ラフカディオ・ハーンが
「それは気違いじみた大祭で、おかしな飾りをつけた馬をひきまわし、ボシタリ!ボシタリ!と
叫ぶ。これは朝鮮出兵前に加藤清正が八旛様に唱えて以来の記念すべき掛け声・・・」と言い、
種田山頭火は
「熊本は今日が藤崎宮の御神幸、飾馬のボシタイ/\の声が聞えるやうな気がする、熊本は第二
の故郷、なつかしい・・・」と言った。
明日はそのまつり囃子が熊本の街に響き渡る。
46年前に他界した僕の祖母は、明治16年、藤崎宮にほど近い一番被分町(現在の水道町)に士族の子女として生まれ育った。西南戦争で焼失した藤崎宮が藤崎台から井川渕に遷座したのは明治11年だが、本殿が整ったのは明治17年という。祖母は新しい藤崎宮とほとんど同じ時代に生まれ、生きてきたとも言える。幼い頃から「お八旛さん」と呼び、産土神として藤崎宮を篤く崇敬してきた祖母にとって例大祭は特別な大まつりだったのである。そのせいか、毎年、飾馬奉納順位が鳥居基に次ぎ二番目の水道町には僕は特別な思い入れがある。

水道町の飾馬奉納
「それは気違いじみた大祭で、おかしな飾りをつけた馬をひきまわし、ボシタリ!ボシタリ!と
叫ぶ。これは朝鮮出兵前に加藤清正が八旛様に唱えて以来の記念すべき掛け声・・・」と言い、
種田山頭火は
「熊本は今日が藤崎宮の御神幸、飾馬のボシタイ/\の声が聞えるやうな気がする、熊本は第二
の故郷、なつかしい・・・」と言った。
明日はそのまつり囃子が熊本の街に響き渡る。
46年前に他界した僕の祖母は、明治16年、藤崎宮にほど近い一番被分町(現在の水道町)に士族の子女として生まれ育った。西南戦争で焼失した藤崎宮が藤崎台から井川渕に遷座したのは明治11年だが、本殿が整ったのは明治17年という。祖母は新しい藤崎宮とほとんど同じ時代に生まれ、生きてきたとも言える。幼い頃から「お八旛さん」と呼び、産土神として藤崎宮を篤く崇敬してきた祖母にとって例大祭は特別な大まつりだったのである。そのせいか、毎年、飾馬奉納順位が鳥居基に次ぎ二番目の水道町には僕は特別な思い入れがある。

水道町の飾馬奉納
種田山頭火は熊本は第二 の故郷、なつかしい・・・
上記の感想がとても興味深いです。
>祖母は新しい藤崎宮とほとんど同じ時代に生まれ、生きてきたとも言える。幼い頃から「お八旛さん」と呼び、産土神として藤崎宮を篤く崇敬してきた祖母にとって例大祭は特別な大まつりだったのである。
いいですね~、そのような繋がりが脈々とあるということは羨ましいことです。
私の母は、(朝倉市)三奈木黒田家の家臣の子孫で、父は秋月藩黒田家子孫のようですが、現在は両方の故郷ともほとんど縁もゆかりもなくなって行く印象です。
こんな話も明治33年生まれの父が編集した冊子のおかげで知るわけですが、たぶん私の代で消えていくと思います。
動画の「まつり囃子」は藤崎八旛宮例大祭・飾馬奉納そのものの踊りなんでしょうか?
とっても楽し気ですね。
有難うございました。
今では祭の参加者もふだんは藤崎宮との関係は希薄になっていますのでただの「さわぎ」になっている面も否定できません。
秋月といえば甘木には何度か行ったことがあります。秋月藩と聞くと「隠し砦の三悪人」を思い出してしまいます。
わが家も父が始めた「ファミリーニュース」を私が引き継いで40年近く発行し続けていますが、おそらく私の代で終わると思います。
「まつり囃子」は「月の法善寺横丁」で人気絶頂だった藤島桓夫さんが「ボシタ囃子」という題名で唄って人気がありましたが、70年前後から人権問題がうるさくなって「ボシタ」という言葉が使えなくなりましたので今では幻の名曲になってしまいました。