませんでした。
ただ家族6人の全ての時間が止まり、
それでも柱時計の音だけは正確に聞こえていました。
すいとんの入ったお椀を持ったまま、
流れ落ちる涙をぬぐおうともしないあの人。
やがて、涙で声を詰まらせながら、
あの人の人生の第一歩を、私の小さな心に教えてくれました。
大正7年、11歳のときのことだ。
俺は7人兄弟の長男で、
親父は酒と博打に明け暮れ、
母親が小料理屋の下働きをして持ってくるわずかなお金まで、
使い果たしてしまうような奴だった。
俺は、少しでも母親を楽にしようと、
家を出ることにしたんだ。
母は、東京に行って働くという俺に、真新しい草履と、
汽車賃だと言って、わずかばかりの小銭を握らせてくれた。
俺は、もう二度とこの家には戻らない決心をし、
宇都宮から上野へと行った。
親戚も頼る人もいない東京で、11歳の子どもが働ける所など、
なかなか見つかりはしなかった。
そのうち、母親からもらったお金は次第に減り、
毎晩上野のお山で野宿をした。
何日も水だけの日を過ごした。
そして、とうとうお金が底をつき、
一食分そこそこしかなくなってしまった。
腹がへってへって目まいさえしてきた。
俺は意を決して、有り金を全部出し、
「これで、何か食べさせて。」
と、食堂に入り頼んだ。
これでもう何にも食えなくなると思うと、心細さだけになってしまった。
ただ、空腹に耐えられなかった。
その時の俺には、もう明日などどうでもよくなっていた。
急に、おの勝手放題の父親や、口数が少なく黙々と体を動かす母親、
二つ年下の弟や4人の弟妹に会いたくなった。
俺は、食堂の椅子に腰掛けながら、半ベソをかいていた。
そんな俺の前に、ゆげの上がった丼が置かれたのだ。
「熱いからゆっくり、お食べ。」
と言う食堂の女将さんの声もそっちのけにして、
俺は夢中でそれを食べた。
肩で息をしながら、汁と団子を食べた。
途中からは涙も鼻水も一緒に泣きながら食べた。
それが、初めて食べた『すいとん』だったのだ。
俺のその姿があまりにも惨めだったのだろう。
テーブルに勢いよくすいとんを差し出してくれた女将さんが声をかけてくれた。
涙をぬぐいながら「どこかで働きたい。」と見上げた俺に、
「つらくても辛抱できるなら。」と、その食堂で働くことを許してくれた。
何年も修業をし、俺はそこで沢山の人に温かい料理を作った。
しかし、すいとんだけは特別なもので、
湯気のせいにしながら、いつも厨房で目頭をおさえた。
あの人に話を聞いたその日から、
私はすいとんをねだらなくなりました。
そして、給食ですいとんが出ても、どうしても箸が進まなくなりました。
すいとんを目の前にすると、11歳のあの人の辛さと、初めて見たあの人の涙が、
鮮やかに思い浮かび、
私は弾けてしないそうな悲しさで心がいっぱいになるのでした。
時は流れ、今、『すいとん』は貧しい時代の代表的な食べ物として、
よく取り上げられます。
しかし、私にとってのそれは、
あの人が絶望の中から立ち上げるきっかけになった食べ物であり、
どんな献立よりも、心がざわつく料理なのであります。
人は本当の苦しみや辛さを経験してこぞ、
真の優しさを自分のものにできると言います。
あの人の生涯、それはあの『すいとん』が物語るように、
私の想像を超えた辛さからのスタートでした。
だからこぞ、あの人、私の父は幾つになっても
超えることのできない存在なのだと思うのです。
カタクリが咲いた ≪有珠善光寺カタクリの丘にて≫
その先端のすぐそばから、こんな出来事が蘇ってきました。
もう60年も前のことになります。
あの人が、箸とお椀を持ったまま、
静かに涙を流した夕食どきのことです。
貧しくても仲睦まじい家庭でした。
特に、黒ずんだ卓袱台を家族6人で囲む夕食は、
私にとっていつも幸せを感じる時間でした。
確か4年生のときだったと思います。
私の通う小学校でも、この年から給食が始まり、
一度だけ食べた『すいとん』を母に何度もねだり、
ようやく作ってもらった日のことでした。
嬉しくて、今まさに箸をつけようとしていた私の目の前で、
あの人の仕草が突然止まったのです。
「どうしたの。」
と、母に小声で尋ねながら、私はあの人をじっと見ていました。
固く唇をかみ締め、涙を浮かべていました。
そして、箸もおかず、お椀もおかず、
目から涙がこぼれ、頬をつたい、流れ出したのです。
家中に息を飲むような時間が流れました。
あの人の涙など、それまで一度も見たことがありませんでした。
私の横に座っていた母も涙を流し、割烹着で顔を覆いました。
二人の兄は正座していた膝に両拳を添えたままうつむき、
姉ももらい泣きを始めました。
「何があったの、」
私には、見当がつきませんでした。
ただ家族6人の全ての時間が止まり、
それでも柱時計の音だけは正確に聞こえていました。
すいとんの入ったお椀を持ったまま、
流れ落ちる涙をぬぐおうともしないあの人。
やがて、涙で声を詰まらせながら、
あの人の人生の第一歩を、私の小さな心に教えてくれました。
大正7年、11歳のときのことだ。
俺は7人兄弟の長男で、
親父は酒と博打に明け暮れ、
母親が小料理屋の下働きをして持ってくるわずかなお金まで、
使い果たしてしまうような奴だった。
俺は、少しでも母親を楽にしようと、
家を出ることにしたんだ。
母は、東京に行って働くという俺に、真新しい草履と、
汽車賃だと言って、わずかばかりの小銭を握らせてくれた。
俺は、もう二度とこの家には戻らない決心をし、
宇都宮から上野へと行った。
親戚も頼る人もいない東京で、11歳の子どもが働ける所など、
なかなか見つかりはしなかった。
そのうち、母親からもらったお金は次第に減り、
毎晩上野のお山で野宿をした。
何日も水だけの日を過ごした。
そして、とうとうお金が底をつき、
一食分そこそこしかなくなってしまった。
腹がへってへって目まいさえしてきた。
俺は意を決して、有り金を全部出し、
「これで、何か食べさせて。」
と、食堂に入り頼んだ。
これでもう何にも食えなくなると思うと、心細さだけになってしまった。
ただ、空腹に耐えられなかった。
その時の俺には、もう明日などどうでもよくなっていた。
急に、おの勝手放題の父親や、口数が少なく黙々と体を動かす母親、
二つ年下の弟や4人の弟妹に会いたくなった。
俺は、食堂の椅子に腰掛けながら、半ベソをかいていた。
そんな俺の前に、ゆげの上がった丼が置かれたのだ。
「熱いからゆっくり、お食べ。」
と言う食堂の女将さんの声もそっちのけにして、
俺は夢中でそれを食べた。
肩で息をしながら、汁と団子を食べた。
途中からは涙も鼻水も一緒に泣きながら食べた。
それが、初めて食べた『すいとん』だったのだ。
俺のその姿があまりにも惨めだったのだろう。
テーブルに勢いよくすいとんを差し出してくれた女将さんが声をかけてくれた。
涙をぬぐいながら「どこかで働きたい。」と見上げた俺に、
「つらくても辛抱できるなら。」と、その食堂で働くことを許してくれた。
何年も修業をし、俺はそこで沢山の人に温かい料理を作った。
しかし、すいとんだけは特別なもので、
湯気のせいにしながら、いつも厨房で目頭をおさえた。
あの人に話を聞いたその日から、
私はすいとんをねだらなくなりました。
そして、給食ですいとんが出ても、どうしても箸が進まなくなりました。
すいとんを目の前にすると、11歳のあの人の辛さと、初めて見たあの人の涙が、
鮮やかに思い浮かび、
私は弾けてしないそうな悲しさで心がいっぱいになるのでした。
時は流れ、今、『すいとん』は貧しい時代の代表的な食べ物として、
よく取り上げられます。
しかし、私にとってのそれは、
あの人が絶望の中から立ち上げるきっかけになった食べ物であり、
どんな献立よりも、心がざわつく料理なのであります。
人は本当の苦しみや辛さを経験してこぞ、
真の優しさを自分のものにできると言います。
あの人の生涯、それはあの『すいとん』が物語るように、
私の想像を超えた辛さからのスタートでした。
だからこぞ、あの人、私の父は幾つになっても
超えることのできない存在なのだと思うのです。
カタクリが咲いた ≪有珠善光寺カタクリの丘にて≫