ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

喰わず嫌い 『初めて』編

2018-02-15 16:58:13 | グルメ
 誰にでもあることだ。
食べたことのない料理を初めて口にする。
 その体験のいくつかが、鮮明に残っている。
その中から、「喰わず嫌い『初めて』編」として、2つ記す。

 ① 餃 子
 餃子の美味しさは、
東京での暮らしが始まってから知った。

 何と言っても、総武線亀戸駅近くの、
餃子専門店『亀戸餃子』が一番である。
 文字通り、専門店だ。
細長いコの字型をしたカウンターに腰を下ろすと、
注文などしなくても、5コの餃子がのった小皿が、
すっと置かれる。

 それを2こ、3こと口に運ぶと、
そのペースを見計らって、次の5コのり皿がくる。
 それのくり返しが、「もういいです。」まで続く。

 楽しくお喋りをしながら食べる人など、まずいない。
どの人も、店の餃子を醤油だれにつけ、
モクモクと食べる。

 水、ビール、中国酒など、餃子の友はそれぞれだが、
待ち時間が10分、20分でも、
食べたくなる味である。

 パリッと焼かれた皮もいいが、
私は野菜中心の餡に惹かれる。
 今なら、何皿いけるのだろう。
きっと、最低5皿は大丈夫だと思う。
 ちょっと想像しただけで、今すぐにでも食べたくなる。

 さて、初めて餃子を食べた時のことである。
それは、『亀戸餃子』ではない。

 東京の下町で教職の第一歩を踏み出して、
間もなくのことだ。
 その年に、同じ学校で新任だった3人で、
夕食を共にすることにした。

 暖簾をくぐったのは、初めて入った中華料理店だった。
カウンター越しの厨房には、
店主とそれによく似た顔の息子の2人がいた。

 テーブル席に着いてすぐ、メニューを見た。
『炒飯』は何とか読めた。しかし、『餃子』が読めなかった。
 それまで、私は餃子を知らなかった。

 少しテレながら、同期の先生に読み方を訊いた。
私が、知らないメニューだと伝えると、
 「美味しいから食べよう。」と勧めてくれた。
そして、3人とも、炒飯と餃子を注文した。

 運ばれた餃子に、私は物珍しい表情になった。
ここは訊くしかないと、食べ方を尋ねた。

 一緒に運ばれてきた小皿に、
少しのラー油と適量の酢、醤油を入れて、たれを作る。
 餃子を箸でつまみ、そのたれに少量つけて食べる。

 同期は、説明しながらたれをつくり、
餃子を1口食べてみせてくれた。
 そして、「美味しいよ。やってみな。」
満足そうな顔をむけた。

 初めて餃子のたれを作った。
今も、餃子のたれを作るとその時の光景が蘇る。
 どんな味なのか、想像できなかった。
ワクワク感より、嫌いな味ならどうしようか、
そんな不安が先行した。

 それまで味わったことのない食感だった。
でも、嫌いじゃなかった。
 咀嚼しているうちに旨さが分かった。
「これはいい。いける。」
 初めての美味しさだったが、嬉しくなった。
 
 満腹で会計を済ませ、店を出ると私はすぐに言った。
「ねえ、来週もまた来ようよ。あの餃子、美味しいね。」

 餃子が、好きになった。
それから、その店に限らず、たびたび餃子を注文した。
 やがて行き着いたのが、あの『亀戸餃子』である。

 ② ホ ヤ
 1月下旬、近隣の方々との新年会があった。
10人程の酒席だったが、
時間と共に次々と話に花が咲いた。

 その終盤、「今まで食べた中で一番美味しかったのは何か」に、
話題が集中した。
 「俺は、キンキの煮付けだ。」が、皮切りとなった。

 その味や見栄え、食べた場所や値段まで、一人一人のその話は、
まさに『人に歴史あり』そのものだった。

 「キンキもいいけど、ババガレイの煮付けかな。」
すると、
「こんな大きな毛ガニ、それが一番。だって、あれは美味しかったよ。・・」
と続き、次は
「○○で食べた生ガキだなあ、
大きいし、身がプリプリで・・、他のものとは違ったな。」
話はつきなかった。
 あげた食べ物は、海産物ばかり。
矢っ張り北海道民なんだと思って相づちを打っていた。 

 その続きで、ある女性があげた食べ物に、ビックリした。
なんと『ホヤ!』。『ホヤ』である。
 それが「一番美味しいかったよ。」と言うのだ。

 「なんか生臭い気がしていたんだけれど、
きっとすごく生きがよかったんだと思うの。
 食べてみたら、臭みなんかなくて、すごいの。
あの味、ずっと忘れられない。」 

 その話を聞きながら、
若い頃、初めてホヤを知った日を思い出した。

 退勤時間が迫っていた頃、今夜の夕食が話題になった。
そこから、なぜホヤへと話が進んだのか、思い出せない。

 一応、魚屋の息子なのに、
私はそれまでホヤなる海の幸を知らなかった。
 東北地方の海から、よく水揚げされること、
『海のパイナップル』と言われていること、
そんな説明が、周りからあった。

 その話の輪に、私と同様、ホヤを知らない同僚がいた。
話が、トントンと進み、ホヤを食べに行こうとなった。

 数日後、4,5名で寿司屋へ行った。
寿司屋なら、ホヤがあるだろうと思ってのことだ。

 注文すると、にぎり寿司の前に、
小さく切ったオレンジ色のホヤの刺身が、運ばれてきた。

 一斉に、箸が伸びた。
初物に慎重な私は、みんなから間をおき、
箸を持たなかった。

 私と同じく、ホヤを知らない同僚は、
何のためらいもなく、ホヤを口に運んだ。
 さすが、日頃から好き嫌いはないと言うだけある。
私は感心した。
 若干の時が・・。

 次の瞬間だ。
彼は、急に片手で口を押さえ、立ち上がった。
そして、店のトイレへ走り出した。

 しばらくして、若干青ざめた顔で席へ帰ってきた。
「いや、あれはダメだ。全部もどしたよ。」

 私のチャレンジ精神は、すっかりと消えてしまった。
ホヤを口にすることに、怖じ気づいた。

 「折角だから、少しでも食べてみたら。」
くり返し勧められても、首を横にふるだけ。
 無言を通した。

 あの日から今日までに、
様々な席でホヤ料理が並んだ。
 時には、「こんな美味しいホヤは初めて!」
と、言いながら勧められたこともある。

 それでも、ホヤに私の箸が向いたことは一度もない。
いつも、あの時の同僚の慌てぶりを思い出した。

 まさに、喰わず嫌いのままである。
それでいいと思っている。
 今後も、きっと変わることはない。





   『だてカルチャーセンター』 
2年前に陽水が公演 春にはアルフィーが来る

         ≪次回更新は3月2日予定≫ 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教職に就いてすぐ (2)

2018-02-09 21:58:10 | 教育
 教職1年目は、5年生を担任した。
私は、まったく未熟な指導に終始した。
 授業では、子ども中心の展開ができず、
一方的に進めるばかりだった。
 それではダメだと気づいても、
授業改善の方法が分からなかった。

 そんなことの打開策の1つとして、
いや、そうではなく、
今できることは何かと、手探りした結果、
私は、B5版の小さな学級通信『わっか』を、
毎日発行することにした。

 当時は、ガリ版印刷だった。
3ミリ方眼のロウ原紙に、
その日の授業や子どもの様子などを、鉄筆で書き、作成した。
 作業は、4畳半のアパートで、夕食後に、
学生時代から使っていた小さな折りたたみ式の座卓で行った。

 1日を振り返り、生き生きとした子どもの姿、
授業の至らなさ、指導の曖昧さなどから、1つを記事にした。
 『毎日、夕食の後、家族で「わっか」を読んでます。』
『学校の様子を話さない子ですが、
主人も私も、「わっか」を頂いて助かっています。』
 そんな声が届き、私は勇気づけられた。

 ある日、調子に乗ってしまい、
学級通信の片隅に、こんな一文を載せた。
 『学校まで、徒歩で30分以上かかります。
自転車なら、10分位なのに!』

 2つめのエピソードは、この文がきっかけになった。

 その学級通信の翌日、放課後だった。
保護者の1人から、職員室に電話があった。
 「先生、ウチに使ってない自転車があるんですけど、
どうですか。空気を入れれば、まだ乗れますよ。」

 私は、すぐに反応した。
礼もそこそこ、その申し出に甘え、
退勤時間を待って、保護者宅を訪ねた。

 そのお宅は、毎日往復している通勤路の途中にあった。
牛乳屋さんを営んでいた。
 明るいお母さんが、迎えてくれた。
早速、店の裏手に置いてある自転車を見せてくれた。

 その自転車を見た瞬間、私は一瞬棒立ちになった。
それは、明らかに毎朝牛乳配達に使っていたものだった。

 車体は黒塗り、ハンドルは巾が広く、
荷台はすごく大きかった。
 その上、車体を固定するスタンドが、
転倒防止用で二股になっていた。
 重たい牛乳ビンの入った箱を支えるためだと分かった。
タイヤも、これまた太いのだ。

 見慣れていた、
今で言うところの『ママチャリ』からは、ほど遠かった。
 業務用自転車そのものなのだ。

 「先生、これでよかったら、使って下さい。
あげますよ。」
 その善意をこばむことなどできなかった。

 早速、近くの自転車屋で空気をいれ、
自宅に乗って帰った。
 息が切れた。
それまでに乗ったどんな自転車より、何倍も重かった。

 通勤路のほとんどは、平坦なアスファルト舗装だった。
ところが、途中に1つだけ、
ゼロメートル地帯の下町に、橋が架かっていた。
 当然、その橋も周りの堤防も、周囲より随分高く、
そこに続く道は急傾斜になっていた。
 
 毎日、朝と夕方、
その坂道を黒い牛乳配達用自転車をこいで上った。

 平坦な道でも、重たい自転車である。
それで上る橋までの坂道は、
どんなに慣れでも苦痛だった。
 立ちこぎで橋までたどり着くと、息切れは尋常でなかった。
暑い日は、一気に汗が噴き出した。
 向かい風の日は、怒りが先になった。

 確かに、自転車で10数分の通勤にはなった。  
でも、30分かかってでも、
徒歩通勤がいいと思い直した。
 ところが、それはできなかった。

 学校までの往復は、
必ず、その牛乳屋の保護者宅前を通るのである。
 朝と夕、頂いた自転車で通らなければ、
申し訳が立たない気がした。

 「いや、あの自転車重たくて、歩く方が楽で・・・。」
再び、歩き通勤に切り替えた理由を、
正直に言うことなど、決してできなかった。

 もう、雨の日だけを、心待ちした。
自転車通勤じゃなくていい日は、
その時だけなのだ。

 それでも、自分の気持ちを隠し、私は、
時折店先にいる牛乳屋の明るいお母さんに笑顔を作り、
そこを通り過ぎた。

 そんな通勤から半年余りが過ぎた頃だ。

 突然だが、お父さんの転勤で、
1週間後に転出する子がいた。
 私にとって、教え子との初めての別れだった。
最後の日、みんなでいろいろ工夫し、
お別れ会を盛大に行った。
 
 その2,3日前だ。
その子のお母さんが、転出の手続きに来校した。

 帰り際、お世話になったお礼がしたいと言い出した。
「先生、何か希望の物がありましたら、言ってください。」
 そんな申し出を、しきりに辞退する私に、
「じゃ、何か主人と相談します。」
 そう言って、立ち去った。

 まさかその品が、新車の『ママチャリ』だなんて、
その時、想像などできなかった。

 お別れ会が終わり、その子は下校していった。
次の学校に、早く慣れてほしいと、
それだけを願いながら、見送った。

 下校から小1時間が過ぎただろうか、
その子のお母さんが、職員室に顔を出した。
 ていねいな挨拶の後、私を玄関まで誘った。
そこに、真新しい購入したばかりの自転車があった。 
 サドルは、まだビニールをかぶっていた。
 
 「先生、明日から、これ使ってください。
あの自転車、先生、可愛そうで。」
 ビックリした。思わぬ贈り物だった。
でも、受け取る訳にはいかなかった。

 「こんな高価なもの、頂くことできません。
それに、あの自転車で十分です。」
 私は、見栄を張った。

 「いいんです。気にしないで、受け取ってください。
主人も、大賛成してくれたんですから、あれじゃって・・。
是非、これに乗ってください。」
 お母さんは、遠慮がちに、言葉を選びながらそう言った。

 こうなったらと、私は、牛乳屋さんから譲り受けたこと、
その手前もあることなど、隠さずにお話しした。
 すると、牛乳屋さんへ出向き、
新車を贈ることを伝え、快諾を得ているとの、返事が戻ってきた。
 もう、私は、好意に素直に応じるしかなくなった。

 その日の退勤から、新しい自転車にまたがった。
あの橋も、スイスイ上った。

 翌朝、牛乳屋さんの前に、あの明るいお母さんがいた。
私は、言い訳しようと、自転車を止めた。

 「よかったね、先生。あの自転車、先生にあげてみたけど、
大変そうで気の毒だったから、ホッとしました。」
 一気に、そう言って、ニコッとしてくれた。

 急に肩が軽くなった。
「ありがとうございます。」
 自転車をスイスイとこぎ、学校へ走った。

 12月にボーナスを貰ってから、
お礼の品を、厳選して送った。





   冬の青空 軒先のつらら 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教職に就いてすぐ  (1)

2018-02-02 21:56:06 | 教育
 2,3年前、
久しぶりに大学時代の仲間たちと一夜を共にした。
 私と家内以外は、みんな北海道内で教職を終えていた。

 その1人が、教職に就いてすぐのころを回顧し、
語ったことがいつまでも心に残っている。

 「大学を出て、最初の小学校は、
全校児童が15人位の僻地だったんだ。
 校長先生と教頭先生、それに先生が3人だった。
管理職2人と僕は、学校近くの官舎で、
後の2人は、町に住んでいて、
1時間程かけて車で通勤していた。

 15人の子どもでも学校にいる時は、まだいいんだ。
少ない子どもだけど、その時間はやはり活気がある。
 ところが、その子たちが居なくなると、
学校もその周りも、もう静まりかえちゃって・・。
 田園風景なんて言うけど、
見慣れたそれは、何もなく寂しいものさ。

 仕事を終えて官舎に戻ると、もうすることがないんだ。
大学を出たばかりだから、
運転免許もまだもってない。当然、車もない。

 定期バスは、そんなに遅くまで通ってないから、
近くの町まで出ることも、できないんだ。

 校長先生や教頭先生が、時々夕食に呼んでくれるけど、
それだっていつまでも、
お邪魔している訳にもいかないしね。

 あそこで暮らしていた時、僕はずっとおかしかった気がする。
いつも、もんもんとしていて・・。
 運良く、3年で異動できたから良かったけど、
本当に、辛かった。寂しかった。」

 同時期の私はどうだっただろう。
東京の下町の小学校に赴任し、
慣れない都会暮らしに若干戸惑いながらも、
彼のように、もんもんとした日々を送ることはなかった。

 300人を越える児童との教職生活は勿論だが、
想像を越えた人や物、文化等との素敵な出逢いがあった。
 多くの刺激が私を包んでくれた。

 当然、未熟な教育実践に、思い悩むことはしばしばあった。
でも、いつも同世代の先生方と語り合った。
夕食を共にした。
 時には、一緒に都心まで買い物や展覧会、映画、演劇に行った。
貴重な時間だった。

 さて、そんな私のかけ出し時代のエピソードを2つ記す。

 その1つは、着任早々のことである。
当時は、4月1日の辞令伝達などはなく、
5日が初出勤の日と連絡を受けていた。

 私の住まいは、3月末に内定の面接に出向いたおり、
学校で探してくれることになっていた。
 なので、4日午後に学校を訪ねた。
東京での住まいから、5日朝に初出勤しようと思ったからだ。

 教頭先生と日直の先生がいた。
挨拶もそこそこに、私は尋ねた。
 「私の住むところは、どこになりましたか。」

 教頭先生から、すぐに返事が返ってきた。
「さて、誰が探しているのかな?」
 「先日、来た時に、校長先生が探しておきますって、
言ってくださったのですが・・。」
 「じゃ、誰か探しているのでしょう・・。
でも、見つかったとは、聞いてないなあ・・。」

 「今夜の宿がない!」
私は、声を失った。
 どうしていいのか、全く分からなくなった。
この後は、大人と子どもの会話みたいである。

 「明日、先生方が来たら、探している先生が分かるでしょう。・・・」
「そうですか。でも、今夜、泊まる所が・・。」
 「誰かに、頼んで泊めてもらえないの・・。」
「急に泊めてもらえるところなど、ありません。・・」
 「それは、困ったね。もしものことは考えなかったの・・。」
「はい、住まいはてっきり決まっていると思っていましたから・・。」
 「そう言っても、私は何も聞いてないしね・・。」
「でも、どうしたら・・。」
 「困りましたね。・・」

 私は、突然の事態に、ただただぼう然とした。
東京に着いた初日のできごとである。
 こんな事態への対応力を、当時の私は持っていなかった。

 ガランとした職員室で、教頭先生の机の前に、
私は、しばらく突っ立ていた。
 そこへ、その夜、宿直勤務の警備員が出勤してきた。

 若干年配の警備員さんは、
私の事情を聞いて、さり気なく言ってくれた。
 「じゃ、今夜は保健室のベットで寝ればいい。
教頭さん、いいよね。」
 「警備さんが、それでいいなら・・」

 警備員さんは、私に顔を向けて微笑んだ。
「大丈夫。安心しな。夕飯は、2食分作るから・・。」
 きっと、私はすごく困った顔をしていたのだと思う。

 話は、トントンと進み、夕方、陽が落ちた頃、
宿直室の和室で、警備員さんと向かい合い、
夕食を頂くことになった。
 
 「俺は、勤務なので飲めないけど、東京での1日目だろう。
就職祝いだよ。」
 警備員さんは、缶ビールを開けて、
私のグラスについでくれた。

 東京での初めての優しさに、こみ上げるものがあった。
それを必死でこらえながら、グラスを口へ運んだ。
 「ありがとうございます。美味しいです。」
「とんだ初日になったけど、きっといい先生になれるよ。」

 思ってもいなかった励ましだった。
「はい、・・頑張ります。」
 それ以上、何か言うと泣きそうで、言葉を飲んだ。

 その後、まだ早い気がしたけど、
警備員さんに勧められ、保健室のベットに横になった。

 夜の学校の一室であるが、
どこからが明かりが届き、薄明るかった。
 遠くから車の騒音も、わずかに聞こえていた。

 でも、前夜の夜行列車、そして今日の疲れもあって、
いつの間にか寝入っていた。

 しかし、この日の出来事は、これで終わらなかった。

 真夜中だったと思う。
私は、トイレに行きたくなった。
 しばらく我慢をしたが、やはり行った方がいいと決め、
ベットをおり、保健室のドアをあけ、廊下に出た。

 すると非常ベルの音が、学校中に鳴り響いた。
「火事!」
私はとっさにそう思い、薄暗い廊下を宿直室へ走った。

 途中、慣れない廊下のどこかに、額をぶつけた。
それも構わず、「火事ですか。」
警備員さんを見るなり叫んだ。

「保健室のドアを開けたでしょう。だから、ベルが鳴ったんだよ。」
警備員さんは、静かにそう言いながら、
非常装置のスイッチを動かした。
 ベルは、止まった。

 「どこに、ぶつかったの。おでこから血が出ているよ。」
私は、頂いたちり紙で額をおさえた。
 額がすりむけ、出血していた。
 
 翌朝、額に絆創膏を貼ったまま、
私は、先生方に着任の挨拶をした。
                      
                     つづく




    冬の昭和新山 “今も噴煙が”
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする