ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

いつまでも 青二才!?

2017-02-24 22:02:30 | 思い
 昨年末もそうだったが、年々喪中ハガキが増える。
その多くは、知人友人からで、主にはご両親の他界である。
 しかし、稀に夫や妻のものがあり、心の痛みが倍加する。

 それに増した悲報は、
私より年若い同僚だった方々のものである。
昨年は、3人も帰らぬ人となった。

 1人目は、私が30才後半の頃同学年を組んだ、
2才下の女教師だ。
 他区だったが、校長として活躍し定年退職をした。
理詰めで物事を考える方で、
時間を忘れ、よく教育談義をした。

 2人目は、同じ区の校長で、私より6才違いだった。
小柄だったが豪快で、
リーダー性はどんな後輩校長よりも、抜きん出ていた。
 人伝えだが、癌の告知を受けていたようだ。
しかし、それを知っていた者は少なかったらしい。
 彼らしいと思った。

 3人目は、わずか1年間だが、
私の片腕だった副校長である。
 確か5才下だと思う。
理科教育では注目された時もあったようだが、
穏やかすぎる性格が、管理職としては力不足だった。
 酒豪で、いつも明るい宴席にしてくれた。
彼も癌に倒れた。

 3人とも、これから再びの開花が待っていたはずだ。
どれだけ無念だったことか。
 その思いの一端すら聞いて上げることができず、
残念でならない。

 さて、先日、80才になるご近所さんのところに、
東京で暮らす娘さんが久しぶりにいらした。
 お世話などしていないのに、
お土産を持って、突然訪ねてくれた。

 50才になろうとしていた方だったが、
すぐにうち解け、話の花が咲いた。

 「ところで、終活はお考えですか。」
真顔で、話題を向けられた。

 私は、悲報を受けた3人の無念さを語った。
そして、
「今、最も我慢ならないのは、
自分の死に方を、自分で決められないことですよ。」
 彼らは、自分の死を自分で決めたわけじゃないと、
伝えたかった。

 「もし、死に方を決められるなら、
喜んで終活も頑張ります。」
 どう受け止められるか不安だったが、そう答えた。

 その上、最近の心の変化まで語り始めてしまった。

 ー ー ー ー ー 

 現職の頃、誰かの役に立つことが、
生きていることの最大の意味だと思っていた。
 未来を担う子ども達、それを支える先生や親、
周りにいる知人や友人、家族のためにならと、
毎日を過ごした。
 そんな私への期待が、さらに嬉しかった。

 だから、「不要となったら、老兵は去るのみでいい」と、
漠然とだが、その思いでいた。

 その終焉の地として、伊達に移りきた。

 ところがだ。
この地での日々は、私に、
数々の驚きと熱いものを教えてくれた。

 それについて、ここで安易に言葉を並べることは避けたい。
ただ、この地だからこそ、この年齢だからこそ、
見えた、感じたものが数々あった。

 その思いが、こんなことを考えさせた。
「もし、このまま年齢を重ねたらどうなる。
きっと、その年齢ならではの、気づきや温もり、
感情に出会えるのではないだろうか。」

 人生の折り返しを過ぎて久しい。
今後は、誰の役にも、何の役にも立たなくなるだろう。
 それでも、例え意地汚いと言われてもいい。

 ー ー ー ー ー

 そこで、私は、言い切った。
「終活どころじゃない。
 長生きがしたい。
80歳、90歳、100歳と、
その年齢でなければ見ることができない風景がきっとある。
それを、是非見てみたい。」

 来客も家内も、若干あきれ顔をしていた。
それでも、私一人、勝手に高揚感の中にいた。
 その場の雰囲気だけが言わせた言葉ではない。

 それから、約2ヶ月、
私の思いを後押しする文に出会った。
 3つ列記して、結ぶ。
いつまでも青二才でいいのではなかろうか。

  (1)
 人生は挑まなければ、応えてくれない。
うつろに叩けば、うつろにしか応えない。
               城山三郎
 人生、「不完全燃焼」が延々と続くこともあれば、
「長いリハーサル」ののち一気に燃え尽きることもある。
いずれにせよ、挑まなければ限界にも突き当たらない。
おのれの限界に歯ぎしりすることもない。
悔しい思いでそこを乗り越えると、
きっとこれまでより見晴らしのよい場所に立てる。
その時、苦労してたどった上り坂が平坦に見えてくる。
 作家の「人生余熱あり」から 
≪2017/1/5朝日新聞 折々のことば 鷲田清一≫

  (2)
 「昨日今日不同」(昨日今日と同じからず)という
禅語があります。
一度過ぎ去った日は二度と戻ってこない、
という意味です。
体力もいつまでも若いときと同じということは
決してないのです。

 1日1日波が岸に寄せてくるごとく、
毎日同じような日がくり返されていると、
私たちは思いがちです。
しかし、好むと好まざるに関わらず
老いを重ねていくわけです。
人はそれを常に意識して生きていかなければいけません。

 だからこそ、目の前のことに全力で取り組み、
一瞬一瞬を大事にしていく仕事の取り組み方が必要なのです。
≪曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー 枡野俊明≫

  (3)
 たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか
自分の年齢を意識していないし、
たいていの時間は無年齢者でいるのだ。
           ミラン・クンデラ
 60代とおぼしき女性がプールで
若い男性教師に水泳を習っている。
レッスンが済んでプールから去るとき、ふとふり返り、
彼に「色とりどりに塗りわけた風船を
恋人めがけて投げ」るかのような合図を送る。
ひとの存在もまた風船のよう。
歳など知らず気ままに漂う。きゅんとなる。
亡命作家の小説「不滅」(菅野昭正訳)の冒頭の場面
≪2017/2/7朝日新聞 折々のことば 鷲田清一≫




 大きな栗の木の下 春の足音がする
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学習指導要領改定案におもう

2017-02-17 22:09:07 | 教育
 2月14日、文科省は、小中学校の学習指導要領と
幼稚園教育要領の改訂案を発表した。
 まだその全文には触れていないが、
新聞等の報道を通して、そのおおよそを知ることができた。

 時代のニーズに応じた新たな学校教育の始まりである。
そこに大きな期待を寄せるのは、私だけではないと思う。

 さて、改訂案は、
『ゆとり・・!?、いや、学力向上・・!?』といった観点を超え、
学びの「質」と「量」の両者を求めているようである。

 そして、何よりも目を引いたのは、
次の2つの文言である。

 1つは、最近よく耳にしていた、
議論や討論を中心にした授業形態である
「アクティブ・ラーニング」(AL)に代わって記述された、
『主体的・対話的で深い学び』である。

 そしてもう1つは、
教育の「質」や学校の教育力の向上を図る
組織的で計画的な『カリキュラム・マネージメント』に、
取り組むことである。

 この2つの文言について、
中央教育審議会教育課程部会長の無藤隆さんは、
朝日新聞に以下を寄稿し、説明している。
 私には、理解しやすい一文だった。

 『今回の改訂に向けた中教審の議論の出発点は
「劇的に変化する社会の中で、
子どもたちに必要とされている力とは何か。
学校はその力を育てるために、
どんな教えを実践しなければいけないのか」
ということだった。

 少子高齢化が進み、多くの外国人が来日し、
人工知能に代表される
科学技術の進化のスピードはさらに加速していく。
5年後、10年後さえ予測できない社会を
私たちは生きている。
若い世代には、そんな「未知の課題」に向き合い、
未来を切り開く力が必要だ。

 そのために、学校教育は何をすればいいのか。
それが今回「主体的・対話的で深い学び」という言葉で
表現される授業の実践だ。
受け身の授業ではなく、議論や体験学習を通じて、
子どもたちに「自ら学ぶ方法」を教えることが
重要になってくる。

 「深い学び」の授業には、教員の創意工夫が欠かせない。
「これ以上学校に求められたらパンクする」
という現場の声を踏まえ、
ポイントとなるのが「カリキュラム・マネージメント」だ。
教員が個々で取り組むのではなく、
連携し、学校全体の教育力を高めるというイメージだ。
学校が引き受けてきた慣例を一度整理し、
地域や家庭が得意なことはお願いする。
メリハリと重点化が必要だ。』

 まず「主体的・対話的で深い学び」である。
無藤さんは、その授業のねらいを、
『子どもたちに「自ら学ぶ方法」を教えること』と言う。

 かつて私は、本ブログに『学力は学ぶ力』を記した。
その中で、こう述べた。

 『次々と進む技術革新と、それに伴う様々な変化を吸収し、
多種多彩な新しさを獲得する資質や能力を、
私は今日の「学力」と捉える。
 それは変化に対応する一人一人の「学ぶ力」と言ってもいい。』

 無藤さんの「自ら学ぶ方法」と、私の「学ぶ力」は同義と言えよう。
そのための「主体的・対話的で深い学び」の授業である。
 その実現に、大いに期待したい。

 すでに、それにむかった授業改善が、
全国各地の各校でスタートしているのだろう。

 しかし、明治大学教授の齋藤孝さんは、
『教員支援 成否を左右』と題するコメントで、
その授業づくりの難しさを、こう述べている。

 『討論などの対話的な学びを活性化させるには、
教師のセンスや技術が必要だ。

 教室という場を動かすリーダーシップや
機転の利いた問いの立て方、
雰囲気がたるんだ時にどう対処すべきかといった
処方箋も求められる。

 形式をまねただけでは効果は出ず、
逆に学力低下の可能性もある。』

 次に、「カリキュラム・マネージメント」についてだ。

 どうやら、そのねらいは、
教科横断的な視点とPDCAサイクルの確立、
そして、人的物的な地域の外部資源の活用等による、
学校独自の教育課程の確立にあるようだ。

 そのことは、総合的な学習の時間を導入した際に
盛んに強調されたことに酷似しているように思えてならない。

 そんな感想よりも、いずれにしても学校には、
知恵を絞り合い、地域性や独自性を織り込んだ、
合理的な教育課程の編成が求めれる。

 加えて、5、6年では、教科化される外国語科によって、
授業時間数が増加になる。
 その時間をどう生み出すのか。
「カリキュラム・マネージメント」としてどう対応するのか。
 各校には、大きな宿題だろう。

 遂に、学校の常識であった午前は4時間を、
5時間にする時がやって来たのではなかろうか。
 「毎週、火、木、金の午前は5時間」も現実味を帯びてきたようだ。

 さらに、かつて私は、授業づくりの教師の役割を、
①プランナー(立案者)、②プロデューサー(作成者)、
③コーディネーター(調整者)の3つと強調した。

 授業のすべてを教師が担うのではない。
必要に応じて、有効な人材を授業で活用するのである。

 そのために、教師は①活用する人材を生かす授業を立案し、
②その人材をその時々、教室に招き、
③授業では、どの場面で活用するか調整を図る。
 「カリキュラム・マネージメント」では、
教師に、その力が強く求められているように思う。

 さて、最後に、改訂案の大きな課題についてである。

 神奈川大の特別招聘教授の安彦忠彦さんは言う。
『各教科ごとの「主体的・対話的で深い学び」や
カリキュラム・マネージメントは大切だが、
その効果を生む人的、時間的な余裕が
今の学校現場にあるだろうか。』

 そして、熊本市立向山小教頭の前田康裕先生も言う。
『授業時間の確保▽教材研究
▽英語やプログラミングなど新しい学習のためのスキルアップ
▽カリキュラム・マネージメントのための教員同士の合意形成
▽学校間や地域との連携ーー。
どれも重要だが、「時間」の確保が大きな課題だ。
……時間の問題は、学校だけで解決するには限界がある。』

 そして、朝日新聞編集委員の氏岡真弓さんは、
こんな警鐘を鳴らす。
 『ただでさえ教員の多忙が指摘される中、
学校現場が担いきれなければ、
(改訂案は)「絵に描いた餅」になる懸念もある。』

 その上、学校の実態を、『かつて大量採用されたベテランが次々退職し、
若手へ代替わりする過渡期でもある。
…中堅の教員が少なく、授業法の伝承さえ危ぶまれている』と。

 まさしくパンク寸前とまで言われ、
多忙を極め、底力を失った学校現場での改訂である。
 齋藤孝さんのコメント通り、『教員支援 成否を左右』している。

 その教員支援だが、
はてさて、この私にできうることが、何かあるだろうか。
 思い悩む、ここ数日が続いている。

   


  まだ2月中旬 なのにこんなに雪解け
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Tちゃんとの 出会いが

2017-02-10 20:04:36 | 教育
 2月9日、『平成28年度東京都教育委員会職員表彰』の表彰式が行われた。
今年度は、小学校の教職員13名、管理職31名を含む個人表彰81名、
団体表彰11団体が受賞したらしい。

 実は、8年前になるが定年退職の年に、
私もその栄誉に恵まれた。
私を推薦し、支援して下さった方々に、
今も、深く感謝している。

 受賞の翌日、勤務校のPTAが中心になって、
盛大な祝賀会を催してくれた。
 地域の有力者、PTA関係者、保護者、
そして教職員等々、80余名もの方から祝福を頂いた。
 身に余る祝宴に、私はただただ恐縮した。

 その席で、お礼を述べる機会をもらった。
それまでの教職生活をふり返り、
忘れてはいけない人、3名のことを話した。

 大学生活4年間の学費を支えてくれた10歳違いの兄、
管理職の道へと背中を押してくれた校長先生、
そして、本ブログ『9年目の涙』にも記した、
教え子Tちゃんのことである。

 その挨拶から、Tちゃんに関わる所を抜粋する。 


 『本当のことを申し上げますが、
教職についてから10年位、
私は教師として実の所、天狗でした。

 子どもという者は、毎日楽しい話をしてやり、
明るい雰囲気で授業を進め、
時にはきびしく叱り、指示し、命令をしていれば、
いつでも自分の掌の上で、
自由にあやつることができると思っていました。

 ところが、ある年の年度始めに、
1年担任と決まっていた私に、
校長先生から学級に自閉症の子がいると伝えられました。
 それがTちゃんでした。

 自閉症の子を受け持つのは初めての私に、
Tちゃんは「鉛筆を出して。国語の本を出して。」と言うと、
「鉛筆を出して。本を出して。」とオーム返しで言うだけで、
何一つとして言う通りにはしてくれませんでした。

 褒めようと笑顔を作って言おうと通用しません。
しびれをきらして大きな声を出すと、
「お母さん帰る」と言い続けて、大泣きする有り様でした。

 私は、それまでの教師生活の全てを、
彼に否定された気がしました。
 褒めても叱ってもダメ、何も通用しないのです。
私は本当に自信を失いました。

 Tちゃんの「お母さん、帰る」の大泣きに、
おびえる毎日を送りました。
 悔しくても何もできない私でした。

 しかし、どうにかしてTちゃんの心に少しでも近づきたいと、
考えるようになり、必死でした。

 夢中でTちゃんのことを思いました。
夢中でTちゃんの行動を追いました。
 すると少しずつ少しずつですが、
Tちゃんのことがわかってきました。

 「ああ、今はこうしたいんだ。」
 「ああ、こんな時、絵が描きたいんだ。」
 「こんなことが、嬉しいんだ。」

  私は、こんなふうに子どもを理解することの大切さを、
Tちゃんを通して学びました。

 Tちゃんなしに私は、
“教育は児童理解に始まり、児童理解に終わる”
と言うことを知ることはなかったと思います。

 Tちゃんが、私に教育の原点を教えてくれたのです。』


 この挨拶は、決して過言ではない。
Tちゃんとの出会いは、
その後の私の歩みを決定づけるものになったと言える。
 数々の貴重な体験をさせてもらった。
その1つを記す。 

 通常の学級にいるTちゃんである。
どんなに彼への理解が進んでも、
他の子と同様のことは、ほとんど無理だった。
 その分、常にTちゃんには特別の配慮が必要になった。

 しかし、徐々に徐々にでも、
彼との距離が縮んで行くことは、実に楽しいことだった。

 今日のTちゃんは、こんなことをした。
こんなことに応じてくれた。
 こんな表情をした。
私は、同僚の先生方にも、家族にも、
Tちゃんのことを、毎日生き生きと話した。

 人は相手への理解が進めば進むほど、
その人のことが好きになる。
 私は、Tちゃんのことが大好きになっていった。
その気持ちは、きっとTちゃんにも伝わっていったと思う。

 冬が近づいていたある日のことだ。
初めて給食にみかんが出た。

 給食時間のTちゃんは、
1日の中で一番手がかからなかった。
 好き嫌いはなく、どんな献立でも嬉しそうに食べた。
お母さんがしっかりと躾けたのだろう。
 食べこぼしや食べ残しなどもなかった。
 
 食べ終わると、周りの子と同じように、
食後の挨拶まで席から離れなかった。

 ところが、その日は様子が違った。
周りの子が、しきりにTちゃんに声をかけていた。

 「Tちゃん、みかんを残しているの!」
子ども達が、口々に訴えた。
 お盆の隅に、みかんがそのままになっていた。

 「Tちゃん、みかん、食べようね。」
私の声かけにも、Tちゃんは無反応だった。
 表情も変えず、みかんを見ようともしなかった。
めずらしいことだった。

 私は、腰をかがめ、Tちゃんのみかんの皮をむいた。
そして、一房をTちゃんの口に近づけた。
 唇を真一文字にしていたが、2度3度とくり返すと、口を開けた。
「美味しいからね。」
 その一房をTちゃんの口に入れた。

 表情に変化はなかった。
そして、みかんの入った口を動かす気配もなかった。
 念のためにと、
「口をあけでごらん。あーんして!」
開いた口には、一房のみかんがそのままになっていた。

 「Tちゃん、みかんをかむの!」
Tちゃんの目を見た。
 不安げな様子が伝わってきた。
それでも、少し強い口調で続けた。
 「みかんを、かんでごらん!」

 Tちゃんは口を動かした。
しかし、それはみかんを咬んで房を裂くのではなく、
飴をなめるように、口の中でころがすだけだった。
 「違う、違う。みかんをアウッンってするの!」

 やがて、子ども達も察したのだろう。
「Tちゃん、アウン!」
「アウーッンだよ。」
「頑張れ!」
 Tちゃんを囲んで、口々に言い出した。
私も、子ども達と一緒に声をかけた。

 Tちゃんは、私や子ども達の声かけに答えようと、頑張った。
子ども達と一緒に、「アウッン!」と声を出した。
 でも、みかんの房は、口の中でそのままだった。

 「ちがうよ。ちがう。」
「上の歯と下の歯でかむの。」
「みかんをギュッとつぶすの。」
 口々にアドバイスする子ども達。

そして、「アウッン!」
 声を出すTちゃん。

 だが、口の中でみかんはそのまま、
飴のように右へ左へと動いた。

 とうとう、Tちゃんの目から大粒の涙がこぼれた。
ポケットから真っ白なハンカチを取りだした。
何度も、涙と鼻水を自分で拭いた。
 Tちゃんの悲しさが伝わってきた。

「Tちゃん、ゴクンしていいよ。」
私が言うと、みかんを房のまま飲み込んだ。

 その後、給食にみかんが出るたびに、
教室では同様のことがくり返された。

 「小さい時から、何度教えても、
みかんはできないんです。」
 お母さんは、ため息交じりに肩を落とした。

 みかんの一房をかみ砕くことが、
こんなに難しいことだとは・・・。

 その難しいことに、何度も挑戦し、
できないことに涙を流したTちゃん。

 その姿を見て、いつも私は心を濡らした。
そして、たった1つのことを、
教えられない歯がゆさに揺れた。

 あれから35年が過ぎた。
でも、あの真剣なTちゃんの姿は、私の目から離れない。

 何かにチャレンジしようとする時、
今も力をくれる。




  雪の紋別岳と夕焼け雲 そして月
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北の底力に 奮えた

2017-02-03 22:24:42 | 北の大地
 道北・留萌市に関する話題である。

 留萌は、若い頃に1度だけ車で素通りしたことがある。
特段の印象は記憶にない。
 ただ、冬の北海道版天気予報では、『暴風雪警報』と一緒に、
よくこの地名を聞く。
 かつては、石炭の搬出で賑わった街だと言う。
日本海に面し、雪が多く、寒さも厳しいらしい。

 ▼ 最初は、昨年12月4日のことである。
この日、JR北海道留萌本線の、
留萌駅と増毛駅間が廃線になった。

 その夜、増毛駅を発つ最終列車に、
集まった住民たちが、寒さと真っ暗闇の中で、
色とりどりのペンライトを振り、別れを惜しんだ。
 その映像を、テレビで見た。

 当初、廃線は11月30日(水)であった。
それを、「みんなでお別れしたい。」と願い出て、
12月4日の日曜日まで延期になった。
 ペンライトは、増毛駅前通り商店会が、
用意したのだと聞いた。

 人々の別れの声と共に、揺れる色とりどりの灯りが、
胸を締め付けた。

 増毛駅に限らず、駅や鉄道には、
その人その人のドラマが刻まれている。
 その地が、また1つ消えていく。

 それだけでも切ないのに、
揺れるペンライトの灯りが悲しげで、心を濡らした。

 その日、増毛町長はこう語った。
「鉄道ファンの私が、
廃線に同意の判を押さねばならず、
最後の日に立ち会わねばならないことは、
非情につらい。」
 一首長としての無念さが、真っ直ぐに伝わった。

 年齢と共に、メッキリ涙もろくなった私だが、
その日の住民と町長に、目頭を押さえた道民は、
少なくなかったと思う。
 きっと、同時に唇も噛んだに違いない。

 ▼ その留萌本線には、引き続き
全線をバスによる運行と言う、
事実上の廃線が提案されている。

 「北海道の鉄路の将来をどうするという、
総論の議論を経ないで、
個別の路線の協議に入ることはできない。」

 留萌本線の起点駅がある深川市長は、
そう言って協議を拒否している。

 目先の施策に苦慮するばかりの行政マンが目立つ。
その中で、先々を見据えた気骨ある市長の態度に、
私だって、エールを送りたくなる。

 ▼ JR北海道の鉄道事業の衰退だけではない。
各地方の人口減少は、急激に進んでいるように思う。

 大都会での暮らしが長かったからだろうか。
「いたるところで町が消えてしまう。」
そんな危機的カウントダウンが聞こえるようで、
つい暗い気持ちになる。

 くり返しになるが、
「地方は、もう見捨てられている。」
そんな思いを強くする光景を、いたるところで見てきた。

 ▼ ところが、留萌の町に一条の光があった。

 先週、NHK北海道で、『北海道クローズアップ・
私たちの本屋を守りたい ~留萌の挑戦』が放映された。

 2011年7月24日、
『留萌ブックセンターby三省堂書店』がオープンした。

 それから5年、人口2万2千人の小さな町のこの本屋は、
在庫10万冊を数え、毎月1千万円を売り上げ、
黒字経営を続けている。

 実は、それまで留萌にあった本屋は、
2010年10月を最後になくなってしまった。
 留萌は、本屋のない町になった。

 そのことに危機を感じた数人の市民が、立ち上がった。
その動機は、新学期を控え
「自分にあった参考書を、手にとって選ばせたい。」
そんな子どもへの思いからだった。

 目指すは、人口30万人以上を出店の条件にしている、
東京に本店がある大手書店・三省堂の誘致だった。

 『三省堂書店を留萌に呼び隊』を立ち上げた。
そして、数人のグループで取り組んだのが、
単なる誘致署名ではなかった。

 それは、その書店のポイントカード会員になることだ。
「こんなに多くの人が、あなたの書店の本を買います。」
その意思表示だった。

 集まった会員数は、
人口の10分の1を越え、2500人に及んだ。

 三省堂の社長は言う。
「寒い冬の留萌の中で、情熱的な熱さにほだされた。」

 この誘致活動を進めた『呼び隊』の代表・武良千春さんは、
出店の報を聞いた時、思わず口をついた。
「本当に来るの! 三省堂!」

 ある市民は言う。
「誘う方も、誘われる方も、思い切った!」

 「ダメ元」で始めたと言うが、
ポイントカード会員を集めるという知恵が、
大手書店を揺り動かした。
 その熱い願いをキチンと受け止め、
踏み出した大手書店の経営陣も凄い。
 両者に関わった人々の底力に、私は奮えた。

 しかし、書店ゼロの危機を救った奇跡の取り組みは、
それで終わらず、開店後も続いている。

 『三省堂書店を留萌に呼び隊』は、
『三省堂書店を応援し隊』となった。

 メンバーは、ボランティアとして、
人手が必要な本の陳列を手助けする。
 病院などへ、出張販売に出かける。
店内では、読み聞かせや朗読会を行っているのだ。

 インタビューに応じた地元の女子高生は、胸を張る。
「自分の好きな本がいっぱいある。」
 そして「留萌の宝石」と微笑む。

 町の本屋をなくさないようにと、
住民の小さな努力も続く。
 コンビニで買っていた雑誌を、ここで買う。
ネットで注文していた本を、ここに注文する。
 そして、市内のお寺の住職は、
全国発送する宗派の教材本270冊40万円を依頼し、
本屋を支える。

 店長の今拓巳さんは言う。
「毎日、奇跡がおきている。」
そして、力を込めて、こう続けた。
「無くしちゃいけない。
楽しんでもらって、買ってもらって、
長く続けて行きたい。
そういう本屋でありたい。」

 この番組の結び、こんなアナウンスが流れた。
「大切なものは、必ず守り抜く。
小さな街の1軒の本屋が私たちに教えてくれています。」
 
 今日も、留萌でくり広げられている、
『大切なものを守り抜く』小さな力と力、
そして少しの知恵と心意気。

 私は、その事実に人の真の強さを学んだ。
つい下を向いてしまう自分の気持ちを見つめ直す、
大切な切っ掛けを頂いた。




  だて歴史の杜公園の 雪景色
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