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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

だての人名録 〔2〕

2015-09-25 22:11:32 | 北海道・伊達
 先週のブログで『だての人名録 〔1〕』として、
「1、ワケあり」、「2、私の分だけど」、「3、麹いるかい」の題で、
3人の方を紹介した。
 今週は、その続きを記す。
大好きな伊達で、こんな人とエピソードに出会った。


 4、ナンもないしょ

 伊達に落ち着いてすぐ、毎朝6時スタートで、
家内とジョギングを始めた。
 『伊達デビュー』である。
 出会った人には、こちらから必ず「おはようございます。」
と、挨拶することにした。

 千葉に在住していた最後の1、2年は、
月数回、スロージョギングを楽しんでいた。
しかし、朝の挨拶など、心がけなかった。
 通勤の慌ただしい足取りの方とすれ違うことはあっても、
散歩やジョギングの方と出会うことは、まれだった。
 ましてや出会っても、顔を向けることなどなかった。

 ところが、伊達では、毎朝数人の方と、必ず出会った。
そのすべての人と、挨拶を交わした。

 その中の1人に、ノルディックウォーキングと言うらしいが、
両手に専用のストックを持ち、一定のリズムで歩く女性がいた。

 私より、5つ6つ年上だろうか。
上背があり、その背筋をキリッと伸ばし、
一歩一歩踏みしめる足取りが、健康的で清々しさがあった。

 挨拶を交わしながら、すれ違う毎日を繰り返して、
3か月ほどが過ぎた頃だった。
 いつも通り、ゆっくりと走る私たちに気づくと、立ち止り、
「ねえ、そんなに毎朝走って、どうするの。」
と、声をかけてきた。

 私も家内も、その声掛けに驚き、足を止めた。
「特に……。」と、口ごもる家内に、
「亡くなった主人もよく走ってて、
いろんなマラソン大会に出てたもんだから。」
 「そうでしたか。」
「ごめんなさい。止めてしまって。」
「いいえ。」

 その日以来、時々立ち止まり、
二言三言と言葉を交わした。
 やがて、「お茶でもいかかですか。」と話が進み、
我が家に顔を出してくれるようになった。

 彼女は、ご主人を亡くされてから、毎日が寂しいこと、
そして、思いもしなかった別れへの悔やみを口にし、
それをくり返し話した。
 そして、「また来ますね。」と席を立った。
 伊達で知り合った数少ない知人である。
私にとっても家内にとっても、嬉しい来客だった。

 1年程前になるだろうか。
週1回、デイサービスに行き始めたとのことだった。

 「体はどこも悪くないの。でも、お父ちゃんが亡くなってからは、
ずっと寂しくて、私は心が傷んでいるの。
だから、デイサービスに行くことにした。」
と言う。
 年寄りばかりだけど、
一日みんなでいると、少し元気になるらしい。

 伊達の周辺には、様々な高齢者施設がある。
養護老人ホーム、特養老人ホーム、グループホーム、
デイサービスセンター、そしてケアハウス等々。
 私にはまだまだ先の先のことと思いながらも、
デイサービスでの一日には、関心があり、
彼女の話には、熱心に耳を傾けた。

 彼女が行っている施設は、1階がデイサービスで、
その上層階は、養護老人ホームとケアハウスになっていた。
 私がよく行く日帰り温泉への通り道沿いにあった。
噴火湾の大海原に面した、海辺の小高い丘の上に、
リゾートホテルを思わせる6階建てがそれだった。

 私は、意気込んで言った。
「あそこはいいでしょう。晴れた日など、
噴火湾の海がどこまでも広がり、キラキラと綺麗で。
あんな景色を毎日見ていられたら、最高ですよね。」

 すると、彼女は急に困り顔になり、
「海だけだよ。ナンもないしょ。」
「だから、いいんじゃないですか。」
「やだ、そんなの。寂しいだけ。」

 「大都会での暮らしが、私の感性の中心なんだ。」
と、改めて思った。
 『マダマダだ。』と、額に手をおいた。


5、勿体ないから

 今年度の伊達市政執行方針で、菊谷市長さんは、
『将来に希望のもてる伊達市を創るために』として、
その第1に、「健康産業の創造」を上げている。
その対象は、「食」「住居」「スポーツ」「文化」「医療」だと言う。
 私は、『健康』という着眼点の素晴らしさに敬意と共に、
注目をしている。

 その一貫なのだろうか。
伊達市は、私が住みはじめた3年前の4月に、
『だて歴史の杜公園』内に、総合体育館を新築した。
素晴らしい施設である。

 そして、昨年4月、その体育館の横に、
温水プールとトレーニング室がオープンした。

 金づちの私に、温水プールは無縁だが、
新しく生まれ変わったトレーニング室は、大いに活用できそうだった。
 オープンしてすぐに、のぞいてみると、
多くの高齢者が、8台のランニングマシンや
10台のコードレスバイクを使い、汗を流していた。

 予想以上の盛況だったようで、
『1年で温水プールとトレーニング室の利用者が10万人を越えた』
と、今年4月、新聞の地元記事にあった。
 
 秋の終わりから春まで、好天の日を除いて、
私は、体育館のランニングコースやトレーニング室のランニングマシンを使い、
野外でのジョギング替わりに汗を流した。
 多いときで週2回、人の少ない午後3時頃をねらった。
 
 半年前のことになる。
 45分間、ランニングマシンで走り、大汗をかいた。
他の機器を使うため、Tシャツを着替えにロッカー室へ行った。
 そこで、汗を拭っていた時、
見慣れない同年齢の方が、額に汗を浮かべて戻ってきた。

 私を見るなり、
「定期券、持ってるの。」
と、訊いてきた。
 伊達に来てからは、こんな急な問いかけにも、大夫慣れた。

「いや、回数券です。」
「そうか。」
しばらく、沈黙があった。
 この温水プールとトレーニング室は、
利用料が一緒で、1回300円だった。
 しかも、回数券は3000円で11回、
定期券は6000円で3ヶ月何回でも利用できた。

 「それで、週どのくらい来るの。」
再び訊いてきた。
「そうですね、週1回か2回です。」

 「じゃ、回数券がいいか。俺さ、定期券買ったんだよ。
それでさ、、なんか勿体ないから、毎日来てるんだ。
損しないようにって、時々午前と午後の2回も来る日がある。
もう、疲れちゃって。」
「それは、頑張り過ぎですよ。」
「そうか、体、壊しちゃうな。今度は、回数券にするわ。」
  話しながら着替えを済ませ、
「じゃ、また。」とロッカー室を後にした。

 「エッ、勿体ない。1日2回も。」
「誰か、止めてやらないと。」、
『カナワナイ』と、額に手をおいた。


 6、どうして来るの

 2ヶ月程前になるだろうか。新聞の広告欄に、
『井上陽水コンサート「UNITED COVER2」』の記載があった。

 それに気づいた家内が、声を張り上げた。
「これ見てみて、ウソみたい。」
と、新聞を指差した。

 何をそんなに驚いているんだと、新聞をのぞき込んだ。
自分の目を疑りたかった。
ちょっとした夢の一コマを見ているようだった。

 新聞広告は、陽水コンサートのチケット販売の案内だった。
 11月、北海道の2会場でコンサートがある。
9日が小樽市民会館だ。
 そして、もう1つが、なんと、
わが町の『だてカルチャーセンター大ホール』なのだ。

 人口3万6千人の町の、収容1000人余りの会場で、
井上陽水がコンサートをする。
 目を疑って、当然である。夢のようなことだ。

 1970年代、井上陽水の『氷の世界』が大ヒットした。
 毎週日曜日の午前、共働きの我が家では、
育児に追われながらも、1週間分の掃除と洗濯をした。
 その時間、いつもFM放送から流れていたのが陽水の歌だった。
私は、すっかりファンになった。

 ニューミュージックと言われていた。
エネルギッシュで新時代を思わせる曲調、
そして同世代だったからか、その歌詞に共感した。

 この年になっても、いつでも、好きな歌手の一番は井上陽水だった。
 初めて陽水のコンサートに行ったのは、
ファンになって10年以上が過ぎてからだった。
大袈裟ではなく、帰り道は、感動で、夢遊病者状態だった。

 伊達に行ったら、もう聴く機会がなくなる。
そう思って、移住の数ヶ月前、
タイミングよく千葉公演があり、前から3列目の席を取り、
間近でその歌声に酔った。十分満足した。

 なのに、その本物の陽水が伊達に来る。
チケット2枚を手に入れるのに躍起になった。
 無事、チケットをゲットした。

 それにしても、多少の温度差はあるが、
伊達でも沢山の音楽好きが、このコンサートに驚いた。
 ブログを見ると、
「陽水さんが、伊達で公演なんて、信じられない。」
「コンサート当日は、大変な賑わいに。お祭り騒ぎだ。」
の書き込みが踊っていた。

 そして、
「それにしても、何故、陽水は
この町でコンサートをするの。不思議だ。」
との記載までもが。
 私も、同じ疑問を、くり返し家内に言い続けていた。

 つい先日、ひざの治療から戻った家内が、接骨院の先生も、
「どうして陽水は、伊達に来ることになったんだろうね。
信じたいけど、まだ信じられないなあ。」
だって。

 私だけではなく、きっと伊達の陽水ファンはみんな、
同じように、半信半疑の心境で、11月11日を迎えるのだと思う。

 そうか、私もちょっとだけ、この土地の人になったかも。
『ソレデイイ。』と、額に手をおいた。





  ナナカマドの実が真っ赤 綺麗
 
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だての人名録 〔1〕

2015-09-18 17:07:34 | 北の湘南・伊達
 昭和57年に出版された倉本聰さんのエッセイ集に、
『北の人名録』がある。

 その文庫には、こんな紹介文が添えられている。
 『東京での仕事から撤退し、辿り着いた先は富良野。
大地は清冽、人間は鮮冽。好奇心旺盛、モノにこだわらず、バカさわぎ大好き
 …… 名脚本家が綴った人間讃歌エッセイには、
北の大地を揺るがす熱気が満ちる。』

 名作ドラマ『北の国から』に登場する人物の
モデルかと思える人たちが、次々と描かれていた。
30年も前になるが、楽しく読ませてもらった覚えがある。

 それを真似ての題である。
伊達での出会い。
その小さなひとコマを綴ってみる。


 1、 ワケあり

 かねてから家内は、
「退職したら、朗読ボランティアをやりたい。」
と、言っていた。
 今は『音訳』と言うらしいが、目の不自由な方に、
声を通して様々な情報を提供する。

 これなら私にもできると、伊達にきてすぐ、
その活動をしているボランティアグループに加わった。

 そのグループに、かつて東京で、児童演劇の劇団で仕事をしていた方がいた。
私が顧問をしている研究会は、そんな劇団との関係が深く、
共通の話題もあろうかと、我が家での夕食にお誘いをした。

 お酒もいけると聞き、
日本酒、焼酎、ビール、ウイスキー、ワインと取り揃えた。
 酒の肴には、伊達にきてすっかり気に入った、鱈のフライを、
家内にリクエストした。

 もう75歳になるであろうか、
彼は、小脇に抱えた小さな段ボール箱に、
伊達の海岸で採ったという昆布やミミノリという海藻を詰め、
持ってきてくれた。

 好みの酒は、やはり日本酒。冷のコップ酒がいいと言う。
銘柄は、日本最北の酒蔵『国稀』の純米酒を用意した。

 さほどつまみには手を伸ばさず、
彼は、「この酒は美味しい。」を繰り返し、何度もおかわりをした。

 東京での劇団生活の話題が、一区切りついた時だった。
 トイレから戻るなり、
 「千葉で暮らしていたんですよね。
あそこは、温暖で穏やかな気候、
それに東京も近いし、何一つ不自由はない。
 伊達はいい所と言われいても、冬は雪も積もるし、暖房だっている。
いろいろと不便だ。
 そんな伊達に、暮らしやすい千葉からわざわざ移ってきた。
 いや、いいんです。
 ワケありだろうけど、それを訊いたりしませんから。」

 一気にそうまくしたてられ、私も家内も目を丸くした。
 「いや、ワケなんて、何にも。」
と、言いかける私に、
「いいんです。そんな野暮なこと、聞きたい訳じゃない。」

 そして、若干酔いのまわった彼は、
「余分なことを言ってしまった。」
と、何度も詫びる有り様。

 途中からは、もう声を出して笑うだけ。
『マイッタ。』と、額に手をおいた。


 2、私の分だけど

 伊達市は、明治3年から東北の亘理伊達家当主・伊達邦成を代表とする
約2700人が移住し、切り開いた所である。
 だから、東日本大震災で被災した宮城県亘理町とは
『ふるさと姉妹都市』だった。

 伊達市は、亘理町への支援策として、「就農の場を提供」することとした。
2011年夏、亘理町のイチゴ農家数戸が、移住しイチゴ栽培を始めた。

 そして、翌年の夏、
そのイチゴを使って、市内の主だった洋菓子店が、
ショートケーキを作り、一斉に販売することになった。
 伊達で暮らし始めて、まもなくのことだった。

 販売初日、その日は、たまたま札幌に住んでいる家内の妹が、
初めて我が家を訪ねてくれる日だった。
グットタイミングなので、そのケーキを用意することにした。

 珍しく、「俺が、買いに行く。」
と名のり出て、10時の開店をめがけ、車を走らせた。
 目指した店はすでに営業していた。
なのに、人影はなかった。
 店内に入ると、お目当てのショートケーキは無く、
すでに売り切れたとのことだった。

 その人気と注目度に驚き、それでも次の店を訪ねてみた。
 各種ケーキの並ぶガラスケースに、
『伊達イチゴ・ショートケーキ』と書かれたものが、2つ残っていた。

 「2つしか、ないの。」
と、尋ねた。
 「ハイ。」
素っ気ない女店員の返事が、かえってきた。

 「ウゥーン。3つ欲しかったんだけど、無いのか。残念。」
と、呟いた。
 仕方なく、そのショートケーキ2つと、別のケーキ1つを
注文することにして、ガラスケースをのぞいた。

 その時だった。
素っ気ない返事の女店員が、
「3つ、ありますよ。」
と、ケースの向こうで言った。

 「でも、2つしか……。」
と、口ごもる私に、
 「私も食べたかったので、1つ取っておいたんだけど、
でも、いいです。私の分だけど。」
 「エッ。いいんですか。」
 「いいです。大丈夫。明日、食べるから。」
何とも、不思議な気分になった。
 でも、お目当てのケーキが3つ手に入り、
ほっとして自宅に戻った。

 代金を払いながら、何度も何度も頭をさげ、
礼を言っている私自身の姿を思い出し、滑稽な気分になった。

 「私の分だけど。」ですか。
『マイッタ。』と、額に手をおいた。
 

 3、麹 いるかい

 年の瀬のことだった。
 年越しと正月の準備と料理の材料を求めて、
家内に付き合い、市内のスーパーに出かけた。

 いつもより人出があり、賑わいで活気がある店内だった。
 おせち料理を注文で賄う時代かと思っていたが、
まだまだ手作りする家庭が多いようで、何故か嬉しかった。

 鏡餅3つ、のし餅1枚、それから板付きかまぼこ、伊達巻き、黒豆、
ゴボウ、人参、里芋、干し椎茸等々、
 家内はメモを見ながら、私が押すカートカゴに次々と入れていく。
私は、品定めに時間をかけていることに、少しいら立ち、
「それでいいじゃん。」、「どっちでもいいよ。」
と、口を挟む。

 それでも、最後の買い物は、玄関先を飾るしめ縄。
ここだけは私が時間をかけて選ぶ。
 誰一人来客のないお正月だけど、
でも一通り、家を飾り、料理を作る。
 それまで省略したら、やはり味気ないと思う。

 レジを通り、伊達に来てからはエコバックではなく、
店が用意してくれている段ボール箱に、買った品を詰め、
車に運ぶことが多い。
 この日も、適当な大きさの箱を探し、
うまい具合に全品を入れることができた。

 そして、出口に向かっていた時だった。
 両手で、いつもより重量のある段ボール箱を抱えている私に、
少し手前を歩いていた男性が振り向き、話しかけた。

何の前触れも無く、それは突然だった。
 「ニシン漬けに、麹、いるかい。」

ゆっくりとした口調で、物静かな表情だった。
 私は、何回か食べたことのあるニシン漬けを思い浮かべた。
 なたで割ったような大ぶりの大根、ザク切りキャベツ
そして刻んだ身欠ニシンなどが入った、北海道の漬け物である。

 「麹ですか。確か入ってましたよ。」
と、応えた。
「そうかい。じゃ、買ってくるわ。」
と、向きを変えた彼。

 一、二歩行ってから、振り向き、
「ウチのが、メモしてくれたんだ。
でも、それ、忘れてきてさ。
 携帯で訊いたら、また怒られるからさ。
いや、助かったわ。」

 私より2、3才は年上だ思う。
白髪の穏やかそうな雰囲気だった。
 全くの初対面である。
店内の慌ただしさをよそに、爽快な時間を感じた。

 決して急いだりせず、
ニシン漬けの麹を探し求めに行く、少し丸めの背中。

 人の大らかさに、気づかされた。
『マイッタ。』と、額に手をおいた。




収穫の時がきた  伊達の田園
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確かな信頼関係を  その1

2015-09-11 22:07:38 | 教育
 Aちゃんは、運動会で紅白リレーの選手になりたかった。
1年生でも2年生でも、補欠だった。
だから、今年こそはと、密かに朝のジョギングを続け、足腰を鍛えた。
 両親は、そんなAちゃんの姿を見て、何とか選手にと願った。

 選手を決める日がきた。
50メートル走でタイムがよかった子4人で、
リレーと同じコースを走り、
1位と2位が選手、3位が補欠である。

 担任からは、「1回で決める。やり直しはない。」と念押しがあった。
スタート合図と共に、一斉に走り出した。
Aちゃんは、今年も3位だった。

 その日の夕食で、お父さんから、「どうだった。」と訊かれた。
 悔しさのあまり、言い訳がましく、
「スタート合図が変で、遅れたから、3位。今年も補欠。」と言った。
「じゃ、スタートがよかったら、選手になれたのか。」と訊くお父さんに、
「きっと、なれたと思う。」
Aちゃんは、強がった。
 これが、ことを面倒にした。

 お父さんは、担任に電話をした。
もう一度、リレー選手の選び直しを求めた。
「スタート合図が悪かったのでは。」とくり返し担任に迫った。
 そして、「やり直しをしてください。」と要望を言い続けた。
それは、1時間以上にもおよんだ。

 翌日遅く、今度は担任の自宅に電話があった。
ここでも、1時間を越える電話だった。
 その翌日も、長い電話があった。

 とうとう、担任は「もう一度だけ。」と承知した。
承知しない限り、その電話はくり返されると思ったからだ。

 翌日、選手候補4人によるやり直しを行った。
「私のスタート合図が悪かったので、力を出せなかった友だちがいました。
もう一度、決め直しをします。」
と言って、スタート合図をした。
 結果は、何一つ変わらなかった。

 その夜、担任は電話を待った。
謝罪でなくても、反省やお礼でもよかった。
 電話が鳴ることはなかった。

 保護者からの苦情の一例である。
やり直した結果が同じたっだことが、幸いした。
 仮に、着順が違っていたら、事は複雑な展開になり、
おそらく担任は、苦境に立たされたに違いない。

 さて、7月27日、文科省は、
多忙化する学校現場の業務改善ガイドラインを公開した。
 その中で、多くの教員が負担に感じていることとして、以下を上げている。

 ① 国や教育委員会からの調査やアンケートへの対応
 ② 研修会や教育研究の事前レポートや報告書の作成
 ③ 保護者・地域からの要望・苦情等への対応
 ④ 児童・生徒、保護者アンケートの実施・集計
 ⑤ 成績一覧表・通知表の作成、指導要録の作成

 大きく括るなら、
①、②、④、⑤は、事務処理のカテゴリーになるだろう。
 簡単ではないにしても、これらへの負担感は、
ICTの有効活用やシステムの見直し等が
軽減への手がかりになると思う。

 しかし、苦情等への対応は、益々難しさが増していくように思う。
 法に抵触するような、苦情への対応策として、
弁護士の派遣制度を取り入れている教育委員会もある。
 私も来て頂いた弁護士の方の助言に助けられた経験がある。

 しかし、前述に類似した苦情の事例は、いたる所の学校にあるように思う。
 どんな策も、これらの苦情をゼロにすることはできないが、
苦情を少なくしたり、苦情の解決を容易にしたりする手立てはあるように思う。

 学校の危機管理は、
クライシスマネージメントではなく、リスクマネージメントが基本である。
 苦情のない学校、苦情の少ない学校にすることが重要なのである。

 それは、おきた苦情への対応に費やすエネルギーより、
はるかに少ないエネルギーで済むことである。

 苦情等に対するリスクマネージメントのキーワード。
それは、学校に対する『確かな信頼関係づくり』である。

 私は、その策として3つの視点を上げたい。

 第一は、子どもと教師の信頼関係が基盤となる。

 ・分かりやすく教えてくれる教師、
つまり、様々な引き出しをもった指導力のある教師

 ・自分をはじめ子供たちを理解し、背中を押してくれる教師、
つまりは、子ども理解のできる教師

 ・親以外で、一番身近にいる大人として、そのしぐさやふるまい、喜怒哀楽に、
人として惹かれるものがある教師

 子どもは、こんな教師の姿に信頼を寄せる。
 そんな教師は、その子とだけの信頼関係ではなく、
多くの子どもと良好な関係を作ることができる。

 だから、「先生が好き。」、「学級が好き。」、
「学校が好き。」と、広がっていく。
 そんな想いの連鎖は、必ずや子ども自身に大きな変容をもたらす。
毎日を伸び伸びと楽しげに過ごす源になる。

 保護者や地域は、そんな子どもを見るのである。
子どもの生き生きと成長する姿が、学校への信頼に繋がるのだ。

 付け加えるなら、
毎日、学校での様子を嬉しそうに家族に話す子ども、
リレーの選手になれなくても、全力でその走りを応援する子ども、
授業で進んで挙手し、、間違いを恐れない子ども、
鼓笛パレードで胸を張って演奏する子ども、
 そんな子どもを目の当たりにすることを通して、信頼に確かさが加わる。

 学校には、多くの機会を設け、
教師と子どもの信頼関係に裏打ちされた、真に生きた子どもの姿を、
保護者や地域に伝える努力が、強く求められる。


 なお、『確かな信頼関係づくり』の策・第2、第3は、後日とする。




 路傍に咲く黄色のガーベラ(八重) 花言葉は「究極美」
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南吉ワールド PART3  ~『疣(いぼ)』~

2015-09-04 22:00:48 | 文 学
 『南吉ワールド』と題し、このブログで新美南吉の著作から、
昨年10月18日には『てぶくろを買いに』『ごんぎつね』、
今年7月10日には『おじいさんのランプ』について、
私の想いを記した。

 今回は、『疣(いぼ)』を取り上げてみる。

 くり返しになるが、南吉は昭和18年3月22日、
30歳の若さで亡くなっている。
咽頭結核の悪化によるものだった。

 彼は、亡くなる年の1月8日に『狐』、
そして9日には『小さい太郎の悲しみ』、
16日に『疣(いぼ)』を書き上げている。
その後、18日に『天狗』を書き始めるものの、完結しないままとなった。

 わずか30年の間に、
童話110、小説60、詩600、短歌300、俳句400を残している。

 その中で、『いぼ』は、彼が書き上げた最後の作品になった。
書き始めてから、「4日もかかった。」という記述があるようだが、
病苦のためか、それとも試行錯誤のせいかは分からない。

 しかし、死の恐怖と闘いながらの執筆である。
体はボロボロで、喉の痛みも相当であったことだろう。
 最悪の状況下での執筆である。その精神力に、心が痛くなる。

 私は、若い頃に大枚を叩いて、『校正新美南吉全集』全12巻を
買い求め、今も書架を飾っている。
 恥ずかしいことだが、いまだその全てには目を通していない。
しかし、絶筆となった作品であったことは別に、
『いぼ』は、私の心を大きくつかんでいる。

 ある研究者が、南吉作品を心理型とストーリー型に分類している。
その中で、心理型に上げたのが、『いぼ』と『屁』である。
多くの作品がストーリー型であることをみると、
『いぼ』は異色と言える。

 確かに、この物語では、
いなかの子である兄・松吉と弟・杉作の
町へのコンプレックスが色濃く描かれている。
心理型と称されることに、納得がいく。

 物語から、兄弟のそんな思いをいくつか拾ってみる。


 『よいとまけーーそれは、いなかの人たちが、
家をたてるまえ、地がためをするとき、
重い大きなつちを上げおろしするのに力をあわせるため、
声をあわせてとなえる音頭です。それはいなかのことばです。
町の子どもである克巳にきかれるのは、はずかしいことばです。』

 
 「よいとまけ」=いなかのことば、それは、はずかしいことば。
松吉と杉作には、町の子どもの前でいなかのことばを遣うことにためらいがあった。


 『町にはいると、ふたりは、じぶんたちが、
きゅうにみすぼらしくなってしまったように思えました。
 これでは、ぼうしの徽章をみなくても、
山家から出てきたことはわかるでしょう。
≪略>きょろきょろが、ふたりともやめられないのでした。
 ふたりは、こころの中では、一つの不安を感じていました。
それは、町の子どもにつかまって、
いじめられやしないか、ということでした。
だから、ふたりはこころをはりつめ、びくびくし、
なるべく、子どものいないようなところをえらんでいきました。』


 強者=町の子どもから、いなかの子だとしていじめられはしないかと言った
弱者の不安感が、みすぼらしさにつながる。


 『「克巳ちゃん。」ということばが、
松吉ののどのところまで出てきました。
しかし、そこで、とまってしまいました。
克巳のあまりに町ふうなようすに対して、
じぶんたちのいなかくささが思い返されたのでした。』


 どこにも根拠のない、「町ふうなようす」と「いなかくささ」の対比意識が、
ためらいと言うネガティブな行動になってしまった。


 『松吉はわかりました。ーー克巳にとっては、
いなかで十日ばかりいっしょに遊んだ松吉や杉作は、
なんでもありゃしないんだと。
町の克巳の生活には、いなかとちがって、
いろんなことがあるので、それがあたりまえのことなんだと。』


 町の子どものドライな暮らしぶりが、いなかの子との大きな開きであり、
二人の諦めにつながっていた。


 いなかことばへの恥じらい、そして強者と弱者の認識、
さらには、『きょろきょろがやめられない』「いなかくささ」と
町の子どものドライさとの大差。
 これら、松吉と杉作の行動と心情を通した、
町へのコンプレックスが、『いぼ』の根幹となっている。

 私は、大人になってからこの物語を読んだ。
もし、少年時代に出会っていたなら、
どれだけ力強く感じ共感を得ていただろうか。勇気づけられただろうか。

 新美南吉は、よく『少年の孤独』を書いた作家と評される。

 人は、村から町へ、地方から都市へ、首都・東京へ、都心へと憧れる。
そして、誰もが自分の立ち位置に、コンプレックスを抱く。
 それは、松吉や杉作に限ったことでないと、南吉は説きたかったに違いない。

 付け加えるなら、自分の出生の環境だけでななく、
特性や能力、容姿とて同様だと、言及したかったのではなかろうか。
 そんな理解が、人の背中を押す力になると、私も思う。


 一方、南吉はこの物語を通して、もう一つ、
「どかァん-」という音を添えて、大きなメッセージを残している。

 松吉と杉作は、農揚げのあんころ餅の入った重箱をさげ、
夏休みになかよくなった、いとこの克巳に会えること、
おじさんおばさんから50銭のおだちんがもらえることに
胸膨らませ、町に向かった。

途中、杉作は、突然「どかァん-」と
とてつもない音で、「大砲を一発」うった。
 しかし、期待はことごとく失望に変わってしまった。

 『じぶんたちは、すっぽかされて、青坊主にされて帰るのだと思うと、
松吉は、日ぐれの風がきゅうに、
かりたての頭やえり首に、しみこむように感じられた。
 「どかァん。」
と、杉作がとつぜん、どなりました。』

 松吉の「なにか、おるでえ。」の問いに、
杉作は「ただ、大砲をうってみただけ。」と言う。

 『弟もじぶんのようにさびしいのです。
そこで松吉も、
「どかァん。」
と、一発、大砲をうちました。』

 町へ向かった、あの時の杉作の「どかァんー。」と、
帰り道の「どかァん。」の対比が、切ない思いに拍車をかけた。

そして、
『ふたりは、どかんどかんと大砲をぶっぱなしながら、
だんだん心をあかるくして、家の方へ帰って行きました。』
 何といじらしいのだろう。ただただ」胸がつまる。

 松吉は、こうも言う。
 『きょうのように、人にすっぽかされるというようなことは、
これから先、いくらでもあるにちがいない。
おれたちは、そんな悲しみになんべんあおうと、
平気な顔で通りこしていけばいいんだ。』

 病魔と闘い、命を削っても伝えた想いがここにある。
 私は、そんな辛抱強さをこれからも受け止めていきたいと思う。

 



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