ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

続・医療 悲喜こもごも

2018-04-28 09:52:43 | 思い
  ≪1≫ 歯 科

 小さい頃から歯が悪かった。
欠かさず歯磨きをしても、虫歯の痛みで涙を流した。

 すると、必ず歯科医院に行くことになった。
ここでも、電動のヤスリが音をたて、
時折飛び上がるほど痛い思いをし、涙が流れた。

 小さい頃の経験は、しっかりと記憶にすり込まれている。
だから、大きくなってからは、歯痛を予感すると、
すぐに鎮痛薬を飲んだ。
 我慢こそ、最良の選択肢だった。

 歯科医院は、できるだけ避けた。
痛みに耐えられず、通院しても長続きはしなかった。

 こんな出来事を思い出す。
20代前半だ。
 奥歯が痛くて、しかたなく歯科医に診せた。
『親知らず』で抜歯を勧められた。

 意を決し、数日後に治療台に座った。
歯科医は慣れた手つきで、歯茎に注射針を刺した。

 ある程度の時間を置いてから、
見慣れない老いた女医が、抜歯を始めた。

 ブツブツと何か言っていた。
「なんだこれは・・。なかなか抜けないなあ・・」。
 そう聞き取れた。
 
 口を大きく開けたまま、私の不安感は最高潮に達していった。
「この後、奥歯にどんな激痛がくるのだろう。」
 想像するだけで、気が遠くなるほどだった。

 すると、私は本当に気が遠くなった。

 くり返し名前を呼ばれた。
数回、頬を軽く叩かれた気がする。
 目を開けると、穏やかな見慣れた医師の顔があった。
 
 すでに、治療台は起こされ、
口はガーゼを噛んだまま 閉じていた。
 足元を見ると、履いていたはずのスリッパが、
離れたところに、両足とも散っていた。

 「疲れていたので、貧血になったのでしょう。」
医者は、何事もなかったかのように、そう言い切った。
 「そうじゃなくて・・・」
不安だった私の気持ちを察してほしかった。
 しかし多くを語れなかった。
もう歯科医院は、ご免だと思った。

 それから10年余りが過ぎた。
その間、私は『抜歯・気絶事件』を思い出し、
歯の治療を避け続けた

 虫歯は増えるばかりだった。
これ以上は、我慢ができない。
 ついに、治療を決断した。

 とにかく評判のいい歯科医院を探した。
この歯科医なら信頼できる。
 そんな先生に治療してもらいたかった。

 勤務先や自宅付近の歯科医院について、評判を集めた。
情報は少なかったが、通勤途中の歯科医院に決めた。

 初めて通院した日、その医院の中年医師は、キビキビと動いていた。
そして、診断や治療について、明瞭な口調で説明してくれた。

 初対面で評判のよさが理解できた。
この先生ならと、信頼を寄せた。
 次の予約まで、1週間以上、待つことになった。
いかに患者が多いか知った。
 益々好感度が増した。

 通院は、数ヶ月におよんだ。
区切りの治療が済むと、歯科用のカメラを取りだし、
よく口腔写真を撮った。
 加えて「よし、うまくいった。」などと治療結果について、
自画自賛する先生だった。

 ある時、その日の予約患者の最後が私だった。
診察室の出がけに、1日の治療を終え、
ホッとしてる先生に話しかけてみた。

 先生は、マスクを外し、
近くにあった腰掛けを勧めてくれた。
 20分程度だったが、歯科医師と初めて長い会話をした。

 その中で、私は休日の過ごし方を尋ねてみた。
その回答は、この医院の評判のよさを裏付けるのに十分だった。
その上、私の働き方の力にもなった。

 先生の休日は、1日中カルテと過ごすのだと言う。
休みでも医院に来ることも、カルテや資料を自宅に持ち込むこともあるらしい。
 いずれにしても、患者一人一人の治療をふり返り、
次のプランを練るのだ。
 休日は、それで過ぎてしまうと先生は話してくださった。
口腔写真も自画自賛も納得がいった。

 「お医者さんは、皆さんそうされているのですか。」
私は、驚きと共に訊いた。
「どうでしょう。私はそうしないとダメなので。」

 こんな謙虚さをもった先生に治療してもらっている。
それが、私を治療台でも安心させてくれた。
 治療を最後まで続けることができた。


  ≪2≫ 虫 垂 炎

 それは、10数年前の9月9日だった。
まだ深夜のことだった。
 崖から転げ落ちる夢を見た。
「アッ!」
 大声とともに、ベッドから落ちていた。
その時、床に後頭部をぶつけた。

 痛かったが、眠気が勝った。
再び、すぐ眠りについた。 

 管理職の朝は早い。
目覚まし音で目をさますと、胃の辺りに違和感があった。
 何故かおき上がれない。
吐き気のようなものもあった。

 若干様子をみようと、そのまま横になった。
そして、その原因を探った。
 そこでベットから落ち、頭をぶつけたことを思い出した。
もしや、それによる吐き気では・・。

 もう遅刻を覚悟し、ベッドにいた。
腹痛が増してきた気がした。
 相変わらず吐き気が続いた。

 家内も遅刻を覚悟した。
私は決断した。
 吐き気と痛みをこらえて、病院へ行くことはできそうだ。
でも、頭を打ったことが気になった。
 初めて自宅に救急車を頼んだ。

 マンションから移動ベッドで運ばれ、救急車に乗った。
「9月9日、救急の日に救急車か」。
 そう家内につぶやきながら、救急病院に運ばれた。

 朝から、多くの患者で混雑していた。
病室の隅のベッドで若干待った。
 血圧や採血の後、再び待った。
横になりながら、イライラした。

 ようやく白衣の医師が来た。  
不思議なことに吐き気は消えていた。
 すこし恥ずかしかった。
でも、素直にそれを認めた。

 「どこが痛いですか。」
医者の質問に私は、胃の辺りを指した。
 医者は、私が示した箇所を押した。
どうしたことか、痛いはずなのに痛くない。
 しかたなく、これまたそれを認めた。
イライラが消え、さらに恥ずかしくなった。

 すると医者は、それより下がった腹部を押した。
そこが痛いのだ。
 そして、もう少し下、右の下腹を押した。
「痛い!」
 飛び上がるほどの激痛だった。

 「虫垂炎ですね。午後に手術をしましょう。」
救急車で運ばれたのに、どこも痛くなく、
「異常なしで帰宅」では、赤面だ。
 変にホッとする間もなく、入院と手術の準備が始まった。
盲腸のあたりの痛みは増していた。  

 午後2時過ぎだったろうか、手術台に移された。
ここで、BGMのリクエストを訊かれた。
 違和感があったが、陽水とさだの曲をお願いした。

 虫垂炎の手術は、部分麻酔で行われる。
患者をリラックスさせるためのBGMなんだと、
しばらくしてから、勝手に納得した。  

 さて、この手術だが、
私はその執刃医の名前さえ知らないままだった。
 ましてやその場に研修医が付くことも知らなかった。

 虫垂炎との診断された時は、不安と痛み、イライラの渦中だった。
だから、その医師の顔など覚えなかった。
 当然名札など見る余裕もなかった。
その医師と執刀医が、同一かも分からなかった。

 執刀医は、手術の開始を私に告げると、
ブツブツと熱心に研修医に説明をしながら、手を動かしていった。
 手術が始まったのだ。

 研修医は、若い女性だった。
時々、その女医さんの
「わあ、すごい。」「なるほど、そうなんだ。」等々、
感嘆の声が小さく聞こえた。

 麻酔が効いて、痛みなどとは無縁だった。
しかし、私にはしっかりと感情があった。

 名前すら知らない医師と研修医が、
私の意志とは無関係なところで、私を治療している。
 そう思うと、釈然としなかった。
私はどんどん不機嫌になりながら、
陽水とさだの声が流れる手術台の上で、動けないままだった。





  春らんまん  梅も咲きはじめた
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次のステージに向かって

2018-04-20 20:46:41 | 思い
 最初に、教育エッセイ『優しくなければ』から、
1文を写す。

     *     *     *     *    *   

     父との別れ

 4月1日、塚原久吉、満70歳の日。
 父は、白い手術着をきて、移動ベットの人となりました。
手術室に入る父を1人見送りました。
 兄姉は、手術時間の変更で、間に合いませんでした。

 「渉、いま何時だ。」
ベットを止め、父は尋ねました。
 私は、1時半であることを教えました。
「そうか、4時まではかかるな。」
 そう言い残し、手術室のドアが閉じようとしました。

 「父さん………、父さん、頑張れよ。」
祈る思いでした。声はうわずっていました。
 手術室の中に消えた父が
「おうっ!」
と、言ってくれたような気がしました。

 長い時間でした。
しかし、4時より1時間も早くに、
『手術中』のランプは消えました。
 胸の鼓動は、久しぶりのネクタイまで揺らしていました。
「親族の方ですね。オペについてお話します。」
 私より、2、3歳年上の青年医師でした。

 4月4日、私は空路羽田へ。
空から、夕焼けを見ました。
 涙が次から次から流れ落ちました。

 4月5日、狭い校庭に朝の光が、
直線的に差し込んでいました。
 その時、転任先の小学校に、最初の一歩を踏みました。
「何年間、ここで生活するのだろう。」
 ふと足を止めた記憶があります。

 その日から、電話のベルに怯えました。

 12月9日未明、苦痛のうめきと荒々しい息と
幻覚症状の続いていた父が、
 「俺の生命力も、そろそろ終わりのようだ。」
とだけ言いました。

 ハッキリとした口調だったそうです。
屈託のない表情だったそうです。
 3時間後、荒々しい息は去り、他界しました。

 同日午前5時30分、私の電話が高く鳴りました。
兄の声でした。
 「そうか。」と、だけ言って受話器を置きました。
兄弟の中で1人、死に水を取れませんでした。

 翌日、棺に純白の菊の花を、誰よりも多く添えました。
「さようなら………父さん。」
 くり返し、くり返し、そう父に語りかけました。
父は安らかに目をとじていました。

 「パパ、じいじ、喜んでいるよ。」
私の腕の中にいた3歳の息子が言いました。
 「そうだね。そうだね。」
と私は、ボロボロ泣きました。

     *     *     *     *     *


 昭和52年のことである。
この年は、様々な事があった。
 人生に節目があるのなら、その1つと言えるだろう。

 まずは、父の闘病と死であった。
前年末から、体調を崩し入院生活をしていたが、
思い切って手術をしてみてはと勧められた。

 「難しい手術になる」からと、
室蘭から札幌の病院へ移った。
 私は、東京の小学校に勤務していたが、
手術の日は春休みであったので、空路、病院へ行った。

 術後、医師から、胃癌とだ言われた。
父にも母にも、ふせておこうと決めたが、
末期の病状で、余命3ヶ月とのことだった。 

 当然だが、兄弟はみんな、一様に肩を落とした。
なかでも、父と一緒に魚屋をしている兄の落胆ぶりはすごく、
さすがの私も、かける言葉をなくしてしまった。

 同じ年4月、私は教員として初めての異動があった。
同じ区内の小学校だったが、職員の雰囲気が全く違った。
 初出勤の日から、セクトに別れての言い争いがあった。
暗い気持ちになった。

 「自分の立ち位置をしっかり定めなければ・・」。
ここでは『仲間不在』。それを直感し、覚悟を決めた。
 学校でも、重たい気持ちの不安な1年間になった。
  
 その後の父であるが、一時期持ち直した。
5月の連休明けには退院することができた。
 自宅療養となった。
6月に入ると、調子のいい日は店に立ち、
刺身などの調理までした。

 蛇足だが、父の造った刺身は、売れ行きがよかった。
「今日の刺身は、誰が切ったの」
 常連さんが、よく尋ねた。
「今日は、親父が造った。」
 すると、お客さんの手が、すっと刺身に伸びた。
 
 「俺だって、同じように切っているよ・・」。
常連さんに、何度言っても、
最後まで父にはかなわなかったと兄は言っていた。

 7月に入り、余命3ヶ月が過ぎたある日、
元気な声で、父から電話がきた。

 実は、家内は9月に第2子の出産を控えていた。
父は、その事を気にかけてくれていた。

 私が受話器を取ると、すかさず言った。
「我が家で赤ちゃんを産めばいい。
みんなで世話するから、今月中には、連れておいで。
 なあ、そうしな。」

 父の病状はいつ急変するか分からない。
返事にためらい、「相談して返事するね」と応じた。
 「うちの嫁なんだから、遠慮はいらないからね」。
珍しく父は、強く言い切り、電話を切った。

 数日後、父の機嫌を損ねないよう、電話した。
「もうずっと前から、実家に頼んであるから・・、
今さら変更は無理なんだ。」
 そんな言い訳にもならない、断り方をした。
「なら、しょうがないか・・・。」
 父の寂しげな声が耳に残った。

 それから2週間後、父は再び入院することになった。
病状は、1日1日わずかずつ悪化していった。
 
 9月末、第2子が産まれた。
その子と父が、対面する機会がないまま、
12月9日がきた。

 私にとって学期末の忙しい時期の葬儀だった。
悲しさを横に置き、学期末の評価と通知表に取り組んだ。

 そして、冬休みになりすぐ、こんな詩を添えた喪中ハガキを
お世話になっている方々に、投函した。


    言葉も忘れ

  12月9日未明
  予期した電話のベル
  2ヶ月の乳児を抱えて
  降りたった北国
  先日 見舞った時は
  まだ
  わずかに紅葉は残ってたのに
  木々は 寒々と枯れていた
 
  白い布におおわれた父
  一昼夜後には
  その姿さえ消えた
  好きだった 大好きだった父の死
  悔やみの言葉に
  ただ両手をつく僕
  言葉を忘れた合掌は
  新春をむかえる事さえ
  忘れそう

 父の胃癌宣告から死、私の初めての異動、そして第2子の誕生と
大きな出来事があった1年だった。

 なかでも享年70歳の父との別れは、
初めての肉親との死別だったこともあって、大きな失意だった。

 さて、
ついに私は、その父と同じ年令になった。
 兄弟からは、容姿も性格も一番父に似ていると言われる。
それだけでなく、「父の一番の理解者は私だ」と、
自負もしている。

 苦労人だった父を、学識だけでなく人としても、
目標にしてきた。
 その父に、やっと年令だけは肩を並べることができた。
他に追いつき追い越せるものは、今、何一つとしてない。
 でも、なぜか晴れがましい。
 
 ここからは、父には体験のないステージである。
まだまだと思いつつも、父の知らないステップに、
踏み出すのだ。

 『自信がなくて うぬぼればかり
 ああはずかしい はずかしい』 
書家・相田みつおさんの言葉だが、
この頃よく思い浮び、心に留まる。
 名指しされているようで、直視できない。

 だが、戒めと捉え、父越えに向かおう。
そんな意を強くしているのだが・・・・・。

  


  キクザキイチゲ・花言葉『静かな瞳』

  
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それを越えて ふたたび

2018-04-14 16:27:46 | 心残り
 貧しい筆力を承知で、
まずは、私が走る10キロのジョギング4コースをスケッチする。


 ① 自宅からすぐの十字路を左に折れる。
すると緩い一直線の下り坂が、噴火湾の近くまで2キロも続く。
 丁度その真ん中辺りで、国道37号線を横切る。
走り始めの下りだ。
 これほど楽な走り始めはない。

 さほど苦にもならず、海の匂いがする道を右折。
そこから、西に向かう。
 朝日を背に、平坦な歩道を住宅街の外れまで行く。

 旧国鉄胆振線の跡地を整備したサイクリングロードに出ると、
桜の並木が続く。
 今年もきっと5月の連休には、満開を迎えるだろう。
そこを1キロ、宿泊もできる『伊達温泉』に着く。

 この付近からの左前方は、伊達のビュースポットの1つだ。
広がる田園の先に、荒々しい有珠山がある。
 走るたびに、ここからの山容に力を貰う。

 この辺が、中間点の5キロだ。
大きく右へUターンし、一般道に出る。
 少し急な上りを過ぎると、製糖工場とその先に大きな海が広がる。
いつも、ここで深呼吸し、足を緩める。
 その雄大さを目で追いながら、下り坂を進む。

 その後は、住宅が『館山』の山裾まで続く道を行く。
毎回、この5キロから7キロあたりが、軽い走りになる。
 私なりに、風を切る。心地いい。

 秋には、気門別川を遡上する鮭を、橋上から見る。
そして、市街地の歩道を東へ。
 その後、市役所前の通りを左折し、緩い上り道から国道に出る。

 後は、歴史の杜公園を突き抜け、総合体育館の横を通る。
最後は、住宅街の緩い上り坂を、
汗だくで自宅まで、ひたすら腕を振る。 


 ② 自宅から2キロの下り坂を進み、
海の匂いがする道までは、同じコースをたどる。
そこから、今度は左折する。

 民家と民家の間から、右手に海を見ながら、
北舟岡駅の十字路まで行く。
 折り返し地点のそこまで、ダラダラとした上り道が続く。
その丁度真ん中付近に300メートル程の急坂がある。

 そこが第一の難関である。
潮騒や潮風も、路傍の花も、どうでもよくなる。
 ただただ、前傾で腕を振り、何とか上りきる。

 第二の難関は、北舟岡駅から国道までの1キロの上り坂だ。
畑と畑の間の舗装路だが、平坦な箇所が全然ない。
 上り上り、その上、日陰もない。
脱水症状で、ここで1度だけリタイアしたことがある。
 トレーニング走には最適な難所だ。
ここで、中間点を通過する。

 国道に出ると、下り坂の復路になる。
2つの難関を駆け抜けた爽快感もあって、
緑の耕作地とその先の噴火湾を、背筋を伸ばして見る。
 そして、反対側にある、ゆったりとした稀府岳にも目がいく。

 朝の国道は、マイカー通勤で賑わう。
その運転席から視線を感じる。
時には、小さくクラクションが聞こえることもある。
 勝手に声援と受け止め、それを力にして走る。

 残り2キロは、国道を右に折れ、
デントコーンの畑の間を通る。
 そして、右に左に腰折れ屋根の牛舎を見ながら帰路を急ぐ。

 最後は、再びデントコーン畑の下り坂を、
スイスイと足を進める。
 

 ③ 自宅横の十字路を、右に曲がる。
上りの緩い坂なのだが、走り始めにはきつい。
 0,5キロで、伊達インターと洞爺湖を結ぶ道道に着く。
そこを左折して、平坦な道をまた0,5キロで再び十字路。
 そこを右へ。

 スネークしたダラダラ坂が約10分間、
ただひたすら黙黙と駆け上る。
 高速道路の下を通り過ぎ、ようやく高台の平坦な道で左折する。

 その道からの晴れた日は、素晴らしい景観が広がる。
右手の遠方には、羊蹄山の美形。
 そして、左手前のすぐそこに有珠山と昭和新山がある。
もっと左には、伊達の市街が遠望できる。
 そして、真っ直ぐな道の両側は、小麦やビートの畑が続く。

 「ここまで、上ってきてよかった。」
そう思いながら、足を進める。
 道沿いの関内小学校を過ぎて、間もなく、
目の前にトンネルの道が見えてくる。
 その交差点を左折し、今度は同じ道道を市街地方向へと折り返す。
道の両側は、矢張り伊達野菜の畑だ。

 緩い下りを10分程行って、右折。
短い急坂を上ると、『館山』の台地が、
有珠山の麓まで続いているかのように見える。

 広大な耕作地だ。
様々な野菜が作られ、美瑛や富良野と同様の景観に出会える。
 さらに、私の後ろには、昭和新山と羊蹄山があり、
左には紋別岳や稀府岳が連なる『伊達・東山』だ。

 この道には、春と夏と秋と冬の色を教えてもらう。
四季の流れと共に、
ここでの暮らしに満たされている私に気づく。
 足は不思議と軽くなる。
  
 その台地を下った後は、国道を東に走る。
歴史の杜公園と総合体育館横を通過し、緩い上りの帰路になる。
 アップダウンはきついが、伊達郊外の魅力を満喫する10キロだ。


 ④ 自宅そばの十字路から、息を弾ませ、
伊達インターからの道道までたどり着く。
 そこを左折した後は、一本道を1キロ。
息が整った頃、坂を駆け上り、『館山』の台地に着く。

 前述した景観を通過し、そこを駆け下りた後、
今度は、高台にある光陵中学校までの上り坂だ。

 伊達ハーフマラソンのコースでは、10キロ付近にトンネルがある。
その入口には、急坂が待っている。
 それを、思わせるきつい坂道を進む。
足が次第に重くなる。息が弾む。それでも、いつも上りきる。
 ちょっとした達成感がある。

 その思いを持ったまま、平坦な道から下り坂へ。
伊達警察署前から左折する。
 ここから国道を東へ東へと走る。

 朝のジョギングでは、この道で
最初に、バスを待つ高校生たちの前を通る。
 その一団に、朝の挨拶をする。
驚いた声で、挨拶をかえす生徒が数名いる。
 それだけでも、気分はいい。

 ところが、しばらく行くとランドセルの後姿に追いつく。
ここでも、私は朝の挨拶をする。
 追い抜く小学生は、どの子も欠かさず挨拶を返してくれる。
いつも感心する。そして、明るい気持ちが増す。

 続いて国道をそのまま行く。今度は伊達中学校が近づく。
追い抜く中学生も、欠かさず私に挨拶を返す。
 その上、校庭でライン引き等の作業をする先生と生徒までが、
「おはようございます」と声を張り上げてくれるのだ。

 ここまで7キロを走ってきた。この先長い上りが続く。
息は荒いけど、笑顔で走ることができる。

 坂の途中に、もう1つ小学校がある。
そこでも、挨拶を交わす。
 そして、辛さを忘れ、坂を上りきり、残りの道を急ぐのだ。


 さて、ここまで10キロのジョギングコースを綴った。
その道々で、走りながら心熱くしている私がいる。
 幸いなことに、そんな楽しさを、この年令で感じている。
じつにハッピーだ。

 ところが、風邪が全快しない。体調がすぐれない。
走れないことに、イライラする日が続いている。

 夕方になると、翌朝の天気が気になる。
目覚めと共に、カーテン越しに空模様をみる。
 いい天気なら、急いで身支度を整える。
入念なストレッチの後、ジョギングを開始する。
 それが、6年前から日課なのだ。
 
 それができない。
誰も言いはしない。
 「もう、年なんだから・・。」
時々私がそう思う。
 でも、それを越えたい。
まだまだと思いたい。

 珍しく弱気な私に気づく。
明日は、そんな思いのまま、沿道から
伊達ハーフマラソンのランナー達に声援を送るのだろうか。

 



    『歴史の杜公園』湧水池の 水芭蕉 
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あゆみ ~6年目の伊達ハーフマラソン

2018-04-07 15:16:36 | 北の湘南・伊達
 ▼ 平成24年6月上旬、
首都圏から北海道伊達市に移り住んだ。
 家内と二人、退職後の新たなスタートだった。

 伊達での暮らしは、「毎日がサンデー」。
再就職など視野になかった。
 ダラダラと朝を過ごし、同じペースで時間を使い、
1日が終えるような気がした。
 家内は別のようだが、私は、それを一番危惧した。

 何か避ける方法はないか。その方策を探った。
それが、朝のジョギングだった。
 毎朝、決めた時間に、決めた道を、ゆっくりでいいから走る。
それならば、ウオーキングでもよかった。
 しかし、見栄を張った。
それより少しだけハードルを高くしたのだ。

 振り返ると滑稽だが、
自宅からわずか2キロ足らずの周回コースを、
汗だくに荒い息で、スロースローのジョギングだった。
 それでも、毎朝、気分は晴れやかになり、
そのまま1日を過ごした。

 春からの移りゆく季節の風が、
家内と並走する私の背中を押した。
 冬を迎えると、寒さと雪で走れない日が続いた。
春が待ち遠しかった。

 そんな2月のある日、市内の店先に
『春一番伊達ハーフマラソン』のポスターがあった。
 そんな地元の催しを知らなかった。

 家内と二人、ポスターの前で立ち止まった。
「ハーフだけでないよ。10キロもある。ほら、5キロもある。」
 思わず口にした。
それは、5キロのコースが、
毎朝ゆっくりジョギングしている道と、
一部分が重なっていたからだ。

 地元での大会。しかも、身近なコース。
私の心が動いた。
 「5キロなら、走れるのでは・・」。
その上、「地元の大会の、少しは役立つのでは・・」。

 1人では心細かった。
強引に家内を誘った。
 そして、5キロの部にエントリーした。

 1枚のポスターが、導いてくれた。

 ▼ そして、平成25年4月、
家内と一緒に、5キロを走った。
 2、5キロで折り返し、いつも走っている道を、
いつもより少し速く走った。

 ゴール後、完走証を貰った。
嬉しかった。
 それを両手で頭上にかざし、写メを撮った。
すぐに息子らに送った。
 私は、完全に有頂天になっていた。

 その興奮のまま、知り合いなどいないのに
10キロの部をゴールする人たちを、出迎えに行った。
 倍の距離を走り終える健脚たちのゴールに、
笑顔で拍手した。

 沢山のランナー達と一緒に、
腕と腕を紐でつないだ視覚障害の方と伴走者がゴールした。
 テレビニュース以外では、初めて見るシーンだった。

 何と言っても、ゴールした二人の後ろ姿が、素敵だった。
今も、はっきりと思い出せる。
 互いの健闘をねぎらい、讃えていたのだろう。
二人の背中が、「まぶしくてまぶしくて」だった。
 
 なぜか、5キロ完走で有頂天になっていることが、
恥ずかしくなった。
 思わず、私は頂いた記録証を背中に隠していた。

 大会会場から自宅までの道々、
「伴走者になりたい。」
何度も思った。

 でも、どんなに頑張っても私には無理なこと。
ならば、来年は、あの2人と同じ10キロを走りたい。
 1年後への、ハッキリとした目標ができた。

 あの出逢いがなければ、
きっと私は翌年もその次の年も5キロを走り、
満足していたと思う。

 ▼ 翌年の大会、私は10キロにエントリーした。
家内と一緒に走り出し、何とか完走した。
 視覚に障害のあるランナーと伴走者の姿を見ることはなかった。

 でも、多くのランナーと一緒に、ゴールを目指した。
そこには、老・若・男・女、様々な人々がいた。
 色々なスタイル、ファッションの人たちだったが、
みんな、はるか先の同じゴールに向かって走った。
 目標は1つだった。
その連帯感が、やけに嬉しい気持ちにさせた。
 大会参加の楽しさを知った。
 「来年は、ハーフに挑戦したい。」
そんな気持ちが少し芽生えた。

 大会から半月後だった。
私は、右手の尺骨神経マヒの手術を受けた。
 経過が思わしくなく、術後に様々な制約が強いられた。
でも、1ヶ月後にはジョギングだけは許された。

 私は、うっぷん晴らしとばかり、秋まで毎朝走った。
大会で芽生えたハーフマラソンへの意欲が増していった。

 ▼ 次の年、自信など全くなかったが、
「やってみたいんでしょう。ならチャレンジしてみたら」。
 家内の言葉に押され、ハーフの部にエントリーした。
67歳の冒険だった。

 ところが、大会まで1ヶ月余りの日だ。
緩い雪融けの上り坂を走っていた時、突然ふくらはぎに激痛が走った。
 肉離れだった。
整骨院などで、治療を試みたが、大会には間に合わなかった。
 
 沿道からランナーの勇姿を見た。
声援のポジションにいることが、悔しかった。
 まさにアスリートと同じ気分だ。

 そのリベンジとばかり、
同じ年、6月に八雲、9月に旭川、そして11月に江東区と、
ハーフマラソンに挑戦し、完走を果たした。

 その頃、新しくできた伊達市体育館のトレーニング室に、
ランニングサークル『スマイル ジョグ ダテ』が発足した。
 目的は、伊達ハーフマラソンを、みんなで走ることだった。

 そこに、フルマラソンを何度も完走した健脚が2人いた。
「ハーフを3度も完走できたんだから、フルも走れますよ。」
 2人とも、口をそろえて、2度も3度も私に言った。

 「いや、私はもう年だから・・」。
そう尻込みする私に、2人は涼しい顔でいつも言い切った。
 「年令、そんなの関係ない。」

 ▼ 一昨年、昨年と、
4月の伊達ハーフマラソン、そして5月の洞爺湖のフルマラソンにチャレンジした。
 昨年のフルは、悔しい途中棄権だった。

 しかし、伊達ハーフマラソンの大会に初参加してから5年間、
5キロ完走1回、10キロ完走2回、ハーフマラソン完走11回、
フルマラソン完走1回を数える。
 
 規則的な暮らしのために始めたジョギングだった。
それが、地元の『伊達ハーフマラソン』での様々な出逢いを通し、
今の私の走りに繋がっている。

 ▼ さて、今年である。
1週間後には、『第31回春一番伊達ハーフマラソン』だ。
 当然、ハーフの部にエントリーした。

 しかしなのだ。
正月から風邪をくり返してきた。
 それでも、間隔を開けながら、暖かな好天の日は外を、
雪や寒さの日は、体育館やトレーニング室を、
マイペースでランニングしてきた。

 ところが、3月下旬から昼間も伏せる日が続いた。
風邪と思われる体調不良が、深刻になった。
 処方してもらった薬を欠かさず服用した。
それでも、一進一退が続いた。

 そんなある日夕食の後だ。
電話が鳴った。
 薬を処方して頂いた医師からだった。
「喉の検査から、肺炎桿菌か見つかりました。
違うお薬を出しますので、明日にでも来院してください。」

 翌日、医師は
「治るまで運動は控えた方がいいです。」
病状と一緒にそう説明した。

 今は、まだ6割程度の回復と自己診断している。
これでは、スタート位置に立てない。
 「退く勇気を持つ。」
今年は、そう決めた。





  小さな川岸の春 ・ つくし  
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