ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

69歳の向暑&野分(前)

2017-09-29 21:54:46 | ジョギング
 (1) 向暑の1日

① スタート前
 『第32回やくもミルクロードレース大会』は、
6月11日(日)に道南・八雲町で行われた。

 私は5月の洞爺湖のフルマラソンで、
初めて途中棄権し、悔しい思いを経験した。
 だから、八雲のハーフは、しっかり走りきると決めた。

 洞爺湖マラソンから3週間後の大会であったが、
その間、朝のジョギングなどで計100キロを走り、
私なりの準備をした。

 ミルクロードレースへの初参加は、3年前になる。
その年の4月、伊達ハーフマラソンで、
初のハーフにエントリーした。
 そのため、冬期間も走り続けた。
しかし、間近でふくらはぎの肉離れ。
 不参加となった。

 急きょ6月の八雲ミルクロードレースでハーフを走ろうと決めた。
ところが、その時、エントリーの締め切りが3日後に迫っていた。
 大会案内の問い合わせ先になっていたOさんに電話を入れた。

 「大会に参加したいのですが、今からでもいいでしょうか。」
「大丈夫だよ。振り込み用紙を送るから、参加費を送って。」
 「そうですか。間に合うのなら、銀行振り込みで送金します。」
「いや、銀行は手数料がかかるから、用紙を送ってあげる。
住所と名前を言って。」
 
 気さくな人柄が、受話器から伝わってきた。
そのOさんは、
八雲陸上競技協会長として、この大会長を勤めていた。

 ところが、今年、その任を後輩に譲った。
それでも、元気な姿が会場にあった。
 
 小さな町での、参加者400人程度のマラソン大会である。
なのに、今年で32回を数える。
 今年から大会長になった方が、開会式の挨拶の冒頭で、
「Oさんは、長年、この大会を、先頭になって支えた方」
と讃え、その労をねぎらった。

 開会式の最前列で私たちと向き合い、
胸を張ることもなく、静かに立っているOさんに、
誰よりも長い拍手を送った。

 その後、初めて声をかけた。
一緒の写真に収まってもらった。
 「ありがとうございました。」 
心を込めて、頭を下げた。
 この大会が好きなのは、Oさんがいたからかもと思った。


 
 ② 前半の走り

 午前10時、ハーフの部と10キロの部の男女、
約300人が一斉にスタートした。

 このレースは、ハーフの制限が緩く、
10キロ通過が1時間25分、それだけである。
 それなのに、何故か健脚ぞろいなのだ。
みんな、合図と共に物凄い勢いで走り出す。

 私は、その流れに乗らないよう、マイペースで走り始める。
しかし、体が軽い。
 ついつい周りの走りに合わせてしまう。
いつもより速いと思いつつも、足が動いた。

 3キロを過ぎたころ、1人の女性を抜いた。
伊達総合体育館のサークル『スマイル・ジョグ・ダテ』で、
顔馴染みになった方だ。

 「八雲は、アットホームな大会だよ。」
私の誘いを聞いて、
今年初めて10キロの部にチャレンジした方である。

 少し並走しながら、息を切らせながら言った。
 「ペース、速過ぎ! 遅くしたいのに、落ちないんだ。」
「ハーフは長いよ。冷静に、冷静に。」

 それから、約2キロ。
突然、その女性が私を抜きながら言った。
 「いいペースじゃない。その調子でね。」
「・・・。」
 「お先に!」

 そこからは、私が、後ろ姿を見ながら走った。
次第に遠くなっていった。
 ようやく私らしい走りになった。

 8キロを過ぎたところで、
10キロのランナー達が折り返していった。
 女性も、折り返していった。
急に前にも後ろにも、走者が少なくなった。

 そこから約4キロ程、ダラダラとした上り坂が続いた。
寂しい走りの沿道には、緑の牧草地が広がっていた。
 時々、牛たちが不思議な顔で私を見ていた。

 伊達から遠方の大会なのに、
声をかけ合って走る方がいた。
 今までとは違った、楽しさがあった。 


 ③ 後半の走り
 
 ダラダラ坂の途中に折り返しがあった。
そのすぐ近くで、背の高い男性が、勢いよく私を追い抜いた。

 折り返すと、当然坂は下りになった。
しばらく走ると、息が整い、走りが軽くなった。
 私を抜いていった背の高い男性が、間近になった。
勢いよく追い抜いた。
 気分がよかった。
 
 しかし、再び長い上り坂になった。
息が荒くなり、ペースダウンした。
 すると、あの背の高い男性が、
私に追いつき、勢いよく抜いていった。
 悔しいが、その速さにはかなわなかった。

 ところが、また下り坂。
しばらく進むと、背の高い男性が近くなった。
 少しスピードを上げ、嬉しい気持ちを隠しながら、
追い抜いた。

 緩い坂道のアップダウンが続いた。
その度ごとに、何回も抜かれた。その度ごとに、何回も抜いた。
 悔しさと嬉しさが、交互にやってきた。

 40歳代だろうと思った。
途中から、私は2人のレースに年令を忘れ、
むきになった。

 「上り坂で抜かれても、下りで絶対に抜く。」
そう思って走った。
 彼もきっと、同じ思いで走っていたに違いない。
「下り坂で抜かれでも、上りで絶対に抜く。」

 2人の「抜きつ抜かれつ」は、
12キロ付近から18キロ付近まで続いた。
 その間、下り坂を軽快に走る私に驚いた。
そんなスピードで走っていることが、嬉しかった。
 このままゴールまで2人のレースを続けたいと思った。

 しかし、あれは、18キロを過ぎた辺りだった。
緩い下りが終わって間もなくだ。
 彼は私を抜いた。
ここからゴールまでは、平坦な道が続いた。

 残り3キロだ。
彼はラストスパートをかけたのだ。
 みるみる2人の距離が離れた。
追いかけようと思った。
 でも、悔しいが、足が進まないのだ。呼吸が荒いのだ。
ここまでで、2人のレースは決着がついた。

 もう、走り切ることだけを目指して、
「後2キロ!」「後1キロ!」と足を運んだ。

 ゴールの陸上競技場トラック入ると、
先にゴールしたランナーたちが、
拍手で迎えてくれた。
 アットホームな雰囲気に迎えられた。

 その中から、10キロを走り終えた、あの女性と、
その仲間から声が飛んだ。
 「ツカハラさん、最後まで頑張れ!」
 悔しいゴールだが、笑顔になった。

 きっと私よりずっと早くにゴールしたであろう、
あの背の高い男性を探した。
 見つけたら、握手がしたかった。
だが、その姿はどこにもなかった。

 無言のライバルがいたからこその、後半だった。
少し走りに自信がついた。 

         『69歳の向暑&野分(2)』につづく





 収穫を待つ 秋キャベツ
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台風が通過して ・ ・ ・

2017-09-22 21:58:17 | 北の湘南・伊達
 秋の収穫期を迎えた。
畑には、カボチャがゴロゴロしている。
 朝、ジョギングする私のそばで、
トラクターが、ジャガイモ堀にエンジン音を轟かせていた。
 そろそろトウモロコシが終わり、
間もなく稲刈りが始まる。

 そんな実りの秋真っ盛りの時、
台風18号が、私の街を通過していった。

 伊達に移住してから、
台風は、昨年8月30日の10号に続いて2回目になる。

 昨年は、強風で伊達の歴史を目撃してきた樹木が、
次々となぎ倒された。
 我が家からすぐの高校の大木も、
『だて歴史の杜』の樹齢100年を越える木々も、
次々と根こそぎ横倒しになった。

 栗やオニグルミの小さな実が吹き飛び、散乱した。
街の景観も随分変わった。
 
 ゴルフのホームグランドになっている『伊達カントリー』は、
倒木が100本を越え、停電の復旧に3日も要した。

 ビニルハウスは、ほうぼうで鉄骨だけになった。
芽吹き始めたばかりの秋まき小麦の新芽が、
無残に流された。
 農作物の被害は、伊達だけでも億の単位と聞いた。

 私でさえ、台風の爪痕に怒り、
そして胸が詰まるような悲しみにおそわれた。
 「自然には、逆らえないから・・・。
また来年、頑張るわ。」
マイクを向けられ、淡々と応える農家の方の声に、
涙が湧いた。

 1年が過ぎ、市街と周辺地から被害が、
ようやく姿を消そうとしていた。
 いや、失った大木の寂しさに慣れ始めた。
そんな時の、台風18号である。

 天気予報が、18号の日本列島縦断を伝え始めた。
何とか北海道への上陸だけは、
避けて欲しいと願っていた。

 ところが、18日深夜、
ゴゥーゴゥーという地鳴りを伴った風の音と、
それに合わせ、屋根を打つ猛烈な雨音に目がさめた。
 ただただ、昨年のような被害がないことを祈り、
朝を迎えた。

 朝食前、電話が鳴った。
4月から自治会の役員を受けた私に、
自治会長さんからだった。

 「市が、防災センターに避難所を開設しました。
住民から問い合わせがあったら、そう応じて下さい。」
 そんな内容だった。
早速、各役員さんと班長さんへ、電話連絡を入れた。
 緊張が走った。

 嵐は、一向に衰えを見せない。
とうとうテレビは、
伊達を流れる2級河川『長流川(おさるがわ)』も、
危険水位に達したと伝え始めた。
 そして、思いも及ばなかった、あの穏やかな気門別川も、
危険だと言う。

 急ぎ市のホームページを見た。
驚いた。
 2つの川の河口付近の地域に『避難勧告』である。

 我が家からは、かなり距離があった。
でも、朝のジョギングコースになっている場所である。 
 走る度に、広々とした景観が心地よさを教えてくれた。

 2つの川とも、この時期から鮭が遡上し、
例年、大自然の壮大なロマンに、胸を熱くしていた。
 長流川は、これから白鳥が飛来し、越冬する拠点である。

 その川が、今、住民に被害をもたらそうとしていた。
恐怖となっている。

 「押し寄せる濁流に、逃げるしかない道はないのだろうか。」
「何とか堤防決壊や氾濫だけは避けて欲しい。」
 そんな思いで、嵐が過ぎ去る時を待った。

 11時を回った頃だろうか。
風も雨も、回復のきざしを見せた。
 静けさが戻った。
その時だった。

 1台の消防車が、カーンカーンと鐘を鳴らしながら、
何かを告げて通り過ぎた。
 家を飛び出し、聞き耳をたてた。
自分の耳を疑った。

 「アヤメ川が氾濫しています。
自主避難をお願いします。」
 消防車は、くり返し告げた。

 アヤメ川は、散策路のある自然公園を流れる、
細い小川である。
 木々に囲まれたその川沿いは、
四季折々の変化を楽しめる素敵な散歩道だ。

 早朝に限らず、何人もの方と、
いつもこの道で挨拶を交わしてきた。
 東京から、友人・知人が来ると、必ず案内した。
私の気に入りの『伊達』である。

 その小川が「氾濫!」
消防車の広報に、半信半疑だった。

 でも、ここ数年、
各地で想定外の災害が報道されている。
 まさかと思いつつ、すっかり雨の上がった道を、
マイカーでアヤメ川へ向かった。

 出発してすぐ、その異常さに一瞬、全てを疑った。
車が立ち往生しかねないほど、
車道も歩道も冠水し、茶色に覆われていた。

 アヤメ川からあふれた濁流が、
我が家とは反対方向の道を伝い、
勢いよく流れ出ていた。

 想像したこともない異様さに、息を飲んだ。
道が冠水している地域には、何人かの顔見知りがいた。

 1時間ほど時間をおいて、
家内と一緒に様子を見に行った。
 濁流は引いていたが、たい積した泥を、
スコップ等でかき集める人たちがいた。

 「大変でしたね。家の中はどうですか。」
「もう少しでしたが、家は大丈夫です。」
 「・・・・。」
「ビックリですよ。あのアヤメ川が、
こんなことになるなんて、信じられません。」
 「・・・・。」
「ここで25年も暮らしているけど、こんなの初めて。」
 作業の手を止め、語ってくれた。

 あの日から4日が過ぎた。
冠水で汚れた市街地の道路も駐車場も、泥が片付き、
いつもに戻っている。
 でも、新たに倒れた木が、何本も目に止まる。
通行止めが続く道路もある。

 昨年、今年と想像を越える自然の猛威に言葉がない。
 
 現職の頃、保護者から、
現在もNHKテレビで気象予報士をしている平井信行さんを、
紹介して頂いた。
 それが縁で、校長らの研修会で、講演をお願いした。

 大学では、天気予報士とともに、教職を目指していた彼が、
その講演で強調したのは、
地球の温暖化への危機感だった。

 「子どもの未来、人類の未来のために、
今、何ができるか。」と、問いかけられた。

 その時、彼が示した異常気象が実際になっている。
あれから10年である。

 「今、何ができるか。」
大自然と平井さんから
あらためて、問われているように思う。
 
 
 


   ハマナスも真っ赤な実をつけた
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笑 顔 ・ 笑 顔 その2

2017-09-15 22:20:55 | 教育
 ▽ 昭和から平成になってすぐ、
国際理解教育が注目されるようになった。
 時代がグローバル化へと進んでいた。
それに呼応してのことだ。

 以前にも記したが、
教頭として初めて着任した小学校は、
その国際理解教育の先進校だった。

 国際交流の名目で、外国からの来校者を数多く迎え入れた。
また、区教委の理解を得て、
横須賀の米軍基地内にあるSスクールと連携し、
年に1回だが、6年生が互いの学校を訪問し、
異国の小学校を体験させた。

 とは言っても、国際理解教育の方向性は、
まだはっきりとは定まっていなかった。
 先進校としての実践も、手探り状態が続いていた。

 着任して3年目、試行錯誤の実践から、
1つの方向性が定まりつつあった。
 それが小学校での英語教育である。

 時を同じくして、その頃、各教委を通して、
外国人講師の学校派遣が始まった。
 小学校では、『総合的な学習の時間』を利用して、
英語に触れる機会ができた。

 だが、「どんな手立てで英語と触れさせるか」、
「何年生からが相応しいか」など、
課題が多かった。

 そんな状況の中、日常的に英語に親しむ機会をと、
教頭の私は、
学校の各教室等の表示に、英語表記を加えようと思いついた。

 ところが、『1年1組教室』をどう英訳していいのか、
『職員室』は英語でどう表記するのか、
私には全く分からなかった。

 そこで私は、人捜しに奔走した。
学校の全ての部屋名を英訳できる方を探したのだ。
 しかも、虫のいい話だが、『手間賃無料で』である。

 地域自治会とPTAの役員さん、
さらには各商店のご主人らに、人捜しを依頼した。
 当然、学校便りでも『どなたかお力を!』と募集した。

 数日後、PTA役員さんが、1人の保護者を連れてきた。
そのお母さんは、
3年前まで国際線のスチュワーデスをしていたと言う。

 「自信はありませんが、やってみます・・。」
お母さんの表情は、沈んでいた。
 とんだ依頼が舞い込んで、困ったという気持ちが、
その表情から読み取れた。

 それでも、私は厚かましく押し切った。
「特に、急いでいる訳ではありません。
時間があるときに、よろしくお願いします。」
 そう言いながら、全ての部屋の名前を記した一覧を、
お母さんに手渡した。

 数日して、そのお母さんから電話があった。
「すみません。教えて下さい。
鄕土資料室ってどんな部屋ですか。」

 そして、また翌日、
「理科準備室には、誰か先生がいるんですか。」
 次の日も
「音楽準備室は、音楽の先生がいるんですね。」

 電話は、続いた。
 「主事室には、誰がいるんですか。
・・・どんな仕事をしているんですか。」

 お母さんの度重なる質問で、
私は正確な英訳表記の難しさを、少し理解した。

 2週間後、お母さんは、
私が渡した一覧に似たものを持参して来校した。
それには、各教室等の英語が記されていた。

 開口一番、明るい表情で、お母さんは言った。
意外だった。

 「私、学校のこと、全然分かっていませんでした。
こんな機会がなかったら、何も知らないまま、
娘を学校に通わせていたと思います。
 先生、ありがとうございます。
まだ気になるところがありますが、
何人かの友だちに見てもらって、
これでいいんじゃないと言うので、
お持ちしました。」
 
 私は、恐縮した。
お母さんのご苦労がどれ程のものだったのか、
それを事前に想像もできないまま、
依頼したことが恥ずかしく、沈んだ。
 私にできたのは、
お礼の頭を深々と下げることだけ。
 それにしても、お母さんの明るさが、随分と私を救ってくれた。

 早速、職務の合間を縫って、
各部屋の廊下表示を英語入りに作り直した。
 そして、それを一斉に掲示した。

 私は、英語入りの教室等の表示に、好反応を期待した。
ところが、その変化に気づいたのは、
驚くほどわずかな子どもと職員だった。

 しかも、「アッ、英語入りだ。」
その声は事実を告げただけで、驚きも好感もなかった。
 ご苦労をおかけしたお母さんに申し訳ない気持ちになった。
当然、私は肩を落とした。

 翌朝だった。
廊下で、3年生の女の子に呼び止められた。

 「おのね、これ、私のお母さんが英語にしたんだよ。」
まぶしいほどの笑顔で、教室の英語入り表示を指さした。

 「そうなの! あなたのお母さんだったの。
お母さん、すごいね。」
 「ウン!」
女の子は、軽く跳びはねながら教室に戻っていった。
 そして、もう1度笑顔でふり返ってくれた。
明るい気持ちになった。


 ▽あの頃、都内の小学校では隔年で、学芸会があった。
私は、若い頃から、学芸会が大好きだった。
 毎回、全力投球をした。

 子ども一人一人が、役に徹し、あるいは自分の役割を果たし、
1つの劇を完成させ、披露する。
 そのことに、日常の学習では得られない貴重な収穫があった。

 舞台の子どもは、いつもとは違う姿を見せた。
Aちゃんが、あんな悲しげな表情をする! 
B君が、跳びはねて喜んでみせる! 
CちゃんとD君が手をつないで登場した!
 その1コマ1コマに、心を熱くした。

 そして、1つの劇に心を合わせて、
みんなで演じきった貴重な喜び。
 その全てが、学芸会の魅力だった。

 だから、台本選び、大道具作り、演技指導等々、
そして当日の運営まで、
私は疲れを忘れ、夢中になった。

 学芸会の1か月以上も前から、
帰宅が、いつもに増して遅くなった。
 苦になるどころか、楽しい毎日だった。

 40代になり、管理職の道へ進もうか、迷った。
「教頭になったら、
子ども達と一緒に学芸会ができなくなる。」
 何を隠そう、私にとって新たな道へ踏み出す、
大きなためらいだった。

 それでも、管理職の道を選択した。
だから、担任としての最後の学芸会は、特別なものになった。

 私は、誰もがさけるであろう、
影絵劇にチャレンジすることにした。

 影絵劇は、保護者に不評な出し物だ。
何よりも、演技する我が子の姿が舞台にない。
 どの子も、声優か人形使い、背景投影スタッフなのだ。
保護者は、どんな役でもいいから、舞台に立つ我が子が見たいのだ。

 しかし、私はその願いに背いた。
小学生でも素晴らしい影絵劇ができる。
 そんな想いで、難しい劇に子ども達とチャレンジしたいと、
私は燃えた。

 実は、以前に1度、影絵劇に取り組んだことがあった。
未経験の試行錯誤が、でき映えに悔いを残した。
 最後の学芸会、その反省を生かし、
悔いのないものにしたかった。

 影絵劇『へっこき嫁さ』。
私の提案に、6年生の子ども達は興味と意欲を示してくれた。
 それぞれの役割分担にも、進んで名乗りを上げた。

 ベニア板を電動糸のこで切り抜いてつくる人形作り、
そして、厚紙とセロハン紙で描く山里の背景、スクリーン制作など、
そんな演技前の作業も、ワイワイガヤガヤとにぎやかに、
楽しく取り組んだ。

 その後の、声優と合わせた人形操作、背景転換。
それがスクリーンにどう映っているのか、
半信半疑の練習が続いた。

 次第に熱のこもる私の指導に、
子ども達はしっかりと応じてくれた。
 誰も音を上げなかった。

 そして、いよいよ学芸会の日が来た。
1日目は、児童観賞日だった。
 真っ暗な体育館の舞台に、あざやかな影絵が映し出された。

 ベニア板をくり抜いた愛らし嫁さが、山里を動き回った。
原色と黒のシルエットが、素敵なメルヘンを作った。
 その日、私は子ども達と一緒に舞台にいた。
スクリーンを隔てた裏側で、
それぞれが手順よく動き、演じきった。
 頼もしかった。
幕が下りると、大きな拍手が湧いていた。

 翌2日目、保護者観賞日に、トラブルはおきた。
前日の大成功に、私は安心した。
 全てを子ども達に任せ、
保護者と一緒に劇を見ることにした。

 影絵劇の美しさに、一人胸を張った。
小学生でもこんな素敵なスクリーンを作ることができる。
 子ども達を誉めてもらいたかった。

 劇は、いよいよクライマックスになった。
「へっこき嫁さ」ががまんの限界に達したのだ。
 おならをする場面だ。
その音とともに、すべての背景が黄色に変化していく。
 影絵劇だからできる場面だった。

 今、まさにその音が体育館中になり響く、その時だ。
スクリーンの明かりが消えた。
 突然真っ暗になった。
体育館が、暗闇に包まれた。

 劇が終了してから、私は原因を知ったのだが、
背景を黄色に変えようとした時、誰かの足がコンセントにかかった。
 電源がはずれ、真っ暗闇になった。

 一瞬、舞台上の全員の動きが止まった。
予期しなかった事態に、みんな身を固くした。

 その時、
「コンセントだ。」
「コンセントを差せ。」
  暗闇で、小さな声がとびかった。
 手探りでプラグをさがし、コンセントに差した。

 スクリーンが明るくなった。
同時に、大きなおならの音がした。
 そして、黄色く背景が変わっていった。
  
 みごとな連携プレイだ。
一瞬の暗闇は、演出効果になった。
 その後、劇は最後の盛り上がりと共に幕となった。

 そして、学芸会2日目のプログラムを全て終了し、
私は、子ども達の待つ教室に戻った。
 
 誰の足がコンセントにかかったのか。
「コンセントだ」と言いだしたのは誰か。
そして、誰がプラグを差したのか。

 そんなことより、みんなであの危機を乗り切ったこと、
沢山の賞賛の声と拍手をもらったことを、
みんなは喜び合っていた。
 子ども達は、上気していた。
その時、どの子もとびっきりの笑顔を、私に向けてくれた。
 
  



   秋空に まだ青い柿 
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笑 顔 ・ 笑 顔 その1

2017-09-08 22:06:36 | 教育
 ▽ 確か10数年前になる。
テレビ番組の『学校に行こう』が、子ども達に人気だった。
 その1コーナーに、学校の屋上に1人立ち、
眼下にいる校庭の子ども達に、
自分の想いを叫ぶものがあった。

 それと同じことを、私の学校で年に1,2回、
朝の集会で行っていた。
 「全校児童にでも、ある特定の人にでもいいから、
みんなの前で訴えたいことや、
叫びたいことがある人はどうぞ!」と、
事前に集会担当の高学年が呼びかけた。
 いつも20人位の子どもが名乗りを上げた。

 屋上からは危険なので、
3階にある体育館のバルコニーに、
主張したい子が立ち、大声で叫んだ。
 色々な訴えがあったが、
強く心に残っているものがある。

 4年生の男の子だった。
その子が、バルコニーに現れると、校庭の全校児童から、
「エーッ!」。
 なんとも重たい驚きの声がもれた。

 予想外なのだ。
「あの子が、何か言うの!? そんなこと、できるの?」。
 みんなが、一様にそう思った。
確かに地味な子だった。

 校長として毎朝、校門で子ども達を迎えていた。
いつも背中を丸め、小さな声で挨拶し、
私の前を通り過ぎる子だった。
 私も、意外な子の出現に、驚いた。

 彼は、3階のバルコニーに立ち、
背筋をすっと伸ばして立った。
 彼の開口一番に、全児童、全教職員が、声を飲んだ。
「ボクには、大好きな人がいます。」

 続いて、静かになった校庭に向かって、
彼は大声を張り上げた。
 
 「その人は、いつもボクの友だちに声をかけます。
そして、楽しそうにお話をします。
 ボクは、それをそばで聞いています。
時々ぼくも笑います。
 楽しいです。
・・・。
 その人はB先生です。
ボクは、B先生が大好きです。
 だから、ボクのことも、好きになってください。
お願いします。」

 女性のB先生は、3月に大学を卒業し、
着任して半年余りだった。
 担任をもっていなかった。
算数の時間に、彼の教室に行った。

 まだ教師としては、
なんの自信も持ててない時だった。
 突然、3階の頭上から子どもの声が降ってきたのだ。

 涙声の先生は、バルコニーに向かって叫んだ。
「ありがとう。すごくうれしい!
私も大好きです!」

 バルコニーの彼は、パッと笑顔になった。
「B先生、ありがとうございます。」
 笑顔のまま、彼はバルコニーから消えた。

 校庭では、長い拍手が続いた。
そして、しゃくり上げるように涙し、
かがみ込むB先生がいた。

 その光景に、私はこみ上げるものをぐっとこらえ、
明るい表情をつくった。


 ▽ 春の遠足だった。
 2年生の子ども達と一緒に、電車に乗り、
河川敷にある満開の花菖蒲園に行った。

 教室を離れての校外学習は、
どの子にとっても嬉しい行事である。
 まして遠足には、さほどの制約もなく、目的地へ行って、
一日中友だちと過ごすことができる最高の日なのだ。

 教師の安全への特別な気遣いなど構わず、
子ども達は、普段より活気づき、
ワイワイガヤガヤとにぎやかに振る舞うのだ。

 目的地に着くと、いつもは口数が少ない男の子が、
珍しくみんなの輪の中心にいた。
 やけに嬉しそうに手ぶりをつけて話をし、
輪を囲む友だちも、その話題に興味津々なのだ。

 「ずいぶん楽しいそうだね。私にも聞かせて。」
ちょっと探りを入れてみた。

 「教えてあげなよ。」
回りの子から、そんな声があがり、
男の子はその気になった。

 「ボクのお父さん、電車の運転手なんだ。
それで、今日、菖蒲園のすぐそばの、あの鉄橋を通るんだ。
 その時、ボクを見たら、
電車の警笛を鳴らしてくれるの。
 お父さん、必ず鳴らすって、約束してくれたんだ。」
 
 男の子のワクワク感も、
それを聞いた回りの子のワクワク感も伝わってきた。
 「それってすごいね。何時頃なの?」
私も、興味がわき、つい尋ねてしまった。

 「わかった。その時間が近づいたら、教えて上げるね。」
はたして、実際に鉄橋を渡る電車が、
警笛を鳴らしてくれるのかどうか、
みんなが半信半疑だった。

 そして、いよいよ予定の時間が近づいた。
私が、それを伝えにいくと、それよりも前から、
男の子は、誰とも遊ばず、鉄橋を見ていた。

 「もうじき、電車が来るよ。」
「お父さんが運転する電車が、来るんだね。」
 男の子は、私のそんな声かけに、ただうなずくだけで、
鉄橋から目を離そうとしなかった。

 徐々に、子ども達も遊びを止め、
回りに集まってきた。
 みんな、鉄橋を見た。
気づくと、2年生全員が、そこにいた。

 長い車両の電車がやってきた。
男の子も、みんなも私も、
鉄橋にさしかかった電車をジッと見た。
 どこからも話し声が消えた。

 ガタンゴトンと鉄橋を通り電車の音だけが、
大きく聞こえた。
 男の子も子ども達も、
私も電車の警笛に、期待がふくらんだ。

 その時だ。
『プゥーーン!』
河川敷に、電車の警笛音が響いた。

 一斉に子ども達の歓声が上がった。
男の子も、みんなも、パッと笑顔になった。
 そして、鉄橋を通り抜けようとする電車に
「オーイ!」と声を張り上げた。
 跳びはねながら、思い切り手を振った。

 すると、再び『プゥーーン!』。
電車の警笛が、響いた。
 「すごい!」「すごいよ!」
たくさんの歓声と驚きの声だった。

 その真ん中で男の子は、
今まで見たこともない笑顔になっていた。

 「この笑顔、お父さんに見せて上げたい。」
そんな想いで、私も微笑んだ。






  黄金色の田園と有珠山
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学校にむかう子ども 2話

2017-09-01 21:25:30 | 北の湘南・伊達
 (1)
 週に3,4回、朝のジョギングを続けている。
時には家内も一緒だが、
最近は1人で5キロから10キロを、
30分から1時間かけて走る。

 雨の日が続くと、晴れが待ち遠しくなり、
走る意欲が湧いてくる。
 だが、好天が続くと、
気が重いまま、走り出すことが多くなった。

 それでも、走り始めて2キロ付近からは、
いつも四季折々の風と景色に接し、爽快な気分になる。

 もう5年も続いているジョギングである。
定番のコースを6つ程決めている。
 その1つは、1時間コースで、最後に、
腰折れ屋根の牛舎が点在する町外れを通るものだ。

 ようやくその辺りまで走りつく頃には、
いつも帽子もTシャツも汗まみれ。
 そんな姿で荒い息の私が、
よく似た顔の女の子とお母さんに出会うようになったのは、
3年も前のことである。

 ダラダラとした緩い傾斜の上り坂の途中に小学校がある。
校門を横目に6,7分程走ると、T字路だ。
 そこを左に曲がると、ようやく平坦な道になる。
そのビニールハウスと畑の道で、
私は、その母と子に、初めて朝の挨拶をした。

 その時、女の子は、真新しいランドセルを背負っていた。
お母さんの手をしっかりと握り、足取りが重たかった。
 私の「おはようございます」に、下を向いたままだった。

 「おはようぐらい、言えるでしょ。」
通り過ぎた後ろから、お母さんの小さな声が聞こえてきた。

 まだ学校に慣れないのだろうか。
登校を渋っている様子が、ありありと伝わってきた。

 だから、やや学校に近いところで出会った2回目からは、
いつもと同じように、荒い息だったが、
とびっきりの笑顔をつくり、明るい声で挨拶をした。
 
 毎回、お母さんの手をギュッと握っていたが、
私に顔を向けてくれることが多くなった。

 それから何回、2人とすれ違い、挨拶をしただろう。
お母さんの手を握っていない日が多くなったが、
相変わらず2人での登校が続いていた。

 女の子は、2年生になり、今年、3年生の春を迎えた。

 その日も、ようやくダラダラ坂を上りきり、
左に曲がった。
 相変わらず息が切れていた。

 前方を見た。一瞬、時間が止まった。
なんと、女の子が1人で、真っ直ぐ歩いてきたのだ。
 遠くにお母さんの立ち姿があった。

 でも、ふりかえることもなく、女の子は進んできた。
体も大きくなった気がした。
 頼もしかった。
少しスピードを上げて、距離を縮めた。

 「おはようございます。」
私より先に、笑顔と一緒の挨拶がとんできた。

 私はいつも通りを装い、明るく挨拶を返し、すれ違った。
やけに嬉しかった。

 しばらく走り、お母さんを追いぬいた。
私は、いつもより明るい表情で、挨拶をしていた。
 私の気持ちに気づいてなのかどうか、
お母さんの顔が、いつになく輝いてみえた。

 きっと農家さん一家だろう。
名前も住まいも分かっていない。
 1,2か月に1回程度のすれ違いだけ。

 「久しぶりに会ったね。」
お母さんが女の子につぶやいた声が、
耳に入った日もあった。

 すれ違うたびに、
いつかは1人で登校してほしいと願っていた。
 それが、現実となった。
 
 その親子以外出会う人のいない道を、
私は、いつになく軽快な足取りで進んだ。
 「女の子も、お母さんも頑張った。すごい!」
そんな言葉が、心を何度もかけめぐった。


 (2)
 ジョギングから戻り、自宅に着く頃、
まだ小中学生の登校が続いていることがある。

 と言っても、都会とは違う。
我が家の横の通りを通学路にしている子は、
10数人だと思う。
 ポツリポツリと、子どもが緩い坂を下り、
学校へ向かう。

 その中に、今年から1年生のA君とH君が加わった。
A君は、体もしっかりとしていて、
ランドセルがよく似合った。
 それに比べ、
H君は、背負ったランドセルが、
やけに大きく見える小柄な子だった。

 ジョギングから戻ると、
2人とバッタリ出会うことがある。

 私が、荒い息を整えようと、
通学路の通りまでゆっくり進むと、
2人は、その通りのこちら側の歩道を、
仲よく並んで向かってくる。

 どんな話題なのか、
いつも楽しそうに、話しながらの登校である。
 「おなようございます。行ってらっしゃい。」
私の声かけにも、2人はさほど関心はない。
 「おはようございます。」と応じるものの、
すぐに2人だけの会話に戻ってしまう。
 
 ある朝のことだ。
いつもと変わらないタイミングで、
楽しげに2人がやってきた。

 すると私のすぐ目の前で、
A君が通りをかけ足で横切ったのだ。
 通りと言っても、交通量は少ない。
幸い1台の車も走っていなかった。

 でも、H君はすぐに叫んだ。
「そっちに行っちゃダメだよ。」
 「大丈夫だよ。こっちにおいで!」
「危ないから、ボク、行かない。」
 「Tちゃんも、こっち通るからおいでよ!」

 H君は、しばらくじっと立ち止まった。
そして、次の瞬間、
左右を見ながら、急ぎ通りに足を踏み出した。

 その時、同時にA君も、
左右を見ながら、急ぎ通りに足を踏み出した。

 2人は、左右を見ながら、通りの真ん中で鉢合わせた。
体がぶつかるやいなや、
「なんで、渡ってきたの?」
 「なんで?」
「だって、おいでって言うから!」
 「ちがうよ。そっちはダメって言ったよ!」
通りの真ん中で、言い争いを始める2人。

 幸い車の姿はない。
でも、私は叫んだ。
「道の真ん中はだめだよ。」

 2人は、あわてて、また両側の歩道に戻った。
「ジャンケンしよう。」
 A君の提案を、H君は受け入れた。
私のすぐそばで、道をはさんで2人のジャンケンが始まった。

 横断歩道のないところで、
道を横切ることは禁じられているだろう。
 「こんなところで、道を渡っちゃダメだよ。」

 私の注意に、2人はジャンケンを止めた。
 「どうする?」
「まっすぐ行こう。」
 「そうだね。」
2人は、右と左の歩道を別々に歩きだした。

 「行ってらっしゃい!」
私の声に、悪びれた様子もなく、
「行ってきます!」の声が返ってきた。 

 なぜだろう。
その日は一日中、私は明るい気分で過ごした。 

 


 だて歴史の杜公園修景池が1枚の鏡のよう 
コメント
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