ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

私『楽書きの会』同人 (9)

2024-03-23 12:01:05 | 思い
 地元紙『室蘭民報』の文化欄に掲載される随筆「大手門」は、
『楽書きの会』の同人が執筆している。
 その1人に、加賀谷仁左衛門さんがいる。

 彼の名は、同人に加わる前から知っていた。
ブログ『仁左衛門の不思議な世界』を偶然知り、
最初に彼の名前とプロフィールに惹かれた。
 
 ブログにあるプロフィールは、
 『 山から海まで、フィールドにいるのがいちばん。
街中で迷うのには煩わしさが付きまとうが、
森や荒野で迷うのは願ってもないこと。
 落ち葉の匂いと磯の香りの中で時間をつぶすのが大好き。
自然からの恵みを頂いて食べるのはもっと好き。
 「お~いみんな、一緒に出かけるぞ~」。
火山、自然、ジオパークに関する情報はもとより、
この地方の衣、食、住、さまざまな話題を、
私なりの風土記として伝えたいと思います。
 友人はロッドユール。
趣味はパン・焼き菓子作り。
 洞爺湖「仁左衛門の入江」の奥、紅蓮谷の草庵に在住。』

 ブログの1つ1つは、1枚の写真と短文で構成されているが、
まさに彼らしい「風土記」である。
 随筆「大手門」のエッセイも、
『落ち葉の匂い』『磯の香り』『自然からの恵み』などへの、
慈愛に満ちたものである。
 2月24日(土)の室蘭民報に掲載されたものを紹介する。
北国の冬ならではの素敵な窓辺である。

  *     *     *     *     *

      窓辺の自然観察
               加賀谷 仁左衛門

 冬になるとやってくる小鳥たちのために、
毎年裏庭に給餌台を作っている。
 だが雪が深くなると足元が覚束ないので、
今年は居間から餌をセット出来るように工夫した

 カラスや大型の鳥に邪魔されないよう、
小枝のついたままの雑木の枯れ枝を
地面に穴を掘って立てた。
 枝の先に底近くに穴をあけた
自作のペットボトルのエサ入れをぶら下げた。
 底面には止まり木の板も付けた。
室内から見るとちょうど椅子に座った目の高さだ。
 それも窓からたったの30㌢。
外からはガラス面が明るい雪景色を反射して、
室内が見えにくいらしい。

 今年は例年になく、
いつものシジュウカラのほかにヤマガラ、
そしてゴジュウカラもやってきた。
 いちばん動きが敏捷で表情豊かなのは
樺色混じりのヤマガラ。
 昔見た大道芸人のやっていた、
この鳥の御神籤引きの興行を思い出した。
 少し遠慮っぽいのがシジュウカラ。
黒ネクタイの太いほうがオス。
 いちばん顔を利かせているのは
一まわり大きいゴジュウカラで、
口ばしからの眼過線が灰色の背中と
白い腹のツートンカラーにつながり洒落者だ。
 見ていたら、なんと引っ張り出したヒマワリの種を
またねじ込んで戻している。
 どういうことなのだろうか。

 いちばん下手なのがスズメで、
鋭くない口ばしはヒマワリの種を割れないので、
引き出した種をあたり一面にまき散らす。
 そこにやってくるのは、ドテッと大柄で
おまけにくちばしも大きすぎて
種を引き出せないギャング顔のシメ。
 シメシメというわけだ。

 種類間の行動様式の違いが見えてきた。
個体の識別ができないので、
同種内での順位は分からない。

 庭仕事のないこの季節、
小鳥たちの動物行動学を勉強と相成った。
 その筋の権威、コンラート・ローレンツ教授に
弟子入りだ。

  *     *     *     *     *

 さて、私の随筆だが、3月9日(土)に載せてもらった。
多くの方から好評を頂いた。
 末尾に、その幾つかも記す。

  *     *     *     *     *

        鉄橋の電車

 春の遠足で、2年生と江戸川河川敷にある花菖蒲園へ行った。
目的地に着くと、口数の少ないN君が
珍しくみんなの輪の中心にいた。
 やけに嬉しそうに手ぶりをつけて話し、
周りの子どももその話に興味津々。
 「ずいぶん楽しいそうだね。私にも聞かせて!」。
ちょっと探りを入れてみた。
 「教えてあげなよ」。
周りの子からの声にN君はその気になった。

 「ボクのお父さんね、電車の運転手なの。
それで今日、菖蒲園のすぐそばのあの鉄橋を通るんだ。
 その時、ボクを見たら電車の警笛を鳴らしてくれるの。
お父さん、必ず鳴らすって約束してくれたんだ」。
 N君のワクワク感も、子ども達のワクワク感も伝わってきた。
「それって、いつ頃?」。
 思わず訊いてしまった。
「わかった。その時間になったら教えて上げるね」。
 はたして実際に鉄橋を渡る電車が警笛を鳴らしてくれるのか。
誰もが半信半疑だった。

 いよいよその時刻が近づいた。
それを伝えにいくと、
N君はすでに鉄橋の端から端までがよく見える所にいた。
 「もうじきお父さんの電車が来るよ!」
N君はうなずくだけで、鉄橋から目を離そうとしなかった。
 徐々に子ども達が集まってきた。
みんなで鉄橋を見た。
 気づくと2年生全員がいた。

 長い車両の電車がやってきた。
みんなで鉄橋にさしかかった電車をジッと見た。
 全ての話し声が消えた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、
鉄橋を通る電車の音だけが大きく聞こえた。
 電車の警笛に期待がふくらんだ。
その時だ。
『プゥーーン!』河川敷に警笛音が響きわたった。
 一斉に歓声が上がった。
みんなパッと笑顔になった。
 そして、鉄橋をゆっくりと通過する電車に
「オーイ!」と声を張り上げ、
跳びはねながら思い切り手を振った。
 すると再び電車は『プゥーーン!』。
興奮は頂点になり「すごいね!すごいよ!」。
 たくさんの歓声と喜びが広がった。
N君もとびっきりの笑顔。 

  *     *     *     *     *

【届いたメールの声】
 ① これはおもしろかった。
 最後の笑顔の後に、どんなやり取りが友達とあったのかと
続きが気になる。
 結構誰もが経験している自慢したい子ども心で、
画が浮かぶ分かりやすい話だから。

 ② 何気なく書いているようだけど、
臨場感を伝える技術みたいのがあるのかしら。
 そろそろ固定ファンがついて、
応援メッセージでもくるんじゃないの?

 ③ 3月9日の室蘭民報見ました。
塚原さんの随筆読んで、泣きました。

【ジョギング中に呼び止められ】
 ・先日の鉄橋の電車のお話、
すごく良かったです。
 1つ1つが絵本のようで、本当に素晴らしくて。

【同人仲間のブログに】
 ・(「鉄橋と電車」の要旨を紹介した後)
こういうエッセイが好きである。
 私も現役時代このような温かい光景があったかなぁーと
しばし自分に問うてみた。




     お気に入りに散歩道6  浅 春
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「いたわり」 「やさしさ」を根付かせ

2024-03-16 11:37:36 | 思い
 最初に、今年の年賀状に載せた自作の『詩』を載せる。

    真っ盛り

 北の春はまだ光が弱いから
 新芽は緑になれない
 芽吹いた葉は赤のまま
 車の前景に映る山々に
 丸みをおびた深紅の春もみじだ
 稀に見るパノラマは「山笑う・春」

 季節が逆戻りしたように
 綿雪色の残雪が
 カート道の横に広がるワンシーン
 噴火後にいち早く生えるパイオニアツリー
 芝生に舞うドロノキの綿毛だ
 有珠山のすそ野は「山茂る・夏」

 久しぶりに東京で朝散歩
 一本通りを入ると全てが穏やか
 閑静な街並みに清々しい風が流れ
 甘く柔和な香りがふわっと
 常緑の長い生垣に芳醇な金木犀だ
 光る橙黄色の小花は「山粧う・秋」

 そして 今は「山眠る・冬」
 危うい嵐の中
 私たちは新しい春を待つ


 続いて、1月号『自治会だより』に、
寄稿した自治会長としての年頭の挨拶を記す。

 『 皆様方におかれましては、
新春を晴々しい気持ちでお迎えのこととお喜び申し上げます。
 日頃より、自治会の諸事業につきましては格別のご理解とご協力を賜り、
厚く御礼申し上げます。
 令和6年も引き続きどうぞよろしくお願い致します。

「分断と対立」がより一層深刻化し、
気候変動による災害が顕著になっています。
 私たちの足下では物価の高騰が止まりません。
「子ども達にこのまま未来のバトンを渡す訳にいかない」。
そう思うのは私だけではないと思います。

 沿革によりますと、本自治会は1954年に
『西在第3区自治会』として世帯数37戸で結成されました。
 今年は70周年の節目にあたります。
この間、本地域は発展をとげ、
今では世帯数820戸と市内で有数の大規模自治会になりました。

 引き続き、会員の皆様のニーズをくみ取り、
暮らしやすい地域の実現にむけ、取り組んでまいりたいと思います。
 それが、きっと子ども達に渡す本当のバトンにつながると
私は思っています。』


 年度末を迎えている。
1年間を振り返ると、いつも脳裏から離れなかったのは、
ウクライナやパレスチナの戦渦であった。

 テレビに映る悲惨な映像の数々が、日常化している。
大人がそれに慣れること以上に、
子どもへの計り知れない影響に恐怖を感じている。

 年賀状では詩の最後のフレーズを
『今は「山眠る・冬」
 危うい嵐の中
 私たちは新しい春を待つ』
とした。
 深まる世界の「分断と対立」の悲劇を
『危うい嵐』の表現に込めた。

 また、自治会の年頭挨拶では、
気候変動や物価高と共に、
「分断と対立」のバトンを、
子ども達へ渡す訳には行かないと訴えた。

 さて、地元の老人クラブから
約2年ぶりに講話の依頼があった。
 休憩を入れて、1時間半の話は、
体力的にもきつくなった。
「多少短くてもいいから」
とまで言われ、断れなかった。
 
 先週日曜日に、32人の同世代と向き合い、
経験談に笑いを交えながら、
日頃の想いを話してきた。

 講話の結びに、
どうしても『分断と対立』に触れたかった。
 用意したのは、
令和2年2月に室蘭民報に載った私の随筆だった。

 *     *     *     *     *
  
     感情を表す言葉を

 『21世紀がどんな社会か是非見てみたいが、
それはかなわない。
 だからその時代を生き、その社会を築き上げる君たちに言いたい。』
と、小説家・司馬遼太郎氏は小論文を残し、熱い想いを語っています。

 司馬氏は、21世紀を生きる人間の条件の1つに
「いたわり」「やさしさ」をあげ、
それは決して本能ではない。
 だから訓練が必要だと説いています。

 その訓練とはいたって簡単なことで、
例えば、人がころぶ、その時「ああ痛かっただろうなあ。」
という感情をその都度持つこと。
 そしてそんな感情を自分の中に、いくつも積み重ねていくことで、
「いたわり」や「やさしさ」は心に根付くと言うのです。

 私は、誰でもみんな、そんな訓練を是非するべきだと、強く思っています。
          ≪中 略≫
 だから、『できた・できない』『いい・悪い』『早い・遅い』。
そんな言葉の中でつい忘れがちな
『うれしい、楽しい、悲しい、つらい、淋しい』等、
感情を表す言葉を大事にする。
 それが司馬氏の想いに応えることでは。

  *     *     *     *     * 

 私は、司馬さんが21世紀に生きる人間の条件として
「いたわり」や「やさしさ」の感情をあげたことを、
くり返し強調した。
 その上で、私達もそれを根付かせる訓練をしましょう。
目に飛び込む様々なことに、
心を動かしましょうと呼びかけた。

 そして、次のようなことを続けた。

 ▼「分断と対立」は、自分との違いを認めない。
あるいは許さないところから生まれているように思えること。

 ▼どんな違いを認めないのか、許さないのか。
それなりの立派な言い分が双方にはあること。
 そこを互いに問いただすのは、必要なことなのだろうけど、
それが「分断と対立」をさらに激化させているように思えること。

 ▼それよりも、違いは違いとして互いに認め合いたい。
向き合う相手の正義や価値観が、
自分と違うことを受け入れたい。
 それは国家と国家、民族と民族であろうと、
私と向かいに座る貴方であろうと変わりないこと。

 ▼向かいの貴方の違いを受け入れることや、
隣国の考え方・文化を認めることの根っこにあるのは、
司馬さんが言う「いたわり」「やさしさ」であること。

 ▼世界をリードすることとは無縁だが、
せめて私達の周りだけでも、
「いたわり」「やさしさ」を根付かせ、
次の世代へそのバトンを渡したいこと。

 あれから1週間が過ぎた。
私の想いをどう受け止められたかは、未知数だ。
 しかし、それを聞いてもらえる機会に恵まれた。
感謝している。


  

   お気に入りの散歩道5 春のにおい 
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「ブログの試運転」から まもなく

2024-03-09 11:47:47 | 思い
 金曜日の朝は、食後のコーヒーを飲みながら、
いつも家内に訊く。

 「今日は、ブログ(を書く)の日だけど、
何か面白い話題ってないかなぁ・・?」
 「そうねぇ・・、特にはないかも」
返事はいつも変わらない。

 そんなやり取り中、ふと気づいた。
「ブログの試運転です」の書き出しで、
これを始めたのは確か2014年7月だ。
 すると、今年の夏で丸10年になるのか!・・。

 それを伝えると、
「もう、そんなになるの!」
 10年という長さに、私も家内も、
「よく続いた!」と驚きの表情になった。

 ノートパソコンに向かい試行錯誤をしながら、
「誰かに読んでもらえる」と信じて、
文を連ねることが楽しかった。
 金曜と土曜のその時間は、アッという間に過ぎた。

 その一方で、ここまで続いたモチベーションは、
時折聞こえてくる反響の数々だと思った。

 今日3月9日は、3と9で「サンキュー」の語呂合わせの日。
そんな軽い想いではないが、
感謝を込めて最近1,2年の数々の中から、いくつかを綴る。


 ① 正月には沢山の年賀状を頂くが、
年賀状だけの交流になってしまった方も少なくない。
 なのに、今年も何人かの方が、
「ブログで、日々の様子は知ってます」と書いてくれた。
 太いつながりを感じ、気持ちが軽くなった。

 そして、A先生は、学校と子育てに振り回される日が続いていた。
そんな頑張るお母さん先生から
「時々、先生のブログから元気を貰っています」
との年賀状が来た。

 やや年下の先生が、奥さんを亡くされたのは数年前のことだった。
再び年賀状の交換を始めても、
私は「お元気ですか?」くらいの添え書きしかできなかった。
 ところが、彼の年賀状に、
「妻を亡くしてから、どうもやる気がなくて、
でも、先生のブログに励まされています」とあった。
 涙が、あふれた。
 

 ② 昨春だが、コロナが次第に落ち着きだしたので、
久しぶりに酒席を設けた。
 集まったのは7人。
なんと3年ぶりのことだった。

 近況を語り合ううちに、時間はどんどん過ぎた。
どんな話でも、
ワイワイガヤガヤと遠慮のいらない会話は、
やっぱり楽しかった。

 どんな経緯で、腕時計が話題になったのか・・・。
高級品からデジタル物、そして偽ブランド。
 ついには、腕時計をしない世代のことまで、
次々と,時計だけで随分とお酒がすすんだ。

 その最中、私の横に座っていた物静かな彼が、
私の左腕をとり、私にだけ聞こえる声で。
 「これ、オメガでしょう!」

 思わず訊いてしまった。
「私の時計のこと、どうして知ってるの?」
 「妻が、よくブログ読んでるんで・・。
腕時計のことも書いていたでしょう。
 その日のうちに、私に教えてくれたから」

 確か昨年1月だ。
『オメガの腕時計』と題して、ブログを書いた。
 そのことだと、分かった。
「それにしても・・・!」。
と、驚きのまま小声で続けた。

 「奥さん、私のブログを読んでるんですか?」
何度か挨拶を交わしたことがあった方だった。
 でも、ブログを読んでくれてるとは・・・。
思いもしないことだった。

 「すみません。
私は読んでません。
 でも、妻は楽しいらしく、
こう書いてあったよって、よく教えてくれるんですよ。
 私はそれで十分、楽しんでます」。

 その後、何杯生ビールをお替わりしたのか、
覚えていない。
 調子にのってしまった。
美味しいお酒だった。


 ③ 昨年11月に,『うまい味 み~つけ!≪東京編>』を
ブログに載せた。

 それから、数日後だ。
散歩の途中で、よく立ち話をするご主人とバッタリと。

 朝の挨拶もそこそこに、突然、
「東京へ行ってきたんですね」。  
 
 上京することは、お隣さんとお向かいさん、
それに自治会役員数人には伝えてあった。
 それ以外に知る人はいないはず・・。
なのに、ご主人はどうして・・・。

 不思議に思い、返答に詰まった。
ご主人は、察してくれた。
 「ブログ! ブログで読みました!」

 「そうでしたか、それはそれは。
5日ほど行ってきました」
 「それも知ってますよ。
そう書いてあったから・・・」

 そして、笑いながら、
「ブログを読んでると、
塚原さんのことはよく分かります。
 東京へ行ったことを知ってたくらいで、
驚かないでください」。

 驚きをしずめながら、
ご近所に、こんな理解者がいることが嬉しかった。
 明るい声で、礼を言った。 

 するとご主人は、
「ところで、あの珍しい名前のうどん、
食べてみたいですね」
 ブログに記したうまい味のことである。

 「ああ、法論味うどんですか?」
「そうそう、そのうどん。
全然知らないうどんだけに、興味があります」
 しばらくその話題で盛り上がった。

 そして、別れ際にご主人はさり気なく、
「毎週土曜日の決まった時間に、
ブログを開けて読んでます。
 これからもずっと続けるつもりだから」。

 冬が近づき冷え込んだ朝なのに、
心は浮かれていた。




  お気に入りの散歩道4  もうじき春 
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木山裕策・『 h o m e 』を知る

2024-03-02 10:56:56 | 思い
 先月、
第36回全国公立小学校児童文化研究会研究大会
第58回東京都小学校児童文化研究会研究大会
が、練馬区立関町北小学校で行われた。

 私は、この研究会の顧問をしている。
東京を離れてからも、
年1度の大会だけは欠かさず、出席をしてきた。
 今回も4泊5日の予定で東京へ行った。

 ここ数回、家内と一緒の上京時には、
2人の息子と一緒に食事会をしている。
 今回も、研究大会の前日に新宿で待ち合わせた。

 「なぜ『土佐料理』なの?」。
そんな想いで席に着くと、
「就活で内定をもらった時、
会社の人と初めて食事をした店がここ」
と二男は言う。

 次々とコース料理が運ばれ、珍しい郷土料理に、
話題はどれもこれも中途半端のままになった。
 それにしても、本場の「鰹のたたき」の美味しさは、
今も覚えている。

 食事の後は、カラオケに行くことになった。
酒の飲めない3人を相手に、
私だけが、角ハイボールを飲みながら、
順番にマイクを握った。

 私の定番は、最初にハウンドドッグの『フォルテシモ』。
2巡目は陽水の『東へ西へ』。
 ここ20年くらい、選曲のパターンは誰とでもどこでも変わらない。

 二男が、2巡目に選んだ曲は、
聞き慣れない歌だった。
 前奏と一緒に、『home』と曲名が画面に出た。
しっかりとした音程で、彼は歌い始めた。

 その歌詞がこうだ。
全てを記す。

 晴れ渡る公園で不意に僕の手を握り返した
 その小さな手で僕の身の丈を一瞬で包んでしまう
 君がくれた溢れるほどの幸せと真っ直ぐな愛を
 与えられるこの時間の中でどれだけ返せるだろう
 帰ろうか もう帰ろうよ茜色に染まる道を
 手を繋いで帰ろうか世界に1つだけmy sweet home

 変わっていく君のスピードに近頃は驚かされるよ
 嬉しくもあり何故か寂しくも ゆっくり歩いていこう
 あどけない君の笑顔も何か企んでる仕草も
 そう全部が宝物だよ世界に1つだけmy sweet home
 不思議な事に君を愛しく思えば思うほど
 パパのパパやパパのママに本当に有り難うって言いたくなるんだ

 帰ろうか もう帰ろうよ茜色に染まる道を
 手を繋いで帰ろうか世界に1つだけmy sweet home
 何時も何時の日もありがとう


 てらいのない真っすくな言葉を綴った歌詞が、
やや肌に合わない気がした。
 しかし、二男の歌声とともに、
この歌の幸福感に引き込まれてしまった。

 「いい歌だねえ!」
マイクを置く二男に、拍手と一緒に言った。
 「今のボクにとって、子育ての応援歌なんだ。
励まされているよ。いい歌でしょ!」
 小3の孫と二男の後ろ姿が、目に浮かびホッコリとした。

 翌日の午後、研究大会の関町北小学校へ行った。
1年ぶりの授業は、どの学級も笑顔と活気に溢れ、
期待通りだった。
 私たちの研究が、まだまだ子ども達に求められていると思えた。

 最後は、研究全体会での記念講演だった。
15年前、会長をしていた私は、
この場で、落語家柳家花緑と対談をした。

 当時は今と違って、
500人の先生方で体育館がいっぱいになった。
 心臓が口から飛び出しそうな緊張の中で、
花緑師匠と話芸や話術、子どもへの話し方などをテーマに、
壇上で語り合った。
 
 そんなことを思い出しながら、来賓席に着いた。  
講師は、歌手・木山裕策さんと聞いていた。

 彼は、登壇すると、
「今日の演題、『自分らしく生きていいんだよ。 
がんになって見つけた夢』について、歌を交えながらお話しします」
と、切り出した。

 そして、ストリートライブのような自前のカラオケで、
第1曲目に『翼をください』を歌った。
 透きとおった綺麗な歌声だった。
約70人の参加者は、最初でもう魅了された。

 その後、歌を途中で挟みながら、
甲状腺ガンの発症と手術、
闘病の日々を通して歌手を目指した心境を、
丁寧に語った。

 澄んだ声と穏やかな歌唱も話し方も、
彼の人柄そのもののように思えた。
 引き込まれるように、お話を聞いた。

 講演の中盤、彼はプロ歌手になった契機と曲を紹介した。
その話題の途中、たびたび曲の題名を「ホーム」と言った。
 でも、昨日の二男とは繋がらなかった。

 ところが、前奏と一緒に、あの『home』を思い出した。
『home』と木山裕策さんが繋がったのだ。
 まさか、本物の生歌をここで・・・。
思いもしない偶然に驚いた。

 講演後、顧問の特権とばかり、
木山さんの控室になっていた校長室を訪ねた。
 そして、私の失礼を恥ながら、
昨夜のカラオケの経緯を話した。
 特に、「ボクにとって、子育ての応援歌」
と言う二男の言葉をそのまま伝えた。
   
 思っていた通りの方だった。
「嬉しいです。うれしいです!」
 何度もくり返し、一緒に記念写真に収まってくれた。
別れ際、丁寧に頭をさげながら、
「息子さんに、ありがとうございますとお伝えください」
と、まで・・・・。

 忘れられない歌が、また1つ加わった。


 

    お気に入りの散歩道3 なごり雪
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気がかりな 老後

2024-02-10 11:02:35 | 思い
 今年の正月は、能登半島大地震の、
悲惨な映像を見ながら過ぎた。
 「誰も皆、同じ!」だったと思う。

 一瞬にして崩壊した家屋、
家中に散乱した家財道具。
 そして、避難所の冷えと、
不安に耐える孤立地区の人々。
 どれも胸を締め付け、耐えがたい。

 「今できることは?」と問い、
買い物で渡された釣り銭の5百円硬貨を、
コツコツとへそくりしていた袋を、
丸ごと募金箱に入れてはみたが・・・。

 そんな七草がゆまでの日々だったが、
例年通り、沢山の年賀状が届いた。

 その時だけはテレビを切り、
年に1度の便りに、ゆっくりと目を通した。
 1人1人の近況と共に、その人らしい筆跡が、
私に精気を届けてくれた。

 しかし、最近は「年賀状じまい」という用語が一般化した。
私にも「今年限りで年賀状を失礼させてもらいます」の
添え書きが増えた。
 併せて、他界した方々も・・・。

 だから、当地で暮らし始めた年は、
300枚を越えていたものが、
12年が過ぎた今年は、250枚にも満たなくなった。

 今年の賀状に、重い気持ちになったものが2枚あった。
いずれも、教職に就いてすぐの頃から、
賀状を交換していた方である。

 1人は、私より5歳上の先輩で、人当たりがよく、
見習う所の多い人柄の方だった。
 宛名にはいつも私たち2人の名が併記され、
彼らしいオリジナルの賀状には、
欠かさず温かなひと言が添えられていた。

 しかし、今年は違った。
手書きされた宛名は、私の氏名だけ。
 しかも、「様」がなかった。
その上、既製の年賀はがきで、どこにも彼の言葉はなかった。
 差し出し人の氏名だけが、片隅に小さくあった。
別人からの賀状かと見間違いそうだった。
 認知症を予感させた。
 
 もう1人の賀状は、
お年玉年賀はがきの抽選番号発表後に届いた。
 そこには、新年の言葉と共に、
こんな近況が書かれていた。

 「最近、認知症の症状が出始めました。
でも、今のところ普通に生活できます」

 どんなに遅くても、私の年賀状は5日までには届いているはず。
それからの返礼賀状にしては、あまりにも遅い。
 確か、彼はひとり暮らし。
認知症の発症と共に『普通に生活できます』が、
不安を増幅させた。

 さて、2通の年賀状もそうだが、
老いとともに気がかりなのが「認知症」である。
 私の日常にあった2つを記しておく。
 
  ≪その1≫
 8週おきだが、眼科に通院している。
2種類の点眼薬を、1日3回さすことが日課である。 
 先日も予約時間に、残った薬を持って、
早くて2時間を要する医院へ行った。

 待合室は、検査と診察を待つ人でいっぱいだった。
2回に分けた検査と診察、
その後会計と処方箋がいつものパターンだ。

 とにかく、待って待ってが続く。
じっと耐える時間が続く。
 「致し方ない!」。

 私の前の長椅子に、
杖を持った老人と付き添いらしい女性が座っていた。
 私より一足早く検査に呼ばれ、その後が私の順番だった。

 長い待ち時間が続いた。
前の2人が、いつも視野に入っていた。
 2人は全く言葉を交わさず、ジッとしていた。

 ようやく指名があり、2人は診察室へ行った。
間もなく、私は診察室前の中待合室に呼ばれ移動した。

 席に着くと、診察室のやりとりが漏れてきた。
まず驚いたのは、
言葉を交わさない女性は奥さんだったこと。

 そして、医師は前回処方した4本の点眼薬が、
全然使われてなかったことにビックリし、
問いただしていた。

 ご主人は「忘れていた」と弱々しく言うだけ。
そして、奥さんは
「この人の薬なんて私は知りません」
と、何度もくり返した。

 医師は、薬を使わないと目は良くならない。
だから「毎日、目薬をさして下さい」と説明する。
 2人は無言のまま・・・。

 堂々巡りが何度かあり時間が過ぎ、
とうとう医師は、 
 「もうこの4本は古いから、これは捨てます。
新しいのを出しますから、
それを朝と晩、使ってください。
 そうしないと治りませんからね」。
無言のまま2人は、
看護師に付き添われて診察室を出た。

 その後、どうやって会計を済ませ、薬を貰ったのか。
そして、どうやってどこへ帰宅したのか。
 診察を受けていた私には全く分からない。

 ただ、帰宅後何度もため息が出た。
認知症かも知れない夫婦に、
ずっと気持ちは沈んだままだった。

  ≪その2≫
 自治会長になってからは人目が気になり、
2人でスーパーへ行くことが減った。

 その日は、午後の買い物客が少ない時間に
久しぶりに私も行った。

 醤油や天ぷら油、お酒など重たい物も買い、
ワゴンいっぱいに買い込み、レジに並んだ。

 私たちの前に、同世代の女性がいた。
買い物カゴの半分くらいに品物が入ってた。
 その女性の番になった。

 買い物カゴをレジのカウンターに置いて、
女性が言った最初のひと言に驚いた。

 レジの店員さんに、
カゴに入っていたお菓子の小袋を指さし、
「これ、要らない!」
 「エッ、要らないって! 
キャンセルですか?」
 店員さんは、目を丸くして訊いた。

 「そう、要らない!」
店員さんは、不機嫌な顔で、
カゴからお菓子の小袋を取り出し、別の棚へ置いた。
 すると
「これも、要らない」
 次は、ソーセージの小袋を指した。
黙ったまま店員さんは、それも別の棚に置き、
レジをすすめた。

 今度は『R-1ヨーグルト』の空き瓶が
カゴから出てきた。
 「これ、ゴミですか?」
店員さんは、空き瓶を女性の前で振って見せた。 

 「そう、ゴミ!」
「どうしたんですか?」
 「飲んだ!」
「お店のですよね」
 「そう、お金払うから!」

 店員さんは、もうあきれ顔。
でも、気を取りなおし、空き瓶を読み取り機に通した。
 「これからは、支払いを済ませてから飲んでくださいね」。
女性は、表情を変えることもなく、
会計の金額を店員さんに渡し、レジを後にした。

 経験のない事態に、あっけにとられた。
しばらく思考が停止したまま、押し黙った。
 だんだんと女性の行動が、尋常でないことだけは分かった。
「認知症なのかなぁ?」
 私の問いに家内も同意した。




    お気に入りの散歩道 冬
                 ※次回のブログ更新予定は2月24日(土)です
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