ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

私にできることって・・?

2023-04-29 14:51:18 | 北の湘南・伊達
 ▼ 「私は大変興味を持ったのですが、
もしかしたら、何の役にも立たない情報かも知れません。
 少しだけ時間をください。」

 先日、全役員を対象にした自治会の会議があった。
自治会長として初めて挨拶に立った。
 途中から切り出した言葉が、冒頭の一文である。

 私が居住する地元自治会は、加入世帯が820世帯である。
市内では、大きな自治会の1つで、
出席を求めた役員の数は75人にもなった。
 今回はその内の約50人が出席した。
思い出すまま、話の内容を再現してみる。
 
 ▼ 4月9日は総会で、私が会長に選任された日です。
たまたまその日、朝日新聞と北海道新聞の2紙に、
自治会活動に関する同じ内容の記事が載っていました。
 今日は、その記事を切り取って持ってきました。
まず、その記事を紹介します。

 朝日新聞のそれは、なんと1面のトップ記事でした。
驚きました。
 大見出しは、「自治会活動 曲がり角」です。
そして、小見出しが2つ。
 「加入率低下、役員高齢化 解散も」
「防災・防犯に懸念」です。

 記事の書き出しはこうです。
『自治会(町内会)の活動が岐路に立たされている。
 加入率が下がり、役員のなり手がいなくて解散や
合併を選択するところも。
 地域コミュニティーを、誰がどう支えていけばいいのか。』

 東京都内の某自治会を取り上げた記事を読み進むと、
『役員の多くは70~80代。
役員になりたくないと退会する人もいて、
なり手がおらず、同じ人が続けるしかない」
と、ありました。  

 そして、こんな一文も。
『総務省の調査によると‥加入率は、
10年度の78,0%から20年度は71,7%に減った。
 自治会の課題として「役員・運営の担い手不足」(86,1%)、
「役員の高齢化」(82,81%)などが上位に上がっている』と。

 続いて、同じ日の北海道新聞の胆振版ですが、
『人口減・高齢化 地域の衰退が深刻化』の見出しと一緒に
『町会維持に影 消滅続出の懸念』の小見出しがありました。
 そこには、なんと91歳になる町会長さんが紹介されていました。
 
 その会長さんは、
「私や副会長の後継者が見つからず困り果てた」と言い、
4月の改選を前に後任は見つからず、
「会が無くなれば先輩方に申し訳ない」と、
続投を考えていると言うのです。

 さらに、この記事は、自治会の今後についてこう解説していました。
『定年延長や年金減額で60歳以降も働く人が増え、
役員のなり手不足はより深刻になる』と。

 さて、このような状況下について、
私たち自治会はどうなのでしょうか。
 まず加入率の現状ですが、76,76%です。
この5年間、加入世帯数が横ばいですから、
加入率に大きな変動はないと言えます。

 この比率がいいのかどうかですが、
同じ規模の近隣自治会を調べてみました。
 A自治会は65,38%、B自治会は58,65%でした。
私たちの自治会の加入率はきわめて高いのです。
 また、記事にありました全国平均71,7%も上回っています。
この水準を、今後も維持していけたらいいと、
若干ホッとしました。

 もう1つの役員の高齢化についてはどうかです。
今年度の役員改選にあたり、各ブロックの会長・副会長、
総務が、今日ご出席の皆さんに役員の依頼に伺いました。

 その折りに、頂いたお返事としてしばしばお聞きしたのは、
「もう歳だから、でももう少しがんばります」の声でした。
 時には「2年後には、誰か新しい人と代わってほしい」
の念押しもありました。

 役員高齢化の波は、私たち自治会にも間違いなく押し寄せているのです。
これは、人ごとではありません。
 新聞の2つの記事を読みながら、
そんなに遅くない時期に曲がり角がやってくる。
 いや、もしかしたら私たち自治会も、
もう曲がり角なのかも知れないと感じた次第です。
 
 しかし、地域の環境美化を始め、
気候変動や有珠山の噴火に対する防災、
昨今の高齢者を狙った詐欺や強盗への防犯など、
少しでも居心地のいい安全安心な街は、私たち誰もが望むことです。

 そんな街づくりの一端は、そこに暮らす私たちによる自治組織が担っています。
行政や警察だけに任せていては、実現しないことです。
 自治会は、暮らしに欠かせないものなのです。

 だから、加入率低下と役員高齢化と言う課題に、
今後どう応じていくのか。
 皆さんと一緒に色々と知恵を出し合い、
なんとかこの課題をクリアーしたいと思っています。

 長々とお喋りしてしまいました。
失礼致しました。

 ▼ 自治会の今後について、私の想いを話し終えた後、
どれだけ心に届いたか不安になった。
 でも「声にしない訳にはいかなかったことだったから」と、
自分を納得させた。

 さてさて、「今後私にできることって何?」。
引き受けた重責にやや心を重くしながら、
帰り支度を始めた。

 「もっと気楽にやっていいんじゃない」。
私の肩をポンと叩き、会場を後にした方がいた。
 思わず「ありがとう!」と、その背中を見た。

 
 

     ジューンベリー 開花宣言
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「また来年 必ず走りに・・」

2023-04-22 10:29:54 | 北の湘南・伊達
 日曜日に『第36回伊達ハーフマラソン』があった。
コロナ禍で2年連続で中止になったが、昨年に続き開催された。

 しかし、以前とは若干様相が違う。
昨年はハーフのみ、今年はハーフと10キロで、
5キロがなくなった。
 しかも、今年はコースが変更に。
私見だが、走りながら目に入る伊達らしい景観が減り、
若干魅力が欠けてしまった気がする。

 この大会に私は過去6回エントリーした。
5キロ1回、10キロ1回、ハーフ3回、完走した。
 ハーフで1回、途中棄権がある。

 なのに、昨年今年と連続してエントリーを見送った。
特に、今年は左膝の状態が思わしくなく、
迷うこともなく、ハナから諦めた。

 当日は、雨模様の上、気温が低くかった。
ご近所で10キロにエントリーした方も、
「寒いから」と出場を取りやめた。

 しかし、ハーフに約1300人、10キロに約700人が走った。
コース変更で、我が家横の『嘉右衛門坂通り』が、
10キロの往復とハーフの復路になっていた。

 実は、出発の花火が鳴るまで、沿道で応援する気などなかった。
しかし、花火の炸裂音が上空に轟くと、
小雨の中、走り出したランナーの姿が脳裏に浮かんだ。

 突然、心変わりした。
「この悪天候の中、果敢にチャレンジするのだ」。
 自分のペースをしっかりと刻み、淡々と走り続けた経験者として、
こんな時こそ沿道での声援が力になると思った。

 急いで防寒対策をし、『嘉右衛門坂通り』に立った。
幸い空を覆った低い雲から雨は上がっていた。

 そこを次々とレインウエアーの10キロランナーが走り抜けていった。
鍛えぬかれたアスリートランナーらの後ろから、
市民ランナーが、走り始めて1キロ余りの緩い上り坂を、
荒い息で通った。

 家内と私だけの沿道で、手を叩きながら、
「頑張って! 頑張って!」と言い続けた。
 全員が通り過ぎると、今度はハーフのコースへ移動した。

 同じように声援を送っていると、
何年も前に一緒に練習したことのあるランナーが、
1人2人と私を見つけ、コースから明るく手を振ってくれた。
 嬉しくなったのは私の方で、やや不思議な気持ちになった。

 さて、声援も後半のことだ。
ちょっとしたドラマがあった。
 それはレースも最終が近づいていた頃だ。

 10キロとハーフのランナーが、
一緒になってゴールを目指していた。
 私は、拍手をしながら声を張り上げていた。

 「ゴールまで残り1キロです!
後一息、頑張って!」。
 遅いランナーほど、苦しい表情をしていた。
その一人一人を見て、同じ声援をくり返した。

 その声援に、大きくうなづく人。
笑顔を返してくれる人。
 手を挙げて答える人。
苦しいのに「ありがとう」という人。
 長い時間、声援を続けたが、報われた思いがした。

 そんな時、10キロの男性ランナー1人が、
コースの車道ではなく、歩道を弱々しく歩きながら、
私の後ろを通った。

 そして、すぐ横のブロック塀に手をかけ、立ち止まった。
表情がくもり、苦しそうだった。
 放っておけなかった。

 「大丈夫ですか?
車でゴールまで送りましょうか?」
 近づいて声をかけた。
同世代の初老だった。
 「ゴールまでどのくらいですか?」
「まだ1キロはあります」。
 彼は、答えに迷っているようだった。

 「そこに駐車してあるのが私の車です。
車のところまで歩けますか?
 すぐにキーを持ってきます。
その前で待っていて下さい」。

 なかば強制的だったが、
家に入りキーを持って出ると、
彼は、車の前に座り込んでいた。
 
 ゆっくり助手席に移ると、
「助かりました」と頭をさげた。
 「ゴール近くまで送りますね」。

 慎重に車を発進させた。
すると彼はゆっくりと話し始めた。

 函館から参加しました。
函館マラソンも走った経験があります。
 コロナで大会がなかったこともあり、
マラソン大会は6年ぶりの出場でした。
 半年前からこの大会の10キロのために、
トレーニングをしてきました。
 調子がよかったので、今日は自信があったのですが、
なのに折り返してからおかしくなってしまいました。
 ついには6キロからもう走れなくなり歩いてしまいました。

 彼の1つ1つの話に、私は「そうでしたか」と
相づちをうちながら、無念さに共感していた。

 マラソン会場が近づき、
車を止め、そこから先の道案内をした。
 彼は、車を降りながら帽子を取って言った。

 「ご親切にお礼を申し上げます。
私はYと言います。
 素晴らしいこの街に、また来年必ず走りにきます。
今度こそ完走します。
 ありがとうございました」。 

 勢いよくドアを閉めようとする彼に、
私は思わず訊いた。
 「あのー、お幾つになられましたか?」。

 はっきりとした声が返ってきた。
「79才になりました」。
 バターンとドアが閉まった。
急に胸が熱くなった。

 一礼し車を見送る彼に、
ハンドルを握ったまま、小さく呟いた。
 「負けられない! 見ていろ、来年!
必ず、私も!」。
 また、チャレンジャーになっていた。




     エゾムラサキツツジ 満開!
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カルルス温泉 高1の夏

2023-04-15 12:43:48 | あの頃
 11日は私の誕生日だった。
ついに後期高齢者入りである。
 それを理由にし、今も姉が勤務する登別温泉の旅館に、
一泊することにした。

 登別は、車で小1時間程度だが、
なかなか足を向けることがない。
 久しぶりに名所『地獄谷』でも見学しようと、
早めに出かけてみた。

 行ってみると案の定、すぐに興味が薄れた。
チェックインまでの時間を潰す策を探した。

 思いついたのは、
登別温泉からさらに山奥に10キロ弱の
「カルルス温泉」だった。

 この温泉は伊達に移った年の秋、
日帰り入浴して以来だから、10年ぶりになる。
 数件の温泉旅館と近くにスキー場があるだけだが、
辺りの様子をみようと車を走らせた。

 オロフレ峠に向かう道路から、
『カルルス温泉』の表示に従い左に曲がった。

 すぐ目に飛び込んできたのは、
玄関ガラスも窓ガラスも割れ、
所々は窓枠もはずれた廃墟と化した旅館だった。
 その無残さを直視できなかった。

 道を挟んだ向かいの温泉施設は、営業していた。
しかし、建物の外壁は何カ所も朽ちていた。
 さびれた温泉郷の印象を強くした。

 ゆっくりと車を進めてみた。
点在している民家も半数以上が無人で、
荒れ果てたまま放置されて・・・。
 営業している旅館はあったが。
人気はなく閑散として・・・。

 そんな様子を見ながら、助手席に座る家内に、
私は、言い訳がましく何度も同じことをくり返した。

 「昔のカルルス温泉はこんなんじゃなかった。
確かに昔も山間の温泉だったけど、
もっと活気があった。
 こんなんじゃなかったよ!」。

 言いながら、フロントガラスごしの山々と川の音が、
60年も前のことを、ふと思い出させた。

 それは中学3年の時、仲良しになった男5人で、
高1の夏にここを訪れた時のことだった。

 中学を卒業し、私たちは3つの違う高校へ進学した。
だから、夏休みに入ってすぐ、久々の再会を喜んだ。

 中学の思い出話で盛り上がった。
支笏湖のキャンプが話題になり、
「もう1度、テントで1泊したいね」と話が進んだ。

 「じゃ!この夏休み中に」と決まった。
誰からの提案か、どうしてそこなのか、
経過も動機も思い出せない。

 とにかく、お店からテントを借りて、
キャンプ場などないカルルスで、
2泊3日のキャンプをすることになった。

 終点のカルルス温泉でバスを降りた。
それぞれ分担した荷物を背負って、
温泉宿の間を流れる川のそばを上流へと進んだ。

 平坦な河原があったら、
そこにテントを張る計画だった。
 30分は歩いただろうか、手頃な場所があった。

 川の音が絶えないそばにテントを張った。
風もない静かな山間だった。
 絶好のキャンプ場所に、5人とも興奮していた。

 何を食べたか忘れたが、やがて真っ暗になり、
5人でならんで毛布にくるまり、テントの中で横になった。
 なかなかす寝付けなかったが、いつしか雑談も終わった。

 ところが、深夜、テントをたたく激しい雨音で目がさめた。
暗やみの中、5人ともじっと寝ていた。
 雨は激しくなるばかりだった。

 ついに雨水がテントの隙間から入ってきたよう・・。
毛布まで濡れ始めた。 
 地面に置いたままのリュックにまで、雨水が迫っているみたい・・。
みんな起き上がって、ろうそくの明かりでテント内を見回した。
 ジワジワと雨水がテントに入ってきていた。 

 「しまった。テントの周りに溝を掘り忘れた」。
誰かが言った。
 シャベルなどない。
でも、ずぶ濡れ覚悟で5人ともテントから出た。
 1本の懐中電灯をたよりに、
豪雨の中、素手でテントの周りに溝を作った。
 「うまくいった!」。
雨水の浸入は止まった。

 濡れた服のままテントの中で朝を待つことになった。
横になれなかった。
 濡れていない場所を探して座った。
長い時間だった。
 「これもいい思い出になるサ」。
「そうだよ!」と言いあった。

 明るくなるのと同時に雨が上がった。
濡れていない着替えをもって、
バス停近くの温泉宿へ行った。

 事情を話し、温泉で温まりたいと頼んだ。
冷えた体が温泉の温もりで生き返った。
 湯船に浸りながら、5人は次第に饒舌になった。
ホッとする最高の時が流れた。

 お礼を言い、その宿を出る時、
ご主人からどこにテントを張ったか訊かれた。
 おおよその場所を説明した。

 すると、
「あそこは、危ない。ダメだ。
クマがでるところだ。
 テントをたたんで、
急いで戻ってきたほうがいい」。
 真顔で言われた。

 一気に湯冷めしたように、体中が固まった。
誰とはなく、目があった。
 そして、「はい!」の返事も忘れ、
濡れた服の包みを道路脇に放り投げ、
5人とも走りだした。
 
 息をきらしながら、川沿いの道を駆け上った。
テントまで着くと、熊が現れないことを願いながら、
帰り支度を急いだ。 

 それぞれリュックを背負い、温泉宿が見える所まで戻ったとき、
はじめて川の大きな音に気づいた。

 大きく息をはきながら、「どうする?」と。
「どこか違うところでもう1泊キャンプする?」。
 みんなの気持ちは一緒だった。
「次のバスに乗って、帰ろう」。
 反対する者はいなかった。

 何も話さず、バス停のそばに座って待った。
車内でもみんな無口だった。
 それは、それぞれ帰宅したときの、
1日早い言い訳で頭がいっぱいだったからだ。




エゾノエンゴサク ~水車アヤメ川自然公園
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近所の子 やり取り2つ

2023-04-08 10:46:03 | 北の湘南・伊達
 新学期が始まった。
初日の朝は小雨模様だった。
 それでも、登校する子ども達に、
ひと声かけたくて自宅前まで出てみた。

 100メートル程先の十字路で、
黄色い旗を振る雨合羽の男性がいた。
 登校日には欠かさず、
子どもの見守りをしてくださっているのだ。
 
 今年度も自発的にお2人の方が、
いつもの場所で続けてくれるようだ。
 何歳も年上だが、私にはできない献身である。
ただただ頭が下がる。

 さて、その黄色い旗の前を通る近所の子どもだが、
この冬にあったやり取りを2つ記す。


 ① 冬至が近づいていた頃のことだ。
3時半をまわると、まもなく黄昏時になる時季のこと。
 その日は曇り空で、外は冷え込み始めていた。

 何気なく2階の窓辺に立つと、
見慣れた少年がランドセルを背負ったまま、
自分の家の玄関前に屈んでいた。
 家の人と待ち合わせをしているのだろうと、
気にも止めなかった。

 ところが、10分が過ぎただろうか、
買い物から戻った家内が、
「私が出かけたときから、
ずっとあの玄関前にいるんだけど・・」
と言う。
 もう、30分以上も外に座っていることになる。
急に心配になった。
 
 最初は、家内が声をかけに行った。
答えは、
「今日はカギがない。
 だから、誰か戻ってくるまで待っている。
大丈夫です!」だった。
 少年は高学年になり、体ががっしりしてきた。
そう言うのならと、静観することに・・。

 それからまた30分程が過ぎた。
薄暗くなってきた。
 今度は、私が声かけに行った。
「寒くなってきたから、私の家で待つことにしよう」。
 しかし、少年は「大丈夫です!」の一点張り・・。
ここで家族の帰りを待つとくり返すばかり。

 「じゃ、ホッカイロでも背中に貼ろうか?」
私のこの提案には、素直にうなずいた。

 「風邪でもひいたら大変!」。
走って自宅から使い捨てカイロを握って戻った。
 そこに、ご近所の奥さんが走り寄ってきた。
「今、お婆ちゃんに電話したから、
もうすぐ迎えにくるからね」。

 「よかった。助かったね」。
そう安堵する私から、少年はカイロを受け取ると、
急いで背中に貼ろうとした。
 よほど寒かったのだ。
「ここまで、よく頑張った!」。
 そう思いながら、カイロを貼る手助けをした。

 さほど時間をおかずに、お婆ちゃんが駆けつけた。
どうやら待ち合わせの約束に行き違いがあったらしい。
 お婆ちゃんは、私にもご近所の奥さんにも、
「ご迷惑をかけて」と恐縮した。

 私は、明るい声で応じた。
「なかなかですよ。
この子、根性ありますよ。
 何を言っても、ここにいる。
大丈夫ですって言い続けたんですよ。
 大した根性ですよ。
立派!」。

 数日後、両親からもお礼を言われた。
私は、同じように「根性ありますよ!」をくり返した。
 私なりの褒め言葉のつもりだった。
きっと両親は、そのまま受け取ってくれたと思う。


 ② 地元新聞に、賞状を両手で持った
見慣れた顔の少年の写真が載っていた。

 道産食材の美味しさをアピールするポスターコンクールで、
最優秀賞を貰ったと言う記事だった。

 美味しさが伝わるよう口をいっぱいに開けた子の嬉しそうな顔が、
画用紙から飛び出しそうに描かれた絵の写真も、一緒に紙面にあった。

 出来上がったポスターがよくできていたので、
お母さんが応募先を探してエントリ-したと、
記事には加えられていた。

 我が子の秀作を認めてもらおうと、
応募した母親の行動にも心打たれた。

 その子は、ご近所の2年生で、
毎朝、お兄ちゃんらと一緒に我が家の前を通って、
登校していた。
 記事を見て、いつかお祝いのひと言を伝えたくなった。

 朝の雪かきが続いていた。
登校時間と私の雪かきが重なった日だった。

 厚手のスキーウエアにニット帽で、
その子は3つ年上のお兄ちゃんとやってきた。

 私はいい機会だと思い、雪かきの手を止め声をかけた。
「この前、新聞で見たよ。
美味しそうなポスターでした。
 最優秀賞、おめでとう!
すごいね」。
 その子は、少し照れながらニット帽をとって、
うれしそうに「ありがとうございます」と微笑んだ。

 てっきり、横にいるお兄ちゃんも笑顔かと思った。
ところが、無言でさっと弟から離れ、足早に先を急いでいた。
 いつものやさしいお兄ちゃんじゃないような気がした。
違和感があった。

 突然、実に独りよがりな私の連想が始まった。
『弟は、1年生の時も地元紙に載った。
 その時は作文コンクールでの受賞だった。
今と同じように、登校時にお祝いを言った。
 弟は2度も受賞し、新聞に載った。
きっと、兄は複雑な気持ちになっているに違いない』。
 2人の後ろ姿を見ながら、勝手に切なくなった。

 ところが、弟の後ろ姿は小走りで兄を追った。
兄は一瞬立ち止まり、近づいた弟の肩に手をやった。
 何やらうれしそうに話しかけ、
それに弟は大きくうなずいていた。

 「とんだ思いすごしだ!」。
私の愚かさを笑いながら、再び雪かきを続けた。 

  


   エゾノリュウキンカ ~だて歴史の杜『野草園』
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先 日 桜 道 に て

2023-04-01 10:51:16 | 思い
 ▼ この地に居を構えたのは、2012年6月だ。
指を折って何度数えても、それから11回目の春になる。
 64才だった私は、とうとう75才になろうとしている。

 当初は、毎日欠かさなかったジョギングも、
膝のケガもあって、今は月2,3回止まり。
 マラソン大会へのエントリーなんて、
「夢のまた夢」になった。
 
 そして、家内との会話に至っては、
「あれ、どこに置いたっけ?」
 「あれって、なに?」
「あれさ、さっき使っていたあれ」
 「あっ、あれね。そのへんで見たけど」
「そのへんって、どのへん?」。
 リアルに老化が始まっている。
人ごとのように笑ってなんかいられない。

 ▼ それどころか、老け込んでいられないことが始まる。
まずは、移住を決めた時の長男とのやりとりから書き始める。

 「もともと北海道の人だから、
東京に執着心がないことは、僕ら2人(長男と二男)とは違う。
 でも、今更、わざわざと思うけど・・・」

 「そう思うのは 当然だよ。
だけどね、ここにいると退職した後の自分の先々が分かるんだ。
 きっとこんなことをして、こんなことがあって、
こんなことを思って、こんなことをするだろう。
 この先がだいたい想像できるんだ。
それを変えようとしても、さほど期待できない。
 つまらないんだよね」。

 「だから、ここを離れるっていうこと!?
別のところで暮らしたら、なにか違う先があるかもって!
 それを期待しているの?」。

 「そんな感じ。
知人も友人もいない土地で、
どんな生き方ができるのか、見当もつかない。
 何をしようとするのか、何に目が向くのか、
想像もできない。
 どんなプランも今は描けない。
先々どうなるか、何も分からない。
 だから、このままここで暮らすより、断然惹かれるんだ。
もしかしたら、とんだ期待外れになるかも知れないけれど、
でも・・・」。

 やや呆れ顔になっていたが、
長男は最後まで私の話に付き合ってくれた。

 ▼ それから11回目の春が来た。
先日、東京に1週間程滞在した時だ。
 早咲きの「高遠コヒガン桜」が満開を迎えた
世田谷区の蘆花恒春園まで、長男が案内してくれた。

 その桜道を歩きながら長男に、
機会をみて話そうと思っていたことを口にした。
 「4月から、地元の自治会長をやることになったんだ」。

 一瞬、間をおいて長男は、桜を見上げながら、
「10年が過ぎて、自治会長か。
 やはり、どこへ行っても変わらなかったのと違う?
こっちにいても同じようなことをしていたんじゃない!」。

 何かで後頭部を一撃されたような、強い衝撃だった。
思わず「そうかも!」と言いながら、
この10年が脳裏をかけ巡った。

 そして、
「自らの意思で、自治会長への階段を上った覚えはないけどなあ・・」
と言い、ゆっくりと歩を進めながら、この10年を語った。

 ▼ 高速道の有珠山サービスエリアからは、
伊達の市街地が一望できた。
 初めてその高台に立った時の景色は、
ここを終の棲家にしてもいいと思わせるものだった。
 それから2年をかけ、転居した。

 新しい環境は、刺激的だった。
四季の移ろいに、毎日心を奪われた。 
 人とのつながりも、少しずつ広がった

 そして、6年前の春、
私1人の午後に、インターホンが鳴った。
 私たちをパークゴルフの会へ仲間入りさせてくれた方だった。

 「自治会の総務をお願いできないか」と頭を下げられた。
急のことで、お断りする適当な理由が思いつかなかった。 
 2年間、総務の任を引き受けた。
 
 その仕事の合間に、
3・11の夜に校長として帰宅難民の避難所を、
切り盛りした経験を口にした。 
 そんな経験があるならと、防災の仕事が舞い込んできた。

 4年前、「自治会の防災リーダーに」と電話がきた。
「他に適任者がいないから」と言われ、拒めなかった。

 そして2年前、長年自治会副会長を務めた方が、
高齢のため退任することに・・・。
 私に「副会長を」と自宅までやってきた。
防災の仕事を理由にためらった。
 「私はもうできない。今後はあなたに」。
ついに押し切られた。

 そして、今春だ。
会長が、体調不安のため退くことになった。
 会長を続けることに家族が同意しなかったようだ。
「私の次は、あんたがやることに決まっているから」。
 それ一辺倒だった。

 ▼ 長い長い私の話だった。
それを聞き終えた長男は静かに言った。

 「そんな展開は、特別なことじゃないよ。
伊達でなくても、ありえたことでしょう。
 そう思って、やるしかないよね」。

 人により励まし方も様々だ。
我が子らしさが、じわりと染みた。

  
 

      麦畑だけは 青々 
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