ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

声に出しては読めない!

2022-07-23 13:49:36 | 教育
 3日前の午後だ。
前ぶれもなく鼻炎が始まった。
 花粉症の時に、くしゃみが止まらず、
その後、鼻の中の栓が壊れたかのように、
鼻みずが続くことがある。
 それと全く同じ症状だった。

 早々、買い置きしてあったアレルギー性鼻炎用の市販薬を服用した。
だが、治まる気配がない。
 仕方なく、これまた買い置きの点鼻薬を入れてみた。
多少、くしゃみも鼻みずも頻度が減った。
 横になると、症状がなくなることに気づいた。
いつもより、早くベットについた。

 そして、一昨日。
目覚めて動き出すと同時に、くしゃみが始まった。
 症状は、前日と同じ。

 朝食をとりながらも、鼻みずが続く。
もう一度、買い置きの市販薬の引き出しを探した。
 何年も前に服用した別の鼻炎用の薬があった。
半信半疑、その錠剤を飲んでみた。
 同時に、点鼻薬も。
しばらくすると、鼻水が止まった。

 だが、それも3時間と持たない。
再び鼻みずが出始め、
ティシューペーパーの箱を抱えて、日中を過ごす。

 夕食後、もう1度、朝と同じ錠剤を飲んだ。
ピタリと症状が治まり、ホッとする。
 
 そして、昨日だ。
今度は、くしゃみや鼻みずではなく、頭痛で目が覚めた。
 ベットを離れる前に検温が習慣になっている。
いつもよりやや高めだった。
 しかし、鼻炎の症状は消えていた。

 いつも通り朝食を済ませても頭痛は続いていた。
でも、金曜日である。
 ブログを書こうと机に向かう。
思考力も根気もなく、ただぼうっと。

 昨日までの鼻炎が影響しているかもと、
午前を休養に切り替えた。
 すると、ベットで熟睡。
昼食で、家内におこされ、念のために検温。
 なんと37、3度。
私にしては、高熱。
 BA.5は、風邪症状に似ていると言う。
コロナを疑った。
 その後も熟睡また熟睡。
不安だけが膨らんだ。

 幸い、今朝は、平熱。
で体調は『イマイチ』でも、
こうしてノートパソコンに向かうことができた。

 さて、今日のテーマだ。

 たった一人の孫は、もう小学2年になった。
そこで進級祝いを兼ねて、絵本を何冊か送った。
 
 その1冊は、
文・つちやゆきお、絵・たけべもといちろうの
『かわいそうなぞう』である。 

 まずは、ウィキペディアに載っているあらすじを紹介する。

  *    *     *     *    *    

 第二次世界大戦が激しくなり、
東京市にある上野動物園では空襲で檻が破壊された際の猛獣逃亡を視野に入れ、
殺処分を決定する。
 ライオンやクマが殺され、
残すはゾウのジョン、トンキー、ワンリー(花子)だけになる。

 ゾウに毒の入った餌を与えるが、
ゾウたちは餌を吐き出してしまい、
その後は毒餌を食べないために殺すことができない。
 毒を注射しようにも、象の硬い皮膚に針が折れてしまうため、
餌や水を与えるのを止めて餓死するのを待つことにする。

 ゾウたちは餌をもらうために必死に芸をしたりするが、
ジョン、ワンリー、トンキーの順に餓死していく。

  *     *     *     *     *

 これは戦時下の実話をものとにしていると聞いた。
それもあって、心が大きく揺さぶられる絵本である。

 担任していた教室には、必ずこの絵本を置いていた。
子供らは、いつでもそれを手にすることができた。
 休み時間や放課後に、真剣な表情で読んでいた子が何人もいた。

 忘れられないことがある。
2年生を担任していた時だった。
 「先生、この本、みんなに読んであげて」と、
持ってきた子がいた。
 「どうして」
私が尋ねると、その子は真剣な表情で、
「だって、かわいそうなぞうのこと、
みんなに教えてあげたいの」。
 
 実は、この絵本を読み聞かせる自信がなかった。
でも、真剣さに押され、私は約束した。

 そして、「帰りの会」の時間をつかって、
全員の前で、絵本を片手に読み聞かせを始めた。

 どの子も,絵本に釘付けになった。
そして、遂にやせ細った象が芸当をする場面まで進んだ。
 案の定、私は読むことができなくなってしまった。

 声がつまり、涙が流れた。
子供らは、そんな私に気づき、じっとしていた。

 その時のために用意していたタオルで、
顔を拭き、大きく息を整え、その場面を読んだ。
 それからも、何度も何度も声を詰まらせ、子供らはさらに静まり
私は、やっと最後まで読み終えた。

 読み聞かせが終わると、
必ず大きな拍手が返ってきた。
 その日だけは、どの子も拍手を忘れ、しばらく沈んでいた。

 以来、声に出して「かわいそうなぞう」を読んだことはなかった。
いや、声に出して読めないことが分かった。

 追記になるが、同じように声に出しては読めない作品がもう1つある。
大川悦生・作『おかあさんの木』である。
 これも、戦時下から始まる物語だ。
ウィキペディアに載っているあらすじを転記しておく。

  *     *     *     *     *
 
 今から数十年前、ある家に「おかあさん」と七人の息子が暮らしていた。
やがて日中戦争を皮切りに日本が戦争に入ると自分の息子たちは次々に召集され、
戦地へ赴いていった。

 おかあさんは息子が出征する度に裏の空き地に桐を植え、
息子が不在の間、代わりとなる桐に語りかけて息子たちを励まし続けた。
 初めは出征をするからには手柄を立てるようにと願っていたおかあさんも、
一郎が中国大陸で戦死し、遺骨となって戻って来たことをきっかけに、
次第に手柄を立てるより無事に戻ってくることを願うようになっていった。

 召集をかけられた全ての息子たちは、戦争が終わっても誰一人戻らず、
戦死または行方不明になっていた。
 おかあさんは次第に体が衰えていったが、
それでも息子たちの帰って来るのを心待ちにして、
自分が植えた七本の桐の木に絶えず語りかけた。

 しばらく経って軍人たちが次々に帰還する中、
ビルマで行方不明になっていた五郎が
片足を引きずった状態で家に戻ってきた時には、
おかあさんは「五郎」と名づけた桐の木に凭れかかったまま息絶えていた。




  収穫の日を待つ 雨に濡れた麦
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学校の危機をマネージメント

2021-09-04 13:50:18 | 教育
 ▼ コロナウイルスの変異によって、
10代以下の年齢にも感染が広がっているようだ。
 各地の学校では、夏休み期間の延長や分散登校など、
対策が工夫されている。

 伊達市内の学校は、
8月下旬から平常通り2学期が始った。
 毎朝、我が家の前を数人の小学生が登校していく。

 当地も緊急事態宣言下である。
しかし、同じ北海道内でも人口3万程度の小さな町だ。
 感染者は、多い時でも1か月に数人だ。

 でも、きっと小学校は通常の感染対策をとって、
2学期を迎えただろう。
 そう思っていた矢先だ。 
近所の子らが通う小学校が、
31日から当面の間、休校になった。

 新聞や市ホームページによると、
3名の子どもと教職員が、感染したことが判明した。
 なので、関係者のPCR検査の結果がでるまで休校するとのこと。

 小さな町である。
口コミ情報は、一気に広まる。
 私の耳には、こんな声が届いた。

 「最初、子どもが1人感染していることが分かったの。
でも、家庭内で他に感染者はいないの。
 それで、学校関係を調べたら、先生と子ども1人がコロナに・・。
どうやら、先生が札幌の結婚式で感染してきたらしいのよ。」

 事実かどうか、確かなことはわからない。
しかし、コロナが足もとまで来ていることは、事実である。
 だからと言って「PCR検査の結果がでるまで休校」とは・・・。
私の理解の範疇を超えている。

 昨年3月、当時の安倍総理大臣が、
『全国の学校を一斉に休校』にしたことを思い出す。
 当時は、今以上にコロナの正体が分からなかった。
だから、あのような乱暴な大なたを振るった。
 釈然としないままだが、私も多少は理解できた。

 しかし、子どもへの甚大なマイナス影響があった。
もう2度と、あのような施策は遠慮してもらいたい。
 それが、コンセンサスになっていたのではなかろうか。

 だから、多少のリスクはあっても、学校を開く。
そして、できるだけ安心して学校生活が送れるよう先生方は努力する。
 それが、今の学校に課せられた務めだと思っていた。

 さて、「PCR検査の結果がでるまでの休校」についてだ。
きっと校長は、保健所や教育委員会の指導・助言を受けて、
決断したのだと思う。
 難しい判断だとは思う。
多くの児童に感染させないための苦渋の措置と想像する。

 しかし、3人のコロナ感染者のために、
全校を閉じる。
 そのことに、多くの子どもと保護者は、
「もしかしたら感染しているのでは・・」と、
大きな不安を抱いたのではないだろうか。
 そして、「ただじっと家にいればいいの?」とも・・。

 学校は、どんな休校の通知を保護者に届けたのだろう。
学校のホームページにも教委のそれにも、その掲示はない。
 だから、私などの一市民が知る手段はない。

 もし私が校長なら、今回の休校措置の通知を、
どんな文言にするだろうか。
 まさか、「PCR検査の結果がでるまで休校にします」。
それだけでは、済ませないはずだが・・。


 ▼ 校長職だった時だ。
「迷走台風がどうやら首都圏を直撃するらしい!」。
 そんな予報が数日前から出ていた。

 前日には、早朝5時頃から10時頃までが、
暴風雨のピークになるようだと報道された。
 ちょうど登校時間と重なった。

 教委からは、「登校の安全を最優先に措置するように」と、
ファックスで通知が届いた。
 当時、私の勤務する区では、
区立学校に対する登校時間の一斉変更措置の施策はなかった。
 従って、各校の校長が個々に、
その判断をすることになっていた。

 私は、前日から学校に宿泊することにした。
副校長が女性だったこともあり、
1人校長室のソファーで、一夜を過ごした。

 夜が明けるにつれ、雨風が強くなった。
予報通りだった。
 登校時間を変更する場合の連絡は、
学級ごとの緊急電話連絡網を使うことになっていた。
 遅くとも6時までに判断し、
電話連絡を始めなければ手遅れになる。
 
 子ども達が登校する8時前後の様子が、
なかなか予想できなかった。
 共働きの家庭も少なくない地域だった。
突然の登校時間の変更があっても、
嵐の最中を子どもだけを置いて仕事に行くことになる保護者もいるだろう。
 親も子も、大きな不安を抱えることになる。
それでも、暴風雨の中を登校させることの危険性を回避しなければ・・・。

 慎重な判断が求められた。
私は迷った。
 時間だけが迫った。
「登校時間を10時30分に変更します」。
 受話器を持ち電話連絡を始めた時、
まだ学校には私だけだった。
 
 危機へのマネージメントは時に、孤独な場合がある。




    田園は もう秋の気配 
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子ども達の力に

2020-02-29 15:39:00 | 教育
 元々さほど多くの記載はないが、
3月、4月のスケジュール表に斜線が引かれ、
空欄ばかりになった。

 伊達では、総合体育館もトレーニング室も、
図書館も閉鎖だ。
 全国より早く、小中学校の休校が、
27日から始まっている。

 また全道では、感染者が拡大し続けている。
ついに『緊急事態宣言』まで出た。
 
 感染症の専門医が
「今回の新型コロナウイルスについては、
まだ分からないことが多い。」
と、口をそろえる。

 中国で発症してから2ヶ月になる。
しかし、今の医学をもってしてもなお、
この事態である。
 
 尋常ではない『流行病』に、
多くの人が、人ごとではない危機感、
恐怖感を持っている。
 言うまでもないが、私もその一人である。

 思い起こせば、2009年だったろうか。
当時は、新型インフルエンザが大流行した。
 
 その年は、再任用校長としてまだ小学校に勤務していた。
全学級の出欠状況の集計報告がある午前9時を、
毎日緊張感をもって待った。

 多数の欠席者が出た学級や学年に対し、
翌日からの閉鎖の判断をするのが、私の役目だった。
  
 あの時は、最長でも1週間程度でよかった。
それでも先生たちからは、学習の遅れや、
休み中の過ごし方への不安な声が上がり、
判断に迷う場面も少なくなかった。

 最も私が迷ったのは、運動会だ。
10月中旬だった。
 流行が下火になりつつあった頃だったのに、
運動会実施の3日前になり、学年の違う3つの学級で、
インフルエンザによる欠席が一気に増えた。

 学級閉鎖を即決した。
その上、翌日以降の推移は予測できなかったが、
病み上がり直後の運動会は避けた方がいいと考え、
運動会も延期することにした。

 問題はいつまで延期するかだった。
私は2週間後に実施するにした。
 それは10月末の日曜日である。
明らかにシーズン遅れだ。

 それでも、全校児童、全学年、全学級で、
運動会を実施したかった。
 もし、そこでも流行が治まらなければ、
運動会は中止にするしかない。
 それもやむなしと密かに気持ちを固めていた。

 学校へは1つも苦情もなかった。
そして、幸いなことにその後に学級閉鎖等はなく、
運動会は実施の運びとなった。

 まだまだ流行の不安は大きかった。
秋晴れの青空のもと、校庭に並んだ全校児童、全職員は
マスク姿だった。
 短距離走も、応援合戦も、すべての競技でマスクをした。
保護者にも来賓にもマスクをお願いした。
 それでも実施できた運動会に胸をなで下ろした。

 さて、今回の事態だ。
春休みを前倒しにした1ヶ月に及ぶ、全国規模の休校である。
 私が10年前に経験した新型インフルエンザへの対応とは、
規模が全然違う。
 
 だが、まずは基本に立ち帰りたい。
当時、『学校の危機管理』について、
職員に伝えたメモを転記する。

  *    *    *    *    *    

 1.二つの危機管理
  ・ 危機管理には「リスクマネージメント」と
  「クライシスマネージメント」の2つの意味がある。
   前者は危機をおこさないための管理のことであり、
  後者は危機発生後の適切な対応のことである。
   学校では前者への対応に重きをおく。

 2.危機への対応
  ① 日常の些細なことでも曖昧にしないで、
   「報告・連絡・相談」を常に心がけ、情報を共有する。
  ② 「危機意識をもつ」ということは、『危機』を恐れることではなく、
   「危機」を認識し、危機を防ぎ、危機が発生した場合には、
   それに的確に対応する姿勢をもつことである。
  ③ 1人で悩むことなく、課題や迷いは、
   多くの人と共有することによって解決の糸口が見つかる。
    従って、教師間のコミュニケーションを大切にする。
  ④ 実際の危機に近い状態での訓練を繰り返すことによって、
   冷静な判断ができないといった危険性は低くなる。
  ⑤ 危機は往々にしてゆっくりと発展していく。
   危機の初期に前兆を捉えることができれば、
   それだけ問題解決の可能性が高くなる。

  *    *    *    *    *

 こん日の学校の危機管理は、すでに「リスクマネジメント」から
『クライシスマネージメント」へと移行し、深刻な状況である。

 今は、長期休校中の対応が学校に求められている。
こんな大規模で、しかも感染症拡大を防ぐための休校など、
誰も経験がないだろう。

 多くの子どもが感染し、病に伏せている訳ではない。
子ども達は元気なのだ。
 でも、学校が、感染拡大の源になる恐れがあるから、
「子どもは家にいなさい!」なのだ。

 報道は、子どもを預けられない保護者の戸惑いを、
大きく伝えている。
 しかし、一番たまったもんじゃないのは、
子ども達なのだ。

 昨日の昼下がり、子ども達の様子が気になり、
散歩を兼ねて近隣の住宅地を歩いてみた。
 家の前で、縄跳びをする姉妹がいたが、
長続きはせず、家へ入っていった。
 他に子どもを見ることはなかった。
子ども達のこれからに、不安が大きく膨らんだ。

 今、子ども達がいない学校で、
先生たちは何をしているのだろうか。
 まさか、好機とばかり指導要録の記載や、
年度末の事務処理に時間をあててはいないだろう。

 長期にわたり子どもが学校に来れないのだ。
そんな学校教育の大きな危機をどうするのか。 
 その前代未聞の難題に、
各学校は、必死に取り組んでいるに違いない。

 もう一度、私のメモをくり返す。
 『些細なことでも曖昧にしない』
『危機に的確に対応する姿勢をもつ』  
 『課題や迷いは…共有することによって解決の糸口を見つける』
『前兆を捉えることができれば、…解決の可能性が高くなる』。

 あの3、11の夜、私の学校は帰宅困難者の避難所になった。
初めてのことで、職員室は混乱した。
 その時、私からの提案を受け止めた職員からは、
「じゃ、私は名簿を作ります。」
 「僕たち3人は、備蓄品の数を確認してきます。」
「校内への誘導をします。」
 こんな声が次々と上がった。

 『危機に的確に対応する姿勢をもつ』。
そんな事例だが、今は前例のない危機だ。
 だからこそ強調したい。
「知恵を出し合おう。」
 「英知を集めよう。」
「頑張れ、先生方!、子ども達の力になろう!」。

 結びになる。
すっかりスケジュールがなくなった私だ。
 だからこそ、老兵だが力を貸したい。
私にでもできることが、きっとあると信じている。

 「じゃ、私はこれを」
そう声を上げることができるものはないか・・・・。




  花壇の小さな針葉樹  もうすぐ春
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稚拙なエールだが 

2019-10-19 19:48:47 | 教育
 2ヶ月ほど前になるが、
東京都小学校児童文化研究会からたて続けに2つ、
原稿依頼が飛び込んできた。

 1つは、研究会の創立60周年記念誌へのお祝い文、
もう1つは、2月に開催される全国並びに東京都の
児童文化研究大会紀要への特別寄稿だ。

 研究会へは、久しぶりの執筆である。
あれこれと想いをめぐらせながら、
文字数制限内にまとめた。
 
 まだ早いと思いつつも、
その原稿をブログに載せることにした。

 私が書いたものが、どれだけのものか。
たかが知れている。
 でも、1日でも早く、後輩たちへ届けたい。
そこには、某小学校のあきれた蛮行への怒りがある。
 
 多忙を極めながらも、情熱を持ち続ける大多数の先生たち、
決してうつむかず、子どもに寄り添いながら、
あなたの歩みを、進めてほしい。

 以下、稚拙だが私からのエールのつもり・・。


 ① 60周年記念誌へ掲載文から

    60年に思いを馳せ

 昭和35年3月、本研究会は産声を上げました。
それから60年です。
 今日まで歩みをつないできた多くの方々と共に、
喜びを分かち合いたいと思います。

 さて、60年前にさかのぼります。
その年、私は北海道の田舎町、そこの小学5年生でした。
 「東京の偉い先生が、口演童話をしてくださる。」とのことで、
私たちは体育館に集められました。

 「東京の偉い先生」と聞いただけで驚き、
私は背筋をすっと伸ばして椅子の前の方に座り、
そのお話を聞きました。

 時に笑い、時にワクワクしながら、時間が過ぎました。
そして、最後にその先生は、私の心にある言葉を残してくれました。

 『人間、世のため人のために働くこと』。
それは、消防士のお父さんが幼い我が子に語ったものでした。

 初めて口演童話を聞いた60年前のことです。
なのに、それからずっとその言葉は、私に生き続けてきました。

 私の体験が、全てを語っているとは思いません。
でも、きっとそんなことが、私のように心を揺り動かし、
生きる力になっている方は少なくないと思うのです。

 だから、口演童話に限らず、
本研究会が提唱する数々の児童文化手法が、
今日も学校教育の場に受け入れられ、
脈々と力を発揮しているのではないでしょうか。

 60周年の節目にあたり、一少年の原画を記し、
応援歌とします。


 ② 第56回東京都児童文化研究大会紀要の寄稿から 

       児童文化手法とは

 本研究会の童話部に所属し、長年授業実践を重ねてきた先生が、
5年生道徳の授業をした。

 当然、初めの展開は、素話だ。
その日の子どもを念頭に吟味した話題を、
心のこもった口調で先生は語った。
 授業を見せてもらっていた私も、
子どもと一緒の気持ちになり、その語りに聞き入った。
 その後授業は、盛り上がり活気があった。
途中には白熱した話し合いの場面も・・・。

 その授業の終わりに、
「今日の道徳の時間はどうでした?」。
 先生は感想を求めた。
色々な意見が出された。
 充実した授業だったことを証明するかのように、
その多くは、授業を通しての道徳的気づきだった。
 それで、十分だ。

 ところが、「ボクも言いたい」。
声を張り上げた子がいた。
 指名を待ちきれず、勢いよく立ち上がりひとこと言った。
「ボクのために、先生が話してくれていたから、楽しかった」。

 「これだ!」。
私は、大きくメモした。
 素話は、子どもの反応を察知しながら、
一人一人の目を見て話す。
 その語りが、『ボクのために』と彼は受け取ったのだ。

 今回、私に頂いた寄稿依頼『児童文化手法とは』の回答は、
上記の一事で十分に示すことができると思う。

 しかし、類似したことは、素話に限らない。
全ての手法を列記する紙面がない。もう1つだけ・・。

 明日の授業を思い浮かべ、放課後の教室で準備を始める。
子どもが目をひきそうな人や動物、
背景を次々とデザインしたり選択したりする。
 そして着色と切り抜き。

 明日、子どもに伝えたい内容を練りながら、
それをパネル上で操作してみる。
 時間に追われながら、くり返しアイディアを絞り出す。
時には、新たなキャラクターを追加制作することも。

 そして翌日、
デジタル化した巧みであざやかな映像の対極とも言えるアナログ的手法で、
授業は始まる。

 先生が手作りした人や動物、山、木々が登場する。
そして、その1つ1つを張ったりはがしたりしながら、
先生の生の声が追う。
 パネルシアターが展開していく。

 子どもは、時に直感を働かせ、時に想像を膨らませながら、
白いパネルの上で進むストーリーを受け止めようと、
まなざしを輝かせる。

 3Ⅾ映像のような説明はできない。
しかし、子どもの思い描く力が、しっかりと補ってくれる。
 やがて表情が緩む。
それがいい。それが楽しいのだ。

 ゆったりとした空気、親近感が漂う。
パネルに張り付いた動物たち、そのギクシャクとした動き、
補足する先生の言動、見入る子ども。
 次第に教室中に親和的雰囲気が作り出されていく。

 さて、時代はPCからAIの時代へと移行している。
便利さの追求が、遂に日々の『冷暖』さえも追い越して行こうとしている。
 「時代に乗り遅れてはいけない」。
学校教育もついついそう焦ってしまう。
 私も同様傾向にあるが、立ち止まろう。

 実は、『ぼく(わたし)のため』と感じるような、
子どもに寄り添った温もりのある授業が、
強く求められている時代だと思えてならない。
 『児童文化手法とは』、それを実現するものと言いたい。





   朝日を受けた 私の町と噴火湾 
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これは 『喝』でしょう!

2019-09-27 22:00:18 | 教育
 ▼校長としてキャリアを重ねると、
自校のことだけでなく、教育委員会に関わる仕事も増えた。

 校長職5年目を迎えたとき、
区内小学校の宿泊学習に関わる役割が回ってきた。

 例年通りにその任を、進めていてもよかった。
しかし、懸案事項があった。
 校長会でそのことを図った。
全員から賛同があった。

 早速、教育委員会の担当部署に出向いた。
内容は金銭がらみで、難しいことは覚悟していた。

 実は、それまで5年生の宿泊学習は、
都内から区の施設がある栃木県まで、電車で移動していた。

 子ども達は、2泊3日の持ち物を、
大きなリュックに詰め、それを背負って電車に乗った。
 当然、一般客も同乗していた。

 大きなリュックが、通路や座席の邪魔になった。
ホームでは、すれ違いで肩がふれ、
双方がよろける場面もあった。
 それまでに、事故がなかったことが不思議なくらいだった。

 そこで、私たちは提案した。
「電車から貸し切りバスへ、移動手段を変えたい。」
 学校の近くから、貸し切りバスに乗り込むのだ。
リュックも同乗でき、一般の方との接触もない。
 今までよりも安全な移動方法だった。

 ここで、若干補足説明をする。
私が勤務していたS区は、
宿泊学習にかかる経費のほどんどを、
公費が負担していた。
 賄い費つまり3食の食事代以外は、区が支払うのだ。
素晴らしいことだ。

 なので、電車賃もS区が支出していた。
もしバスを貸し切りにしたら、その費用も区が出すことになる。
 それは、電車賃に比べるとかなり割高だった。  
1つの管轄部署で決められる額ではなかった。

 難しい提案に、担当部署は二の足を踏んだ。
だが、私は諦めなかった。粘った。
 ついに担当部署と二人三脚で、
必要な書類を持参し、理解を得るため説明に回った。

 最後は財政をまとめる部署から呼び出しがあった。
私には同席が許されなかった。
 そこまで私と一緒に奔走してくれた区教委の職員が、
頑張ってくれた。
 その必要性を緻密な文章にまとめ、訴えてくれた。

 翌年から、バスによる宿泊学習が始まった。
若干の達成感があった。
 同時に、私たち校長の提案を理解し、
一緒に頑張ってくれた担当部署の職員に感謝した。
 そして、バスによる移動に切り替えた区教委の英断にも、
同様の想いだった。

 その後も、様々な施策ついて、
私は1校の長として区教委に依頼した。
 その要望を受け止め、多くに応じてくれた。

 ▼ところがだった。
そんな私が、区教委の提案に反旗を掲げたことがあった。

 平成14年度に学校週5日制が完全実施された。   
年間40日程、授業日数が減った。
 減った授業数をどうするか。
大きな課題となった。
 学校も区教委も頭を痛めた。

 様々な議論があり、
いくつかのアイデアが浮いたり沈んだりした。
 その1つが、『学校年2学期制』の導入だった。

 区教委は主な導入理由を次のように示した。
『始業式、終業式、定期考査の回数が減るために授業時数が確保でき、
ゆとりある教育活動の展開に効果がある。』
 『教職員の意識を改革し、学校の教育活動の向上を図るために
様々な工夫に取り組む上で効果がある。』
 
 各地域・学校で、学校週5日制が実施されてから、すでに15年が過ぎる。
今では、授業時数の確保策として、
長期休業の短縮や土曜授業の復活等々がある。

 しかし、当時は確かに手詰まりだった。
その結果として、2学期制の導入が考え出されたのだ。

 だが、私はどうしても賛同できなかった。
学校における『学期制』を、私は教育活動の節目と認識していた。

 子どもは、区切りのその日をめざして、毎日を過ごす。
その節目の日が、各学期の終業式だ。
 その日、学習の成果を通知表として受け取る。
そして次の学期、再出発に新しい意欲を持つのだ。
 また新しい区切りの日を目指す。
それが、『学期制』の意味するものだ。

 その節目の機会が減る。
そこに、どんな良さがあるのだろうか。
 時数確保策としても、小学校ではそれ程の有効性はなかった。

 区教委が実施検討を始めた当初から、
私は、機会ある毎に異議を表明した。
 区教委は、私の発言に眉を寄せた。

 その様なことがあっても、
区教委は、すでに2学期制を導入した地方の学校への視察、
そして、導入後の学校から講師を招いての研修会など、
合意形成のために着々と動いた。
 
 そして、最初に中学校で実施し、
翌年には小学校にも、導入した。
 私の意見表明など、何の意味もなかった。

 今も私の考えは正当だと思っている。
しかし、施策実施に対し微塵も揺るがず、
着実にそれを進めた区教委に、
今も一目を置いている。

 学期制変更の専権は、教委にあった。
だから区教委は、2学期制の役割を検討し淡々と実施したのだ。
 授業時数確保の一策として、学校を援助する。
そのためのことだった。

 ▼それに比べてだ。
わが町、伊達での出来事だ。
 さほどのことではないとも言えるが、
いつまでも心に留まっている。

 まずは、9月某日の新聞記事を付す。

 『伊達150年記念事業と伊達青年会議所(JC、…)の
創立50周年事業を兼ねて8月31日に行われた
「ギネス世界記録に挑戦」で、小学校への参加要請が直前になったことが
12日に市議会一般質問で取り上げられ、
市側は「事前調整が必ずしも十分ではなかった」と認めた。

 「ギネス~」は8時間で50メートルリレーを走った
最多人数を更新しようと市総合体育館で行われ、
従来記録を大きく上回る1684人がバトンをつなぎ、新記録と認定された。

 大きく貢献したのが、市中心部の伊達小、東小、伊達西小の
児童約1060人の集団参加。
これについて吉野英雄議員が
「参加者募集など入念な打ち合わせに課題を残したのではーと父母からの声がある」
と指摘した。

 市教委によると、本来なら学校が年間行事を決める年度末までに要請すべきところ、
種目決定などの実務を担当するJC側の準備が遅れ、
さらに一般募集では約200人程度しか集まらず、
JCからの参加要請は結局6月になった。

 このため、各校長の裁量で休日だった土曜日の31日を登校日とし、
翌週の月曜日や金曜日を代休とするなどの措置を余儀なくされたという。

 答弁した市教委は
「JCには『急いでね』と言ったが・・」と苦い顔だった。』

 この記事を一読し、ため息がでた。
8月31日の舞台裏がこんなであったとは・・・。
 素晴らしいギネス記録更新も、冷めてしまいそうだ。
それにしても、市教委の『急いでね』と苦い顔には驚く。

 確かに、休日変更は校長裁量でできる。
その上、教育活動であるなら、
ギネスへの挑戦に子どもを参加させることも可能だ。
 全ては校長の裁量でできることだ。

 しかし、性急な上に、イベントの成否がかかった要請だ。
きっと3校の校長は、ノーとは言えなかったに違いない。
 各校長の苦しい胸の内が垣間見える。

 こんな時、校長の楯になるのが、
他でもない教委の役割だと私は思う。

 バス移動に切り替えたのも、
事故の全責任を負う校長を思ってのこと。
 賛同できなかったが、二学期制の導入も、
時数確保に苦慮する学校への想いからのこと。
 
 確かにそれとは異質とも言える。
でも、今回のわが町の教委の姿勢、
「これは『喝』でしょう!」と言う。 


  

    アヤメ川公園内の『水神』さま

     ※次回ブログ更新予定は、10月12日(土)です
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