ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

71歳の薄暑 ~ 30Kまで・・

2019-05-25 19:46:59 | ジョギング
 やや曇天の朝だったが、日中はきっと快晴になるだろう。
気温の上昇が気になる。
 体調はまずまずだが、
不安を挙げると切りがない。
 それを払拭し、『洞爺湖マラソン』を走ることにした。

 会場まで愛車で、25分、
その道々、満開の八重桜ばかりが目に止まった。
 洞爺湖の景観に、その華やかさがよく似合った。

 2年ぶりのチャレンジだ。
次第に高揚感と緊張感が高まるはずだった。
 実は、それよりも不安ばかりが拡大した。

 「どこまで走れるか。」
「走れるところまで、走ればいい。」
 「弱気になるな。制限時間ギリギリでいいんだ。
ゆっくりゆっくりなら、ゴールまできっと走れる。」

 スタートの1時間前に、会場に着いた。
不安と緊張が、2度3度とトイレへ向かわせた。
 
 いつまでも葛藤などしてられない。
湖畔の公園広場には、
走力別に色分けされたゼッケンをつけたランナーが、
あちこちに集結していた。

 私は、意を決めた。 
4月14日の『伊達ハーフマラソン』では、
10キロも行かない所でリタイアした。
 それから20日間余り、風邪のような症状で体調不良が続いた。

 実は、昨年度も春先に同じような体調不良で、
洞爺湖マラソンを断念している。
 だから、今年もダメかと、思うこともあった。

 しかし、5月5日から10日間、
5キロ、10キロと、計70キロを走った。
 それは、フルマラソンの走り込みとしては、
十分ではなかった。
 でも、諦めたくなかった。
「ここまでやったんだから・・。」
 だから、今朝、出場を決めた。

 そんな今日までを振り返り、
気持ちを1つに固めたのがこれだ。
 
 『自分で心は折らない。淡々と行けるところまで走る。』

 雲が消え、日差しが強さを増し始めた。
初めてサングラスで走ることにした。
 スタートの合図が轟いた。

 もう迷わない。
人ひとひとの人混みの中、
70歳代108人のランナーの1人になった。

 洞爺湖畔のマラソンコースは、期待通りの春だった。
湖に浮かぶ中島の緑、そのはるか先に残雪の羊蹄山。
 その上、沿道の至る所に咲き誇る桜色。
菜の花畑の一面の黄色も、りんご園を被う白もいい。
 今日に合わせたかのような、
鮮やかな新緑に囲まれた湖岸の道。

 5キロ、10キロと、節目節目の給水所で、
予定通り水分を口にする。
 プラン通りの速さで足を進める。

 後ろを走る若いランナーの明るい会話が聞こえた。
「少し遅くない?」
 「いや、これでいいよ。このペースで35キロまで行こう。」
「わかった。」
 「35キロで余裕があったら、ペースを上げよう。」
「この調子なら、大丈夫だ。アハハ・・。」
 「その調子、ハハハ・・。」    
やけに楽しげ。
 そんな余裕がほしいと次第に思い始めた。

 そんな時、最初の制限関門の14,5キロが迫ってきた。
若干、余裕を持って通過できそうで安堵した。
 ここまでに数人、歩き始めたランナーを抜いた。
どの人も、私と同程度の走力の方だと、
ゼッケンの色でわかった。

 ところが、次に歩いているランナーは、
3時間代でゴールできる色のゼッケンをしていた。
 気になりながらも追い抜いた。

 それから、15分も走ったろうか。
17キロの表示まで来た。
 そこにいる係員に、後続のランナーが訊いた。
「中間点まで、どの位?」
   
 違和感を感じた。
中間点まで、後4キロに決まっている。
 それをわざわざ訊いていた。
「変な感じ・・」。

 私は、走りながら、その後続者が気になった。
彼は、すぐに私を追い越した。
 そのゼッケンの色は、さっき歩いていた3時間ランナーだった。
「また走り始めたんだ。」
 後ろ姿見送った。
緑色のランニングシャツと短パンが、
私らとの走力の違いを教えていた。

 5分も進まない時だ。
前方のランナーが、ゆっくり左に傾き、
それを思いとどまり、真っ直ぐダラリダラリと走った。

 次第にそのランナーが近くなった。
誰なのか、私は分かった。
 左に傾き、持ち直す。
そのくり返しに私は危機感を感じた。
 遂に路肩から逸脱しそうにまでなった。

 もう放っておけなかった。
私は走り寄り、
緑色のランニングシャツの肩をつかんだ。

 「その路肩に座って・・。もう無理です。」
彼は、道路脇に崩れた。
 「座っていたら、後ろから係の方が必ず来ます。
それまで、座っていてくだい。いいですね。
 わかりましたか。」
つい強い口調になった。

 彼は、うなづくのが精一杯のまま、
うつろな目をしていた。
 それでも、足を伸ばし、
雑草の道端に腰を下ろしてくれた。

 それを見届け、私は再び走り出し、
中間点を目指した。

 その時、まさか同じようなことが私に起こるなど、
全く思い至らなかった。

 中間点を通過し、最大の難所である5キロもの、
坂道の上りと下りも走りきった。
 2年前、その下り坂でふくらはぎがつった。
そこで走るのを止めた。
 もっと走れたと悔いた所だ。
今年は心を折らずに、通過した。

 3年ぶりに27、5キロの関門を過ぎ、
再び湖畔の道へ出た。
 この辺りから、徐々に足が動かなくなった。
太ももの後ろが固い。
 そんな経験は初めてだった。
今までと同じ走りができないほど、足がだるい。
 疲れを感じた。

 仕方なく、ゆっくり走った。
給水所で、頭にも足にも水をいっぱいかけた。
 でも、ゆっくりしか足が動かなかった。

 この辺りから、所々記憶が飛んでいる。
確か29キロの表示を通過した。
 そこにいた係員が、不安げな顔で私を見ていた。
それを無視した。

 「絶対に、自分から心を折らない。」
うつむいたまま、足を進めた。
 もう周りの景色は目に入らなかった。

 そして、30キロの関門まで、残り500メートル辺りだ。
遂に走ることができなくなった。
 まもなくエイドがある。
しそジュースとゆで卵が待っている。
 「それを飲めば、食べれば・・」と思った。

 私は、500メートル先を目指した。
しかし、まさかの展開だ。
 言い訳じゃない。
決して心を折ったりしていない。
 少し歩けば、走れると思っていた。

 一番驚いたのは、私自身だった。
足が1歩も前に出なくなった。
 私は、立ち止まり、前かがみになって両手を膝についた。
目を閉じ、大きく肩で息をした。

 2分3分と呼吸を整え、伸びをしてから前に進んだ。
ところが、真っ直ぐ歩いていなかった。
 1歩1歩、体が右へ右へ行った。
 
 これはまずいと立ち止まり、気持ちを落ち着かせた。
そして、また進んだ。
 右へ右へと傾いた。

 エイドの辺りには、民家が何軒もあった。
沿道で声援する方がいた。
 「大丈夫ですか。」
私への声援は、これだった。
 大丈夫ではなかった。

でも、「もうダメです。」
そう言わないと決めていた。
 無理して、ゆっくりとうなずき、
右に傾きながら、また1歩1歩と歩いた。

 ついに、エイドまで着いた。
テーブルには、カステラや羊羹がたくさんあった。
 そして、ゆで卵が残っていた。

 「これが食べたくて・・」
細い声で言った。
 「あら、そうなの・・。嬉しいわ。」
ゆで卵を1つ手にして、テーブルを離れた。

 「もう1個、持っていかない。」
係のおばさんが言ってくれた。
 嬉しかった。
そうしたかった。
 だが、そこへ戻る1歩がもったいなかった。

 それより、100メートル先の関門まで行きたかった。
数歩進んでは、立ち止まった。
 そこで、ゆで卵を食べるふりをして、息を整えた。
何度も何度も、わずか100メートルで、
それをくり返し、立ち止まった。

 水分補給とゆで卵を食べたが、
私には、もう力が残っていなかった。
 回復が望めなかった。

 でも、30キロまでは行こう。
誰の手もかりず、関門を通過するのだ。

 そんな思いが私を動かした。
今までとは違う自分を見ていた。
 少し驚きながらも、
心が少し熱くなった。

 関門通過後、
待機していた収容者用バスまで行った。
 そのステップが上がれず、
ここでは、仕方なく係員に助けを受けた。

 ゴールまでは無理だった。
しかし、心を折らずに行けるところまで行った。
 自分に科した思いを守った。
そのために、自分と向き合った時間が何度もあった。
 今までとは違う体験を、71歳がしていた。

 10キロを見事に完走した家内と、
湖畔の遊具場であった。
 30キロまでだったことをつげながら、
つい口が滑った。
 「72歳でも走ろうかな。」
ビックリ顔に念を押した。
 「こんな経験、誰もができる訳じゃない。
だから・・。」
 ついでに、ニヤリと笑ってみせた。



じぇじぇじぇ クロユリが満開だ!  だて歴史の杜

        ※次回の更新予定は、6月8日(土)です。  
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心豊かでありたいと

2019-05-18 20:12:35 | 思い
 周囲の悪弊に、心冷えることがある。
だからなのか、とても古い出来事が思い出された。

 教職について6年が過ぎ、最初の人事異動があった。
だから、もう40年以上も前のことだ。

 着任初日、職員会議があった。
新年度の校務分担が、案件だった。
 その冒頭、企画委員の選挙が始まった。

 私は戸惑っていた。
職員会議に次ぐ機関として、
企画委員会があることは承知していた。
 しかし、その委員を選挙で決めるなど、
聞いたことがなかった。

 選挙管理委員が配った投票用紙には、
4名の氏名を書く欄があった。
 私は誰の名前も書かず、投票箱にその用紙を入れた。
その後、投票結果が発表になり、企画委員4名が決まった。
 
 ところが、選挙管理委員の先生が強い口調で言った。
「企画委員を決める重大なこの選挙に、
白紙投票をした人がいます。」
 「ナンセンス!」
数人が、声をそろえた。選管は続けた。
 「これは本校が勧めてきた企画委員選挙を否定するもので、
見過ごすことができません。
 白紙投票をした人は、
是非この場でその考えを述べるべきです。」
 「その通り!」「発言しろ!」
いくつもの尖った声が、職員室を飛んだ。

 私は、その剣幕にビックリしながらも、
手を挙げない訳にいかなかった。
 「すみません。先生方の名前もよくわかりませんし、
こんなやり方は初めてだったので・・。」

 再び「ナンセンス」の声が、あちこちから上がった。
「企画委員選挙の制度を軽視する行為だ。」
 「反省を求めます。」
などの声が相次いだ。

 「名前も分からないんですよ。
仕方ないですよ・・。」
 そんな風に味方する先生はいなかった。
だが、周りには表情を堅くし、
口を閉ざしている先生方がいた。

 その時だけではなかった。
機会ある毎に職員会議は紛糾した。
 管理職をはじめ1部の先生へ、
批難と攻撃が集中した。

 先生方は、いつ自分がその標的になるか、
それくらいならと、攻撃に荷担する人もいた。

 約2年間も続いた職員室のこんな雰囲気に、
いつも不快感を抱いた。
 教育の場に相応しくない。
その上、人としてのあり方に、
大きな違和感を持ち続けた。

 認め合うことより、揶揄すること。
受容するより、「ダメ出し」すること。
 理解するより、見ない振りすること。

 歩み寄ることなどはしない。
自分たちの考え以外は排斥する。
 それだけに、力をそそいでいるように見えた。

 そんな貧相な発想を、
私はどう考えても受け入れられなかった。
 決して同化されないようにしようと心した。

 そう、あれからずっとずっと、
今も、あのザラザラした言動とは、
無縁でいたいと思っている。
 明確に距離を置き続けて、今がある。

 やはり、努めて心豊かでありたいのだ。
周囲の騒音をかき消し、その道を淡々と進み続けよう。

 最近、拾った『心豊かな』種をいくつか記し、力にする。

 
 ▼ 4月の伊達ハーフマラソンは、途中棄権で終わった。
スタートからのオーバーワークで、バテてしまった。

 家内の知り合いが、マラソンコースの沿道で、
私に声援を送ってくれていた。
 その方に助けを求めた。
ご主人がマイカーで、マラソン会場まで、
送り届けてくれることになった。
 
 ハンドルを握りながら、私よりやや年長のご主人は、
リタイアで落胆している私に、話し続けてくれた。

 「走れる人が羨ましいんですよ。
もう3年前になるかな、右膝は人工関節で、
最近は左膝も痛くてね。
 そろそろ左も手術かなと思って・・。

でも、まだゴルフだけは何とかできる。
 だけど、どう頑張っても1キロも走れないさ。
矢っ張り羨ましいなあ。

 だから、私の分もなんて言わないけど、
今日に懲りずに、走れる間は走れるところまで、
いつまでも走ってくださいよ。
 羨ましがって、私見てますから・・。」

 会場近くで、何度も礼を言い車を降りた。
送り届けてくれたことへのお礼だけでなかった。
 さり気ない優しさが、ジワジワと心に浸みていた。

 ▼ 連休明けと一緒に、
洞爺湖マラソンにむけて、朝のジョギングを再開した。
 「無理をしないで・・」。
「今年は辞めにしたら・・」。
 そんな声が届く。

 「出場か否かは、その日の朝に決める。
それまでは、可能かどうか走ってみたい。」

 そう決めて、5月の風に誘われ、
一斉に花咲く野草や樹木に心寄せながら、
42キロ走破を想定し、ゆっくりと走った。

 ある朝、道端の斜面を真っ黄色に染めたタンポポのそばを
散歩するおばさんを見た。
 普段より一段と素敵に映り、走りながら一瞬ときめいた。

 そんな光景の続くある日のこと。
中学校近くの道でだった。
 まだ真新しい制服の男子3人が、横並びでやってきた。

 楽しげに会話する姿が、青空によく似合っていた。
すれ違い際に、話し声が聞こえた。
 「いくつ ぐらいだ?」
同時に、1人の子と目が合った。

 応じる必要などなかった。
なのに、春の陽気がとっさに言わせた。
 「七十一!」

 「余計なことを口走った。」
少し悔いたその時だ。
 すれ違いざまに、背中から声が届いた。

「すげーえ。ぼくのおじいちゃんより上だ。」
 「俺のじっちゃんよりもだ。すげーえ、すげー。」
 
 急に恥ずかしくなった。
振り向くことも出来ず、
それまでよりも少し足早に走って、照れを隠した。
 なのに、いつまでも笑顔が続いていた。

 ▼ 3年程前、歩いて10分程の場所に理髪店ができた。
便利なので、そこを利用している。

 ご夫婦2人で切り盛りし、
主にカットはご主人、顔そりは奥さんが担当している。

 2人とも前回の話題をよく記憶しており、
2,3ヶ月ぶりの私でも、
すぐに「マラソンだ」「ゴルフだ」と話を向けてくれる。

 まだ40歳代の2人だが、
奥さんは、結婚前まで東京八重洲口付近の美容室に、
勤務していたと言う。
 なので私とは、東京のことがよく話題になる。

 つい先日だ。
顔を剃り終えてすぐ、
「いらしたら、言おうと思っていたんですよ。
沈丁花が咲いている家があったんです。
いい匂い、してましたよ・・。」
 「この近くですか。」
「芙蓉ホールのすぐそばの家の庭です。
まだ、きっと咲いてますよ。」
 「そうですか!」
「伊達でも咲くんですね。懐かしくて、それで・・。」

 私に教えよう。その気持ちがやけに嬉しい。
そして、やや興奮気味だった懐かしさに、共感しながら、
勤務校の校門にあった沈丁花の、ほのかな香りが蘇ってきた。




   八重の桜色に 見とれて  
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ああ~ 給 食

2019-05-11 20:08:19 | あの頃
 ▼ だて歴史の杜公園の一角に、
『だて歴史の杜食育センター』が新築された。
 始動したのは、平成30年1月だった。

 ここでは、伊達市と壮瞥町の小中学校17校、
約3000人(教職員を含む)の給食を作っている。

 加えて、センター内に食育レストランが併設されている。
全国的にも珍しいそうだが、その日の給食を、
誰でも500円で食べることができる。

 その他、災害時には1日当たり最大9900食の炊き出しが、
3日間可能な施設となっている。

 このセンターが、自宅から遠くないからか、
お昼間近に、センターの配送車をよく見かける。

 「今日も、美味しい給食を心待ちにしている子ども達のもとへ・・」。
そう思って配送車を見送るだけで、つい笑顔になるのは、
まだ教職の血を忘れていないからなのだろうか。
 時には、現職の頃の、
給食にまつわる出来事を思い出し苦笑する。

 ▼ 東京都内23区の小中学校の給食は、
給食センター方式ではなく、自校給食方式である。
 それだけに、給食への管理職、特に教頭の関わりは大きい。

 教頭職は、3年間ずつ2校で経験した。
1校目には、ベテランの栄養士がいた。
 手慣れているだけでなく、
献立にも調理室にも気配りができた。
 私は、全幅の信頼を寄せていた。

 給食後、午後の作業中だった。
調理師が食器洗浄中のふやけた手で、
食洗台の排水栓を抜こうとした。
 さほと鋭利でないその鎖だったが、
手を深く切ってしまった。

 私も一緒に、病院へ駆け込んだ。
何針も時間をかけて縫ってもらった。
 医者からは、全治3週間と言われた。
まずはホッとした。

 ところがだ。
病院から戻るなり、
いつも穏やかな栄養士が、怪我した調理師へ語気を荒げた。
 「だから、あの栓を抜く時はって、
言ったでしょう。
 水で手がふやけてるんだからって、何遍も言ったよね。
素手じゃダメって・・。もう・・。」

 指の様子などより、作業ミスを責めた。 
怪我をした調理師は、言い訳もできないまま、
頭を下げ続けた。

 翌日から、給食調理は欠員1での作業となった。
3週間を何とかそれでやらなければならないのだ。

 私は労災申請の慣れない事務手続きをしながら、
同じ学校内であっても、教室とは全く違う厳しさが、
あの給食調理室にはあることを初めて知った。

 ▼ 教頭として着任した2校目には、
栄養士がいなかった。

 驚いたことに、先生方数人が手分けして、
給食食材の発注や支払いを行っていた。
 その事務作業のほとんどは、
自宅での夜なべ仕事だと聞いた。

 教頭の私は、自校給食のトップだった。
だから、月1回の給食献立会議で、
翌月の最終献立を決めた。
 そして、毎朝、調理師4名と作業手順の確認をした。
前任校で栄養士がしていた多くを、
私がすることになっていた。

 しかしだ。
5,6年の家庭科で調理の授業はした。
 それだけで、自宅では朝夕の食事は、全て家内まかせ。
全く料理とは縁遠い暮らしだった。
 そんな私が、給食を仕切るのだ。

 「時には旬の果物をつけてあげたいわね。」
「じゃ、4等分した梨なんてどう。」
 食材発注の先生たちが言う。

 すると、調理師が遠慮がちに言い出す。
「4等分はいいけど、芯を取るのは・・。」
 「そうね。400個の芯取りは大変ね。どうする。」
「梨を出すの、やめにしようか。」
 先生たちは、遠慮がちに提案を取り下げようとする。

 「ねえ、がんばろう。10分早く来ればできるから、
梨を食べさせてあげようよ。」
 調理師の1人が言う。他の4人がうなずき、同意する。 

 実は、その話に私はついていけなかった。
4等分した梨を献立に加えることの大変さが、理解できないのだ。
 芯をとる手間にとれだけの時間と労力を要するか、
わからなかった。
 万事が、大同小異。こんな有り様だった。

 でも、秋にはこんなことがあった。
サンマを煮て骨まで食べてもらおうと、
調理師さんが朝から張りきっていた。

 調理室前の廊下まで、煮魚の美味しそうな臭いが漂った。
私は、出来具合が知りたくて、調理室を覗いた。
 丁度、給食用の巨大鍋から教室用のバットへ、
煮上がったサンマのブツ切りを取り分けるところだった。

 当然と言えばそれまでだ。
しかし、私はその作業にビックリした。
 巨大鍋から、さい箸で、ブツ切りサンマの1つ1つを
教室用バットに移しているのだ。

 私は思わず叫んだ。
「いっぺんにバットに移せないの?」。
 「先生、そんなことしたら、
柔らかいサンマの形が崩れてしまうのよ。
 美味しくなくなるでしょう。」

 笑顔の調理師さんからの答えに、
私は子供に変わって、「ありがとう」と返した。
 調理室を離れながら、何かがこみ上げてきていた。
こんなことのくり返しが、給食への理解を助けた。
 
 ▼ 今日も、市内を食育センターの配送車が走る。
その荷台には、
「安心安全の上に、美味しい給食を子ども達へ」。
そんな調理師さんらの素敵な心意気が、
詰まっていることを、私は知っている。




   一面のタンポポ と 有珠山
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「よかった。」を共感できる気が・・

2019-05-04 18:18:43 | 思い
 またまた、体調を崩した。

 2週間も前になる。
春の清々しい朝だった。

 久しぶりに10キロのジョギングに汗を流していた。
途中で、喉に異物が刺さったような痛みを感じた。
 「こんなこと、よくあること。」
強気で走り続けた。

 ところが、翌朝から喉の痛みが増した。
『のどぬーる』で様子をみた。
 しかし、日に日に痛みが強くなる。
咳も続いた。鼻水も出る。

 仕方なく、よくお世話になる内科医院へ行く。
1時間半待たされ、3分の診断。
 以前と同じ薬を6日分処方してくれた。

 まじめにそれを飲みきった。
症状はすっかり緩和した。

 喜び勇んで、
春の爽やかな風を感じながら、再び10キロを走る。
 10日ぶりの伊達は、
草花が芽吹き、緑が増しつつあった。
 新芽に、つい笑顔になった。

 ところが、翌朝、ベットからおきることができなかった。
再び喉が痛い。時折咳が続く。熱もやや高い。
 症状は、薬の力で和らいでいただけと気づいた。
コンコンと眠り続けた。

 すでに連休が始まっていた。
かかりつけの医院も長期の休みに入っている。
 
 ただただ丸々4日間も横になり、眠り続けた。
まだ回復の入り口付近だ。
 それでも、ベットからは何とか抜け出せた。

 毎日、眠りながら沢山の夢を見た。
懐かしい人も登場してきた。
 目ざめて、思い出と現実が交差した。

 その夢で、多くの時間を費やしていたのは、
洞爺湖のマラソンコースからの景色だった。
 再現を試みる。

 湖畔に並ぶ満開の八重桜を横目に走り始める。
昭和新山と湖岸の間、
そこのりんご園に白い花たちが咲いていた。
 7キロを過ぎた辺り、湖畔の道がやや狭くなる。
時々、その道と湖岸が接近する。
 ガラス細工のような湖面がキラキラと波打つ。
「綺麗」と呟きながらマイペースで進む。
 
 やがて右手の傾斜面の新緑から、
小鳥の鳴き声が届く。
 緩い上りと下り道がくり返す。
5キロ毎にある給水所。
 そこで、高校生などから「がんばってください」
と、明るい励ましを受ける。
 素直にそれが嬉しい。

 ハーフを過ぎてまもなく、最大難所が待っている。
湖畔の道から山へと向かう。
 両側の田んぼが終わると、上り坂が2キロも続く。
反対車線を降りてくるランナーとすれ違う。
 みんな、真っ直ぐ前を向いて走る。
「ようし、俺も難所を越えるぞー。」

 遠くで咲き誇る木蓮を、
折り返し後に再び見る。

 また湖に沿った道に出る。
30キロのエイドまで、平らなコースを行く。
 時々、ひばりのさえずりが大空から降ってくる。
 
 エイドのテーブルにあるしそジュースと、
ゆで卵に手が伸びる。
 温泉街の真向かいに位置する景勝地だ。
湖に浮かぶ『中島』の緑に向かい、
2度3度と深呼吸する。

 再び走り出す。
疲れのピークが、軟弱な心を責める。
 左脇の道まで迫る湖岸に、
打ち寄せるガラス細工の小波を見る。
 その波音が、「頑張れ、頑張れ」と聞こえる。
勝手に励みにする。 

 見上げた向こう岸に、ゴールの温泉街がある。
その遠さに、急に足が重くなる。
 また、道路脇の小波が目に入る。
「頑張れ、ワタル!」。
 
 「そうか。こうして1歩1歩進んでいれば、
必ずゴールは来る。」 
 信じて視線を上げる。
すると、新緑が木陰を作ってくれていた。
 「なんて優しい緑色なの・・。」

 ゴール間近の湖畔に、
まだ雪におおわれている羊蹄山の勇姿があった。
 そこから湖面を流れて春風がくる。
心まですっぽりと癒やしてくれた。
 
 昨日まで、4日間も寝込み、
その間、断続的に見た夢がこれだ。

 だから、分かった。
『71才になっても、そして、こうして体調を崩しておきられなくても、
もう1度、洞爺湖を走りたい』のだ。

 今年の洞爺湖マラソンは19日だ。
この体調では、当然無理に決まっている。
 でも、諦めるのは当日の朝でいい。

 さて、そんなことを思いながら、
昨夜、途中からだったが9時のニュースを見た。

 山田洋次監督がインタビューに応じていた。
令和の時代になったからか、
幸せの意味について語っていた。

 そして、第39作『寅次郎物語』で、
寅さんが甥・満男の問いに応じるシーンが流れた。
 強く心に残っている場面で、このブロクでも取り上げた。
その1文を添付する。
 

『 満男 「伯父さん、人間てさ、人間は何のために生きてんのかな?」
寅 「難しいこと聞くな・・・何というかな、
   あぁ、生まれてきてよかったなって、
   思うことが何べんかあるんじゃない、
   そのために、生きてんじゃねぇか。」

 寅さんが、「生まれてきてよかったな」と思えるのは、
恋の成就だろうか。
 それよりもずっとずっと、背中を見せて去ることが多かったはず。
それでも何べんかある「よかったな。」のために、生きていく。

 くり返すせつなさをやり過ごし、
わずかな安らぎに、生きることの真理があると、私も思う。 』

 
 大上段に構えることを私も好まない。
でも、周りの自然にふれ合いながら、洞爺湖マラソンをゴールできたら、
また1つ、寅さんの「生まれてきてよかった」に、
共感できる気がするのだが・・。





    青 空 と 木 蓮 と 
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