ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

あの1年があったから

2018-07-14 19:53:01 | 感謝
 教職に就いて15年目のことである。
昭和60年、36歳の時だ。
 私は、1年間学校を離れ、研修する機会に恵まれた。

 当時、東京都立教育研究所(都研)の心身障害教育研究室が、
4年計画で、『通常学級に在籍する心身障害児の事例研究』のテーマで、
研究所員、指導主事、教育研究生による共同研究を行っていた。

 その数年前、年度は違うが、自閉症のT君や、脳性マヒのYちゃんと、
通常学級で共に過ごした。
 2人からは、教師として沢山のことを学んだ。
その経験が生きる場があればいいと常々思っていた。

 共同研究のそのテーマを見て、これならと思った。
翌年の教育研究生に応募した。

 教員採用試験以来、久々の論文試験と面接試験にチャレンジした。
運良く3名枠の中に入った。

 通常学級の担任だった私の他に、
通常学校に併設されている心身障害児学級の男性担任と、
養護学校の女性担任が、その年度の研究生になった。

 毎日、目黒駅から徒歩数分、
大きな窓がある都研の心身障害児教育研究室に通った。
 そこで4人の指導主事と3人の研究生で過ごした。

 私にとって、その1年はすごく貴重な経験だった。
見方を変えれば些細なことだろうが、
あの頃の私には、新鮮で刺激的な数々だった。
 そのたわいもない、でも私が大事にした出来事を書く。


 ①
 教育研究生としての初日、辞令交付式のようなものがあった。
人数は、50人以上いただろうか、定かではない。
 研究所長さんなどの挨拶の後、
研究生を担当する指導主事によるガイダンスがあった。
 研究生の心得として、服装についてその指導主事は時間をさいた。

 「都研や各種研究機関に通うのだから、みっともない格好はよしましょう。
男性は背広にネクタイ、女性もそれに準じた服装が、
いいのではないでしょうか。」
 嫌みのない、さらっとした言い方だった。

 あの頃、1,2着しか背広を持っていなかった。
急いで、安価な既製品を2着ほど買い求めた。
 ネクタイも、数本調達した。

 1ヶ月もすると、ネクタイと背広にすっかり慣れた。
それまでのカジュアルな服装より、ずっとずっと便利だった。

 何よりも組合せが、限られた。
白いワイシャツ、ネクタイ、背広、それに黒の革靴、
それでいいのだ。

 以前は、毎日、ポロシャツやカラーシャツを選び、それにあったズボン。
各種チョッキかブレザー、ジャンパーをそれに合わせた。
 靴も紐皮靴やスニーカー等々から・・。
結構な時間がかかった。面倒だった。

 ところが、その負担が軽減された。
予想外に、楽なのだ。
 以来、その1年が終わっても、通勤はネクタイと背広に決めた。


 ②
 研究室では、よく電話が鳴った。
私のデスクは、研究生の中で一番電話機に近かった。

 電話が鳴ると、いつも4人の指導主事の内1人が受話器を取った。
研究室で数日が過ぎた。
 たまたま、女性のS指導主事が1人だった時だ。

 電話が鳴り、
私は気を利かせ、初めてその受話器を取った。

 「はい、都立教育研究所心身障害教育研究室です。」
「すみません。H先生お願いします。」
 「あのぉ、ただ今、席をはずしていますが、」
「そうですか。いつ戻られますか。」

 私には指導主事の動静は分からなかった。
「少々、お待ち下さい。」
 S指導主事に尋ねた。

 S指導主事は、私から受話器を取り、その電話に応じた。
そして、受話器を置くなり、強い口調で言った。

 「研究生の皆さんが、研究室の電話に出て対応できることは、
何もありません。
 どんな時でも、指導主事1人はこの部屋にいますから、
電話は取らないでください。
 ・・それから、『心身障害教育研究室です』ではなく、
『心身障害教育研修室でございます』ですよ。」

 痛烈だった。
「わかりました。申し訳ありません。」
 頭に血が上っていた。
しかし、言われる通りだった。

 ここは学校と違う。
上下関係が明確な場所だ。
 思い知った。

 一語一句にも気を遣い、過ごすことになった。
それが、後々私の役に立った。
  

 ③ 
 まだ給料の振り込みなどと言った制度がない時代だった。
毎月15日には、在籍校まで給料をもらいに行った。
 
 その機会に、1ヶ月分の研究等々の経過を管理職に報告した。
合わせて、忙しい先生方を捕まえては、職員室で歓談した。
 月1回、ちょっと肩の力が抜ける時間だった。
 
 何回か、そんな日をくり返し、気づいた。
それは、子ども達の声だった。

 時折、教室から聞こえてくる歓声もいい。
グループごとに何かを話し合っているような、
騒然とした声もいい。
 休み時間に校庭で遊ぶ甲高い声もいい。
友だちの頑張りを後押しする真っ直ぐな声援もいい。

 それまでの14年間、私は毎日、
そんな子ども達のエネルギーある声に囲まれてきた。
 その声と一緒が、私だった。

 その声と離れてみて、分かった。
子どもの声がいい。子どもの声が好きだ。
 その声のするところで、毎日を過ごしたい。
働きたいと強く思った。

 いつからか、翌年の4月、
学校に戻る日を心待ちするようになった。


 ④
 約1年間の研究成果をまとめる時期になった。
3月上旬の研究発表会が半月後に迫っていた時だ。
 研究室の指導主事から指示があった。

 「他の研究室の研究生は、発表原稿を棒読みするでしょうが、
あなた方3人は、ノー原稿で1人45分間の発表をしてください。」

 いつか講演などを依頼される時が来る。
その時、原稿の棒読みと言う訳にはいかない。
 原稿がなくても話ができる。
想いが伝えられる。
 今がそんな経験を積む好機だと言うのだ。

 当然、ノートパソコンも、パワーポイントも、
プロジェクターもない時代だ。
 OHPが研究発表の必要アイテムだった頃だ。
1人でOHPを操作し、マイク片手に発表するのだ。

 発表会の3日前、4人の指導主事を前にして、
リハーサルを行った。
 私は3番手だった。
1人目は、1時間半が過ぎても終わらなかった。
 2人目は、1時間15分かかった。

 「3番手は、45分の時間内でまとめてね。」
指導主事から檄がとんだ。
 私は、舞い上がった。

 1年間の成果を誇張して言い続けた。
なんと1時間半をはるかに越えた。
 真っ赤な顔でギブアップを告げた。

 指導主事4人は、無言でリハーサル会場を後にした。
残った3人で、昼食も忘れて練り直しをし、頭を整理した。

 残された時間と必死に格闘した。
3人とも追い詰められた。
 自分の発表で精一杯だったが、苦しい思いは共有していた。
夢中だった。

 だから、3人が、当日、45分の時間内で、
原稿の棒読みなどしないで発表を終えた時、
達成感と共に、小さな自信を得ることができた。
 掛け替えのない体験は、その後、様々な場面で生かされた。 


 ⑤
 1年間の研修を終え、都研を去る日がきた。
退所式のようなものがあった。
 その席で、研究生を担当した指導主事が、挨拶に立った。

 いつも研究生の気持ちを汲んでくれた指導主事だった。
最後に、彼がどんな話をするか、興味があった。
 少し前かがみになりながら聞いた。

 「教育研究生としての1年を終え、学校に戻ります。
この1年を決して無駄にせず、
頑張ってほしいと願っています。
 今後、皆さんが進む道は、3つの内のいずれかです。」

 彼は、その3つの道を説き、「どの道でもいいから」と強調し、
「この1年をその道で役立ててほしい」と結んだ。

 私は、彼が示した3つの道を記憶に留めた。

 1つ目は、日々自分の得意技を磨きながら、
優れた教育実践者として、目の前の子どもと歩み続ける。
 2つ目は、10数年後を目途に、教育的視野を広げ、
やがて1校のリーダーとして学校経営を行う。
 3つ目は、実践を通して自身の専門性を磨き、
指導主事として教育行政等で活躍する。

 それから数年後、私も3つの道のいずれを歩むか迫られた。
当然、子どもの声がする所で働く気持ちは揺るがなかった。
 実践者の道か、1校のリーダーの道かだった。

 蛇足だが、3人の研究生のその道は三様だった。
心身障害児学級の男性担任は、1つ目の道、
通常学級担任の私は、2つ目の道、
そして、養護学校の女性担任は、3つ目の道へ進んだ。 
 




    独特の匂い漂う 栗の花 
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幸運に恵まれて

2017-12-15 21:37:04 | 感謝
 『運とは、
その人の意志や努力ではどうしようもない巡り合わせを指す。
 運が良い(幸運・好運)とは、
到底実現しそうもないことを偶然実現させてしまうことなどを指す。』

 上記は、辞書にあった解説だが、
今日までの私を省みるたび、幸運に恵まれていたと感謝している。
 私自身の『意志や努力ではどうしようもない巡り合わせ』によって、
『偶然実現』したこと、つまり幸運な出来事にしばしば巡り会った。
 その中から2つを記す。


 1、最初の幸運

 まもなく昭和30年という頃、まだ小学校入学前のことだ。
雪融けの季節だったので、3月末が4月上旬だろう。
 札幌に住む母の実母が亡くなった。
急きょ、父と母、それに私が室蘭から札幌へ向かった。

 私の記憶では、初めての汽車の旅だった。
4人が向かい合わせに座る固いボックス席で、
駅弁と陶器の急須にお猪口のついたお茶で、
食事をした記憶がある。

 だが、どれだけの時間をかけて行ったのかなど、
多くは思い出せない。
 ただ、経験のない旅行に小さくおびえ、
いつも母の手を握っていた。

 葬儀の様子も忘れた。
母が、手にした小さな布で、何度も鼻と口をおさえていたのを、
不思議そうに見上げていた。

 葬儀のため、何泊したのだろうか。
再び汽車に乗って、帰る日がきた。
 春の明るい陽差しが降りそそいでいた。
辺りは雪融けが進んで、茶色い水が溜まっていた。

 親戚の方々がそろって、門前で見送ってくれた。
父も母も、両手に着替えや土産の荷物を持っていた。
 私は二人の後ろを、
雪融け道に足をとられながら歩いた。
 
 ようやくバス停のある大通りまで出た。
当時はまだ、完全な車社会ではなかった。
 バスやタクシー、トラック、オート三輪車などと一緒に、
雪道では馬そりが荷を運んでいた。
 所々にその馬糞が落ちていた。

 大通りに出てすぐ、私は災難に見舞われた。
雪融けが進む道路で、足が滑った。
 あっという間に、空を仰ぎ、お尻と背中を、
車が作ったあぜ道に滑らせた。

 慌てて立ち上がったが、
一瞬で馬糞入りの雪解け水で、全身がずぶ濡れになった。
 久しぶりに、体中の全てを使い、大声を張り上げ泣いた。

 「あらあら・・」
その時、私のそばで、とほうに暮れる母と父に、
通りの向こうから声が飛んできた。
 
 「こっちにおいで! こっち、こっち!」
事務所のような店構えのガラス扉を開け、
女性が手招きしていた。
 
 (ここから先は、後日、母から聞いたことだ。)

 泣きじゃくる私をつれて、
通りを横切り、その店に駆け込んだ。
 「冷たいでしょう。さあさあ脱いで、脱いで。
うちの子のお古があるから・・・」

 その女性は、手際よくタオルや着替えを用意してくれた。
ストーブに、薪も追加した。
 父も母も、シクシクが止まらない冷たい私の裸の体を拭き、
替えの服を着せた。
 温かさが増したストーブで、体をあぶった。

 下着も靴下も、ゴム長靴も、全てを借りた。
「世の中に、こんな親切な人がいるんだ。」
 そう思いながら母は、
その好意にくり返しくり返し頭をさげた。
 
 私は、馬糞臭さと冷たさが消え、泣くのを止めた。
差し出された、熱いお茶をすすりながら、
両親は、改めて深々と頭をさげ、お礼を述べた。
 すると、女性が恥ずかしそうな表情で言った。

 「だって、坊やの泣き声、裏の子とそっくりで・・。
私、てっきりそうだと思ったの。
 それで、おいでおいでって言ってしまって・・。」

 「そうでしたか。それは・・・。」
父も母も、もう言葉が出なかった。

 「でも、よかったね。気をつけて、室蘭まで帰るのよ。」
 笑顔で、私の頭をなでてくれたと言う。


 2 急患の幸運

 その痛みをすっかり忘れてしまって、30年が過ぎた。
このブロクの『医療 悲喜こもごも』でも書いたが、
20代、30代の私は、痔を患い、辛い思いをした。

 幸い、3度目の手術で、名医に出会い、完治した。
その出会いも、幸運と言えるが、
ここでは、2度目の手術について書く。

 肛門の周辺が化膿し、痛みとともに腫れあがる。
最初は、年に1回程度だったが、
次第にその回数が増え、
痛みも腫れもひどくなっていった。
 高熱が出ることもあった。

 30歳になろうとしていた頃、
それまでで一番と思える程の症状が続いた。
 腫れと痛み、高熱、その上、片足の感覚も違った。
3日もすれば、患部から血膿が出て、回復へ向かう。
 だが、そんな気配もなく、
痛みと高熱で起き上がれない日が続いた。

 休みが続く私を気にかけ、
日曜日に、同じ学校の先輩教員が自宅に来てくれた。
 そして、半ば強引に、家内と一緒に、
外科の休日診療医院へ車で運んだ。

 診察を終えた医者は、
困り顔で緊急手術が必要だと告げた。
 私は、少しでも楽になれるならと、手術をお願いした。
「これから準備をしますので、しばらく時間をください。」
 相変わらず、医者の表情は暗かった。

 それから1時間も待たされただろうか。
他に患者のいない待合室の長椅子で、
横になっていた。

 すると、救急車のサイレン音が聞こえてきた。
次第に病院に近づいた。
 看護士らが、移動ベットと一緒に忙しく動き回った。

 しばらくして医者が私のところに来た。
「今、屋根から落ちて、骨盤を骨折した方が運び込まれました。
緊急手術が必要です。
 実は、患者さんを運んできたお医者さんは、肛門科の方で・・。
そちらでの手術をお願いできませんでしょうか。
 私は、整形が専門なので・・。」 

 こんな幸運はない。
すぐに、半分苦笑いを浮かべ、肛門科の医師が来た。
 「よろしくお願いします。」
寝たまま、頭を下げた。

 私は、骨盤骨折の人を運んできた救急車に乗せられ、
隣町にある外科の休日診療医院に向かった。
 家内と先輩教員の車が、その後を追った。

 日曜日の少し冷えたオペ室で、私は手術を受け、
10日ほど入院した。

 痛みも腫れもすっかり消え、平熱に戻った日、
「後1,2日遅かったら、危険でしたよ。」
 医者は、表情も変えずに言ってのけた。

 「それにしても、すごい偶然ですね。
整形の方に、あの手術は難しかったと思います。
 私は、骨盤骨折にお手上げでしたし・・・。
よかった、本当によかった。」

 誰にでもなく、幸運に心から感謝した。

 つけ加えるが、当時、休日診療医院は、
その地域の開業医の輪番制だった。
 外科医に限らず、専門外の治療を求められることも、
多かったようだ。



   夏も冬も人気のない『恋人海岸』  
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背中を押してもらって

2016-02-05 22:05:24 | 感謝
 教職の道へ進むようにと
私の背中を押してくれた人たちがいた。
 すべては、高校3年のときのことだ。


 ● 中学3年で担任をして頂いたM先生は、
このブログに2度登場した。
 1度目は、昨年4月「『初めての岐路』から」で、
2度目は同年6月「夏祭りの日に」であった。
 私を形づくってくださった、まさに恩師である。

 だから、中学校を卒業し高校生になってからも、
しばしば級友たちと先生を訪ねた。

 当時は、まだ男の先生方に宿直という制度があった。
どのくらいの頻度なのかは分からないが、
学校に泊まり、校舎等の管理をしていた。
 その宿直の日に、学校へ行った。
夜6時頃から8時過ぎまで、
男女6,7人で3ヶ月に1回程度だったと思う。
 いつもその日が待ち遠しかった。

 応接室だったのか、
クッションのきいた革張りの長椅子がある部屋で、
先生を囲んだ。

 先生は、毎回、何か一つ話題を提供し、私たちに意見を求めた。
 ここ1、2年、年末の紅白歌合戦で美輪明宏が熱唱する、
『ヨイトマケの唄』を初めて知ったのも、その時の先生の話からだった。

 炭鉱町でいじめを受ける子と母の姿、
そして、真っ黒になった手足を温めあう男女の話を聞いた。
 まだウブだった私には、強い刺激だけが残った。
今も、脳裏にその衝撃がある。

 高校3年の秋口、先生の宿直が来た。
久しぶりに参加する仲間もいて、ウキウキしていた。

 先生から、進路のことを訊かれた。
それぞれ思い描いているこれからの道を短く話した。
 先生は、一人一人の言葉にうなずき、
明るい表情で「そうか、頑張れ。」と励ました。

 当時、私は生徒会の活動に夢中だった。
学校祭や体育祭の企画と運営の中心になり、
それを一つ一つ成功させることに、
充実感を覚えていた。

 授業が終わるのを待ち望み、放課後と同時に生徒会室に走った。
各役員と打ち合わせをしながら、、
夜遅くまでワイワイガヤガヤと飛び回っていた。

 だから、あの夜、卒業後の進路を問われても、
返事を持っていなかった。。
 私の順になった。先生の笑顔に、
「まだ、何にも考えていません。」
と、正直に小声で言った。そして、
「それより、生徒会が楽しくて。」
と、付け加えた。
「そうか、頑張れ。」
と、他の子と同じ言葉を先生は返してくれた。

 先々を見ていない自分が少し恥ずかしかった。
でも、さほど気にもかけず、その場にいた。

 いつものごとく、楽しい時間は瞬時に過ぎ、
先生は、学校の玄関まで私たちを見送ってくれた。
 別れ際、私一人、先生に呼び止められた。

「将来のことを考えるのは大切なことだよ。よく考えてごらん。
どうだ、一緒に先生をやる気はないか。面白い仕事だぞ。」
先生は私の肩をたたいた。

 思ってみなかった。
その時、どう返事したか覚えがない。
 帰りの道々、
 「一緒に先生を」の声が、
グルグル、グルグルと私の周りを回っていた。

 「M先生と同じ仕事。」
それは、夢のまた夢よりも遠いことだったが、
嬉しかった。

 その時、「先生に」という思いが、少しだけ形になった。


 ● 親友の一人が、大学受験をあきらめ、
東京で就職すると言い出した。
 裕福な家庭だったので、当然私立大でも行くと思っていた。

 なのに突然の変身だった。その心境を深刻に語ってくれた。
私など想いも至らない動機の数々に、大きな衝撃と刺激を受けた。
 「お前も、将来のことをしっかりと考えろ。」
と、言われているように思った。

 5人兄弟の末っ子の私。
貧しい家庭だったが、ただ一人わがままに育った。
だから、何事にも楽観的だった。
 そんな私でも、親友の転身は、
今後を考える大きな切っ掛けとなった。

 「何がしたい。」、「どんな生き方をする。」、「目標は何だ。」。
考えたこともないことばかりだった。
 もう初雪が舞う季節だった。
明確な答えが見つからなかった。
 私は、次第に追い詰められていた。

 そんなある日、偶然だったが、
生徒会役員と生徒会新聞部という関係で、
よく取材を受けていた、後輩の女子と帰り道が一緒になった。

 彼女は、私が利用する次のバス停で降りる。
すでに薄暗くなっていることを理由に、
「自宅近くまで送る」と、申し出た。

 バスを降りると、ボタン雪が静かに落ちていた。
初めて、肩を並べて歩いた。
 彼女から、卒業後のことを訊かれた。
「考えがない。」とは言えなかった。
 その場を取りつくろうと、親友の進路変更のことを言った。
そして、M先生から肩をたたかれたことを話した。

 その時、急に彼女が立ち止まった。
「きっと、いい先生になると思います。勉強、頑張ってください。」
「あっ、ありがとう。」
それが精一杯だった。体が熱くなった。

 自宅近く、彼女の小走りの後ろ姿を見送った。
音もなく降り積もる雪道。
「いい先生」が、何度も何度もこだました。
 誰も見ていない街灯の下で、
私は、チョットだけ胸を張った。


 ● それは、日曜日の朝のことだ。
 市場が休みのため、父も兄も、
いつもより遅い朝食をとっていた。
当然、母もいたようだ。
 私は寝坊を決め込み、
押し入れを改造した2段ベットで、布団に潜り込んでいた。
 聞くとはなく二人の会話が届いた。狭い家だった。

 「俺は、中学しか出ていない。それで、いやな思いもしてきた。
だから、せめて高校だけは出してやりたかった。
だけどね、大学なんて……。これから、どれだけお金がかかるんだ。」

 「じゃ、お前は、反対なんだなあ。」
「高校卒業したら、働いて、少しでも家にお金を入れてもらいたいよ。」
「まあ、そうなると助かるなあ。」

 「おやじは、どう思っているんだ。」
「… … …。」
「遠慮しないで、言ってくれよ。」
「そうか……」
 私は、布団の中でかたずを飲んで聞いた。

 実は、前日の夕食時、私は家族全員を前に、
大学進学の希望を口にした。
 「国立の教育大学に行って、その後は学校の先生になりたい。」
と胸張った。
「今からでも遅くない。必死に勉強する。」
と、無謀だが、強い決心を伝えた。
 国立大学受験まで、3ヶ月余りを残していた。

 当時、我が家は、父と10才年上の兄が共同で、
生鮮食品の行商をしていた。
 父は、兄という大きな片腕に助けられていた。

 そんな父が、兄に言った。
「俺の勝手で、みんなには迷惑をかけ、こんな貧しい暮らしをさせている。
お前にも、苦労をさせ、すまない。
 俺は、尋常小学校さえ卒業できなかった。だから、悔しい気持ちはよく分かる。
だけど、勝手はよくよく承知で言うが、せめて自分の子どもの一人だけでも、
できることなら、日本の最高学府まで行かせたいと思っているんだ。」

 その後も、父の話は続いていた。
しかし、それ以上、私は聞くことができなかった。
 布団を深々とかぶり、動けなかった。

 世話になっていることを顧みず、
思いつきのような夢を言い出した自分。
 父にも兄にも、辛い思いを口にさせた。

 悔いで心がいっぱいになった。
軽薄な自分を、責めても責めてもきりがなかった。

 はれた目を、気づかれたくなかった。
誰とも、口をききたくなかった。
 数日が過ぎた。

 学校から戻ると、兄がトラックに私の机やふとんを積み込んでいた。
「大学に合格するのは大変だ。
狭い部屋だけど、探しておいた。
 今日からそこで勉強しろ。」

 突然のことだった。
 暖房ストーブもついた4畳半を借りてくれた。
 「いいか。父さんの夢なんだ。
絶対に合格しろ。大学に行け。金は心配するな。」
 トラックで、私を運びながら、兄はそう言った。
 大きな涙が一粒、私のズボンを濡らした。

 我が家から、徒歩10分。老夫婦が暮らす2階の一室。
私は、学校からすぐにその部屋に直行した。
夕食だけは自宅に戻り、再び部屋で机に向かった。
 寝る時間を削った。
 朝は、前日作ってくれた母のお握りを食べた。

 一人の寂しさや不安は、
これも兄が用意してくれたトランジスターラジオから流れる、
森山良子の『この広い野原いっぱい』が癒やしてくれた。





    寒風の中 エゾリスの朝食 
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健気さを残して

2015-12-25 19:32:36 | 感謝
 結婚した年から、年賀状には自作の詩を載せてきた。
 愛猫『ネアルコ』が、
その年賀状に登場したのは、18年も前になる。

   長男が猫と一緒に帰省
   わずか3週間
   ペットのいる暮らし
   猫かわいがりの二男と
   猫なで声の私と
   やがて妻のひざにだかれる猫
   今までにない団らんの風景
   何かこれからを予感させる
   真夏の出来事ひとつ
       <後半・略>

 確か、その年の春だったと思う。
 急にお金が必要になったと、
京都の大学に通う長男から、電話があった。
 何か間違いでもと、ドキッとしたが、
猫の手術と入院に予定外のお金がかかったとか。

 後ろ足から大出血をし、動けない野良猫がいた。
あわてて洗濯用のネットにくるみ、動物病院へ運んだ。
 緊急手術が行われ、そのまま長期入院。
高額の医療費に驚いた。それで、親への借金を申し出た。

 無事退院したが、野良猫に戻す気にはなれなかった。
密かに、下宿の一室で飼うことにした。
 当時、彼が夢中になっていた競馬から、
伝説の名馬『ネアルコ』をそのまま、呼び名にした。

 そして、翌年の年賀状。

   4月1日京都
   二男の入学祝い
   久しぶりに4人集う
   ビールとジュースでカンパイ
         <中 略>
      二人に送られ新幹線
      子どものいない暮らしにと
      車内に猫の入ったペットバック
      「二人とも京都とは」
      「まったく でも俺の好きなまちだから」
      「そうだけど でも」
   そんな会話がきょうもまた
   猫の鳴く横でくり返し

 思い出すと、それは、突然の提案だった。
 京都市内で、家族4人そろって二男の入学祝いをした。
長男が、「ネアルコを連れて行きなよ。」と言い出した。
 「だって、僕たち二人ともいない暮らしだよ。誰もいないんよ。」
 「ネアルコが役に立つと思うよ。」
 すごい説得力だった。
私は、パッと明るい気持ちになった。
「じゃ、もらうよ。」と即答した。
 そして、新幹線で持ち帰った。

 ところが、当時、私たちが暮らしていた団地では、
ペットとの同居が禁止されていた。
 完全な家猫とし、飼っていることをひた隠しにした。

 しかし、我が家での暮らしに慣れはじめると、
ネアルコは、夫婦二人には広すぎる家の中に、
お気に入りの場所をみつけた。
 それが、なんと一番人目につく、出窓だった。

 日中、そのガラス窓には温かい陽があたった。
そこでの昼寝が気に入った。
 私も家内も、「そこだけはダメ。」をくり返したが、
ネアルコはそれを無視した。
 仕事で私たちが留守の昼日中、
堂々と、その窓に姿をさらしていた。

 私たちは、猫の愛らしい仕草と声に、
毎日癒やされたものの、
団地の約束事を破っていることに、
肩身の狭い思いをするようになった。

 それから2年後、近くに建てられたマンションが、
ペットとの同居が許されることもあり、思い切って転居した。
 住まいは9階だった。
大好きな出窓はなく、ネアルコは外に出ることも、
9階の窓からは、人通りを見ることもできなくなった。

 毎朝早く出勤する私たち二人を、
ひたすら待つだけの毎日を13年も送った。
 そのためか、私たち以外の人にはなつかず、
来客があるとすごすごと押し入れに潜り、出てこなかった。

 ある日、珍しく鼻水をたらし、息苦しくしていた。
早速、家内が動物病院に連れて行った。
 案の定、風邪の診断だった。
「朝晩2回、この薬をのませるんだって。」
と、家内がその薬袋を私に見せた。

 私は、その袋に書かれた名前に釘付けになった。
そこには、『ネアルコ』の前に苗字があった。
『塚原 ネアルコ』となっていた。
家族なんだと、思いっきり気づかされた。

 そして、時折、ストレスからなのだろうか、
食べた物をもどすことがあった。
 誰もいない時の、不始末である。
 帰宅のドアを開けるとすぐ、困り声で鳴き出し、
玄関で、私の目を見る。
「どうしたの。」と言いながら、後をついて行くと、
そこには、決まってもどした汚れ物があった。
 「いいんだよ。」
と、後始末をする私に、済まなそうな声で
また鳴いた。

 そんなことのくり返しが、
可愛らしい以上の感情を、私にも家内にも育てた。

 そして3年半前、私たちは首都圏から伊達に移住した。
3ヶ月前に引っ越しの計画を立てた。
 私は、マイカーで仙台から苫小牧までフェリー。
そして、千歳空港で家内とネアルコを迎えることにした。

 早速、家内の航空券購入とペットの同乗手続きをした。
早割航空料金は、10500円と格安だった。
そしてペットの同乗は、5000円とのことだ。
 ペットも大切な家族。
 でも大人料金に比べて、高いような気がした。
 
 旅行代理店の女店員に、そう話すと、
彼女は目の色を変え、専用のパソコンに向かい、
しきりにキーボードを叩いた。
 しばらくして、女店員は、
「お客様、ペットに早割がございません。」
と、詫びた。
 私は、両手を叩き、笑いながら納得した。

 いずれにしても、ネアルコにとっては、
とんでもない長旅の末、伊達まで来た。
 案ずるようなこともなく、予想外に元気だった。

 初めて経験する2階までの階段も興味津々。
やがて、2階のゲストルームは、お昼寝の絶好の場所になった。
 毎日、私たちと一緒の暮らし。
だからなのか、人にも慣れ、
来客にも進んで近づいていくようになった。
 時々は、ウッドデッキの窓から、
庭の緑に目をやったりもしていた。
 穏やかな日が続いた。

 ところが、昨年の夏から、急に食欲が落ちた。
口の周りを痛そうにする仕草が多くなった。
 医者からは、歯肉炎と言われ、痛み止めの注射と薬が処方された。
そして、「もう高齢だから、
こうして生きているだけでも凄いことですよ。」と。
 もう推定年齢は19歳である。人間なら95歳だ。

 それから1年が過ぎた。
体重は、最盛期の半分以下になった。
 二階へも行かなくなった。
私の腰の高さくらいに置いた水にも、ジャンプができなくなった。
 固形の餌は口にしなくなり、
私たちは、ネアルコが好む猫スープを探して、
何軒ものペット用品売場を歩き回った。

 そして、とうとう最期を予感させる日が、近づいた。
 
 ご近所さんから、
「うちの犬が亡くなるとき、あわてて病院に連れて行ったの。
すると点滴をして、酸素マスクをして、寝かされて、
かわいそうだったの。
 そんなことしないで、家で息をひきとらせたかった。」
と、経験談を聞いていた。
 どんなことがあろうと、最期は家においておこうと決めていた。
 
 何も食べない日が、2日続いた。
さらにやせ細った。毛並みもパサパサになった。
 それでも、お気に入りの玄関先にころがり、
時々トイレまで、よろけながらも歩いた。

 夕方、そのトイレ近くのお風呂場で横になった。
必死にトイレに近づこうとしているのが分かった。
 何度も挑戦をくりかえし、トイレに前足をかけた。
 だが、5,6センチの高さのトイレをまたぐことができなかった。
仕方なく、そのそばで用を足した。
 「それでいいよ。いいよ。」と声をかけると、
安心したように、玄関に向かおうとした。

 もう目も見えなくなっていた。
足も立っていることさえやっとだった。
 抱きかかえて玄関に置いてやった。
荒い息をしながら、横になった。

 そのまま深夜まで家内と見続けた。
もう、その荒い息を聞き続けるのが苦しくなった。
 ネアルコをそのままにしてベットにもぐった。

 早朝、もう息がないだろうと近づいた。
荒い息のまま、見えない目で私に顔を向けた。
 立ち上がろうとするが、もうその力はなかった。
トイレかと察して、容器ごとトイレを運んできた。
そこに入れてやると、安心したように倒れこんだ。

 「もういいよ。もういいよ。」
私は、ネアルコを抱えて床に置いた。
 次の瞬間だった。荒い息が止まった。
「ネアルコ。ネアルコ。」
大声が出た。
 一瞬、体が動いたが、全てが静まりかえってしまった。
家内のすすり泣きが聞こえた。

 悲報に
『朝まで、生きていたかったのよ。』
と、義姉から返信メールが届いた。
 そう気づかされ、急に涙があふれた。

 18年間を共にした家族が逝った。

 今年の終わり、ブログにそれを記す。




枯れ木にナナカマドの赤い実が目に止まる
               
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夏祭りの日に

2015-06-12 22:57:42 | 感謝
 家族5人の暮らしを、ようやく支えている、
そんな細々とした商売だった。
 それでも、夏祭りの日は、
お刺身をはじめ、お届け物の注文が相次いだ。
 その日だけは家族総出で、それに応じた。
私も、嫌々だったが手伝った。
いつ終わるか分からないので、
友達と一緒に祭りにくり出す約束はできなかった。

 仕事のめどがつき始めると、
父は毎年、「お祭りだから。」と称して、
大好きなお酒を口にした。
 そして、いい加減酔いが回ってきた夕方すぎ、
慌ただしかった一日にめどがつく。
 後始末が全て終わる頃、父はすでに酔いつぶれ、
狭い家の一番奥で寝てしまった。
 いつもの年のことだった。

 すでに要領を心得ている兄姉は、
いつの間にか祭りの賑わいへとくり出した。
 誰とも約束のない私は、
毎年のように夜店の灯りが続く縁日の道を、
あてどなく一人でぶらついた。
そして、例年通り「だから、祭りは嫌い。」
と、不機嫌になるのだった。

 中学生の時、事件が起きた。

 夜店見物に一人ブラブラし、
面白味のない祭りに、例年通り沈んだ気分で帰宅した。
 玄関の引き戸を開け、一歩家に踏み入った瞬間、
いつもと違う気配を感じた。

 二間きりの奥で、今まさに酔いつぶれていたはずの父が、
立ち上がり、母に殴りかかろうとしていた。

 母は、何やら声を上げ、
汗ばんだ額に、乱れた前髪がはりついた顔で、
父の拳を両手で防ごうとしていた。

 私は、後ろから父に体当たりをした。
父はよろめき、片膝をついた。
 「この人ったら、急に私にむかってきて。」
と、母の息は荒れていた。
 目の横が、赤く腫れていた。

 私は、悲しみがこみ上げ、家を飛び出した。
再び祭りの灯りに向かった。
 祭りは嫌いなのに、さらに嫌いになった。
 両親がいがみ合い、争う場面を初めて見た。
父に、体ごとぶつけた時の、
妙に不甲斐ない、ひ弱な感触がいつまでも残った。
 人混みと祭り囃子が、辛さを際立たせた。

 やがて、祭りの賑わいが消え、夜店の明るさも落ちた。
それでも私は、いつまでもその場にいた。
 静けさを取り戻し、
しっとりと漂う夜霧に包まれた祭りの後に、
私は、朝まででも留まっていたかった。

 翌日、決まった時間に家族5人で朝食を囲んだ。
誰も、母の顔の青あざを話題にしなかった。
 いつもの朝と変わらない時間が流れ、
それぞれが朝の支度をし、出かけていった。
 私も母が作った弁当をカバンに納め、学校に向かった。

 片道20分程度の通学路では、何人もの同級生と一緒になった。
私は、明らかに昨日までとは違っていた。

 いつもより早い目覚めから、
父が殴りかかろうした場面と、
それにおびえ取り乱した母の表情が、目の前にあった。
 目を閉じても、目を開けても消えないそのシーンが、
くり返しくり返し迫った。

 学校までの道々でも、教室で机に向かっていても、
どこにいても、いつでも、私の隙間からその映像は入ってきた。
 先生の言葉も、友人の声も、全てが私には届いていなかった。

 母のあの時の表情が浮かぶと、
それだけで息をするのさえ苦しくなった。
悲しみがこみ上げた。

 酒好きだが、穏やかで知的な父の
あの荒々しさが信じられなかった。

 そして、突然、父を突き飛ばした自分自身も許せなかった。

 知らなかった父と母の激しい姿と、私の無謀さ。
その日以来、私は生活の全てのリズムを失った。

 友人からの声かけに、気づこうとしなかった。
 先生たちからの視線も、感じようとしなかった。
 きっと心配げに見ていたであろう両親や
兄姉の態度も、知らずにいた。

 時だけが、流れた。
ただくり返しくり返し祭りの夜、あのシーンが蘇った。
 その度に、私は深いため息と共に、
得たいの知れない消沈の底を彷徨った。

 もう誰も信じられなくなっていた。
自分も信じられなかった。
一人ぼっちだと思った。
せつなさだけがこみ上げた。

 何日が過ぎた頃だろうか。
放課後のことだった。
担任のM先生から呼び出された。
 「職員室で先生が呼んでいる。」と、級友が告げた。

 用件に心当たりがないまま、
慣れない職員室のドアを叩いた。
 M先生は、私の肩を抱えるようにして、
職員室の片隅につれていった。
 二人で向きあうと、先生は穏やかな表情で私の目を見た。
「どうした。元気ないぞ。」「先生に、話してみないか。」
と、言った。

 あのシーンが浮かんだ。
涙がこみ上げてきた。私は、それを必死にこらえた。

 大切な父と母のことである。その両親のいさかいを、
言葉にすることなど、私には無理だった。
 両親を辱めることなど、決してできないと思った。

 私は、先生から目をそらし、
「何もありません。」と、小さくうつむいた。
 「そうか。そうならいいんだ。」「元気、出しなよ。」
と、先生は私の両肩を、力強く握ってくれた。

 「はい。」と少し湿った声でうなずき、
私は、深々と頭を下げて職員室を出た。

 嬉しかった。
急に廊下の床がにじんだ。
何粒もの涙のしみが、廊下にできた。

 一人ぼっちじゃないと思えた。
冷えていた心が、温かくなっていった。
 ちゃんと見てくれている人がいた。
それだけで、勇気が湧いた。心強かった。
 前を向こう。顔を上げて歩こうと思った。
 両親を大切に思っている本当の自分を、みつけることもできた。

 恩師・M先生からは、たくさんの教えを頂いた。
 その一つが、夏祭りの日のことだ。




散歩道のわき 『ルピナス』がきれい! 
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