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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

喰わず嫌い  『兎鍋』編

2015-07-30 19:39:58 | あの頃
 小学2年の秋のことなので、その記憶はまさに斑である。
強烈にそして鮮やかに蘇ってくる部分と、
濃霧に包まれ輪郭さえ曖昧な部分とが同居している。

 その日は、いつもの朝と少し違っていた。
父と二人の兄は、母が私を起こす頃には
いつも通り、すでに仕事に出かけていた。
 姉は中学生で、母と私の3人で朝の食卓に座った。

 いつも物静かな母だが、今朝に限って、
どことなく活気づいていた。
「何かいいことでもあったの。」
思い切って訊いてみたくなったが、
どうせ「いいから、早く食べなさい。」
と、たしなめられるのが落ちなので、やめておいた。

 「白菜のほかに、ゴボウ、大根、人参だね。」
「そうそう、おとうふとコンニャクも入れようよ。」
母と姉は、いつもより歯切れよかった。
 料理のことのようで、
一人蚊帳の外と言った感じで、気分は良くなかった。

 母の「いってらっしゃい。」の弾んだ声に送られ、玄関を出た。
学校へのお決まりの道を少し行くと、オート三輪車とすれ違った。
 朝のこんな時間に車とすれ違うなんて、珍しいことなので、
立ち止まって、その三輪トラックの後ろを目で追った。
 すると、我が家の前で止まった。
運転していた人が、玄関に向かっていった。
 不思議に思ったが、家まで戻る気にはなれず、学校へ向かった。

 その日の夕食のことは、鮮明に覚えている。
 家族6人で卓袱台を囲んだ。
真ん中に鍋敷きがあった。そこに、両手鍋が置かれた。

 「さあ、今夜はご馳走だよ。」
と言いながら、母が鍋の蓋を持ち上げた。
 ゆげが上がり、いい匂いがみんなを包んだ。
二人の兄が声をそろえて、「うわっ、うまそう。」と。
 母が手際よく、父から順にご飯を配った。
そして、姉が鍋から具材を小鉢に取り分け、一人一人の前に置いた。

 父の声かけで挨拶をすると、一斉に食べ始めた。
小鉢には、今朝二人の明るい会話にあった
野菜類やとうふ、コンニャクがあった。
そして、2つ3つの肉のブツ切りも入っていた。
 私は、このことだったのかと納得しながら、小鉢に箸をつけた。

 野菜もとうふ類もさることながら、
珍しく大きめに切られた肉が、たまらなく美味しかった。

 「この鍋、美味しいね。」
「よく出汁が出ている。」
「なんぼでも食べなさい。まだ肉も野菜もあるからね。」
「まだまだ食べられるよ。」
夕食の会話は、いつになく弾んでいた。
 そして、おかわりがくり返された。

 確か、醤油味だったと思う。
柔らかな肉ととうふ、野菜類を交互に食べながら、ご飯が進んだ。
 私は、上機嫌だった。思わず、
「この肉、美味しいね。こんな美味しいの初めて。これ、なんの肉。」
と、訊いた。
 すかさず、母が、
「いいから。早く食べないと、みんなに食べられてしまうよ。」と。
 私は、母にそう言われ、年上の兄姉に負けじと、
夢中になって食べ続けた。

 当時、肉は貴重で高価なものだった。
裕福ではなかった我が家では、
時々、カレーライスには肉の代わりに、
当時は安価だったホッキ貝が使われ、
私はたまらなく落胆した記憶がある。

 だから、その日の夕食は、いわば『最高のご馳走』だった。
いっぱいお肉を食べた。満腹感で幸せな夜だった。


 そして、翌朝のことだった。

 当時、我が家には5わのウサギがいた。
 南向きの出窓の下に、兄たちによるお手製のウサギ小屋があり、
中は5つに仕切られていた。
 5わのうち、2わはアンゴラウサギで、
春先には伸びた毛を切り、
多少なりとも家計の足しになっていたようである。

 残りの3わは、真白で赤い目をしていた。
「ミミ」、「トミ」、「エミ」と呼んでいた。

 2年生になってから、朝の餌やりと水の取り替えを、
兄たちから言いつかった。
 ラビットフード等のない時代だった。
兄や姉が、原っぱや小学校の裏山から
かりとってきたオオバコなどの野草を餌にしていた。

 その朝も、いつもと変わらず5わの餌になる草を
物置から手提げカゴに移し、出窓の下の小屋に行った。
 2わのアンゴラウサギが跳びはねながら、
金網で作られた入口の扉まで近づいてきた。

 いつもの朝と変わりなく、
元気よく鼻先をヒクヒクと動かしていた。
それぞれの小屋に、両手で二かかえ程の枯れ草を入れてやった。
すぐにカサカサと音をたてて食べ始めた。

 続いて、「ミミ」の小屋をのぞいた。
ところが、そこに「ミミ」の姿がなかった。

 毎朝、小屋をのぞいても、「ミミ」だけは入口の扉まで来なかった。
小屋の奥の方で、愛らしい赤い瞳でじっと私を見ていた。
 「ミミ、餌だよ。」といいながら、枯れ草を入れ、扉を閉める。
すると、それを確かめるかのようにゆっくりと餌に近づき、食べ始めた。
 それでも、私が見ていると遠慮がちで、その仕草がひときわ可愛かった。

 その「ミミ」がいない。

 不思議な思いで、「トミ」と「エミ」の小屋をのぞいた。
もの音一つなく静まりかえっていた。

 私はハッとした。
 数日前だった。
小屋の前で、兄とその友達らがウサギ肉の美味しさを言い合っていた。

「もしかして。」と思うだけで、息が詰まりそうだった。
信じたくなかった。
 ゆっくりと家に戻り、台所にいた母の後ろ姿に訊いた。

 「昨日の肉、うさぎなの。」
ドキドキしていた。
「そうよ。美味しくて、よかったね。」
母は、炊事の手を止めなかった。

 勇気を出した。「エイ。」とばかり尋ねた。
「ミミもトミもエミもいないんだけど。」
「そうだね。」

「昨日のは、ミミ? トミ? エミ?」
「ミミだって、言ってたよ。」
「三輪トラックのおじさんが?」
「そうよ。」
母は、一度も振り向いてくれなかった。

 私は、もう一度外に出た。
風が冷たかった。
 後悔と言う言葉を知っていたら、それだっただろう。
 小2のあの時、私がどんな気持ちだったのか、
正確に思い出すことも、推測することもできない。
 しかし、無情さが私をうつむかせていた。

 「みんなして、美味しいね、美味しいねって食べたんだから、
それでいいんだよ。」
 姉が、私の背中をポンと叩いて、中学へ行った。

 それから3ヶ月後、冬の真っただ中。
「ようやく仕上がってきたよ。」
と、母が風呂敷包みを開いた。

 「あんたが好きだったミミの毛皮で作ったチョッキだよ。」
「セーターの下に、これを着れば暖かいから。」
 母は、私を後ろ向きにすると、
そのチョッキに袖を通させた。
 ミミの毛皮が背中に、フワッとしていた。

 私は、母に顔を見られないようにしながら、
突然の出来事に、何度も何度も大きくため息した。
 なぜか涙が出そうになった。
ミミの肉の味を思い出した。

 だが、その冬も次の冬も、その次の冬も、
ミミを背中にして、毎日を過ごした。
一度も風邪をひかなかった。

 兄たちは、また小さなウサギを飼い始めた。
私は、しばらく小屋には近づかなかった。

 そして、小学生の間、鶏肉が出ても、
私は、「うさぎじゃないよね。」と、
くり返し訊き、ようやく箸を伸ばした。




 有珠善光寺の紫陽花が満開
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あの日 啄木の短歌集に

2015-07-24 21:55:27 | 文 学
 伊達には、写実画家として高名な野田弘志先生のアトリエがある。
先生の発案で、国内外を代表する芸術家や文化人を招き、
質の高い芸術・文化に触れ、教養を高めることを目指した
市民グループによる組織がある。
 聞き慣れないのだが、『コレージュ・ド・ダテ』と言う。
「コレージュ・ド・フランス」は、フランスの最高学府を意味しており、
どうやらそこからの命名のようである。

 そのグループが先日、第11回公開講座として
『短歌に描くしぐさ 表情』と題して、
歌人・今野寿美氏を招いて講演会を行った。
 演題にある『短歌』と『しぐさ』の言葉に惹かれ、参加した。

 サロンのような会場には、30名前後の方が集まっていた。
今野先生は、わざわざレジメを準備してくださっていた。
 「こんなに沢山の方においで頂き」と、恐縮していたが、
それを聞いて赤面したのは、私だけではなかったと思う。

 レジメには、和泉式部、与謝野晶子、柳原白蓮、安永蕗子、
寺山修司、小野茂樹そして本人の歌が紹介されていた。
 いずれも、短歌に織り込まれた「しぐさ」が、
私の心を強く揺り動かした。
 3首、紹介する。

 
 泡だてて白き卵を嚥むときも卓に聖女のごときひだり掌   安永蕗子
   今野先生の解説にもあったが、『卓に聖女のごときひだり掌』とは、
   なんて清楚で詩的なしぐさだろう。心に潤いを取り戻した。


 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり   寺山修司
   「海ってこんなに広いんだよ。」と、両手を広げる少年。
   映画のワンカットが、背景を伴って目に浮かんだ。
   清々しさを運んできてくれた。


 あの夏の数かぎりなきそしてまたたった一つの表情をせよ   小野茂樹
   今野先生は『表情をせよ』の解釈に疑問を投げていたが、
   いずれにしても、あの夏のワクワク感が堪らない。
   まだそんな憧れが私にもと思い起こした。


 講演が終わり、高台の駐車場に向かった。
ちょうど、噴火湾の方向が、広々と夕焼けに染まっていた。
 どこで学んだのだろうか、
歌は(目で)「読む」ものではなくて、
(声に出して)「詠む」ものだと気づいた。

 車内に入り、レジメを取り出した。
一人、声を出して、一首一首を口で追った。
31音にとじ込められた、短文詩の力に
私は圧倒された。

 朱色の空からきれいな交響曲が流れてきてほしかった。
急に、初めての短歌に心ざわめいた、13歳の私を思い出した。


 あの頃、家族6人で6畳2間の長屋に暮らしていた。
3人の兄姉は成人し、私は中1だった。
 手狭になった家を何とかしようと、
2つあった押し入れの1つに、
大工さんを入れ、2段ベットに改造した。

 私は、その下のベットの住人になった。
カーテンで遮ると一人占めの空間ができた。
 電気スタンドと小さなテーブルを入れた。
そこで勉強もすることになった。
 思いもよらない環境に、私は喜んだ。
自然と「よしっ!」と声が出て、意気込んだ。

 どんな思いつきがそうさせたのか、
あまりにも遠いことなので思い出せないが、
 貯めていた小遣いを持って、近所の本屋に行った。
 図書館で借りた本など、
一度も最後まで読んだことのない私だった。
 なのに、2段ベットの下でカーテンを閉じ、
本を読んでみたかったのだろう。

 本屋で手にとり、買い求めたのが、
書名は忘れたが、石川啄木の短歌集の文庫だった。
 1ページにある文字数が少なかったのが、
その本に決めた動機だったと思う。

 私はプラン通り、その本を手に、
まだ木の匂いがするベットの下段にもぐり込み、電気スタンドをつけた。
 最初に、目に飛び込んできた短歌が、

 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる

               であった。

 いい知れない孤独感が、私の全てを包んだ。
13歳の少年だったが、共感していた。
『泣きぬれ』・『たはむる』の言葉が、心の奥まで浸みた。
何度も何度も読み返した。
 1首の短歌だったが、読むごとに瑞々しさを感じた。
情景が浮かんできた。勝手にドラマが想像できた。
 初めての体験だった。

 その後は、それこそ宝箱を開くようなワクワクした気持ちで、
1ページ1ページをめくった。
 すでにいくつかのまんが雑誌もあった。身近に子ども向けの本もあった。
毎日、テレビドラマも流れていた。時には映画館にも足を運んでいた。
 しかし、この啄木の短歌集から受けた高揚感は、初めてだった。

 2段ベットの下に閉じこもり、出てこない私に
「なにしてるの。」と、何度も母の声が飛んできた。
 そのたびに、現実の世界に呼び戻された。
それでも、私は再びページをめくり、啄木に夢中になった。

 文学と言っていいのだろう。
 私がその素晴らしさを知った最初の日だった。

 あの日、私を惹きつけて放さなかった啄木の短歌は、今も心にある。


 浅草の夜のにぎはひに
 まぎれ入り
 まぎれ出で来しさびしき心


 はたらけど
 はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
 ぢつと手を見る


 ある朝のかなしき夢のさめぎはに
 鼻に入り来し
 味噌を煮る香よ

 
 ふるさとの山に向ひて
 言うことなし
 ふるさとの山はありがたきかな


 潮かをる北の浜辺の
 砂山にかの浜薔薇(はまなす)よ
 今年も咲けるや


 アカシヤの街樾(なみき)にポプラに
 秋の風
 吹くがかなしと日記に残れり


 かなしきは小樽の町よ
 歌ふことなき人人の
 声の荒さよ

 しらじらと氷かがやき
 千鳥なく
 釧路の海の冬の月かな

 
 ゆゑもなく海が見たくて
 海に来ぬ
 こころ傷みてたへがたき日に



 昨年4月他界した、人気作家・渡辺淳一氏は、
啄木好きの理由として、
『真先にあげたいのは、啄木の歌のわかり易さである。』と言う。
そして彼は、
『目星しい歌は、みな三行に分けて記されている。
短歌を見て、初めに混乱するのは、五・七・五の区切りどころである。
これを平仮名などでだらだら続けられては往生する。
この点、啄木の歌は簡明で要をえている。』とも。
 だから、13歳の私でも理解が容易だったのだろう。

 そして、渡辺氏はこうも綴っている。
『あれ程、日常些事のことを苦もなく詠み、
酩酊感とともにリアリティをもたせ、
そっと人の世の重みを垣間見せるとは、どういう才能なのか。
………そしてさらに、死ぬまで視点を低く保ち続けたところが心憎い。』

 13歳、多感な少年時代の入り口で、
啄木の短歌集に出会えたこと、
それはずっと私の財産だった。今も変わりない。




オニグルミの実が もうこんなに大きく
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校内研修の重要性

2015-07-17 22:21:19 | 教育
 教育公務員特例法には、以下の条文がある。
 『教育公務員は その職責を遂行するために
絶えず研究と修養に努めなければならない』
 『教育公務員には 研修を受ける機会が
与えられなければならない』
 『教員は授業に支障のない限り 本属長の承認を受け 
勤務場所を離れて研修を行うことができる』

 この主旨に沿って、教員には
「初任者研修」「10年経験者研修」「指導改善研修」等々、
各種の研修が実施されている。

 研修、つまりは研究と修養である。
これが教師の職務の一部なのである。
生々しい言い方になるが、
この研修の時間も含めて、教員には給与が支払われている。
見方を変えれば、なんと恵まれていることかである。

 私自身で言えば、この研修を通して、
一歩一歩教員として階段を上った気がする。
 特に、校内で実施する研修、つまり校内研修は、
私の教師としての資質向上にはなくてはならないものだった。
この研修が、私をひとり立ちさせてくれたと言っていい。


 私の教員生活で、特筆できる校内研修を記すなら・・・。

 30歳代前半は、体育指導である。
研究テーマは、『体力つくりの日常化』であったろうか。
 当時も今日同様、子どもの体力低下か問題視されていた。
各小学校で、その対応策として業間体育が注目されていた。

 中休みや昼休みに、どのようにして目標をもたせ、
体力つくりに取り組ませるか。
その指導の工夫を、同僚や後輩の教員たちと夢中になって考えた。
 毎日が試行錯誤だった。充実感があった。
 そして、その指導の成果を、研究発表会で披露した。

 その発表会で、3年間ご指導を頂いた
体育指導を専門とする講師のI先生から、
「それでも私は、45分間の体育授業の充実が、
体力つくりには一番大切だと思っている。」
との講評があった。
 この時、校内研修の中心にいた私は、その言葉に意気消沈した。
しかし、行き着く先は、やはり『授業の充実』なんだと、意を強くした。
 その後の、大きな財産になった。

 40代前後には、都心の学校に勤務した。
都心では、当時も、中学進学は私立校が主流で、
受験競争が過熱していた。

 そんな周りの学校の様相とは異なり、
私が3年目をむかえた年に着任したK校長先生は、真っ先に
「学力・学力の一辺倒ではなく、
個を大切にした教育を大事にしたい。」と言った。

 新鮮な風を感じ、私を含め職員は意気込んだ。
その年度から、一人一人の子どものよさを
引き出し・伸ばす指導の工夫を校内研究の課題とした。
研究テーマに『その子らしさの実現』という言葉を加えた。
 校内研修がにわかに活気づいた。

 「個性の伸長とは」「子どものよさとは」
「よさを引き出すとは」「どんな指導がそれにつながるのか」等々、
いつも、いつまでも議論はつきなかった。
 振り替え休業日を利用して、多くの先生達と
他県で同様のテーマで研究している学校に押しかけたりもした。

 回を重ねた校内の研究授業で、
いつもご指導を頂いていた都教委のH指導主事先生から、
「子どもが実感できる授業の魅力とは何か。」のアドバイスがあった。
 授業は、教師の視線ではなく、子どもの視線でつくるもの、
そして実践するものと気づくことができた。
 私が、一皮むけた教師に脱皮できた瞬間だったと思う。

 管理職になってからは、国際理解教育の実践を通して、
多文化共生社会に応じたグローバルな教育の重要性や、
私には耳慣れなかった『自尊感情』の育成と言った
研究課題と向きあった。
 そんな校内研修を通して、貴重なご意見を頂戴できる方々に出会えた。
 『金持ち』にはなれないが、『人持ち』にはなれるかもと思った。

 私は、都内9小学校に勤務した。
その全ての学校で、活気ある校内研修が行われていた訳ではない。
 中には、貴重な研修の機会を軽視する主張が支配的な学校もあった。

 その多くの声は、
「それでなくても忙しいのに、
校内研修など、さらに忙しさを増やすことになるだけ。」
と、言うものだった。

 残念であったが、そんな声を一気に逆転させることが
できないままに過ごした学校もあった。
 いかに、学校では「忙しい。」が、
有効性のある決め言葉であるかが分かるだろう。

 しかし、そうした学校は、総じて校内研修に限らず、
全ての教育活動に覇気がなかった。
 そして、子どもをはじめとして、様々なことで難しい課題が噴出していた。

 振り返ってみると、改めて校内研修の重要性に気づかされる。


 さて、この校内研修であるが、それが果たす役割は次の二つである。

 一つ目は、その学校の教育目標やその学校独自の課題・願いの
具現化(解決・達成)のためのものである。

 目標達成や課題解決・願いの実現には、教員一人一人の明確な自覚と
全職員のそれへの共通した意識が必要である。

 あわせて、そのための具体的な指導の手立てや働きかけ等、
足並みのそろった実践と工夫が求められる。
 それらを追求し、共有化を図る役割が校内研修にはある。

 二つ目は、教員研修の目的である、
教師としての資質能力の向上のためのものである。

 目標の具現化等を目指した全職員による共有化された取り組みのためには、
教員個々人の指導力が問われることになる。

 学校における協働した指導のために、教員には
自身の指導技術や手法等が的確なものであるか否か、
そして求められる資質能力がどのようなものか等を
確かめ、それに応じる必要性が生じる。

 言うまでもないことであるが、
校内研修でくり返される、研究授業の大きな役割はそのためにある。


 最後に、校内研修の特徴を簡潔に整理する。

① 自分の学校の目標・課題・願いを
         具体的な研究課題として共有できる。
② 日常の教育実践と研究課題への取り組みが直結し、
         学校全体でその解決に迫ることができる。
③ 研修の成果を直接子どもの指導に
         反映させることができるので、生きて働く研修になる。
④ 共通の目標達成に向けての取り組みなので、
         教員間の協働意識に高まりが生まれる。
⑤ 研修の時間や場に限らず、
         学校、地域、子どもの実態等に共通性が得られる。





秋蒔き小麦が、間もなく収穫の時?
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南吉ワールド PART2

2015-07-10 22:00:42 | 文 学
『ジューンベリーに忘れ物』という面倒なタイトルをつけたブログも、
週一の更新をくり返し、1年が過ぎた。
 この間、57編におよぶ私の想いを、
その週その週、遠慮なく記させてもらった。
今日も、このブログを開き、目を通してくださる方々の存在が、
大きな励みになっている。心からお礼を申し上げたい。

 さて、昨年10月18日『南吉ワールド』の題で、
このブログに新美南吉の代表作と言える
『てぶくろを買いに』と『ごんぎつね』について触れた。
 優れたストーリー性に魅了されるが、人間への不信とも思える冷ややかさに、
私は釈然としない読後感を持った。
 視点を変えると、それこそが南吉ワールドではないのかと雑感を記した。

 しかし、『ごんぎつね』は南吉17歳、
『てぶくろを買いに』は20歳の作品である。
 その若さを考えると、南吉の世界観に対し私なりの理解ができる。
きっと、南吉の人生の通過点がにじみ出たのではなかろうか。

 それに比べ、今回とり上げる『おじいさんのランプ』は、
30歳の若さで亡くなる前年に書き上げたものである。
 翌年・昭和17年10月に、
同じタイトルがついた南吉の第一童話集が発刊されるが、
生前に見ることができた最後の本であった。
そして、その年12月、永眠した。

 私は校長職の頃、このお話を月曜朝会のお話や
卒業式等各種式典での祝辞等で、よく引用させてもたった。
 この作品を、ある人は『辞め方の美学』と絶賛していたが、同感できる。
そして、巳之助の生き様と「いさぎよさ」は、
私を何度となく励まし、勇気づけてくれた。


 そのストーりーと作者の思いを追いかけてみたい。

 この物語は、おじいさんが孫に
自分の半生を語り聞かせる形式で描かれている。
 時代は、明治・『日露戦争のじぶん』である


 センテンス1 運命を変える希望のランプ 
              ~ 文明開化の利器との出会い



 おじいさん・巳之助が13の少年だった時に……

 『巳之助は、………、まったくのみなし子であった。≪中略≫ 
 けれども巳之助は、こうして村の人々のお世話で生きてゆくことは、
ほんとうをいえばいやであった。
子守をしたり、米をついたりして一生を送るとするなら、
男とうまれたかいがないと、つねづね思っていた。
 男子は身を立てねばならない。 ≪中略≫
 身を立てるのによいきっかけがないかと、
巳之助はこころひそかに待っていた。』

 そして、運命の一日が訪れ……

 『ある夏の日の昼下がり、巳之助は人力車の先綱をたのまれた。≪中略≫
 夏の入り日のじりじり照りつける道を、えいやえいやと走った。
なれないこととでたいそう苦しかった。
しかし巳之助は、苦しさなど気にしなかった。好奇心でいっぱいだった。
なぜなら巳之助は、≪中略≫ 峠の向こうにどんな町があり、
どんな人々が住んでいるか知らなかったからである。』

 好奇心いっぱいで出会った物は、……

 『その町で、いろいろなものをはじめて見た。≪中略≫
巳之助をいちばんおどろかしたのは、……
花のようにあかるいガラスのランプであった。≪中略≫
 このランプのために、……町ぜんたいが、
竜宮城かなにかのようにあかるく感じられた。
もう巳之助は、じぶんの村へ帰りたくないとさえ思った。
人間はだれでも、あかるいところから暗いところに帰るのを
このまないのである。
 呉服屋では、番頭さんが、つばきの花を大きく染め出した反物を、
ランプの光の下にひろげて客に見せていた。 ≪中略≫
またある家では、女の子がランプの光の下に
白く光る貝がらをちらしておはじきをしていた。≪中略≫ 
ランプの青やかな光のもとでは、人々のこうした生活も、
物語か幻灯の世界でのように美しくなつかしく見えた。
 巳之助は今までなんども、「文明開花で世の中がひらけた。」
ということをきいていたが、
今はじめて文明開化ということがわかったような気がした。』

 心の躍動感と共に手にはランプ……
 
 『やぶや松林のうちつづく暗い峠道でも、
巳之助はもうこわくはなかった。
花のようにあかるいランプをさげていたからである。
 巳之助の胸の中にも、もう一つのランプがともっていた。
文明開化におくれたじぶんの暗い村に、
このすばらしい文明の利器を売り込んで、
村人たちの生活をあかるくしてやろうという希望のランプが―。』


 センテンス2 幸せの絶頂と進んだ文明開花 
                       ~悲哀をさまよう 


 順調にしょうばい進み、暗い家にあかるい火を……
 
 『巳之助のあたらしいしょうばいは、はじめのうち、まるではやらなかった。
百姓たちは、なんでもあたらしいものを信用しないからである。≪中略≫
 ランプのよいことがはじめてわかった村人から、…注文があった…。≪中略≫
これから巳之助のしょうばいは、はやってきた。≪注力≫
 巳之助は、お金ももうかったが、それとは別に、このしょうばいがたのしかった。
今まで暗かった家に、だんだん巳之助の売ったランプがともってゆくのである。
暗い家に、巳之助は文明開花のあかるい火を一つ一つともしてゆくような気がした。』

 家をもち、結婚もして、人生の絶頂期に……。

 『巳之助はもう、男ざかりの大人であった。家には子どもがふたりあった。
「じぶんもこれでどうやら、ひとり立ちができたわけだ。
まだ身を立てるというところまではいっていないけれども。」
と、ときどき思ってみて、そのつど心に満足をおぼえるのであった。≪中略≫
 さて、ある日、巳之助がランプの芯を仕入れに大野の町へやってくると、≪中略≫
きみょうな高い柱は50メートルぐらいあいだをおいては、道のわきに立っていた。
巳之助はついに、日なたでうどんをほしている人にきいてみた。すると、うどんやは
「電気とやらいうもんがこんどひけるだげな。ランプはいらんようになるだげな、」
と答えた。
 巳之助はよくのみこめなかった。電気のことなど知らなかったからだ。』

 電気に驚き、そして新しい時代への悲壮感が……。

 『光は家の中であまって、道の上にまでこぼれて出ていた。
ランプを見なれていた巳之助には、まぶしすぎるほどのあかりだった。
巳之助は、くやしさで肩でいきをしながら、これも長いあいだながめていた。
 ランプの、てごわいかたきが出てきたわい、と思った。
以前には文明開化ということをよくいっていた巳之助だったけれど、
電燈がランプよりいちだん進んだ文明開化の利器であるということはわからなかった。
りこうな人でも、じぶんが職を失うかどうかというようなときには、
ものごとの判断が正しくつかなくなることがあるものだ。
 その日から巳之助は、電燈がじぶんの村にもひかれるようになることを、
心ひろかにおそれていた。』


 センテンス3 古いものは間にあわない
                  ~ 痛烈な気づき 


 おそれが現実となり、狂い、そしてうらみへ……

 『巳之助は、だれかをうらみたくてたまらなかった。 ≪中略≫ 
そして、区長さんをうらまねばならぬわけをいろいろ考えた。
へいぜいは頭のよい人でも、しょうばいを失うかどうかというようなせとぎわでは、
正しい判断を失うものである。
とんでもないうらみをいだくようになるものである。』

 放火という暴挙の寸前、急転直下が……

 『「マッチを持ってくりゃよかった。
こげな火打ちみてえな古くせえもなあ、いざというとき間にあわねえなあ。」
 そういってしまって巳之助は、ふとじぶんのことばをききとがめた。
 「ふるくせえもなあ、いざというとき間にあわねえ、
……古くせえもなあ間にあわねえ……」
 ちょうど月が出て空があかるくなるように、
巳之助の頭がこのことばをきっかけにして、あかるく晴れてきた。』

 過ちへの劇的な気づきが……

 『ランプはもはや古い道具になったのである。
電燈というあたらしい、いっそう便利な道具の世の中になったのである。
それだけ世の中がひらけたのである。文明開花が進んだのである。
巳之助もまた日本のお国の人間なら、
日本がこれだけ進んだことを喜んでいいはずなのだ。
古いじぶんのしょうばいが失われるからとて、
世の中の進むのにじゃましようとしたり、
なんのうらみもない人をうらんで火をつけようとしたのは、
男としてなんという見苦しいざまであったことか。』


 センテンス4 古い時代との決別
               ~ 辞め方のドラマが映像に


 あかりのともった50のランプに「わしのやめかたは」と……

 『やがて巳之助はかがんで、足もとから石ころを一つひろった。
そして、いちばん大きくともっているランプに
ねらいをさだめて、力いっぱい投げた。
パリーンと音がして、大きい火が一つ消えた。
 「あまえたちの時世はすぎた。世の中は進んだ。」
と、巳之助はいった、そしてまた一つ石ころをひろった。
二番目に大きかったランプが、パリーンと鳴って消えた。
 「世の中が進んだ。電気の時世になった。」
 三番目のランプを割ったとき、巳之助はなぜかなみだがうかんできて、
もうランプにねらいをさだめることができなかった。』

 「いさぎよさ」にあふれた辞めの道……

 『「わしのしょうばいのやめかたは、じぶんでいうのもなんだが、
なかなかりっぱだったと思うよ。……
日本が進んで、じぶんの古いしょうばいがお役にたたなくなったら、
すっぱりそいつをすてるのだ。
いつまでもきたなく古いしょうばいにかじりついていたり、
じぶんのしょうばいがはやっていたむかしの方がよかったといったり、
世の中の進んだことをうらんだり、
そんな意気地のねえことはけっしてしないということだ。」


 読後、いつまでもいつまでも池之端にともる
ランプのパリーン、パリーンと割れる音が心に残る。
 巧みな起承転結が、見事なストーリーを生み出し、
心の奥底まで染みわたる物語にしている。
 南吉ワールドに、脱帽である。
しかし、それにしてもこの作品か、昭和16年のものであることに驚く。
丁度太平洋戦争が始まった頃である。
 『おしいれのぼうけん』等の作者・古田足日氏は、
「戦時中、児童文学は政府に保護されたことと、
児童文学者たちがすぐれた作品を書こうとした努力がみのり、
ほかの学問や芸術がおとろえたのに、児童文学だけが進歩した。」
と記していた。
 そして、「おじいさんのランプ」について、
 『もっとも印象にのこるところとして、
多くの人が、巳之助がランプを池の岸の木にともして、
それを割っていく場面をあげています。
 ここは非常に美しき場面なので印象にのこるのは当然のことですが、
もし人間の原動力がもっと力強く書かれるなら、
この美しさを圧倒する、力にあふれた美しさが
巳之助のその後の行動として出てくるはずのものです。
 それが書けなかったところに、新美南吉もこえることができなかった、
時代の壁というものがあります。』と。




オオウバユリが咲き始めた(背丈が2㍍のものも)
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 縁  ~伊達へ導く

2015-07-03 22:18:23 | 北の湘南・伊達
 母が亡くなってからは、兄の住む実家へは足が遠のいた。
だから、夏の長期休暇を使って
久しぶりの墓参りを計画したものの、
その後の旅行先が決まらなかった。

 「伊達にでも行ってみる?」
家内の、半分以上冗談のひと言に、私の心が動いた。

 まだまだ定年退職など先の先と思っていた頃、
新聞の特集記事に『北の湘南・伊達、移住者に人気』とあった。
 その紙面に目を通しながら、
「老後は、伊達に住んだりして。」
と、これまた半分以上冗談を口にした。

 その後、伊達で20年近く暮らす姪に、
何年かぶりに会った時、
「いつか伊達に住もうかな。」と話をむけてみた。
すると、即座に
「叔父ちゃんには、無理。」と一蹴された。
 それでも、移住促進用の案内パンフレットとビデオを、
市役所から取り寄せたものの、
そのまま引き出しの肥やしになってしまった。

 その程度の興味関心なので、移住への本気度が低いまま旅行計画に、
『伊達一泊』を加えた。
「街の雰囲気を感じるだけ。」
そんな思いのみだった。

 5年前の8月のことである。
千歳空港に降り立つと、早速レンタカーで
登別の公設霊園に眠る両親の墓参を済ませ、
伊達に向かった。

 高速道の伊達インターの少し手前に、有珠山サービスエリアがあった。
ビュースポットらしいので立ち寄ることにした。

 北国特有のやや白色をおびた澄んだ青空を背景に、
荒々しい様相の有珠山と、それに寄り添う煉瓦色の昭和新山が
鮮やかな稜線を描いていた。
 私は、その神々しさに、一瞬息を飲んだ。

 そして、その左手前の足下に、
伊達の街が、群青色した噴火湾に向かってなだらかに広がっていた。
 高い建物は見当たらず、整然とした家々のたたずまいが、
真夏の明るく降りそそぐ日射しの下にあった。
 穏やかで静寂な空気が流れていた。

 「この街なら、住んでもいい。」
初めて見た伊達への、素直な想いだった。
 街を囲む畑と山々の濃い緑が、私からしばらく時間を奪った。

 その日の宿は、Aホテルを予約していた。
 薄暗いロビーだった。予想に反していた。
同世代らしい支配人が、フロントで対応してくれた。

 千葉市からの宿泊客は、珍しかったのだろうか。
 「こちらへは、ご旅行でおいでですか?」
物言いが柔らかで、実直さがにじみ出ていた。

「いい土地があったら、住もうかなと思いまして。」
私は、挨拶替わりに言葉を返した。

「何か、あてでもおありで。」
「いいえ、ただ漠然と。」

「案内をしてくださる方は。」
「別に、当てもなく。」

「じゃ、紹介しましょうか?」
「………。」

「大丈夫ですよ。間違いない方を紹介します。」

 30分後、地元S建設の名刺を持ったSと名乗る
息子と同年代の社員が、ロビーに現れた。
 しっかりと相手の顔を見て、
歯切れのいい口調で会話する青年だった。
 彼は、明日10時から市内を案内すると約束を済ませ、、
私たちの素性を詮索することもなく、立ち去った。

 好印象を抱いた私に、
支配人は、S建設の社長の甥で、
お父さんは副社長をしていると教えてくれた。

 そして、これまた、「夕食の予定は?」と訊いた。
「軽く飲みながら、どこか美味しいところがあれば。」
と言うと、早速、受話器を握り、馴染みの店を予約してくれた。

「大きなほっけが自慢の店ですから。
それは是非注文してみては。」
と、それでなくても低姿勢な物腰をさらに低くした。

 夕暮れを待つようにして、その居酒屋へ向かった。
まだ、明るさが残る市街地であったが、
都会暮らしに馴染んでいた私は、人通りの少なさに驚いていた。
ひときわ明るいスーパーマーケットがあった。しかし、そこも閑散としていた。

 わざわざ予約したその店に、先客はなかった。
支配人のお勧めのほっけと一緒に、
北の味覚とばかりイカ刺しも注文した。
 ほっけもさることながら、期待通り、一切れイカ刺しをほおばり、
その美味しさに笑みがこぼれた。

 「美味しいね。」を何度もくり返しながら、
生ビールがすすんでいた時、
馴染みのお客さんが、店主と女将さんのいるカウンターの席に座った。
 その常連さんは、腰を下ろすなり、大きな声で、
「今日は市場が休みだから、イカ刺しはダメだ。何かお勧めは?」と。

 私と家内は、まだ皿に残っているイカ刺しを見た。
そして、ビックリ顔で互いを見合った。
 女将さんは、「市場は休みでも…。」と口ごもりながら、
小声で常連さんと何やら言葉を交わしていた。

 私は、「でも、なかなか美味しいイカ刺しだ。」
と言い訳がましく呟き、
それまでとは違う気分で、残りに箸を向けた。

 そして、注文した品を一通り食べ終えた頃だった。
小洒落た真っ白な器に入った玉子スープが2つ運ばれてきた。

 不思議な顔をする私たちに、女将さんは、
「主人からです。得意料理なんですが、お口直しに。」
と遠慮気味に言った。
 「すみません。」「いただきます。」
と、言いながら味わったそのスープは、
それまでのどんな玉子スープより上品で澄んだ味がした。

 大皿からはみ出した脂ののったほっけより、
「美味しいね。」を連発したイカ刺しより、
初めての伊達での夕食は、この玉子スープの味が一番になった。

 店主は、何かの事情でだろう、声を失っていた。
店を出るとき、カウンターに近づき、お礼を言うと、
それまで見せなかった明るい表情を作り、
胸元で両手を合わせ、深々と頭を下げた。
 私は、ただただ恐縮し、再び玉子スープの味を思い出した。

 翌日、約束の時間に1分と違わず、
S建設のSさんは、ホテルに現れた。
 愛車ボルボに私たちを乗せ、4時間近くをかけて、
市内観光と様々な宅地へと案内してくれた。

 「この土地は、お二人で暮らすには少し広いので。」
と、若干スピードを緩めて通り過ぎた宅地に、私の目が止まった。
 Sさんと別れてから、もう一度、その宅地を見に行った。
 「伊達に住むのなら、ここだ。」と直感した。

 数ヶ月後、Sさんに連絡を入れ、
その宅地の売買契約の依頼をした。
数日後、千葉まで土地契約に出向くと連絡があった。
「わざわざ千葉までは。」と言う私に、
「いえ、我が社の支社が、千葉市にあるので。」
とのことだった。全く知らなかった。

 よく、人生は、「縁」で結ばれると言う。
5年前の夏、初めての伊達で
見た、触れた、接した、聞いた
幾つもの景色と、風と、人と、音が
私をここへ、導いた気がする。




 街路樹の山法師(ヤマボウシ)が満開
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