ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

伊達版 ・ OH! ラーメン

2016-08-27 11:21:10 | 北の湘南・伊達
 「だて歴史の杜公園」の正面に、
『道の駅・伊達市観光物産館』がある。

 小耳にはさんだ情報では、
開設には、様々な意見があったようである。
 しかし、「やってみなければ…」との思いで、
5年前、新築・営業を始めた。

 これが、見事に大当たり!
2年前には店内の拡張までした。
今は、道内屈指の来場者数、売り上げ高を誇る道の駅になり、
胸を張っている。

 その物産館のコーナーに、伊達オリジナルのチラシが、
数種類、置いてある。
 その1つが、『伊達 ラーメン地図・マップ』である。

 「伊達市民の魂飯・ソウルフード教えます」
と、チラシの片隅にある。
 どうやら、市外からの来場者を対象にしたもののようだ。
どのような基準で、そのラーメン店が選ばれたのか、
私には分からない。
 いずれにしても、市内の6つの専門店が紹介されている。

 チラシには、その店の看板ラーメンや店の案内図と共に、
『こだわりの秘訣』と題するセールスポイントが記されている。
 私は、その全ての店の暖簾をくぐっているが、
その『秘訣』には大いに納得している。

 まずは、6店のそれを写す

 A 宇宙軒 <みそチャーシューめん>
 岩見沢に本店がある宇宙軒は伊達に来て20年、
多くのファンを生んできた。
10年前代替わりをしており、
受け継がれるこだわりのスープは、
日夜修業をしてやっと出せる味。
白みそベースで、とんこつの生骨からつくり出される。
また、麺にもこだわりがあり、
味を優先して西山製麺の若い麺を使用。
長年守り続けているこの一杯の味を少しでも変えると、
常連客に怒られるほど。
長年愛され続けている証拠でもあります。
 
 B じぇんとる麺 <伊達スペシャルラーメン>
 13年間地元に愛され続けるじゃんとる麺、
マスターも又、伊達を愛してやまない一人。
「伊達スペシャルラーメン」は、
スープと具材を伊達産の材料を使用した地産地消の一杯。
クリーミーでごまの風味のきいた濃厚スープは伊達牛乳を、
とろけるような肉とホルモンはオオヤミートブランドの黄金豚、
その他野菜類は伊達産と大滝産を使用している。
伊達産食材を贅沢に楽しみたい方に、オススメしたい一杯。

 C 突撃ラーメン <みそラーメン>
 突撃ラーメンは、創業33年間伊達市民の胃袋を満たしてきた。
昔ながらの懐かしい味が今も変わらず、常連客は勿論、
初めて食べる人も親しみのある一杯を楽しめる。
今は2代目店主が12年前から後を継いでおり、
市民の味を守り続けている。
麺にもこだわりがあり、なんと自社工場で独自に麺を作っている。
徹底した設備と職人の技で、これからも伊達の味を守り続ける。

 D 味 楽 <醤油ラーメン>
 味楽は創業40年以上経つ、錦町の老舗ラーメン店。
昼食はもちろん、飲んだ帰りに立ち寄るのもオススメの一軒。
味楽の代名詞とも言える濃い色のスープが特徴の醤油ラーメンは、
意外にも見た目に反してくどくなく、
唯一無二の味と定評がある。

 E 元祖鶴つる亭 <ネギしおラーメン>
 鶴つる亭は、こだわりの豚骨ベースのスープに定評がある。
出汁が十分に行き渡ったその味は、
一杯れんげで飲めば風味がたちまち口の中で広がり、
不思議と二杯 三杯…とやみつきになるほど。
ひき肉も入っており、これがまたスープとの相性が○。
チャーシューも厚くボリュームがあり、
サイドメニューのチャーシューおにぎりは、
ラーメンと肩をならべるほどの人気。

 F 火 蔵 <ホルモンラーメン>
 火蔵が10年間日々尽力するラーメン造りは、
スープは勿論、チャーシューやメンマも全て手作りで、
抜かり無しの丁寧さがモットー、
こだわりの下拵えで生み出される豚骨ベースのたれは、
くさみが少なく、最後の一滴まで飲み干したくなる一杯を生み出す。
また会計時に次回来店時に使用できるトッピング無料券が付くので、
リピーターの多さもうなずける。

 6店が、この街で長く店を構えているその訳が、
この『こだわりの秘訣』からも垣間見ることができる気がする。
 どの店も、ご夫妻が主となった家族経営の小さな店構えである。
1度だけでなく2度3度と足を運びたくなる。
実際に、私はそうしている。

 伊達には、他にも自慢のラーメン店は、いくつもある。
国道沿いだけでも、
『味の時計台』『山岡家』『麺蔵』『チャーシュー工房』と続く。
 それぞれ好みはあろうが、
私には、その店らしい味がして、どこも美味しい。

 さて、半年近く前だが、
突然店を閉じたラーメン店がある。
 その店は、市街地から若干離れた、
「稀府」と呼ばれる地区にあった。
 我が家からは、車で15分はかかるだろうか。
  
 畑が続く国道脇のその店の駐車場は、
舗装もされておらず、周りには雑草が生い茂っていた。
 築数10年と言った板張りの薄汚れた平屋の店だった。

 私がその店の暖簾をくぐったのは、
伊達の主な店のラーメンを一度は味わった後である。
 店の外観が、あまりにも古びていたことが、
私をためらわせた。

 店内は、7,8脚の椅子があるカウンターと、
小上がりに、テーブルが4,5台置かれていた。
 案の定、板敷の床は、所々ギーギーと音がした。

 私よりやや年長のご夫婦二人で切り盛りしていた。
 最初に店を訪ねた時から、
何となく穏やかな空気が流れている店だった。
 外観のイメージとは、大きく違っていた。

 ある日、注文を終えて待っていると、
新しい客がガラス扉を開けて入ってきた。
 ご主人が、すかさず「いらっしゃい。」と声をかけた。

 丁度、奥の席にいた客の注文が出来上がり、
奥さんがそのラーメンを両手で持ち、厨房から出てきた。
 入店してきた客には気づかず、
熱々のラーメンを持った腕がその客に触れた。
 奥さんは、「キャーッ」と小さく声を上げ、
厨房へ一歩退いた。
 ご主人がすぐに、客に静かに頭をさげ詫びた。

 そして、奥さんに明るい表情を向け、
「大丈夫、大丈夫。」と励ました。
ご主人自らが、その器を持ち、
奥の客にラーメンを運んだ。

 来る日も来る日も、二人だけで切り盛りする店である。
こんな時はギスギスしてもいいはずである。
 なのに、何気なく支え合う二人の姿に、
私は心が温かくなった。

 そんな二人が作る一杯である。
美味しくない訳がない。

 この店のみそラーメンは、
私が今までに食べた同じ味のものでは、
自信満々で一番をつける一杯である。

 今年3月初旬、寒い夜だった。
「今夜は、『竹よし』のラーメンが食べたい。」
と、車を走らせた。

 定休日でもないのに、店は真っ暗だった。
ヘッドライトの明かりで店を照らした。
『閉店のお知らせ・長い間お世話になりました。』
 小さな張り紙が、窓の隅にあった。
Uターンした道々、握るハンドルに力が入らなかった。

 「ご主人が、健康を害した。」
それが閉店の理由だと、風の便りで耳にした。

 何年いや十数年も前のことだろうか。
『竹よし』の味に惹かれた客が、脱サラして、
その店で修業した。
 そして、隣街・室蘭で『ラーメンハウス竹よし』を開いていた。

 つい先日、その店を訪ねた。
みそラーメンを注文した。
 同じような味なのだが、どこかが違っていた。

 もう一度、健康を取り戻し、
あの味を提供してもらえないだろうか。
 ああ、『竹よし』のみそラーメンが食べたい。
ご主人に、エールを送りたい。




  水車アヤメ川自然公園の朝

 
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続 ・ OH! ラーメン

2016-08-19 18:13:50 | あの頃
 ⑤ 私が担任した学級の子ども達は、
どう言う訳なのか、給食をよく食べた。
 食べ残しに困ったことなど、なかった。

 2年生を担任していたある日、
いつになく子ども達が上機嫌だった。
 給食の献立が、松茸ご飯だったのだ。

 配膳が済み、食べ始めた。
すると、口数が少なく控え目な男の子が、
シクシクと泣き出した。

 その理由を尋ねると、
「隣の女の子には、松茸が3つ入っているのに、
僕は2つしかない。」と、言う。

 「そんなことで泣くな。」と、言いたかったが、
「先生のを1つあげるね。それでいい?」
 私の松茸を、彼のごはんにのせてあげた。
すぐに、機嫌が直り、食べ始めた。

 低学年を担任しても、高学年でも、
これに類似したことがよくあった。
 「先生だけ盛りが多すぎる。」と、
配膳当番同士が、ケンカする場面もしばしば。

 だから、いつも「先生は少なくていいよ。」
と、言っていた。

 おかげで、退勤時には空腹感があった。
帰り道、駅の立ち喰いそば店の前で、
足が止まることがしばしばあった。

 いつ頃だっただろうか、
総武線沿線の立ち喰いそば店『あじさい』に、
ラーメンのメニューが追加された。

 それは、ラーメンの王道と言うべき醤油味だった。
薄いチャーシュー1枚、なると1切れ、シナチク3つ,4つ、
それにわかめが少々のっていた。

 沿線で途中下車し、それを注文すると、どこでも同じ味だった。
だんだんと癖になる味だ。

 共働きなので、夕食が遅かった。
「それまでのツナギ。」という勝手な理由までつけて、
『あじさい』のラーメンで、空腹を満すことが増えていった。
 次第に、お腹が突き出ていった。


 ⑥ 首都圏で暮らしていた頃だ。
 お盆の墓参りを済ませ、
新千歳空港で北海道みやげを物色していた。
 
 土産店の陳列棚に、
『白樺山荘』『山頭火』『味の時計台』など、
全国的にも名の通った店の箱詰ラーメンが積まれていた。

 その中に、旭川ラーメン『橙や』のものがあった。
私にとっては、意外だった。
 しかし、驚きとともにちょっとだけ嬉しくなり、
『橙や』の箱を指さしながら、家内にその場で語り出した。

 ほら、去年の夏、例の8人で旭川や美瑛を旅行しただろう。
あの時、旭川で『男山酒造』の酒蔵に寄ったんだ。
 そこで、Bチャンが受付のお姉さんに、
「この辺りに、美味しいラーメン屋はない?」
って訊いたんだよ。

 すると、そのお姉さんが薦めたのが、この『橙や』さ。

 俺の知らない店だったし、
ラーメンなら、みんなを『旭川ラーメン村』に、
案内しようと思っていたんだ。
 だから、ちょっとだけ嫌な気分になった。

 でも、みんなが「行きましょう。」「行きましょう。」と言うんで、
しぶしぶレンタカーに乗り込んで、その店に行ったの。

 天気のいい日で、旭川は暑くて暑くて。
その上、店に着くと列ができていたんだよ。
 待ち時間30分だって言うので、
いいかげん嫌になったけど、
そこはBチャンの顔を立てて、だまって外で待つことにした。
 すぐに汗だくさ。

 ところが、結局、40分が過ぎても、席が空かず、
すっかり機嫌が悪くなってしまった。
 みんなは、その表情を見て、気をもみ始めてさ。

 これで、「美味くなかったら。」と。

 1時間後、ようやく『橙や』の醤油ラーメンにありつけたんだよ。。
すると、“これが、待った甲斐ありさ!”

 美味い。うまい。スープも、麺も、チャーシューも美味いんだよ。
すっかり機嫌がよくなり、Bチャンにも、
男山酒造のお姉さんにも、すっかり掌を返して、感謝、感謝さ。

 箱詰ラーメンが並ぶ棚の前で、
そんなことを語っている間、
私のすぐ横で、スーツ姿の紳士が一人、
これまた、お土産を探していた。

 その紳士が、突然、私に顔を向けた。
「ほなら、私、こうて行きますわ!」
『橙や』のラーメンを1箱手にして、足早にレジに向かっていった。

 一瞬、理解不能だった。
「そっか、聞いていたんだ。」
 私は、まばたきをしながら、その後ろ姿を追った。

 もう、笑いをこらえるのに、必死。


 ⑦ 『北海道ラーメン』という響きに、ついつい惹かれた。
特に、黄色みを帯びた縮れた麺が、やけに食べたくなる時があった。

 錦糸町駅の北口近くに、『北海道ラーメン ひむろ』がある。
ここの醤油ラーメンが好きだった。
 月1回は、そのカウンターに座っていた頃もあった。
いつもその味に満足した。

 小岩駅北口近くには、『北海道ラーメン 味源』があった。
店の雰囲気は、錦糸町の『ひむろ』に似ていた。
 ここでも、醤油ラーメ、ンを注文した。
私の舌には、『ひむろ』と同じ味だった。

 カウンターの目の前にある厨房での、
調理の手順が2店とも同じだった。
 大き目の中華鍋を温める。
少し炎を上げながら、もやし等を炒める。
 そこに、暖かい特性の白濁スープを入れ、
醤油や塩、味噌の味つけをする。
 丼に茹でた麺を入れてから、中華鍋のスープを加える。
最後に、チャーシューやシナチクをのせて仕上げるのだ。
 
 店の名は違っても、食べたくなったら、
同じ味なので、錦糸町でも小岩でもよかった。
 ここに限らず、首都圏の駅周辺、
いたるところに『ひむろ』や『味源』はあった。
 どこも同じ味のように思えた。
どうやら系列店らしいのだった。

 さて、伊達に移り住んでからになる。
『北海道ラーメン』と名乗るからには、
「元祖は、北海道にあるのではないだろうか。」
と思い立ち、調べてみた。

 すると、「あった。あった。」
札幌市白石区に、『味源本店』があった。
 
 3年前の冬だ。
札幌に行った折に、本店を訪ねてみた。

 店の作りは、古かった。
周りには、除雪した雪山があった。
 カウンターに座った。
厨房での手順は同じだった。
 出てきた醤油ラーメンの味は、驚いた。
さすが本店だと思った。

 私の舌には、首都圏で食べたどの店の味よりも、
美味しさが数段上のように思えた。

 「そうか。この味が各系列店の元になっているんだ。」
納得しながら味わった。

 雪に囲まれた『味源本店』のあの味、今も記憶にある。





 路傍に生育するイタドリ 今が花盛り
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OH! ラーメン

2016-08-13 19:42:57 | あの頃
 ① 初めてのラーメンは、
確か小学校4、5年生の頃ではなかったろうか。
 母が、近所の友だちから、
その作り方を教えてもらうことになった。

 土曜日だったと思う。
お昼ご飯は、ラーメンと言うものを初めて作るらしい。
 「だから、どこにも寄り道しないで帰ってきなさい。」
母はいつになく、朝からはりきっていた。

 学校が終わると、走って家へ帰った。
玄関を入った。すると新しくて美味しそうな臭いがした。
 「鶏ガラでだしをとったんだよ。」
母は、胸を張った。
 それが、凄いことなのかどうか、私には分からなかった。
時々、母の友だちが、『ラード』と言う、
これまた聞き慣れない単語を何度も遣っていた。

 しばらくすると、見たことのない模様の丼に、
黄色の縮れた麺と肉などがのった、
初めてのラーメンが卓袱台に置かれた。

 どんな味だったか、その記憶はない。
きっと美味しかったのだろう。
 その後、何度か母にリクエストした憶えがある。


 ② 高校生活のほとんどは、生徒会活動に明け暮れた。
授業のために教室には行くが、
休み時間も放課後も、生徒会室に入り浸っていた。

 毎日、生徒会の仕事をし、
役員と一緒に過ごす時間が、この上なく楽しかった。

 この時期、体は小さいなりにも、急激に成長した。
とにかく、毎日すぐに空腹感がおとずれた。
 朝食をたっぷりと食べたはずなのに、
10時頃には弁当が気になった。
 先生たちの目を盗んで、
昼食時間前のいわゆる「早弁」をした。
 なので、3時にはもう「腹、減った!」と叫んでいた。

 校門の斜め向かいに、文房具屋を兼ねた小さな食堂があった。
運動部の連中は、練習後の6時過ぎに、
よくそこの暖簾をくぐり、席を奪い合っていた。

 私たち生徒会役員は、それより早く、
4時過ぎにはその店に顔を出した。
 
 メニューは豊富だった。
なのに、誰に薦められたのか、
そこの醤油ラーメンのとりこになった。

 いつ頃からだろう、私が店に顔を出すと、
そこのご主人はあいさつもそこそこに、
生ラーメンを1玉ほぐし、熱湯の鍋に入れるようになった。
 何も言わなくても、大好物が私のテーブルに届いた。
 トッピングに麩が一切れのっていた。
これが醤油のつゆをすって、たまらなく美味しかった。
 

 ③ 大学があったのは、北海道の小都市だった。
その一角の路地が、ちょっとした飲食店街になっていた。
 居酒屋やBARもあったが、
洋食や日本食の店、イタリアン風も並んでいた。
 その店並の中央付近に3軒のラーメン専門店があった。

 3年の時、その1軒に目が止まった。
改装したばかりで、外観からも小綺麗さが伝わってきた。
 暖簾には、赤い字で『でめ金』とあった。

 貧乏学生だったが、「時には奮発して!」と、
昼食に、その店の扉を開けた。
 真新しい壁だった。
カウンターに、10数脚の椅子が並んでた。

 薄桃色のエプロンがまぶしい、
少し小太りのお姉さんが、明るい顔で迎えてくれた。
 「うちは、塩がお薦めですよ。」と聞き、
「それ、お願いします。」と即答した。

 どこで聞いたのか、確かな情報なのか、
全く定かではないが、『北海道ラーメン』と称するには、
3つ条件が必要らしい。

 1つ目は、麺が縮れていること。
 2つ目は、トッピングにもやしが入っていること。
 3つ目は、厨房がお客さんから見えること、なのだとか。

 『でめ金』は、その条件を満たしていた。
店主がラーメンを作る様子がよく見えた。
 中太で黄色みの濃い縮れ麺、そしてシャキシュキのもやし。

 そのもやしが、塩味のあっさりとしたスープによくマッチした。
一度で、お気に入りのラーメンになった。

 その後、2年余り、時々無性に『でめ金』へ行きたくなった。
お目当ては、塩ラーメン。
それから、薄桃色のエプロンにも、少し惹かれていた。

 大学を卒業して、数年後、
お盆の帰省を兼ね、『でめ金』の味を訪ねてみた。
 あの路地の飲食店街にラーメン店は、1軒もなかった。
そして、『でめ金』のその後を知る人にも出会わなかった。


 ④ 東京の小学校に勤務してまもなく、
先輩に誘われて歩行者天国の銀座に行った。
 その洗練されたにぎわいに圧倒された。
しかし、田舎者なのに、大都会のその雰囲気が、
一度で好きになった。

 以来、その先輩に何度も甘えて、
銀座、有楽町、日比谷と案内してもらった。

 そんなある日、「美味しい店がある。」と、
連れて行ってくれたラーメン店がある。

 それから、45年も過ぎた。
しかし、その店は今も同じ場所にある。
私が大好きになったメニューも変わらずに健在である。

 本店は、秋葉原の万世橋そばにある。
『肉の万世』で名が通っている。
 その『万世』が、本店の他に都内に4店舗だけ、
『万世拉麺』を出す店がある。

 私が、先輩と初めて入った店は、
有楽町駅から徒歩1分、有楽町ビル地下1階の
『万世拉麺有楽町店』である。

 同じフロアーの飲食店が、
この45年の間で色々と変わっていった。
 しかし、この店は、
若干内装のリニューアルはあったものの、
その雰囲気やメニューは変わることがなく、
今に至っている。 

 先輩に薦められ、初めて食べたのが、
『特選排骨(パーコ)拉麺』だった。
 醤油味のスープに真っ直ぐな麺。
その上に、薄い衣をつけてカラッと揚げた
豚肉・排骨(パーコ)がのっている。

 スープも麺も決して飽きることはない。
それに加えて、特選の排骨が絶品である。

 わざわざそれを食べに、
有楽町まで出向くことはなかった。
 それでも、都心まで行く機会があると、
ついその店に足が向いた。

 今も、年に何回か上京する機会がある。
その都度、その味につられて、カウンターに座ってしまう。
 そして、ポイントカードまで、もらう有り様であった。




   伊達の8月は 『ガクアジサイ』
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ずっと 『我逢人』

2016-08-05 19:48:58 | 北の湘南・伊達
 4年前の6月、
『北の大地へ』と題する詩を添えて、
友人や知人に、伊達への転居葉書を出した。

 その知らせに、多くの方から返信を頂いた。
驚きや励ましと共に、それぞれ想いが記され、
その全てが、今も私の力になっている。

 その後、伊達で初めての夏を過ごし、そして初秋。
その心情を、『我逢人』と題する詩にした。

 返信を頂戴した方々に、『暑秋見舞』と称し、
それを載せた葉書を、再び送った。


      我 逢 人

   恋人海岸という名の長い砂浜
   若い二人が太陽を背にする姿がいい
   しかし そこに人影を見たことはない

   6月の街を賑わすアヤメ
   紫の花が好きな私の心が踊った
   それから沢山の花たちが朝の散策を彩り
   どこの庭先でも花の手入れに余念がない
   それはきっと長い日々を
   寒気に鎖され遮られるからではと

   あまりに広大な田畑
   あの中に一日一人置かれたら
   私は間違いなく泣き出す
   心細さと頼りなさに慣れたりなどできない
   しかし そこでもくもくと汗する人を見る

   今まで目にしなかった光景
   新しい息吹きをもらいながら
   私は今日を
   
      我逢人(がほうじん):人と逢うことから全てが始まるの意


 それから、私は、ずっと『我逢人』でいる。
その一端を記す。

 ◆ 夏休みになった。
 2週間だが、小学生のラジオ体操が、近所の公園広場であった。
毎年、家内と欠かさず参加している。

 例年、思いのほか子どもも大人も少ない。
それでも、子ども達と一緒に過ごす時間は、貴重で楽しい。
 体操の曲に合わせ、懸命に体を動かす小さな姿、
それを見ながら、私も体を動かす。
 つい笑顔になってしまう朝である。

 さて、つい1週間程前になる。
ラジオ体操が終わり、
顔馴染みになったご近所のご主人と、
挨拶がてら言葉を交わした。

 彼は、ゴルフのスイングをくり返しながら、
言い出した。
 「明日から、2,3日、雨のようですね。」
「そうみたいですね。」

 彼は、すかさず、
「しばらくパーク、できなくなりますよ。」
「行かれるんですか。」
「ええ、行こうかと。」
「どなたか、お相手が。」
「今のところウチのと二人。」
「そうですか。」

 そんな会話に、
パークゴルフの達人さんが近寄ってきていた。

 「ご一緒してもいいですか。」
私は遠慮がちに言ってみた。

 本来ならゴルフなのだが、
だいぶ良くなった右腕の再発が怖くて、
でも、パークゴルフならばと、
昨年の秋から、見よう見まねで始めてみた。
 それはそれで、なかなか楽しいのだ。

 「どうぞ、どうぞ。」と、彼は明るかった。
「何時からにしますか。」
「12時半で、どうですか。」

 そこまで話が進んだ時だ。
全く話に加わっていなかった達人さんが、突然、
「わかりました。12時半ね。」
「えっ、ご一緒に?!」
 目を丸くする私に、当然と言った顔で達人さんがうなづいた。
楽しくなる予感がした。
 少年のように、ワクワクした。

 約束の時間、パークゴルフ場には、
8名もの好き者が集まってきた。
 「いやいや。」「どうもどうも。」
と、言いあいながら、前から予定されていたかのような顔と顔。

 2組に分かれてラウンドが始まった。
海辺近くのパークゴルフ場だ。
 やれ「ナイスショット!」だ。
「なんで、入らないの?」だの。
「ヨシ、ヨシ!」の呟きやら・・・。

 明日からの雨を予感させるように白波が立つ海。
そのそばで、夢中でボールを打つ同世代。
 ワイワイ、ガヤガヤが時を忘れさせた。


 ◆ 我が家から、数百メートルの所に、
旧シャミチセ川沿いの小道がある。
 週に1回は、そこを朝の散歩道にしている。

 1ヶ月以上も前になるだろうか。
その小川の脇に、
1メートル四方程の小さな金網の囲いができた。

 『この中に、カルガモのヒナがいます。
市からの依頼で、育てています。』
と、張り紙があった。
 加えて、北海道知事の鳥獣保護員の証書コピーも。

 囲いの中では、2羽のヒナが忙しく動いていた。
家内と足を止めた。

 そこに、すぐ横の家から、平皿に手作りのエサを盛って、
歩み寄る方がいた。私よりやや年上だろうか。
 鳥獣保護員の方だと思った。

 その方は、挨拶もそこそこに話し始めた。
 「市から連絡を受けて預かった時は、
10羽いたけど、2羽になってしまった。」
 親鳥と一緒に移動している最中に、
ヒナたちが次々と側溝に落ちてしまったらしい。
 親は、どうすることもできなかった。
それで、市から連絡があり、鳥獣保護員の出番になった。

 弱っていたヒナに、急いでエサを与えた。
エサが合わなかったのか、食べ過ぎだったのか、
お腹が大きく膨らみ、8羽が亡くなった。

 「それでも、この2羽が生き延びてくれた。」
金網の囲いのそばで、腰を下ろしたまま、
穏やかな口調が続いた。

 年に数回、伊達市などから依頼を受けて、
野生動物の保護や世話をするらしい。
 散歩中の朝のわずかな時間だったが、
その貴重な体験談は、私の心に浸みた。

 子雀が飛べなくなり、保護することになった。
家に持ち帰り世話をした。
 少しずつエサをついばみ、元気を取り戻した。
『チッチ』と名づけて、かわいがった。

 やがて家中を飛び回るまでに回復した。
窓を開けてやった。

 数日、チッチは家の近くの小枝にいた。
ある日、母親らしい雀と鳴き交わしていた。
やがて2羽とも姿が見えなくなった。
 その後しばらくして、家の周りを飛ぶ雀たちがいた。
その1羽がチッチだと分かった。

 「チッチ」と呼ぶと、羽をバタバタさせた。
「今も時々来るんだ。可愛いよ。
ちゃんと私が分かってるんだ。」
 嬉しそうに話す、その顔がまぶしかった。

 そして、もう一つ。

 ある年、巣から落ちたヤマツバメのヒナを、
5羽預かった。
 思いのほか順調に育ってくれた。

 次第に飛べるようになり、巣立ちの時が来た。
市内のT公園の辺りから、ヤマツバメは旅立つと知っていた。

 それで、鳥かごに入れて、その公園に連れて行った。
放してやると、5羽は近くの枝に並んで止まり、
名残惜しそうにしていた。

 実は、その中の1羽が気がかりだった。
食も細く、飛び方も弱々しかった。
 心がさわぐので、翌日、再びT公園に行ってみた。
昨日の枝のそばに、1羽の死骸があった。

 「本当にかわいそうなことをした。
あの1羽だけは、もうしばらく世話をしてやればよかった。
後悔しているんだ。」

 初夏の朝日が明るく降りそそいでいた小道。
目を真っ赤にしながら、
初対面の私共に話してくださった。

 心が打たれた。
「そうでしたか。」
私には、それしか言葉が探せなかった。

 また一つ「優しさ」に出会えた。



   カボチャ畑の一輪    
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