教職に就いて15年目のことである。
昭和60年、36歳の時だ。
私は、1年間学校を離れ、研修する機会に恵まれた。
当時、東京都立教育研究所(都研)の心身障害教育研究室が、
4年計画で、『通常学級に在籍する心身障害児の事例研究』のテーマで、
研究所員、指導主事、教育研究生による共同研究を行っていた。
その数年前、年度は違うが、自閉症のT君や、脳性マヒのYちゃんと、
通常学級で共に過ごした。
2人からは、教師として沢山のことを学んだ。
その経験が生きる場があればいいと常々思っていた。
共同研究のそのテーマを見て、これならと思った。
翌年の教育研究生に応募した。
教員採用試験以来、久々の論文試験と面接試験にチャレンジした。
運良く3名枠の中に入った。
通常学級の担任だった私の他に、
通常学校に併設されている心身障害児学級の男性担任と、
養護学校の女性担任が、その年度の研究生になった。
毎日、目黒駅から徒歩数分、
大きな窓がある都研の心身障害児教育研究室に通った。
そこで4人の指導主事と3人の研究生で過ごした。
私にとって、その1年はすごく貴重な経験だった。
見方を変えれば些細なことだろうが、
あの頃の私には、新鮮で刺激的な数々だった。
そのたわいもない、でも私が大事にした出来事を書く。
①
教育研究生としての初日、辞令交付式のようなものがあった。
人数は、50人以上いただろうか、定かではない。
研究所長さんなどの挨拶の後、
研究生を担当する指導主事によるガイダンスがあった。
研究生の心得として、服装についてその指導主事は時間をさいた。
「都研や各種研究機関に通うのだから、みっともない格好はよしましょう。
男性は背広にネクタイ、女性もそれに準じた服装が、
いいのではないでしょうか。」
嫌みのない、さらっとした言い方だった。
あの頃、1,2着しか背広を持っていなかった。
急いで、安価な既製品を2着ほど買い求めた。
ネクタイも、数本調達した。
1ヶ月もすると、ネクタイと背広にすっかり慣れた。
それまでのカジュアルな服装より、ずっとずっと便利だった。
何よりも組合せが、限られた。
白いワイシャツ、ネクタイ、背広、それに黒の革靴、
それでいいのだ。
以前は、毎日、ポロシャツやカラーシャツを選び、それにあったズボン。
各種チョッキかブレザー、ジャンパーをそれに合わせた。
靴も紐皮靴やスニーカー等々から・・。
結構な時間がかかった。面倒だった。
ところが、その負担が軽減された。
予想外に、楽なのだ。
以来、その1年が終わっても、通勤はネクタイと背広に決めた。
②
研究室では、よく電話が鳴った。
私のデスクは、研究生の中で一番電話機に近かった。
電話が鳴ると、いつも4人の指導主事の内1人が受話器を取った。
研究室で数日が過ぎた。
たまたま、女性のS指導主事が1人だった時だ。
電話が鳴り、
私は気を利かせ、初めてその受話器を取った。
「はい、都立教育研究所心身障害教育研究室です。」
「すみません。H先生お願いします。」
「あのぉ、ただ今、席をはずしていますが、」
「そうですか。いつ戻られますか。」
私には指導主事の動静は分からなかった。
「少々、お待ち下さい。」
S指導主事に尋ねた。
S指導主事は、私から受話器を取り、その電話に応じた。
そして、受話器を置くなり、強い口調で言った。
「研究生の皆さんが、研究室の電話に出て対応できることは、
何もありません。
どんな時でも、指導主事1人はこの部屋にいますから、
電話は取らないでください。
・・それから、『心身障害教育研究室です』ではなく、
『心身障害教育研修室でございます』ですよ。」
痛烈だった。
「わかりました。申し訳ありません。」
頭に血が上っていた。
しかし、言われる通りだった。
ここは学校と違う。
上下関係が明確な場所だ。
思い知った。
一語一句にも気を遣い、過ごすことになった。
それが、後々私の役に立った。
③
まだ給料の振り込みなどと言った制度がない時代だった。
毎月15日には、在籍校まで給料をもらいに行った。
その機会に、1ヶ月分の研究等々の経過を管理職に報告した。
合わせて、忙しい先生方を捕まえては、職員室で歓談した。
月1回、ちょっと肩の力が抜ける時間だった。
何回か、そんな日をくり返し、気づいた。
それは、子ども達の声だった。
時折、教室から聞こえてくる歓声もいい。
グループごとに何かを話し合っているような、
騒然とした声もいい。
休み時間に校庭で遊ぶ甲高い声もいい。
友だちの頑張りを後押しする真っ直ぐな声援もいい。
それまでの14年間、私は毎日、
そんな子ども達のエネルギーある声に囲まれてきた。
その声と一緒が、私だった。
その声と離れてみて、分かった。
子どもの声がいい。子どもの声が好きだ。
その声のするところで、毎日を過ごしたい。
働きたいと強く思った。
いつからか、翌年の4月、
学校に戻る日を心待ちするようになった。
④
約1年間の研究成果をまとめる時期になった。
3月上旬の研究発表会が半月後に迫っていた時だ。
研究室の指導主事から指示があった。
「他の研究室の研究生は、発表原稿を棒読みするでしょうが、
あなた方3人は、ノー原稿で1人45分間の発表をしてください。」
いつか講演などを依頼される時が来る。
その時、原稿の棒読みと言う訳にはいかない。
原稿がなくても話ができる。
想いが伝えられる。
今がそんな経験を積む好機だと言うのだ。
当然、ノートパソコンも、パワーポイントも、
プロジェクターもない時代だ。
OHPが研究発表の必要アイテムだった頃だ。
1人でOHPを操作し、マイク片手に発表するのだ。
発表会の3日前、4人の指導主事を前にして、
リハーサルを行った。
私は3番手だった。
1人目は、1時間半が過ぎても終わらなかった。
2人目は、1時間15分かかった。
「3番手は、45分の時間内でまとめてね。」
指導主事から檄がとんだ。
私は、舞い上がった。
1年間の成果を誇張して言い続けた。
なんと1時間半をはるかに越えた。
真っ赤な顔でギブアップを告げた。
指導主事4人は、無言でリハーサル会場を後にした。
残った3人で、昼食も忘れて練り直しをし、頭を整理した。
残された時間と必死に格闘した。
3人とも追い詰められた。
自分の発表で精一杯だったが、苦しい思いは共有していた。
夢中だった。
だから、3人が、当日、45分の時間内で、
原稿の棒読みなどしないで発表を終えた時、
達成感と共に、小さな自信を得ることができた。
掛け替えのない体験は、その後、様々な場面で生かされた。
⑤
1年間の研修を終え、都研を去る日がきた。
退所式のようなものがあった。
その席で、研究生を担当した指導主事が、挨拶に立った。
いつも研究生の気持ちを汲んでくれた指導主事だった。
最後に、彼がどんな話をするか、興味があった。
少し前かがみになりながら聞いた。
「教育研究生としての1年を終え、学校に戻ります。
この1年を決して無駄にせず、
頑張ってほしいと願っています。
今後、皆さんが進む道は、3つの内のいずれかです。」
彼は、その3つの道を説き、「どの道でもいいから」と強調し、
「この1年をその道で役立ててほしい」と結んだ。
私は、彼が示した3つの道を記憶に留めた。
1つ目は、日々自分の得意技を磨きながら、
優れた教育実践者として、目の前の子どもと歩み続ける。
2つ目は、10数年後を目途に、教育的視野を広げ、
やがて1校のリーダーとして学校経営を行う。
3つ目は、実践を通して自身の専門性を磨き、
指導主事として教育行政等で活躍する。
それから数年後、私も3つの道のいずれを歩むか迫られた。
当然、子どもの声がする所で働く気持ちは揺るがなかった。
実践者の道か、1校のリーダーの道かだった。
蛇足だが、3人の研究生のその道は三様だった。
心身障害児学級の男性担任は、1つ目の道、
通常学級担任の私は、2つ目の道、
そして、養護学校の女性担任は、3つ目の道へ進んだ。
独特の匂い漂う 栗の花
昭和60年、36歳の時だ。
私は、1年間学校を離れ、研修する機会に恵まれた。
当時、東京都立教育研究所(都研)の心身障害教育研究室が、
4年計画で、『通常学級に在籍する心身障害児の事例研究』のテーマで、
研究所員、指導主事、教育研究生による共同研究を行っていた。
その数年前、年度は違うが、自閉症のT君や、脳性マヒのYちゃんと、
通常学級で共に過ごした。
2人からは、教師として沢山のことを学んだ。
その経験が生きる場があればいいと常々思っていた。
共同研究のそのテーマを見て、これならと思った。
翌年の教育研究生に応募した。
教員採用試験以来、久々の論文試験と面接試験にチャレンジした。
運良く3名枠の中に入った。
通常学級の担任だった私の他に、
通常学校に併設されている心身障害児学級の男性担任と、
養護学校の女性担任が、その年度の研究生になった。
毎日、目黒駅から徒歩数分、
大きな窓がある都研の心身障害児教育研究室に通った。
そこで4人の指導主事と3人の研究生で過ごした。
私にとって、その1年はすごく貴重な経験だった。
見方を変えれば些細なことだろうが、
あの頃の私には、新鮮で刺激的な数々だった。
そのたわいもない、でも私が大事にした出来事を書く。
①
教育研究生としての初日、辞令交付式のようなものがあった。
人数は、50人以上いただろうか、定かではない。
研究所長さんなどの挨拶の後、
研究生を担当する指導主事によるガイダンスがあった。
研究生の心得として、服装についてその指導主事は時間をさいた。
「都研や各種研究機関に通うのだから、みっともない格好はよしましょう。
男性は背広にネクタイ、女性もそれに準じた服装が、
いいのではないでしょうか。」
嫌みのない、さらっとした言い方だった。
あの頃、1,2着しか背広を持っていなかった。
急いで、安価な既製品を2着ほど買い求めた。
ネクタイも、数本調達した。
1ヶ月もすると、ネクタイと背広にすっかり慣れた。
それまでのカジュアルな服装より、ずっとずっと便利だった。
何よりも組合せが、限られた。
白いワイシャツ、ネクタイ、背広、それに黒の革靴、
それでいいのだ。
以前は、毎日、ポロシャツやカラーシャツを選び、それにあったズボン。
各種チョッキかブレザー、ジャンパーをそれに合わせた。
靴も紐皮靴やスニーカー等々から・・。
結構な時間がかかった。面倒だった。
ところが、その負担が軽減された。
予想外に、楽なのだ。
以来、その1年が終わっても、通勤はネクタイと背広に決めた。
②
研究室では、よく電話が鳴った。
私のデスクは、研究生の中で一番電話機に近かった。
電話が鳴ると、いつも4人の指導主事の内1人が受話器を取った。
研究室で数日が過ぎた。
たまたま、女性のS指導主事が1人だった時だ。
電話が鳴り、
私は気を利かせ、初めてその受話器を取った。
「はい、都立教育研究所心身障害教育研究室です。」
「すみません。H先生お願いします。」
「あのぉ、ただ今、席をはずしていますが、」
「そうですか。いつ戻られますか。」
私には指導主事の動静は分からなかった。
「少々、お待ち下さい。」
S指導主事に尋ねた。
S指導主事は、私から受話器を取り、その電話に応じた。
そして、受話器を置くなり、強い口調で言った。
「研究生の皆さんが、研究室の電話に出て対応できることは、
何もありません。
どんな時でも、指導主事1人はこの部屋にいますから、
電話は取らないでください。
・・それから、『心身障害教育研究室です』ではなく、
『心身障害教育研修室でございます』ですよ。」
痛烈だった。
「わかりました。申し訳ありません。」
頭に血が上っていた。
しかし、言われる通りだった。
ここは学校と違う。
上下関係が明確な場所だ。
思い知った。
一語一句にも気を遣い、過ごすことになった。
それが、後々私の役に立った。
③
まだ給料の振り込みなどと言った制度がない時代だった。
毎月15日には、在籍校まで給料をもらいに行った。
その機会に、1ヶ月分の研究等々の経過を管理職に報告した。
合わせて、忙しい先生方を捕まえては、職員室で歓談した。
月1回、ちょっと肩の力が抜ける時間だった。
何回か、そんな日をくり返し、気づいた。
それは、子ども達の声だった。
時折、教室から聞こえてくる歓声もいい。
グループごとに何かを話し合っているような、
騒然とした声もいい。
休み時間に校庭で遊ぶ甲高い声もいい。
友だちの頑張りを後押しする真っ直ぐな声援もいい。
それまでの14年間、私は毎日、
そんな子ども達のエネルギーある声に囲まれてきた。
その声と一緒が、私だった。
その声と離れてみて、分かった。
子どもの声がいい。子どもの声が好きだ。
その声のするところで、毎日を過ごしたい。
働きたいと強く思った。
いつからか、翌年の4月、
学校に戻る日を心待ちするようになった。
④
約1年間の研究成果をまとめる時期になった。
3月上旬の研究発表会が半月後に迫っていた時だ。
研究室の指導主事から指示があった。
「他の研究室の研究生は、発表原稿を棒読みするでしょうが、
あなた方3人は、ノー原稿で1人45分間の発表をしてください。」
いつか講演などを依頼される時が来る。
その時、原稿の棒読みと言う訳にはいかない。
原稿がなくても話ができる。
想いが伝えられる。
今がそんな経験を積む好機だと言うのだ。
当然、ノートパソコンも、パワーポイントも、
プロジェクターもない時代だ。
OHPが研究発表の必要アイテムだった頃だ。
1人でOHPを操作し、マイク片手に発表するのだ。
発表会の3日前、4人の指導主事を前にして、
リハーサルを行った。
私は3番手だった。
1人目は、1時間半が過ぎても終わらなかった。
2人目は、1時間15分かかった。
「3番手は、45分の時間内でまとめてね。」
指導主事から檄がとんだ。
私は、舞い上がった。
1年間の成果を誇張して言い続けた。
なんと1時間半をはるかに越えた。
真っ赤な顔でギブアップを告げた。
指導主事4人は、無言でリハーサル会場を後にした。
残った3人で、昼食も忘れて練り直しをし、頭を整理した。
残された時間と必死に格闘した。
3人とも追い詰められた。
自分の発表で精一杯だったが、苦しい思いは共有していた。
夢中だった。
だから、3人が、当日、45分の時間内で、
原稿の棒読みなどしないで発表を終えた時、
達成感と共に、小さな自信を得ることができた。
掛け替えのない体験は、その後、様々な場面で生かされた。
⑤
1年間の研修を終え、都研を去る日がきた。
退所式のようなものがあった。
その席で、研究生を担当した指導主事が、挨拶に立った。
いつも研究生の気持ちを汲んでくれた指導主事だった。
最後に、彼がどんな話をするか、興味があった。
少し前かがみになりながら聞いた。
「教育研究生としての1年を終え、学校に戻ります。
この1年を決して無駄にせず、
頑張ってほしいと願っています。
今後、皆さんが進む道は、3つの内のいずれかです。」
彼は、その3つの道を説き、「どの道でもいいから」と強調し、
「この1年をその道で役立ててほしい」と結んだ。
私は、彼が示した3つの道を記憶に留めた。
1つ目は、日々自分の得意技を磨きながら、
優れた教育実践者として、目の前の子どもと歩み続ける。
2つ目は、10数年後を目途に、教育的視野を広げ、
やがて1校のリーダーとして学校経営を行う。
3つ目は、実践を通して自身の専門性を磨き、
指導主事として教育行政等で活躍する。
それから数年後、私も3つの道のいずれを歩むか迫られた。
当然、子どもの声がする所で働く気持ちは揺るがなかった。
実践者の道か、1校のリーダーの道かだった。
蛇足だが、3人の研究生のその道は三様だった。
心身障害児学級の男性担任は、1つ目の道、
通常学級担任の私は、2つ目の道、
そして、養護学校の女性担任は、3つ目の道へ進んだ。
独特の匂い漂う 栗の花