≪1≫ 歯 科
小さい頃から歯が悪かった。
欠かさず歯磨きをしても、虫歯の痛みで涙を流した。
すると、必ず歯科医院に行くことになった。
ここでも、電動のヤスリが音をたて、
時折飛び上がるほど痛い思いをし、涙が流れた。
小さい頃の経験は、しっかりと記憶にすり込まれている。
だから、大きくなってからは、歯痛を予感すると、
すぐに鎮痛薬を飲んだ。
我慢こそ、最良の選択肢だった。
歯科医院は、できるだけ避けた。
痛みに耐えられず、通院しても長続きはしなかった。
こんな出来事を思い出す。
20代前半だ。
奥歯が痛くて、しかたなく歯科医に診せた。
『親知らず』で抜歯を勧められた。
意を決し、数日後に治療台に座った。
歯科医は慣れた手つきで、歯茎に注射針を刺した。
ある程度の時間を置いてから、
見慣れない老いた女医が、抜歯を始めた。
ブツブツと何か言っていた。
「なんだこれは・・。なかなか抜けないなあ・・」。
そう聞き取れた。
口を大きく開けたまま、私の不安感は最高潮に達していった。
「この後、奥歯にどんな激痛がくるのだろう。」
想像するだけで、気が遠くなるほどだった。
すると、私は本当に気が遠くなった。
くり返し名前を呼ばれた。
数回、頬を軽く叩かれた気がする。
目を開けると、穏やかな見慣れた医師の顔があった。
すでに、治療台は起こされ、
口はガーゼを噛んだまま 閉じていた。
足元を見ると、履いていたはずのスリッパが、
離れたところに、両足とも散っていた。
「疲れていたので、貧血になったのでしょう。」
医者は、何事もなかったかのように、そう言い切った。
「そうじゃなくて・・・」
不安だった私の気持ちを察してほしかった。
しかし多くを語れなかった。
もう歯科医院は、ご免だと思った。
それから10年余りが過ぎた。
その間、私は『抜歯・気絶事件』を思い出し、
歯の治療を避け続けた
虫歯は増えるばかりだった。
これ以上は、我慢ができない。
ついに、治療を決断した。
とにかく評判のいい歯科医院を探した。
この歯科医なら信頼できる。
そんな先生に治療してもらいたかった。
勤務先や自宅付近の歯科医院について、評判を集めた。
情報は少なかったが、通勤途中の歯科医院に決めた。
初めて通院した日、その医院の中年医師は、キビキビと動いていた。
そして、診断や治療について、明瞭な口調で説明してくれた。
初対面で評判のよさが理解できた。
この先生ならと、信頼を寄せた。
次の予約まで、1週間以上、待つことになった。
いかに患者が多いか知った。
益々好感度が増した。
通院は、数ヶ月におよんだ。
区切りの治療が済むと、歯科用のカメラを取りだし、
よく口腔写真を撮った。
加えて「よし、うまくいった。」などと治療結果について、
自画自賛する先生だった。
ある時、その日の予約患者の最後が私だった。
診察室の出がけに、1日の治療を終え、
ホッとしてる先生に話しかけてみた。
先生は、マスクを外し、
近くにあった腰掛けを勧めてくれた。
20分程度だったが、歯科医師と初めて長い会話をした。
その中で、私は休日の過ごし方を尋ねてみた。
その回答は、この医院の評判のよさを裏付けるのに十分だった。
その上、私の働き方の力にもなった。
先生の休日は、1日中カルテと過ごすのだと言う。
休みでも医院に来ることも、カルテや資料を自宅に持ち込むこともあるらしい。
いずれにしても、患者一人一人の治療をふり返り、
次のプランを練るのだ。
休日は、それで過ぎてしまうと先生は話してくださった。
口腔写真も自画自賛も納得がいった。
「お医者さんは、皆さんそうされているのですか。」
私は、驚きと共に訊いた。
「どうでしょう。私はそうしないとダメなので。」
こんな謙虚さをもった先生に治療してもらっている。
それが、私を治療台でも安心させてくれた。
治療を最後まで続けることができた。
≪2≫ 虫 垂 炎
それは、10数年前の9月9日だった。
まだ深夜のことだった。
崖から転げ落ちる夢を見た。
「アッ!」
大声とともに、ベッドから落ちていた。
その時、床に後頭部をぶつけた。
痛かったが、眠気が勝った。
再び、すぐ眠りについた。
管理職の朝は早い。
目覚まし音で目をさますと、胃の辺りに違和感があった。
何故かおき上がれない。
吐き気のようなものもあった。
若干様子をみようと、そのまま横になった。
そして、その原因を探った。
そこでベットから落ち、頭をぶつけたことを思い出した。
もしや、それによる吐き気では・・。
もう遅刻を覚悟し、ベッドにいた。
腹痛が増してきた気がした。
相変わらず吐き気が続いた。
家内も遅刻を覚悟した。
私は決断した。
吐き気と痛みをこらえて、病院へ行くことはできそうだ。
でも、頭を打ったことが気になった。
初めて自宅に救急車を頼んだ。
マンションから移動ベッドで運ばれ、救急車に乗った。
「9月9日、救急の日に救急車か」。
そう家内につぶやきながら、救急病院に運ばれた。
朝から、多くの患者で混雑していた。
病室の隅のベッドで若干待った。
血圧や採血の後、再び待った。
横になりながら、イライラした。
ようやく白衣の医師が来た。
不思議なことに吐き気は消えていた。
すこし恥ずかしかった。
でも、素直にそれを認めた。
「どこが痛いですか。」
医者の質問に私は、胃の辺りを指した。
医者は、私が示した箇所を押した。
どうしたことか、痛いはずなのに痛くない。
しかたなく、これまたそれを認めた。
イライラが消え、さらに恥ずかしくなった。
すると医者は、それより下がった腹部を押した。
そこが痛いのだ。
そして、もう少し下、右の下腹を押した。
「痛い!」
飛び上がるほどの激痛だった。
「虫垂炎ですね。午後に手術をしましょう。」
救急車で運ばれたのに、どこも痛くなく、
「異常なしで帰宅」では、赤面だ。
変にホッとする間もなく、入院と手術の準備が始まった。
盲腸のあたりの痛みは増していた。
午後2時過ぎだったろうか、手術台に移された。
ここで、BGMのリクエストを訊かれた。
違和感があったが、陽水とさだの曲をお願いした。
虫垂炎の手術は、部分麻酔で行われる。
患者をリラックスさせるためのBGMなんだと、
しばらくしてから、勝手に納得した。
さて、この手術だが、
私はその執刃医の名前さえ知らないままだった。
ましてやその場に研修医が付くことも知らなかった。
虫垂炎との診断された時は、不安と痛み、イライラの渦中だった。
だから、その医師の顔など覚えなかった。
当然名札など見る余裕もなかった。
その医師と執刀医が、同一かも分からなかった。
執刀医は、手術の開始を私に告げると、
ブツブツと熱心に研修医に説明をしながら、手を動かしていった。
手術が始まったのだ。
研修医は、若い女性だった。
時々、その女医さんの
「わあ、すごい。」「なるほど、そうなんだ。」等々、
感嘆の声が小さく聞こえた。
麻酔が効いて、痛みなどとは無縁だった。
しかし、私にはしっかりと感情があった。
名前すら知らない医師と研修医が、
私の意志とは無関係なところで、私を治療している。
そう思うと、釈然としなかった。
私はどんどん不機嫌になりながら、
陽水とさだの声が流れる手術台の上で、動けないままだった。
春らんまん 梅も咲きはじめた
小さい頃から歯が悪かった。
欠かさず歯磨きをしても、虫歯の痛みで涙を流した。
すると、必ず歯科医院に行くことになった。
ここでも、電動のヤスリが音をたて、
時折飛び上がるほど痛い思いをし、涙が流れた。
小さい頃の経験は、しっかりと記憶にすり込まれている。
だから、大きくなってからは、歯痛を予感すると、
すぐに鎮痛薬を飲んだ。
我慢こそ、最良の選択肢だった。
歯科医院は、できるだけ避けた。
痛みに耐えられず、通院しても長続きはしなかった。
こんな出来事を思い出す。
20代前半だ。
奥歯が痛くて、しかたなく歯科医に診せた。
『親知らず』で抜歯を勧められた。
意を決し、数日後に治療台に座った。
歯科医は慣れた手つきで、歯茎に注射針を刺した。
ある程度の時間を置いてから、
見慣れない老いた女医が、抜歯を始めた。
ブツブツと何か言っていた。
「なんだこれは・・。なかなか抜けないなあ・・」。
そう聞き取れた。
口を大きく開けたまま、私の不安感は最高潮に達していった。
「この後、奥歯にどんな激痛がくるのだろう。」
想像するだけで、気が遠くなるほどだった。
すると、私は本当に気が遠くなった。
くり返し名前を呼ばれた。
数回、頬を軽く叩かれた気がする。
目を開けると、穏やかな見慣れた医師の顔があった。
すでに、治療台は起こされ、
口はガーゼを噛んだまま 閉じていた。
足元を見ると、履いていたはずのスリッパが、
離れたところに、両足とも散っていた。
「疲れていたので、貧血になったのでしょう。」
医者は、何事もなかったかのように、そう言い切った。
「そうじゃなくて・・・」
不安だった私の気持ちを察してほしかった。
しかし多くを語れなかった。
もう歯科医院は、ご免だと思った。
それから10年余りが過ぎた。
その間、私は『抜歯・気絶事件』を思い出し、
歯の治療を避け続けた
虫歯は増えるばかりだった。
これ以上は、我慢ができない。
ついに、治療を決断した。
とにかく評判のいい歯科医院を探した。
この歯科医なら信頼できる。
そんな先生に治療してもらいたかった。
勤務先や自宅付近の歯科医院について、評判を集めた。
情報は少なかったが、通勤途中の歯科医院に決めた。
初めて通院した日、その医院の中年医師は、キビキビと動いていた。
そして、診断や治療について、明瞭な口調で説明してくれた。
初対面で評判のよさが理解できた。
この先生ならと、信頼を寄せた。
次の予約まで、1週間以上、待つことになった。
いかに患者が多いか知った。
益々好感度が増した。
通院は、数ヶ月におよんだ。
区切りの治療が済むと、歯科用のカメラを取りだし、
よく口腔写真を撮った。
加えて「よし、うまくいった。」などと治療結果について、
自画自賛する先生だった。
ある時、その日の予約患者の最後が私だった。
診察室の出がけに、1日の治療を終え、
ホッとしてる先生に話しかけてみた。
先生は、マスクを外し、
近くにあった腰掛けを勧めてくれた。
20分程度だったが、歯科医師と初めて長い会話をした。
その中で、私は休日の過ごし方を尋ねてみた。
その回答は、この医院の評判のよさを裏付けるのに十分だった。
その上、私の働き方の力にもなった。
先生の休日は、1日中カルテと過ごすのだと言う。
休みでも医院に来ることも、カルテや資料を自宅に持ち込むこともあるらしい。
いずれにしても、患者一人一人の治療をふり返り、
次のプランを練るのだ。
休日は、それで過ぎてしまうと先生は話してくださった。
口腔写真も自画自賛も納得がいった。
「お医者さんは、皆さんそうされているのですか。」
私は、驚きと共に訊いた。
「どうでしょう。私はそうしないとダメなので。」
こんな謙虚さをもった先生に治療してもらっている。
それが、私を治療台でも安心させてくれた。
治療を最後まで続けることができた。
≪2≫ 虫 垂 炎
それは、10数年前の9月9日だった。
まだ深夜のことだった。
崖から転げ落ちる夢を見た。
「アッ!」
大声とともに、ベッドから落ちていた。
その時、床に後頭部をぶつけた。
痛かったが、眠気が勝った。
再び、すぐ眠りについた。
管理職の朝は早い。
目覚まし音で目をさますと、胃の辺りに違和感があった。
何故かおき上がれない。
吐き気のようなものもあった。
若干様子をみようと、そのまま横になった。
そして、その原因を探った。
そこでベットから落ち、頭をぶつけたことを思い出した。
もしや、それによる吐き気では・・。
もう遅刻を覚悟し、ベッドにいた。
腹痛が増してきた気がした。
相変わらず吐き気が続いた。
家内も遅刻を覚悟した。
私は決断した。
吐き気と痛みをこらえて、病院へ行くことはできそうだ。
でも、頭を打ったことが気になった。
初めて自宅に救急車を頼んだ。
マンションから移動ベッドで運ばれ、救急車に乗った。
「9月9日、救急の日に救急車か」。
そう家内につぶやきながら、救急病院に運ばれた。
朝から、多くの患者で混雑していた。
病室の隅のベッドで若干待った。
血圧や採血の後、再び待った。
横になりながら、イライラした。
ようやく白衣の医師が来た。
不思議なことに吐き気は消えていた。
すこし恥ずかしかった。
でも、素直にそれを認めた。
「どこが痛いですか。」
医者の質問に私は、胃の辺りを指した。
医者は、私が示した箇所を押した。
どうしたことか、痛いはずなのに痛くない。
しかたなく、これまたそれを認めた。
イライラが消え、さらに恥ずかしくなった。
すると医者は、それより下がった腹部を押した。
そこが痛いのだ。
そして、もう少し下、右の下腹を押した。
「痛い!」
飛び上がるほどの激痛だった。
「虫垂炎ですね。午後に手術をしましょう。」
救急車で運ばれたのに、どこも痛くなく、
「異常なしで帰宅」では、赤面だ。
変にホッとする間もなく、入院と手術の準備が始まった。
盲腸のあたりの痛みは増していた。
午後2時過ぎだったろうか、手術台に移された。
ここで、BGMのリクエストを訊かれた。
違和感があったが、陽水とさだの曲をお願いした。
虫垂炎の手術は、部分麻酔で行われる。
患者をリラックスさせるためのBGMなんだと、
しばらくしてから、勝手に納得した。
さて、この手術だが、
私はその執刃医の名前さえ知らないままだった。
ましてやその場に研修医が付くことも知らなかった。
虫垂炎との診断された時は、不安と痛み、イライラの渦中だった。
だから、その医師の顔など覚えなかった。
当然名札など見る余裕もなかった。
その医師と執刀医が、同一かも分からなかった。
執刀医は、手術の開始を私に告げると、
ブツブツと熱心に研修医に説明をしながら、手を動かしていった。
手術が始まったのだ。
研修医は、若い女性だった。
時々、その女医さんの
「わあ、すごい。」「なるほど、そうなんだ。」等々、
感嘆の声が小さく聞こえた。
麻酔が効いて、痛みなどとは無縁だった。
しかし、私にはしっかりと感情があった。
名前すら知らない医師と研修医が、
私の意志とは無関係なところで、私を治療している。
そう思うと、釈然としなかった。
私はどんどん不機嫌になりながら、
陽水とさだの声が流れる手術台の上で、動けないままだった。
春らんまん 梅も咲きはじめた